アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

ジェイド・タブレット外典のストラクチャー

2024-06-22 03:15:06 | ジェイド・タブレット外典

《1.出生と乳児》
水平と垂直(冥想十字マップ)

《2.三歳》
 世界的に意識レベルが低下していく時
 終わりの世の意識レベルの低下

《3.思春期の水平の道》
 科挙不合格組、不登校組-1-呂洞賓
 科挙不合格組、不登校組-2-王重陽
 科挙不合格組、不登校組-3-空海
 科挙不合格組、不登校組-4-ダンテス・ダイジ

《4.思春期の垂直の道》

 

《5.青春期以降の水平の道》

 天の露あるいは天の精気-1
 天の露あるいは天の精気-2
 タロットの宇宙
 天の露とオルゴン 

 月の露
 天の露、コエンドロの実
 コリアンダー、パクチー、香菜(シアンツァイ)から天の露
 千利休の一碗の茶の真の味
 丿貫の利休評など

 

《6.青春期以降の垂直の道》
 イエス・キリストができたこと、できなかったこと(薔薇十字団、薔薇色の血の意味)
 イザヤの召命(木の切り株だけ残っても)
 宇宙空間への一時疎開(第三の選択)
 フリーメーソンをどう見るか-1(出口王仁三郎の石屋観)
 フリーメーソンをどう見るか-2(ユダヤ人の七不思議)
 世界統一しようとする動きと国家意識のせめぎあい-1(赤いフリーメーソン)
 世界統一しようとする動きと国家意識のせめぎあい-2(社会主義を沢山加味した宗教)
 超能力についての概説
 予言、予知
 前世記憶-1(本山博、ダンテス・ダイジなど)
 前世記憶-2(過去世を遡上)
 前世記憶-3(未来透視実験)
 前世記憶-4(マイケル・クライトン)

ラビ・レーフの魔術(プラハのユダヤ人マスター))

 空海-1-即身成仏義の偈(帝釈天の網のように世界をフルカバー)
 空海-2-空海と神道(別の高級神霊群との共存)
 空海-3-不空三蔵(政権との結びつき)
 空海-4-空海の仕掛け(同行二人)
 空海-5-国家鎮護―後七日御修法(空海と日本人の安閑)
 空海-6―空海の病気治療と人間観(地水火風の不調と悪霊のたたりと悪いカルマ)

 OSHOバグワンの父親-1(はた目からは大不運を幸運として謝す)
 OSHOバグワンの父親-2(朝3時から6時まで毎日冥想)
 

《7.天国まで》

《8.地獄も超えて》

《9.コーザル体・完全人・両性具有》

《10.垂直上昇への仕掛け》

 オシリスとホルスの神話(父なる神オシリスと神の子ホルス)
 ダンテス・ダイジの人類史観から(シリウスからエジプトへ)
 聖霊の話(二位一体)
 死の世界を扱う技術(死には自我の死と肉体の死がある)
 チベット死者の書の特徴(呼吸停止、心拍停止、肉体離脱)
 究竟次第について(利他、死の修行の非社会性)
  持続するトランス、持続するエクスタシー(サマーディ)(全体と個人の逆転)
  ソーマ・パイロットの言葉(芸術と武道とスポーツと仕事での見神、見仏)

《11.アートマン
  クンダリーニとアートマンの合体(そのものズバリに近いが証明は困難)
  迷いから究極までの段階の数(ケン・ウィルバーのアートマン・プロジェクト)

 {世界樹}
イグドラシル(エッダの宇宙樹) 

わたし自身に我が身を犠牲に捧げて世界を逆転(世界樹に吊り下がっている人間の姿)

視点の転換と世界そのものの転換の違い(世界の転換)

 錬金術の世界樹(その根は高く、枝は下に広がる)

建木=中国の世界樹(影を造ることなく音もない)

閻浮樹(閻浮樹の根には黄金が埋まっている)

 ユダヤの生命の木(五つと五つが向かいあっている)

空海の声字実相義(五大にみな響あり)

  アオウエイの五声(言葉は「道」であり「神」である)

  すべての次元にガイドがいる(ヘルメス、猿田彦命)
  中国の天への階段(崑崙山)

  キリスト教の梯子(人一人が通れるだけの巾の狭い青銅製のはしご)

  ミトラ教の梯子(七つの惑星から情念と性質を受け取る)

  古神道の天の柱(地球の中心火球の黄金柱)

  最初の指と後の指(この指は只の指ではなくて、世界樹である)

 

《12.ニルヴァーナ》

 {タロット・カード}
  愚者と世界(ニルヴァーナから迷いまで)
  前半が生の世界で後半が死の世界(前半が光、後半が闇)
  生の側の10枚(輪廻転生して、人間を卒業する、あらゆる実感を経る)
  11 力(聖音オーム)
  12 吊された男(世界が逆転)
  13 死神(名無し)(身体も心も二つながら共に死ぬ)
  14 節制(至高体験は自発的にやってくる)
  15 悪魔(大悟覚醒の直前に登場)
  16 塔(神の家)(クンダリーニの筒にして錬金術の炉)
  17 星(明星を見る釈迦、空海、日蓮、クリシュナムルティ)
  18 月(水底の世界にも月の光の救済は行われる)
  19 太陽(月と合体して、真夜中の太陽を見る)
  20 審判(永劫)(過去も未来も現在も、現界も霊界も)
  21 世界(おれは神)
  0 愚者(無番号)(神、仏、タオには2つの顔がある)
  22段の生の側の道、死の側の道(前半は顕教的、後半は密教的)

 

《13.冥想自在》

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

22段の生の側の道、死の側の道

2024-06-06 04:53:49 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-12-16

◎悟りへの22段のパス⇒タロット・カード-16

◎前半は顕教的、後半は密教的

 

ユダヤのセフィロト(生命の木)は10球から成り、それを結ぶ22の線はパス(小径)と呼ばれている。ただしこれは、一つの球から8本パスが出たり4本パスが出たりということがあり、22人図としての一本道の悟りへの道の説明にはならない。

 

おそらくタロットの大アルカナを最初に作った人物は、セフィロトの22パスは意識せず、人が悟りへの道をたどる場合のモデルとして一気通貫のイメージで並べたのだと思う。

 

前半の1魔術師から10運命の輪までは、単に迷いの世界ということでなく顕教的な求道の道、すなわち生の世界から道を究めるということがイメージされている。9隠者一人は例外的に密教的だが、現代社会でも辺縁部にそうした人物は存在するものではある。

 

生の側を窮めると死の側を窮めることにもなるというのは、狭義では、キリスト教での観想法主体の求道の究極であり、只管打坐メディテーションの窮極である。

 

淮南子の原道訓に『生を出て死に入るとは無より有にゆき、有より無にゆき、そして衰賤す。この故に清静は徳の至りにして、柔弱は道の要なり』とある。

 

この文では、生と死の区別は問題にせず、生の世界・死の世界共通に流れている基底なる一なるものは清静であり、その性質をいうならば、柔弱であるということか。

これが生の側から死の側をも極めるのイメージ。

 

一方11力から0愚者までは、クンダリーニ・ヨーガ型、つまりユダヤ教的、キリスト教秘教的、西洋錬金術的な求道径路が示される。

11力では、全体の流れとして聖音オームのパワーがあって、12吊るされた男で自分が死(13死神)に、神仏を見るという体験が起こる。

 

この体験を定着安定化させる時期が14節制だが、自分のオープン度がフルオープンになったところで15悪魔が出現。それをクリヤすると16塔で神人合一のステップとなる。

以下は神に対して不退転となったレベルであって、17星で星を望見。18月、19太陽で最終的な両性具有を達成。20審判では、神への最終ストレートである梯子を登り始め、21世界で神人合一を達成する。

 

しかしそれで終わりではなく、言葉では表現できない主、神、ニルヴァーナを0愚者に置いている。

 

タロット・カードは今では絵柄も相当に自由になってしまっているが、神を半ば忘れた中有的なこの500年において、見る目のある人は、神に至る一本道として大アルカナ22枚を見ることを期待して作成されたものと思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

0 愚者(無番号)

2024-06-05 04:55:31 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-12-15

◎悟りへの22段のパス⇒タロット・カード-15

◎神、仏、タオには2つの顔がある

 

21世界は第六身体であって、終着点の第七身体ニルヴァーナではない。そこで0 愚者がニルヴァーナとなる。

人間から見れば、21世界も0 愚者も神仏に相違ない。

 

いわゆる神、仏、タオには2つの顔があり、有の側と無の側である。どちらが奥かと言えば、無の側である。有の側はアートマンであるのに対し、無の側はニルヴァーナである。古代インドなら、アートマン、ニルヴァーナだが、古神道では、有の側が天照大御神と素盞嗚神の事であり、無の側が、天御中主神。出口王仁三郎はニルヴァーナである天御中主神の特性を無形、無声。無限絶対、無始無終の宇宙の大元霊と評す。いわゆる大神とは、無の側の方である。

 

キリスト教の旧約聖書では、天地を創造する以前の神が無の側であり、最初の天地は有の側である。禅の十牛図では、有の側は我であり牛であり、無の側は一円相。このように伝統ある世界宗教には、大概神について、有の側の呼び名と無の側の呼び名があるものだ。

 

ニルヴァーナは、七つの身体でいえば、第七身体であるが、アートマン同様に個別性はなく、人間の側のものでもない。

 

何より言葉で表現できないものであるので、暗喩たるシンボルで指し示すことしかできない。それは禅の十牛図第八図の一円相だったり、大日如来だったりする。また仮に名をつけて、仏教では涅槃であり、禅では無、老子では道、古神道では天御中主神、キリスト教では神、インドではニルヴァーナなどとして、呼び名は異なる。

 

愚者は、トリック・スターである。あるいは、老いたる赤子。図柄では、会陰を犬に刺激されているので、会陰のムラダーラ・チャクラから上昇するクンダリーニを意識させる。

 

トリックスターの特徴は、人間にとって深刻な結果を招くいたずらをすること、世界全体を窮地に陥れる悪意のない嘘をつくことなど。

トリックスターと言われる者は、ギリシア神話のヘルメスであり、北欧神話のロキであり、日本の素戔嗚尊(スサノオノミコト)であり、イエスを裏切ったユダなど。

 

最初は浅智恵からくる悪行に見えるが、その結果は世界全体の悪弊、因習を根底から破壊して、結果として全く新たな新秩序をもたらしていく。

 

この地獄的世界が至福千年に変換していくプロセスを後になって順を追って見てみれば、何人かの悪意なき偉大なトリックスターの行動を検出することができるだろう。

 

あの絶対平和のみろくの世を標榜する出口王仁三郎が、昭和神聖会を組織し白馬に乗って軍事教練みたいなことをやったり、強弓を引いたり。ヘルメスは、人類の未来へのパイロット(水先案内人)にして、人類の帰趨を決めるいたずらを行うトリックスターであるが、クリシュナと現れ、ダンテス・ダイジと現れ、インドの大聖ババジのように人類が危険な時期に差し掛かると先行して登場する。

 

素戔嗚尊は、八岐大蛇に酒を飲ませてへべれけにして討ち取るという品のないやり方をしている。

 

ユダが銀貨30枚でイエスの居場所を教えたのは冗談では済まなかったが、それなくしてキリスト教の栄光の2千年はなかったし、北欧神話のロキが盲目のヘズにヤドリギの矢で、最高にハンサムなバルドルを殺させなければ、世の終りであるラグナロークはスタートしなかった。

 

その一手は小さいが、人類にとって偉大な一手であったことを知るのは、事が成就してからだろう。その毒は小さく見えるが癒しは大きい。

 

そして、なぜ愚者か。次の出口王仁三郎の歌の世界観を正気と見れば、この現代社会で通念とされている法規制、メリット・デメリットなどは、非常識どころか、狂気・妄想のようなものだからである。クンダリーニ・ヨーガ系の西洋錬金術、密教、道教、古神道などの世界観は、一定の深度に達すると非公開になっていたり、難易度の高い暗号文書みたいになっていたりする。

 

耳で見て目できき鼻でものくうて 口で嗅がねば神は判らず

 

耳も目も口鼻もきき手足きき 頭も腹もきくぞ八ツ耳

(出口王仁三郎)

 

愚者は、第七身体、ニルヴァーナに相当する。だから無番号である。

 

ニルヴァーナの「何もかもなし」の側面について、ここでは聖書と釈迦と一休を挙げる。

 

『今から後、主の中に死ぬ死人はさいわいである』(ヨハネの黙示録14:13)

主の中に死ねば何もかもなし。

 

『わたしは父から出てこの世にきたが、またこの世を去って、父のみもとに行くのである』(ヨハネによる福音書16:28)

生まれる前も死んだ後もなにもかもなし。

 

釈迦は、感興の言葉(ウダーナヴァルガ)の第二十六章安らぎ(ニルヴァーナ)で何もかもなしを敷衍する。

『二三

それの出離であって、思考の及ばない静かな境地は、苦しみのことがらの止滅であり、つくるはたらきの静まった安楽である。

 

二四

そこには、すでに有ったものが存在せず、虚空もなく、識別作用もなく、太陽も存在せず、月も存在しないところのその境地を、わたしはよく知っている。

 

二五

来ることも無く、行くことも無く、生ずることも無く、没することも無い。住してとどまることも無く、依拠することも無い。―――それが苦しみの終滅であると説かれる。

 

二六

水も無く、地も無く、火も風も侵入しないところ―――、そこには白い光も輝かず、暗黒も存在しない。

 

二七

そこでは月も照らさず、太陽も輝かない。聖者はその境地についての自己の沈黙をみずから知るがままに、かたちからも、かたち無きものからも、一切の苦しみから全く解脱する。

 

二八

さとりの究極に達し、恐れること無く、疑いが無く、後悔のわずらいの無い人は生存の矢を断ち切った人である。これがかれの最後の身体である。

 

二九

これは最上の究極であり、無上の静けさの境地である。一切の相が滅びてなくなり没することなき解脱の境地である。』

(ブッダの真理のことば・感興のことば/岩波文庫P243-244から引用)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最初の指と後の指

2024-06-05 04:37:59 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-11-17

◎世界樹-15

◎この指は只の指ではなくて、世界樹である

 

『倶胝和尚は、質問を受けると、いつもただ指一本を立てた。

 

ある時、外来の客が一人の少年僧に対して「ここの和尚はどんな法を説くのだ」と尋ねてきた。

すると少年僧は間髪を入れずに指を一本立てた。

 

これを聞きつけた倶胝和尚は、くだんの少年僧を呼びつけて、その指を刃で切り落としてしまった。

少年僧は、突然のことで、痛みと驚きで号泣してその部屋から走り去ろうとした。

 

倶胝和尚は、「ちょっと待て」と少年僧を呼び止めた。

少年僧が和尚に首を向けた瞬間、指を1本にゅっと出してみせた。

 

少年僧は、忽然として大悟した。』

これは無門関第三則にある話。

 

この指は只の指ではなくて、世界樹である。その一本の中に生の世界も死の世界も三千世界もあらゆる宇宙も含まれている。この指一本で世界は逆転した。

 

児童虐待などということではなく、ちょんぎられた指でこうした世界の倒立を見られるならば、夕べに死すとも可なり。

この童子は指一本だが、達磨の弟子の慧可は腕一本で、などと数えることに意味はない。これは手荒な作法だというコメントもあるだろうが、これを手荒というならば、先ごろの津波は人為ではなく神威だけれども、津波も手荒と言わざるをえないだろう。

童子でありながら大悟できる精神の熟成度が実にCoolである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

21 世界

2024-06-04 04:50:34 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-12-14

◎悟りへの22段のパス⇒タロット・カード-14

◎過去現在未来の万物のすべての実感を生きる

◎おれは神

 

既に12吊るされた男で見神、見仏を経て、15悪魔の誘惑も退け、16塔からは、善の側に不退転となった。生きる姿そのものが、善だけを行い悪を行わない姿(諸悪莫作衆善奉行)となった。

 

17星では、悟りの確証の体験として星を得て、18月、19太陽で、太陽と月の合体により完全無欠の両性具有を達成した。20審判では、個なる自分は、世界全体、宇宙全体、すなわち神に向かって最後の一歩を踏み出すが、まだそこには届かない。

 

21世界で届いたが、そこは七つの身体論で言えば第六身体アートマン。

神には、有の側と無の側があって、有の側がアートマン。アートマンは既に人間の側のものではない。現象全体をまとめたすべて一つながりの一なるもの。

アートマンとは本来の自分であり、本来の自己であり、本尊であり、聖杯であり、月であり、月輪であり、鏡である。そして、不死であり、永遠であり、腐敗しない、不壊であり、滅想定である。

アートマンは、物質と精神、時間や空間を含めた現象の側の全体としての呼称であり、シンボルとしては女性や太母や大地や牛や猪などが当てられる。

カモワン・タロットの図柄は、茅の輪くぐりのような宇宙卵。天上天下唯我独尊の彼女の腰布は両性具有を隠している。有の側だから四方守護の高級神霊が見えている。

 

人間は、悟りを求めて苦闘するのだが、神なしでは人間ドラマは起こらず。神だけでも人間ドラマは始まらない。

21世界とは、自分は個人間であって、かつ過去現在未来の宇宙の万人万物、生物無生物のすべてである実感に生きる。

 

その辺の感覚が現代語で端的にわかる詩がある。ダンテス・ダイジの詩2篇。

『【何と人間らしいことか】

 

人間を越えようとする

意味づけることのできぬ永劫の情熱

それがいつ人間性の極限をもつき破って

無時間の神秘を実在せしめたのかは

誰も知ることがない

 

死を初めから超えていた情熱が

すべてを忘れた炎となって燃える

一つぶの雨滴にもかじりついて号泣し

そしてまた泥沼の中に浸り切る

もう時間も現象も神秘さえもいらない

いのちが いのちの中に完結している完結をも忘れて

何と人間らしいことか

何と人間らしいことか 』

(絶対無の戯れ/ダンテス・ダイジP13から引用)

 

さらに

『【おれは神】

 

おれは神

あらゆる人間達が片時も忘れず

おれを求め続け そして生きている

おれの眼の前の灰皿を

おれは

あらゆる政治や文化や思想よりも

何兆倍も魂をこめて

産み出した

おれの指の動きの一つ一つが

銀河系宇宙や

その他のあらゆる宇宙を

粉微塵にしては又こねあげる

でもそんなことより

おれはあの小学生の女の子の自殺を

もっともっと愛している

 

百姓のおおらかな生活に憧れた青年が

幾年もの作物づくりに疲れ果て

希望も生気も失なった中に

おれは限りない希望と生気となって実在する

 

おれは神だから

何ものにも頼ることがないなどと

変な意地をはって

パン屋からヌードスタジオへと

勤め変えをしながら

おれを愛し続けてくれた女房を

だいなしにして自殺させてしまった

そしておれは神だから

女房がどんなに神だったかを

死なれたあとに気がついて

おろおろするばかりだ

おれの胸には大きな風穴があいて

その風穴から

無限宇宙をいつでも眺めることができるのに

神なるおれは神が嫌いで

胸の風穴を

酒と薬とでうめようとする

 

おれは神

いまだかつて一度たりとも

面と向って正々堂々と

人間の顔を見たことがなく

すずめの鳴き声を聞いたことがなく

太陽も月も星も見たことがなく

アイスクリームを本当に食べたこともない

 

おれは神だから

冷汗をかきながらすべての人々と話し合い おれは神だから

終わりのない愛ですべての人々を包む

おれは神だから

 

酔っぱらいが大声で叫び

おれは神だから

あるいは高笑いあるいは泣きくずれ

道のどまんなかでヘドとクソをたれ流す

おれは神

欲望にかられて女のすべてを欲しがるもの 神を求めて求めてやまないもの

ヒマラヤの洞くつなんぞ

一軒のマージャン屋にも

価しないにもかかわらず

坐禅冥想のあらゆる終りを

洞くつの中で楽しみ続けるもの

おれは神

 

おれの女房が中絶した胎児を

神なる看護婦が

アルコールづけにしたビンを持ってきた時

あほうづらをして眺めることしかできぬもの

冷たい雪山の中でストーブのぬくもりを求め

砂漠の只中ではションベンをさえ飲むもの

おれは神だから

 

求道生活を馬鹿にしてあざけり笑い

おれは神だから

湖に映った月の影のように

何よりも求道生活に精進する

聖者という俗人が

迷いと悟りを分けたばかりに

悟り好きの求道者は

悟りに到る様々な道を

もの狂おしくたどり続ける

そのあげくにおれが神であるばかりに

悟りという迷いを開いて喜ぶ

 

おれは売春婦という神だから

あの十七才の少女のように

一日として男がいなくちゃいられない

一切万物の幸福好きもこまったものだ

これもあれもみんな神なるおれの責任だ

おれは神

 

一ぱいのお茶をやさしく友人に出す

釈迦やキリストやクリシュナや老子などと いう

ニセ者が出たばかりに

世も末だ

おまえは神だからおまえを生きろ

おれは神だからおれを生きる

ヒマを持て余したおれは

やれ文明の没落だの

やれ宗教だ哲学だなぞと言い張り

ヒマを持て余したおれは

神だ神だと言い張る

ヒマを持て余したおれは

のどかな田園風景や

輝く陽光と銀色の海を愛し

 

よせばいいのにあそこのキャバレーで

女の子を口説き出す

そして神なるおれは

ヒマを持て余しているから

よせばいいのに神そのものであり続ける

 

おまえにはおまえの惚れているものがあり

おれには、 おれの惚れているものがある

おれは人間として必死に

今死にゆく癌患者の手を握り

処世の達人なぞ遠い妄想にすぎない

今までにおまえは

一瞬でも本気になったことがあるか

ありはしまい

なにしろおまえは神なんだから

おれはいつもいつも正真正銘の本気だ

なぜならおれは神なんだから

 

おれは四六時中ウソばかりついている

神だからだ

おまえは四六時中真実でいる

おまえが神だからだ

おれは神

おれの孤独を何とかしてくれと

叫び続けるもの

おれは神

 

さびしさなんぞどこ吹く風

絶対なる幸福なんぞにひっかかるなよ

おれ達は神なんだから

絶対なるこの幸福を戯れよう

おれ達は神なんだから

おれは神

蜜よりも甘い甘えで甘えるもの

おれは神

一沫の甘えも弱さも持たぬもの

おれは神

弱くて軟弱なめめしい生きもの』

(絶対無の戯れ/ダンテス・ダイジP25-33から引用)

 

人が神を生きる場合、他人もあなたも神である。彼が人間を生きる場合、みじめで情けない人間の弱さも知っていて、一沫の甘えも弱さも持たないが、同時にすべてを許す愛も持っている。さらには恒星惑星の運行も支配し、天候の操作などお手のもの。またヒマを持て余して悪さをする人のことも知っているし、あらゆる不幸に見舞われつつも真摯に生きたヨブのことも知っている。

有の側を生きるということはそういうことなのだろうと思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

古神道の天の柱

2024-06-04 04:39:13 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-11-16

◎世界樹-14

◎地球の中心火球の黄金柱

 

さし絵は、キリスト教のヨアンネス・クリマコス(579年-649年)の最後の審判の梯子。いまや天上に昇らんとする多くの篤信者をこれでもかこれでもかといわんばかりに引きずり下ろす一群の黒い者がいる。

 

これと似た雰囲気の天の梯子、いや天の柱が出口王仁三郎の霊界物語にある。

これは、地球の中心火球(中心太陽、宇宙意識、ニルヴァーナ、神、仏、道のこと)の吹き上がる金気の威徳をパワーとして国の御柱がある。その天辺が二つに分かれて、左が男神の渡る橋、右が女神の渡る橋となっている。

この橋は黄金の丸木橋であるとされるが、そのものずばりで、葦の茎の如き黄金のクンダリーニの表象である。日本では古来、人のことを神柱と美称するが、この黄金柱こそ国の柱であり、神柱であった。

よって、霊界物語のこの段は、出口王仁三郎版の「クンダリーニ上昇の秘儀」たるパートであるが、やはり世界樹の全体像がクンダリーニの世界展開であるという基本イメージに沿っている。

 

さて霊界物語第五巻の24章天の浮橋の段から引用。

『眼を開けば今度は最高点の黄金橋の上に引き揚げられてゐたのである。まづ安心とあたりを見れば、国姫神は莞爾として四五の従神とともに吾前に現れ、

 

『この橋は黄金の大橋といひ、また天の浮橋ともいひ、地球の中心火球より金気昇騰して顕国の玉となり、この玉の威徳によりて国の御柱は中空に高く延長し、その頂上は左右に分れ、左は男神の渡るべき橋にして、右は女神の渡る橋なり、この黄金橋は滑にして、少しの油断あらば滑りて再び地に顛落し、滅亡を招くの危険あり。

汝は抜身の中に立つごとく心を戒め、一足たりとも油断なく、眼を配り、耳を澄ませ、息を詰め、あらゆる心を配りてこの橋を東方に向つて渡れ。また此橋は東南西北に空中を旋回す、その旋回の度ごとに橋体震動し、橋上の神人は動もすれば跳飛ばさるる恐れあり、また時には暴風吹ききたつて橋上の神人を吹き落すことあり。

欄干もなく、足溜りもなく、橋とはいへど黄金の丸木橋、渡るに難し、渡らねば神の柱となることを得ず、実に難きは神柱たるものの勤めなり』

と言葉嚴かに云ひ渡された。

王仁は唯々諾々として其教訓を拝し、東方に向つて覚束なき足下にて、一歩々々跣足のまま歩を進めた。』

いつの間にかこの橋を渡りきった出口王仁三郎の身は、天教山(富士山)の山頂に、神々とともに停立していたのだが、天教山は頭頂(泥丸)サハスラーラ・チャクラのシンボルである。

男女に分かれた橋が統合されるのは、エドワード・メートランドの見たキリストの二重性、男女の統合と同義である。

ヨアンネス・クリマコス(579年-649年)の最後の審判の梯子と、この古神道の黄金橋では、バックグラウンドの描写こそ違うものの、シチュエイションは似たようなものである。アセンションの梯子または黄金橋にとりついたものの、不心得のある者は次々に滑落していく。

 

さて我々はふつつかなれど、神の柱となれるのだろうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

20 審判(永劫)

2024-06-03 04:40:34 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-12-13

◎悟りへの22段のパス⇒タロット・カード-13

◎過去も未来も現在も、現界も霊界も

 

20審判は、次の21世界なる神との一体化直前のステイタス。21世界は、七つの身体で言えば、第六身体であるアートマン。

 

最後の審判は、現界で起こるわけではなく、霊界で起こる。世の中のあらゆる物事は、まず先に霊界で発生して、その後現界で起こる。

※世の終わりの大筋は、何十年も前に霊界で起きており、ディテールの一部が決まっていないだけという見方はある。

 

さて個なる自分と世界全体が合一することを想像すると、世界の側にはあらゆる他人が居て、生きている人は勿論死んだ人もいる。そこで、最後の審判ではあらゆる死んだ者も生き返り、チャンスを与えられるという話になる。

カモワン・タロットの20審判の図柄の十字の旗は、過去も未来も現在も、現界も霊界も含む世界全体を示す。ダンテス・ダイジも冥想十字マップで十字を用い、出口王仁三郎も十曜の神紋という十字を使う。

最後の審判の実際の雰囲気は、霊界裁判所で閻魔大王を前に被告人として裁判が行われるというようなものではなく、各人が自ら進んで天国行きか地獄行きかを判断していくものであると、出口王仁三郎が以下のように説明している。

『キリストは、最後の審判を為す為めに再臨すると云つたが、彼の最後の審判と云ふのは、火洗礼を施す事の謂ひである。彼は火洗礼を施さんとして、其偉業が中途にして挫折したため、再び来つて火の洗礼を、完成せんと欲したのである。

 火洗礼とは、人間を霊的に救済する事であると云ふ事は、既に我弟子達の周知の事である。最後の審判は、閻魔大王が罪人を審くと同様なる形式に於て行はるると、考へて居る人が多いやうだが、それは違ふ。天国に入り得るものと、地獄に陥落するものとの標準を示される事である。此標準を示されて後、各自はその自由意志によつて、自ら選んで天国に入り、或は自ら進んで地獄におつる、そは各自の意志想念の如何によるのである。』

(出口王仁三郎随筆集「水鏡」【霊界物語は最後の審判書なり】から引用)

 

出口王仁三郎は、この標準とは、大正時代に公開された霊界物語だから、最後の審判は、とっくにスタートしているのだと述べる。同様にバイブルに「又天国の、此福音を万民に、證せん為めに、普く天下に宣べ伝へられん。然る後末期いたるべし」とあることを示し、既に世に標準が示されたから最後の審判が来ることも聖書に出ているとする。

 

ノストラダムスのアンリ2世への手紙に『大惨害の時代の直前に、多くの見慣れぬ鳥が空中をさえずり、「今だ、今だ」と叫び、しばらくしていなくなる。』とある。

 

さてキリスト者にとって、最後の審判についてわかりやすいイメージと言えば、天国に至る梯子のイメージ。

1.ローマ時代の22歳の女性殉教者ペルペトゥアは、闘技場で牛の角で突かれた後に剣で命を落としたのだが、彼女の最初の幻視は、人一人が通れるだけの巾の狭い青銅製のはしごが天まで達しており、梯子の下には巨大な龍がいたというもの。

 

また、「アイオーン/CGユング/人文書院」の挿絵によれば、ローマのカタコンベの中のカルビナ墓所の壁画には、梯子を登る人(僧?)の絵があり、梯子の下には蛇がいる。

 

この2つの例をみると、龍ないし、蛇はムラダーラ・チャクラに鎮座するクンダリーニであって、梯子はその上昇ルートであるエネルギー・コードであることが容易に見て取れよう。

 

2.創世記第28章12節で、ヤコブが天の梯子を見た。「そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。 その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。」

地上から梯子が伸びるのではなく、神の側から地に向かって梯子が伸びているというのが、いかにも自我未発達な時代の古代秘教的精神の特徴をうかがわせる。ヤコブは上から見ている。

 

3.エドワード・メートランドの神の幻視『私は最初、一つの体系の周辺部から中心点に向かって長い梯子を昇っているような感じをもったが、その体系というのは、私自身の、太陽系の、そして同時に宇宙の体系でもあった。

この三つの体系は異なっていながらしかも同一であった。・・・・やがて私は最後の努力をふりしぼった。

・・・・・私は私の意識が放射する光線を、望みどおりの焦点に合わせることができた。その瞬間、突然点火によってすべての光が一つに融合したかのように、すばらしい、形容しがたい輝きを帯びた白い光が私の前に立った。』

(黄金の華の秘密/ユングとウィルヘルム/人文書院から引用)

メートランドは、この後で白い光の正体を見ようと試みた。

 

世界全体を天国あるいは天と表現するのは、教義体系に添わせるためにはあり得ることである。また中国にも天に至る柱として、建木や扶桑がある。

 

この20審判は、まだ21世界には届いていないのだ。

 

ここで、自分が死ぬことはかまびすしく言われるが、自分のいた宇宙や世界も同時に死ぬということを忘れてはならない。一方で、世界と合一するということは、生きているあらゆる人々の実感およびこれまで死んだあらゆる人々の実感を体験するということなので、地獄の釜の蓋が開いて彼らにも最後のチャンスがあるのだということが言われる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ミトラ教の梯子

2024-06-03 04:27:59 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-11-15

◎世界樹-13

◎七つの惑星から情念と性質を受け取る

 

キリスト教以前にもエスカレーター、梯子のイメージが存在する。

ミトラ教では、霊魂はまず天上界に住み、その後肉体に閉じ込められることになって地上に降下する際に、霊魂は星辰界を通過するが、その時七つの惑星から、それぞれの情念と性質をうけとるものとされた。これが梯子であり、階梯である。

『その天界は、それぞれ一つの惑星に該当した七つの帯に区分された。八つの連続した門から成る一種の梯子があり、その最初の門は、七つの異なった金属で造られ、神殿の中では恒星のある最高区域に達するために辿る道程を象徴していた。(中略)

 

霊魂はこうした様々な圏域を越えていくにつれて、それが地上に下りてくる時に受け取った情念と能力をあたかも着物を脱ぐように脱ぎ棄てた。

すなわち月では生命力と養分の活力を、水星では強欲な傾向を、金星では性欲を、太陽では知的な能力を、火星では好戦的な血気を、木星では野心的な願望を、土星では怠け心を棄て去ったのである。

霊魂は裸になり、あらゆる悪徳や感情を取り除かれてから第八の天に入り、そこでは崇高な実在となって、神々が住む永遠の光の中で終わることのない至福を享受した。』

(ミトラの密儀/フランツ・キュモン/平凡社p105-106から引用)

 

ミトラ教では、七つの階梯の先で宇宙を飛び出したところに永遠の光があることが明示されている。これは、クンダリーニ上昇プロセスを象徴する。

このようにキリスト教もミトラ教も、梯子を通過して窮極に至るというビジョンを基本としていることから、クンダリーニ・ヨーガ型の霊魂の進化体系をビジョンとして持っていることがわかる。

興味を惹かれたのは、ミトラの役割である。ミトラは、死後の霊魂の審判役であり、天上界への上昇における信者たちの案内役である。天上からの道案内をしたのは猿田彦やヘルメスだったので、その役割はミトラと同じである。

猿田彦の庚申塔が現代になっても、日本の辻々にしっかり残って密かに信仰を受けているのは、猿田彦こそが、人間の進化のキーパーソン(キーゴッド?)であり、かつどこにでもいて、どこからでも悟りに至り得るというメッセージを携えているのだと思い当たった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

19 太陽

2024-06-02 06:33:04 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-12-12

◎悟りへの22段のパス⇒タロット・カード-12

◎月と合体して、真夜中の太陽を見る

 

月の次は太陽。この太陽は中心太陽のことでなく、月とペアで機能する太陽のこと。なぜならカモワン・タロットの絵柄において男女が契りを結んでいるからである。

古事記で言えば、月とは素盞嗚(スサノオ)神の瑞霊で、太陽とは天照皇太神の厳霊。この世界を席巻する近代西欧文明は、アポロン型文明であって闇は駄目で光一辺倒の太陽偏重の文明であって、(母なき)父なる神を主と仰ぐキリスト教がバックボーンにあり、これまた太陽を偏重し、母なる月の扱いは低い。黒い聖母像などはまま子扱いである。

これに対し、古神道は古事記において天の安の川原で、太陽たる天照大神と月たる素盞嗚尊が誓約し合い、その太陽と月の合体により完全無欠にして両性具有の伊都能売(いづのめ)神が生まれた。この点で古神道は、バランスの良さを見せている。

 

次に真夜中の太陽を見る話。

ろばになったルキウスは、真夜中の太陽を見て人間に戻ることができた(黄金のろば/アプレイウス)という逸話の他に中国道教の太乙金華宗旨にもそのシーンがある。

『三更 (午前零時)に、日輪がまばゆい光を放つ。』は、修行者にとっての第二のステップ。OSHOバグワンの説明は、第一ステップで中庸に居ることに集中していると、肉体と心を同時に見ることができるようになり、それを見ている自分に気づく。見ている自分とは魂のこと。見ている自分で見守ることに専念していると、突然真夜中に太陽が上がり光輝くように、内も外も光で満たされ、全存在が燃え上がる。

 

昨今ハタ・ヨーガをやる人の中には太陽礼拝をやる人が多いが、月輪礼拝もやらないと片手落ちかもね。

 

中国にも世界樹、生命の木、哲学の木がある。建木である。これにも太陽が登場する。淮南子・地形訓の崑崙山の段、『建木は都広に在り、衆帝の自(よ)って上下する所。日中無景(影)にして呼(さけ)べども響きなし。蓋し天地の中なり。』

(世界樹は、大地の中央にあって、神々はここを昇降する。太陽の南中する時刻のように影を造ることなく、音もない。これぞ天地の中心である。)

 

これは、キリスト教にも霊界物語でも見かける天の梯子のイメージ。アセンションで通って行くところ。しかし、更に意味深長なのは、日中無影にして、呼(さけ)べども響きなしのところ。目に見える風景が動かず、かつ音がない世界。

これは、時間が止まった世界のことである。時間を止めるというのは、ヤキ・インディアンのドン・ファン・マトゥスが好んで使った表現。時間を止めるとは想念が停止すること。そこではじめて世界の中央となる。今流行の『今ここ』とは、本来このレベルを指すものと思われる。

 

世界樹は根と枝に別れる。人間に当てれば根が頭であり、枝の方が足となり、日常意識の立ち姿とは転倒している。これはタロットの吊るされた男のスタイルでもある。また、この死の世界に頭を突っ込むイメージは、死の世界が生の世界より広いことも表している。

 

また山海経の海外東経にも建木の別名の扶桑についての記述がある。これは、扶桑には10個の太陽が沐浴するところであり、9個の太陽は下の枝にあり、一個の太陽が上の枝にいる。10個の太陽は10チャクラ。上の枝の太陽はサハスラーラ・チャクラにあたり、別格であることを示す。

 

パタンジャリのヨーガ・スートラ3.32『頭の王冠の下の光についてサンヤマを行うことによって、すべての完璧な実在にコンタクトすることができるようになる』

3.33『そうでなければ、照明(Pratibha)によってもすべてのことを知ることができる』

『すべての完璧な実在』とは、第六身体アートマン。『サハスラーラで、サンヤマすれば、アートマン』とは、暗号みたいな表現だ。

ここでもOSHOバグワンは、太陽と月との関連を指摘している。彼は、pratibhaについて、まず、

『太陽は知性で、月は直感。あなたが両方を超越するとき、pratibhaが来る』とし、

『プラティバとは、エネルギーが知性と直感の二重性を超えた時を意味し、それは両方を超えている。直感は知性を超えているが、プラティバはその両方を超えている。

今やそこに論理的つながりはなく、すべてが永遠に明らかになり、全知、全能、遍在となる。過去、現在、未来のすべてが同時に明らかとなる。』

(出典”Yoga: The Alpha and the Omega, Vol 8”から)

 

よく西洋の錬金術やチベット密教で太陽と月の並列シンボルを見たり、太陽男と月女の合体図を見たりするが、要するにプラティバのことなのだろう。

曼荼羅は両界そろってプラティバ(出口王仁三郎は、金剛界は男、胎蔵界は女と見る)。

 

二元性以外の太陽シンボルについては、いさかか霊がかり気味の話だが、以下のようなものもある。これはタロットとは無関係ではあるが・・・。

 

古い中国道教でも太陽南中時を多用するということがある。この時刻を「日中」と呼ぶ。

 

太陽南中時に服餌(薬草のたぐいを食す)したり、この時刻に神霊から経典を受け取ったり、高級神霊が降臨したり、薬物の採取も、呪符や、道具の製作も・・・・・。吉日の選定には丙午、庚午などの午日を選び、時刻には、太陽南中の直前か、太陽南中時を選ぶ。

 

この時刻には地上のものは、最も生き生きと活発に活動し、エネルギーが横溢しているだろうから。ことに大気中のプラーナは最も活性化している時間帯だろう。・・・・

 

さらに陶弘景の弟子の周子良のところに高級神霊である趙威伯が出現したのは、515年の夏至の日の、もう少しで太陽南中する刻限のことであった。このことがあってから、周子良は一人で部屋にひきこもり、毎日「日中(正午)」に一升の蜜餐をとるだけであったという。

 

また239年の正月一日の日中に、葛玄は、太上老君(老子)から千真科戒を伝授され、また244年8月15日の日中、仙人BGMが流れ、大勢の仙人たちのお迎えが壇に降下して待つ中、太上玉京太極左官仙公として、仙界に召された。

 

143年正月7日の日中に、五斗米道の開祖張道陵は、太上老君(老子)から二十四治(五斗米道の組織)を授けられた。

(参考:中国古道教史研究/京都大学人文科学研究所/吉川忠夫編)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

キリスト教の梯子

2024-06-02 06:24:22 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-11-14

◎世界樹-12

◎人一人が通れるだけの巾の狭い青銅製のはしご

 

キリスト教の世界では、梯子を昇って天上に至るビジョンがしばしば語られる。梯子は世界樹のデフォルメの一つである。まず天上へのビジョンを見てみよう。

 

1.ローマ時代の22歳の女性殉教者ペルペトゥアは、闘技場で牛の角で突かれた後に剣で命を落としたのだが、彼女の最初の幻視は、人一人が通れるだけの巾の狭い青銅製のはしごが天まで達しており、梯子の下には巨大な龍がいたというもの。

 

2.「アイオーン/CGユング/人文書院P327」の挿絵によれば、ローマのカタコンベの中のバルビナ墓所の壁画には、梯子を登る人(僧?)の絵があり、梯子の下には蛇がいる。

 

3.創世記第28章12節で、ヤコブが天の梯子を見た。「そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。 その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。」

地上から梯子が伸びるのではなく、神の側から地に向かって梯子が伸びているというのが、いかにも自我未発達な時代の古代秘教的精神の特徴をうかがわせる。ヤコブは上から見ているのだ。

 

4.エドワード・メートランドの神の幻視『私は最初、一つの体系の周辺部から中心点に向かって長い梯子を昇っているような感じをもったが、その体系というのは、私自身の、太陽系の、そして同時に宇宙の体系でもあった。

この三つの体系は異なっていながらしかも同一であった。・・・・やがて私は最後の努力をふりしぼった。

・・・・・私は私の意識が放射する光線を、望みどおりの焦点に合わせることができた。その瞬間、突然点火によってすべての光が一つに融合したかのように、すばらしい、形容しがたい輝きを帯びた白い光が私の前に立った。』

(黄金の華の秘密/ユングとウィルヘルム/人文書院P61-62から引用)

 

メートランドは、この後で白い光の正体を見ようと試みた。

 

『その力は非常に強くて、私は突き倒されそうになった。・・・・・この光をこれ以上探求することは、無用であると感じはしたものの、私はもう一度たしかめてみることにした。

それはほとんど私を盲目にせんばかりだった輝きを貫き通して、その中に含まれているものを見たかったからである。

・・・大変な苦労の末、私はやっと成功した。私がそこにあるにちがいないと感じていたものが現れてきた。・・・・・それは御子[キリスト]の二重性であった。

・・・・隠れていたものが明らかになり、定義できないものが定義され、個別化できないものが、個別化されたのである。

主なる神はその二重性によって、神は実体であるとともに力[作用]であり、愛であるとともに意志であり、女性的であるとともに男性的であり、母とともに父であることを示していたのである。』

(上掲書P61から引用)

 

メートランドは、梯子の先にイエス・キリストを見た。キリスト教でいう空中携挙、つまり最近話題のアセンションの梯子の先には御子イエスがお待ちになっているわけである。二重性には言及できているが、私は神であったことに気がついたとまでは言えていないので、見ている自分を残しているのだろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

18 月

2024-06-01 04:43:47 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-12-11

◎悟りへの22段のパス⇒タロット・カード-11

◎水底の世界にも月の光の救済は行われる

カモワン・タロットの18 月の図柄では、天の露が降っているので、既に不退転の善の側に居て、大吉祥。

 

月と言えば、自らの号を瑞月と称していた出口王仁三郎の説明が詳しい。出口王仁三郎は、教団本部内に破壊されることのないように石で” 月宮殿” を建立したが、二度にわたって官憲により徹底的に破壊された。月宮殿とは、弥勒さまを祭る宮だが、みろくの世(地上天国)にならなければ、月宮殿もさびれる一方で、今はむじなやイタチが住み家にするほど寂しく荒れ放題。

『人間の運命にも栄枯盛衰がある。潮にも満干がある。此宮さまは今は干潮時ぢや。それだからかう見窄らしく荒廃して居るのだ。之でも五六七の世に成れば、此お宮は金光燦然として闇を照し、高天原の霊国にある月宮殿の様になるのだが、何程結構な弥勒さまのお宮でも時を得ざればこんなものだ。信真の徳の失せたる世の中の姿が遺憾なく此お宮に写されてあるのだ。嗚呼如何にせんやだ』(霊界物語第21巻第3章月休殿から引用)

 

そして出口王仁三郎の太陽と月の位置づけは、

厳霊とは至厳至貴至尊にして過去、現在、未来に一貫し、無限絶対無始無終に坐ます神であって、霊界では“太陽”。

瑞霊とは現界、幽界、神界の三方面に出没して一切万有に永遠の生命を与へ歓喜悦楽を下し給う神であって、霊界では“月”。

『高天原の総統神即ち大主宰神は大国常立尊である。又の御名は天之御中主大神と称へ奉り、其霊徳の完全に発揮し給ふ御状態を称して天照皇大神と称へ奉るのである。そして此大神様は厳霊と申し奉る。厳と云ふ意義は至厳至貴至尊にして過去、現在、未来に一貫し、無限絶対無始無終に坐ます神の意義である。さうして愛と信との源泉と現れます至聖至高の御神格である。さうして或時には瑞霊と現はれ現界、幽界、神界の三方面に出没して一切万有に永遠の生命を与へ歓喜悦楽を下し給ふ神様である。瑞と云ふ意義は水々しと云ふ事であつて至善至美至愛至真に坐まし且円満具足の大光明と云ふ事になる。

 

又霊力体の三大元に関聯して守護し給ふ故に三の御魂と称へ奉り、或は現界、幽界(地獄界)、神界の三界を守り給ふが故に三の御魂とも称へ奉るのである。要するに神は宇宙に只一柱坐ますのみなれども、其御神格の情動によつて万神と化現し給ふものである。さうして厳霊は経の御霊と申し上げ神格の本体とならせ給ひ、瑞霊は実地の活動力に在しまして御神格の目的即ち用を為し給ふべく現はれ給うたのである。故に言霊学上之を豊国主尊と申し奉り又神素盞嗚尊とも称へ奉るのである。さうして厳霊は高天原の太陽と現はれ給ひ、瑞霊は高天原の月と現はれ給ふ。故にミロクの大神を月の大神と申上ぐるのである。ミロクと云ふ意味は至仁至愛の意である。』(霊界物語 第48巻12章 西王母から引用)

※高天原は天国の下にある霊国の一部。

 

西洋錬金術の逃げるアタランタでは、太陽と月の関係は、エンブレムXXXで『太陽は月を必要とする。雄鶏が雌鶏を必要とするように』と謳われ、続く寸鉄詩では、『太陽よ、わたしの援けなしにあなたは何もなし得ない。

雌鶏なしには雄鶏も無用なように。

わたし、月もあなたの援けを乞う。

雌鶏が大きな鳴声で雄鶏を呼ぶように。

自然本性が結びつけようとするものを、どうして 引き離すことができるなどと考え得るだろう。』

(逃げるアタランタ/M・マイアー/八坂書房P271から引用)

これでは、漠然としすぎている。

 

道教の呂洞賓は、いよいよ呼吸が停止し心拍が停止する。するとこれが真の合体であり、「月が無数の水面を吸引する」(月満水を涵(ひた)すなり)と描写する。これも水面上の月の大秘儀。

 

カモワン・タロットの18 月の図柄では、二本の塔が立ち、奥に更に至聖所があることが想定される。霊界物語でも月宮殿のある月照山とは別に至聖所が存在している。

 

また二匹の犬が月に向かって吠えている。これは、出口王仁三郎が、月=ミロクに関して以下のように述べているが、犬(のような人)がいくら月に向かって吠えてもミロクをわかるまいと言っているように思う。

『ミロクと云ふ意味は至仁至愛の意である。さうして其仁愛と信真によつて、宇宙の改造に直接当らせ給ふ故に、弥勒と漢字に書いて弥々革(あらた)むる力とあるのを見ても、此神の御神業の如何なるかを知る事を得らるるのである。善悪不二、正邪一如と云ふ如きも、自然界の法則を基礎としては到底其真相は分るものでない。善悪不二、正邪一如の言葉は自然界の人間が云ふべき資格はない、只神の大慈大悲の御目より見給ひて仰せられる言葉であつて、神は善悪正邪の区別に依つて其大愛に厚き薄きの区別なき意味を善悪不二、正邪一如と仰せらるるのである。』(霊界物語第48巻12章 西王母から引用)

 

図柄の最後の謎は、水中の甲殻類。これはかねて出口王仁三郎が竜宮について繰り返し述べている理由と同じだと思う。つまり竜宮に住む竜神は動物であって、元々は人間より下であったが、時代が進んで人間の方がどんどん落ちていき、人間によっては竜神より下になるような人間が出てきたこと指す。水底の世界にも月の光の救済は行われるのだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中国の天への階段

2024-06-01 04:31:37 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-11-13

◎世界樹-11

◎崑崙山

 

エスカレーターといえば、アセンションを幻視した人たちの天の梯子が有名だが、ここは、まず中国の天への階段。

中国の天への階段=天梯は、2種あり、ひとつは世界樹である建木、もうひとつは崑崙山である。建木は既に紹介したので、崑崙山。

 

崑崙山に宮居があり、崑崙山は黄帝の地上の帝都である。崑崙山の山頂は天に達し、山麓は弱水の深淵があり、外縁は火山に囲まれ常に噴火が発生している。

このように崑崙山には登るどころか、近づくのも難しい。

古籍には、天梯を自由に昇降できるのは、神人、仙人、巫女の三種に限るとされる。

また天梯とされる山には、他に華山、青水の東の肇山があり、仙人柏高はこの山から昇天し、また西方の荒野に登葆山があり、巫師たちがそこから上下往来したという。

 

さて、黄帝が天帝になる前に、兄弟である炎帝(人身牛首)と阪泉の野で戦い、炎帝を破り南方に追いやった。炎帝の末裔の蚩尤(しゆう)は、炎帝の仇討ちの戦いを黄帝に挑んだ。これが涿鹿(たくろく)の戦いである。黄帝は、蚩尤をとりこにして殺し、天帝となった。

この一件を教訓として、黄帝の曾孫の顓頊(せんぎょく)は、上帝になると、天地を結ぶ天梯を塞いで行き来が出来ないようにした。

 

こうしてみると、天梯を登ることはアセンションであって、それは古代からあったもので、決してブランニューな新顔のイベントではない。

顓頊が天梯を塞いだのは、超能力バトルの時代の終焉であり、アトランティスの最期のことか。

 

炎帝の人身牛首はミノタウロスだが、馬身人首のケンタウロスの逆バージョン。そういうバイオな操作を盛んにやっていた時代があるのだろう。旧事本紀みたいに。

 

そして昭和十年の第二次大本事件前夜、出口王仁三郎は、ご神体を道者笹目秀和に託し、中国崑崙山への返還を依頼した。笹目秀和は鶴仙に乗り、見事それを成し遂げた。崑崙山の地政学的重要性は、古代中国人に理解されていただけでなく、現代日本人にもきちんと理解されていたわけだ。

 

世界樹というシンボルは、グローバルというよりもトランス・コスモスであるが、その表現様式を世界に採るか宇宙に採るかというだけの差であるように思う。

また崑崙山を天への階段というが、天とはすなわちニルヴァーナ・神・仏・禅でいうところの無・道教の道を指すと見るのが自然であろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

すべての次元にガイドがいる

2024-05-31 04:50:45 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-11-12

◎世界樹-10

◎ヘルメス、猿田彦命

 

霊界探訪記を見ると、霊界のどこにいても霊界太陽が見えるとあるものだ。人は霊界において神たる霊界太陽に常にリンクしている。この世においては逆に極めて稀な人しか神仏を目撃、あるいはコンタクトできない。しかしこの点は、この世でもあの世でも神仏にコンタクトできるという可能性を保証していると見るべきだろうと思う。

世界樹は、世界全体のシンボルだが、七つの次元のどこからでも神仏・ニルヴァーナに接することができるための親切なガイドさんがいる。そのガイドが、古代ギリシアではヘルメスと現れ、古事記では猿田彦命として現れる。

 

ピュタゴラスの冥界めぐりのエピソードにヘルメスが登場する。

『魂を一つにつなぎとめている紐帯は、血管や動脈や腱である。しかし魂の力が強くて、自分だけで静かに落ち着いているときには、魂(内部)の比(均衡)と活動がこれを一つにつなぎとめているのである。

しかし、(肉体との結合が解けて、)魂が地上へ放り出されると、魂は空中を肉体と同様にさ迷うことになる。そしてそのときには、ヘルメス(神)が魂たちの監視者になるのである。それゆえに、(地下の世界まで死者たちの魂に)「付き添うヘルメス」とか、「門の前に立つヘルメス」とか、「地下の世界のヘルメス」というような言い方がなされているわけである。

このヘルメスが、肉体から(分離した)魂たちを、陸からも海からも(定められた場所へと)送り届けるからである。

そして清浄な魂たちは、最も高い場所へ連れて行かれるが、不浄な魂たちは、清浄な魂たちにも、あるいはお互いにも近づくことが許されないで、エリュニス(復讐鬼)たちによって破ることのできない束縛のなかにつながれるのである。』

(ギリシア哲学者列伝(下)/ディオゲネス・ラエルティオス/岩波文庫P34-35から引用)

 

このようにヘルメスは至るところに登場する。地獄でも、中有の入り口でも、死んだばかりの取り込み中のところにも、ヘルメスが同伴している。

 

これは、人が七つの次元にあり、人が肉体レベル、エーテル体レベルなどのどの次元にいたとしてもヘルメスを目撃できることを言うのであって、それを「ヘルメスが魂に付き添う」かのように見えるせいではあるまいか。

 

よく真正なグルを真摯に求めればかならず出会えるというが、それもこの伝なのだろうと思う。

 

また日本の神話なら別れ道に立つ猿田彦命である。皇孫二々岐命が豊葦原瑞穂中国の主として降臨あらせられた時に、猿田彦命は、天の八衢(やちまた)に出迎え奉り、日向の奇振るの峯に天孫を導きたまい、また伊勢の大神の先導に立ちたまいし忠勇無比の神様である。

天の八衢とは、中有のこと。中有から先も自分で進まねばならないが、猿田彦命はそこでガイドを務め、正しい道を指し示してくれる。これぞヘルメスと同様のさまよえる魂を善悪立て分けて、相応の場所に送り届けるという役割である。

これを世界全体で俯瞰すると、無数の人が猿田彦命にエスコートされて、世界樹の幹や枝を上昇し或いは下降している様となる。

 

こうして「世界樹はエスカレーターとも見える」という見方があることがわかる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

17 星

2024-05-31 04:03:42 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-12-10

◎悟りへの22段のパス⇒タロット・カード-10

◎明星を見る釈迦、空海、日蓮、クリシュナムルティ

 

有名覚者の悟りシーンには、星が登場することがままある。

 

釈迦は6年間の苦行を捨てて、ヨーグルト(乳糜)を食べて体力を回復し、菩提樹下でメディテーションに入った。そして、『明星が出た時、釈迦は廓然として大悟し、無上の正真道を得た。』(中国に伝わった最古の仏伝とされる修行本起経)とする。

 

空海はあらゆる経法の文義を暗記する力を得るために、高知県室戸崎で虚空蔵菩薩求聞持法を修した。すると谷響を惜しまず、明星が来影した。ごうごうたる阿吽(オーム)の響きたる谷響のうちに、明星がやってきた。

 

日蓮は十二歳で、安房小湊に近い天台宗清澄寺に入り、その年からこの寺の虚空蔵菩薩に願をかけ、「日本第一の智者となし給え」と祈っていたという。一六歳で出家。清澄寺の本尊は虚空蔵菩薩。虚空蔵求聞持法は、虚空蔵マントラの連唱。清澄寺から旭の森に行く途中の切り立った崖の下に小屋があって、これこそ慈覚大師円仁の求聞持修行の地であり、日蓮の法華修行の霊場だという。

『五十五歳の日蓮が、身延から清澄寺の大衆へ書き送った手紙『清澄寺大衆中』の中

にこういう言葉がある。

「生身の虚空蔵菩薩より大智慧を給はりし事ありき。日本第一の智者となし給へと申せし事を不便とや思(おぼ)し食(め)しけん。明星の如くなる大宝珠を給ひて右の袖にうけとり候し故に、一切経を見候しかば八宗竝に一切経の勝劣粗(ほぼ)是を知りぬ。」(『昭和定本日蓮聖人遺文』H・一一三三頁)』

(名僧列伝 3 念仏者と唱題者/紀野 一義/文芸春秋P210-211から引用)

日蓮は、明星のような大宝珠を得てあらゆる経典の優劣を理解し得た。

 

最後は20世紀の聖者クリシュナムルティ。

『勧められるままに木の下に行き、私はそこで座禅を組んだ。そのようにしていると、私は自分が肉体を離れ出るのを感じた。私は若葉の下に坐っている自分を見た。私の身体は東を向いていた。私 の前には自分の肉体があり、頭上にはきらきらと輝く美しい「星」が見えた。』

(クリシュナムルティの世界/大野純一P73から引用)

 

覚醒の確証としての星。それも釈迦からして、太陽でも満月でもなく、なぜか星。これはタロットの図柄の大きな星の方。

また大きな星の周辺には小さな七つの星が配置されている。これは、七つのチャクラ。七つの身体。

キリスト教も万人向けのオーソドックスな宗教なので、チャクラについての言及がある。以下は、ユクテスワの指摘。

『「振り向くと、七つの金の燭台が目についた」(ヨハネの黙示録1:12)

「それらの燭台の中央に、足まで垂れた上着を着、胸に金の帯を締めている人の子のようなものがいた。」(同上1:13)

「それらの右手に七つの星を持ち・・・」(同上1:16)

「あなたがわたしの右の手に見た七つの星と、七つの金の燭台の奥義はこうである。すなわち七つの星は、七つの教会のみ使いであり、七つの燭台は七つの教会である。」(同上1:20)

「右の手に七つの星を持つ者、七つの金の燭台の真ん中を歩く者が次のように言われる」(同上2:1)』

(聖なる科学/スワミ・スリ・ユクテスワ/森北出版p84から引用)

 

道教の聖典である太乙金華宗旨にも当然の如く、チャクラへの言及がある。それは悟りの確証の体験の説明の一部として現れる。

『確証の体験の第一段階は、観無量寿経の瞑想法に「太陽は、大いなる水に沈み、立ち並んだ木々が存在する現象として、形をとってくる」とのべられている体験であろう。「太陽が沈む」というのは、混沌(現象があらわれる以前の世界、つまり叡智界)の中に基礎が打ちこまれたことである。これが無極(対立する両極を超えた状態)である。

最高善の状態は、水のように清らかで汚れがない。これかすなわち「太極」(大いなる極)の主宰者である。

「震」(東方)から帝(神)が出現することである。「震」のシンボルは木である。したがって「立ち並んだ木々」のイメージが生まれてくるのである。七重の並木は、身体の七つの穴(あるいは心臓の七つの穴)が光輝くことを意味する。』

(黄金の華の秘密/CGユング/Rウィルヘルム/人文書院P203から引用)

 

さて七つの身体の基本的な説明は次のとおり、

①第一身体

肉体。 物質。

②第二身体

エーテル体。経絡に相当する。エネルギー・コードの骨格(傘の骨みたいな形)というものに近いと言われる。

気合、意思力、勇気、体力などの根本的源泉。半物質。

③第三身体

アストラル体。幽体と呼ばれる。肉体に相似した形。これ以上は物質次元ではない。

④第四身体

メンタル体。高次の感情と精神活動を司る。透明で光輝いていると言われる。

⑤第五身体

コーザル体。肉体と世界を形作っている最後の個別性。球形の光と見えると言われる。

⑥第六身体

アートマン。個別性即ち我はなくなったが、『在ること』=有が残っている状態。

⑦第七身体

ニルヴァーナ。涅槃。なまえもなく、言葉では説明できない。

 

七つのチャクラが存在するのはメンタル体までなので、七つのチャクラが世界全体を示すシンボルというわけにはいかない。世界全体を示すには、七つの身体論こそが必要かつ十分なのである。

そして七つの身体があるということを俯瞰できるのは、第七身体ニルヴァーナに到達した者だけということも重要。

カモワン・タロットの17星の絵柄で説明されていない要素は、沐浴。次元を貫いてオームの川は流れるが、そこに沐浴する裸身の太母。沐浴は、西洋錬金術文書にも支那内丹書にもよく出てくるテクニカル・ターム。

ユクテスワは、沐浴とは聖音オームの川の流れで沐浴することで、最終的に神のもとに帰る途中のワン・クッションという説明だが、その意味するところは重い。ユクテスワの説明は「11 力」で示したとおり。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

16 塔(神の家)

2024-05-30 06:35:30 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-12-9

◎悟りへの22段のパス⇒タロット・カード-9

◎クンダリーニの筒にして錬金術の炉

 

この塔はクンダリーニの筒にして錬金術の炉。またこの神の家は世界樹であって、「12吊るされた男」で神を知った後の人間はここでも脚を上に頭を下にする。というのは、世界樹は、根を上にして、枝葉、樹冠を下にする。よって人間から見れば、世界樹なる世界全体は逆転して存在する。同時に二人の人物が塔から落下するのは、悟った人間の視点からは、実は上昇を示す。

 

また16 塔から19太陽の図柄では、空気中に天の露が降る。これは大吉兆を示す。既に12吊るされた男で、見神、見仏、見性を終え、15悪魔にも出会って無事試練を通過したからには、善の側に不退転となった。生きる姿そのものが、善だけを行い悪を行わない姿(諸悪莫作衆善奉行)となったのだ。

家族の因縁などと言うが、こうなれば九族昇天すということで、生きているだけで家族の悪因縁はどんどん解消されてしまう。これが天の露が降るということ。

 

二人の人物が塔から(一旦上昇して後)落下しているのと、天から稲妻が下っているのは啐啄同機。覚醒の深まりに向けて、天も動き自分もそれに進む姿である。OSHOバグワンは第四ステップ(逍遥訣)終了後からそうなると説明している。

 

彼はこれを第五の秘密と呼ぶ。

『そして第五の秘密、秘法のなかの秘法とは、ものごとがひとりでに起こりはじめるということだ。あなたは何もする必要がない。むしろ、あなたが何かをすればそれは邪魔になる。今やあらゆるものがみずからの内なる力によって動いている。タオが、あるいは神があなたに乗り移っている。あなたは乗っ取られている! あなたは完全に消え失せ、今やあなたのなかには神しかいない。神が花として咲き、樹として繁るように、神はあなたのなかで黄金の華となって花を咲かせる。今や神のなすがままであり、あなたの出る幕はない。今やそれは神の意志であり、あなたの意志は仕事を終えてしまった。

 

最初の二つの段階では強い意志が求められ、次の二つの段階では進んで明け渡すことが求められる。そして四つの境地を体得し終えると、意志は必要でなくなるし、明け渡すことも必要でなくなる。

 

いいかね、明け渡しはまた意志を落とすためのものでもある。最初の二つの境地では意志の鍛練をしなければならない。次の二つの境地ではその意志を落とさなければならない。それが明け渡しだ。そして明け渡しによって意志が落とされたとき、究極の秘法のなかの秘法とは意志でもないし、明け渡しでもない。やはりここでも意志は男であり、明け渡しは女だ。第四を超えて行くことで、あなたは男と女の両方を超えて行く。意志が去り、明け渡しもまた去ってゆく・・・・もはやあなたはそこにはいない、どこを探しても見つからない。そこには何者でもないもの、〈無〉、涅槃(ニルヴァーナ)がある。』

(黄金の華の秘密/和尚/メルクマールP444-445から引用)

 

最後に、クンダリーニ上昇の最後は脱身。古事記で言えば、上筒男、中筒男、底筒男の3段のスシュムナー管をクンダリーニが上昇し、最後は頭頂サハスラーラ・チャクラから脱身していく。そのように炉の如き塔から微細身が上昇し発出される。

 

その様は、ダンテス・ダイジの『ニルヴァーナのプロセスとテクニック』や柳華陽の慧命経に詳しいが、一枚の絵に納めるにはやや無理があるので、大体何枚かに分けて説明されるものである。またパタンジャリのヨーガ・スートラでは、

『3.43「大脱身」とは、粗雑な身体を離れ、想像を超えたところで機能する技法である。大脱身を遂行することで、輝きを覆っていたものは破壊される。』

(現代人のためのヨーガ・スートラ/グレゴール・メーレ/ガイア社Pxivから引用)

 

これについて、OSHOバグワンは、“The Alpha and the Omega“の講話で、ヨーガ・スートラ3.43について

『メンタル体の外側にある意識状態に触れる力であり、考えられないもの、これを大脱身(MAHAVIDEHA)と呼ぶ。この力を通じて光の覆いは、崩壊する』と訳す。

さらに彼は、

大脱身とは身体を超えた人、身体に閉じ込められていない人のことであり、粗雑なあるいは微細な身体ということでなく、身体が境界がなく無限であることを知った人のこと。この際に、彼は心が目撃者であることを知る。

この無限を「光の覆いは、崩壊する」と表現する。このようにメンタル体が落ちれば、no-mind(ノーマインド)、思考のない状態を実現できる、と説明している。

 

大脱身から先は、17 星以降のことになる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする