アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

見ている自分と見られるもの-2

2024-04-20 03:44:07 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎見られるものは見ている自分を解放するために経験を提供する

(2017-09-29)

 

見られるものである花は、見られることで、その外貌を変える。ここに、見られるものは、見ている自分に影響されて変化を起こすことで、見ている自分と見られるものが一つながりであることに気づく。

花の側に見られた経験は残っている。だが、見られた経験者はもはやそこにはない。見た人間が、世界が一つながりであることに生きていれば、花と人との両極性は消え、写すレンズと被写体が消え、すべての境界が失われる。

 

ヨーガ・スートラから

『2.18要素と感覚器官で成る「見られるもの」は、照明、活動、および慣性という性質を有し、「見るもの」に経験を提供し、「見るもの」からの解放という目的のためのものである。』

 

人は解放されるために存在している。何からの解放か。

人生がこのような苦しみの連続であれば、その目的は何のためだろう?神が存在するとすれば、なぜこの混乱を収束させることができないのだろう。

こうした苦悩、苦痛、混乱から、見ている自分を解放するために「見られるもの」が存在しているとパタンジャリは解く。見ている自分に対して見られるものは、経験を与えることで終極には解放を与えるとする。

密教では、入我我入と表現し、只管打坐では、意識を清明に保ちながら深まっていく。

アダムとイブの与えられた知恵の木の実が経験の始まり。

諸行無常とは、空の悟りであり、「見られるもの」には実体がなく、永遠不壊のものはない。なぜ変化し実体がないものを人間に与えねばならないのか。

いきなり、ある人間に対し、あなたは何も問題がない、あなたは既に完璧で、パーフェクトであると語りかけても誰も納得などしない。あなたは、今ここで悟っている、生きながらの神そのものであるなどとおだててみても、まともな大人なら信じはしない。

坐っているその姿が悟りである修証一如などと古仏が言ったとしても納得感などはない。

だがその納得を与えてくれるものは、「見られるもの」が提供してくれる経験であるとパタンジャリは云う。

そこで初めて、覚者は、あらゆる実感を経た者であるとか、あらゆる経験を経たものであるという説明がしっくり来るものとなる。

あらゆる体験を窮めるだけの好奇心と情熱が足りている者だけが、到達できるのだ。

人は何十年でも何百年でも、ともすれば同じライフ・スタイルを繰り返しがちなものだという。そこから抜け出そうとする情熱がある者が縁を呼ぶのだろうと思う。

どうやって真正のマスターに出会うか、それは縁による。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

世界の成熟

2024-04-20 03:32:12 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-10-18

◎垂直上昇への仕掛け-18

◎精神の成熟-2

◎自意識の発展と知性の発達(霊がかりと天国希求の限界)

 

2.世界の成熟

ここ2千年で言えば、これは、自意識の発展と知性の発達が二本柱。

自意識の発展については、2千年前は、イエスの山上の教えを素直に聞き従う人が多かったように、誰もが今ほど自分の考えや感情を言葉として表出できなかったが、現在はSNSのように猫もしゃくしも自意識を言葉に表現できる時代となった。

さらに古代においては、自分の肉体と外部の自然や他人がつながり相互に影響しあっているような感覚があったが、現代ではそれらを峻別するのが当たり前という意識状態になった。これが自意識の発展。

知性の発達についていえば、自意識の発展と並行して、個々人の孤立、肉体と精神の峻別という進歩が起こり、これをベースに知性は発展を遂げていった。その結果、古代は肚や胸中心にものを考えていたのが、今では頭中心(知性のセンター)にものを考えるのが当たり前になった。おかげで無神論を誰も咎めない状況まで現出するようになった。これが知性の発達。

スピリチュアル・シーンでは20世紀初頭には、霊の実在・発見ということで、心霊主義、霊がかりが非常に盛んになった時期があったが、それも1920年代までには、下火になった。それは、クリシュナムルティが、マイトレーヤの霊を我が肉体に乗り移らせるのを取りやめた事件(1929年星の教団解散宣言)や、大正末年頃には出口王仁三郎が、教団の中で数千人規模でやっていた霊降ろし訓練をやめた事件が典型である。時代はこのように天国希求を主題とする霊界宣伝の時代から、個々人が自分で究極へ進もうとする時代に大きく転回していったが、これも自意識の発展と知性の発達の一つの側面である。

それから100年人間はさらに爛熟を極めている。

 

さはさりながら、21世紀80億の地球人の誰もが進化できるというものでもなく、またどの民族もすべて進化できるというわけでもない。その基底には、爛熟、成熟の程度が、民族的にも、個々にも異なるという問題に加え、それ以前に個人にあっては、生きるエネルギーの多寡が人によって異なるという問題もある。心的エネルギーは誰にでも均等に分配されているわけでなく、人により多い場合も少ない場合もあるという事情がある。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする