◎想念停止
非思量底の禅とは、道元のキャッチフレーズの一つ。道元以前にも思量しない禅が議論になった。
ある時薛簡が六祖慧能に対して、「首都の禅の先生方は、「仏法を悟るためには必ず坐禅しないとならない。坐禅しないで悟った人は、過去例がない」と主張していますが、本当でしょうか」という質問状を送った。
これに対して六祖慧能は、「仏法の真理は心で悟るものである。そのための手段として坐禅は最もよいものではあるが、坐禅に執着してはいけない。」と回答している。また仏教教学を学んで知識を増やすことで煩悩をなくそうとするのも間違いだとする。
更に「明(迷い)と無明(悟り)は、その本質は、同じであり、実性=真如の両面である。実性=真如は、煩悩にあってもなくなることはなく、禅定に居てもなくなることはない。それは、その中間にあるのでも、その内や外にあるのでもなく、不生不滅であり、永久に変わることがない。」
また「外道の説く生と滅は、前提として、生も滅があるところからスタートしているので、滅は滅しないから、生は無生と説明する。
私の説く不生不滅は、実性=真如にはもともと生も滅もないので、外道の説明とは違う。
あなたがもし本当のところを知りたいと思うならば、ただ一切の善悪すべて思量すること莫(な)かれ。
そうすれば、自然に清浄なる実性=真如(心体)に入ることができ、静かに落ち着いた境地にあって、絶妙な数限りない働きをするだろう。」
一切の善悪すべて思量しないとは、想念停止なのだろうか。坐禅して、思量することがなければ、そこに入る。カルロス・カスタネダは、この世の思い出すべてに別れを告げる準備を終えてからその状態に入ったことから見ると、単なる坐禅時の心の持ちようや坐相(姿勢)だけでは、そこに入れるものではないと思う。