◎そういうものに決着はつくものではない
出口王仁三郎の随筆月鏡から
『輪廻転生
およそ天地間の生物は、輪廻転生の法則をたどらないものはありません。蚕が蛹となり孵化して蝶となり産卵するのも、ガット虫が蛹となり、糞虫が孵化してハエとなり、瀬虫が孵化してトンボとなり、エンドウが蛹となり羽を生やして空中を駆け、麦が蝶と変じ、米はコクゾウムシと変化し、栗の木からクリムシが湧き、クヌギのアマハダから甲虫が発生するなどは、いずれも輪廻転生の道をたどっているのです。
ある老人の話に、田舎の寺の高い梁の上にスズメが巣を組んでヒナをかえしていたところ、ヘビがそのヒナを飲み込もうとして、寺の柱を這い上がり、巣に近づこうとして、地上に転落し、庭石に頭をぶつけてもろくも死んでしまいました。それを寺男が、竹の先に挟んで裏の竹藪へ捨てておきました。四、五日経って、スズメのヒナがけたたましく鳴き叫ぶので、寺男が訝りながら近づいて調べてみると、数万の赤蟻が列をなし、柱から屋根裏を伝わってスズメの巣に入り、ヒナの体を取り巻いています。蟻の列をたどって行ってみると裏の藪の中に、縄を渡したように赤蟻が続いていました。その出発点を調べてみると、四、五日以前に捨てたヘビの死骸が残らず赤蟻に変化していたというのです。
執念深いヘビの魂が凝り固まって赤蟻と変じ、生前の目的を達しようとしたのです。実に恐ろしいものは魂の働きです。
またそのおじいさんの話に、ある夕暮れ、イタチとヒキガエルとが睨み合っていましたが、ヒキガエルは三、四間もある距離から、イタチの血を残らず吸い取ってしまいましたので、イタチはその場に倒れてしまいました。そうすると、ヒキガエルのやつがのそのそとイタチの死骸の傍へ這い寄って、足をくわえ雑草の中へ隠してしまいました。それから四、五日経つと、イタチの死骸が残らずウジとなっていました。それを執念深いヒキガエルのやつ、またものそのそと夕暮れ近く這い寄って、一匹も残らず、そのウジをぱくついてしまったと言います。
このように生あるものは必ず転生し、かつその魂は恐るべき魔力を持っていることが悟られます。いわんや人間の霊魂においては、一層その力が発揮され、輪廻転生の道をたどって、あるいはヘビと変じ牛馬となり、犬猫となり生前の恨みを報いようとする恐ろしいものなのです。
犬に噛まれたり、馬に蹴られたり、牛に突かれたりして、命を捨てる者、皆それぞれの恨まれるべき原因を持っているので、自業自得と言うべきです。
神様は愛と善の徳に満ちていらっしゃるので、いかなる悪人といえども罰するようなことはありませんが、人間の怨霊ほど恐ろしいものはありません。ゆえに人間は人間に対し、たとえ仮にも恨まれるようなことはしてはなりません。どこまでも愛と善とをもって地上の一切に対すべきです。人間の怨霊が、猛獣毒蛇となり、その人に仇を報いたり、あるいは牛となって恨みの人を突き殺したりして、災いを加えるのであって、神様が直接に罰を被らせるようなことは全くないものです。
仁慈無限の神様は、すべての人間が、私利私欲の念により争い合い、殺し合い、恨み恨まれて修羅、餓鬼、畜生道に堕ちていく惨状を憐れんでいらっしゃいます。そして、至善至愛の惟神の大道を、智慧の暗い人間に諭してその苦しみを救おうとするために、神柱をこの地上に降ろし、誠の道を説かせていらっしゃるのです。実にありがたい大御心です。』
神様は、バチを当てないが、人同士がバチを当て合って輪廻転生を繰り返す。そういう人間ドラマに愛想が尽き果てた人が、初めて道を求めるものなのだろう。
現代日本人は、表面的には 他人の悪意に寛容だが、この随筆の書かれた昭和5年の日本人同様に、表面的には 他人の悪意に寛容に見えても実は怨みをいつか晴らそうと思っている人が多いのだろうか。
そういう成れの果てが世界戦争。日本の周辺に反日教育国が多いのも、そういう成れの果てか。
ダンテス・ダイジは、そういうものに決着はつくものではないから、と、冥想から悟りを推薦していた。悟りにより九族昇天するのだ。