アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

宮崎奕保禅師の悟り

2022-11-08 09:51:36 | 只管打坐neo

◎ものは一つだと体が覚える

 

宮崎奕保(えきほ)禅師は永平寺の住職もなさった方で、先年108歳で亡くなられた。江戸期以前は当たり前だったが、昨今の僧としては珍しく生涯不犯。若い時分の結核のために片肺を失ったまま長寿の人生を過ごした。

 

NHKの方の素人丸出しのインタビューに答えて言うには、

『---禅師様が、悟りの境地にあると初めて気づいたのは、いつのことでしたか。

 

質問を聞いた宮崎禅師は、しばらく思案した後にこう言った。

 

「それは蓄積や。何かの機会に、ものは一つだと体が覚える。『般若心経』にもそう書かれておるけれど、言葉で分かっても、体では分からん。(悟りというものは)体が自然に体得するんや」』

(坐禅をすれば善き人となる/石川昌孝/講談社から引用)

 

禅問答なら、間髪を入れずに答えるが、ここは素人向けに時間をとって言葉を選んだ。

 

宮崎奕保禅師は非常に坐禅をした。宗派を問わずたくさん坐れる人は本物が多い。開悟した機縁を語っても何の益にもならないと見たか、ここは蓄積と語った。

 

坐って何かが蓄積することを言う。蓄積するとそれを体得することに近づくのだろう。それで、坐れ、只管打坐しなはれと言っている。

 

この本には宮崎禅師が印可されて印可状を回覧された話は出てきたが、何故印可されたかは何も書かれていなかった。

 

坐れば何かが蓄積して悟りに近づくとは、功利的なもの、自分にメリットがあることしかしない人向けの、いわば情けない説明である。冥想すれば何かが起こるなんて期待して坐ってはいけないが、そう説明して、水を向けなければならないほどに、自分を含め腐った人が多いということを、肝に銘じたい。

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