アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

一言主の神の由緒

2022-10-18 20:28:40 | 修験道neo

◎善事も一言、悪事も一言

 

役行者を伊豆大島に島流しにした勢力は、一言主の神であるが、一言主の神の出自も実に不思議である。これは古事記に出ている話。

 

雄略天皇が葛城山に登った時、お供は紅い紐をつけた青摺り染めの衣服を賜って着ていた。そのときその向かいの山の尾根伝いに山に登る人たちがあり、天皇の行幸と同じ隊列、装束で登ってきた。

 

それで雄略天皇は、「この大和の国に私をおいてほかに大王はないのに、今誰が私と同じ様子で行くんですか」と問うた。すると先方の行列も「この大和の国に私をおいてほかに大王はないのに、今誰が私と同じ様子で行くんですか」と同じ言葉で問い返してきた。

 

それで雄略天皇は、怒って矢を弓につがえ、お供も矢をつがえた。すると向こうの人たちもみんな矢をつがえた。

雄略天皇は、「それでは、まずそちらの名を名乗れ。そしてそれぞれが自分の名を名乗って矢を放ちましょう。」と言った。

 

向こうは答えて「私が先に問われた。だから私が先に名乗ろう。私は悪いことも一言、善いことも一言、言い離つ神。葛城の一言主の大神である。」と言った。

 

雄略はこれを聞いておそれかしこまって、「おそれおおいことです。わが大神よ。この世の方であろうとは存じませんでした。」と言って、自分の太刀や弓矢を始めとしてお供の者が着ている衣服も脱がせて、拝んで献上した。

 

このときその一言主の大神は、手を打ってその献上されたものを受け取った。そして雄略が帰る時、山の麓に一言主の大神一行が集まって、長谷の入口まで送ってくれた。

この一言主の大神はその時に初めて顕れたのである。

 

『善事も一言、悪事も一言、言い離つ神』とは何か。天皇の行列に、わざわざ贈り物欲しさだけで登場してくる高級神霊はまずいない。

 

これは死者の書や臨死体験でよく出てくる、自分の人生が鏡に一連のドラマとして見せられて、次に一瞬で、その人の行く先を地獄、極楽に振り分ける閻魔大王のことではないのだろうか。あなたの一生で為した数々の善事を一言で、また数々の悪事を一言で、計量、評価してみせられるのは閻魔大王しかいないだろう。

 

だから、これは単に奈良の葛城山のローカル神仙のことではあるまい。

 

従って雄略天皇は、葛城山中で神事を行ったところ、閻魔大王のビジョンを見て、恐れ畏しこみ、太刀、弓矢など献上したというのが真相に近いのではないだろうか。

 

これは、大燈国師が花園上皇に召された時に、上皇が「仏法不思議、王法と対座す」と問うたのに対して,大燈国師が即座に「王法不思議、仏法と対座す」と切り返した様子とシンクロしている。

 

後世に一言主の相対的地位は、日本書紀や日本霊異記などで、徐々に天皇より低いものにされていくが、天皇が民間勢力にへりくだるのはまずいという理由があったのだろうが、そもそもはこのようなことだったのではなかろうか。

 

なお、全国の一言主神社は、一言だけ願いを叶えてくれる、人気の神社だそうです。

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