(2018-07-11)
釈迦は、三世(前世・現世・来世)の輪廻転生を語り、ダンテス・ダイジはその座談の中で、『今ここ』だけに生きる現実感覚がどういうものかを断片的に語る。
OSHOバグワンにも『今ここ』という現実感覚がどのようなものかを述べている部分がある。
『実際、すべてのものごとはつねに今起こる。種子は今死に、つぼみは今花になり、鳥は今鳴きはじめる。すべてのものごとは今この瞬間がもたらす空間でのみ起こる。過去では何も起こらず、未来では何も起こらない。
すべてのものごとはつねに現在において起こる―――――ものごとはそのようにしか起こらない。現在が存在する唯一の時間だからだ。
過去とはあなたの記憶にすぎない。そして未来とはあなたの空想にすぎない。
ところがあなたは過去に生きるよう催眠術をかけられている、未来に生きるよう催眠術をかけられている。過去か来来のどちらかを選ばせはしても、社会はあなたが現在に生きることは許さない。』
(黄金の華の秘密・和尚P15から引用)
この引用には前段の前提があり、キリスト教やイスラム教やヒンドゥー教は過去に生きるように人々に催眠術をかけ、共産主義者、社会主義者、ファシストは未来に生きるように人々に催眠術をかけているというもの。
『キリスト教やイスラム教やヒンドゥー教は過去に生きるように人々に催眠術をかけ』とは、各宗派の教祖こそは、ユートピアの体現であった。ユートピアは(ありもしない)過去にあり現在にはないという意味。
『共産主義者、社会主義者、ファシストは未来に生きるように人々に催眠術をかけている』とは、彼らのユートピアは常に(ありもしない)未来にあるという意味。
どちらにしても、ドグマやイデオロギーにより、とある空想の世界観を構築し、その集団に縛りつける手口という点では、宗教組織も政治体制も同じである。どちらも肉体人間という組織・体制の奴隷を必要としているからだ。
この理屈を単なる考え方とか哲学とみると間違える。覚者たちは本当に、今ここしかない生活実感に生きている。覚者たちの現実では、未来も過去もなく、今しかなく、空間はそこにしかない。
そういう生活実感を実現しようと修行する人はまずいないだろうが、悟るとどうしてそんな生活実感になるのかは、大いに興味があるところ。
そこは結局すべてのすべてであるもの、すなわち一なるものが人間Aとして生きているからということになるのではないか。一なるもの第六身体アートマンには、すべての時間と空間が包含されているから。
そんなことを教えこまれても修行の邪魔になるだけだから、求道者はそんなことにはお構いなしに内部に向かう。
悟っている人と悟っていない人の見分け方は、この生活実感もポイントの一つ。
