アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

屍解からモクシャ往還まで-3

2023-05-31 03:44:46 | 開拓されるべき地平たち

◎シャルザ・タシ・ギャルツェン、董仲君

 

屍解の例の続き。

 

6.シャルザ・タシ・ギャルツェン

シャルザ・タシ・ギャルツェンは、19世紀半ばのボン教僧。出生は、東チベットのカムだから、今の四川省。

彼は12歳にして受戒し、まだ少年であった時に師であるテンジン・ワンギャルに、風を押しとどめるべく剣を持っているように言われて剣を持っていると、師はその剣を力づくで奪い取り、その剣で彼をしたたかに打ったところ、彼は意識不明に陥った。やがて彼が目覚めると、師と同レベルで心の本性(アートマン)が理解できるようになった。これは、禅でいう見性。

 

34歳卍山に冥想小屋を建て、孤独に冥想に専念した。これは一時期であって、彼は基本は僧院にあって後進の指導をしたり著作をしたりして、75歳まで暮らした。

75歳になって漸く、重要な論題だけでなく、一般的な教えや助言を与えるようになり、どんな贈り物でも受け取るようになった。

 

76歳の時、隙間のないテントに入り、絶対に開けないように弟子たちに命じて、結跏趺坐でテントに座った。弟子の一人が聖遺物欲しさに何日か後にテントを開けると、その肉体は1歳の子供ほどの大きさに縮まっていたという。

(参考:智恵のエッセンス/シャルザ・タシ・ギャルツェン/春秋社P29-36)

 

7.董仲君

『董仲君は臨淮(安徽省)の人であった。若年より呼吸を整え、身体を鍛練して、歳百余歳になっても老けなかった。

 

ある時無実の罪で誣告され、牢に繋がれたが、死んだふりをして、腐爛して蛆がわいた。牢役人にかつぎ出されてから生き返り、尸解して去った。』

(平凡社/中国の古典シリーズ/抱朴子・列仙伝・神仙伝・山海経P441より引用)

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屍解からモクシャ往還まで-2

2023-05-30 03:03:30 | 開拓されるべき地平たち

◎朱橘、パオハリー・バーバー寇謙之

 

屍解の例の続き。

3.朱橘

朱橘は、淮南の人で翠陽と号す。宋の理宗皇帝の淳祐二年、朱橘は、郷人の陳六に対し、自分は県庁の官舎の前で仙化するので、その際身体を清い土で上から覆ってくれと頼んだ。

やがてその日になって、朱橘の遺骸を陳六が泥で覆った。するとそこに酔っ払った警官がやってきて、その遺骸を見て大いに笑い、杖でもってこれを突き崩し、ぐしゃぐしゃにした。すると泥土は四方へ散ったが、朱橘の遺骸は見当たらず消え失せていた。

 

4.謙虚の聖者パオハリー・バーバー

パオハーリー・バーバーはベナレスの近郊でバラモンの両親のもとに生まれた。青年時代に、彼はインド哲学の諸学派を学んだ。のちに彼は世を捨てて、禁欲生活に入り、ヨーガやヴェーダーンタの教えを実践し、そしてインド中を旅して歩いた。最後に、彼はガージープルに落ち着き、その町のガンジス河畔の人目につかないところに小屋を建て、時間のほとんどを瞑想のうちに過ごした。

 

死ぬ前の数日間、家に閉じこもっていた。それから、ある日、肉の焼ける匂いと一緒にひっそりとした小屋から、煙の立ちのぼっているのに人びとは気づいた。この世の終わりが近づいているのを知った聖者は、至高の犠牲(いけにえ)として、主への最後の供物に自分の肉体を捧げたということが発見されたのである。

(スワミ・ヴィヴェーカーナンダの生涯 スワミ・ニキラーナンダ/著 法律文化社P95から引用)

 

5.寇謙之

 寇謙之は、442年、道教を北魏の国教にすることに成功した人物。

幼少の時仙人の成功興について修行。嵩山、華山を遍歴し、嵩陽に定住した。

ある日彼は、師匠の成功興のことを夢に見たと語り、天帝に召されて嵩山の仙官に任ぜられたことを告げるとそのまま死去した。

 

その際、煙のような青い気が口から出て、高く空中に立ち昇り、半ばにして消えると、彼の身体は見るみる縮小し、ついにはその姿は消えてしまった。

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屍解からモクシャ往還まで-1

2023-05-29 06:33:30 | 開拓されるべき地平たち

◎孫不二、普化

 

屍解とは、死に際して肉体を虚空に消滅させること。分解しきれずに髪や爪が残るケースもある。所要時間は、およそ数時間から1週間とまちまちである。

何よりも疑問なのは、その狙いである。

そして特徴的なのは、屍解は宗派の垣根を飛び越えて様々な宗派で見られるということ。

そして屍解そのものもいろいろな種類があるように見える。

 

それらの動機、プロセス、技法も勿論謎だが、ここでは、敢えて屍解の狙いと所要時間を『開拓されるべき地平たち』として挙げる。

 

屍解は、神秘生理学的事象であって、大っぴらに公衆の面前で行われることはないが、逆に大衆に知らしめることもまた企図されている。

 

悟りを目指し、神人合一に向かって日々努力するというのは、精神的な行為がメインのはずだが、聖者、覚者、成道者の一部が肉体変成による屍解という奇妙な技を古今東西にわたって見せているのは、実は何か重要な意味があるに違いないと思う。

 

屍解の例:

 

1.孫不二

孫不二は、金代の女性道士。1182年12月29日、彼女は、自らの死期を悟り、斎戒沐浴し、遺偈を歌った後、蓮華座に座り、太陽が天頂に達したことを確認して後、屍解したという。

屍解の所要時間は不明。

 

2.普化

普化は、唐代の人で、臨済禅を興こした臨済義玄より一枚上手の禅者。

ある時普化が、「俺もそろそろ冬支度なんかで、ちゃんとした服装がほしくなった。」と言い出した。すると周りの本当に普化の価値をわかっている檀家が、きれいな衣を普化にあげるが、普化は「そんなもの駄目だ」と断る。

 

そうすると臨済だけがわかって、棺桶を作ってあげた。

普化は「臨済が俺の服を作ってくれた。」

「臨済が俺の服を作ってくれた。」と言って棺桶にひもをつけて、引きずりながら、村中を練り歩く。

それを見に村の野次馬が集まったところで、普化は、「俺は、明日北の門で死ぬことになる。俺は午後3時に死ぬぞ」と宣言する。

 

翌日午後3時、物見高い村人が、北の門にそれはそれは大勢集まった。ところが普化は大分遅れてやってきて「今日はちょっと日が悪いな。うん明日にしよう。俺は、明日南門で死ぬから。」とまたも予告する。

 

その翌日午後3時、好奇心旺盛な村人が、南の門にそれは大勢集まった。ところが普化は大分遅れてやってきて「今日はちょっと肌寒いしな。うん明日にしよう。俺は、明日東門で死ぬから。」と予定変更する。

 

そのまた翌日午後3時、本当に物好きな村人が、東の門に若干名集まった。集まった村人は、「普化は、きちがいだとか聖者だとか言われているが、さっぱりわからないけれど、死ぬ時にはわかるかもしれない。」などと考えている。

ところが普化は遅れてやってきて「今日もちょっと調子悪いなあ。うん明日にしよう。俺は、明日西門で死ぬから。」とまたも延期する。

 

そのまた翌日午後3時、西門には誰も来なかった。普化が棺桶を引っ張ってきて、周りを見ていると、一人の旅人が通りかかる。普化がその旅人に「頼むからここに穴を掘って、俺が棺桶に入ったら、そこに釘を打って、それから埋めてくれればいいから。」と頼む。

それで、普化が棺桶に入って、釘を打ってもらって、土をかけてもらった。

 

旅人はびっくりして、「なんか乞食坊主みたいなのが、西の門の原っぱで生き埋めにしてくれって言うから、そのとおり、棺桶に入れて生き埋めにしたけれど、あれどうなっているんだ。」などと言うと、村人は、驚いて西門に駆けつけて、掘ってみると棺桶に釘が打ってある。それをこじ開けて中を見ると草履が片方残っているだけで、もぬけの空。そして突然ちりーん、ちりーんと音がして、ずっと空の方に上がっていって、『ワッハッハッハ』なんて大笑いが聞こえてくる。

 

(これは、もともと臨済録に出てくる話で、ダンテス・ダイジが座談で語ったもの(素直になる/ダンテス・ダイジ講話録4/P162-165参照)をアレンジ。)

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出口王仁三郎の尸解論

2023-05-28 16:55:34 | エクスタシス 夢の夢なるneo

◎自然の法に従う尸解など

(2018-10-12)

 

出口王仁三郎が尸解を論じている。

『虎、狼、猪、熊、狐、狸など野山に住む獣類、さては鳩、鳶、烏、雀の鳥類に至るまで、死骸と云ふものを此土にのこさぬ。

 

人に殺された場合は別だが、自然に死んだこれ等の屍と云ふものを誰も見た事があるまい、此等の動物は一定の時が来ると、尸解の法によつて体をもつて霊界に入つて仕舞ふのである。

 

これ皆神様の御恵によるもので彼等が死して醜骸を此地上に残す時、誰も葬式をして埋めてやるものが無いからの事である。それに彼等には欲と云ふものがないし、執着心も何もないので、実際綺麗なものである。

虎狼の欲といふ諺があるけれど、彼等は腹が膨れてさへ居れば、決して他を犯さうとはしない。

 

人間の欲となると恐ろしいもので、其日の糧どころか、一年中食べても、一生涯食べても余りある程のものを貯へながら、まだ其上他のものを自分のものにしたいと云ふ欲望の絶ゆる時がないのだから、おそろしい執着だ。

 

家畜は死骸を此土に曝すが、それは人間が始末をしてやるから、尸解の法に依らないのである。人間も同様お互に始末を仕やう事が出来るから尸解の法によらないのである。』

(出口王仁三郎随筆集水鏡の尸解から引用)

 

さらにこれを前提に、

『加藤『尸解(しけ)の法についてお伺い致したいのですが』

 

出口氏『ガット虫が蝉になるのもみな尸解の法である。

 

ガット虫に羽が生えて変わるだろう。麦の中から虫が発生(わ)いて蝶になる。これもみな尸解の法だ。天狗になったとかいうのは人間のうち尸解の法によってなったのだ。

 

鳥などは自然に従っているから何でも出来る』

 

加藤『尸解の法によって霊界に入る以外に霊界に入ればそれらの血液はどうなるのですか』

 

出口氏『鶏なんかは大抵食うようになっているから、殺された時に霊が抜ける。それが霊身を作って、鶏なら鶏になっている。

 

人間の体は死ぬと血が黒うなってしまう。霊のある間は霊が流通させているけれども、霊が抜けてしまうと肉体の中に入ってしまう。

 

滓(かす)が残っているが血が血管の中を廻っているのは霊が動いているからで、人間の血は霊なのだ。

 

霊が入っているから赤い。霊がなくなってしまったら、水分が体内へ吸収されてわからんようになる。

 

静脈血は初めから黒いが、本当に良いやつは融和してしまう。水気が屍体と一緒になってしまうのだ。血液は元通りあるのだけれども、屍体の中に一緒になってしまうので分からなくなってしまうのだ。霊というものは形のないものだから、形のないものが血液の中を廻っているから赤いのだ』』

(『出口王仁三郎全集第二巻第四篇P370-371から引用(国会図書館デジタルアーカイブにあり))

 

以上は、動物も含めて普通に屍解があることを指摘している。血液は霊だとは言っているが、七つの身体論でいえば、血液といえども物質レベルだから、血液についてはOSHOバグワンはほとんど気にしていない。チベット死者の書でも血液については、体液の流出として描かれてはいるが、その程度の言及だったように思う。

出口王仁三郎も霊は形がないとして物質レベルではないことを前提にしている。

 

覚醒から尸解に至るロジックは、通常の社会通念の外側にある。そして尸解も輪廻転生の一シーンである。

 

動物は、自然において屍解しようとして屍解するわけでなく、自ずと屍解する。人間はさる境地にあるものだけが、屍解が可能となる。

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日本の猫、世界の猫

2023-05-28 10:26:54 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎冥界の王

(2008-08-08)

 

1.仙台・田代島の猫神社

漁業の島で人口が120人位だが、猫の好物の魚が豊富だったのだろう。おまけに犬禁制だとか。

 

2.高知県 須崎市の猫神社

元々は、漁撈生活と縁の深いものだったのだろうが、招き猫を奉納してもねえ・・・・。

 

3.江戸・回向院の猫塚

二両を盗んだ濡れ衣を着せられて殺された猫の塚あり。

 

4.江戸・三光稲荷神社。

失せ猫が戻るという神社。人形町通り三光新道の途中にある小さな稲荷。江戸時代由来のものは人情の機微に触れるものが多いですね。

 

5.古代エジプトの猫女神

古代エジプトの猫女神バステト女神(喜びと愛の神)の神殿のあったブバステス(猫の家の意味)。猫はバステト女神の使いとされ、とても大切にされ、猫が死ぬとミイラにしてブバステスの墓に埋葬される慣習もあった。

エジプトのベニ・ハッサン遺跡からは、猫の遺体30万体が見つかったこともある。

 

6.北欧神話の愛と喜びの女神フレイア

フレイアは地母神だが、その乗る馬車を引くのが、超マッチョな2匹の猫。バステトのイメージとかぶります。

 

7.出口王仁三郎の玉鏡から引用

『猫は魔の王であるから、家に猫を飼うておくと悪魔が来ない、猫を抱いて寝て居れば魘(おそ)はれるやうな事はない。』

へーえ、本当ですかねえー。なぜですかねえ?

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宇宙人は猫をいやがること

2023-05-28 10:23:02 | 【アストラル体】【ザ・ジャンプ・アウト-07】neo

◎ホイットリー・ストリーバーの未知との遭遇

(2014-05-08)

 

アメリカのホイットリー・ストリーバーは、ビジターと呼ばれる宇宙人との遭遇体験を繰り返した内容を描いた「コミュニオン」がベストセラーとなったが、「宇宙からの啓示」はその続作。

 

「宇宙からの啓示」の中に、宇宙人が猫を嫌がって、猫を気絶させるシーンがある(1986年12月23日の章)。

 

彼女はニューヨークにいた。ベッドに入って3時半頃目を覚ますと、(身体から違和感を感じながら)人間みたいな1人の宇宙人が部屋に入ってきた。部屋には複数の飼い猫がいる。

 

彼女が足を止めると、彼女は宙に浮かんで滑るように動き始め、宇宙人(ビジター)に押されていることで、彼女の身体にわずかに電気的な刺激が感じられた。・・・ということで、彼女はエーテル体かアストラル体でもって宇宙人にボディを押されていることを感じているのがわかる。

 

その後、彼女は別の状態に入り、猫のサディーを抱えながら、前方の目も眩むような闇を見て、次に見知らぬ部屋に入った、そこには4人の宇宙人がいた。

この部屋では電気的刺激云々という表現がないので、彼女はアストラル体でいたのだろう。

 

そこで宇宙人から、「なぜ猫を連れてきた」となじられ、宇宙人は猫のサディーの腿に金属片を当てて、猫を気絶させた。

 

猫は宇宙人が去った後、蘇生するが、以前とは違って何時間も座って宙を見つめ不安そうにしていたりしたので、猫にはかわいそうな体験だったらしい。

 

この事件から、ホイットリー・ストリーバーは、猫には何かあることに気が付いている。

 

私の見方では、猫も楽々と人間とともにエーテル世界と、アストラル世界を出入りできる生き物のようであること(猫を抱いたまま、人が各世界を出入りする)、そして、猫の見ている前では、宇宙人も人間を好き勝手に操作できなくなるものであることが推察される。

 

出口王仁三郎は、猫は魔の王と評しているが、猫の全容は、ホイットリー・ストリーバー件で気が付いただけのポイントではなく、更にあるのだろうと思う。

 

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猫的ライフ・スタイルの人

2023-05-28 10:19:00 | 時代のおわりneo

◎人と直接コミュニケーションせずに孤独にならない

(2016-07-20)

 

絶海の孤島や山奥に行かなくとも、孤独な生活はある。ただ全く人を見ない生活は不便だし、ちょっと不安である。

 

気が向けばtwitterしたりlineしたりして、またたまにはリアルの人と喋ったりするけれど、ずっと喋ったりコミュニケーションし続けるのはしんどい。

 

他人とのコンタクトに気が向かなければ、一人でネットをしたりマンガを読んだり、テレビを見たりして自分の部屋にこもる。

 

最近の小学生だって、群れているのに各人が別々にゲーム機で興じるのが主流で、カードゲームを他人と一緒にやっているのは少ない。

 

一人だけど、毎日一人きりなのも寂しいから適当に他人がいるのが見えていて、それを眺めるのが丁度よい対人距離。

 

この距離感は実は猫同士の距離感でもある。猫も大体寝ていることが多いのだが、起きていても遊んだり、ごろごろしたり。群れていても適当に距離を置いて群れる。

 

なるほど最近はテレビによく猫が出るが、世の中に猫的ライフ・スタイルの人が増えたせいだとは、気が付かなかった。

 

冥想できる余裕はあるが、冥想のないルーティーン。死んでから、閻魔大王に一生の食事代を請求されないとよいが。

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猫の生贄

2023-05-28 10:10:56 | 時代のおわりneo

◎アポロン信仰の対極

(2010-07-24)

 

生贄は、何かの見返りを期待して行うものである。

 

イングランドでは、ごく最近まで告解の三が日に猫を打って殺すという慣習があったそうな。

 

『特に西部のシュロッブシャーのアルブライトンという村では、非常にポピュラーな行事だったようで旅館の看板にはこんな詩が掲げられていた。

 

太陽の下の最高の娯楽

それはアルブライトンで猫を鞭打つこと

 

この野蛮な儀式は、明らかにギリシャ・ローマの太陽神アポロン信仰の名残である。場所によっては、猫の代わりに太陽神のシンボルである雄鳥(または雌鳥)を使っていた。

 

 

この場にいるわれわれは

アポロンの告解の日を厳粛に祝い

われわれの言葉とペンで貴方を迎え

われわれの告解に雌鳥を捧げる

(W.ホーキンズ)

 

鶏は猫と同じようにたたき殺されたあと、人々の胃袋に収まった。』

(猫と魔術と神話辞典/M・オールドフィールド・ハウイ/柏書房から引用)

 

これはアポロン信仰自体の持つ闇・死に対する対処の不足・欠落を、死の世界のシンボルである猫(鶏)をたたき殺すことによって、その心理的、集合的無意識的な弱点あるいはアポロン型社会の持つ歪みを克服しようとするセレモニーであるといえよう。

 

つまりアポロン信仰の社会を継続していくには、こうした大きな意味でのガス抜き機構、社会・大衆心理のバランサーとして祭礼が必ず必要なものであり、たまたまイングランドでは、猫を生贄としてずっとやってきたということなのだと思う。

 

そしてまた日本も含めた近代西欧文明自体がアポロン型なので、それが発生させる澱を浄化する手段を社会は定期的に必要とするもの。70年代の学生運動以降は、明示的にそうしたものを解消するものがなくなったので、その矛盾は集団活動の形ではなく、個人の内部に沈潜し、うつや家庭内不和、人間関係の不調などに噴出しているように思う。

 

猫は単なるペットに留まるものではない。そして、猫ほどその正体がわかりにくいものはない。その正体を見ぬくには相当の高みに行かなければならないようで、猫の全体像についての叙述はまず断片的なものにとどまっている。

 

出口王仁三郎は「猫は魔の王」と喝破したが、その傍証は極めて少ない。ズバリと断定できる体系的網羅的な材料が少ないのだ。

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猫の技

2023-05-28 10:04:07 | 時代のおわりneo

◎鬱陵島の猫

(2008-08-25)

 

猫の人への技として、人の言葉をしゃべる、眠っている人の胸に乗って悪夢を見せるなどが代表的なものと考えられる。

人の言葉をしゃべるとは文字通り日本語を発声するわけではないが、一人で在宅している徒然で、猫の気持ちが言葉として解せられるほど意識レベルが落ちているような時に、猫の気持ちがわかることがあって、それを猫がしゃべるとしたのではなかろうか。

また胸の上に5キロはあろうかという猫が乗れば、流石に乗られた人は目を覚ますだろう。ここは肉体猫がそのまま胸に乗るのではなくて、アストラル体猫が胸に乗って悪夢を見せることを、胸の上に乗って悪夢を見せると見たのだろうと思う。

また猫が人語を解するなどは、わりとあることなのではないかと思うことがある。

函館五稜郭で有名な榎本武揚が、竹島の猫を持ち帰ったそうだが、その竹島とは、今注目の竹島ではなく、鬱陵島のことである由。

というのは、1667年の出雲藩士斎藤豊仙の『隠州視聴合記』によれば、『戌亥(西北)の間を行くこと二日一夜、松島あり、また一日の程、竹島あり、俗に磯竹島と言う、竹島海産多し』
(猫の歴史と奇話/平岩米吉/築地書館から引用)とあり、

この松島というのが今で言う竹島であり、この竹島というのが鬱陵島のことだそうだ。猫が住めるかどうかということで言えば、今でいう竹島は、いくつかの岩礁に過ぎず、猫が住めるものではない。他方鬱陵島は、巨木が繁茂し、鳥獣が多いそうなので、猫が住めるのは鬱陵島ということになる。

この島の猫は、尾が短く曲がっていたが、鎌倉時代に中国から持ち込まれた猫は短尾だったので、大陸由来の猫だったのだろう。また野生猫に三毛やぶちはいないということから、おそらく鬱陵島の山猫は、きじ猫だったと思われるのである。

きじ猫は猫の本流なのだ。

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猫には魂がある

2023-05-28 06:16:37 | 吉凶禍福、占い、癒し

◎猫との意思のやりとりから屍解

 

キリスト教では、動物に魂はないとするが、猫には魂はある。

 

クンダリーニ・ヨーギ本山博が自宅の近所まで来て、猫のチャムに「門のところまで迎えに来て」と念じると、猫のチャムの「はい」という反応を感じ、いつもそのとおり迎えに来る。ある日、「はい」という反応をしたが、突然通信が消えて変だなと思ったらよその黒猫と喧嘩の最中だったという。(出所:本山博の人間の研究/本山博/東洋経済新報社P33)

 

一般に猫は音とにおいに敏感だが、行動半径200メートルと言われる中の一部である自分の縄張りの中については、他の猫などが侵入した場合、音とにおいだけではなく、別のレーダーみたいな感覚でわかるようだ。

 

人と猫の遠隔の意志交換はある。飼い主が帰ってきた時の足音や自転車の音は、猫は敏感に察知しているものだ。猫が人間に要求するニーズはせいぜいがえさと水と居場所だが、狐やたぬき並みに人を化かしたり操ったりすることはたまに伝えられている。

 

猫も宇宙人も幽霊も彼らは彼らなりの世界観で生きているのであって、人間と同様の感情や道徳律を期待してはいけない。

 

猫は健康なら20年も生きるが死ぬ時はあっという間。出口王仁三郎の「猫は屍解する、死体を残さない」という説を読んで長年見たり聞いたりしたが、交通事故などでは死体は残すが、死体を残さない屍解のケースもあるのだろうと思っている。いつのまにかいなくなったというケース。

 

キリスト者自身は輪廻転生せず、猫は物だというが、彼らはそういう世界観に生きている。

 

猫は人間の気持ちもわかって挨拶もするし、同情もしてくれるが、屍解もある生き物であると思う。また屍解するくらいであれば、天国とかは問題にしないのではないかと思う。

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特攻隊生き残りのいた時代

2023-05-27 06:21:26 | 時代にFace it

◎意識の極限状態を通過する

 

最近再放送された『NHK 土曜ドラマ 山田太一シリーズ 男たちの旅路』では、鶴田浩二扮する吉岡晋太郎は特攻隊の生き残りを演じている。自分のことを死にぞこないと自嘲し悔恨しつつ、死んで行った仲間の思いを無意識に背負って生きている。そんな彼らが、全共闘世代の若者と軋轢しているドラマ。

 

本当の特攻隊上がりの俳優と言えば、西村晃であって、彼を見る時はいつも刮目して見たものだ。彼は徳島航空隊の特攻隊員として配属され、出撃機不良で基地に引き返し、その後終戦を迎えた。生き残った特攻隊の友人は、裏千家15代家元の千玄室だけだったという。

 

意識の極限状態を通過するというのは、そのような状態を言うのであって、明日死ぬとわかった者の精神状態も一つのそれなのだろう。冥想修行者の悟る悟らないはそこを問う。

 

特攻隊というのは、集団で意識の極限状態にさらされるものであって、そういう状況を『凡夫の耳も菊の年』などと言う。これからもそういう状況はあるのだろう。

 

昨夜、関東で緊急地震速報が鳴って震度5弱から3程度揺れたが、鳴っている瞬間もまたプチ意識の極限状況と言えなくもない。

 

男たちの旅路に出てくる若者役は、全共闘世代。1950年生まれは、全共闘世代の最後の方で、1970年安保闘争は最後の大きな運動だったのだろう。1950年生のダンテス・ダイジは当時二十歳であって、そのような左翼のうねりの強い時代にあって、求道を貫けたことは、彼はわれわれの世代とは、ほんの数年しか違わないが、もの凄いことだと思う。

 

1970年11月25日の三島由紀夫の自決は、右への揺り返しを狙ったものだろうが、影響力は小さく、線香花火のようにはかなく終わった。さらにその後右翼勢力がここまで弱体化することは、出口王仁三郎も“こんにゃく”と予言している。

 

ソ連が崩壊し、独覇米国も弱体化した今、右も左も決定打となりえないことは、歴史が学んだ。今問われるのは、万人が本当の自分に真剣に向き合えるかどうかだけである。

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己を慎み事をも敬する心を忘れない

2023-05-26 06:34:15 | 人と神の「実際のところ」

◎西郷南洲遺訓

 

西郷隆盛は、文久三年36歳、再度の島流しに遭い、沖永良部島に送られた。その獄舎は、天井はあったみたいだが、壁もなく扉もなく四方矢来であって、風雨は吹き通るため、ほとんど人の住む所ではなかった。ここで数か月、一日中端座冥想していたが、体調悪化の一途をたどり、ほとんど死にそうになったが、自ら住環境の改善を求めることはなかった。数か月後座敷牢に移されて健康は回復していった。

 

西郷南洲遺訓の遺訓第21条。

大意:

『道というものは、天地自然の道理であるから、学問の道は『敬天愛人』を目的とし、自分を修めるには、克己をもって終始しなさい。己れに克つことの窮極は、『我がままをしない。無理強いしない。固執しない。我を通さない。』と言える。

 

総じて、人は己に克つ事によって成功し、自分のメリットを優先する事によって失敗する。よく古今の人物を見なさい。事業を始める人が、その事業の七、八割までは能く出来るが、残りの二、三割を完成できる人の希れなのは、始めはよく自分を謹んで事をも敬うから成功もし有名にもなる。

 

ところが、成功して有名になるに従って、いつしか自分のメリットを優先する心がおこり、恐れ慎み戒めるという気持がゆるんで、おごり高ぶる気持がますます大きくなり、その成し得た仕事を過信のよりどころとして、自分の事業をさらに完遂しようとして、かえってまずい仕事をするようになり、ついに失敗するものであって、これらはすべて自分が招いた結果である。

だから、己にうち克って、誰も見ていない時も誰も聞いていない時も、自分を慎み戒めるものである。』

 

この要諦は、誰も見ていない時も誰も聞いていない時も、自分を慎み戒め、我がままをせず、無理強いせず、固執せず、我を通さず。

 

ここだけ読めば、単なるよくある人生訓の一つだが、十全の成功を求めることの方に力点があるのではなく、『己をなくす』=克己の方に力点があることに気がつく。

完璧に成功するには、誰も見ていない時も誰も聞いていない時も、自分を慎み戒めるという、神仏を恐れ神仏とのリンクを常時意識することが必要だと言っているのである。これは迷信であって、ロジカルではないと思う人も多いのだろうが、それがあって初めて『我がままをせず、無理強いせず、固執せず、我を通さず。』という態度になる。悟りとは態度であるという消息の一例である。

西郷隆盛は、神仏とは言わず、至誠、誠という言葉を多用している。

 

原文:

『道は天地自然の道なるゆゑ、講学の道は敬天愛人を目的とし、身を修するに克己を以て終始せよ。己に克つの極功は、『毋意、毋必、毋固、毋我』。

総じて人は、己れに克つを以て成り、自ら愛するを以て敗るるぞ。

 

能く古今の人物を見よ。事業を創起する人、其事大抵十に七八迄は、能く成し得れ共、残り二つを終る迄、成し得る人の希なるは、始は能く己を慎み、事をも敬する故、功立ち名顕はるるなり。

 

功立ち名顕はるるに随ひ、いつしか自ら愛する心起り、恐懼戒慎の意弛み、驕矜の気漸く長じ、其の成し得たる事業を負(たの)み、苟も我が事を仕遂んとて、まづき仕事に陥いり、終に敗るるものにて、皆自ら招く也。故に己に克ちて、睹ず聞かざる所に戒慎するもの也。』

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トースとダンテスの合体と伊都能売(いづのめ)-1

2023-05-25 16:22:57 | 究極というものの可能性neo

◎先行モデルとしてのアトランティス

(2021-08-11)

 

ダンテス・ダイジの語るトースとは、アトランティスの聖王。ダンテスとは、政教一致のアトランティスの神の宮 の13人のリーダー(超人)の一人だが、後に神の宮アメンティを離れ放浪する。これで12人+1人となる。

 

これでトース側12名とダンテス1名と別れたので、両性分離の嚆矢となった。

アトランティス時代にも黄金時代があり、黄金時代から時代が悪化する流れの始まりは、男女、陰陽、善悪など二元の分離から始まった。

この分離からしばらくしてアトランティス大陸は沈没し、アトランティス文明は滅亡。文明滅亡前夜にアトランティス密教のリーダー達は、エジプト、ギリシア、日本、中米、北欧などに別れて、古伝承、神話などを残し、それから1万2千年後の現代に再び人類滅亡の危機を迎え、その後にアトランティス時代を凌ぐ世界的に広がる黄金時代、至福千年、千年王国の到来を予見している。

ダンテス・ダイジは、フロリダ沖に再度浮上するネオ・アトランティスに再誕する予言を残している(今生を短縮したことで残しておいた寿命を用い)が、その際、トースとダンテスが合体してやって来るとも予言。このトースとダンテスの合体こそが伊都能売。

古事記に一行だけ神名が書かれてあって、日本書紀には記述のない伊都能売神。

だが伊都能売(いずのめ)神とは、古神道家出口王仁三郎の唱える重要な高級神霊であり人間でもある。伊都能売神こそは、男女両性具有であって、出口王仁三郎の云うところの厳(いづ)と瑞(みづ)の合体形なのである。

こうした伊都能売神を出口王仁三郎は、慈悲の本源であり、愛の神であるとする。更に伊都能売神こそが、またの名を観世音・観音といい、木花咲耶姫命ともいう。伊都能売神には既に男女の区別なく、善悪を超越し且つ審判思想を打破する、大愛大善大慈悲神である。大善大慈悲と言えば、天国のイメージだが、審判思想を超えているとは、天国も地獄も越えたところにあるということ。男女の別を超えるのは、人間としての完成形でもある。神でもあり、人でもあり。

さて出口王仁三郎の「大本の道」に伊都能売に関する短歌が並んでいる。

須弥仙の山の尾の上(え)に立ち給ひ宇宙を統べます伊都能売の神

須弥仙(すみせん)の山に腰かけとことはに天地六合(てんちりくごう)まもる伊都能売

伊都能売の神の御稜威(みいづ)は天地(あめつち)のももの神たち統べ守りませり

 

八百万神ゐませども伊都能売の神の分ちし霊魂(みたま)なりけり

八百万神はませども伊都能売のまことの神の御使(みつかい)なりけり

神柱あまねく地上にまくばりて世を清めます伊都能売の神

 

伊都能売は三十三相に身を変じみろくの御代を開かせたまひぬ

神となり仏ともなり鬼となり世を生かしゆく伊都能売の神

釈迦となりキリストとなり木(こ)の花の姫とあれます伊都能売の神

 

釈迦(さか)孔子(くじ)もその他の聖(ひじり)も伊都能売の神のいさをの分かれなりけり

弥勒といひキリストといふも伊都能売の御活動の一つなりけり

キリストの再臨弥勒の下生(げしょう)とは伊都能売神(かみ)の顕現なりけり

(続)

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トースとダンテスの合体-3

2023-05-25 16:14:28 | 現代冥想の到達点neo

◎マニピュラからアナハタへ

(2017-09-13)

 

ダンテス・ダイジ座談の中で、ある来訪者に対し、人生の裂け目のことを表現するのに、『「戻ってこーい。戻ってこーい」と叫んでいるような何かを感得すること』というように表現し、かの来訪者もそれを感得するシーンがある。

トース、あるいはトオオスの系流の行き方は、自己実現なき感情中心の意識世界からスタートし、社会で社会的役割を果たすことにより、自我を強化膨張させ、自己保存、我欲の虚しさ、人間の無力さ、情けなさを極め、絶望に至る。そこで何かが起こる。

そこで愛に出会う。

 

つまり神秘生理学的に言えば、自己実現のマニピュラ・チャクラからスタートして、愛のアナハタ・チャクラに至ったのだ。

 

現代は、マニピュラからアナハタに至る中間点。だが、相当にアナハタのゴールがもう見えそうなところまで寄せてきている。

「戻ってこーい」、「帰ってこーい」と呼ばれて、その場で感得できた彼は、既に愛というゴールに近かった。

そのゴールが、トースとダンテスの合体ではある。

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トースとダンテスの合体-2

2023-05-25 11:18:33 | 現代冥想の到達点neo

◎ダンテスの甘いささやきと悪影響

(2017-09-12)

 

ダンテスの系流に属する聖者たちは、アトランティス末期のダンティス・ケンタウロス、クリシュナ、臨済などがいる。

彼らの主張は、ステップや方便を越えて単刀直入に「現実」に言動せしめること。つまり、時により、人により、状況によっては、冥想もいらない、宗教もいらない、戒律を守ることもいらないなどと語ることである。ところが、これにより、様々な倒錯や、誤解を実践に移す人が出たことは問題であった。

ダンテス・ダイジは、このことを彼の著作メディテーション・トラベル・ガイドにおいて、臨済の悪影響として挙げている。

それは、坐禅は無意味だと言ったり、その場の人間的気分で好き勝手なことをするのが究極の悟りだと思ったり、大声で一喝するのが禅だと思い込んだり、この肉体がこのままで仏だなどと叫ぶ人物が出ることなどである。

臨済は僧堂の中で語ったがゆえに、その真理にストレートに肉薄する言動は、TPOを備えていたので、ある程度真意は伝わったが、市井で、TPOにおかまいなく、じゃんじゃんこうした素っ裸の真理を語られた場合には、悪影響は、臨済の比ではなく、邪教を発生せしめたり、宗教テロみたいなことを惹き起こすことにもなっていく。その場の人間的気分で好き勝手なことをするのもノンデュアリティではあるまい。

 

ダンテスの系流の言葉は甘い。

『そのお前の肉体が絶対の真実だ』(臨済)

『汝は神なり』(ハインラインのSF異星の客に出てくる教団信者同士の挨拶がこれ)

『アルジュナよ、君は決して生まれることも死ぬこともない』(バガヴァッド・ギータでクリシュナが語った)

『君達はもともと救世主である』(ダンテス・ケンタウロス・アメンティー)

人生を十全に生きる情熱を欠いて今生を生きる人には、こういう甘いささやきに乗せられて、人生全体や人生のワン・シーンを誤ることがある。

 

こんな甘いささやきに騙されない情熱豊かで疑り深く、苦労人で、だが素直な人物が、ダンテスの系流の求道の道を辿れるのだと思う。

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