先日、23日の朝、散歩で海辺を歩いているとき、磯に遊ぶ可愛い小鳥を見つけ、浜へ下りる石段に腰を下ろした。しばし、小鳥と遊ぶために。<智恵子ではないけれど……>と、心に呟きながら。
「千鳥?」
と思ったとき、ふっと高村光太郎の詩集『智恵子抄』が、思い浮かんだのだった。
「千鳥と遊ぶ智恵子」
九十九里浜が舞台だったな、と。
<砂にすわって智恵子は遊ぶ。>
<人間商売さらりとやめて、/もう天然の向うへ行ってしまった智恵子の/うしろ姿がぽつんと見える。>
昔、記憶力のいい時代には、暗誦していたはずの詩だが、今はポツリポツリと詩句の一部が出てくるだけである。
精神の均衡を失ってしまった智恵子、それを支える夫の高村光太郎の幻影が、九十九里浜ならぬ、石見の土田海岸に浮かび上がった。
智恵子と、いかほどの違いがあるのだろう?
私も、なんだかこの頃怪しい。
自分のしていること、考えることが、支離滅裂なような気がする。
「千鳥と遊ぶHUYU」
と、置き換えて自分を覗き込む。
私には、光太郎のごとき支えはないのだから、しっかりしなくては……。
寂寥の思いを紛らしながら、海上を渡る<千の風>に語りかけると、少しは救われる思いもしたのだが……。
腹部が白く、軽快な小鳥である。二羽の鳥が、磯で遊んでいる。
智恵子の周囲には、寄り集まってきた千鳥だが、土田の浜の千鳥は、私との距離を一定に保ち、むしろ私など眼中にもない感じである。
カメラを向けてみた。
砂浜の中央にある、よほど視力のいい人でなくては見えないような黒点が、一羽の千鳥なのだが……。(写真)
石段に腰かけて千鳥と遊んでいる私のところに、中年の女性が近づいてきた。
「土地の方でしょうか」と。
私が浜へ下りるのと同時に、駐車場に止められた車を思い出した。車には福山ナンバーがついていて、遠方からの釣り客だなと思ったのだった。
男性二人と女性一人の三人連れだった。他には浜辺に人影はなかったので、その女性らしいとすぐに察しがついた。
「免許証が落ちていたのですが…、警察がどこにあるか分からなくて」
私も、はたと困った。
帰宅後、駐在所に届けるとすれば、少々時間がかかる。どうしたものか?
拾い主の女性が、折りたたみの財布に入っている免許証を見せ、
「江津の人で、若い人ですね」
と、思案顔である。
ちらと見みたところ、千円札も何枚か入っている。お金が必要なときに、落とし主は気づくに違いない。例えば、朝食をとろうとして、あるいは飲み物を買おうとして。
「近くに知人の家がありますから、まず電話で駐在所に連絡してもらいましょう」
私は、携帯電話を持ってはいたが、駐在所の電話番号が分からないのだ。
唯一、草花を通して言葉を交わすSさん宅を尋ね、駐在所への連絡を依頼した。
ずいぶん待たされた。
駐在所の巡査がお休みのため、警察署に繋がれるまでに時間がかかったようだ。その返事は、拾った物を警察まで届けて欲しいとのこと。
Sさんの息子が、状況を察して、
「僕が行ってあげましょう」
と、言ってくださった。私が拾い主から預かったばかりに、Sさんの家族には朝早くから、迷惑をかけてしまった。
再び、海辺に出て、拾い主にいきさつを話し、帰途に着いた。
千鳥と遊んだ上に、思わぬ出来事に巻き込まれ、帰り道では、高度を増した太陽を存分浴びることになった。
帰宅後、程なく電話のベルが鳴った。
Sさん宅からである。
警察から電話があったと、ことの成り行きを話された。
落とし主から警察署に紛失の届けがあり、結局、免許証は、Sさん宅へ受け取りに行くよう指示したとのこと、海辺で待ち合わせて確実に渡したから、との話だった。
迷惑が軽くてすんだことに安堵した。
「いい人に拾われて…と、喜んでおられました」
と、Sさんは話された。拾い主は福山の人なのだが、処理の判断に大きな間違いがなくてよかった。
落とし主は、免許証を見ると、二十歳前の人だった。江津に向かって走る途中、浜田で気づき、警察に連絡したとのこと。その間、短時間にことが解決し、本人もさぞ安堵されたことだろう。
福山の車が、駐車場に停車しなかったら、財布兼免許証は、無事に本人の手元に返らなかったかもしれない。少なくとも、スピーディーな形では、戻らなかっただろう。早朝の本人の足取りについては勿論知らないが、土田の浜に立ち寄った時の紛失とは、本人にも分からなかったのでは?
場所の限定はある程度可能だろうけれど、戸外での紛失物は探しにくい。私の場合、戻ってきたためしがない。
江津の青年は、よほど運がよかったに違いない。
恥ずかしい話だが、家の中で姿をくらました私の眼鏡は、もう一か月近くなるのに、いまだ行方不明である。
「千鳥?」
と思ったとき、ふっと高村光太郎の詩集『智恵子抄』が、思い浮かんだのだった。
「千鳥と遊ぶ智恵子」
九十九里浜が舞台だったな、と。
<砂にすわって智恵子は遊ぶ。>
<人間商売さらりとやめて、/もう天然の向うへ行ってしまった智恵子の/うしろ姿がぽつんと見える。>
昔、記憶力のいい時代には、暗誦していたはずの詩だが、今はポツリポツリと詩句の一部が出てくるだけである。
精神の均衡を失ってしまった智恵子、それを支える夫の高村光太郎の幻影が、九十九里浜ならぬ、石見の土田海岸に浮かび上がった。
智恵子と、いかほどの違いがあるのだろう?
私も、なんだかこの頃怪しい。
自分のしていること、考えることが、支離滅裂なような気がする。
「千鳥と遊ぶHUYU」
と、置き換えて自分を覗き込む。
私には、光太郎のごとき支えはないのだから、しっかりしなくては……。
寂寥の思いを紛らしながら、海上を渡る<千の風>に語りかけると、少しは救われる思いもしたのだが……。
腹部が白く、軽快な小鳥である。二羽の鳥が、磯で遊んでいる。
智恵子の周囲には、寄り集まってきた千鳥だが、土田の浜の千鳥は、私との距離を一定に保ち、むしろ私など眼中にもない感じである。
カメラを向けてみた。
砂浜の中央にある、よほど視力のいい人でなくては見えないような黒点が、一羽の千鳥なのだが……。(写真)
石段に腰かけて千鳥と遊んでいる私のところに、中年の女性が近づいてきた。
「土地の方でしょうか」と。
私が浜へ下りるのと同時に、駐車場に止められた車を思い出した。車には福山ナンバーがついていて、遠方からの釣り客だなと思ったのだった。
男性二人と女性一人の三人連れだった。他には浜辺に人影はなかったので、その女性らしいとすぐに察しがついた。
「免許証が落ちていたのですが…、警察がどこにあるか分からなくて」
私も、はたと困った。
帰宅後、駐在所に届けるとすれば、少々時間がかかる。どうしたものか?
拾い主の女性が、折りたたみの財布に入っている免許証を見せ、
「江津の人で、若い人ですね」
と、思案顔である。
ちらと見みたところ、千円札も何枚か入っている。お金が必要なときに、落とし主は気づくに違いない。例えば、朝食をとろうとして、あるいは飲み物を買おうとして。
「近くに知人の家がありますから、まず電話で駐在所に連絡してもらいましょう」
私は、携帯電話を持ってはいたが、駐在所の電話番号が分からないのだ。
唯一、草花を通して言葉を交わすSさん宅を尋ね、駐在所への連絡を依頼した。
ずいぶん待たされた。
駐在所の巡査がお休みのため、警察署に繋がれるまでに時間がかかったようだ。その返事は、拾った物を警察まで届けて欲しいとのこと。
Sさんの息子が、状況を察して、
「僕が行ってあげましょう」
と、言ってくださった。私が拾い主から預かったばかりに、Sさんの家族には朝早くから、迷惑をかけてしまった。
再び、海辺に出て、拾い主にいきさつを話し、帰途に着いた。
千鳥と遊んだ上に、思わぬ出来事に巻き込まれ、帰り道では、高度を増した太陽を存分浴びることになった。
帰宅後、程なく電話のベルが鳴った。
Sさん宅からである。
警察から電話があったと、ことの成り行きを話された。
落とし主から警察署に紛失の届けがあり、結局、免許証は、Sさん宅へ受け取りに行くよう指示したとのこと、海辺で待ち合わせて確実に渡したから、との話だった。
迷惑が軽くてすんだことに安堵した。
「いい人に拾われて…と、喜んでおられました」
と、Sさんは話された。拾い主は福山の人なのだが、処理の判断に大きな間違いがなくてよかった。
落とし主は、免許証を見ると、二十歳前の人だった。江津に向かって走る途中、浜田で気づき、警察に連絡したとのこと。その間、短時間にことが解決し、本人もさぞ安堵されたことだろう。
福山の車が、駐車場に停車しなかったら、財布兼免許証は、無事に本人の手元に返らなかったかもしれない。少なくとも、スピーディーな形では、戻らなかっただろう。早朝の本人の足取りについては勿論知らないが、土田の浜に立ち寄った時の紛失とは、本人にも分からなかったのでは?
場所の限定はある程度可能だろうけれど、戸外での紛失物は探しにくい。私の場合、戻ってきたためしがない。
江津の青年は、よほど運がよかったに違いない。
恥ずかしい話だが、家の中で姿をくらました私の眼鏡は、もう一か月近くなるのに、いまだ行方不明である。