山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。

ショパンエチュード「革命」の背景

2020-06-13 11:23:20 | 日記2020

ショパンエチュード10-12“革命”

まずは、ショパン展のことを教えてくれたフォルテ君の演奏から。↓

ショパンエチュード革命/Chopin-RevolutionaryEtude(Op.10No.12)

「ショパン―200年の肖像」展を見て、この曲ができた背景を初めて知りました。

この曲は、激しい勢いのある曲でインパクトが強いです。

これまでは、ただカッコいいというふうに思っていて、「革命」という題名からも漠然としたイメージしかありませんでした。

しかし、この曲は1831年にポーランドのワルシャワでおきた独立運動がロシア帝国に鎮圧されてしまった出来事が大きく関連した曲だということを知りました。

この時、多くのポーランド人が武装反乱を起こして、自由・平等・人間の尊厳・博愛などの精神を求めて戦ったのだそうです。しかし、ロシア軍にやられてしまい、挫折してしまいました。

(会場には、このときのワルシャワの様子の絵などが展示されていました。)

ショパンは1830年にはウィーンに行っており、1831年にはパリに移っていたそうです。元々身体も弱かったので、武装勢力と戦えるような人ではなかったということですが、ロシア軍に対する激しい怒りと、負けてしまった祖国のことを思って、音楽で表現したと言われています。

ただ、元々この曲にショパンが「革命」と題名をつけたわけではないそうです。

ショパンはこの曲を、友人のリストに献呈したそうです。リストは、どんな難しい曲でも初見で弾いてしまうほどのピアニストでしたが、この曲はさすがに初見では完璧には弾けず、いったん持ち帰ってすぐ完璧に演奏したとのこと。そして、「革命」という題名をつけたのはリストだそうです。

リストは1811年10月22日に、ハンガリーのライディングで生まれ、12歳からパリで暮らしていたそうです。一方ショパンは1810年3月1日生まれで、ポーランドのワルシャワで生まれ、20歳ころにパリに移住。年齢はほぼ同じであり、リストのほうがパリに暮らし慣れていたとのこと。リストのほうが力強く積極的な人物像で盛大なリサイタルなどを開いており、ショパンは病弱でおとなしく、こじんまりした演奏会を開いていたようです。しかし、両者はお互いの才能を認め合っていたとのこと。

ショパンの演奏会には、ポーランドからの亡命者や留学性もたくさん聴きにきていたそうです。

(以上、インターネットでいくつかの記事を読んで収集した情報です。)

この曲、カッコいいから好きなんていう現代の日本人は本当に平和ボケしているのかもしれません。歴史的背景を知ると、曲に対する感じ方もずいぶん変わってくると思いました。

 

 


コメントを投稿