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アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

有と無

2025-07-05 03:29:37 | 達磨の片方の草履

◎機心をやめ観念を忘れる

 

黄檗禅師伝心法要から

『問い、「聖人は無心がそのまま仏でありましょうが、凡夫は無心では空寂に沈みこみはしないでしょうか。」

 

答え、「法には凡も聖もないし、空寂に沈むこともない。法は本来有ではない、しかし無と見てはならぬ。法は本来無ではない、しかし有と見てはならぬ。有と無とはすべて観念にすぎず、言ってみれば幻や影のようなものだ。だから

『見聞は幻や影の如く、知覚は衆生だけのやることだ』と言われるわけだ。われわれ祖師の伝統を継ぐものは、機心を息め観念を忘ずることだけを問題とする。さればこそ〈機心を忘ずれば仏道は興隆し、分別心を起こせば魔軍は熾烈となる〉というわけだ。」』

(禅の語録 8 伝心法要・宛陵録 筑摩書房p96から引用)

 

この話では、【法は本来有ではない、しかし無と見てはならぬ。法は本来無ではない、しかし有と見てはならぬ。】のところがポイント。古代インドでは、有なるアートマンと無なるブラフマンとの関係を決して説明しなかった。そこに説明できない何かがあるからなのだろう。

 

機心とは、その機会を逃さずに利用しようとする心。生成AIや機械を使うと必ず生成AIや機械に頼る仕事が増える。そうするとその便利さに慣れ、人間は注意を常に外に向け、本質ではない利害得失、メリット・デメリットばかり追うようになる。これが機心。

そうなると人は、本気でやる、心を込めるということを忘れて、相互の利害損得で争うことが増えるばかりとなっていく。

まことに冥想修行者は、機心をやめ観念を忘れるのがよい。

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聖胎長養とは

2025-06-15 03:53:13 | 達磨の片方の草履

◎人牛倶忘(ニルヴァーナ)に到った後のこと

 

1.禅仏教

(1)一般に「聖胎長養」とは、仏教、特に禅宗において用いられる重要な概念です。これは、仏となる可能性を秘めた「聖胎」(仏の種子、悟りの境地)を、まるで母が胎児を大切に育てるように、大切に養い育てる修行を意味します。聖胎長養は、「悟後の修行」を指すことが多いです。これは、一度「見性」(悟りを開くこと)を体験したとしても、そこで修行が終わるのではなく、その悟りをさらに深め、揺るぎないものにするために、心を鍛え続ける必要があるという考え方です。

 

(2)唐代の有名禅マスターの馬祖は、聖胎長養について、『景徳伝灯録』の中で、「諸君よ、めいめい自己の心が仏であると知れ。もしこのことが分かれば、もうその場その場で、身に服をつけ飯を食い、聖胎を長養して、ありのままに時を過ごすばかりだ。それ以外に一体何の事があろう」と述べています。これは、悟りを開いた後は、特別な修行をするのではなく、日常の行いの中で自然体で過ごし、その中に悟りを育んでいくことを示唆しています。

 

(3)仁王般若経における聖胎長養

『仁王般若経』において「聖胎長養」は、悟りの境地に至った後も、その悟りをさらに深め、完全に定着させるための継続的な修行として説かれます。具体的には、『仁王般若経』(菩薩教化品)では、以下の十心を養うこととされています。

  1. 信心(しんじん):仏法に対する揺るぎない信頼。
  2. 精進心(しょうじんしん):仏道修行に励む心。
  3. 念心(ねんじん):仏法を心に深く刻み、忘れない心。
  4. 慧心(えしん):物事を正しく見抜く智慧の心。
  5. 定心(じょうしん):心が安定し、動じない心。
  6. 施心(せしん):惜しみなく施しを行う心。
  7. 戒心(かいしん):戒律を守り、悪を行わない心。
  8. 護心(ごしん):自らの心を護り、煩悩に打ち勝つ心。
  9. 願心(がんしん):悟りを求め、衆生を救済しようと誓う心。
  10. 廻向心(えこうしん):自らの修行の功徳を衆生のために振り向ける心。

 

2.道教

聖胎長養とは、道教の修行における重要な概念の一つです。

簡単に言うと、内丹術(ないたんじゅつ)という修行法において、体内に形成された「聖胎(せいたい)」を、時間をかけてじっくりと育み、成長させていく過程を指します。

もう少し詳しく説明すると:

  • 内丹術(ないたんじゅつ):人間の肉体や精神を精錬し、不老不死や仙人となることを目指す道教の修行法です。体内の「精(せい)」「気(き)」「神(しん)」という三宝を練り合わせ、丹田(たんでん)と呼ばれる場所に「丹(たん)」、つまり一種の霊的な実体を形成することを目指します。
  • 聖胎(せいたい):内丹術の修行が進むと、体内に形成されるとされる、非常に微細で純粋な「気」の集合体、あるいは霊的な胚のようなものです。これが、最終的に仙人となるための基盤となると考えられています。
  • 長養(ちょうよう):形成された聖胎は、すぐに完成するわけではありません。むしろ、生まれたばかりの赤子が親に育てられるように、修行者は細心の注意を払って聖胎を「養う」必要があります。瞑想や呼吸法、適切な食事や生活習慣などを通して、聖胎を傷つけず、徐々に成長させていく過程が「長養」です。この過程がうまくいけば、聖胎は成熟し、最終的には「陽神(ようしん)」と呼ばれる霊的な身体となり、肉体を離れて自由に活動できるようになるとされています。

  

馬祖の口ぶりからすると、見性ではなく、人牛倶忘(ニルヴァーナ)に到れば、天国に行くも地獄に行くも、死のうが生きようが自由自在な一休のような生き方でよいということなのだろうと思う。

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老子と下降

2025-06-06 03:45:38 | 達磨の片方の草履

◎谷神不死、是れを玄牝と謂う

 

垂直の道であるクンダリーニ・ヨーガの極みは上昇であって、無上の垂直道を経て中心太陽に突入。一方水平の道の極みは、下降であることがほのめかされている。

 

水平の道の代表格である老子の道徳経に具体的な下降シーンがあるわけではないが、以下のような記述、特にタオの極みを「谷神不死、是れを玄牝と謂う」(第六章)と称していることで、プロセスが下降であることは想像される。下降した底なしの底(無底の底)で玄牝に出会うのだ

 

参考までにGeminiの意見を挙げる。

『老子道徳経の窮極は、下降によって起こると思われるが、分析お願い致します。

 

 

ご指摘の通り、「老子道徳経」の思想における究極の境地は、一般的な上昇志向や積極的な行動とは逆の、下降、あるいは「柔弱謙下(じゅうじゃくけんげ)」、そして「無為自然(むいしぜん)」といった状態によって到達されると分析できます。

老子の思想の核心には、**「道(タオ)」**という概念があります。「道」は、宇宙の根源的な原理であり、万物の生成と変化を司るものです。しかし、この「道」は言葉や形では捉えられない、究極の「無」として表現されます。

 

窮極が下降によって起こるという分析

この「無」に至るプロセス、つまり老子の思想における究極の境地が「下降」と表現できる側面について、いくつかの要素から分析してみましょう。

 

  1. 柔弱謙下(じゅうじゃくけんげ)の思想

老子は、強さや剛直さを尊ぶ世俗的な価値観とは対照的に、**「柔弱謙下」**を理想とします。

 

水の比喩: 老子は「上善は水の如し」と説きます。水は、万物を利しながらも争わず、人の嫌がる低い場所へと流れていきます。これは、自らへりくだり、目立たず、他者と争わない生き方が、最終的に最も強靭で持続可能であることを示唆しています。

へりくだること: 自らを低く置き、へりくだることは、上昇志向とは真逆の「下降」の姿勢です。しかし、これにより、万物を受け入れ、争いを避けることで、かえってあらゆるものと調和し、究極の安定と安寧を得られると考えられます。

 

  1. 無為自然(むいしぜん)の思想

老子のもう一つの重要な概念は**「無為自然」**です。「無為」とは「作為がないこと」「無理に手を加えないこと」を意味し、「自然」は「あるがままの状態」を指します。

 

作為の否定: 人間が自らの知識や欲望に基づいて積極的に行動しようとすることは、かえって事態を複雑にし、調和を乱すと老子は考えました。無理に何かを成し遂げようとする「為」を捨て、自然の摂理に身を委ねることが重要です。

「無」への回帰: 無為自然とは、自己の「有る」という意識や欲望を捨て、宇宙の根源である「無」の状態へと回帰することです。これは、上昇や増加ではなく、むしろ自己の存在感を希薄にし、究極的には「無」に近づいていく「下降」のプロセスと言えるでしょう。

 

  1. 谷神不死(こくしんふし)と玄牝(げんぴん)

「老子道徳経」第六章には、「谷神不死、是れを玄牝と謂う」という言葉があります。

 

谷のイメージ: 「谷」は、低い場所であり、何も存在しないかのように見える「虚ろ」な空間です。しかし、その「虚ろ」こそが、万物を生み出す源であり、尽きることのない生命力を持つ「神」として捉えられます。

下降と生成: 谷は水を受け入れ、万物を育む場所であり、そこから生命が生まれます。これは、表面的な「無」や「下降」に見える状態が、実は深遠な創造と生命の源である、という逆説的な真理を示しています。

 

  1. 積極的な放棄と受容

老子の思想は、何かを積極的に獲得したり、外的に達成したりすることよりも、何かを放棄し、受け入れることに重点を置きます。

 

知の放棄: 知識や分別を捨て、素朴な状態に戻ることを奨励します。これは、意識的な「上昇」や「蓄積」とは反対の、知的な「下降」と言えるでしょう。

謙虚さの重要性: 自らの小ささを知り、謙虚に振る舞うこと。これは、自己を拡大するのではなく、縮小し、他者と調和することを目指す「下降」の姿勢です。

 

結論

老子道徳経における究極の境地は、確かに一般的な意味での「上昇」や「進歩」とは異なるベクトルにあります。それは、「柔弱謙下」、「無為自然」、そして**「谷神」**の思想に象徴されるように、自らを低く置き、作為を排し、虚ろな状態を受け入れる「下降」のプロセスを通じて到達されます。この「下降」は、弱さや退行を意味するのではなく、むしろ内なる強さ、普遍的な調和、そして尽きることのない創造性へと繋がる、老子独自の究極的な悟りの道と言えるでしょう。』

 

更にGemini

『※老子の思想における柔弱謙下

老子の主著である『老子』(道徳経)には、「柔よく剛を制す」という考え方が繰り返し説かれています。これは、柔軟で弱いものが、かえって強固なものを打ち破る力を持つという思想です。

 

具体的には、以下のような記述がその思想的背景となっています。

 

「柔弱は生(せい)の徒(と)なり。剛強は死の徒なり。」(老子 第76章)

 

柔らかく弱いものは生き生きとしており、強く硬いものは死んだものである、という意味合いです。

「上善は水のごとし。水はよく万物を利して争わず、衆人の悪む所に処る。故に道に近し。」(老子 第8章)

 

最高の善は水のようなものである。水は万物に恵みを与えながらも争わず、皆が嫌がる低い場所に身を置く。だから道に近い、という意味で、謙虚さや争わない姿勢の重要性を示しています。

これらの老子の思想が、後に「柔弱謙下」という四字熟語としてまとめられ、柔和でへりくだる態度こそが真の強さであり、物事を円滑に進める上で重要であるという教えとして広まったと考えられます。』

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ヤコブ・ベーメの無底の底は下降か

2025-06-05 03:19:58 | 達磨の片方の草履

◎水平の道の窮極は、無底の底への下降か?

垂直の道、すなわちクンダリーニ・ヨーガ系の窮極は、中心太陽への上昇である。それでは、水平の道の窮極は、ダンテス・ダイジの言うように無底の底への下降なのだろうか。
そこで17世紀靴職人ヤコブ・ベーメの大悟を例に、GEMINIで、「ヤコブ・ベーメの無底の底は下降か」について分析してもらった。

結論は、下降で間違いないのだろうと思う。大きな論拠の一つは、1600年の彼の重要な神秘体験では、日光がピューターの皿に反射するのを見た際に、「存在の存在、深淵と奈落、三位一体の永遠の生成、この世界の起源と下降」を見たのだが、この「この世界の起源と下降」。世界全体と私は諸共に下降していっている。
大きな論拠の今一つは、彼はまた、「神性が私の中に登ってきた」とも述べていること。さらに、「自己に死ぬ」ことによって「深淵の意志」と一体化することを説いています 。この【「神性が私の中に登ってきた」】とは、私の視点からすれば、私は下降しているからである。

参考までにGemini報告の全文を挙げます。


『ヤコブ・ベーメの無底の底(Ungrund)に関する調査報告
1. はじめに
ヤコブ・ベーメ(1575-1624)は、しばしば「靴屋の哲学者」とも称されるドイツのキリスト教神秘主義者であり神学者です 1。彼は正式な教育を受けていませんでしたが、その思想はドイツ観念論やロマン主義といった後世の哲学的潮流に深い影響を与えました 4。実際、ヘーゲルはベーメを「最初のドイツの哲学者」と評しています 4。ベーメの神学的洞察は、主に彼自身の神秘的な体験に基づいていたとされています 2。
ベーメの哲学の中心的な概念の一つが「無底の底(Ungrund)」です。これは「根拠なき根拠」とも訳され、神性の神秘的な存在を指します 1。本報告書では、この「無底の底」という概念がベーメの哲学においてどのような意味を持つのかを詳細に調査し、分析します。特に、ユーザーの主要な疑問点である「無底の底とはどのような体験なのか」「下降体験なのか上昇体験なのか」、そして「下降体験と言われる只管打坐での身心脱落との類似点があるかどうか」について検討します。


報告書の構成は以下の通りです。まず、ベーメ哲学における「無底の底」の概念を定義します。次に、「無底の底」の体験が下降体験なのか上昇体験なのかを分析します。その後、禅仏教における「身心脱落(しんじんだつらく)」について解説し、ベーメの「無底の底」の体験と比較検討を行います。さらに、他の宗教的・神秘的な伝統における類似の体験についても考察し、最後に調査結果をまとめ、結論を提示します。
ベーメは、貧しい家庭に育ち、正規の教育を受ける機会はほとんどありませんでした 6。にもかかわらず、彼の思想が後世の重要な哲学的運動に大きな影響を与えたという事実は、彼の洞察が学術的な訓練によるものではなく、個人的な神秘体験に深く根ざしていたことを示唆しています 4。このことは、直接的な経験的知識が、深遠な哲学的思想を形成する上で重要な役割を果たす可能性を示唆しています。
「無底の底」という言葉自体が、「根拠なき根拠」という意味を持つことから、従来の形而上学的な枠組みを超越した概念であることが示唆されます 4。それは、通常の論理的、存在論的なカテゴリーでは捉えられない根源的な現実を指し示そうとするベーメの試みであると言えるでしょう 8。根拠を持つものが存在するための根拠そのものが根拠を持たないという逆説的な表現は、存在と起源に関する従来の形而上学的な前提を揺るがす、ラディカルな理解を示唆しています。


2. ヤコブ・ベーメ哲学における「無底の底(Ungrund)」の概念
「無底の底(Ungrund)」は、ベーメの哲学において、あらゆる存在と創造に先立つ根源的で非分化な絶対者として定義されます 2。それは、「言い表せないもの」「人間の理解と認識を超えたもの」「光でも闇でもなく、愛でも怒りでもないもの」として描写されます 1。ベーメ後期の主著である『大いなる神秘(Mysterium Magnum)』(1622年または1624年)において、「無底の底」は「存在論的地位を全く持たない絶対的な否定」として定義されています 8。これは、初期の著作において「無底の底」を原始的な混沌のような相対的な無として用いていたのとは対照的です 9。後期においては、相対的な無を指す言葉として「母体(matrix)」または「塩精(Salitter)」を用いています 9。ベーメの用語法の変遷は、彼の神秘的洞察が時間とともに深化したことを示唆しており、おそらくは彼の友人であったゴルリッツのパラケルスス派の思想家たちとの交流の影響も考えられます 9。
「無底の底」は、「深淵(Abyss)」として神と同一視されることもあります 2。三位一体の神(父、子、聖霊)さえも、この「無底の底」から、自己認識への意志によって引き起こされる自己分化のプロセスを経て生じると考えられています 2。創造は、「無底の底」の自己啓示の行為と見なされ、宇宙は神の鏡として捉えられます 10。
「無底の底」は、意志と欲望といった対立する力を含んでおり、これらの力が相互作用することによって、人格的な神が生成され、宇宙が展開すると考えられています 13。一部の解釈では、「無底の底」は、生命と愛に加えて「暗い怒りの核」を持っているとも示唆されています 14。さらに、この概念は悪の問題にも触れており、悪が自己啓示のために必要である、あるいは「無底の底」から噴出する「邪悪な怒りの意志」から生じるとする記述も見られます 2。


ベーメの「無底の底」の概念が、初期の相対的な無から、後期の絶対的な否定へと変化したことは、彼の神秘的洞察が時間とともに深化したことを示唆しています。これは、個人的な神秘体験が、継続的な内省や他者との交流を通じて、進化し、洗練される可能性を示唆しています。神が根拠なき「無底の底」から出現するという思想は、伝統的な神学における神を究極の不原因とする考え方に挑戦します。これは、神性の本質とその存在との関係を理解する上で、深遠な意味を持ちます。さらに、「無底の底」に対立する力が含まれているという考え方は、ベーメの宇宙論に弁証法的な要素を導入し、緊張と対立が神と宇宙の本質に内在していることを示唆しています。これは、後のヘーゲルなどの弁証法哲学の先駆けとも考えられます 1。


3. 「無底の底」の体験:下降か上昇か?
ベーメは、「無底の底」に関連する自身の神秘体験について記述を残しています。1600年の彼の重要な神秘体験では、日光がピューターの皿に反射するのを見た際に、「存在の存在、深淵と奈落、三位一体の永遠の生成、この世界の起源と下降」を見たと言われています 2。この幻視は、世界の霊的な構造と神と人との関係を明らかにしたと彼は信じていました 4。1610年には別の内的な幻視を経験し、宇宙の統一性と彼が神から特別な使命を受けたことをさらに理解しました 4。

ベーメは、自身の霊が「地獄の門を通り抜け、神性の最も内なる誕生へと至った」という体験についても語っており、これは暗闇を通って根源的な起源へと向かう旅を示唆しています 12。彼はまた、「神性が私の中に登ってきた」とも述べています 12。さらに、「自己に死ぬ」ことによって「深淵の意志」と一体化することを説いています 2。ある解釈によれば、神に到達するためには、まず地獄を通らなければならないとされています 4。ベーメの「無底の底」の体験は、「別の世界への離脱」とも表現されています 6。

これらの体験が「下降」として特徴づけられるか「上昇」として特徴づけられるかを検討すると、彼の最初の幻視における「この世界の起源と下降」という言葉 2 は、創造が神聖な源から発出したという下降的な側面を明確に示しています 2。また、「地獄の門を通り抜ける」や「自己に死ぬ」といったイメージは、霊的な突破や一体化の前に、より深く、根源的で、あるいは混沌とした領域へと下降する必要があることを示唆しています。
しかし、「神性が私の中に登ってきた」という言葉 12 は、神聖なものが個人の中に上昇するという動きを示しており、人間と神との間の相互的な関係を示唆しています。「無底の底」自体は、根拠なき深淵として、分化された世界からその非分化な源へと回帰する「下降」の地点と見なすことができます。そして、神と創造がその「無底の底」から出現することは、この根源的な状態からの「上昇」または展開と解釈できます。

ユーザーが「身心脱落」を「下降体験」として言及していることを考慮すると、ベーメの記述における「自己に死ぬ」という概念は、仏教におけるエゴの手放しという考え方と共鳴する可能性があります。
ベーメの「無底の底」の体験に関する記述には、下降と上昇の両方の要素が含まれているように見えます。これは、根源的な深淵と神聖なものと創造の出現との間のダイナミックな相互作用を反映しており、神秘的な旅が直線的な進行ではなく、むしろ周期的または弁証法的なプロセスである可能性を示唆しています。

 

創造の「下降」と神性の「上昇」が同時に存在する(2)ことは、単純な線形のモデルではない、より複雑なモデルを示唆しています。「無底の底」は、創造の出発点(上昇)であると同時に、個人の自己が回帰する場所(下降)ともなり得るのです。自己に死ぬことが「深淵の意志」を体験するための前提条件であるという考え方(2)は、エゴの超越がベーメの神秘的な道において重要な側面であることを示唆しており、禅仏教を含む多くの神秘的な伝統におけるエゴの解消というテーマと共鳴します。

 

4. 禅仏教における「身心脱落(しんじんだつらく)」
禅仏教、特に曹洞宗において重要な概念である「身心脱落(しんじんだつらく)」は、道元禅師(1200-1253)とその師である如浄禅師(1163-1228)に関連しています 15。文字通りには「身も心も脱げ落ちる」という意味を持ち、「身心脱落」または「放下身心(ほうげしんじん)」とも表現されます 16。これは、集中的な禅の実践、特に「只管打坐(しかんたざ)」を通じて経験される解放または霊的な解放の状態を指します。「只管打坐」は「ただひたすらに坐る」という意味です 16。如浄禅師は、坐禅を「身心脱落」であると述べ、外部の目標を求めることなく、ただひたすらに坐ることを強調しました 17。

「只管打坐」は、静寂と開放の中で坐り、思考に関与したり、特定の対象に焦点を当てたりすることなく、物事を直接的に認識することを含みます 20。
「身心脱落」が一般的に「下降体験」と見なされるのは、それがエゴ、執着、そして構築された自己感覚を手放すことを伴うからです 15。それは、好き嫌いに基づく「個人的な欲求システム」の脱却であり 15、「五蘊(ごうん)」(色、受、想、行、識)と「三毒(さんどく)」(貪、瞋、癡)からの解放です 15。
「脱皮」または「皮膚を脱ぎ捨てる」という比喩 16 は、より根本的な現実を明らかにするために、表面的な層を取り除くことを示唆しています。それは、新しい状態を獲得することではなく、無知と執着を取り除くことです 22。自己を忘れ、「万物に証明される」という考え方 16 は、自己と他者の境界が溶解する非二元性の状態への下降を意味します。内山興正老師は、それを「頭の中で作り上げた幻想を脱ぎ捨てて、この瞬間に戻ること」と説明しています 15。

身心脱落の説明における「脱ぎ捨てる」「脱落する」という言葉の強調(15)は、エゴと精神的な構築物の表面的な層を剥ぎ取り、より根本的で統一された存在状態に到達することを含む、下降体験としての特徴を強く裏付けています。これは、より複雑でエゴに支配された意識状態から、分離の幻想が解消された、より単純で根本的な状態への下降を示唆しています。身心脱落と只管打坐との関連性(16)は、この解放の状態を達成するためには、意図的でない、現在への気づきが重要であることを示しています。只管打坐が努力なしに「ただ坐る」こととして説明されている(17)ことは、身心脱落が強制されたり意図的に行われるものではなく、献身的な実践を通じて自然に展開するものであることを示唆しています。これは、概念化を超えた経験の直接性への「下降」であると言えるでしょう。

5. 比較分析:「無底の底」と「身心脱落」
ベーメが記述する「無底の底」の体験と、「身心脱落」の体験の特性を比較検討します。
潜在的な類似点:
● どちらも、通常の自我中心的な自己を超越する形態を含んでいます。ベーメの「自己に死ぬ」と禅の「自己を忘れる」は、エゴの解消という共通のテーマを共有しています 2。
● どちらも、概念的な理解を超えた根源的な基盤または源を指し示しています。「根拠なき根拠」としての「無底の底」と、仏教における空(くう)の概念(直接的に同等とは言えないものの、根本的で言い表せない現実という考え方は共鳴します)は、この特徴を共有しています 1。
● どちらの体験も、現実の知覚と理解における根本的な変化を伴うようです。ベーメの幻視は世界の霊的な構造を明らかにし 4、「身心脱落」は「万物に証明される」状態につながります 16。
● 根源的なレベルへの下降というイメージは、異なる意味合いを持つかもしれませんが、どちらにも存在します。ベーメの「地獄の門を通り抜ける」という旅と、禅における身と心の「脱落」は、より深く、より根源的な現実への動きを示唆しています 12。

主な相違点:
● 神学的枠組み: ベーメの「無底の底」はキリスト教神学の枠組みの中で機能し、最終的には三位一体の出現と神と創造の理解につながります 2。一方、「身心脱落」は、苦からの解放と空と相互連結性の実現に焦点を当てた仏教の文脈から生じます 15。
● 根源の本質: 「無底の底」は、根拠がないとはいえ、神聖な意志と神性の源です 2。禅では、強調はむしろ現実の根本的な性質としての空(くう)に置かれており、それは必ずしも同じように人格的な神の前兆となるものではありません 23。
● 体験的焦点: ベーメの記述は、幻視体験と直接的な啓示の感覚を伴うことが多いです 2。一方、「身心脱落」は、必ずしも特定の幻視を伴うわけではなく、坐禅の実践と、現在の瞬間に精神的な構築物を手放すこととより密接に関連しています 20。
● 方向性: どちらも表面的なエゴよりも深くへ行くという意味で「下降」を含んでいますが、ベーメの体験には、神の出現と個人の神との潜在的な合一における「上昇」の側面もあります 12。一方、「身心脱落」は主に「脱落」と非二元性の状態の実現に焦点が当てられています 16。
● 苦と悪の役割: ベーメは、「無底の底」における「怒り」の概念を通して、悪の問題とその起源に取り組んでいます 2。仏教は苦に取り組んでいますが、悪の概念とその起源は大きく異なります。
異なる宗教的背景にもかかわらず、ベーメにおける「自己に死ぬ」と禅における「自己を忘れる」の類似性は、エゴの超越がより深い霊的実現への必要なステップとして、神秘体験の普遍的な側面を示唆しています。しかし、スニペット23で強調されている「空」と「絶対的な無」の違いは重要です。「無底の底」と仏教の空の概念はどちらも、従来の理解を超えた根本的な現実を記述していますが、それぞれの伝統における具体的な意味合いと含意は大きく異なります。これは、異なる宗教における神秘的な概念間の単純な等価性を想定することへの注意を促します。

6. 他の伝統における類似の神秘体験
他の宗教的または哲学的伝統に、「無底の底」と「身心脱落」の類似点または相違点を明らかにする可能性のある類似の神秘体験が存在するかどうかを簡単に探ります。
「無底の底」は、マイスター・エックハルトの「深淵(Abgrund)」の概念と比較されてきました 9。一部の学者は、「無底の底」と大乗仏教および禅仏教の「空(くう)」、ならびに道教とヒンドゥー教の概念との間に類似点を指摘しています 23。ただし、前述のように、これらの比較には慎重な検討が必要です。ベルジャエフは、「無底の底」を「神秘的な深淵」および「太古の深淵」と関連付け、伝統的な神学の個人的な神よりも深いものと考えています 5。創造がそこから出現する根源的な虚無または深淵の考えは、さまざまな文化のさまざまな宇宙論や神話に見られます。自己への死またはエゴの超越の概念は、スーフィズム、キリスト教神秘主義(ベーメ以外)、およびアドヴァイタ・ヴェーダーンタを含む多くの神秘的な伝統で繰り返されるテーマです。
さまざまな神秘的な伝統における根源的な深淵または根拠なき根拠という繰り返しのテーマは、通常の知覚と概念化の限界を超えた現実に対する人間の根本的な直感または経験を示唆しています。特定の解釈と神学的枠組みは異なるかもしれませんが、より深く、言い表せない源という根底にある感覚は、共通の糸であるようです。

7. 結論
本調査の結果をまとめると、ヤコブ・ベーメの哲学における「無底の底」は、神と創造が出現する根源的で非分化な絶対者を指す複雑な概念です。「無底の底」の体験は、根拠なき深淵への下降(「自己に死ぬ」)と、創造の出現、個人の中に「登ってくる」神という上昇の両方の要素を含む、ダイナミックで変容的なプロセスであると考えられます。
「無底の底」の体験と「身心脱落」の間には、エゴの超越と根源的な現実のレベルへの到達という点で潜在的な類似性が見られますが、それぞれの神学的および哲学的背景が異なるため、重要な相違点が存在します。「無底の底」は、三位一体と創造に焦点を当てたキリスト教の枠組みの中で機能する一方、「身心脱落」は、空と解放という仏教の原則に根ざしています。他の神秘的な伝統との比較は、根源的で言い表せない源という繰り返しのテーマと、霊的な実現におけるエゴの超越の重要性を浮き彫りにしています。

結論として、「無底の底」の体験は、単なる下降または上昇のどちらか一方ではなく、根源的な起源への下降とその後の出現または展開という、両方の複雑な相互作用を含むものです。「身心脱落」との間には、エゴを超越し、根源的な現実に出会うという点で類似性が見られますが、それぞれの宗教的枠組みが異なるため、これらの体験の具体的な性質と意味合いは大きく異なります。「無底の底」は、仏教における空が必ずしもそうではない方法で、神性の源となります。異なる伝統における神秘体験を比較する際には、それぞれの特定の文脈とニュアンスを慎重に考慮する必要があることが強調されます。


特徴 ヤコブ・ベーメの「無底の底」体験 禅仏教の「身心脱落」
宗教的背景 キリスト教神秘主義、ルター派神学 禅仏教(曹洞宗)
中核概念 根源的、非分化な絶対者;「根拠なき根拠」 「身も心も脱げ落ちる」;坐禅による解放
体験の性質 根拠なき起源への下降;神と創造の出現;「自己に死ぬ」;幻視的側面 エゴ、執着、精神的構築物の手放し;現在への気づき
方向性 下降と上昇の両方の側面 主に下降体験(脱ぎ捨てる、手放す)と見なされる
根源的基盤 神聖な意志と三位一体の源 現実の根本的な性質としての空(くう)
エゴの超越 「自己に死ぬ」 「自己を忘れる」
主要な実践 神秘的な瞑想、幻視 只管打坐(しかんたざ)
悪の問題への取り組み 「無底の底」における「怒り」の概念を通して取り組む 無常と無我の理解を通して苦に取り組む
引用文献
1. The Veil as shown by the shoemaker philosopher Jakob Bohme. : r/DestinyLore - Reddit, 3月 22, 2025にアクセス、 https://www.reddit.com/r/DestinyLore/comments/12b5wts/the_veil_as_shown_by_the_shoemaker_philosopher/
2. Boehme, Jakob (1575–1624) - Encyclopedia.com, 3月 22, 2025にアクセス、 https://www.encyclopedia.com/humanities/encyclopedias-almanacs-transcripts-and-maps/boehme-jakob-1575-1624
3. Jakob Boehme - Search results provided by BiblicalTraining, 3月 22, 2025にアクセス、 https://www.biblicaltraining.org/library/jakob-boehme
4. Jakob Böhme - Wikipedia, 3月 22, 2025にアクセス、 https://en.wikipedia.org/wiki/Jakob_B%C3%B6hme
5. Jakob Böhme: The Tragedy of Freedom and the Curse of the Law - Critical Legal Thinking, 3月 22, 2025にアクセス、 https://criticallegalthinking.com/2012/08/16/jakob-bohme-the-tragedy-of-freedom-and-the-curse-of-the-law/
6. Jacob Boehme GA 62 - Rudolf Steiner Archive, 3月 22, 2025にアクセス、 https://rsarchive.org/Lectures/GA062/English/Singles/19130109p01.html
7. Jakob Böhme - Gwern.net, 3月 22, 2025にアクセス、 https://gwern.net/doc/rotten.com/library/bio/mad-science/jakob-bohme/index.html
8. shareok.org, 3月 22, 2025にアクセス、 https://shareok.org/bitstream/handle/11244/329740/2003_Herd_Van_Thesis.pdf?sequence=1&isAllowed=y#:~:text=its%20use%20in%20Boehme's%20last,laws%20of%20logic.
9. The concept of Ungrund in Jakob Boehme (1575-1624) - ShareOK, 3月 22, 2025にアクセス、 https://shareok.org/items/fb002ffd-d1b5-4bb5-9a5b-6a641a7bcdea
10. Jacob Boehme Online -, 3月 22, 2025にアクセス、 https://jacobboehmeonline.com/
11. Abyss and Creation: Jacob Boehme and the Birth of Ungrund - Christian culture 基督教文化学刊, 3月 22, 2025にアクセス、 http://jscc.ruc.edu.cn/yw/BACKISSUES/Vol51/012/919aedab70d644e5ae97a8d0fe0b7eda.htm
12. Jakob Boehme - westernmystics - WordPress.com, 3月 22, 2025にアクセス、 https://westernmystics.wordpress.com/2015/03/15/jakob-boehme/
13. Deification and Creativity - Northwestern University Research Initiative in Russian Philosophy, Literature, and Religious Thought, 3月 22, 2025にアクセス、 https://rprt.northwestern.edu/people/research-scholars/coates-2019-chapter-4.pdf
14. How Theosophy Created Spiritual Alchemy - The Alchemy of Jakob Böhme - YouTube, 3月 22, 2025にアクセス、 https://m.youtube.com/watch?v=XapXn-7YHvc&pp=ygUJI2l0c3p1YmVy
15. Dropping off Body and Mind #4 of 21 - White Lotus Judith Ragir, 3月 22, 2025にアクセス、 http://www.judithragir.org/2017/07/dropping-off-body-mind-4/
16. Shinjin Datsuraku: Shedding Body-Mind - Terebess.hu, 3月 22, 2025にアクセス、 https://terebess.hu/zen/szoto/szotar/Shinjin-datsuraku.pdf
17. Shikantaza(Just Sitting) - SOTOZEN.COM, 3月 22, 2025にアクセス、 https://www.sotozen.com/eng/library/key_terms/pdf/key_terms01.pdf
18. First Dharma Talk on Fukanzazengi by Josho Pat Phelan, 3月 22, 2025にアクセス、 https://www.chzc.org/sesshin-talk-1-on-fukanzazengi-by-josho-pat-phelan.htm
19. Climbing Zen Mountain II - Silent Thunder Order, 3月 22, 2025にアクセス、 https://storder.org/climbing-zen-mountain-ii/
20. READER ON SHIKANTAZA - Upaya Zen Center, 3月 22, 2025にアクセス、 https://www.upaya.org/uploads/pdfs/shikantazanreader.pdf
21. Zazen Is Not Limited to the Mind - Lion's Roar, 3月 22, 2025にアクセス、 https://www.lionsroar.com/zazen-is-not-limited-to-the-mind/
22. Dogen Casts Off "What": An Analysis of Shinjin Datsuraku - thezensite, 3月 22, 2025にアクセス、 https://www.thezensite.com/ZenEssays/DogenStudies/Dogen_Casts_Off_What.html
23. The concept of Ungrund in Jakob Boehme (1575-1624) - ShareOK, 3月 22, 2025にアクセス、 https://shareok.org/bitstream/handle/11244/329740/2003_Herd_Van_Thesis.pdf?sequence=1&isAllowed=y』

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自分が損すれば他人が儲かるからよい

2025-05-19 06:14:15 | 達磨の片方の草履
◎我が失えば、他が得るではないか

雲居希膺は、江戸時代初期の禅僧。51歳で大悟、松島瑞巌寺や妙心寺の住職をやった。

見かけは地味なエピソードがいくつかあるが、盗賊など半グレ、反社、敵方の戦国武将さえ感服させる威徳があった人物。
メリデメばかり念頭にあって、1円でも1ポイントでも得をしようと考えている人には、自分が損すれば他人が儲かるという考え方は奇妙かもしれないが、悟り・究極の幸福の方向性は、その方面であって、自分を小さくするという方向。それが無用の用である。

『我が失えば他が得る

雲居は街道を歩く時は、いつも手を背に回して腰のあたりに杖を横たえ、てくてくと歩き、侍者ははるかに後からついて来させるのがつねであった。
ある夏の日、やはりそのようにして街道を歩いていた。この日はあまりにも暑い日だったためか、雲居は歩きながら衣を脱ぎ、道ばたにうち捨てたまま歩き続けた。侍者はあわててこれを拾って、雲居のところへ持っていった。すると、雲居は侍者をにらみつけて、「おまえが持っているものは何じゃ」
「老師のお衣です。あんなところに捨てておいては誰かが持っていってしまいますから、こうやって拾って来たんです」
すると雲居は叱っていうのだった。
「わしが失えば、それを拾って得をするものもあるのじゃ。真如法界は他なく自なし、というではないか」

やはり、旅をしている途中のこと。ある村で宿泊を頼むことになった。侍者が行って交渉していたが、どうも宿賃をもっとまけろ、といい争っている様子である。聞くと、たかが一、二銭のことである。これを見て、雲居は顔をしかめていった。
「我が失えば、他が得るではないか」』
(禅門逸話選(上)/禅文化研究所P142-143から引用)

※真如法界:すべての宇宙、第六身体アートマン


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天地一杯の水が 手桶に汲みとられた

2025-05-18 05:52:28 | 達磨の片方の草履
◎内山興正氏の詩

内山興正氏は、日本の曹洞宗の僧侶、詩人。 澤木興道に長年師事し、その死後に安泰寺の住職となる。 兄弟子に横山祖道、弟弟子に弟子丸泰仙がいる。

『生死

手桶に水を汲むことによって
水が生じたのではない
天地一杯の水が
手桶に汲みとられたのだ
手桶の水を
大地に撒いてしまったからといって
水が無くなったのではない
天地一杯の水が
天地一杯のなかに
ばら撒かれたのだ
人は生まれることによって
生命を生じたのではない
天地一杯の生命が
私という思い固めのなかに
汲みとられたのである
人は死ぬことによって
生命が無くなるのではない
天地一杯の生命が
私という思い固めから
天地一杯のなかに
ばら撒かれたのだ 』
(求道 自己を生きる/内山興正/柏樹社 P52-53から引用)

詩人は、歌人と同じで、心の中に淡い恋心のようなものがないと、詩は作れないと思う。
自我自分のことを“私という思い固め”すなわちマインド(頭)と表現している。

桶の水で大悟した千代野(岐阜県関市松見寺開山の無外如大尼禅師のこと、鎌倉円覚寺の開山仏光国師無学祖元の弟子となった)が、水を汲みに谷に下りた時に、桶の底が抜けて水もすべて落ちてしまった。
桶の水に写っていた美しい月もとたんに消えてしまったことを見て、
千代野は忽然として大悟した。

その時の歌。
『とにかくに たくみし桶の 底脱けて
  水たまらねば 月もやどらず』


“水たまらねば”とは、成熟が一定水準にならないと、月である宇宙全体(天地一杯の生命)にならないということ。

仏光国師無学祖元が来日したのは、南宋滅亡前夜。隠元も明国滅亡前夜に来日。中国は王朝滅亡前夜に高僧、文化人が日本に移民してくる。
今や中国もそのような雰囲気だが、この時代は、高僧はいないので、来日しても文化人だけだろう。大陸王朝滅亡時には、その王朝の精華が日本にやってくるのだが、宗教の精華はあったのか?

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出口王仁三郎が死から再生する

2025-05-15 05:41:06 | 達磨の片方の草履
◎隻履(せきり)の達磨

出口王仁三郎は、六度死んだと語る。古神道の極みは、死からの再生だが、それがどのようなものであったかを、明らかに語っているものはない。
ここでは、自分が死から復活したことだけを述べているが、鎮魂法の窮極はそこなのだろう。
出口王仁三郎の復活と言えば、二度の牢獄入りと釈放をイメージする人が多いのだろうが、古神道家は、黄泉からの帰還をイメージする。生還後の予後は、煙でいぶされたり大変だったことも書かれているものがある(一週間の床縛りの修業など )。

出口王仁三郎の随筆集水鏡から『隻履の達磨』。GEMINIで現代仮名遣いに直してもらいました。
『達磨没後、ある二人の若人が寄って其(その)死について話し合っていた。
甲曰く「お前は達磨さんが死んだというけれど、それは嘘だ。現に私は昨日会ったのだもの」という。
乙はそれを否定して「そんなはずがない。現に亡くなられてお葬式があったじゃないか」という。
甲は反抗して「それやそうだけれど、私は昨日現に会ったのじゃから仕方がないではないか。おそらく生き返ったのであろう。草履(ぞうり)の片一方を杖の先に引っ掛けて歩いておられたのだ」という。
「そんな箆棒(べらぼう)な話があるものではない」と甲と乙と互いに言い募って、果ては実地検證という事になり、墓地まで押し掛けて行ってみると、供えてあった藁草履の片一方がない。
はて不思議と墓を暴いて見ると、主はもぬけのから。甲乙目を見合わせて「やはり達磨さんは生き返ったのである」と驚き合ったという。これが隻履(せきり)の達磨という因縁である。達磨さんは実際甦生(そせい)したのである。
近頃私が隻履の達磨を描くのは、私の甦生を意味しているのである。お前は見たか、その後の達磨さんの活動振りを。光照殿に陳列しておいたあの絵をよく見ておくがよい。』(出口王仁三郎の随筆集水鏡から引用)


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冬の日や馬上に凍る影法師

2025-01-11 06:37:18 | 達磨の片方の草履

◎孤舟蓑笠の翁、透徹した孤独感を生きる

 

豊橋から渥美湾に沿って田の中に細い道があったが、これを天津繩手と言い、不遇な友人を思う芭蕉の句

 

二人見し 雪は今年も 降けるか

芭蕉

(大意:去年は配所にあって不遇の君と二人で見たあの天津繩手の雪はまた今年も降っているだろうか? )

 

そんな感慨も漂泊の旅人として、やや力んで暮らす自分がある。

月雪(つきゆき)とのさばりけらし年の暮

芭蕉

(大意:花鳥風月と一年中突っ張って生きたことよ、年の暮れ)

(1686年作、『あつめ句』所収)

 

さらに冬の天津繩手でもう一句。

あまつ縄手は、田の中に細道があって、海から吹上がる風がとても寒い所。

 

冬の日や馬上に凍る影法師

芭蕉

 

これは、山水画の孤舟蓑笠の翁の姿であって、透徹した孤独感を生きる覚者の姿であって、『さび』の極み。雪国の今度の冬は雪が多い。

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雪の朝に干した鮭を食べる

2025-01-08 06:03:01 | 達磨の片方の草履

◎貧しいことも孤独なことも、本当には何の問題もない

 

子供の頃、トバと呼ばれる干した鮭を食べたことがあったが、子供の味覚のせいかおいしいと思ったことは無かった。トバは、固くて噛むのが大変だ。

 

芭蕉37歳、深川での句。

リッチな家では上等な肉を食べ、若者は菜っ葉や大根を食べる。しかるに私のような貧乏人は、

雪の朝独り干鮭を噛み得タリ

(ゆきのあした ひとりからざけを かみえたり)

 

まさに芭蕉37歳で深川に仏頂和尚に参禅。

仏頂和尚「青苔がまだ生えないで、春雨がまだやって来ない時はどうする」と問うた。

その時ちょうど一匹の蛙が庭の古池に飛び込んだ。

芭蕉「蛙飛び込む水の音」と答えた。

この時、芭蕉は大悟した。

以後透徹した孤独感とそれでも全く問題ない自分という二重の生活実感を生きることになる。

 

この干鮭の句には、禅僧趙州が椅子も買えないで折れた椅子の脚に棒を当て紐で縛って使った雰囲気に通じるものがある。

真正の覚者は、決してリッチであることはなく、貧しく孤独に生きるのだ。その味は干鮭を冬の朝に噛めばわかるのだろう。

貧しいことも孤独なことも、本当には何の問題もないのだ。

 

江戸時代の人が、保存食の鮭で朝から孤独に食べるのは、寂しくみじめ、というだけでは終わらない芭蕉なのだと思う。

 

改めて芭蕉の俳文集は相当に禅的素養がないときちんと読み込めないように思う。片言切句に、禅の素養などが散りばめられているからである。

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坐禅中の妄想

2024-12-30 06:55:36 | 達磨の片方の草履

◎のっぺら坊に出会う

 

黄檗宗のある老僧が、さる婦人に臨済無位の真人の公案を授けて坐禅させた。無位の真人は、凡でもなく聖でもなく、目もなく鼻もない。この人に出会えば、大悟覚醒することができる、と。

 

すると婦人は、昼も夜も只管打坐三昧となった。すると彼女の前に眉も目もない身長3メートルほどの僧侶が突然やってきて面前に立った。

彼女は、怖くなって坐るのをやめた。そしてこの現象は坐るごとに繰り返した。

ある日、彼女は、老僧にこのことを相談した。

老僧は、昔さる修行僧が犬に仏性があるかどうかという公案に取り組んだところ、面前に巨大な犬が出現した。あなたのもそれと同じである。皆妄想だ。

ただし三界六道(世界全体)も妄想によってできている。だからこの公案で釈尊の肝心なところを示している。

婦人は、しっかり反省し終には大悟したという。

 

この老僧は、わかっている。そんなもの妄想だと切り捨てるだけなのが普通だが、宇宙全体も妄想であるとヒントを与えるのが現代風である。

のっぺら坊とか、ペットの巨大化とか、化け猫、化け犬に関わっていてはどうにもならない。

 

ただし、クンダリーニ・ヨーガ系、密教系、ソーマ・ヨーガ系は、こうした中間的なものを使う。観想法も、中間的なものを使う。キリスト教で、イエスの一生を観想してイエスになりきるのも観想法。イグナティウス・ロヨラの霊操は、その一例。

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今北洪川の悟り

2024-12-25 03:12:12 | 達磨の片方の草履

◎自我の内部が完全に一となり

 

今北洪川は、明治初期の禅僧。鎌倉円覚寺の管長までやった。彼の悟りとされる体験。

『明治時代の著名な禅僧今北洪川は、もと儒教徒であったが、この体験について次のように述べている。

「ある夜、坐禅に没頭していると、突然全く不思議な状態に陥った。私はあたかも死せるもののようになり、すべては切断されてしまったかのようになった。もはや前もなく後もなかった。自分が見る物も、自分自身も消えはてていた。私が感じた唯一のことは、自我の内部が完全に一となり、上下や周囲の一切のものによって充たされているということであった。無限の光が私の内に輝いていた。しばらくして私は死者の中から甦ったもののごとく我に帰った。

私の見聞き、話すこと、私の動き、私の考えはそれまでとはすっかり変わっていた。私が手で探るように、この世のもろもろの真理を考え、理解し難いことの意味を把握してみようとすると、私にはすべてが了解された。それは、はっきりと、そして現実に、私に姿を現わしたのであった。あまりの喜びに私は思わず両手を高く上げて踊りはじめた。そして、突然私は叫んだ。『百万の経巻も太陽の前のローソクにすぎない。不思議だ、本当に不思議だ。』」――続いて洪川は次の詩を作った。

 

まことに、わたしたちは長らく相会しないでいた、孔夫子よ。

このような世界であなたに会えたことを

私は誰に感謝したらよいだろう。

いやそうではない、ここに私を導き来たったのは私自身である。』

(禅 悟りへの道/愛宮真備/理想社P34-35から引用)

 

さて今北洪川のこの体験とは言えない体験がここで書かれたのがすべてだとすれば、今北洪川は、第七身体、マハパリ・ニルヴァーナに到達したのだろうか。

上掲『自分が見る物も、自分自身も消えはてていた。』は、神と自分が合一した時に起きる、なにもかもなし

さらに上掲『自我の内部が完全に一となり、上下や周囲の一切のものによって充たされている』は、神(有、アートマン)と自分が合一した時に起きる状態で、自分は宇宙のすべてであった、という体験とは言えない体験。彼は個と全体が逆転したのだ。

七つの身体論やダンテス・ダイジの指摘によれば、さらに無底の底に降下する身心脱落があり得るが、それがあったかどうかは、この文ではわからない。

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雪の落ちる様は見飽きぬもの

2024-12-24 07:15:09 | 達磨の片方の草履

◎龐居士が禅客を咎める

 

ここ一週間ほどは、北日本の大雪のニュースが伝えられ、例年の二倍三倍の積雪ということで、私は雪国で育ったから、ことさらに高齢化した各地の除雪の苦労が思い起こされる。

 

というわけで雪の禅語録。薬山、龐居士、雪竇(せっちょう)とも、有力な禅僧。薬山のところには、禅客と呼ばれる老師上堂説法時に質問だけをするけしからん輩がいたようだ。

 

雪竇頌古から

薬山を訪ねた龐居士が辞去した。薬山は十人の禅客に門のところまで見送らせた。

居士は空中に舞う雪を指さして言った、「見事な雪だ、一ひらひらが余計な場所には落ちない(最初からそこに落ちることが決まっていたかのように、きちんきちんと落ちる)。」

折から全禅客という男がいて、「どこに落ちますか。」

居士は一発平手打ちをくらわせた。

全禅客、「居士どの、乱暴は困ります。」

居士、「君はそんなことで禅客だなどというが、閻魔大王の前では通用しないぞ。」

全禅客、「居士どのはどうです。」

居士はもう一つ平手打ちをくらわして言った、「目はあいていても盲同然、口はきけても唖(おし)同然だ。」

 

雪竇(せっちょう)が初めの問いかけに別の見方を示して言った、「俺なら雪の丸(たま)を作ってぶっつけるだけだ。」

 

 

雪の落ちる様は見飽きぬもので、雪見酒の風流がある。

雪竇は、龐居士の見方に同意した。

禅では究極を示すことだけが認められるので、脇道に逸れると一瞬にしてやりこめられる。

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大地平沈-只管打坐と下降

2024-12-23 06:59:50 | 達磨の片方の草履

◎天童如浄の語録から

 

ダンテス・ダイジは、クンダリーニ・ヨーガは上昇、只管打坐は下降と唱える。クンダリーニ・ヨーガの上昇は異論のないところだと思うが、只管打坐の下降は結構論証が大変だ。

 

まず道元の師の天童如浄の清涼寺語録から。天童如浄が弟子たちに説法する。

『法座。

大地平沈し、この座は高く広い。千変万化、功無くして賞を受ける。』

(天童如浄禅師の研究 鏡島 元隆/著 春秋社P151から引用)

 

(大意)

『説法の座に拠っていう。大地は等しく沈んでも、この法座は高く広く巌としている。世界は千変万化しても、この法座は無為の功によって賞を受ける。』

 

大地は等しく沈んで、身心脱落する。そこで無為の功(無用の用)が達成されて、その報酬を得る。

 

さらに清涼寺語録から、

『衆寮を建てて上堂す、喝一喝、大地平沈、徧く黄金を布く。』

(上掲書P183から引用)

 

(大意)

『修行者寮を建てるにちなみ、天童如浄が上堂説法。

喝一喝しながら言うには、

大地は等しく沈んで、身心脱落する。そこに黄金を敷き詰める。』

“大地は等しく沈んで、身心脱落“というのが体験とは言えない体験。そこで有の側第六身体アートマンの状況は、世界が自分と合一したので、これを” 黄金を敷き詰める“と云う。

 

台州瑞巌寺語録から

『法座を指して云く、大地を平沈して、高く虚空に出、機先に坐断して、遊戲神通、須彌燈王、下風に立つ』

(上掲書P191から引用)

 

(大意)

『天童如浄が法座を指していうには、

大地は等しく沈んで、身心脱落する。そこで高く虚空に出る。ここに坐することは、あらゆるものの最古、大本、最先端に出ることであって、神通不可思議(超能力もあり、神秘もあり)の世界に遊戯すること。

8万4千の高さの須弥灯王のことも下に見下ろせる。』

大地は等しく沈んで、身心脱落すれば、世界最古最高の根源に達し、世界全体と合一したのだから須弥灯王も下に見下ろせる。

 

天童景徳寺語録から

『問有り答有り、屎尿狼藉、問無く答無し、雷霆霹靂(びゃくりゃく)、是に於て眉毛慶快し、鼻孔軒昻たり、直に得たり、大地平沈、虚空迸裂することを。』

(上掲書P278から引用)

 

(大意)

『問いに対して答えるのは、大小便をまき散らすようなぶざまなものだ。一方、問うことも答えることもしないのは、激しい雷が急に鳴るような素晴らしいものだ。

ここにおいて、意気軒昂となり、直ちに大地は等しく沈んで、身心脱落し、虚空が引き裂かれる。』

 

このように、修行者向け説法の眼目として、ことさらに繰り返し大地平沈を説くことこそ、只管打坐は下降である証拠だと思う。

 

映画「禅ZEN」(2009年 中村勘太郎、内田有紀、藤原竜也等)で、道元の身心脱落シーンがぐるぐる回って上昇なのは、大いに誤解を招いているのではないか。

なお笹野高史の典座(食事係)は良かった。

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雲水は経を読まず、坐禅もしない

2024-12-20 03:49:02 | 達磨の片方の草履

◎雲水の誰もが仏になるわけではない

 

臨済録から。

『王常侍が、ある日臨済禅師を訪ねた。師と僧堂の前で出会うと、そこでたずねた、「この雲水諸君は、いったいお経を読みますか。」

師、「読まない。」

常侍、「坐禅をしますか。」

師、「しない。」

常侍、「お経も読まず、坐禅もしないとすれば、いったい何をするのですか。」

師、「あいつらをみんな、仏にならせ祖師にならせる。」

常侍、「『黄金の粉は貴いが、眼に入ったら病気になる』といいますが、これはどうです。」

師、「今までそなたは一箇の俗物だとばかり思っていた。」』

 

雲水は経を読まず坐禅もしないというのが、黄金の粉で、雲水だからといって誰もが仏になるわけではない。

高官の王常侍に厳しいところを突かれた。

 

禅堂には、UFO(UAP)も宇宙人もないが、中間段階を認めないその作法でもって究極に至ることはできる。

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真実の道心はむずかしい

2024-12-17 00:01:30 | 達磨の片方の草履

◎臨済録-心心不異

 

2024年12月15日、世界各地にレーダーで捕捉できないUFO群が出現。同日イスラエルのシリア攻撃で、きのこ雲が目撃され核使用を疑われているようだ。世界全面核戦争の予言あるいは警告として、霊界からUFOが出現したのか。

ダンテス・ダイジは、UFOは霊界のものと言っている。

 

「究極を悟ることができずに一生を終えれば、この世でむだ飯を食ったその飯代を請求される。」などとダンテス・ダイジは語っていたものだ。

 

河北省で活躍した禅マスター臨済が弟子たちに同じようなことを語る。

『「修行者たちよ、真実の道心を発(おこ)すことはむずかしく、仏法は幽玄で奥深いものだが、しかしみんながわかることは相当にわかっているのだ。わしは一日じゅう、彼らに説き明かしてやっているが、修行者たちはまったく問題にしてくれぬ。彼らは千べん万べんそれを脚の下にふみつけていながら、心中まっくらでそれを気づかずにいる。

それは一箇のきまった形がなく、しかもはっきりとして、他の力を仮りずにそれ自身で輝いているのだ。修行者たちはそれが信じきれないで、すぐに〔仏とか法とかいう〕名句の上で理解しようとする。よわい五十になんなんとして、ひたすら脇道にそれて、死屍(しかばね)を背負って行き、荷物をになって天下を歩き廻る。そんなことでは、閻魔の庁で草鞋銭を請求される日がきっと来るぞ。

 

諸君、わしが『外には法はない』というと、修行者たちはその真意を理解しないで、すぐに内にあると解して、早速壁によって端坐し、舌は上の顎(あぎと)をささえ、じっとして動かず、これが祖師門下の仏法だと思っておる。大まちがいだ。ほかならぬ君たちが不動清浄の境をそれだと考えるならば、君たちはとりもなおさずあの無明を本心と見誤っていることになる。

古人もいった、『深い深い真暗な穴こそ、実に怖るべきである』と。これがそれである。君たちがもしあの動くものをそれだと考えるなら、すべて草木はみな動くことができるのだから、当然それは道だということになる。では言おう、動くものは風の要素であり、動かぬものは地の要素である。動いても動かなくても、どちらも自性はない。君たちがもし動く所にそれを捉えようとしたら、それは動かぬ所に立つ。もし動かぬ所にそれを捉えようとしたら、それは動く所に立つ。

『ちょうど泉にひそむ魚が波を打って自分で踊るようなものだ。』諸君、動くのと動かぬのとは、二つの境にすぎぬ。実は無依の道人こそが、動くものを働かせ動かぬものを 働かせているのだ。』

(禅の語録 10 臨済録 筑摩書房P115-116から引用)

 

『壁によって端坐し、舌は上の顎(あぎと)をささえ、じっとして動かず』これは、坐禅の姿勢

 

隙間理論でいえば、現象の側が真っ暗な穴。坐禅して、不動清浄の境地は真っ暗な穴なのだ。

隙間理論でいえば、隙間のニルヴァーナの側が道。

  

上掲『それは一箇のきまった形がなく、しかもはっきりとして、他の力を仮りずにそれ自身で輝いているのだ。』。

だから上掲『外には法はない』。これは隙間の側。

 

※無依の道人:大宇宙すべてが自分の所有となっている人。仏人合一。即身成仏。第六身体

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