アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

ドン・ファン・マトゥスと世界の見方

2024-04-30 03:59:43 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-10-28

◎垂直上昇への仕掛け-28

◎大逆転と倒立-7

◎人間存在の本質、エネルギーの本質

 

ドン・ファン・マトゥスは、メキシコのヤキ・インディアンのソーマ・ヨーガのマスターにして、カルロス・カスタネダの師匠。カルロス・カスタネダのシリーズ本は、40年くらい前の大型書店の精神世界コーナーには10冊くらいは並んでいて、薬物冥想本なのに壮観な眺めだったものだ。

薬物冥想と言えば、どうしても文化人類学者の研究で薬物を服用したシャーマンが霊界めぐりをするネタが多く、それに目をくらまされがちなものである。

だが、ドン・ファン・マトゥスには、霊界巡り、アストラル・トリップに見える記述もあるが、それにこだわりを持たないところに注意すべきところがある。

 

彼の宇宙では、絶対者イーグルと、そうではないトナール、ナワールが代表的なパワーの代名詞として登場してくるが、必ずしもそれにこだわっていない。つまり世界をどう見るかが見る側の自由な裁量によるという基本線がある。翻って現代社会とは、同じ現代社会としての見方をする人間が集まっているから同じ土俵での議論と生活をしているように見えるだけで、本来社会の見方は、もっと自由に見る見方が許されるのだ。

つまり人間とは、クンダリーニのエネルギー・コードだけが、どんな宇宙、世界でも共通らしいが、それが作り出す現象をどのような社会、どのような世界として認識するかは、本来自由なのだ。

悟りへの冥想修行のかなりの部分は、そうした先入観を壊していくことから始まる。カルロス・カスタネダのシリーズでも、それを手を変え品を変え何度も繰り返し、深めてゆく。

そしてその努力は、最後には、自我の死を迎え、自由な世界の見方というところに行きつく。もっとも、この表現だと見ている自分を残しているが、勿論最後は見ている自分などないところに入る。

 

以下の引用文では、世界認識とは、集合点を直接貫くエネルギー糸(クンダリーニか?)が形成する認識形態のことだと表現している。

 

古代のシャーマン(呪術師)たちが見た夢見の5つの特徴。

1.彼らは集合点を直接貫くエネルギー糸だけが首尾一貫した知覚を組み立てていることを見た。

 

2.彼らはたとえちょっとした移動でも集合点が別の位置に移動すると、異なった別のエネルギー糸がそれを通りはじめ、意識を拘束し、その見慣れぬエネルギー場の集合を安定させて首尾一貫した知覚にすることを見た。

 

3.彼らは、普通の夢の途中で集合点が容易にみずから輝く卵のなかや、表面の別の位置に移動するのを見た。

 

4.彼らは集合点を輝く卵の外の、宇宙のエネルギー糸の位置へ大きく動かすことができるのを見た。

 

そして五つめに、彼らは、鍛練によって睡眠と普通の夢の途中で集合点の整然とした移動を行い、発展させることが可能だということを見た。』

(夢見の技法/カルロス・カスタネダ/二見書房P33-34から引用)

 

ダンテス・ダイジは、臍下丹田スワジスターナ・チャクラに「自由」を充てているが、「自由」とはそういうものなのだと思う。

 

前提:

『宇宙の本質は、あらゆる方向に無限に延びている白熱した糸に似ているというのだ。その輝く糸は人間の頭では理解できない方法で自身を自覚している』(上掲書P18から引用)

 

『古代の呪術師は人間存在の本質、エネルギーの本質を見た。かれらは人間存在の本質を巨大な卵に似た輝く姿として描写し、輝く卵と呼んでいる。』

(上掲書P18から引用)

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ソーマ・パイロットの言葉

2024-04-29 06:18:20 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-10-9

◎芸術と武道とスポーツと仕事での見神、見仏

 

ダンテス・ダイジの『ソーマ・パイロットの言葉』の調子の高さには、当時も驚かされたし、今読んでもみずみずしい感動を呼び起こされる。

これまで私はソーマに触れることはなかったが、20代の頃は、『ソーマ・パイロットの言葉』が何を言っているのかわからなかったが、今ならこう思う。

  1. ソーマ・ヨーガは薬効が切れたらもとの黙阿弥にもどる。

 

  1. 古代インド・アーリア時代に、ソーマ讃歌は起こったが、現代のイランに当たる地域もそれに含まれる。その地域で活躍した聖者としては、ゾロアスターがいるが、彼とソーマが無関係だったとは思えない。その謙譲を基本とする風。

 

  1. ソーマでは、見神、見仏は、おそらくは容易に起こる(だが稀である)。そして神人合一すらも起こり得る。だが悟後の修行である聖胎長養には言及されない。それは、おそらく薬効が切れたらもとの黙阿弥にもどるからではないだろうか。

 

  1. 様々な芸術は、窮極たる神仏の周りを周回し、傑作においてはワンタッチするのが基本線みたいなことを言われる。このワンタッチというのは、とりも直さず、見神、見仏、一瞥のことである。これが、ソーマのあり方に似ている部分がある。様々な芸術とは、絵画、彫刻、建築、工芸、デザイン、写真、作曲、声楽、器楽、指揮、ダンス、演劇からスポーツ、武道までを含む。仕事で悟る事上磨錬もその一種。一瞥したらもとに戻ることが結構あるのではないか。

 

ソーマ・パイロットの言葉』の前半。

 

『ソーマ・パイロットの言葉

 

精神変容をもたらす薬物は、そのドラッグ・トリップ自体が、すでに神ソーマ自身であり得ると同時に、最高の旅の仲間、水先案内人、パイロットである。

あらゆる個別的な生命形態は、そのどうしようもない束縛の中の有限性から自由になろうと永遠に願い続けている。しかし有限性という妄想は、実に陰険で楽しいトリックを個生命達に与えていて、あらゆる生命が本当は無限そのものであることを自覚しようとするのにブレーキをかけている。

有限性に慣れた人間は、有限な自己を唯一の本当の自分自身のようにいつのまにか見誤ってしまう。これが、無限な君を邪魔するブレーキであり無明である。

 

だから、君は死なねばならない。君は、君の見ている「現実」という名の妄想に別れを告げねばならないのだ。

何のために?それは君が最高に楽しくゆかいで愛と安心に満ち自由になるために、あるいは、それらすべてから解放されるためだ。

単純明快なことだ、あたりまえなことだ。

 

君が、君を脱して君自身になろうとする働きが、ソーマ・パイロットで、そのパイロットあるいはガイドには、旅している君だけに与えられる言葉がある。ソーマは、あらゆる姿をとって君に君の消滅を最終的に告げている。君が無限である最後通告を語り続けている。』

(メディテーション/トラベル・ガイド/ダンテス・ダイジから引用)

※この引用文は自殺を勧めるものではなく、自我の死すなわち禅でいう大死一番を言っているものです。

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ソーマ・パイロットの逆転

2024-04-29 03:54:54 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-10-27

◎垂直上昇への仕掛け-27

◎大逆転と倒立-6

◎私はソーマを飲んだのか?

 

ソーマ賛歌は、古代インドのヴェーダであり、調子が高いとは言い難い。

向精神性薬物であるソーマにより大悟徹底、神人合一、宇宙意識への突入を目指すものであるという立場が明らかにされてはいるが、散佚したのか、最初からバラバラに採録されたのかは解らないが、通して読んでも盛り上がりを欠いている。

 

そこで、ダンテス・ダイジが、それを翻案し、『ソーマ賛歌』を歌い上げた。

『ソーマ賛歌

 

果てしなく吹きあれる嵐のごとく

それが私の眼を目覚ましめた

私はソーマを飲んだのか?

 

たくましき軍馬が戦車を引いて天翔るように

それが私を限りなく成長させた

私はソーマを飲んだのか?

 

母なる牛が子牛を抱くように

激しい歓喜が私を包んだ

私はソーマを飲んだのか?

 

戦士が戦車のうちに魂をこめるように

私はこの歓喜にすべてを委ねた

私はソーマを飲んだのか?

 

世界のあらゆる国々なぞ

私の眼のちりほどにも価値はない

私はソーマを飲んだのか?

 

天上の神々なぞ私の爪の垢にも匹敵せぬ

私はソーマを飲んだのか?

 

輝かしい光明のうちに

私は天空と大地のかなたを越えた

私はソーマを飲んだのか?

 

私は地球やあらゆる星星をつまみあげ

ここに あるいはあそこに置いてみては戯れる

私はソーマを飲んだのか?

それともソーマが私を飲んだのだろうか?

 

ハリ・オーム・ソーマ

ソーマ・アムリタ・ソーマ』

(ダンテス・ダイジ/メディテーション・トラベルガイドから引用)

 

LSDの宣伝者となったティモシー・リアリー、マサテコ族のシロシベ(マジック・マッシュルーム)使いの治療師マリア・サビナ。そして草原の草を食べたら海神に変身した古代ギリシアのグラウコス(変身の際の原初の光)。さらに道教外丹の上薬、中薬、下薬と洋の東西を問わず、ソーマをきっかけに神人合一した者はいる。

またドン・ファン・マトゥスは、カルロス・カスタネダにより、1960年代、70年代アメリカのドラッグ・シーンに大きな衝撃を与え、その影響は未だに続いているし、悪影響も大きい。

一方でソーマ・ヨーガは廃人になったり日常生活ができなくなる危険性をはらむが、クンダリーニを勝手に上げたり、我流で気を回したり、ただ固定した姿勢で静坐し続けたりしても、妄想にとり殺される様なことがある。またセックス・ヨーガであるカーマ・ヨーガにも依存性とカルマをぐちゃぐちゃなものにされる危険性をはらむ。

ソーマの危険性は、社会によく知られるところであるが、正師の指導の下、使いようによっては、大悟徹底するものというのが公平な見方ではないだろうか。

どんなまともな行法であっても、人生のすべてを賭けねば大きなリターンはないという原則は共通しており、賭けたからといって必ずしも成功するとは限らないものである。

だが道教の魏伯陽の外丹の故事を見てもすべてを賭けられるものだけが、道に至る。

それでもソーマ・ヨーガは、古代インドでもゾロアスターのペルシャでもハオマと尊称され、重要な悟りに至るメソッドとして命脈を保ち続けている。

ダンテス・ダイジの別の詩にはソーマを水先案内人と見ているものもあり、もう少しで大悟しそうな人や、一度大悟した人がもう一度それをゲットしたり、維持したりするためにソーマを用いる場合もあることが唆めかされている。

また酒をソーマとして使う人もいる。

北欧神話では、ミーミルの泉の水である。

インドラ神は、卑しい漁師の姿になって、不死の聖水アムリタを多量の尿として、ウッタンカ仙人に与えようとした。この尿もソーマである。

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持続するトランス、持続するエクスタシー(サマーディ)

2024-04-28 06:07:14 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-10-8

◎全体と個人の逆転

 

トランスは、様々な方法で引き起こすことができる。飲酒、催眠術、急速呼吸法、煙や香気の吸入、音楽、舞踏などで。加えて、洞窟生活や長期間の個室生活、ドラッグの吸引などもある。

 

トランスは、その性質は深浅高低あるものであって、いわゆる個人的無意識や集合的無意識に止まるのが大半であって、大悟覚醒に至る体験に結実するものは多くはないことを、様々な実験が示している。

 

ティモシー・リアリーが先鞭をつけたLSDやカルロス・カスタネダのシリーズで有名になったペヨーテあるいはメスカリンなどでは、究極に至ることが結構な確率で起こるらしいということが知られてきた。

 

だがそうしたピーク・エクスペリエンス(頂上体験、エクスタシー)は、ドラッグの効き目が切れれば、終わってしまう。これは、禅の究極体験を経た後に、その体験の影響が残るために聖胎長養を必要とすることとは対極をなす。

 

その記憶は残っているかもしれないが、いわゆる彼我の逆転、全体と個人の逆転は、ドラッグでは戻り、正統的な冥想修行では戻らないということなのだろう。

至道無難の指摘するとおり、見神見仏程度では、戻ることがあるのだろう。

 

ただしそれが、見神見仏体験だったのか、あるいは神人合一という体験とは言えない体験だったのかという違いは意識されるべきだろう。だからこそ、古代インドでは、ソーマ讃歌のようなものまであるように思う。

 

ラリっている人は、外面的には、ボーっとして何もしていないように見えるが、中でもエクスタシー(サマーディ、有相三昧、無相三昧)の持続しているケースは、ラーマクリシュナのように社会生活を営むという点では問題があるものの、見る目がある人にとっては貴重な研究材料だったり、風景であったりする。見る目の問題は大きいが、それは自分が悟っているのかどうかということでもある。

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ソーマに酩酊した者の逆転

2024-04-28 03:47:02 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-10-26

◎垂直上昇への仕掛け-26

◎大逆転と倒立-5

◎人はソーマに飲まれ、ソーマになる

 

リグ・ベーダのソーマに酩酊した者の独白から。薬物経由でも第六身体であるアートマンに至ることはある。

人はソーマに飲まれ、ソーマになる。

 

1.かく実に、かくわが意向はあり、願わくは、牛と馬とを勝ち得んことを。---真実、我はソーマを飲めり。

2.前方へ揺り動かす風のごとく、飲みたる〔ソーマは〕、われを上方へおし上げたり。-真実、われは・・・・・・・・・。

3.飲みたる〔ソーマは〕、われを上方へおし上げたり。疾走する馬の車のごとく。――――真実、われは・・・・・・・・・・。

4.讃歌はわれに近づけり、啼く牝牛のいとしき仔牛におけるがごとく。――――――真実、われは・・・・・・・・・・。

5.車匠の車体におけるがごとく、われは讃歌を心に撓(た)めて、吟味す。-真実、われは・・・・・・・・・・。

 

6.五種族(ここでは全人類)は、一顧の値いすらなく我に見えたり。―――――真実、われは・・・・・・・・・・。

7.天地両界は、我が一翼にも匹敵せず。――――真実、われは・・・・・・・・・・。

8.我は偉大によりて天を凌駕せり。この大地をも。―――――真実、われは・・・・・・・・・・。

9.よし、われこの地を、ここにあるいはかしこに置かんと欲す。―――――真実、われは・・・・・・・・・・。

10.われは焼きつつ地を痛撃す、ここにあるいはかしこに。―――――真実、われは・・・・・・・・・・。

 

11.わが一翼は天にあり。他の一翼もてわれは下界に溝をつくれり。―――――真実、われは・・・・・・・・・・。

12.われは巨大なり、雲まで高く登れり。―――――真実、われは・・・・・・・・・・。

13.よく装備せられたる家としてわれは行く、神々に供物を運びつつ。―――――真実、われは・・・・・・・・・・。』

【リグ・ヴェーダの讃歌/ソーマの歌/世界古典文学全集ヴェーダ・アヴェスターP50から引用】

独白者は不明とされる。

 

ソーマは、『われ』というものを、肉体から上方へ押し上げるパワーのある飲みもの。さらに後半に至っては、「われ」は創造神と成り、世界を凌駕し、大地を配置し、大地を火で焼き、雷電で痛撃しさえもする。既に人間を越えて個人は逆転した。

 

ソーマの力は、禁欲的修行の果てにある上方の身体へ『われ』を押し上げるクンダリーニの上昇力として顕れるが、最後には人を神そのものに変える全く別種の上方へ押し上げる力であるように思う。

この独白の最初は牛と馬が欲しいという世俗の願望であったものが、やがて、全人類も一顧の値すらないとして、人間であることの限界を越えて、個別性のない世界に入っていく。

彼は、第六身体(アートマン)の世界に入っていったが、ソーマがその世界への直面と逆転というきっかけを与えたに違いない。

ただしソーマというサイケデリックな薬物も、それを服用することだけで、高度な意識レベルに到達するものではない。

というのは、誰もが死に直面するが、その時、誰もが神を見たり、悟りを開くわけではないからである。あるいは、みんながこの世の終わりの時に出くわしたとしても、みんながみんな悟りを開けるわけではないからである。

だから、古来ソーマは、人の飲み物ではなく、神の飲み物とされ、ただの人は手を出してはいけないのである。

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出口王仁三郎の逆転-3

2024-04-27 03:12:36 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-10-25

◎垂直上昇への仕掛け-25

◎大逆転と倒立-4

◎無我の聲(こえ)こゑなき聲(こえ)をききながら

 

出口王仁三郎が高熊山に入ったのは28歳の頃。

『われは空行く鳥なれや』で始まるその時の感激を歌った歌は、輪廻転生を繰り返す孤独な鳥が単に空を飛ぶだけでなく、人間を越え時空をも超えたことを暗示している。

 

出口王仁三郎の歌集霧の海にも「28歳の頃」というパートがあり、出口王仁三郎の超越体験の中の白眉が28歳の頃起きていることを示す。最初は霊界探訪と高級神霊との出会い、そして逆転に至る。天国から先に進んで行くのだ。

『緑の野辺

  二十八歳の頃

 

天も地も青きが中に唯一人こころ清しく笛の音を聞く

笛の音は虚空にひびき笙の音は地上を流れてわが魂おどる

さっと吹く風に裏葉のひるがへる緑の野辺のかんばしきかな

さみどりの栄ゆる野辺にただ一人立てども淋しと思はざりけり

天地をただ一人のものとして生まれしごとき霊界の旅

さえわたる虫のなく音を聞きながら霊界にさへ恋あるを知る』

(出口王仁三郎の歌集霧の海P191から引用)

 

『精神は澄みきらひつつ自ずから

まだ見ぬ国に踏み入りにけり』(上掲書P175から引用)

 

『たぐひなき珍(うず)の景色にひたりつつ

われは静に無我の聲きく

 

無我の聲こゑなき聲をききながら

われ神国(かみくに)の花に息すも』

(上掲書P141から引用)

 

出口王仁三郎の無我とは何か。彼の随筆集『月鏡』に『不退転信、絶対服従信、仏心、無我心、清浄心、菩提心、日本魂、之を三摩地と言ふのである。』という一文があり、三摩地はニルヴィカルパ・サマディーのことと考えられる。よって無我とは、三摩地はニルヴィカルパ・サマディーのことと思われる。出口王仁三郎は、最後のワンステップは、神仏の助けによらず自分で登ることも言っていて(新月の光(上巻))、わかっている。

出口王仁三郎は、ここに逆転した。入我我入が起こったのである。

サマディーは、水平の道の用語だが、垂直の道における第六身体と実質同じである。これが無我。出口王仁三郎には、霊界物語という主著があり、個なる霊の段階を抜けていないかのように思われているが、仔細にみれば、「無我」というサマーディに至り、既に天国も地獄も超越し、逆転している。

そして覚者の心境のキーワードは、絶対的な透徹した孤独と、見知らぬ、未知ということ。そして世界全体が、自分と一体であるということ(天地をただ一人のものとして生まれしごとき・・・)。

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上薬、中薬、下薬

2024-04-27 03:08:18 | ソーマ・ヨーガ(冥想法5)neo

◎不老不死と仙人

(2016-05-30)

 

古代中国では、薬を上薬、中薬、下薬の三分類した。

上薬とは、不老不死を実現し、仙人になる薬であり、中薬とは、性を養い健康を維持するための薬である。下薬とは病気を治す薬である。

道教的冥想体系では、呼吸法、柔軟体操があり、坐忘などの冥想体験が語られているので、その体系の中の一部として、服薬=外丹があったということになる。

外丹の3分類が上薬、中薬、下薬であって、ヤキ・インディアンの冥想マスターであるドン・ファン・マトゥスが、ペヨーテ・サボテンを用いて人を別の世界での修行(ソーマ・ヨーガ)にいざなったが、ペヨーテ・サボテンのようなものが、上薬に該当する。

不老不死を実現し、仙人になるなどというのは、いわば客寄せの看板のキャッチ・コピーのようなものであって、文字通りの不老不死実現や仙人になることではない。魏伯陽のようにすべての世俗的なものを捨て去った者が初めて入れる道であって、その道の途中で望見するもの一つが、不老不死や仙人ということになるのだろう。

中国では世俗には王道があるが、世俗を問題にしない者にとっては、別の「道」がある。

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出口王仁三郎の逆転-2

2024-04-26 03:06:36 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-10-24

◎垂直上昇への仕掛け-24

◎大逆転と倒立-3

◎富士鳴門の仕組み

 

出口王仁三郎は、六度死に、その都度呼吸停止心拍停止を発生し、その際に神人合一の状態になったのだろうと思われるが、本人はそのことについて詳述してはいない。

そのすべてが大悟であったと思うが、その最初は、高熊山の洞窟での1週間の集中冥想である。その感慨について出口王仁三郎は、「遺書」という名目で書き残している。

雑誌神霊界の大正10年1月号に「回顧録 高熊山」というのがあって、出口王仁三郎の入山に際しての遺書のようなものが置いてあった。

その経緯は、

『改過の念は一時に 心機忽(たちまち)一転再転、ついには感覚の蕩尽、意念の断滅。

翌朝になって王仁の姿が見えぬ、家族は大心配

不図(ふと)床の壁を見ると筆太に

 

大本大神

 

然も王仁の筆跡

机の引出には羽化登仙の遺書一通

 

あやしきを あらじといふは 世のなかの

あやしきしらぬ しれごころかも   (宣長)

 

抑(そもそも)遺書の文意は如何、天下国家の一大事、然しかも三大秘密、王仁の生母は忽たちまち火中に投げ入れた。後日の難を慮もんぱかつたのであろう。』

 

と火中に投げ入れたはずの遺書の内容は、

 

『我は空行く鳥なれや

○○○○○○○○○○(原文のママ)

遥に高き雲に乗り

下界の人が種々(くさぐさ)の

喜怒哀楽に囚はれて

身振足振りする様を

我を忘れて眺むなり

 

実げに面白の人の世や

されどもあまり興に乗り

地上に落つる事もがな

み神よ我れと倶(とも)にあれ』

 

この内容だと、個なる自分を脱し切ってはいないが、初めて霊肉分離してアストラル・トリップした人間特有の驚きが先に立っていると思う。

むしろ『下界の人が種々の

喜怒哀楽に囚はれて』という部分に彼の人間としての生が卒業に近いことを見る。

そして自分のことを空行く鳥と見る立場こそ、神人合一という個と神の逆転への一歩手前に立っていることを示す。その先には言葉で語れないすべてのすべてがある。

 

なお伏字の内容はいろいろ取りざたされているが、自分から見た三大秘密は、

1.出口王仁三郎の出生

これは、皇族のご落胤など世間でいろいろと云われているので、ここでは触れない。

出口王仁三郎は、明治維新は20人ほどのチームでやったと指摘しているが、それにも影響しているのだろう。ちなみに彼の一人の師匠本田親徳は薩摩出身である。

 

2.出口王仁三郎の霊統の流れ

本田親徳、出口王仁三郎、ダンテス・ダイジと続く、近現代の日本スピリチュアル界の本流。

 

富士鳴門の仕組みに象徴されるクンダリーニ・ヨーガの秘儀の継承。

艮の金神は、本流でありながら、弾圧を受けたり、世の中の人に知れないままに隠れていた。それと似たような扱いをこの三氏は受けている。

宗教も既存エスタブリッシュメント教団か、時の政権に近いかでないと全く評価されないのが今の時代だが、まさに本流は評価されないどころかタブー視されている。

 

「出口なお王仁三郎の予言確言P254」によれば、昭和10年十二月四日の真夜中(第二次大本教事件の4日前)、出口王仁三郎がひそかに亀岡・天恩郷のオリオン星座にちなむ月宮殿に入り、ご神体を他の石と取りかえるのを側近内崎照代が目撃しているそうだ。このご神体が崑崙山中へご返還された。

 

3.日本の行く末

一厘の秘密。

日本の構造はレイラインではなく、地の龍脈。枕崎、阿蘇から鳴門、伊勢、諏訪、鹿島の中央構造線。

出口王仁三郎には、日本龍体説がある。

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グラウコス=向精神性薬物による転移

2024-04-26 03:03:54 | ソーマ・ヨーガ(冥想法5)neo

◎海神になったが悟ったわけではない

(2012-01-26)

 

古代ギリシアのグラウコスは、草原の草を食べたら海神に変身した人物。それをオウィディウスは、変身と分類するが、転生とか、意識の転移という表現のほうが的を得ているように思う。

 

『どこかの神がそれをしたのだろうか。それとも

草の汁のしわざだろうか。それにしても、どんな草に

これほどの力があるのだろう。

 

私は草を何本か摘むと、

それを噛んでみた。私の知らない液汁が、

喉を通っていく。

 

と、突然、

心の琴線が震えるのを感じた。私の魂は

別世界に憧れて、消え入りそうになった。

 

もう待つことはできない。「さようなら」と叫んだ。「さようなら、

この大地はもはやけっして私の故郷ではない」というと、

私は海の中ヘ飛び込んだ(オウィディウス 変身物語)。』

(麻薬の文化史/D.C.A.ヒルマン/青土社P165から引用)

 

これは、帰って来なかった。

ただ起きた出来事は、中国の故事にある呂洞賓の邯鄲の夢のような、完全な別人生を短時日にして最後まで体験するエピソードの一種であって、元の人格にまだ戻っていないものであると見ることができる。

荘周胡蝶の夢では、蝶が自分か自分が蝶かと惑うが、それは実は問題ではないことを示している。

果たしてグラウコスは、人間に戻ることについて何の未練もないように感じられる。魂が乗り物であるボディを替えるというのは、クンダリーニ・ヨーガの秘儀というよりも死をきっかけに人間には必ず起こる日常茶飯事なのかもしれないと思った。

このシーンでは、きっかけが、たまたま草原の草であったことをあまり重要なものと見るべきではないと思う。きっかけよりも意識の変容の質である。グラウコスは海神となったが、悟ったわけではないのだ。

 

もっとも悟った悟らないを問題にしない人に向けては、この逸話のように海中に入ったり、金星や火星に生きたり、白日昇天したというような寓意でもって、全くの異世界、異次元に進むという感触を与えることを狙う場合もある。

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穀雨のバランスと歩行改善と転倒防止エクササイズ

2024-04-25 05:13:59 | 天人五衰、ロコモ、フレイル

◎身体バランス練習、シニア向け

 

春なのに梅雨のような天気が続き、来るべき酷暑も思いやられ、冷却グッズを気にするこの頃です。

Olivia Lawsonの室内散歩に変更して、1か月半以上経過しました。これは、1回20分を一日3~4回やるようにしています。

片足立ち時間は、1秒だったのが、5秒できることが多くなった程度の改善です。実は革命的な進歩ではあります。

 

Olivia Lawsonの室内散歩メニューは結構きつく、ふくらはぎの張りはなくなったものの、太ももの張りが継続、むしろ下半身の筋肉の凝りが課題になるようになりました。中腰でのポーズがわりにあるのと上半身ねじりが多いのが特徴ですが、これはネット動画の老人向け体操にはあまり出てこない種類のものであることが着目点です。

能楽によくある膝を半端に曲げたままの動作は、まだできると言えるほどではありません。全体的に膝回りが強化され、太ももの付け根の痛みは変わりません。

膝回りの強化のおかげで、バランスのとり方は少々上手になった感はあります。ただし、その場での膝を曲げたままの駆け足はまだできません。それほどに足裏・足首以上の筋力が何十年単位で弱まったことを感じさせられます。それもOlivia Lawsonをやり始めてからわかったことです。

Olivia Lawsonの室内散歩は、1メニュー40秒から50秒ですが、きついので30秒ぐらい画面どおりやり(以前は20秒)、残り時間は足踏みが多いです。

まず転倒しないことに注意し、やると必ず痛めるポーズはやらないように、それとやり過ぎに注意して進めています。

なおスマートウォッチで、心拍を見ながらやっていますが。心拍が90台になると疲れた感が出ます。100を超えると負荷かけすぎかなと動作をセーブしています。

以下はOlivia Lawsonの室内散歩のおすすめ一例ですが、STANDING CARDIO というのが適度に負荷があり室内向けには適しているように思います。

なお30分、40分ものは20分で切って分割でやっています。

 

40 MIN METABOLIC WALKING EXERCISES FOR WEIGHT LOSS- No Jumping _ Standing _ Walk at Home Workout

40 MIN METABOLIC WALKING EXERCISES FOR WEIGHT LOSS- No Jumping | Standing | Walk at Home (youtube.com)

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出口王仁三郎の逆転-1

2024-04-25 03:00:21 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-10-23

◎垂直上昇への仕掛け-23

◎大逆転と倒立-2

◎世界、宇宙そのものが自分である

 

現代における出口王仁三郎の評価は異常に低い。生長の家をはじめ、戦後の神道系新興宗教教団がほとんど隆盛であって、なおかつその源流が出口王仁三郎であるにもかかわらずである。

出口王仁三郎は、一見して、見ている自分からの超出を描いたものは、無我を説くものがわずかにある程度。ところが、仔細に見てみると、次のような歌も、みじめで情けない自分を遥かに飛び出して、世界、宇宙そのものが自分であるという立場から詠まれていることに気づく。

 

日地月あつめて造る串団子

星の胡麻かけ喰ふワニロ

(霊界物語第37巻七章)

 

日地月星の団子も食ひ飽きて

今や宇宙の天海を呑む

(霊界物語入蒙記第6章)

 

私は、この歌は最初アストラル・トリップで太陽系外に飛び出して、そこで見た風景の描写かと思っていたが、それでは太陽地球月を自分の腹中に収めることなどできない。

また出口王仁三郎は、この歌を見た大衆が自分のことを、異常心理にあって、神か、魔か、人か、誇大妄想狂か、二重人格者か、はたまた変態心理の極致の狂人と思うに違いないと予測している。

この令和の時代にあっても、世界と自分が合一するなどという現実は、依然として常識ある社会人にとって、誇大妄想狂の妄言に過ぎない。だがそれこそが、目指すべき神人合一の有り様である。

 

出口王仁三郎の霊界物語第37巻余白歌より(関東大震災直後に詠める)

 

関東の地震に勝る人造の

地震治むる神の権力

(上掲書十章)

 

醜司(しこつかさ)自身神也火の車

乗りて市中を駆けめぐりつつ

(上掲書十一章)

 

何事の勃発すとも惟神

任す真人の自信神也

(上掲書十一章)

 

神勅の地震雷火の雨は

乱れたる世の状をいふなり

(上掲書十二章)

 

関東大震災以上の人工地震を起こそうとする者もいるのだろう。

※自身神也と自信神也は、自分が神であることを示す。

※昭和東南海地震(1944年12月7日)M7.9に際して、地震が止まないので出口王仁三郎は、天に向かって『鎮まれ』と二度叱咤したところ地震は止んだ。(出典:新月の光 下巻/木庭次守/八幡書店P239)

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自分と神仏が大逆転

2024-04-24 03:09:46 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-10-22

◎垂直上昇への仕掛け-22

◎大逆転と倒立-1

◎本当の愛や本当の善や本当の安らぎに出会う

 

悟りとは自分と神仏が逆転することだが、悟りによってその世界を逆転させないと、人は本当の愛や、本当の善や、本当の安らぎに出会うことはない。

 

そこで悟りにアプローチしていくには古来冥想が、主たるメソッドとして存在していた。しかしながらそれには、ディレンマがあり、自分と神仏が逆転するというポジションに内在しているものだが、見ている立場が全く異なった視座になるということに起因している。それが故に、見ている立場を一定させる現代科学の視点からは、悟りで起こるその逆転を肯定的に評価することはできないということ。(見ている立場が、自分個人から世界のすべてである神仏に変わってしまうというディレンマ)

要するに悟りを肯定的に見るということもできないし、また悟りに至るメソッドとして冥想があるということも論証はできないということ。

 

【アヴァターラ・神のまにまに】では、メインのテーマの一つが、逆転、倒立の明確化。古今東西様々な悟りのステップが呈示されているわけだが、

現代人には、一気通貫、一直線タイプのカリキュラム体系が受け入れやすいが、最も重要な最終バック・ストレートが逆転、倒立になっていることは、わりに強調されていなかったり、隠されたり、はぐらかしたり、未公開になったり、口伝になったりしている。すなわち、神人合一後に、見ている自分がなくなってしまう時点での逆転とか倒立という驚きやら感激については、なぜかあまり語られていない。

もっとも、最重要な事柄は、往々にして平素日常から慣れ親しんで公開されている言葉だったりするのだが。

 

人間が神仏になるとは、個人が世界全体宇宙全体になるのだから、逆転である。その想像を絶するさわりの部分は謎に包まれている。そこは、ユダヤ教の生命の樹(セフィロト)では、深淵として表現されている。禅の十牛図では、忘牛存人と世界全体である牛がいつのまにか消えたとだけ、結果報告だけですましている。

第五身体コーザル体の先は、第六身体アートマンであり、神であり仏である。ところが諸聖典、古伝承、神話には、第五身体コーザル体のことはさらっと書いており、どうすれば神仏に到達できるかどうかを微に入り細に入り書いているものはない。

 

さて、善のサイド、天国の側を窮めることだけが神仏への道である。悪魔は神になることだけはできないからである(ダンテス・ダイジ)。

そして天国から神仏へはジャンプ・アウトしなければならない。だからタロット・カードでは、吊るされた男として世界の逆転を暗示し、世界樹は、根を上にして、枝葉、樹冠を下にして、これも上下逆転をシンボライズしている。天国と神仏の間には大逆転があるのだ。

 

西洋錬金術書、逃げるアタランタXXVIIでは、『鍵』は知的理解、『錠前』は冥想法。『鍵』はそれまでの一切の固定観念、世界観を全く逆転するものであるから、『「毀ち、衝撃を撥ね返し、人々を破壊する風とともに見つかるだろう」』という表現になる。鍵は、賢者の石であって卑しいと言うのは、価値観の逆転後(世界の逆転後)での表現。精神的なものにこそ価値があると見る世界観にあって、初めて賢者の石の価値が高いものとわかる。このカネ至上の人々の多い時代には、賢者の石は卑しく見える無用の長物。無用の用。

 

そして大逆転への準備は、成熟である。自我が成熟しきるとは、いつでも死ぬ準備のできている自我であること。個なる自分は、それまでの人間関係、恋人、家族、財産、名声、地位などの自分を取り囲むすべての宇宙に別れを告げて、すべてがすべてである新たな宇宙に逆転して入って行く局面があるのだが、その逆転を『いつでも死ねる』とシンボリックに言っている。

なお、それまでの苦闘の途中では、すべてを望めば、すべてが手に入らないという現実に直面する。これが、「全面否定は、全面肯定自身が、人間に現れ出る出方の一つ」(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジ)であって、世界の逆転となる。

 

ギリシア神話の逃げるアタランタでは、アタランタが神仏であり、どこまでも彼女を追うヒッポメネスがエゴである。エゴが残っている限り神仏にはなれないが、徒競走で、ヒッポメネスは三度黄金の林檎を投げ、先行するアタランタが黄金の林檎に気をとられている隙に逆転し、最終的に先にゴールすることができた。これによりヒッポメネスは、アタランタと結婚し、神となれた。

 

一方古事記では、伊弉諾(イザナギ)命が、黄泉の国から退却する際に、黄泉比良坂で、追手の黄泉醜女(よもつしこめ)や八柱の雷神などに対し三度桃の実を投げつけることで、生還することができた。

黄泉比良坂が逆転の均衡点。その坂は、

善悪、正邪、治乱、興廃を分ける坂であって、坂を上りきるのが逆転。

 

人が全知全能の神になるのが、『大逆転、倒立』であって、それは大変なことである。縁のない人とっては、それは、しばしば信じられない出来事、想像もできない出来事である。

 

出口王仁三郎から。

『立替と立直しは一緒や。立替せねば、立直しはできぬ。

(昭和二十一年六月十五日)』

(新月の光 下巻/木庭次守/八幡書店P367から引用)

と言っているが、これは、まず自分が死ななければ、自分が覚醒することはないということ。新時代は、覚醒した人、悟りを開いた人だけの時代となるからには、多くの人が自我が死んで甦るという体験とは言えない体験を経ないと実現しない。

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しっくりくる

2024-04-23 03:48:17 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-10-21

◎垂直上昇への仕掛け-21

◎精神の成熟-5

◎生きること自体何かスッキリしない

 

しっくりくるというのは、感性と洞察。だがその選択の結果は、自分の今生の行く末を決めてしまう。

見者、覚者はいざしらず、絶対的な境地を通過したことのない人間にとって、愛も、実在、智慧、歓喜も、真善美も、タオも全く縁のない異次元のテクニカル・タームでしかないのだ。

 

生きること自体何かスッキリしないという感じを持っている人は少なくないものだ。その状態から脱却するのは、何年経っても難しい。何をしてもぜんぜんしっくりきてなくて、変わらない。だけど、そういう状態でもなんとかやっていけるだろうし、そういうぬるま湯でも、ちょっと苦しい生活であっても、もういい、もういいくない。

人は、法を守り、社会規範を遵守していっても、必ずやそれが本来の自分の生き方ではないところがあることを随所に感得してしまうもの。

こうしてこれが複雑な現代社会に生きる人間に課せられたトリック。それが、ストレスであり、社会的にやや不適応な感じ、しっくりこない感じの出どころの一つである。

こうして自分の気持ちをのぞいてみると、自分の個人的な秘密のゴミ情報ばかりなのだが、それは個人的無意識とも呼ばれ、その情報群は多重であり、複雑にからみあっており、想像や嘘や思い込みや推測や真実もがんがん入り混じっている。

これに不安、恐怖、喜び、爽快さ、生きづらさなどの情動も加えられて、そんなゴミためを覗いても労多くして益少なし。そこで人は、ただ確かなもの、本当にしっくりくるものを求める。

 

酒だ、癒しツールだ、ブランド品だ、有料パワーアイテム、エンタメだなどと一時の満足を求めても空しい。人はそれを何万回も繰り返してきたはず。

仕事もそうで、現代人は自分にふさわしい仕事があるなどと思っていて、それが自己実現だなどと、アメリカ流の個人主義を土台にした社会的自我確立手法が疑いもなく正しいものだなどと思い込んでいることが多い。

他人の飯は白いのだ。転職における心身の負荷は想像以上だ。ソ連解体後、かの国では、ほぼすべての国民が転職を余儀なくされ、多くの人々が酒におぼれ、自殺は急増した。外に確かなものを求めるというのは、一般には大変なことだ。

 

確かなもの、しっくりくるものを求める気持ちは万人にあるが、奥底に神仏への敬虔がないと、うまくいかないのではないかと思う。なぜなら私利私欲だけで確かなもの、しっくりくるものを求めても末路は宜しくないように思われるからである。

人は、日々善いことをして、悪いことをしない。その上で、あらゆる実感を窮めるだけの好奇心と情熱が足りている者だけが、神仏に到達できるのだ。その点で、今生でのエネルギーの充溢というのは、窮極に達するためのクリティカル・イシューである。

何がしっくりくるのかは、人により千差万別であり、自由意志で好き勝手に決められる事柄に見えるが、その簡単さと裏腹に、その選択の判断の由来と結果は、とても重大なことである。それが成熟の結果を示しているからである。神仏に出会うというようなチャンスが来た際につい眠ってしまうのが、大半であり、その時大方の人は眠るのがしっくりくると思っているのだろう。

しっくりくるかどうかというのは、意外に重大である。

 

自我が成熟しきるとは、いつでも死ぬ準備のできている自我であること。個なる自分は、それまでの人間関係、恋人、家族、財産、名声、地位などの自分を取り囲むすべての宇宙に別れを告げて、すべてがすべてである新たな宇宙に逆転して入って行く局面があるのだが、その逆転を『いつでも死ねる』とシンボリックに言う場合がある。

 

日々の冥想習慣は、大事なことだと思う。

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目次8

2024-04-22 07:11:21 | 目次(カテゴリー別)



【密教neo】
フィリポによる福音書の復活(永遠のアイオーンへと昇る )
 定と三昧の違いと冥想十字マップ(昼と夜のサイクル根本テキスト )
 観想法専用ルームサムデ・プク(タシルンボ寺郊外の洞窟修行)
 比叡山で仏を見る-1(高川慈照師の好相行)
 比叡山で仏を見る-2(好相行とは  )
 空海以前の虚空蔵菩薩求聞持法(法相宗の神叡)
 覚鑁(かくばん)の虚空蔵菩薩求聞持法(メソッドとその結果の不定性)
 空海の死(肉体を残す)
 チベット密教の近道(ナーローパの修行)
 あがきすぎる、何も手を打たない、完全にあるがままにある(自分自身を成長させる意志)
 最澄の籠山(十二年籠山行の起こり)
 フィリポによる福音書の復活(永遠のアイオーンへと昇る)
 女性チベット密教修行者ナンサ・ウーブムの復活(グルなしでポア)
 立川武蔵のシャクティ・パット(不用意にチャクラを開かぬようよくよく用心すること)
 ダライ・ラマとアメリカ(弱腰な対応に終始 )
 ヨーグルトと明星(虚空蔵菩薩求聞持法の周辺)
 虚空蔵菩薩求聞持法もいろいろ(洗脳に無防備な状態)
 六条御息所と世界の見方(霊のある世界、神仏のある世界)


【マインド・コントロールneo】
マインド・コントロールのない宗教(それを払しょくするか、相手にしない行法)
 あらゆる手段で精神を揺るがせる生活環境(現代の洗脳の全容)
 無明と洗脳(君は最高我であって、輪廻しない)
 ネット・ポルノ中毒or依存症(ポルノを繰り返し見て深みにはまる)
 神殺しの日本-梅原猛の見方(冥想がなければ始まらない)
 マインド・コントロールと冥想(「縁」  )
 ニュースを見ない人々(戦前以上の思想統制の足音)
 他人を監視することと幸福(他人のプライバシーへの異常な関心と巨大監視システム)
 あらゆるプロパガンダと考えない人々(頭人間のとる受動と能動)
 ブランドに価値があると考える人々(金のない奴は、価値のない奴)
 修行の結果に個人差(二重の不確実性)
 完璧な分断と絆幻想(平時でも分断孤立した生活と意識)


【超能力・霊能力neo】
ヒマラヤ聖者の生活探求(無私の願望の実現)
 超能力の落とし穴(超能力者を中心としたカルト化)
 霊言、チャネリングの見極め方(審神者の資格としての見神)
 過去世記憶の取扱い(「過去世と意識の進化」の罠)
 釈迦の超能力(第一の関心事は冥想修行)
 スーパーチャネラー-1(出口ナオ-1)
 スーパーチャネラー-2(出口ナオ-2)
 呪殺の論理(勘違いの所業)
 ツンモ=人間発熱機の威力(肉体でできること )
 超能力の落とし穴-1(超能力の特質)
 超能力の落とし穴-2(超能力者を中心としたカルト化)
 ハプスブルグ家の言霊による繁栄(AEIOU)
 幽霊とはなにか(砕霊と幽霊考)
 第三の目を開く(それなりの医学)
 不動金縛り(幽霊も怖じ気づく)
 エクソシスト稲生平太郎(稲生物怪録)
 逆さ吊りになっていない「吊るされた男」(シャクティパット)
 西洋の記憶術と虚空蔵求聞持法(記憶術と観想法)
 即位礼正殿の儀の晴れ(晴天の真贋)


【古神道の手振りneo】
三神系-1(野立彦命(のだてひこのみこと))
 三神系-2(霊界から見た宇宙)
 三神系-3(太陰)
 道之大本(信仰に対する基本姿勢)
 本田親徳の古神道的窮極(冥想の深まり)
 依り代と審神者(依り代から見神へ)
 石あるいは黄泉の国の境にある千引岩(石は「真」のシンボル)
 古事記言霊解通読-4(黄泉比良坂の坂本は世界の根源)
 日本を狙う中ロ予言-1(出口王仁三郎の古い伝承)
 日本を狙う中ロ予言-2(なづな七草、生物化学兵器)
 第二身体(エーテル体)は、濃縮した煙(エーテルの更に先-1)
 天皇と天照大神が同殿同床(いつのまにか別の部屋)
 同殿同床の終りと神祭の始まり(人のパワースポット)
 衝撃のスマホ電子メール出現の予言(出口王仁三郎、百年前に時期もバッチリ幻視す)
 天鈿女命(あめのうずめのみこと)の意義(頭頂の封印)
 伊勢神宮の朽ちかけた時代(宗派なき古神道)
 言霊の基本(息から声へそしてシンボル)
 アオウエイの五声(言霊の真言の道を知らずして 此神国の治まるべきやは)
 ノアの言霊(ノアとナオとの方舟)
 澄みきる(言霊の根源)
 古神道の七チャクラ(十曜の神紋)
 出口王仁三郎の祖父-1(賽の川原で賽拾う)
 出口王仁三郎の祖父-2(先祖代々の深い罪障を取り払う)
 出口王仁三郎の祖父-3(祖父さんが死ぬ三日前)
 出口王仁三郎の祖父-4(人間に他の神霊が来て助けるか)
 東京で仕組を駿河美濃尾張-1(文明と神人合一)
 東京で仕組をするが美濃尾張-2(東京での世界を取ろうとする仕組は二度ある)
 立替立直しの概要(わが身が神を知る)
 古事記言霊解通読-1(伊弉冊神(いざなみのかみ)火の神を生んで亡くなる)
 古事記言霊解通読-2(世の上流から下流まで濁りきる)
 古事記言霊解通読-3(正しい教え、誠の信仰)
 古事記言霊解通読-5(神と出会った人だけが黄泉比良坂攻防戦へ)
 冥加(神々の大恩に対して感謝)
 伯家神道の予言(国体は滅亡するのか)
 ひらがなの意味(世界創造の道具)
 海幸彦と山幸彦(無間勝間(めなしかたま)の神船)
 古事記をいつ書くか(今再びの中国の日本占領の企てが見える)
 ノアとナオとの方舟(別名目無堅間船)(神様は更に公然と世間の人民に予告は為さらぬ)
 立替立直しと霊界物語の余白歌(立替の経綸の奥は沢あれど 人に言はれぬ事の多かり)
 吉岡発言(神は(人に)持ちきりにさせない)
 天津神を降格す国津神を昇格す(主役が端役に、エキストラが主役に)
 出口王仁三郎のモンゴル入り(東亜の天地統一)
 AKB48の遭難と出口王仁三郎入蒙(よしや身は蒙古のあら野に朽つるとも日本男子の品は落さじ)
 出口王仁三郎の入蒙の評価(日本大衆の深いレベルの情動動かす)
 天王台の審神(守護神も含めた全人類の審神)
 知られざる大本裏神業「一厘の仕組」の謎-1(茜大神、菰野、淡路島、伊勢)
 知られざる大本裏神業「一厘の仕組」の謎-2(富士と鳴門の仕組みの完成)
 たまほこのひ可里(三種の神器を守る)
 旭形亀太郎メモ(知られざる明治維新の元勲)
 大八洲神社のご神鏡(世乃中乃事有(よのなかのことあ)る時ぞ知られける)
 続瑞能神歌の真偽(早すぎる水爆登場)
 ひらがなの意味(世界創造の道具)
 日本人が知っておくべきこの国根幹の重大な歴史(出口王仁三郎の出自など)
 幽斎と顕斎の混合(神像も神社もなく)
 40年ぶりの巨人出口王仁三郎(在家の菩薩が道を説くようにならな、みろくの世はこない)
 北大路魯山人が出口すみの書を激賞す(よがかわり てんかむるいの へたなじをかく)
 最終戦争以後(隠されていた大本神諭)
 天津罪と国津罪-1(天津罪)
 天津罪と国津罪-2(国津罪)
 阿比留文字と阿比留草文字(阿比留草文字こそ正統)
 切紙神示と共に甦る孝明天皇の遺勅(予言)(たまほこからみろくの世の光が始まる)
  大物主神、レディの秘所を突く-3(古事記の天国と地獄の結婚-4)
  大物主神、レディの秘所を突く-1(古事記の天国と地獄の結婚-2)
  大物主神、レディの秘所を突く-2(古事記の天国と地獄の結婚-3)

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メンタル体での脱身と究極への突入

2024-04-22 03:41:38 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-10-20

◎垂直上昇への仕掛け-20

◎精神の成熟-4

◎呼吸停止、脈拍停止

 

2.メンタル体での脱身

第二のバローメーターとして、メンタル体での脱身。

メンタル体での脱身については、『ニルヴァーナのプロセスとテクニック/ダンテス・ダイジ』が最も詳しい。

また出口王仁三郎慧命経も参考になる。

メンタル体での脱身に先行して、呼吸停止、脈拍停止が発生する。これが肉体死との近縁性が語られる部分である。

以後順調に進めば、神仏に至る。

 

なお呼吸停止、脈拍停止は肉体死だが、肉体死する者にも見仏見神のチャンスはあるといえども、大半の人は、それを取り逃がして輪廻転生の方に行ってしまう。

悟り、覚醒とは、大雑把に言えば、メンタル体ベースからの脱魂・脱身が一里塚。それ以後のプロセスが急速に起こるのが身心脱落、緩慢に起こるのがクンダリーニ上昇なのだろうと思う。

 

人間として正統な成熟を遂げるということがその準備ということになる。それができていないのに、脱身とか脱魂とかクンダリーニ上昇をチャレンジする場合、神仏に叩き落されるというのはありそうなことである。

 

3.究極への突入

『ニルヴァーナのプロセスとテクニック』だけを読めば、メンタル体での脱身以降は、半自動的に究極への突入まで進むかのように思うかもしれないが、OSHOバグワンの『奇跡の探求』を読めば決してその道筋は一本道ではないことがわかる。出口王仁三郎の書きぶりも、団体のパック旅行の参加者のような気楽なものではない。

またOSHOバグワンによれば、肉体への生還も、そう簡単なものでもないらしい。

よって、究極への突入も第三のバロメーターたり得ると考える。

 

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