霊がかりの話題はあまりしてはいけないが、出口王仁三郎は、イエス出現の因縁は、伊邪那岐尊(イザナギ)、伊邪那美尊(イザナミ)の二神の最初の出会いで、女性の伊邪那美尊(イザナミ) の方から声をかけたのだが、それで生まれた淡嶋の少名彦神のなれの果てであるとする。
つまり葦船で流された蛭子が外国に長くあって、幽界修業を積んで、やがてユダヤにイエスとして現われたるものとする。女性から声をかけるという、順逆を犯すという昨今の世間的常識では問題にならないことが、イエスを十字架での贖罪に陥れせしめたもともとの原因になっている。
誰が誰の生まれ変わりという話は、低級霊能者の見解(誰々は爬虫類の生まれ変わりなど)を始め、いくらでもどんな話でも転がっているもので、基本的には信用しないことにしているが、覚者のそういう話をする場合は無視できないものである。この内容は、日本神話にイエス出現の因縁があるというもので、奇想天外ではあるが、何回も実際に死んで死の世界を見に行った出口王仁三郎の談話であるからこそ、信じられようというもの。
イエスである少名彦神もまた、野立彦神の跡を慕って旅に出た(野立彦神は、天教山の噴火口に身を投げて、幽界に入った)というのは、野立彦神が霊界物語物語の極めて重要な登場人物であることを物語っているように思う。
その時成り出でましたる嶋は、前述のごとく淡嶋なりき。淡嶋は現今の太平洋の中心に出現したる嶋なるが、此天地逆転の神業によつて、其根底は弛み、遂に漂流して南端に流れ、地理家の所謂南極の不毛の嶋となりにける。
而て此の淡嶋の国魂として、言霊別命の再来なる少名彦命は手足を下すに由なく、遂に蛭子の神となりて繊弱き葦舟に乗り、常世の国に永く留まり、その半分の身魂は根の国に落ち行き、幽界の救済に奉仕されたるなり。
この因縁によりて、後世猶太の国に救世主となりて現はれ、撞の御柱の廻り合ひの過ちの因縁によりて、十字架の惨苦を嘗め、万民の贖罪主となりにける。』
(霊界物語6巻22章神業無辺/出口王仁三郎から引用)
