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山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

引っ越し先は
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坂本一生

2006-08-15 22:56:35 | テレビドラマ・映画
今日、何気なくテレビをつけていたら、「今田タレント活性工場」とかいう番組をやっていて、昔の歌手や俳優が出ていた。その人たちは今や何をしているのかというような過去のものとなってしまった人が多かったのであるが、ちょうど、私と同じくらいの年齢の人が多く、朝倉未希や中村あゆみなど、今現在テレビに出ることはないものの、年齢を重ねてそれなりに力強く魅力的になっている人たちも印象にのこった。

その芸能人たちの中に、坂本一生がいたのであるが、このひともいつの間にか見かけなくなっていた人だった。もともと最初の出だしが悪かったというか、加勢大周の名前の取り合いでもめながら、新加勢大周などと言って出てきたが結局は坂本一生となったものの、俳優としてあまりすっきりした活躍はないままだったようだ。

しかし、運動神経はさすがなもので、運動神経抜群のにしきのあきらを上回る高飛び能力なども見せていたようである。

なんか、けっこうオーラがあるような気がした。
この番組に出ている芸能人は、もともと一度は売れた人間なのだから、それなりの魅力はあるはずで、なんか芸能人リサイクルショップのような感じでもあるのだが、この人まだまだ使えるんじゃない?結構いいジャン、という感じも人も多い。

占い師がこれから売れるというひとは、確かにオーラがあるような気もした。

それで、坂本一生が9時からのドラマにエキストラとして出るというので、それが見たくてついついそのドラマまで見るに至った。(彼が視聴率をあげたってことだね。)
坂本一生は体育教師の役で、廊下を走っていく女子生徒に向かって「おい、お前廊下走るなよ」という一瞬の出演だった。
久々のことで、あまりうまいせりふでもないようだったが、体育教師というのは適役だろう。そのほかに刑事とかもいいかもしれない。

なんか、昔よりいい味がでそうな感じもするので、演技を磨いて活躍してもらいたいものである。
私は以前から特にこの人が好きだったわけでもないが、最後の字幕に坂本一生と出ていたのをみたら嬉しい気持ちになってしまった。

そういえば、「人間活性工場」みたいに、私も活性化できないかな?
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昨夜はテレビで

2006-08-10 09:20:51 | テレビドラマ・映画
昨日の夜は9時から11時前まで「水曜ミステリー9 刑事吉永誠一・涙の事件簿4」を見ていました。
主演刑事役の船越英一郎さんは、「2時間ドラマの帝王」とか言われているそうで、最近人気がありますが、たしかにすごくいい味出しているなあと思います。2枚目半くらいの見栄えの普通の優しい中年おじさんの中に刑事としてのするどさやひたむきさが共存し、そのバランスがすいごくいいです。
別の、土曜日ワイドなどにもよくでていて、それもいいですが、昨日のドラマは事件解明の展開といい、特によかったと思います。

船越さんはこぶつきの松井一代と結婚して幸せな家庭を築いているようですが、ドラマの中の子供に接する場面(演技)などを見ても、子供に対する思いやりや優しさがにじみ出てくるようで、家庭でもいいお父さんなんだろうなと感じます。
お父さんにしたい俳優の上位になりそうです。

というわけで、夕食後に11時までテレビを見ていると、その日のうちにブログを書くのはなかなか忙しくなってしまいますが、昨日は見てよかったと思えるドラマでした。
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土曜ワイド劇場「眠る骨」

2006-07-22 23:25:47 | テレビドラマ・映画
あまりにも、原作と違いすぎて、原作の主題とは ずれがありました。

テレビドラマのサスペンスとか事件物というのは、一般にどうしても表面的なものになってしまい、大切なことが抜けてしまうように思います。
途中、怪しげな人間をいっぱい作って謎を増やさなくてはならないというワンパターンで、無味乾燥的な要素が強くなってきます。
そのせいで、2時間物の殺人事件のドラマで、感動するということはほとんどないし、ストーリーを覚えていることもほとんどありません。
人間をパターン化しているので、誰かが死んでも悲しんだりはしないし、視聴者にとっては事件の真相を解明するために熱中することが、その場かぎりの気晴らしやストレス解消になるのみです。

この作品、原作のよさと迫力は1つもなかったと言っていいくらいでした。
そして、特に「眠る骨」という題名もぜんぜん生きていません。
この作品は大沢が腐った末に白骨化しなければ「眠る骨」ではありません。
所詮は、ありふれたサスペンスの範囲の脚色でした。

原作に忠実な映画か連続ドラマが見たいものです。

そして、日頃テレビドラマを見て、原作を知ったような気になっているのは、かなりの間違いであることが多いと思いました。
必ず原作を読むべきですね。

唯一、桐生典子さんの作品らしいと思った部分は、ヒロインの早紀が家で植物を飾ったり育てたりしているところでした。白いユリは特に、桐生典子さんの作品に共通するイメージです。
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里見八犬伝

2006-01-03 23:52:34 | テレビドラマ・映画

昨日と今日、里見八犬伝を見ました。
すばらしいドラマでした。
日本文学史の中で滝沢馬琴の作品として題名だけ覚えていたようなものですが、こんなに面白い物語だったとは驚きです。
もちろんテレビドラマとしての映像や脚色のすごさがあって、原作とは多少違うでしょうが、やはり、もともとがすごい構想の作品だったのだろうと思います。
こういう日本の古典作品をどんどん発掘してもらいたいです。

南総里見八犬伝は、私が子供のころ、NHKで夕方連続の人形浄瑠璃風の人形劇でやっていて、それを見ていて、登場人物やあらすじにいくらか記憶があります。たしか、語りは日航機の事故で亡くなられた坂本九さんだったと思います。もう一度見てみたいなと思いました。
あのころもやはり面白かったから見ていたんだろうと思います。

当時の人形浄瑠璃風里見八犬伝では、玉梓の霊は一際大きい恐ろしい姿の女の人形を使っていて、それはけっして美しいものではなかったのですが、今回、玉梓の霊の菅野美穂は若く美しく世にも恐ろしい怨霊で、すごい演技力でした。

滝沢君は乗馬や立ち回りのシーンなどすごいなあと思いました。その他の俳優さんたちすべてすばらしかったです。

ちょっと前に制作現場の番組を見ましたが、たとえば衣装とかカメラ撮影とかも工夫を凝らし、あらゆる面において、全力で取り組んで作られていました。

とにかく、感動と夢を与え、楽しませてくれたドラマでした。



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「野ブタ。をプロデュース」の中に見た商業戦略の法則

2005-11-20 00:39:30 | テレビドラマ・映画
最近私は、知的財産に関することに関心をもち、毎週講座などを受けているのですが、今日の「野ブタ。をプロデュース」では、発明品とその知的所有権、それから、どのように売り込むかという戦略について考えさせられ、非常に面白かったです。
このドラマの本筋とは外れますが、そこに焦点をあてて書いてみます。

まず、ドラマですが、
何気なく彰(山下智久)が作った野ブタのマスコットがかわいくて、それを修二が持ち歩いていると、それを見た他の女の子が欲しがり、人気が出たために、3人はそれをたくさん作って売ろうと考え出す。そして、それは爆発的に売れる。
ところが、そのうち模造品が出回り、そちらのほうが安いために本物が売れなくなってしまう。
ということが起きます。

このようなことは、現実社会にもよく起こっていることですね。実社会では、オリジナル商品を売り出す場合は、その発明品の形やデザインの意匠登録、「野ブタ」などの名前があれば商標登録をして、自分の所有権をはっきりさせておく必要があるでしょう。そうしておけば、それを侵害された場合は、訴えることができ、損害賠償も請求できるということになります。
しかし、小さい企業や商店が商標登録などする場合、そのための経費が非常にかかるので、ついついそれをしないということがあります。そうすると、後で真似をしたほうが先に登録してしまったりすると所有権はそっちのものになってしまって、本当の発明者が逆に販売停止にされたりしてしまうことになります。

ドラマでは、偽造品と同じデザインをあきらめ、今度は別の新しいデザインを考えればいいのだということになり、新商品を発明し、いきなりこれを売り出します。しかし、誰も買おうとはしない。すでに飽きてしまっているのでした。

こんなことも現実社会にもよくあるようです。零細企業や個人は商標登録や意匠登録をするのに費用がかかるために登録しないで、人から真似をされてしまう。その場合は、新しいものを考えればいいんだと泣き寝入りしてしまうことも多いようです。また、自分の発明を登録してあったとしても、それが他者とぶつかった場合、どちらが本物か、どちらに権利があるかの係争になったときに、くりかえし行なわれる裁判費用をかけ続けることができないため、結局はあきらめて、権利を他者のものにさせてしまうことも多いようです。

ところで、発明品(オリジナル商品)を売り出すには、やはり方法があるようです。ただ、いきなり店に並べれば買っていくというものではないようです。
例えば、何かの景品にするなどという方法もよくとられるようです。まずは、無料で配布されるような方法をとる。保険会社の加入者にプレゼントするとか、預金した人に渡すとか、何かの会員に限って上げたりすることが多いようです。ある高価な品物を買った人にその商品に関連付随する安価な新発明品をつけてさしあげるということもあるでしょう。
そうすると、それらを使っている人や置いている所の様子を人々が見て、関心をもち、その後、購入したいと思ったりし、そのタイミングに合わせて、店頭に売り出すと、爆発的に売れることになる。

テレビドラマで、最初の野ブタのマスコットが成功したのはそれと同じですね。
そして、二つ目の商品が意図に反して売れなかった場合、やはりさっさとあきらめるのも次への道であり、信子の判断は適切と言えます。

テレビドラマの中で、もうひとつの面白かった現象は、教師が誰も読み手のない自分の文集を段ボール箱に大切にしまってあったことですが、これを捨てたことによって人の目に触れて人気が出たということです。
知的財産は隠し持っていても意味がないのですね。誰かがそれを発見し、その価値が判る人に活用されることによって、世のなかに出まわるようになり、多くの人の役に立つものです。誰かがたのしそうに読んでいるのを見て、他の人も読んでみると面白いということで、多くの人に活用されるようになります。

そして、その後、公園の土の中に埋められていた宝箱の中に野ブタの最初のマスコットが入っているのを信子は発見しました。ひと時の人気も落ちて、人に偽造もされて、自分たちには何も残らなかったかのように思えたマスコットですが、信子は「誰かの宝物になったんだからそれでいい」という結論をだします。

そうです。発明にはそのような考えかたもあります。何もかも自分だけの知的所有権を主張して、儲けようとするのではなく、無料で発明を世の中に提供するということも、発明者の判断です。儲けがあったとか誰の権利だとかいうことではなく、ある人によってそのものが発明され、世の中の人のためになったというその事実は、変わりようがありません。
発明者にとっては、自分の発明品を宝物にしたり、自分の著作物を愛読してくれる人が世のなかにいることが一番の幸せです。

そして、最後に彰が「野ブタ(信子)をプロデュースすることがいやになった」と言っていました。人の人気者にするのではなく、自分のものにしたいと言い出したのです。これこそが、本当の価値を見出したことです。自分が買いたくもないものを人に売ろうとしたところで、売れるはずがないのです。ある人が自分のものにしたいと思うものこそ、人もそのように思うものでしょう。

本当に良くできているドラマだなあと思いました。


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茶川竜之介の毛玉

2005-11-19 10:21:10 | テレビドラマ・映画
ALWAYS 3丁目の夕日」で、すごく印象に残っているものがあります。
それは、茶川竜之介(吉岡秀隆)が着ていた毛玉の着いた汚なっちいカーディガンです。
その毛玉がすごくリアルでした。毎日のように長年着ているとそうなるわけです。
そうそう昭和30年代には、こんなものを着ていた人が多かったなあと思いました。
貧しい茶川はその着古した毛玉だらけのカーディガンに防寒されて、風邪もひかず、安全に暮らしているわけで、その姿をみると、いじらしいというか、妙な感動を覚えてしまいました。

子役のセーターもそうですが、当時の子どもは服を一枚くらいしか持っていないから洗濯もしないで、毎日のように同じものを着て遊んでいます。そのようにして着ていることによって出てくる妙な風合いというか、貧乏くさくて汚くて生活にまみれたような雰囲気が、なんかたまらない変な魅力をかもし出していました。
そして、茶色くて襟のついたセーターを着ている子が淳之介だ、というように、一枚の服とその子が一体となってひとつの個性を作っています。その服とその子は運命的に結ばれているようでさえあります。

私が小さいころも同じで、昔の写真を見ると、子どもたちはみなそれぞれに自分なりのセーターを着て写っています。私は昭和35年生まれですが、そんな汚い服を着ていたのは、幼稚園くらいまでのようです。小学校に入ってからの写真は、もう少し身ぎれいな感じがします。

私の母は編み物が得意で、その当時、編み機というものを使って、よくカーディガンやセーターを編んでくれました。
私が小さいころ、母は、内職で近所の人から注文を受けて、いろいろなものを編んでいました。私はよく、買ってきた新しい毛糸の束を、編み機にスムーズにかけられるように一本に引っ張り出してふんわりと毛糸の山にする手伝いをしていました。
母は、自分の家族用には新しい毛糸を買わず、古いセーターをほどいて何度も編みなおして使いました。たまに染め直したりなどもしました。

ところで、今私はセーターの山にうずもれて困り果てています。皆店で買った既製品ですが、1~2年着ると、ちょっと型が崩れたり、なんとなく着ざらした感じがしたりして、外には来ていけないなあというようなものがたくさんあります。しかし、シミもなくほころびもなく、毛玉もないわけです。それは仕事などに来ていけないけれど、自宅で着る分には構わないという程度のものです。
一方、外出に耐える服がないと、外出用の新しい服を毎年何枚か買うことになります。そして、毎年のようにセーターが増えていってしまいます。だめになったら捨てようと思っていると、それらは、何年たっても痛まないので、増える一方なのです。

それはそうです、本当は茶川竜之介が着ているくらい、何年間も毎日着続けても耐え切れるようにすべての服ができているのですから、ひとつを着つぶすのも容易ではありません。それぞれのセーターがそのセーターの寿命を全うするまでなんか、とても着ることはできないのです。

それで、人間に喩えると40歳くらいの老朽化状態で、ゴミにするしかなくなります。中には、30歳くらいでも、美しさが衰えたということで、捨ててしまうものさえあります。
まだ充分使えるのにもったいないですねえ。
そう思って捨てられないでいると、我が家のようにガラクタに埋もれて苦しむことになります。

今は、安物でも新しいものを買ってどんどん捨てていくほうが、合理的で楽しいようです。

あれっ、何か、人間と同じでしょうか?
まだまだ使える人間が不要にされて、若者がもてはやされているような気もしますね。
そして、人との付き合いも、縁あって出合ったら、一生付き合うというのではなく、次々に適当な人材や自分の都合のいい伴侶に取り替えてしまうような気がします。

毛玉のセーターを大切に着ていた時代がなつかしいです。


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野ブタと六ちゃん(堀北真希)

2005-11-16 22:37:34 | テレビドラマ・映画
先週、テレビで「野ブタ。をプロディース」を見ていたときに、夫に言われて初めて気がついたんですが、この「野ブタ」の役の女の子は、「ALWAYS 3丁目の夕日」に出ている六ちゃんと同一人物であることを知りました。名前は「堀北真希」というそうです。富士フイルムのコマーシャルでも見かけます。

以前(11/8ブログ)、この映画のことを書いたときに、主要登場人物でありながら、私は六子のことを書きませんでした。書こうかどうしようかとは思ったのですが、とりたてて書くほどのことがないと思って、触れませんでした。
六ちゃんは青森から出てきた女の子で、鈴木オートに住み込みで働くことになった子です。
大きな会社だと思ってきたら全然違っていたと思ってがっかりする六子と、自動車の修理ができると思って採用したのにできないことに腹を立てる主人。お互いに譲らない性格なので、ひと悶着あって、あわやもうおしまいだというときに、子どもの指摘で、六子の書いた書類の「特技=自転車修理」を、主人が勝手に「自動車修理」と読み間違えていたことが判明しました。
そこの大騒動がこの映画のひとつの見せ場でしたね。六子と主人のけんかを止めに入った茶川竜之介が、鈴木オートにやられてひっくり返ってしまった姿がおかしくてたまりませんでした。
主人が六ちゃんに謝って一件落着したあとは、そこの家族の一員として、喜びも心配も共にして暮らします。容姿もきれいで、健康的な、なかなかかわいい子です。
映画の演技は多少わざとらしいような感じがする部分もありましたが、まあ、適役でしょう。シュークリームというものを一度食べてみたくて、腐らせてしまったから捨ててと言われたのにもかかわらず食べてしまい、おなかを壊したりする場面もありました。

この映画では、活発な普通の女の子を演じていますが、野ブタは笑わずうつむき加減で、目の下に隈を作っているような陰気な役なので、まったく性格が違い、同一人物とは思えませんでした。野ブタはもともと顔立ちのいい子だというのはわかりますが、雰囲気がぜんぜん違います。それだけ、演技がうまいんでしょうか?

ところで、「野ブタ。をプロデュース」の修二はいいですね。この、亀梨和也というのは、最近すごく魅力的だなあと思います。聞くところによると、兄弟が多い家庭に育っているらしいですが、そのせいか、わがままではなく、性格が良さそうだなあと感じます。それから、何よりも、色気がありますね。
亀梨君の名前を覚えたのは、歌番組のお笑い芸人の司会が、「動物とフルーツの名前が入ってるんだね?すごいねえ」と言っていたので、覚えました。こういう司会者のことばってすごいですね。天才です。
金八先生の時のすし屋の子だと娘に聞きましたが、イメージが一致しません。大人になったんですね。
亀梨和也はうちの長女と同年齢で、掘北真希はうちの次女と同年齢です。

あっ、今日は掘北真希のお話でしたが、ついでに亀梨和也君も・・。
お2人の今後の活躍を期待します。

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ALWAYS 3丁目の夕日

2005-11-08 18:20:44 | テレビドラマ・映画
日曜日に夫と「ALWAYS3丁目の夕日」を見に行ってきました。
このごろ、ときどき夫婦で映画を見に行きます。たとえば、「電車男」「容疑者室井慎次」など見ました。子供を置いて夫婦ででかけるようになると、一緒に歩く姿はまさしく「老夫婦」という感じです。どうひっくりかえっても恋人には見えません。まるで新鮮味もない。しかし、身近にいる手ごろな人間といえばやはり夫で、約束などしておかなくてもいいわけで、思いたったときに一緒に出かけていくということになります。

この映画、1人が50歳以上だと入館料が1000円になると娘から教えてもらい、よろこんででかけました。平成生まれの娘はこの映画を見たいとは思わないようですが、何にしろ情報は早いです。けっこう役にたちます。

この映画の世界は、昭和33年。私はまだ生まれていませんが、やはりなつかしい時代です。登場人物の小学生の男の子たちが、昭和26年生まれの夫とだいたい同年代です。その子たちの親が私の親の世代と一致します。

映画はほんとうにすばらしかったです。笑いあり、涙ありでした。
特に、吉岡秀隆扮する売れない作家茶川竜之介が絶妙な味を出していました。彼はやはりすごい俳優ですね。演技力を通りこして、その人間そのものになってしまっているかのようです。
他の俳優もいいです。子役もよくて、茶川と吉行淳之介少年との心のつながりに感動、また小雪が架空の指輪を指にはめてもらう幸せそうな表情も印象的でした。
向かいに住む鈴木オートの堤真一も対照的に面白く、その妻、薬師丸ひろ子がやさしいお母さん役で、またいい味をだしています。薬師丸ひろ子は、このごろ母親役がすごくいいですが、この昭和時代の母親像が、はまっていました。その子ども役の男の子もすごくかわいいです。
それから、三浦友和はやっぱり2枚目ですね。医者宅間の風格のある姿はさすがに大勢の中にいてもひときわ光るものがあります。
CGによる時代の再現もすごいですが、やはり人々が織り成す人間模様がすばらしかったです。そして、ささやかな幸福を大切にして、未来に向かって希望をもって歩んだ時代だったんだなあと思います。

ほんとうに、久々にいい映画を見たなあと感じました。



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橋田須賀子ドラマについて

2005-10-10 02:53:00 | テレビドラマ・映画
最近、橋田須賀子のドラマが立て続けに放送された。先週のNHK5夜連続の「ハルとナツ」と昨夜日曜日のTBS「涙そうそう~この愛に生きて~」であるが、その内容には共通点がありすぎ、ちょっとクビをかしげたくなる部分が多かった。

・ストーリーの展開が不自然であること。(ありえないような出来事や幸運)
・ヒロインを拾って助ける他人が登場する。(ナツを拾う牛飼い・志津を拾う美容師)
・自分の育てた子供は失敗作で母親は実子と縁を切るという設定がある。
 (できの悪いナツの二人の息子・できの悪い美容院の実子)
・女手ひとつで事業を大成させるというヒロインが登場。(ナツ・志津)
・土台にされる男の登場。(牛飼い、不動産屋から美容院を買った事業家)
・夫はかならずヒロインより先に消え、短期間で登場しなくなることが多い。
 (ナツの進駐軍の夫と第2の夫、志津の恋人である寺跡取り息子貴志)
・主になる女登場人物には取り巻きのような男あるいは女、使用人がいる。
 (牛飼いやクッキー作りを手伝う2人の男・クッキー工場の女使用人2人・美容院の美容師)
・人の心を理解する主たる人物は実の子ではなく、養子的な存在や孫である。
 (牛飼いとナツ・ナツとハルの孫・ハルと孫・美容院経営者と志津・志津と孫)

このような類似点は自分の人生体験の何かが影響しているのではないのだろうか?
何があっても実子との濃い関係を描くことができない人だと思うし、一生夫婦を全うすることを描くのも苦手なようだ。男は長く登場することは少なく、幸せになるという筋もあまり好きではなさそうである。
このような特徴は今回の二つのドラマだけではなく、「おしん」「春よ来い」などにも見られるような気がする。

今回のドラマで私が一番気に入らなかったこと。

ハルとナツ
最後、ナツは自分が生んで育てた二人の息子とは心を通じ合わせることなく、人間として失敗作のような息子たちを捨てて何十年も会うことのなかった姉のいるブラジルに旅出つ。こころが通じ合うのは、その姉とその姉の家族だけであるかのような設定。
どうして日本で苦労して自分で育てた自分の息子が他人と同様だというような結論にするのか理解できない。私だったら、そんな息子であろうと空港に見送りにくるくらいの母を思う人情は確認したかった。日本がどんなに高度成長を求めバブルに走ったって、そんな救いようのない社会や家族を生んでいるというような決め付けはされたくなかった。

涙そうそう
最後、志津と結婚せず別れたままになった貴志は最後の場面では恍惚の老人となって車椅子に座っている。なんで、志津は元気できれいな老婦人で活躍している設定であって、男はこんな設定にするのか。この男は愛する女が自分の子供を産んだとも知らずに、一生を終えていくのだ。
橋田の意識の中には男はどうでもいいし、眼中にないということの現れである。
何か、根本的な人間性の欠如を感じる。
いつもドラマの最後に残念な思いを残す。

そして、思い出の中の愛が人間に力を与え人をまともに進ませ、目の前の生身の人間(たとえば生きている夫=三浦友和)は悪影響だけを与えるかのような設定。
現実にそんなことあるわけないと思う。あまりにも現実の目の前の人間を軽視しすぎている。(そこで、夫が改心すると手のひらを返したように上機嫌に接する妻(賀来千香子)の応対振りもものすごく不自然な展開)

橋田自身が実子をもたず、夫とも早く死に別れて来たために、自分が体験した以外の心情を理解できず偏った内容の設定しかできないのではないだろうか。
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生命と廃墟の関係

2005-10-09 01:32:19 | テレビドラマ・映画
このごろテレビや映画では、死んだ人が再び現れるというような作品が多く放映されている。たとえば、「よみがえり」や「今、会いにゆきます」など。
たしかに、亡くなった人にもう一度会いたいと思うのは誰しもの願いだろう。でも、亡くなった人が帰ってくるなんて、ありえないことであるから、非現実的な物語の中でさえ、一時的にはこの世に戻ってきたとしても、それは短期間のことで、やはり必ず別れのときがやってくるという原則は変えられていないのだ。

しかし、ここに来て、ずいぶんそんな作品が多いのは、なぜなのだろう。
どうせ事実ではありえない内容ならば、いっそのこと、一時的ではなく、本当に生き返らせて、なくなった人に長生きさせてもらいたいと思う。

もし実際、一時的に亡くなった人と再会ができるとしたらどうなんだろうか?
もう一回本当に永遠に別れなければならないとわかっていたら、会うのはもっと辛いし、もう2度と分かれたくはないと思うはずだ。私は今、なくなった父と再会できるとしても、それがつかの間のことだと分かっているなら、会うのはよけいに悲しいと思う。

ところで、「世界の中心で愛を叫ぶ」はよみがえりの話ではないが、やはり亡くなったものを思い続ける人の物語だ。
主人公の2人がどこかの島に行き、そこで亜紀が倒れるというシーンがある。その前の場面は、その島にある廃墟で2人が過ごしている。その建物の中には誰か人が飲んだり食べたりという生命の余韻が残っており、旅行の写真なども残されている。いったいどんな人がそこに息づいていたのであろう。しかし、その時点でその人たちはもうそこにはいない。その場面があった後に、亜紀が倒れたというのは、廃墟を命の終わりを予言するものとして伏線として描いているのであろう。亡くなった人の骨も廃墟のようなものだ。

また、「今、会いにゆきます」では、亡くなったはずの澪が現れた場所はトンネルの先の森の中の廃墟である。
やはり、もはや活動していないものの象徴として廃墟が使われ、そこに現れる澪はすでに命を終えているものであることを表わしている。

私は「廃墟」と言うのはなんかすごく怖い。それはもうすでに終わっているのであって、終わったものは昔どおりに復活することはないものだからだ。でも、確かにそこに営まれていた生命の余韻は残っていると思う。それは懐かしいかもしれないがやはり悲しい。

何でも、現役が一番いい。どんなにおんぼろアパートでも、今住んでいるこの公営住宅は現役である。これを取り壊そうとして、住人をどこかに移動したらここは廃墟となる。その時点で住居の機能はなくなり、建物としての生命の終わりを意味する。

昔、通っていた高校は近所に新校舎が建てられ、そっちに移った。
移ったと同時に無人になった旧校舎はとたんに荒れ果て、廃墟となった。
廃墟となったら、早く解体して別の建物を作るのがいいだろう。


結局、何が言いたいのか、自分でもうやむやなのだが・・・
生きている人間と生きている建物
死んでいる人間と廃墟
というのがセットになっている。
だから、生きている人間と廃墟という組み合わせは不自然である。
私は、今生きている人間、今使っている建物に目を向け、それを大切にして生きていきたい。
終わってしまったものは終わったということ。
そうなったら、いつまでも終わったものにかじりつかないで、生きている人、機能しているものに目を向けるということだ。


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