昨日の朝は、昨年と同じ場所に、「思い草」を見つけ、嬉しくなった。(写真)
道の辺の尾花が下の思ひ草今さらさらに何をか思はむ
万葉集にある、作者未詳の歌に出てくる植物として、有名な花である。花の形から「ナンバンギセル」とも言われている。特定の植物を選んで寄生するらしく、私が目にしたのは、いずれもススキの傍であった。
昨年は、国道で見かける前に、わが家の崖下に咲いているのを初めて発見し、宝物を見つけた思いだった。今年は、崖の草刈をしてもらうのが遅かったためか、あるいは根絶したのか、今のところ花が見つからなくて、がっかりしている。
昨年、国道で見つけた「思い草」の在り処は、おおよそ覚えていたので、九月の散歩開始以来、気をつけていた。茎は萱に隠れて見えにくいが、花はその近辺に8個も咲いていた。散歩を怠らないかぎり、当分、この花に出会える楽しみがある。
「思い草」の、他の植物に身を寄せ、恋の思いに耽るかのように見える姿が、古人の心を捉えたようだ。現代人でも、自分の思いをこの花に重ねる人は多いだろう。
私は書棚の上に、かつて求めた<万葉の彩>シリーズの写真をフレームに入れて飾っている。取替えを忘れ、「紫陽花」が入ったままになっていた。
昨朝、早速、「思い草」に取り替えた。専門家の撮った写真は、当然のことだが、私のものよりずいぶんうまく撮れている。
写真の横には、前記した万葉の歌が添えてある。
野草の白い花に、トンボが羽を休めていた。(写真)
曇り日の朝のひと時、しんとした静かな光景であった。
私が足を止めて眺めても、身じろぎもせず、トンボは同じ姿勢を保っていた。
野山で、今一番目立つ白い花は、過日取り上げた「センニンソウ」である。一度知ってみると、野にも山にも、蔓をはびこらせて、白い花が盛り上がるように咲いている。一つ一つは十字の美しい形の花だが、まとまると白い塊のように見える。特に山の高みにある花は。
トンボの止まっている草も、白い花をつけている。今時、野でよく見かける花である。花のつき方に特徴があるので、植物の本を繰って調べてみるのだが、今のところ名は不詳。トンボの右上に、ちらと見えるのは葛の花。
花びらが散り落ちていて、はて何の花だろうと、思わず崖を見上げた。
歩道の脇には、たくさんの葛が蔓を伸ばしているのであった。今は葛花の盛りである。あの穂状の逞しげな花が、落花する様子を見たこともないし、ただなんとなく、あの形のまま枯れてゆくのだろうと思っていた。
散り落ちた花は、花吹雪ほどの美しさはないにしても、決して惨めな姿ではなかった。
私同様、葛の落花の様を目にした人は少ないのではないだろうか。田舎道にはいたるところに咲いている花だが、決して目立つ花ではない。秋の七草に数えられる名だたる花には違いないが、散る桜を惜しむように、この花の終わりに格別な思いを抱く人は少ないだろう。したがって、大方は人知れず、枯れ凋んでしまうに違いない。
昨朝、葛の落花の瞬間的な美しさに出会えたのは、嵐模様の雨と朝の散歩のおかげかである。
今朝もまた早朝に驟雨があり、雨上がりの道を歩くと、さらに葛花の散り敷く数が増えていた。
昨年の九月、雨後の散歩で虹に遇ったことを思い出し、あるいはと期待したが、その僥倖は得られなかった。
市道から国道に出ると、崖の下の宅地から勢いよく伸び上がった、いかにも南国的な植物がある。昨年、その植物の中央部分に、白い大きな花が房状に咲いているのに気づいた。なんという植物だろうと思っているうちに、その花期が去った。
後日、その植物を育てている人に、花の名を尋ねた。
「幸福の木」だという。
鉢植えで求めた「幸福の木」が、次第に大きくなったので、庭の片隅に放置した。すると、鉢を割る勢いで、さらにぐんぐん成長したのだという。
国道から覗き込むと、3メートルは優にありそうだ。
私の知る「幸福の木」は、幹が丸太ん棒のようで、その脇から幅広の長い葉が、二、三箇所、束になって伸びている、瑞々しさの乏しい植物であった。
元来、「幸福の木」に花が咲くなど知らなかったので、名前はいいが、ごくありふれた観葉植物なのだろうと思っていた。
ところが、近所の「幸福の木」には、昨年に次いで今年も、花が咲いているのだ。(写真)
日本で、「幸福の木」と言われている大方は、「ドラセナ」という種の仲間らしい。「ドラセナ」が、なぜ「幸福の木」と呼ばれるのか不思議に思っていたところ、「ドラセナ」を家の前に置くと、よいことがあるという言い伝えがハワイにあるのだと知った。それに基づいて「幸福の木」と呼ばれるようになったらしい。
ネット上で、「幸福の木の花」を調べてみた。幾種類かの写真を見ることができたが、近所の花と同種のものは、ついに見つからなかった。
きっと種類がいろいろあるのだろう。
「幸福の木」と名づけられた謂れを知ると、なんだか、この木があるだけで福に恵まれそうだし、さらに花が咲いたとあっては、ますます幸せが到来しそうである。
その家のお嬢さんは、近く結婚されると聞いている。
きっと祝福の花なのだろうと、その花の前を通るとき、いつも嬉しい思いで眺めている。