「ゆわさる別室 」の別室

日々BGMな音楽付き見聞録(現在たれぱんだとキイロイトリ暴走中)~sulphurous monkeys~

20100124

2010-01-24 | 矮小布団圧縮袋

○土曜も朝10時から夕方6時まで会議と作業。週休二日など有名無実の全部サビ残である。うちの社もそろそろ労基署から摘発されてもいい頃かもしれん。だって人員削減して従業員補充しないで残りの少人数で以前の人数分の作業を例年並みに処理しなけりゃいけない上に、追加新規業務が山積みだからだ。軒並み担当労働量は2.5倍くらいになってると思う。安全管理に問題があって正直危険だ。事故が発生しても知らんぞ。だが日曜日は幸い空いた。午前中は家の洗濯と掃除と後片付け。昼から買物にちょっと出る。

本日のBGM:「THIS IS IT」
 比較的近い館でアンコール上映の最後だって頃になって、やっと行けた。自宅の14インチのテレビ画面で見たMTVのDangerous Tourすら凄かったのだから、家でDVD見たっていいのだろうが、これはやはり映画館でギャラリーがいる大きい画面で大音響で見たかったのである。で再上映だってのに驚いた。待ち行列が出来てて開場でみるみる埋まっていく超満員??聞いてみると、どうやらリピーターがかなり多いらしいのだ。へええ、と思って見始めた。
 もちろん折々のヒットは知っている程度で自分がそんな絶対的な超ファンていうわけでもなかったのだが、6月7月の怒涛のMTV追悼番組の嵐の時に見続けてしまったのが何故だったのかを、今また思い出した。やっぱりMichaelは、なんかしらんけど「熱い」。そしてその熱が、見ている人にじわじわと伝わる。彼が世界に愛されてるとか愛を欲しがってるとかいうことではなくて、そんなレベルとは全く関係なく、彼が愛を放出している、遠赤外線サウナのように愛を撒き散らしているのだと、改めて思った。世間一般の大部分の人は、他人から愛をむさぼり奪いただ享受し消費することばかりで、人を愛しもしないし与えもしない。自分がもらうことばかりを求めて、そのもらったものを吸収しつくしてぶくぶく肥え太っていく、そして新陳代謝は悪く体温は低く、太ってもまだ飽き足りずむさぼり続ける地獄の餓鬼のようだ。しかしMichaelは逆だ。彼は産み出し続け、与え続けてどんどん細く窶れていったのかもしれない。世界を極端にこの上なく愛しすぎた人だったのか。実はダンサーだのスタッフだのギターの子だの相当20代の若い連中が多くて、Michaelなんてほんとは父親くらいの年かもしれないのに身体能力やスタイル含め「友人」感覚で全然年齢不詳なのも驚異的だが、折々現れる「天才的」な「勘」の瞬間が凄かった。彼も彼なりに紆余曲折あった人生だったのだろうけど、映画も後半になっていくとだんだん何かが「下りている」、降臨している感じになっていく。と気づいた時、Man in the Mirrorあたりでうるっと来てしまったのが自分でも意外だった。所詮巨大資本の出来る演出だよ、なんて最初っから全部拒絶してしまうのは「それを言っちゃあおしまいよ」。映画を見る前までの自分の感覚も、みみっちい毎日に毒されて、浅ましいレベルで右往左往していたようだと気づく。そういうのを超えて、もっと大事なことを考えないと。…納得。彼の言う、地球に足りない「愛」っていうことは、人が「まっとうに生きる」こと、というのにおきかえてもいい。この映画は、固定ファンのためのなんかじゃなく、一般的な観客にとっても、あるいはMichaelを知らない人が初めて見たとしても、プロの職人魂の「善い仕事」とは何か、ということを思い出させてくれる(※それにひきかえ俺達はいかに毎日「いい加減な」安っぽい下らないことにつきあわされてる一方で、命を粗末に削りすり減らしてるか、ってことだ!)という意味で、「映画館を出ると、ふっと背筋を伸ばして歩きたくなってしまう」映画の種類(高倉健の映画的)に近い快感が伴うのだと知った。再上映で満員な理由もこうして理解された。ぱっと数時間、抜け出して来てみてよかった。このTOUR、本番のを見たかったな。
 外は晴れていた。久しぶりに昼間の太陽の下を歩く。風は冷たい。我々はMichaelの面影を胸に、厳しい外界へまた歩き出すのだろう。(20100124)
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