

この時代は、人間が悪意を持つということに寛容であり、無感覚な時代である。審神とは憑依あるいは降臨した神がまず善神か悪神かを決めること。巷間では、「霊界では高位」の人物だと自称する人がしばしばあるが、その人の居る霊界が善なる霊界とは限らず、地獄的霊界であることはままある。
それを見分ける技術が審神(さにわ)である。
出口王仁三郎の審神論(霊界物語から)。
『総て神界には正神界と邪神界との二大別あるは、この物語を一ぺん読みたる人はすでに諒解されしことならむ。
されど正邪の区別は人間としていかに賢明なりといへども、これを正確に審判することは容易でない。邪神は善の仮面を被り、善言美辞を連ね、あるひは一時幸福を与へ、あるひは予言をなし、もつて審神者の心胆を蕩(とろ)かし、しかして奥の手の悪事を遂行せむとするものである。
また善神は概ね神格容貌優秀にして、何処ともなく権威に打たるるものである。されど中には悪神の姿と変じ、あるひは悪言暴語を連発し、一時的災害を下し、かつ予言の不適中なること屡なるものがある。
これらは神界の深き御経綸のしからしむところであつて、人心小智の窺知し得べき範囲ではないのである。
ゆゑに審神者たらむものは、相当の知識と経験と胆力とがもつとも必要である。かつ幾分か霊界の消息に通じてゐなければ、たうてい正確な審神者は勤まらないのである。世間の審神者先生の神術にたいしては、ほとんど合格者はないといつても過言に非ずと思ふのである。
却説、盤古大神の注意周到なる審神はよくその効を奏し、邪神はここに化の皮をむかれ、一目散にウラルの山上目蒐けて雲霞のごとく逃げ帰つた。されど一度憑依せし悪霊は全部脱却することは至難の業である。
ちやうど新しき徳利に酒を盛り、その酒を残らず飲み干し空にしたその後も、なほ幾分酒の香が残存してゐるごとく、悪霊の幾部分はその体内に浸潤してゐるのである。この神憑りありしより、常世彦、常世姫、竜山別も、日を追ひ月を重ねて、ますます悪神の本性を現はし、つひには全部八頭八尾の大蛇の容器となり、神界を大混乱の暗黒界と化してしまつたのである。あゝ慎むべきは審神の研究と神憑りの修業である。』
(霊界物語第5巻第一四章 審神者から引用)
この霊界物語では、実力ある審神者が邪神を弁別してみせたが、かえってその結果世界は更に紛糾することになってしまったという。
現代では、力量ある審神者はまずいないが、利己主義、物質優先・金銭優先主義という邪悪な思想に侵された人が大半な中で、正統に審神をしてみせたところで、その結果は必ずしも喜ばしいものとは限らぬ。
帰神、神がかり、神降ろし、チャネリングという修行には審神者が必ず必要だが、審神者が適格であっても、神降ろしという修行形態がダメという評価なのである。
明治大正の当時ですら大神がかかる人は稀であった。いわんや現代をや。『私は悪人だから、あなたも悪人だろう』みたいなのが、あたりまえとされる人間関係ばかりでは、どうにもならない。本当に真善美を求める気持ちを洗い出していくいう方向性がないと、世界は落ちてゆくばかり。

◎猫人関係雑感
(2008-08-12)
子猫のうちはかわいいしぐさも多いし活発だが、成猫になると、容貌がかわいくなくなるし、あまり遊ばなくなり、活動も不活発となる。こうなると猫に飽きてしまう人が出てくる。
猫はもともと単独行動だし、個人主義的な生き物だから、誰のいうことも聞かない動物なので、大きくなって、飼い主の気持ちを無視して、動き回るだけの動物はかわいげのないものだと思う。
でも20年にもなろうかという猫の寿命の中で、かわいいのはせいぜい最初の1年であると覚悟して飼ってやらないと、さすがに猫のほうが気の毒なことだ。
動物が家畜になるためには、いくつかの厳しい条件をクリアする必要があり、それができた動物だけが家畜と成り得る。猫もそうした条件をクリアできた数少ない動物のひとつだからこそ,その付き合い方のほうをよく人間のほうが心得ておく必要があるだろう。
曰く撫でる,ほめる、適度に放任する。来客があったり、他のペットの来訪があった場合は、猫は嫉妬して、暴れ回ったりするので、なかなか人間的な心性を持っている。猫にもたっぷりの愛が必要なのだ。猫の機嫌が悪くなったら、愛が足らないサインだろう。
猫は引っ越しなどの環境変化があると、非常にがっかりして心理的なショックを受けるものだそうだが、その心理は、毛づくろいとして現れる。毛づくろいは普段からやっていることだが、そうした外的な事件があると、その困惑の気持ちを毛づくろいで紛らわせている由。
それと退屈。退屈するとまた毛づくろいをするが、退屈も極まると、毛が抜けるまですることがある。
猫は人間に比べるとサプライズに弱く、驚きすぎではないかと思われる程驚くことがあり、繊細な神経を持っているとわかる。ひどいときは、獣医が検査や麻酔のために押さえつけたショックでそのまま無反応になり死んでしまう猫すらいるという。そこまで行かなくとも、元気がなくなり、食欲もなくなるようなことがある場合は、優しくしてあげて安心させることが大切だそうだ。
猫は、特に聴覚が発達して、クンダリーニ・ヨーギのように「聞きまもる」時間帯が少なくなく、デリカシーを感じさせるペットだからこそ、対人間並の愛と思いやりの必要性を感じさせられる。
◎二つのスパイラル
(2010-09-12)
京都三条大橋東詰に、だんのうさんと呼ばれている壇王法林寺では、主夜神を祀っている。主夜神のお使いがまねき猫。
昭和八年の京都民俗誌には、壇王法林寺の招き猫は緑色の猫で右手を挙げている。これにより、江戸時代には民間では左手を上げた招き猫しか作らせなかったとのこと。(出典:招き猫博覧会/白石書店)
開運招福系の地母神信仰なら、カーリーや黒いマリアと類似だろうから、右手挙げだという示唆である。
ところが世間に出回っているものは、右手挙げも、左手挙げもあり、両手挙げのものまであるという。最近は作る方もこだわっていないようだ。
右手挙げなら左手は下がっており、気は時計回りスパイラルに上がるイメージ。一方左手挙げなら右手は下がっており、気は逆時計回りスパイラルに上がるイメージ。
お寺の卍マークは、時計回りで、ナチスのハーケン・クロイツは逆時計回り。
こうしたものは、タロットや西洋占星術などもそうだか、肉体や物質レベルを読む場合と精神について読む場合とでは、意味が逆になる。開運招福、現世利益ならば物質レベルのことなので、その目的に合った手を挙げたものを用いなければならない。
さはさりながら、そんな自分に都合の良いことばっかりやっているから世間は大混乱の巷となっているわけである。
◎月と物質と鏡
(2008-09-24)
アマテラスと言えば八咫の鏡だが、アステカにも鏡をシンボルに持つ神がいる。アステカの主神といえばケツァルコアトルだが、テスカトリポカは、それと対峙する重要な神である。ケツァルコアトルもテスカトリポカも、イザナギ,イザナミに相当する最初の夫婦神オメテクトリの子である。
ケツァルコアトルは、善玉主神として明けの明星の主であり、太陽のエネルギーを与える源であり、知性を司る。
テスカトリポカは、その右足を原初のエネルギーの象徴たるワニに食わせて、大地を創造したので、右足のない姿で表される。
テスカトリポカの鏡はアマテラスのように太陽をイメージさせるものではなく、煙を吐く鏡、煙る鏡である。鏡の素材は金属ではなく、黒曜石である。アステカの呪術者は、この鏡を覗き込んでトランスに入り、部族の将来や神の意図を見た。
テスカトリポカは、魔術をあやつる女神の背景に潜む力を司り、現世、現象を成り立たせているエネルギーの支配者である。つまりどちらかと言えばこの世的な、物質的な事象をカバーする神である。
鏡は月のシンボルであり、現世的なものを象徴するのが本筋である。だから、テスカトリポカがそのシンボルとして煙る鏡を用いるのに違和感はない。他方アマテラスは太陽であり、現世的なものではなく、スピリチュアルなものを司るにも係わらず、そのシンボルとして鏡を用いているのは、しっくりこないところがある。
◎遊びをせむとて生れけむ
(2008-07-20)
どうすれば、気まぐれな猫の歓心を惹くことができるかについていろいろ調べてみた。
すると、
1.どの動物も遊ぶのが大好き。喜びの情動は遊ぶことから生じる。
2.動物は抱きしめられるより撫でてやると喜ぶ。まるで親が子を舌でなめてやるように。
3.男性の犬、猫の扱い方は、女性のそれに比べて乱暴すぎる。
4.動物は言葉では思考しないが、映像で思考する。虐待されたりした時の恐怖の記憶は映像として記憶される。
5.おびえて怖がる動物を落ち着かせる時は、なでたり静かな低い声で話しかけたりしてなだめる。たたいてはいけない。
6.猫が鳥を追うような捕食行動は、突然の早い動きによって誘発されることが知られている。これは脳の別回路(本能)による行動であって、しつけたり矯正するには、ショックを与えるなどの手荒い手段が必要となる。
7.子猫の場合は、生後7週間までに社会的な絆を育むので、この期間までには、子猫を特にやさしく扱う。
8.猫をしつけるには餌の訓練が効果的。
9.餌のご褒美と行動を結びつけるためには、行動がうまくできた1秒以内に餌を与える。
10.ご褒美の基本はほめる、なでる、餌。
11.新しいスキルや芸を教える時には、罰を使わずに報酬を与える方が効果が高い。
(参考:動物感覚/テンプル・グランディン・NHK出版)
猫に気に入られるには、なでてあげるのと餌が基本ですね。人間と同じで幼時期に虐待されると一生社会とのかかわりに影響があるわけですね。以後「ダメ」「コラ」の叱責は慎み、メタボにならない程度に、タイミングよく餌を使って、「悪人」「キライなタイプの人」と思われないように、合理的に立ち回りたいものです。猫も人も楽しい生活が好きだから。
テンプル・グランディンによると、怖がりの動物は、概して世話がやけるので、物おじしない動物のほうが手間がかからない。身体のどこか一部に白い毛のある動物は、それがない動物よりも引っ込み思案でないそうだ(動物の白眉みたいなもの)。テンプル・グランディンは、踊るクマとカメラを見つめるカワウソの例を出しているが、なるほど犬、猫でもそういうことはありそうだ。
◎感情からの自由とサマーディ
(2021-11-23)
思考の観察から一歩進んで感情の観察もできる。最後には純粋な観察者を目指す。この「見ていること」を意識と呼び、英知と呼ぶ。
OSHOバグワンは、ここで予想どおりあるいはいつものパターンで、感情の観察については詳述していない。せいぜい思考の観察と同様に感情を見守るのだくらいの説明である。
ここで無身体、無思考、感情からの自由の三つの“空”が成り、これによってサマーディに進むとする。だがサマーディとは個なのか全体なのか、何がどう素晴らしいのかなどについてはほとんど説明がない。
続く質疑の章に次のような暗示するものはあるが、サマーディの説明がちゃんとしていないのは、聴衆のレベルがあったのだろう。
『そう、あなたが神性の探求に乗り出すときは、「わたしは神性を見つけるつもりだ」という思いから始める。しかし探求を続けるうちに、神性はどこにも見当たらず、探求者も消えつつあることに気づく。「わたし」が完全に空っぽになる時が訪れる瞬間、あなたは自分が神性を見出したことを発見する。
つまり、「わたし」は決して神性に出会わないということだ。「わたし」がいないとき、そのときはじめて神性はある。しかし「わたし」がいるかぎり、神性は決して見つからない。』
(ディヤン・スートラ―瞑想の道/OSHO P280から引用)
ディヤン・スートラは、尻切れとんぼのようではあるが、彼独自の心理テクニックが至るところに盛られており、いつもの原始仏教や禅、チベット密教、インド密教、ウパニシャッドなどを題材にした講話とは異なる風光を見せている。自分の体験から来る教訓が見えるのだ。その意味でディヤン・スートラは貴重である。
◎思考からの自由
(2021-11-22)
思考からの自由は、自分の思考の正しい観察を通して起こる。思考の流れを傍観する。思考が流れて行くのを見守る。
やがて思考と自分は別であることに気づく。自分は思考でなく観照者であることに気づく。
トータルな気づきを以って内側を見つめると思考が止まる。その時行為者と観察者が別だとわかる。だが、そこで考えてはいけない。この観察者を見る人とも呼ぶ。
OSHOバグワンの説明では、
凡人には、思考がある。
瞑想者には、思考と観察の二つが並行する。
覚者には、観察だけがある。思考は死んでいる。
(参照:ディヤン・スートラ―瞑想の道/OSHO P235-242)
自分が思考ではないと気づくなら、思考は死ぬという大胆な分析である。ここは、体験した者だけが語り得る部分。只管打坐でも似たようなことをやっている。浮かんでくる思考を「相手にしない」って。
◎自分の身体は“空”
(2021-11-21)
ディヤン・スートラの七つの段階の前半三段階の浄化で土台が整い、後半は神性と合体する。後半三段階を“空”とし、“空”にも三段あり身体、思考(マインド)、感情の段階があるとする。『自分は身体だ』と感じることが消えると身体は“空”となる。『自分は身体だ』と感じることを落とすと身体は“空”となる。
OSHOバグワンは、行住坐臥、一挙手一投足について、「それがどこで起こっているのか、肉体なのかそうではないかに気づきをもって見つめよ」と言う。例話では、傷つけられる自分は肉体なのかそうではないのか、今まさに殺されようとする自分は肉体なのかそうではないのか見極めよという話を出して来ている。
更に夢を見ている自分は肉体ではないと既に自覚できていることも挙がっている。
このように一日24時間、『行住坐臥、一挙手一投足について、「それがどこで起こっているのか、肉体なのかそうではないかに気づきをもって見つめる』訓練を続けると、自分は身体、肉体ではないことがわかる。これを“空”の境地と呼ぶ。
(参照:ディヤン・スートラ―瞑想の道/OSHO P227-235)
“空”とは言っているが、チベット密教でいう空性のことではなく、また個というものから出て全体に届いているわけではない。だが、自分は肉体ではないと認識することは、「肉体を傷つけられても自分は傷つけられない」「肉体は死んでも自分は死なない」という実感に至ることになる。
しかしながら、これは、現代の法体系の根幹である、私権擁護、国民の福祉、刑事犯罪の構成要件、更にはイジメの問題など、社会性と相いれない部分がある。
だが、現代人の苦悩の9割がそこに起因することを見れば、自分は身体、肉体ではないことを自覚、実感することは重要である。
これらの論は七つの身体論とは別体系であり、いわゆる現代人向け対症療法であることは注目される。
またウパニシャッドの有名な課題である「熟睡中の夢も見ない状態」などの議論よりは緩い議論であって、また肉体でなければ、エーテル体、アストラル体など微細身もあるだろうなどという議論の方向性もあるが、この視点の対症療法としての重要性は見逃せない。
◎感情の浄化-4 感謝
(2021-11-13)
感情が純粋になれる4つの局面の4番目は、感謝。
感謝とは神性である。OSHOバグワンは、「誕生に際して、あなたは意識的なはたらきかけをしたわけではない。誕生は自分自身の決定ではなかった。」と前置きをする。
そして、我が肉体を感謝できない人は他人の肉体に感謝できはしない。人は、まず自分を作った空と大地に感謝しなさい。これを神聖なる感謝とよぶ。
『この感謝なくして宗教的にはなれない。感謝しない人間が、どうして宗教的になれるだろう?
この感謝を絶えず体験し始めたら、あなたは驚くだろう-この感謝はあなたを大いなる安らぎに満たし、大いなる神秘に満たす。するとあなたは、あることを理解する-自分は、こうしたすべてを与えられるに値しないということを。しかし、これらすべてを手にしているがゆえに、自分は感謝の念に満たされるということを。自分の受け取ったものが満足を与えてくれるので、あなたは感謝に満たされる。』(ディヤン・スートラ―瞑想の道/OSHO P179から引用)
そこで、感謝を表現し、感謝を育てる方法を見つけなさい。それにより、冥想は深まり人生は途方もなく変化すると。
彼は、友愛、慈悲、快活さ、感謝の四つで感情は浄化され、純粋化されるとした。
この要約では、この四局面のネガティブ部分の説明は故意に避けた。ネガティブ部分を説明しても解決の方途は見えないからである。
友愛は集まれば大きな力として作用するが、友愛のネガティブ部分である憎しみもまた大きな力として作用する。例えば、ナチスドイツは、ユダヤ人への憎しみを煽り、ユダヤ人圧迫、大虐殺を実現し得た。日本の隣国は反日思想で日本人への憎しみを煽っているが、時代はめぐり一朝日本人が腰抜けで抵抗できないとわかれば、ユダヤ人同様の悲劇を起し得る「憎しみ」の火種を教育・宣伝し続けているということである。
このようなネガティブ面(憎しみ・敵意、冷酷さ・暴力・不親切、惨めさ・苦悩・不安、恩知らず)の説明は、この書に多数載っているが、この地獄的時代には身近に実例はいくらでも思い当たるだろう。
よって、改めて感謝を表現し、感謝を育てる方法を見つけなさいなど、簡単にできることからスタートするのが如何に大切かに思い当たることだろう。
諸悪莫作、衆善奉行(悪いことをしない、善いことをする)。
◎感情の浄化-3 快活さ
(2021-11-12)
感情が純粋になれる4つの局面の3番目は、快活さ。
これは、喜び、幸福、歓喜、至福の感覚、そして苦悩の不在だ。これは、普通の人の考える快活さではなく、肉体死を既に問題にしない人の快活さである。
毒杯をあおったソクラテスの言葉、『そして彼は言った。「わたしは幸せだ。死は、たったふたつのことしかできない— 完全にわたしを破壊するか、しないかだ— もし死がわたしを完全に破壊するなら、わたしは幸せだ。なぜなら、悲しみを体験するわたしはそこにいないのだから。
また、もしわたしの一部が残るとしたら、わたしは幸せだ。なぜなら、破壊されるのはわたしでない部分だからだ。わたしは依然として存続する。死は、たったふたつのことしかできない。だからわたしは笑っているのだ」。』(ディヤン・スートラ―瞑想の道/OSHO P170から引用)
肉体死か、個我・個なる自己の喪失かと問うているのだ。肉体死は、大悟覚醒につながるケースが少ないことを前提にしている。
さらに処刑場で四肢を寸断されたマンスールの言葉。
『わたしの愛に終りはない。この人々がわたしに何をしようと、わたしの愛の破壊には成功しなかった。彼らは自分たちの企てを成し遂げられなかった。この愛は永遠だ』(上掲書P171から引用)
その時ですら彼は笑っていた。
OSHOバグワンは、生の明るい側面を見ることを習慣づけることで、快活になれるとする。ヨブ記のヨブみたいなひどいめに会わされ続けても、神を信じ、我が運命を呪わず、愛を持ち続けることを快活というのだろう。これまた悟った人の特徴ではあるが、まだ悟っていない人は、真似びから入るしかないのだろう。
◎感情の浄化-2 慈悲
(2021-11-11)
感情が純粋になれる残り4つの局面の2番目は、慈悲。
人生はただ生きるだけでも非常に困難なものであり、人はいつ死ぬかもわからないが、生き、愛し、多くのものを作り出し、出会った人とは別れ、愛した人や愛したペットとも別れる。そうしたものすべてへの共感、同情は、慈しみであり、悲しみである、これを慈悲という。(OSHOバグワンは、幾つかの例を出して説明しているが、いまひとつしっくり来ない印象。)mercyという言葉もあるが、いっそ悲しみ、命の悲しみの方が慈悲の本質に近いのではないか。
ダンテス・ダイジは、竹富島で自殺した友人の霊に一緒に死んでくれと求められ、直ちに首をくくって死んだ。その時、「その友人の人間の果てにある孤独感を理解した」。それが命の悲しみ、慈悲。
◎感情の浄化-1 友愛
(2021-11-10)
OSHOバグワンは、感情を4区分する。
感情が純粋になれる4つの局面とは、友愛、慈悲、快活さ、感謝。それぞれの反対語である不純な局面とは、憎しみ・敵意、冷酷さ・暴力・不親切、惨めさ・苦悩・不安、恩知らず。
不純な局面は常に外側、外面に焦点を向けているのに対し、純粋な局面は自分の内側から流れ出る。
また純粋な感情は実存の一つの境地、逆に不純な感情は歪み。
以上が感情の全体論。これに対して、局面別の説明が続く。最初は友愛の説明だが、愛と友愛の違いにはあまりこだわっていない。
人生にはごくごく些細なこと、非常にささやかなことが無数にある。この中に友愛と愛の中枢を目覚めさせるチャンスが広がっている。そこで毎日何の見返りも求めないことを一つか二つ必ず実行する。そうすると自分の内側に愛が誕生し、友愛が育っていく。
これは、意識的な愛の行為であり、積み上がっていけば、自分の愛を全世界にまで拡大できるようになる。
マハーヴィーラを引き合いに出して、人は何をするにも無力だし、物質的に与えるものは何もないが、覚者は愛を与えざるを得ない、そうするしか術がない、とする。
以上が友愛の梗概。(参照:ディヤン・スートラ―瞑想の道/OSHO P147-163)
愛あるいは友愛が流れ出すのは厳密に言えば、本人が覚者である場合のみ。ここでは、明らかに未悟者の行う無償の行為、善行を想定している。その証拠に例示は、釈迦、イエス、マハーヴィーラである。
人間は24時間、想念と感情で行為しているが、人としてかそけきチャンスを感じ取りつつ善行を行うチャンスを逃さないのは道の始まりである。
◎思考(マインド)の浄化
(2021-11-07)
現代人のほとんどは金かセックスか権力について始終考えている。これをOSHOバグワンは不純な思考に分類し、この周辺に嘘をつくことや不正をやることが位置するとする。
一方彼は、純粋な思考の焦点とは、真善美だとする。
不純なマインド(思考)のままでは、光明を得られない(悟れない)。
そしてマインド(思考)は、行動の源泉であるから、不純なマインド(思考:金、セックス、権力)は、不純な行動となり、純粋なマインド(思考:真善美)は、純粋な行動となる。
ここで彼は、行動する前にその行動は真善美に沿っているものか考えなさいと言う。だが、素直にそうしようとする人なら、自分は真理が何かを知りもしない、自分は善とは何かを知りもしない、自分は美が何かを知りもしないと感じるものだ。
だが、そのように内省する人は、次第に真理とは何か、善とは何か、美とは何かを知っていることに気づくだろう。
この原理の下に思考を浄化する基本線は、3本。
1.自分の思考の主要な焦点は何かを観察する。
思考はすべて外側からやってくるが、内側にはそれを引きつけ取り込む種子があり、溝がある。その思考は本当に自分の望むものなのか。ゴミである思考を、出入り自由なマインド(頭)のままで貯め込んでいるだけではないか。
2.思考を観察する
常に内側で起こっていることを見つめ、不要な思考は捨てる。何か害になることをするよりも何もしないでいる方がましだ。それでもって不純な思考の識別が容易となる。
3.かそけき純粋な思考に努めて近づく
世の中には無数の不純な思考があり、それは延々と繰り返されるが、その闇の中にかすかだが真善美の純粋な灯がある。それに近づき、身を置くこと。
これを可能とする条件についてOSHOバグワンは、三つ挙げる。
(1)純粋で真正な思考の側にいる。
(2)純粋で真正な人々の側にいる。
(3)空や森など自然の側にいる。
神を盗もうとするやつらでも、「今日はだめだったが、明日はきっと」と思い続ければ、ある日それは起こる、と。
(以上参照:ディヤン・スートラ―瞑想の道/OSHO P117-139)
ここでは、いわゆるポジティブ思考の有用性を呼び水に、連続して発生する想念、思考を識別し、邪なる思考を排除するやり方を説いている。
このやり方では、未悟なる人が真善美を思っても、厳密には、邪の方に分類されるが、それでもそれを継続することが、純粋な思考、真善美への王道たることを示す。
この辺は、初心者が相手の説明というような側面があって、「いつかはゴールにたどり着く」のようなカルマ・ヨーガ的なアプローチを認めている。
だが大衆や冥想修行に疎い人にとって、こうした王道とも言えるアプローチを示しておくことは、その後の更に厳しい修行の隘路にとって助けとなることと思う。たとえ今、時代が切迫しているとしても。
※只管打坐では、浮かぶ思考、想念は相手にしない、捨てる。
誠に、思考(マインド)の浄化の重要性を理解することは大切である。まず知的理解して、冥想に向かう決意を固め、そして坐る。
◎身体の浄化
(2021-11-05)
最初の段階の「身体の浄化」とは、次のようなものである。
1.身体の障害やブロックやしこりをなくする。
2.今の身体の持っているブロックやしこりをとるために、人に見られることのない林の中などで、身体のしたいことをするがままにさせる。それは、想像上の敵を殴ることだったりする。
これにより、古いしこりやブロックを解放し新しいブロックが育たないようにする。
OSHOバグワンは、ここで原理を説明する。まずあなたは怒っているとする。怒りのエネルギーすべてが、(例えば胃や足や両手の)筋肉の収縮に使われていると想像し、怒りのエネルギーすべてを筋肉の収縮に投入する。すると不思議なことに1、2分後には怒りは消えている。
これこそ怒りという心的エネルギーが筋肉の収縮エネルギーに転換されたもの。
この転換の原理を用いたのが、古いブロック・しこりを解放し、新しいブロックを創造的に変容させるということ。多くのヨーガのアーサナの狙いは、この創造的に変容を狙うもの。
OSHOバグワンは、この説明の後半で、やばいことを言っている。身体を創造的に使わないなら、そのエネルギーは呪いとなり、人は自分のエネルギーによって苦しみ、エネルギーは重荷になると。身体を創造的に使わないなら、人は集めたエネルギーのすべてを破壊的に使い、それは地獄への道であると。
以上により、創造的に生きるとは、適度に食べる、適度に運動する、ストレス発散のために適度休息するということから始まるのだ。休息も重要。
以上の彼の説を見ると、当時多摩川の川原で見かけたというダイナミック瞑想の由来を思わせるものがある。またウィルヘルム・ライヒの所説を思わせる部分がある。
グルメで食べ過ぎのエネルギー、何かと貯め過ぎのエネルギーはそのままでは破壊に向かうというのは、今の世相を見れば納得できよう。
現代の冥想修行者は、ストレスで胃をやられがちなのだが、予防のために、また爾後の修行のために身体の浄化、心的エネルギーの創造的転換は誠に重要であると思う。