アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

2.悟りとは何か-7

2023-09-01 06:49:40 | 夢と真実neo

◎クンダリーニ・ヨーガ系冥想の悟り

(2009-01-15)

 

クンダリーニ・ヨーガでの究極の体験がそのものズバリで文献に残っていることはまずない。大体が西洋の錬金術書のように、その体験のないものが読んでも全く何のことか想像できないような文献ばかり残されている。

 

2.出口王仁三郎のケース

 

出口王仁三郎は人生の中で5~6回肉体死を経験したと語っているので、そのうちの一回は中心太陽への突入体験であったのではないかと考えられる。また自分が神であったことも、唐突に、前後の脈絡なく述懐している。

 

その時の体験は、バラバラな形で残している。

 

(1)上昇の過程

  霊界物語第五巻に、「神」マークのついた人間が、先に鉤のついた黄金の霊線に沿って引き上げられる様子が書いてある。出口王仁三郎が、黄金の霊線と見えるクンダリーニのエネルギーコードに沿って、多くの人間が無数の宇宙を上昇していくことを自分も上昇しながら、その霊眼で確認したものと考えられる。

 

(2)中心太陽への突入体験

 

  出口王仁三郎は、中心太陽への突入体験を無我の境と表現する。大なる神の我という状態があることが日常の生活感覚での吾と全く違うことをことさらに主張することは、その体験とはいえない体験がある者だけのモチベーションから来るものだと思う。

 

『無と云ふ事は言霊学上、天といふ事である。我と云ふ事は霊的に見た自分、宇宙と合致したる自分。自己の肉体をさして吾と云ふ、吾のわれは五つの口と書く。鼻の穴、口の穴、耳の穴、尻の穴、小便の穴、この五つの穴を備へた肉体の自分をさして吾と云ふ。

 

無我の境と云ふ事は、天地の神と融合したる状態である。慾望もなく、怨恨もなく、好きもなく嫌ひもなく、自分もなく人も無く、神の懐にとけいつて、神は我なり我は神なり、神人一如の境地に立つた場合を無我の境と云ふのである。

 

吾人の吾もわれなれば我国の我もわれと云ふ。併し乍ら、【我】と云ふ場合は大なる神の我、【吾】と云ふ場合は一個の肉体の吾となるのである。われわれとか、わが身とか、わが家、わが妹、わが妻など書く場合は必ず吾の字を用ふるのが至当である。』

(水鏡/出口王仁三郎/天声社から引用)

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悟りの実現可能性

2023-01-04 06:02:58 | 夢と真実neo

◎二重の不確実性

 

悟りとは、すべてを捨て去った後に到来する日常性からの超越である。

 

この情けない人生を超越しようとする気分の根底には、この世の不条理の徹見、つまりこの世を生きるのがつらい、生きるのが大変でどうしようもないという気分、生活実感というものがある。

 

それがなければ、そうしたジャンプをしようとまでは思わない。この辺にまず魂の経験値に個人差があり、更にそれが修行結果に反映するという絶対的な法則を見る。

 

つまり経験値が十分でなければ、まだまだ贅沢な生活や燃え上がる恋なんかに未練を残していて、あるタイミングがくれば、冥想修行へのトライなんか中途でやめてしまいがちなものだ。

 

それでは、魂の経験値の問題をクリアできたならどうだろうか。

準備ができた修行者は、ジャンプ台の上に乗っていざ滑り出したとする。やがてジャンプもした。

 

ジャンプの瞬間は、どんなものでも受け入れられる程オープンになっているので、どんなものでもやってくる。着地したところが仏の場合もあれば、運悪く?悪魔の場合もあり、大日如来との合体を目指していたのに、全く別の阿弥陀仏の慈悲の大海を見てしまうようなこともあるだろう。

 

これなども、本人の資質や、平素の行動の善悪、そして前世を含めた過去の修行の結果が反映するというところがあるのではないだろうか。

 

要するに、冥想修行となれば、ある一定の修行方法で、ある決まった結果が出るのを大前提に考えてはいるが、まずその修行が成就するかどうかは保証できるものではない。これが第一の不確実性。

 

その上、結果が、その修行方法で予期された形に必ずしもなるものではないというもう一つの不確実性があるのである。つまり只管打坐メインで修行していたが、観想法もついでにやりづけた結果、クンダリーニ・ヨーガの方の修行の進境が著しかったなどどというケースがあること。

 

この二重の不確実性こそ、希望した人がすべて悟れるわけでもないし、希望した時期に悟れるわけでもない所以(ゆえん)である。

 

またそうではないと言下に否定されるかもしれないが、身心脱落などは、本当に本気になることで起きる何かだと思うが、その本気になるモチベーションがどこから来るかといえば、魂の経験値の積み上がり具合から来るものだと思う。

 

魂の経験値の積み上がり具合・成熟度は、自分で何とかできるものではないので、それを承知しているなら、悟れる悟れないについては、誰もが今生で悟れるなんて迎合的なことを言うグルはいないのではないか。

 

またこうした不確実性こそ、理性の勝った現代人が、容易に冥想修行に入らない大きな理由ともなっている。

 

そんなこんなで、今更言うまでもないが、真剣にあらゆるものを振り捨てて、神頼みしかできないような、緊迫した状態に陥らねば、人は冥想なんぞしないものだ。

天変地異などに遭遇して、初めて万人は、神頼みしかないところに追い込まれる。

 

だからといって、座して核戦争や天変地異を待つようなことは誰も考えないだろうと思う。それを予感して何をすればいいのかわからない人にとって最後に残された手段は、冥想しかないが、それを論理的演繹的に説明することなどできない。

 

それでも生き延びるため、ないしは情けなく無力で邪悪な自分を死に切るには、やはり冥想しかないことに気づくしかないのだ。

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超能力の位置づけ

2022-12-22 19:00:47 | 夢と真実neo
◎4.悟りの効果-10

クンダリーニ・ヨーガの効果の第一は、生の世界が死の世界の一部であることを知り、死を超克することである。これはどのように起こるかというとダンテス・ダイジの説明では、まず私の世界が死ぬ、私の心が死ぬ。そしてアートマンは、無上の垂直道を上昇し、中心太陽に突入して起こる。

これに対して副次的な効果というべきものがある。これが超能力が使えるようになることである。覚者にとっては、それが使えるからといってどうということはないというスタンスであることは間違いないが、人間としての窮屈さからいろいろなことに絶望しがちな真面目な人にとっては、一縷の望みたり得るし、人間に与えられた自由の可能性を信じる証左となり得るところもあると思う。

超能力とは、仏教では六神通とし、天眼通、天耳通、他心通、宿命通、神足通などがあるが、クンダリーニ・ヨーガで達した人たちの事蹟を見れば、こうした能力を自在に使い分けていることが感じられるものだ。ただし超能力は、天意神意に依るという原則もまたある。

さて、世に知られたるクンダリーニ・ヨーギの代表的な人物と言えば、イエス・キリストと出口王仁三郎ということになるだろう。

熟達のクンダリーニ・ヨーギといえども人前で超能力を見せびらかすのは禁じ手のはずだが、脱線したのかどうかいくつかの事蹟が伝えられている。

イエス・キリストの奇跡と言えば、パンが数個しかなかったのに、数千人の人々に分け与えることができるほどに増えた話、婚礼の時にワインが足らなかったが、水をワインに変化させたこと、死者ラザロを生き返らせた話などいくらでも出てくる。

当時のパレスチナの人は、実際にいろいろやって見せないと信じなかったということはあるのだろうが、弊害もあるので、いささかやりすぎのところがあったかもしれない。

これに対して出口王仁三郎は、時代も最近となり、人々もなかなか他人の語る言葉を鵜呑みにはしないという手ごわさがあったかため、わりと慎重に応対したことが窺われる。

右翼の大立者頭山満が、出口王仁三郎邸を訪問した際に、少女がお茶を出して下がっていったが、その少女の足が、終始床から10センチほど浮いていたこと。

出口王仁三郎はアストラル・トリップを繰り返し、肉体では行ったことのない世界各地を訪問しまくっており、訪問先のことは、実際に見てきたかのように(実際に見たのだろうが)よく知っていたこと。

他にも小説家佐々木味津三の知己の新聞記者の財布の中身を紙幣、硬貨の種類別にきちんと言い当てたこと(みろくの世/上田正昭監修/天声社にあり)などもあるが、たまに超能力が発揮されたのではなく、会う人会う人の宿命をたちまち見極め、その人にふさわしいアドバイスを次々と与えていったようなので、本物はこうしたものだろうと思う。

こうした余興のようなものは別にしても、頭で想像したものはいつかは実現する(数百年後、数千年後の実現もあり)というのは、時間こそかかるが、誰にでも与えられた超能力みたいなものだと思う。大昔の誰かさんの「世界を牛耳りたい」という願いが、いつしか核兵器となって実現したというようなことはあるのではないか。

超能力に縁のない我々も、超能力については、こうしたものもあるのだという程度の冷静な認識でよいのだろうと思う。それはあくまで付随的に発生するもので、本質とは関係ないのだ。
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クリシュナムルティの効果

2022-11-20 12:51:22 | 夢と真実neo
◎瞑想と身心脱落

クリシュナムルティのいうところの瞑想とは、メディテーション全般を指しているのではなく、悟りを指している。その悟りは只管打坐タイプの冥想における悟りである身心脱落のことである。

『言葉や祈願を復唱するのは自己催眠的な行為であり、自己閉鎖的で破壊的なものである。思考の孤立性は常に既知なるものの領域にあり、祈りに対する答えは既知なるものの反応である。

瞑想はそうしたもののはるか向こうにあり、その領域に思考は入れない。その中では何の分離もなく、それゆえ私という意識を成り立たせる個別性は消滅する。

瞑想は開かれた場所にあり、そこには何の秘密も介在していない。あらゆるものが裸形で、はっきりと姿を見せており、そのような明澄さの中ではじめて、愛とその美しさが現実のものとなるのである。』
(クリシュナムルティの瞑想録P166/クリシュナムルティ/平河出版社から引用)

まず思考がない、想念停止があり、そして自分という個別性が消滅する。その世界はどこにあるかと言えば、薄皮一枚を隔てたところでもなく、または破りやすい卵の殻一枚を隔てたところでもなく、開かれた場所にあるという。これは開悟した者が、彼岸からそれを語る言い方。

我々にとっては、薄皮一枚、卵の殻一枚が隔たっていると説明してもらった方が知的理解は容易であるが、そんな先入観すらも邪魔になることからクリシュナムルティはこのような言い方をするのだろう。

そこに至るには秘密などないとは、最後は只管打坐という冥想にこだわる必要もないとも言っているようにとれ、坐相は自ずと起こるということを意識したものだろうか。

そしてその悟りのなかで、愛や美などの徳目が花開く。これが身心脱落という悟りの効果というものである。愛、美、力強さ、歓喜、智慧、安心、自由それは目に見える効果でもあるが、悟りという根っこがないと花は開かない。

クリシュナムルティにとって瞑想とは、othernessそのものであって、坐ることではなかった。だから彼の著作はいまひとつわかりにくいところがあるのではないだろうか。要するに彼は著作の中で瞑想、瞑想と連呼しているのに、ちっとも瞑想のことなんか語っていやしなかったのだ。

クリシュナムルティの著作は多く、そのテーマは時間、思考、自由、暴力、意識、快楽、教育など、ありとあらゆるテーマに及んでいる。それらは、すべて悟り、othernessにいることによって、どの側面においても真正な生き方が展開することを述べている。それが悟りの効果なるものである。

勿論それは自分だけ得をするとか、自分にだけ都合のよい願望がかなうなんて下世話なことなんかではない。肉体を持つ以上は、下世話な生活からは逃げられないが、大本のところに根を張ることが必要なのだ。

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社会的な死の恐怖と肉体の死の恐怖

2022-11-09 15:36:09 | 夢と真実neo

◎社会的な死の恐怖

◎3.悟りの必要性-6

 

神知らぬ我々の行動規範の根底には常に二つの恐怖がある。一つは社会的な死の恐怖であり、もうは一つは肉体の死の恐怖である。

 

神を明瞭に認識できない人が大半である我々は、意識的にまたは無意識的に、その恐怖におののきながら生きている。

 

1.社会的な死の恐怖

社会的な死とは、社会から爪弾きされたり、社会から落後することである。具体的には、いじめの対象になったり、ニートになったり、失業したり、犯罪者として服役したりすることまで、あるメジャーとされる人間のグループから弾き出されることを言う。

 

為政者からすれば、社会の秩序を維持するために法と刑罰でもって人民を統制するのだが、刑罰こそがその恐怖の一つの現れでもある。刑罰もさりながら、幼稚園、小学校から集団生活を経験している大概の人にとっては、村八分や、周辺の人に相手にされない心理的な圧迫感がえも言われぬものであることは、多言を要しないだろう。

 

歴史的には、ルネッサンス以後の個人の権利の拡大によって、社会的な意味での個人の活動の自由はそれ以前に比べて大幅に拡大した。これによって悟っていない人間の抱える2つの恐怖のうち社会的な死についてはある程度の緩和を見たと言えるだろう。

 

ところが歴史的に緩和が進んでいった一方で、社会的な締めつけをより強化する方向に行っていることは文明的な問題と考えられる。饗宴や無礼講、乱痴気騒ぎをほとんど地域社会がやらなくなったこと、酒、たばこへの規制が強化されていることなどがそれにあたるように思う。つまり定期的な社会イベントや嗜好品がガス抜きの代表的なものだった。

 

人間には社会的な恐怖を癒す心理的な安全弁が、定期的に何かしら必要となるものなのに、現代社会は、その安全弁をなくし、爆発しやすくしているように見える。

 

出口のない抑圧された情動は、家庭の崩壊、個人の孤立の深刻化を促し、発狂や自殺の増加の原因になっていき、マクロ的には世界最終戦争の遠因になっていく。

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霊能、霊感と菩薩の位置

2022-11-03 10:11:14 | 夢と真実neo

◎見性・見神の希薄化

 

見性、見神とは、本来の自己たるアートマンを目撃すること。

死の世界に入って、どこでそれを目撃しているかを確認するために、手近な霊界探訪譚をひもといてみよう。すると地獄の真っ暗闇な場所を除けば、あの世では、ほとんどどこにいても霊界太陽(中心太陽)が目撃できることを知ることになる。

 

すなわち死の世界に入りさえすれば、まず本来の自己を目撃できるということになるということ。こういうことが起きる原因は、微細なボディにおいては感覚が鋭敏になるせいだと簡単に片づけることもできるが、事態はやや複雑である。

 

というのは、このことは、死の世界に入った瞬間に、見性・見神・見仏が発生するということを意味するからである。つまり死の世界に入ったことのある者、たとえば臨死体験者やアストラル・トリップする人は、ほぼ一律に菩薩と位置づけられるのではないかということなのである。

 

換言すれば、クンダリーニ・ヨーガの修行プロセスにおいて、一旦死の世界に入ったことのある者は、その後は菩薩としての修行を歩むことになるとも言える。

 

さて一口で死の世界、あの世といっても、エーテル体宇宙、アストラル体宇宙、メンタル体宇宙などいろいろな次元がある。最も一般的なアストラル体宇宙の死の世界に入る場合であってすら、この世からあの世に至る中途の道程をきちんと知覚できる人は稀で、大方ははしょって三途の川と認識することが多い。

 

このように、その世界に入ることと、そのことをきちんと評価できるというのはまた別物なのだろうと思う。そしてまたその違いは想像以上に大きなものであるように思う。つまり一括りに菩薩になったといっても、そのにわか菩薩のレベルは実はピンからキリまであり、程度のばらつきがすこぶる大きなものではないかと思われるのである。

 

要するにアストラル世界を水平に動き回ることは容易かも知れないが、その本質を見極めて、その上位たるメンタル体世界からコーザル体世界、アートマンと垂直上昇することこそが、この「きちんと評価する」ということだろうと思う。それほどに「きちんと評価する」ということは、簡単ではなく重いこと。

 

その意味からすれば、巷間にはびこるアストラル霊界のみ知る霊能力者の霊言などとるに足らないものと位置づけられるように思う。

 

仏教では、菩薩は52の位階に分類される。最上位が妙覚で、第2位が等覚、空海は長安にいた頃第10位の発光だったことが知られている。菩薩のようにとりあえず悟ったことのある者に対して、一体誰が何のために52ものランクを付けたのか、かねてより疑問に思っていたが、上に述べたような消息であれば、その理由が推し量れるように思った。

 

つまりクンダリーニ・ヨーガ修行の途上で、死の世界にあっては、見神、見性の意味合いは相対的に希薄化するためではないかとうこと。

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神降ろし

2022-10-30 15:21:21 | 夢と真実neo

◎神降ろし

 

神降ろしについては、古神道には古くからの歴史と伝統があって、また善悪真偽深浅取り混ぜて巷のあちらこちらで見聞きすることがある。チャネラーやシャーマンもその一種である。

 

これは、神と出会うのでも一体化するのでもなく、我が身に一時的に引き入れるものである。大正10年以前の出口王仁三郎が盛んにこのやり方を広めようとしたが、結局邪霊の発動がしきりであったようで、結局うまく行かなかった。入れ物である人間の浄化の程度に応じて憑る神霊の程度が変わるので、人間の御魂の磨き具合がいま一つだとかかる神霊もいま一つということのようなのだ。

 

平たく言うと、たとえば泥酔すると乱暴になる人は、その深層意識が表面化して乱暴になるのだが、憑依においても、その依代(よりしろ)の深層意識の程度に応じて憑依してくるという法則があるようだ。

 

つまり憑依、神降ろしは、憑依される方の人間と、憑依してくる神霊のレベルの2要素で決まる。

 

出口王仁三郎は、依代としての適性については、年齢性別など細かく適不適のあることを指摘している。結局依代として、老女は不適当、子供は早すぎる、中年以降の人は総じて不合格ということなので、「神降ろし」という技術は万人に適用できる技術とはなり得ないと最後は見切っていたようである。

 

一方憑依する神霊のレベル付けは次のようなものである。神がかりには3種類あるとする。

(注.精霊とは、肉体に宿るもののことで、エーテル体以上の総称。)

 

『1.帰神

人間の精霊が直接大元神(主の神または大神)に向かって神格の内流を受け、大神と和合する状態

 

2.神懸(しんけん)

大神の御神格に照らされ、智慧証覚を得、霊国にあってエンゼルの地位に進んだ天人が、人間の精霊に下り来たり、神界の消息を人間に伝達すること。

 

3.神憑(しんぴょう)

外部より、人件の肉体に侵入し罪悪と虚偽とを行うところの邪霊を悪霊または副守護神というが、副守護神に侵入されたこの状態を神憑という。

 

チャネリング(交霊術)の達人には、神憑が多く、このような副守護神は、地獄の団体に籍を置き、人間の善霊を亡ぼし、肉体をも亡ぼそうとするもの。

 

大神が予言者と物語りたまう時は、太古すなわち神代の人間におけるがごとく、その内分(霊覚)に流入して、これと語りたまふことはない。大神は先ず、おのが化相をもって精霊を満たし、この満たされた精霊を予言者の体に遣わしたまふのである。ゆえにこの精霊は、大神の霊徳に充ちて、その言葉を予言者に伝ふるものである。かくのごとき場合は、神格の流入ではなくて伝達というべきものである。伝達とは、霊界の消息や大神の意思を現界人に対して告示する所為をいふのである。』(霊界物語第48巻/天声社から引用)

 

神降ろしとはこのように非常に達成条件のきつい技術であるが、成功の暁には、その神の言葉を一生抱いて、その感動の中に生きることもできたのではないだろうか。

 

ただし神降ろしの場面では、審神者のコメントはよく出てくるが、依代となった人の体験談はまず伝わっていないので、いわば依代の人格はないがしろにされており、依代はあまり相手にされてこなかったという印象を持っている。

 

その意味で,神降ろしは自己主張の盛んな現代人にとっては、レトロな技術と位置づけられるのではあるまいか。

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