アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

パノラマ記憶

2024-07-08 15:24:59 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎カルマを上映するスクリーン

(2011-06-04)

 

オランダの心理学者ダウエ・ドラーイスマによるパノラマ記憶についての表現。

『パノラマ記憶の最近の体験話で、それよりはるかに共通して用いられる隠喩は映画であり、フラッシュバック、再生、スローモーションのような映画用語である。

以下の例は、臨死体験の研究から取ったものである。

 

・「私の人生が瞬間的に再生されているあいだ、時間がわからなくなり・・・・・・」

 

・「カメラから外れたフィルムに写っている」かのように時間が通り過ぎていきました。

 

・温かい人間関係の記憶だけが「選別されてスローモーションで流れました」

 

・「フィルムの早送りのように、画面の一つひとつが、きちんと枠に収まって、はっきりした映像で、速い速度で連続して現れました」

 

・「非常に高速の映画です。ほんのいくつかの出来事を集めたハイライトでした」

 

・「それは映画のようでした。目の前を右から左へと進んでいく撮影カメラのようでした」』

(なぜ年をとると時間の経つのが速くなるのか/ダウエ・ドラーイスマ/講談社P337から引用)

 

彼は、パノラマ記憶の視覚性と自分の登場する映像を第三者的に見る感覚の両方を表現する暗喩として、パノラマ記憶は「映画」として表現されると指摘する。その一方ですべての記憶が一斉に同時に現れたように見えるという特徴は、「映画」にはない要素として挙げている。

 

カルマというフィルムは脳というスクリーンで展開されるが、パノラマ記憶という特殊な上映状況においては、脳を介さずに生カルマを直接上映するために、「すべての記憶が一斉に同時に現れたように見える」のだろうか。

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論語と算盤

2024-07-04 04:40:29 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎ある一定の時期に達するまでは

(2011-10-16)

 

さすがに私の本棚には、論語はない。孔子は、晩年に覚醒したのだが、論語は孔子の若い時の言行録であって、未悟なる者の言行は、絶対的なものとして採用することなどできないからである。苦心の経過として参考になるところはあるのだが。

 

孔子の言行は、荘子などの求道者から見て妙なことを大真面目にやっているようなところがあって、荘子などでは、論語そのものではないが孔子をネタに大ボケをかましている部分がしばしばある。

 

「論語と算盤」は、明治の実業家渋沢栄一の口述になるものだが、論語の一条一句を説明しているものでなく、論語をネタに処世、人生をコメントしているもの。

 

渋沢栄一は、悟ってはいないが、私心のない人物とされており、後の三井、住友、三菱などといった、自分の一族郎党の勢力を数世代にわたって拡大しようというような野心を持たなかった。

 

『わたしは今日でももちろん、争うべきところは争いもするが、人生の半分以上にわたる長い経験によって、少しばかり悟ったところがある。なので若い時のように、争い事をあまり多くは起こさないようになったと自分でも思う。というのはこんな事情があるからだ。

 

世の中のことは、「こうすれば必ずこうなるものだ」という原因と結果の関係がある。ところがそれを無視して、すでにある事情が原因となってある結果を生じてしまっているのに、突然横からあらわれて形勢を変えようとし、いかに争ってみたところで、因果関係はすぐに断ち切ることができない。ある一定の時期に達するまでは、成り行きを変えることなど人の力ではとてもできない、と思い至ったのだ。

 

人が世の中を渡っていくためには、成り行きを広く眺めつつ、気長にチャンスが来るのを待つということも、決して忘れてはならない心がけである。正しいことをねじ曲げようとする者、信じることを踏みつけにしようとする者とは、何があってもこれと争わなければならない。このことを若いみなさんに勧める一方で、わたしはまた気長にチャンスが来るのを待つ忍耐もなければならないことを、ぜひ若いみなさんには考えてもらいたいのである。』

(現代語訳 論語と算盤/渋沢栄一/ちくま新書P25-26から引用)

 

『ある一定の時期に達するまでは、成り行きを変えることなど人の力ではとてもできない』これは、物事の成り行きをその手で何回も変えてきた人物ならではの発言である。魔法や手品のように見えても、その実は物事の成る時節の見極めがきちんとできる人物がタイムリーに動くから成るだけのこと。

 

人も、精神とカルマの成熟を待って動かないとダメ。ついこの間まで、「道」のことなど関心の端にも上らなかった。ノストラダムスの1999年も実現せぬままに「ある一定の時期」を待っているのだろう。

 

世の中の行く末のメイン・シナリオは変わることなどなく、クリシュナムルティ、OSHOバグワンなどの有名覚者は世を去って久しい。目覚め、悟りは他人ごとでなく、自分でどう取り組むかにかかっている。取り組み方を変えるのは自分の力だが、それが成るかどうかは、人の力ではないところがある。それは取り組んだ人だけに言えるのであって、取り組まない人があれこれ言っても始まらない。

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渋沢栄一の実験論語処世談を読む

2024-07-03 20:04:09 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎魂年齢が若い

(2021-05-31)

 

渋沢栄一は、老子や禅は読まないそうだ。その点では、西郷隆盛や勝海舟に比べると、魂年齢が若い。西郷隆盛や勝海舟も相当に禅で行けているのに比べると、人生への洞察は未だしの感がある。

 

渋沢栄一は、論語を座右の銘として処世してきた。彼は易はこれから学ぶなどと云っているので、孔子の域には達していない。

 

最近のスピリチュアルに関心のある人向けに言えば、四書五経の中で、ストレートで究極を説いているのは、大学、中庸、書経。あの世とこの世の構造を描いているのは易経。

 

孔子は晩年大悟したと思われるのだが、それ以前の言行は論語に多く拾われているものの、禅家、道家から見れば、この世にまだ未練が残っている段階であって、自分を死ぬ準備はできていない。

 

そんな具合だから、荘子においては孔子の言行は突っ込みどころ満載のトピック提供者として重宝されている。

 

孔子もその生涯で最後は論語レベルに飽き足らず易経に進んだ。禅にも老荘にも関心を持てないようであれば、転生の最終ターンではない。

 

NHKの大河ドラマで出口王仁三郎でもやれば面白いのだが、旧内務省の流れでそうはなるまい。

 

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女性の殉死

2024-06-12 12:45:23 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎それでも幸せ?

(2007-05-25)

 

明の成祖永楽帝が亡くなったその日、永楽帝と親密であった三十人あまりの宮女が庭園で豪華な昼食にあずかった。

昼食が終わると皆殿堂に案内された。殿堂には、木製の小さな寝台がずらりとならんでおり、それを見た宮女の泣く声に殿堂全体が震えたという。

宮女を寝台に立たせると、梁につながっている縄を首にかけて、役人が寝台を取り除いて縊死させたのである。

 

周の幽王の墓では百体以上の遺体が発見されているが、一体以外はすべて女性。

 

危篤の床にあった唐の武宗が、寵愛する王才人に、わしが死んだらお前はどうすると訊くと、王才人は「殿とともに九泉に参ります。」と答えたところ、すぐに首吊り用の布を与えられたので、自ら首を吊って死んだ。王才人は、後にその節操を讃えられたそうな。

 

これらは、人に厳しい中国の、それも最も苛酷な宮廷のエピソードであるが、人の幸福ということを考えるにあたってこのシチュエーションも避けては通れないテーマである。それでしあわせだったのですか?

 

当代の人間の真に求めているものを考える時にどうしても、女性の生き方の本質について考え込んでしまう。要するに女性は何をもって真に満足、納得するのかということである。こういうシチュエーションでも幸せだったといえる生き方はあるのだろうか。女性的自我の充足とは何だろうか。

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田中陽希GreatTraverse-7

2024-05-05 12:40:45 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎利尻水道死の彷徨

(2021-06-04)

 

グレートトラバース百名山一筆書き踏破は、既に99座を踏破。田中陽希の軽口が前途の困難を予感させる。

 

2014年10月23日午前8:20田中陽希は、シーカヤックで、利尻島の対岸の豊富町稚咲内(わかさかない)港を出発。直線距離25キロの海を6時間で渡る計画だった。つまり午後2:20には到着予定だった。

 

ところがあいにく利尻水道には風速10mの南風が吹き荒れ、海は時化ており、風に弱いカヤックには悪条件だったが、この後五日間は更に風が強くなり、百座目の利尻富士も雪に覆われることが確実となることから、敢えて出航を決断したのだった。

 

最初の3時間は順調で、ほぼ12kmを進んだ。だが波高3mの海は更に時化て、風速20mにも達し、体力的にも限界。到着予定時刻を過ぎた午後4時には、カヤックが転覆。

 

田中陽希はカヤックから投げ出され、再度カヤックに乗り込もうとするが、波浪のためなかなかうまく行かない。海中で7分経過し、これ以上カヤックに戻れないと低体温で死の危険があると思われた矢先、何とか船に戻り、漕艇を再開した。

 

この時、偶然にも風が弱くなり、スピードが上げられたのは僥倖だった。午後5時半カヤックは到着予定港より10キロ北に流され、利尻島雄忠志内(おちゅうしない)漁港に到着。

 

カヤックを陸揚げする田中陽希の手はかじかんでおり、手足は凍えて身体はふらついていた。そして生死の境をどうにか生の側に転げたことで、彼は人目もはばからず涕泣し、無言。生きていてよかったとつぶやくこともできないほどのショック状態。(字幕ではしゃべったことになっていたが)

 

振り返ると、津軽海峡も利尻水道と同様の潮の流れが速い海路のカヤック航海だったのだが、そこが順調すぎたのかもしれない。

 

伴走船がついていたけれど、NHKも鬼の冷徹さで救助しない。こういうのを番組にしてよいのか。幼児も思春期も見るのだ。だが、これぞアドヴェンチャー。シナリオもので生死を賭けさせることはできない。

 

Meditationの道も最後は生死を超えるのだから、まあ同じで、最終段階の直前に神仏の加護が見えると言うというのは、似たり寄ったりか、などと思い直す。

 

稲生平太郎もイエスも釈迦も最終段階の直前に魔王が登場し、それをクリアしないと成道できない。北欧神話のオーディンの箴言にも最後にクリアするまで油断してはならないというニュアンスのことわざがある『夕方になってから昼を誉めるべきだ。(死んで)焼かれてから女を、ためしてから剣を、嫁にやってから娘を、渡ってから氷を、飲んでしまってから麦酒をほめるべきだ。』。

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田中陽希GreatTraverse-6

2024-05-05 12:24:50 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎インテリジェンスの場、高山と海

(2021-05-30)

 

高山の登山には、聖と俗の二つの面がある。

聖の側は、冥想修行であって、人跡稀な高山を以って修行の場とするケース。俗の側は、インテリジェンスすなわちスパイの通信伝達場所として高山を用いるケースである。

 

まず俗のケース。

アストラル・トリップで人と出会える猛者ならいざ知らず肉体でもって高山で文書を通信しようとするならば、まず装備が問題となる。

 

8千メートル峰14座を無酸素で最初に登頂したラインホルト・メスナーも、凍傷で指を失わない、低体温にならないための装備を重視している。

 

要するに体温を上げる特殊な訓練をしなくとも、装備でもって登山することを狙っているわけだ。山には冬山の厳寒あり、4千メートル級になると、高山病がある。

 

インテリジェンスとは、人に知られない場所で重要情報を交換するのが基本。関所がないところで情報交換する。日本でも山岳修験は、役行者の昔からあり、山岳に神代文字の碑や神文が残っているところを見ると、各時代の為政者の目を逃れ、山岳修験者として情報通信や秘密交渉していたのは、古代からあったのだろうと思う。

ところが、その形態の情報通信では情報量が少ないものであるから、いざ戦争になる局面では、軍師の脇にシャーマンが鎮座し、シャーマンの受信した情報でもって戦略を定めていた。日本古代の三韓征伐では、シャーマンである神功皇后が表に立ち、審神者兼軍師である武内宿禰が戦争指導をしていたが如くである。

欧州では、修験はないが、欧州アルプスを中心に登山家という人物が、ナチスの時代に至るまで山でインテリジェンスしていた形跡を推測できるものだ。

平地での戦争が終わると敗者サイドではその地から離れて隠れ里ができる。日本では平家の落人が売りの温泉地があったりするが、それは水軍主体であった平家ではなく、実は源氏なのだという説もある。

田中陽希GreatTraverseでは、結構一般的でない登攀ルートを辿る。昔の修験者、山岳専門の間者とは、実質獣道みたいな場所を通行していたのだろうとか、徳川家康の伊賀越え逃避行とか、坂本龍馬の脱藩ルートとか、難行苦行していたであろう山越えルートを田中陽希は軽々と進むのは、心地よい。

 

また田中陽希は津軽海峡を手漕ぎカヤックで4時間半で渡り切った。津軽海峡を渡るのがそれほど容易なら、古来もっと大勢の人数が北海道に渡っているはずだが、そうはなっていない。

 

日本武尊の当時、船と言えば、巨木をくり抜いた丸木船に毛の生えた程度のものだったらしい(古代の船についてはいろいろ読んでみた)。古事記では、日本武尊の東征において、相模から上総に浦賀水道を渡ろうとした際、突然暴風が起こって海が荒れ進退窮まる。そこで、なんと后の弟橘媛(オトタチバナヒメ)が日本武尊に替わって海に入り生贄となると暴風が収まった。この水路が横須賀市走水。これはインテリジェンスが効かなかった例。

 

こうした秘密情報も重要だが、インテリジェンスの8割は公開情報と言われる。

冥想修行者は、人が見ていないところでも、人が見ているところでも善を行い、悪を行わないもの。諸悪莫作(しょあくまくさ) 衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)が基本。

あらゆる公開情報がマインド・コントロールとなる時代。すべてを感じ取っていくことができるほどに人間は進歩したのではないだろうか。

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田中陽希GreatTraverse-5

2024-05-05 12:20:17 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎日本の水平における神秘を極め尽くす

(2021-05-29)

 

田中陽希の、急登を常人の倍以上のスピードで進む能力も一種の超能力のようなもの。20代で大峯千日回峰行(一日で48キロの山道の往復を繰り返す)を満行した塩沼亮潤大阿闍梨も50代になって、それを振り返り「人間のやることではない。」などと評していたが、そのスピードだけでなく、無事故で進めることも一つの奇跡である。

奥山の道を進めば、風雨あり、熊、猪、鹿、猿、蛇あり、意識のゆらぎでの霊異あり、ロードでは自動車の危険がある。田中陽希GreatTraverseでは、この辺は風雨雪程度しか画面には登場しないが、磐梯朝日国立公園朝日岳では、登山道に熊の糞が点々と落ちており、熊道であることを示していた。

田中陽希が、足元が不安定になる濡れた木の根、細かいガレ(大小さまざまな岩や石がゴロゴロ散乱しているもの)場を進むには、一歩一歩これを踏んだら次にどうなるかを瞬時に予測して進むと語っていたが、特に下りでは、それが重要。だがそれは、誰でもできる技ではない。

 

また四囲をガスに覆われて視界が効かなくなると、人の心理は内側に下降していくもの。このようなシーンは、TV的には何も面白くないので、すべてカットされているが、冥想ヲタク的には、この辺に関心がある。一般にこのタイミングで狐狸が登場し化かされるものである。狐狸は、見かけは人として現れるもの。

そういう画面に出てこないいろいろな障害を承知している人なら、彼のツアーの偉大さを一層わきまえているのだろう。

そして百名山ツアーを成功させる、田中陽希の過去のカルマの集大成も無視はできない。

 

百名山、三百名山を登り切るということは、シンボリックには、日本の水平における神秘を極め尽くすということであり、そういうことが起きたということは、次には垂直に進むしかないということでもある。

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田中陽希GreatTraverse-4

2024-05-05 12:17:24 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎登ってはいけない山-2

(2021-05-28)

 

さらに大江山。

『古事記』崇神天皇の段では、崇神天皇の弟である日子坐(ひこいます)王は天皇の命によって旦波国(丹波国)に遣わされ、土蜘蛛の玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)を討った。

また用明天皇の時代に、聖徳太子の弟の麻呂子(まろこ)親王の鬼退治伝説がある。

また一条天皇の時代、長徳元年(995年)に源頼光と藤原保昌らが大江山に住む鬼(酒呑童子)を征伐したという伝説もある。

 

出口王仁三郎は、

『大江山は日本の悪霊の集まつて居る所である。山の中腹を邪気線(死線)が六十間位の幅で取り巻いて居る。されば此山に登る事は危険な事である。大抵の人間がこの邪気に犯されると思想まで悪化して了ふのである。元伊勢の内宮から、外宮にかけて霊線が通つて居る、この霊線は良い線で、これを突破して大江山に登つた大本信者は悪霊の教唆によつて、遂に信仰から離れて行くものが多い。』(水鏡/大江山と邪気線/出口王仁三郎から引用)

 

※大江山の東南東に10キロほどの山道を行くと元伊勢内宮がある。外宮(豊受大神社)は内宮から4キロほど南であり、この間に良い線があるわけだ。この元伊勢に行った人でないとこの文はわからないのではないか。

 

ところが、どんなパワースポットでも、白でも黒でもない大勢の人が繰り返し登れば、その霊線は弱まるということはあるのではないか。よって次のような歌が出てくる。

 

『大江山鬼の住家は八衢(やちまた)の都大路に宿をかへたる』(出口王仁三郎全集第7巻歌集 巻下 道歌より引用)

 

そういう訳で、今この時代に、現世に地獄が移っていることの悲しさよ。

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見ている自分と見られるもの-3

2024-04-21 03:48:03 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎見ている自分は純粋な意識

(2017-09-30)

 

さて、世界が与えてくれるあらゆる経験は、見ている自分が解脱するために存在していた。

パタンジャリのヨーガ・スートラでは、見ている自分は、純粋な意識であるとする。

現代科学は、他の事物や他人は自分とは独立したものであって、自分は孤絶した観察者の立場で、それらを評価したり論じたりできるというのが建前である。しかし現代では、自分と他人や他の事物は相互に影響を与え合っているのが次第に知られるようになってきた。このことは伝統的な宗教の見方であり、山川草木悉皆成仏(山川草木みな仏)、アカシック・レコード(世界はひとつながり)などと言う。

ところが、あらゆる知識や考え方は個人的なものであって、分断されているのが、この社会の通念。

自己と他者、見ている自分と見られるもの、生と死、男と女は両極であり、この両極の分断という苦しみは、つらいトレーニングなしでは通過することはできない。

そのトレーニングの成功確率は、それに自分を捨てられる比率、賭けられる比率に対応して高まる。

 

ヨーガ・スートラから

『2.20 見る者は純粋な意識であるが、見る者はマインドの幻影を通して見る。

2.21 見られるものは、見ている自分だけのためだけに存在する。』

自己と他者、生と死、男と女、子供と老人、巨富と貧困ですらマインドの造り出す幻影である。こうした幻影という現実は、見ている自分のためだけに存在する。

肉体ですら幻影という偽物だが、肉体こそ現実、金こそ現実、美醜こそ現実のように、その偽物たちでもって真剣に訓練を重ねないと、偽物であることを見抜きそれが偽物である世界に逆転して生きることはできない。

逆転して初めて、『見ている自分は純粋な意識』と言えるのであって、覚醒以前に『見ている自分は純粋な意識』と言うのは、空念仏である。

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見ている自分と見られるもの-2

2024-04-20 03:44:07 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎見られるものは見ている自分を解放するために経験を提供する

(2017-09-29)

 

見られるものである花は、見られることで、その外貌を変える。ここに、見られるものは、見ている自分に影響されて変化を起こすことで、見ている自分と見られるものが一つながりであることに気づく。

花の側に見られた経験は残っている。だが、見られた経験者はもはやそこにはない。見た人間が、世界が一つながりであることに生きていれば、花と人との両極性は消え、写すレンズと被写体が消え、すべての境界が失われる。

 

ヨーガ・スートラから

『2.18要素と感覚器官で成る「見られるもの」は、照明、活動、および慣性という性質を有し、「見るもの」に経験を提供し、「見るもの」からの解放という目的のためのものである。』

 

人は解放されるために存在している。何からの解放か。

人生がこのような苦しみの連続であれば、その目的は何のためだろう?神が存在するとすれば、なぜこの混乱を収束させることができないのだろう。

こうした苦悩、苦痛、混乱から、見ている自分を解放するために「見られるもの」が存在しているとパタンジャリは解く。見ている自分に対して見られるものは、経験を与えることで終極には解放を与えるとする。

密教では、入我我入と表現し、只管打坐では、意識を清明に保ちながら深まっていく。

アダムとイブの与えられた知恵の木の実が経験の始まり。

諸行無常とは、空の悟りであり、「見られるもの」には実体がなく、永遠不壊のものはない。なぜ変化し実体がないものを人間に与えねばならないのか。

いきなり、ある人間に対し、あなたは何も問題がない、あなたは既に完璧で、パーフェクトであると語りかけても誰も納得などしない。あなたは、今ここで悟っている、生きながらの神そのものであるなどとおだててみても、まともな大人なら信じはしない。

坐っているその姿が悟りである修証一如などと古仏が言ったとしても納得感などはない。

だがその納得を与えてくれるものは、「見られるもの」が提供してくれる経験であるとパタンジャリは云う。

そこで初めて、覚者は、あらゆる実感を経た者であるとか、あらゆる経験を経たものであるという説明がしっくり来るものとなる。

あらゆる体験を窮めるだけの好奇心と情熱が足りている者だけが、到達できるのだ。

人は何十年でも何百年でも、ともすれば同じライフ・スタイルを繰り返しがちなものだという。そこから抜け出そうとする情熱がある者が縁を呼ぶのだろうと思う。

どうやって真正のマスターに出会うか、それは縁による。

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見ている自分と見られるもの-1

2024-04-19 03:26:42 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎見ている自分と見られるものの結合

(2017-09-28)

 

見ている自分と見られるものによって、修行方法は、自分に神が入る、神が憑依するタイプと、自分が神になるタイプとの2種類に分かれる。

前者はシャーマニズムやチャネリングであり、後者は、ラージャ・ヨーガ、クリヤ・ヨーガに分類されるものであり、キリスト教、仏教の密教、禅、道教などもそれである。

ヨーガ・スートラの2.15には、わかっている者にとっては、すべては苦であるというこの世の見方が登場し、一切皆苦は、仏教の定番ではなく、インド伝統の見方であることを知る。

『2.16 未来の苦は、避けることができる。

2.17 避けなくてはならない(苦の)原因とは、見る者と見られるものの結合である。』

(現代人のためのヨーガ・スートラ グレゴール・メーレ/著 ガイアブックスP6から引用)

 

自分とは自分個人であり肉体人間であると思い込む人にとって、生老病死は避けられないものであり、この世には何一つ確かなものなどない。

ここに一切皆苦の立脚点があり、この原因をパタンジャリは、見ている自分と見られるものの結合だとする。

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ウパニシャッドの輪廻転生

2024-02-11 09:47:48 | 冥想アヴァンギャルドneo
◎説明をはぐらかす
 
古代インドのカタ・ウパシャッドでは、子供のナチケータスは、父親によってその身を死神ヤマに布施として与えられようとしていた。

ナチケータスは、自分たちを死神の家の前で3日も待たせた償い(三つの恩典)として、死後のメカニズムについて説明してくれるように、死神ヤマに求めた。

『「死んでいった人について、次のような疑問があります。―――『彼は(死後の世界に)存在している』という人々もあり、他方『彼は(どこにも)存在しない』という人々もあるのです。このことについてわたしはあなたに教えられて知りたい。(三つの)恩典のうちの第三の恩典はこれです」(20)

「この点については、古来神々でさえ疑問をもっていた。それは理解しやすいことではないから。この事柄は微妙である。ナチケータスよ、他の恩典を選ぶように。私を悩まさないでほしい。それ(を教えること)を私に免れさせてほしい」(31)』
(世界の名著 バラモン経典原始経典/中央公論社P134から引用)

このやりとりの後、死神マヤは結局説明させられるのだが、その内容は我ら俗人が期待するような内容ではなく、本来の自己たるアートマンを奉斎することで、かの恒常なるものに至ることを勧めている。


さて、死後の成り行きについて、我々が期待するようなことを説明することは、百害あって一利ないことを彼らは知っているから彼らはまともには説明してこないのではないかと思った。

というのはオーディンの箴言にこんなのがあったからである。
『誰でもほどほどに賢いのがよい。賢すぎてはいけない。誰も自分の運命を前もって知りはしない。知らない者は心配がなく、平穏な心でいられる。』
(エッダ-古代北欧歌謡集/谷口幸男訳/新潮社P31から引用)

つまり、ほとんどの人は、現在只今において、自分の末路について受け入れる勇気も覚悟もないのが現実だろうからである。キュブラーロスの指摘するように、自分の死を受け入れるのには準備と段階が必要なものだ。
 

蛇足だが、カタ・ウパニシャッドのこの説明の中でアートマンは心臓内の洞窟に親指大で存在していると死神マヤは説明しているが、「魂の科学/たま出版」でスワミ・ヨーゲシヴァラナンダも同じようなことを言っている。

そうなのかも知れないが、これは七つの身体論について霊がかりな解釈を惹起しそうな説明ではある。

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記憶術からコンピューターまで

2023-10-21 10:57:51 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎奥の深い魔法

(2012-04-15)

 

記憶術は、古代ローマの昔から、単なる思い出以上の利用価値あるものと展望されていた。

事実我々は日常生活の中で、様々な家電、PC、自動車、携帯電話などで、ロム上のメモリーをフル活用して生活している。

ジョルダーノ・ブルーノは、まず頭の中に大きなリングを作り、その上に5つの同心円のリングを置く。この6つのリングには、様々な記憶の一つ一つを置く。これによって、リングを回転させれば置かれている記憶を取り出すことができる。そして6つのリングがそれぞれ回転すれば、バラバラだった記憶が結びついて新しい知識が得られると考えた。

もともとのこの着想は、スペインの錬金術師ライムンドゥス・ルルスに由来すると言われる。また、それから100年後のライプニッツは、これをヒントにいくつもの同心円盤から成る初期の計算機を作った。

更にブルーノは、『「奥の深い魔法は、結合点を発見したあとに正反対のものを引きはなす」。ふたつの正反対のものは「結合点」で一致し、そこを出ると正反対に分かれて「反対」となるというのだ。』

(メンデレーエフ 元素の謎を解く/ポール・ストラーザン/バベル・プレス社P125から引用)

 

この奥の深い魔法のことは、世界の始まりと終わりを見た者しか言えないことを言っている。ジョルダーノ・ブルーノは、世俗的には決して恵まれなかったが、相当のところまで行っていたように思う。

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くそと黄金

2023-10-08 12:33:16 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎くそへ ここたくの罪を天津罪とのりわけて

(2016-12-09)

 

世の中には、巨富を持っている人がいる。マイクロソフトの創業者のデビッド・ゲイツとか、投資家であるウォーレン・バフェットとか、ジョージ・ソロスとか英国女王ファミリーとか、日本にもそういう人もいる。

彼らは、人もうらやむ年棒のプロ野球の大谷翔平の百倍どころか万倍の資産を有している。サッカーのメッシやクリスチアーノ・ロナウドなどの千倍以上でもある。持てることに満足するまで増やそうと努力するのだろう。

けれども何兆円もの個人の財産は、本人が亡くなった瞬間、彼にとって何兆トンもの糞に化ける。

フロイトの夢判断では、黄金がくそに変ずる話が出てきて、黄金がくそと同義なのは潜在意識の常識であり、神々の常識でもある。

神々が不死の霊水アムリタをおしっことして与えようとした如く、神々にとっては、糞尿に対して変な羞恥心はない。日本国の神聖なる大祓詞にも「くそへ」が登場し、その天津罪を祓うべく毎日敬虔に全国で奏上されている。

一方で話が自分の金を出すことに及ぶや貧富にかかわらず性格が急に獰猛になる人は多いものだ。羨望なく巨富を見れる人だけが、求道の道を進む。

金融教育をしないと騙される人が増える。それはそうだが、金に使役される人を増やすことが人間社会の幸福増進につながるのだろうか。

金で得た幸福は一時的なものであり、部分的幸福であり断片的幸福である。だが、そういう冷静な説を冷静にみれなくなりがちなのが貧困であり、世の中の非正規労働者は4割なのだから4割が貧困なのだろう。

イエス・キリストも貧困層だったし、釈迦も貧困層だったし、中国の禅者趙州も貧困層だったし、まともな宗教者は必ず貧困である。

ことさらに繰り返しくそと黄金の説を説かねばならぬほど世の中の迷蒙は深い。

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静御前は愛に死し、祇王は仏を見る

2023-08-03 19:33:04 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎仏もむかしは凡夫なり

(2022-05-25)

 

2022年5月22日のNHK 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、源頼朝以下が鶴岡八幡宮に参集し、義経の愛人にして絶世の美女静御前(石橋静河)の辞世の舞を観覧した。その装束は、水干に、立烏帽子、白鞘巻と男装であって、歌って踊る。それだけでも当時はインプレッションのあるものであったろう。宝塚歌劇団の男役の走り。

 

仇敵となった鎌倉方の有力武将が居並ぶ前で、義経が彼女と「しづや、しづ」と交わした睦言を披歴して、悲恋を慨嘆したことは、女が恋に死ねることを示す。(しづやしづのおだまき繰り返し、昔を今になすよしもがな

:おだまきの糸を巻き戻すように、義経様が「しづや、しづ」と恋しく呼んでくれた当時に時間を巻き戻したいものだ。)

 

ところで平清盛の愛人だった祇王。祇王も白拍子だったが、新たな愛人の仏御前に清盛の寵愛を奪われ、憮然としつつ清盛の何回もの呼び出しにすねつつ応じた今様。

 

仏もむかしは凡夫なり

我らも終(つひ)には仏なり

いづれも仏性具(ぶっしょうぐ)せる身を

へだつるのみこそ、かなしけれ

 

寵愛のことしか胸中になかった彼女でも、「釈迦ももともと凡夫であって、私たちもついには仏となる」と歌うほどに、これが社会通念だったことに驚かされる。

 

現代社会もこの程度のことが社会通念となれば、社会のギスギスは大きく変わると思う。平安時代から鎌倉時代初期と言えば、方違え、陰陽道全盛で、霊が病気や異常気象などの現象に作用するなどの軟弱スピリチュアルの時代と見られるが、むしろ現代人より人としてまともだったかもしれない、と思う。

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