アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

登山家メスナーの転落体験

2024-04-15 03:18:11 | 現代冥想の到達点neo

◎死の地帯から走馬灯

(2010-08-08)

 

ラインホルト・メスナーは、著名な登山家。1986年に人類史上初の8000メートル峰全14座完全登頂(無酸素)を成し遂げた。標高8千メートルでは、酸素は地上の三分の一だそうだから、これらの無酸素登頂は偉業である。

登山家は山を登るものと思い込んでいたら大間違い。プロ登山家は、何度かの転落体験を必ず有しているものである。クンダリーニ上昇体験では、極めて短時間の間に存在の多次元を上昇するが、登山家は転落する極めて短時間の間に他の次元をかいま見る。メスナーは、例外的に転落らしい転落の経験がない。

 

『私はここに再録する体験談を選ぶにあたって、第三者に関するプライベートな報告や記事類は省き、登攀だけに、しかも信頼できる登山家の経験だけに限った。そのどれも、ひとつとして同じ話はないし、状況も体験者のタイプもぜんぜん違っているのに、それらに共通する一本の線がはっきりと見てとれるのである。

つまり転落して死を意識した瞬間に、不安からの解放、心眼に走馬燈のように浮かぶ過去の人生、時間感覚の喪失、家族や友人への発作的な追憶、自分が自分の肉体の外にあるという感覚があるのである。

自分が自分を観察するものになる、という体験は、非常な高所での極限体験の特徴でもある。さらに死の地帯においては、奇妙な物音、幻覚症状、強烈な万有一体感、口で話す必要もないくらいのコミュニケーション能力がこれに加わる。

しかし、これらの「奇妙な体験」はすべて、転落や死の地帯で起こり得るだけでなく、天候の急変や困難な登攀箇所を乗り越えたあとやビバークの時など、他の極限状況においてもしばしばあり得るのである。』

(死の地帯/ラインホルト・メスナー/山と渓谷社P18から引用)

 

メスナーが登山仲間の実弟を失ったナンガ・パルバートのルパール側(4800メートルの世界最大の高度差を持つ岩と氷の壁)を登った後、高山病の弟と未知のディアミール側を下降しなければならなかった時、メスナーは、何をしてもどんな努力をしてもこの場所では死しかないと覚悟した。この時5日間何も食べず、最後は裸足になった(凍傷により足指6本切断)。

 

この環境で5日食わないのは、断食断水7日の十万枚大護摩供並といえる。

メスナーも強調しているが、転落しても、生き残る可能性が残る場合は、走馬灯(人生の一瞬での回顧、パノラマ現象)は起こらない。この場合、極めて短い瞬間に、生き残るための合理的理性的思念が尋常ではない速度で展開して、実際に助かるための行動を起こすだけである。

ところが、これが、全く生き残る見込みがないとわかった瞬間に、走馬灯が起こる。

転落をきっかけに、意識レベルの低下から、肉体生命の危機を全霊で洞察した瞬間に、意識は肉体を離脱しようとし、その時にパノラマ現象が起きるのではないか。

只管打坐でいえば、人間は人間である限りもともと何も救済などないが、「救済などない」と徹見した瞬間に・・・・「救済などない」と徹見した時点で意識レベルは低下しているのだが・・・・・呼吸・心拍など肉体機能の相当な低下が起こり、身心脱落という肉体と自我意識の脱落が起こるのではないか。これは個人が個人のままで落ちるという見方を出ていないので、そのまま正解の説明にはならないとは思うが・・・・。

身心脱落のメカニズムについての推測はともかく、登山での転落体験には臨死体験ばりの体験が相当ある。そして意識レベルの低下から、走馬灯への移行については、冥想体験の進展についても、ある程度の示唆を与えてくれる。

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ババジの謎

2023-06-03 19:01:16 | 現代冥想の到達点neo

◎神でないものとの時間を一切持たぬ人物

(2017-12-24)

 

インドでは、○○ババという人のことを尊称か愛称かわからないが、ババジと呼ぶらしい。

だからインドでは、ババジというのは掃いて捨てるほどいるので、ババジはありきたりと思うかもしれない。

ところがババジ中のババジがいる。

 

このババジは、サンジェルマンのように俗人の前には出現しない。出会う準備のできた修行者の前にしか出現しない。

その点では、ダンテス・ダイジも同じだった。出会う準備ができた人の前にしか現れない。

 

そのダンテス・ダイジが、インドのボンベイだかの町を歩いている時に、ババジと出くわして、思わずババジに対して「How did you get it?」(要するに、どうやってその高みを得たのかということ)と問うて、それをきっかけにクンダリーニ・ヨーガの真髄を伝授されたという。

 

先日、『ヒマラヤ聖者 最後の教え/パンディット・ラジマニ・ティグナイト/ヒカルランド』を読んでいて、このババジのことが出てきたので、この本は久々のスマッシュ・ヒットかなと思った。

 

この本は、著者のグルであるスワミ・ラーマのことを書いた本なのだが、スワミ・ラーマは、ババジに教えを受け、著者はスワミ・ラーマの侍者。

 

著者は、ババジのことをヒマラヤのいと高き頂から来た聖者であり、時折肉体で人の間を歩き、スワミ・ラーマのように完全に準備の整った求道者のみを指導する、と説明している。

 

著者は、スワミ・ラーマに「本当にいつもババジといらしたのですね!」と失礼な質問をしたら、「神でないものとの時間を一切持たぬ人物と、どうしたらともにいることができよう?」と返してきた(出典:上掲書P129)

 

これぞババジの本質を言い当てている表現だと思う。

 

さて書店に行くと、なんだかヒマラヤ聖者を冠した本が結構あるものだ。

 

『ヒマラヤ聖者の生活探求』、『ヒマラヤ聖者への道』は、霊がかり系であり、悟っていないが単にヒマラヤで修業したことのある行者みたいな本も結構ある。ババジ伝という本もあまり感心しなかった。

 

それほど似非ヒマラヤ聖者は多く、もちろん中国領カイラス山に登ったり、そのふもとのマナサロワル湖観光したのが証拠ではないが、時に本物聖者も粛々と歩いていることがあるのだろう。

 

ババジはクリヤ・ヨーガ(クンダリーニ・ヨーガ)の大マスターであって、かのアメリカで活躍したパラマンサ・ヨガナンダは、ババジのことを「近代インドのヨギ-キリスト」と呼んだ。

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トースとダンテスの合体-3

2023-05-25 16:14:28 | 現代冥想の到達点neo

◎マニピュラからアナハタへ

(2017-09-13)

 

ダンテス・ダイジ座談の中で、ある来訪者に対し、人生の裂け目のことを表現するのに、『「戻ってこーい。戻ってこーい」と叫んでいるような何かを感得すること』というように表現し、かの来訪者もそれを感得するシーンがある。

トース、あるいはトオオスの系流の行き方は、自己実現なき感情中心の意識世界からスタートし、社会で社会的役割を果たすことにより、自我を強化膨張させ、自己保存、我欲の虚しさ、人間の無力さ、情けなさを極め、絶望に至る。そこで何かが起こる。

そこで愛に出会う。

 

つまり神秘生理学的に言えば、自己実現のマニピュラ・チャクラからスタートして、愛のアナハタ・チャクラに至ったのだ。

 

現代は、マニピュラからアナハタに至る中間点。だが、相当にアナハタのゴールがもう見えそうなところまで寄せてきている。

「戻ってこーい」、「帰ってこーい」と呼ばれて、その場で感得できた彼は、既に愛というゴールに近かった。

そのゴールが、トースとダンテスの合体ではある。

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トースとダンテスの合体-2

2023-05-25 11:18:33 | 現代冥想の到達点neo

◎ダンテスの甘いささやきと悪影響

(2017-09-12)

 

ダンテスの系流に属する聖者たちは、アトランティス末期のダンティス・ケンタウロス、クリシュナ、臨済などがいる。

彼らの主張は、ステップや方便を越えて単刀直入に「現実」に言動せしめること。つまり、時により、人により、状況によっては、冥想もいらない、宗教もいらない、戒律を守ることもいらないなどと語ることである。ところが、これにより、様々な倒錯や、誤解を実践に移す人が出たことは問題であった。

ダンテス・ダイジは、このことを彼の著作メディテーション・トラベル・ガイドにおいて、臨済の悪影響として挙げている。

それは、坐禅は無意味だと言ったり、その場の人間的気分で好き勝手なことをするのが究極の悟りだと思ったり、大声で一喝するのが禅だと思い込んだり、この肉体がこのままで仏だなどと叫ぶ人物が出ることなどである。

臨済は僧堂の中で語ったがゆえに、その真理にストレートに肉薄する言動は、TPOを備えていたので、ある程度真意は伝わったが、市井で、TPOにおかまいなく、じゃんじゃんこうした素っ裸の真理を語られた場合には、悪影響は、臨済の比ではなく、邪教を発生せしめたり、宗教テロみたいなことを惹き起こすことにもなっていく。その場の人間的気分で好き勝手なことをするのもノンデュアリティではあるまい。

 

ダンテスの系流の言葉は甘い。

『そのお前の肉体が絶対の真実だ』(臨済)

『汝は神なり』(ハインラインのSF異星の客に出てくる教団信者同士の挨拶がこれ)

『アルジュナよ、君は決して生まれることも死ぬこともない』(バガヴァッド・ギータでクリシュナが語った)

『君達はもともと救世主である』(ダンテス・ケンタウロス・アメンティー)

人生を十全に生きる情熱を欠いて今生を生きる人には、こういう甘いささやきに乗せられて、人生全体や人生のワン・シーンを誤ることがある。

 

こんな甘いささやきに騙されない情熱豊かで疑り深く、苦労人で、だが素直な人物が、ダンテスの系流の求道の道を辿れるのだと思う。

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トースとダンテスの合体-1

2023-05-25 11:13:19 | 現代冥想の到達点neo

◎組織宗教と個人宗教、顕教と密教

(2017-09-11)

 

エジプト神話では、トースは出てくるし、アメンチーの名も出てくるが、何のことかは、想像すらもできない程度に。

ダンテス・ダイジ座談では、アトランティスでは、神の宮という中央官庁兼最高神殿みたいなのがあり、その奥殿がアメンティ。そこにトースを中心とする12人の超人がいて、彼らは組織宗教的を体現していた。そしてもうひとりダンテス・ダイジは13番目の超人としてそこにいたが、彼は遊戯者であり、宇宙を遊び戯れる超人であった。

アトランティス末期に、ダンテス・ダイジは、神の宮を後にして、トース系の12人と袂を分かった。

以後、アトランティス沈没を経て、この中有の如き時代は、自分のわがままを通す、自己主張を強烈に行うのが当たり前みたいな社会通念が年々強まってきた。これは、トースの系流の悪い方の特徴である。

 

トース系は、組織宗教が、教義でもって大多数を縛り、教義という思想・イデオロオギーでもって集団統制・集団教育をやっていく結果として、個々人の自意識の分化が発達し、自分の欲望を実現しようとすればするほど、他との孤立化、分断化が進むというあい路に入っていく。

それが、非常に進展した社会が、現代社会である。この結果、この生き方が、多数の社会的不適応者、つまり薬物依存、ギャンブル依存、モバゲー依存、ひきこもり、うつ病者などを多数出している。

悟りはこうした社会的不適応者への最終的救済とも位置付けられるが、これだけ社会的不適応者が輩出するということは、この文明社会がそれだけ、悟りを希求するほど切羽詰まっているということ。

これに対して、ダンテス系は、行雲流水の如き遊び戯れる者。ただし人間を忘れてはいない。

密教のエッセンスの相承が、肉体でなく、アストラルの師匠から行われるらしいことは、これまでの例で見てきたところではある。密教系では超能力を駆使するがそれは総じて人間を扶けるためである。

西洋錬金術は、キリスト教の影絵として連綿として存在し続け、道教の錬丹は、その本質は内丹にありながら、外丹という薬物服用にみせかけては、命脈を保ってきた。

仏教系の密教では、成就者を何百年に一度は出しながら、観想法、呼吸法、呼吸覚醒、カーマ・ヨーガ、ソーマ・ヨーガなどいまだ世に知られぬテクニックをも含めて、秘密裡に存続してきた。

錬金術、密教系、クンダリーニ・ヨーガ系は、そのあらゆる危険性のゆえに組織宗教の埒内ではできず、どうしても、『寺を出て出家する』タイプの独自の秘密の道を歩まねばならなかった。これがダンテス系。

 

来るネオ・アトランティスでは、トースとダンテスが合体するという。人が神を生きるのに何の憚りもない時代よ。

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ババジとカルマ・ヨーガ

2023-03-01 18:22:06 | 現代冥想の到達点neo

◎カルマだけを通して、世界を変えることができる

(2018-02-08)

 

神仏にアプローチしていく道は、たとえ神人合一したとしても、人である以上は、人としてやらなければならないことが残る。

 

食事や金を得るために働いたり、托鉢をしたり、洗濯をしたり、家事をしたり、などなど。

 

そして日々、善いことをして悪いことはしない。そのルールに則りながら、行うべきことをしていくのがカルマ・ヨーガ。功過格で知られる中国の袁了凡の人生はまさにカルマ・ヨーガそのものだった。ただ、カルマ・ヨーガの効果について、性急すぎるところがあったとは思う。

 

王陽明の事上磨練は、仕事を精密に一生懸命にやるカルマ・ヨーガである。

 

だがババジは、またもう一歩高い目でカルマ・ヨーガを見ている。

 

『「世界は儚いものだ。カルマヨガの道だけに、あなたは安定を見つけるだろう。行為のみが人を神へ導き解放を与える。

 

カルマの法は深遠にして、いかなる言葉も十分にそれを表すことができない。

 

この地球でカルマの止まる日は、それの消滅の日となるだろう。

 

勇敢な者達よ、全員で働き続けなさい!カルマだけを通して、世界を変えることができる。それが唯一の道だ」』

(ババジ伝 ラデシャム/著 森北出版P218から引用)

 

世界を変え得るのは、テロでもなく、政治運動でもなく、陰謀でもなく、核戦力でもなく、マスコミの宣伝・洗脳でもなく、利殖でもなく、権力への意思でもなく、それぞれの人が自分のカルマを果たすことである。

 

地球のカルマは、人類全体のカルマ。

自分が社会でなにがしかの成功を収めようというマニピュラ・チャクラに発する願望は、この1万2千年のカルマ消化を通じて、アナハタ・チャクラの「愛」に結実する。

 

その大きな流れが、地球のカルマであるが、アナハタのゴール・テープを切るためには、神・仏・道に出会うという大きな課題をクリアしなければならない。

 

その道の種類は多いが、通る人は少ない。それを総合的に見て、ババジは、カルマだけを通して世界を変えることができると言ってのけている。

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輪廻転生についてのOSHOの説明-2

2023-02-08 19:03:39 | 現代冥想の到達点neo

◎マーヤなる記憶の解体と再構成

(2013-07-06)

 

更にOSHOバグワンの説明は続く。

 

『たいていの人は思いださない。ひとりの人間の記憶システムを、まるごと引き継ぐ人は少ないからだ。あちこちのものを、断片的に引き継ぐ人は多い。そうした断片の集まりが、あなたの「みじめさのシステム』を形成している。この地球上で死んだあらゆる人たちは、みじめさのなかで死んだ。

 

ほんのわずかな人たちだけが、よろこびのなかで死んだ。ほんのわずかの人たちだけが、無心(ノーマインド)を領解して死んだ。

 

そういう人たちは足跡を残さない。記憶という重荷を他人に背負わせることはない。そういう人たちはただ、宇宙のなかに散っていく。そういう人たちには、マインドがない。記憶システムがない。すでに、瞑想のなかでそれを溶かしつくしている。光明を得た人がけっして再誕しないのはそのためだ。

 

ところが、光明を得ていない人たちは、死ぬたびに、みじめさのあらゆるパターンを放出する。富が富を呼ぶように、みじめさはみじめさを呼ぶ。あなたがみじめにしているなら、何マイルも向こうのみじめさがあなたに引き寄せられてくる。あなたはうってつけの媒体だというわけだ。

 

これはラジオの電波のように、目でとらえるのはとてもむずかしい現象だ。ラジオの電波はあなたの周囲をとりまいているのだが、あなたにはそれが聞こえない。受信のための適切な装置があれば、すぐにもそれが聞こえるのだが。ラジオがなくとも、電波はあなたのまわりを飛び回っている。

 

輪廻というものはない。それでもみじめさは輪廻する。無数の人々の痛みがあなたの周囲を飛び回っていて、みじめになりたがっている人を捜している。至福にあふれる人は、足跡を残さない。目覚めた人は、空に飛び立つ鳥のように死んでゆく。なんの痕跡も道筋も残さない。空は空っぽのままだ。

 

至福はなんの痕跡も残さずに動いてゆく。あなたがたが覚者たちの遺産を相続することがないのはそのためだ。彼らはただ消えてゆく。ところが、ありとあらゆる馬鹿で愚鈍な人たちは、記憶の輪廻をくりかえし、それは日々に濃厚になってゆく」

 

「あなた自身の欲望と願望に対して、とても意識的になりなさい。それらはあなたの知らないうちに、すでに、あなたのとるであろう新しい形態の種を作りつつあるのだから」

 

『The Zen manifesto』』(和尚と過ごしたダイアモンドの日々/マ・プレム・シュンニョ/和尚エンタープライズジャパンP424-425から引用)

 

マンツーマンあるいはワン・パーソン トゥ ワン・パーソンの輪廻転生を否定して、なおかつ輪廻転生の真実のメカニズムに、これほどまで踏み込んで来た説明は、有史以来なかったのではないか。

 

この説明で語られる記憶とは、思い出とか思いという淡い泡沫のような心理上の一欠片のことではなく、日々積み重ねてきた善行悪行の集積であるところのカルマのことである。

 

一人の人間の記憶システムを別の一人の人間が丸ごと引き継ぐことが稀であるとは、マンツーマンでの輪廻転生は僅少ということである。

 

チベット死者の書を見ると、あたかもある一人のカルマが別の肉体に乗り移り転生していくような印象を受けるものだ。しかしOSHOバグワンは、それは誤解であって、そんな形式での転生はレアものだとする。

 

われわれのみじめさのシステムのことを無明=マーヤと呼ぶ。マーヤが、一人の死者から多くのマーヤなる生きる人々に伝播し、マーヤを部分的に受け継いだ人は、亡くなるに際してそのマーヤをバラバラに放出し、マーヤが乗り移りやすいメディアとしての複数の人物にひきとってもらう。

 

これが輪廻転生の実相なのだ。OSHOバグワンは記憶の輪廻と呼んでいるが、そこで言う記憶とは、心理現象としての記憶のことではなく、現象を生成していくカルマとしての動因、モチベーションのことである。

 

西洋では、古くから記憶術という言葉で表された、観想でもって現実を構成していく技術が知られていた。

 

地球の人口は70億に達したが、かつては全世界で2億人くらいの時代もあったらしい。さすれば、差し引き68億の人間の魂はどこから来たのだろうか。あの世での転生インターバルを数千年間隔の超長期にすれば辻褄はあうが、長すぎやしないか。

 

つまりマンツーマン輪廻転生を認める立場からすれば、大半の現代人の直前の転生が、数千年前の新石器時代であるというシナリオは、過去世記憶を論じる立場からすると、その魂の文明社会での生活経験がないためにその転生体験は面白味を欠くだろうってこと。

 

それでは先祖供養って何、家族って何、生誕する子宮を選んで転生してくるところの自分って何、などと無数の疑問が出て来るのも仕方のないことだ。

 

しかしOSHOバグワンの話の力点は、あくまで覚醒の方にある。

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輪廻転生についてのOSHOの説明-1

2023-02-08 18:57:25 | 現代冥想の到達点neo

◎あなたは誰かの記憶・カルマを引き継いだ

(2013-07-05)

 

日本人は、お盆の送り火などで、人は一人で輪廻転生するものだと思い込んでおり、それが社会通念にまでなっている。ところが、実際には、それとは、やや事情が異なる。砕霊なんかを視野に入れると、人間とカルマと記憶についてまったく異なる説明が必要であることに気がつかされるものだからだ。

 

以下のOSHOバグワンの説明が、輪廻転生についての決定版の説明であるように思う。

 

つまり、あなたは大方複数の誰かの記憶・カルマを引き継いで、この世に生まれてきたということ。

 

奇しくも彼がこの説明を行ったのは、彼自身の死の前夜であって、そういうポジションに語り手が居て初めて出てきた説明なのだと思う。これは側近のシュンニョの質問にOSHOバグワンが答える形の話で出された。

 

『私の質問は輪廻についてではなかったのですが、和尚は次のように答えました。

 

「東洋の全宗教に見られる輪廻という考えは、『自己』は、ひとつの肉体からつぎの肉体へ、ひとつの生からつぎの生へと存続するというものだ。

 

こうした考えは、ユダヤ教を源泉とするどの宗教にも見られない。たとえば、キリスト教やイスラム教には見られない。

 

現在では、精神科医でさえ、人が過去生を思いだすというのはほんとうにありうることだと認めるようになっている。輪廻という考えは、その信憑性を高めつつある。

 

だが、私はあなたがたに言っておきたい。輪廻という考えはまるごと誤解にもとづいている。人が死ぬとき、その人の存在は『全体』の一部になるというのはほんとうだ。その人が罪人だったか聖者だったかは問題ではない。

 

しかし人にはマインドと呼ばれるものもある。つまり記憶だ。過去においては、記憶を思考の束ないしは思考の波として解釈するに足るだけの情報がそろっていなかった。だが、それはいまではもっと簡単だ。

 

そしてこの問題に関して、私には、ゴータマ・ブッダが多くの点で、彼の時代にはるかに先んじていたことがわかる。彼は私の解釈に同意するだろう唯一の人間だ。

 

彼は暗示的なことは言ったが、いかなる証拠も提示できなかった。口で言えることはなにもなかったのだ。

 

彼は言った―――人が死ぬと、その人の記憶が新しい子宮へと向かう。その人の自己ではない。現在の私たちにはそれが理解できる。

 

死ぬときに、あなたはまわりじゅうに記憶を放出するということだ。あなたがみじめな生を送ってきたのだったら、あなたのすべてのみじめさは、それにふさわしい場所、だれかの記憶システムに入るだろう。

それらがすべて単一の子宮に入るかもしれない。

 

人が過去生を思いだすというのは、そうしたことがあるからだ。それはあなたの過去ではない。あなたが引き継いだ、だれかのマインドだ。』

(和尚と過ごしたダイアモンドの日々/マ・プレム・シュンニョ/和尚エンタープライズジャパンP423-424から引用)

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人の子に枕する所なし

2023-02-06 21:04:49 | 現代冥想の到達点neo

◎絶対的孤独、そして神秘

(2017-08-19)

 

マタイによる福音書8章20節

『イエスはその人に言われた、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。されど、人の子に枕する所なし」』

 

人の子とはイエスのこと。枕するところ、つまり家を求めるというのは、帰る家がないことを感づいている人に起こる。

 

帰る家がないことは、道元も芭蕉も同じ。

 

道元の遺偈

『五十四年

第一天を照らす

箇の浡跳を打して(浡はさんずいでなく、足偏が正しい文字となっています)

大千を触破す

咦(いい)

渾身に覓(もと)むる無し

活きながらに黄泉に陥つ』

 

これの現代語訳

『五十四年の人生において、

天の最高位を知ることができた。

 

〔いまは、そこからもなんのこだわりもなく〕飛び跳ねて全世界を打ち破ってしまうのだ。

 

ああ

 

体全体、置き所に拘ることもない。

生きたまま黄泉の国に陥ちてゆくだけなのだから。』

(道元禅師全集第17巻/春秋社P271から引用)

 

身の置き所とは、枕する家である。

 

さらに芭蕉。

 

此の道や 行人(ゆくひと)なしに秋の暮

 

此の道にもどこにも行人などいない。絶対的な孤独・・・・・。

 

ダンテス・ダイジはそうした心境を「私はわが家に安坐している」という詩において、

『帰る家がないからといって

家を求めてさ迷うには及ばない』と描く。

 

ノンデュアリティに生きるとは、その絶対的な孤独と寄る辺なさを生きることである。イエスであっても、ダンテスであっても、道元であっても、ことさらに、それを語りださねばならぬほど透徹したものなのだろう。

 

ゆくすゑに 宿をそことも 定めねば

踏み迷ふべき 道もなきかな

一休

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友人との出会い、愛人との出会い

2023-02-05 20:22:38 | 現代冥想の到達点neo

◎メディテーション・トラベル・ガイドから

(2019-08-27)

 

未悟者から見れば、覚者の透徹した絶対的な孤独とあらゆるものが未知である現実感は、大きな違いである。そこを見過ごすと、次のダンテス・ダイジの救世主入門の一節は、単なる感想や戯言になってしまう。

 

『友人は君について

君の知人が

千年かかって知るより

はるかに多くのことを

出会いの一刹那で知るだろう

 

君が愛人と出会う時

そこには

どのような意味での

必要も偶然もない

時を忘れた時の中で

君は思い出すだろう

愛人との

いくたびもの戯れのすべてを』

 

 

さらに、次のような謎の一節も置かれている。

『さようならの時に

うろたえてはいけない

別れは

再びめぐり逢う前に

なくてはならないものだから

そして

再会の時は必ずやってくる

君とその友人のために

ある時間を経て

いくつかの人生を巡った後に

必ずやってくるものだ』

 

輪廻転生を語る場合、AさんがA‘さんになるなどという無機質な議論をしがちだが、それはそれ。

 

人は、気の合った愛人や友人にいつでも接して過ごしたいものだ。愛はその流れであり、それも自由の一つの現れである。

 

ほとんど何もしなくて済む人生もあれば、争闘や試練の連続的な繰り返しの人生もあり、幸運な人生だから長命であるとは限らず、不運な人生だから短命であるとも限らない老少不定。そこを問題にしない見方、生き方があることを、救世主入門は時間のない世界からナビゲートしてくれる。

 

耳障りな部分も味わってみよう。

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原典『救世主入門』

2023-02-05 06:19:29 | 現代冥想の到達点neo

◎何ものも救うことはできないし救う必要もない

(2017-01-06)

 

原典『救世主入門』は、ダンテス・ダイジがアトランティス末期に流行させた韻文集であり、「十三番目の冥想 雨宮第慈講和録 渡辺郁夫編」に所載。

 

アトランティス末期には、救世主という言葉が流行語であり、言うなれば感情人間であったアトランティス人にとって何が問題であったかが、独特の質感をもった言の葉どもにより伝わってくる詩文である。

 

ただその内容の多くは、時間のない世界から出てきているものであるが故に、この知性人である現代人にとっても十分に通用するものである。

 

『何ものも救うことはできないし

救う必要もない

このことを頭によらずに理解したら

君は救世主であり

すべてを救うようにできている』

(十三番目の冥想 雨宮第慈講和録 渡辺郁夫編P103から引用)

 

家族や知り合いや他人が救いを求めるシーンに出くわすことはある。自分が思い切り素直であればよいが、あるいはそういうシーンに対する準備や心構えが平素からできていればよいが、そうでない場合は、ためらったり思い悩むものだ。阪神大震災や東日本大震災直後は皆がそういう思いだったと思う。

 

ところが、人間は人間である限り、本当に救済されることなどありえない。『このことを頭によらずに理解した』らとは、人間を超えることしかない。師匠は弟子を悟らせることはできない。馬を水飲み場に連れていくことはできても、水を飲むのは馬しかできない。

 

あまりにも平易すぎる言葉だが、その内容は深遠であり、気やすめを言っているわけではない。

 

ダンテス・ダイジの視野には、常に天国と地獄の結婚が入っているのだ。

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有を変容させて無のなかに返す

2023-01-31 17:37:58 | 現代冥想の到達点neo

◎最後の奇蹟は最初の奇蹟より大きい

(2020-06-01)

 

ユダヤ教ハシディズムから。

『天と地との創造は、無から有を展開させることであり、上なるものが下なるものの中に降りることである。

 

しかし、存在界から身を離して、つねに神に着く聖者たちは、真剣に神を眺め、捉えるのである――彼らは有を変容させて無のなかに返すのだ。

そしてより不可思議なことはこれである、無すなわち下なるものを上へと高めることである。「最後の奇蹟は最初の奇蹟より大きい」とゲマラに書いてあるように。』

(忘我の告白 叢書・ウニベルシタス マルティン・ブ-バ-/編 田口 義弘/訳 法政大学出版局P254-255から引用)

※ゲマラはタルムードの中の一部。

 

この文では、無は最初の方では上だと言い、最後の方では下だと言うので落ちつかない。

 

『上なるものが下なるものの中に降りる』は、トリスメギストスの『下なるものは上なるものの如く、上なるものは下なるものの如く』に似る。

 

最初の奇蹟は天地創造であって、第七身体の無から第六身体の有に之(ゆ)くこと。これに対して、下のものなる第六身体の有から第七身体の無に之くことは、その前段として、個なる人間を飛び出るということ。個なる人間から見れば、有も無も全体なので、そこで視点の逆転のみならず、存在そのものの一変が起こる。

 

タロットでは吊るされた男であり、北欧神話のオーディンは木から9日吊るされた。

 

その人間的視点において、無が下であり、有が上だと言うのだろう。

 

今まさに過去最大の奇蹟が起きようとしている時代である。

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すべてが異郷のものだから帰郷する

2023-01-31 17:31:03 | 現代冥想の到達点neo

◎ユダヤ神秘主義ハシド派の一言

(2020-05-31)

 

ハシド派は、ハシディズムのこと。到達した人々がいることが、以下の言葉でわかる。

 

『ある師について、彼は「私はこの国では寄留者である」(出エジプト二・二二参照)という、モーセの言葉にならって、まるで寄留者のようにふるまったと語られている。

 

遠方から、生まれた町を出てやってきた男のように。

 

彼は名誉にも、彼を益するなにものにも心を向けなかった。ただ、生まれ故郷の町に帰ることだけを考えていた。

 

彼はおよそなにものにもとらえられないが、なぜなら彼は、すべてが異郷のものであり、自分は帰らねばならない、

と知っていたからである。』

(忘我の告白 叢書・ウニベルシタス マルティン・ブ-バ-/編 田口 義弘/訳 法政大学出版局P252から引用)

 

世俗感覚で読めば、エジプトが異郷でカナーンが故郷だが、ここではそう読まない。

 

あるいは、故郷を出て都市で暮らしていた者が老境にさしかかって、故郷でセカンドライフを送ることでもない。

 

聖者にとっては、この世のすべてが異郷であり、エクスタシーたる根源だけが故郷である。

 

ダンテス・ダイジは、『私は私という心身の異郷の客』である悲しみを歌い上げたが、全くそれと同じ感慨を持つ者がハシディズムにもいたのである。

 

悟りとは帰郷のことである。

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ユダヤ教ハシディズムの神人合一への5ステップ

2023-01-31 17:06:55 | 現代冥想の到達点neo

◎イェヒダー(単一性)

(2012-01-02)

 

ユダヤ教ハシディズムでは、神人合一へ5段階を立てる。

これは、もともとはユダヤ人の聖書解釈ミドラシュから出てきたもので、ルバヴィッチのドブ・ベエルが、これにならって霊性5段階説を説く。曰く、

第一段階 ネフェシユ (生命)

第二段階 ルアッフ(霊)

第三段階 ネシャマー(魂)

第四段階 ハヤー(生命)

第五段階 イェヒダー(単一性)

 

デベクートとは、「間断なく神と共にいること、人間と神の意志との密接な合一と一致である」(ユダヤ神秘思想研究のゲルショム・ショーレムによる)だそうですが、以下の説明をみると、単にトランスみたいな状態を指しているところがあるように思う。

 

『第一段階 ネフェシユ (生命)

この段階の人々は、神の言葉を聞いてその意味を理解します。しかし彼らは神の言葉の価値を認めても、神からは遠いままです。

 

第二段階 ルアッフ(霊)

ここは善き思いのデベクートにいる段階であります。ここでは人々は神の言葉を聞いて理解するだけでなく、彼らが神から遠いにもかかわらず、神に近づきたいと願います。この段階は「自分が個人的に関心を持っている商売について耳よりの話を聞き、彼の心の全力がそれに吸収されている。彼は、(寝ても覚めてもそれ思う、いわゆる)思いに密着しているとして知られている恍惚にすっかりはまっている人」に似ています。

 

第三段階 ネシャマー(魂)

ここは光明の段階です。この段階までくると、「神の側近くにある」と実感します。その喜びによって、人の心は直ちに恍惚の中へと進み、そして神の臨在を身近に感じるがゆえに、恐れと愛の中で行動します。そして恍惚状態にある心の中からメロディを伴った歌が生じて来ます。

 

第四段階 ハヤー(生命)

ここは「精神の恍惚」の段階であります。ここでは人の心と頭脳は神の光に完全に集中され、そして「神の前にはすべてのものが無である」という状態になっています。

これは、「人が、心の内奥で、その精神の深みから、仕事上の良いプロジェクトに没頭する時に似ている。その仕事に彼の魂のすべてが引っ張られ、(中略)彼の心も精神もその物事の良さだけに吸い込まれているのに似ている」。

 

第五段階 イェヒダー(単一性)

ここは至高の段階であり、理性と知性を越えています。人間の全存在はことごとく神に吸収され、何物も残りません。ここでは、人はみな自己意識というものを持たないのです。』

(ユダヤ教の霊性/手島佑郎/教文館P124-126から抜粋)

 

これを見ると、仏教でいえば、第一段階のネフェシユ (生命)が声聞、第五段階イェヒダー(単一性)は仏に該当するように思う。そして、第五段階イェヒダー(単一性)の定義が十全なものであることによって、ユダヤ教ハシディズムの正統であることがわかる。

 

第四段階ハヤー(生命)の段階は、仏教ならば菩薩に該当するのだろうが、その定義には見仏、見性にあたるような表現はとりあえずない。

 

この本には異言の例が挙がっており、この五段階は、神下ろしの手法の段階を述べている可能性があるように思う。

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グルジェフの生い立ち

2023-01-21 19:40:53 | 現代冥想の到達点neo

◎最も大事なものを捨てる

(2008-01-02)

 

グルジェフのやり口は、単刀直入で、人の意表をついて、いろいろな意味での先入観を打ち壊すことから始める。これに対して、彼のよき紹介者であったウスペンスキーのアプローチは、知的論理的であり、絶対に人の意表をつかないという弱点があり、出会いの最初から「何かあるぞ」という目で見ない人には、ウスペンスキーのアプローチでは気づきを得ることはなかったのではないだろうか。グルジェフも、ウスペンスキーのやり方のその点を心配していた。

 

さて20世紀ロシアの神秘家グルジェフの生い立ちは、謎に満ちている。おまけに後年欧米で出会った人には、その多くを語らなかった。

 

グルジェフのパスポート上の生年月日は1877年12月28日。彼は当時ロシアとトルコの間で領土争いの焦点になったグムルーの町に生れた。この誕生日は、当てにならないとされている。

 

グルジェフの父はギリシア人の大工で、叙事詩ギルガメシュを朗誦する吟遊詩人でもあった。母親はアルメニア人。

 

カルスという町で、この地方の軍事学校のボルシェ神父に神学と医学を学ぶかたわら、アレクサンドロポールまで出かけて壊れた家具や機械を修理しては小遣い稼ぎをした。

 

そして10代の初めには、チフリスの駅で火夫をしたり、鉄道新設ルートの町や村に駅を作る便宜を図ると言っては賄賂をもらっていたようだ。また、この頃彼は、アルメニア正教発祥の地であるエチミアジンに巡礼をしたり、様々な社で祈ったりするという経験を積んだ。

 

チフリスに戻る頃には、鉄道の仕事をやめていいくらいのお金がたまったので、古いアルメニアの本を一山買ってきて、古都アニへ友人ポゴッシアンと引っ越して、読書と研究、そして廃墟の発掘・探検の日々を過ごした。

 

そうしたある日廃墟で見つけた修道僧の古い羊皮紙の手紙をきっかけにエジプトへ渡り、グルジェフは、エルサレムに移り、ロシアの観光客のガイドになった。

 

こうした放浪の末、どういう修行があったのかはわからないが、1902年ゴビ砂漠のはずれのヤンギヒサールで、流れ弾にあたり3か月も意識を失っていた。その2年後同じ町で、ロシア皇帝と革命家の争いに巻き込まれ、また流れ弾に当たった。

 

この怪我の回復過程において、自分が全く無価値であるというネガティブな意識状態におちいったが、駱駝が動いたことをきっかけに、グルジェフはこの魂の暗夜を振り払うことができた。

 

これは全的な自己知覚状態であり、グルジェフの見性にあたるものだと思う。この時、彼は超能力を自分のために使うことを含むすべてを捨てれば、自己知覚状態の源泉を引き出すことができると考えるに至った。

 

見性前には、グルジェフですら、それまで積み重ねてきた一番大事なものまであきらめる覚悟が必要だったということ。その後の老獪に見える彼のやり口に比べ、暗夜を乗り越える時はとても人間的であった事を知り、ほっとさせられる。

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