◎見られるものは見ている自分を解放するために経験を提供する
(2017-09-29)
見られるものである花は、見られることで、その外貌を変える。ここに、見られるものは、見ている自分に影響されて変化を起こすことで、見ている自分と見られるものが一つながりであることに気づく。
花の側に見られた経験は残っている。だが、見られた経験者はもはやそこにはない。見た人間が、世界が一つながりであることに生きていれば、花と人との両極性は消え、写すレンズと被写体が消え、すべての境界が失われる。
ヨーガ・スートラから
『2.18要素と感覚器官で成る「見られるもの」は、照明、活動、および慣性という性質を有し、「見るもの」に経験を提供し、「見るもの」からの解放という目的のためのものである。』
人は解放されるために存在している。何からの解放か。
人生がこのような苦しみの連続であれば、その目的は何のためだろう?神が存在するとすれば、なぜこの混乱を収束させることができないのだろう。
こうした苦悩、苦痛、混乱から、見ている自分を解放するために「見られるもの」が存在しているとパタンジャリは解く。見ている自分に対して見られるものは、経験を与えることで終極には解放を与えるとする。
密教では、入我我入と表現し、只管打坐では、意識を清明に保ちながら深まっていく。
アダムとイブの与えられた知恵の木の実が経験の始まり。
諸行無常とは、空の悟りであり、「見られるもの」には実体がなく、永遠不壊のものはない。なぜ変化し実体がないものを人間に与えねばならないのか。
いきなり、ある人間に対し、あなたは何も問題がない、あなたは既に完璧で、パーフェクトであると語りかけても誰も納得などしない。あなたは、今ここで悟っている、生きながらの神そのものであるなどとおだててみても、まともな大人なら信じはしない。
坐っているその姿が悟りである修証一如などと古仏が言ったとしても納得感などはない。
だがその納得を与えてくれるものは、「見られるもの」が提供してくれる経験であるとパタンジャリは云う。
そこで初めて、覚者は、あらゆる実感を経た者であるとか、あらゆる経験を経たものであるという説明がしっくり来るものとなる。
あらゆる体験を窮めるだけの好奇心と情熱が足りている者だけが、到達できるのだ。
人は何十年でも何百年でも、ともすれば同じライフ・スタイルを繰り返しがちなものだという。そこから抜け出そうとする情熱がある者が縁を呼ぶのだろうと思う。
どうやって真正のマスターに出会うか、それは縁による。