○一日だけ空いたので、急いで掃除や洗濯やその他の用事をして週明けの準備。
(写真:黄葉の銀杏の木と、散歩中のキイロイトリ)…稲垣吾郎氏の誕生日とかいうのはともかくネルソン=マンデラ氏の葬儀で、ジョン・レノン氏の命日ということで、ちょっと姿勢を正す気持ちで:
いろいろ取り込み中ではあるが、ちょっと数時間だけ抜け出して、映画「ハンナ・アーレント」(独、2012)を見てきた。KBCシネマで入場前に映写室入口に長い行列ができている、なんてのは自分は初めてかも、と思うほどのなかなかの盛況。基本的には「大人が多い」が、岩波ホールなどで静かにじわじわと話題になっているらしい。夜と霧だけでなくアーレントもアイヒマン裁判もわりとよく取り上げられ知られているし、こないだたまたま本を読んで興味を持ったので見に行った。むしろ東西対立後の、グローバリズムだのなんだのの中の人権侵害やハラスメントやいじめや官僚主義だのが発生する時に、どの国でも世代性別あれこれに関係なく、どこでも身近にありうるメカニズムとして、21世紀以降の方が理解が広まっているからだろうか。
今だから、そして自分がドイツ人でもイスラエル人でもない日本人だから冷静に見ていられるのかもしれないし、確かに1960年代ではまだ第二次世界大戦後の、同盟国=悪と近代的自我の勝利の神話が残っている頃だから、元々そういう「まっとうな人間観」を崩壊させるような話ではある。第二次世界大戦後たった15~20年しか経っていないから当事者も世界中にたくさん生きていて、その記憶を傷つけられる感覚も、生々しかったはずだ。
だがそんな当代的な了見を超えて、哲学の目は人間の隠蔽された欺瞞や事実を、超越的かつ普遍的に見抜いてしまう。「それ」が「誰にでも起こりうる」ということが、一般の普通の人たちの感情では認めるのが耐えられないような、最もおぞましい要素だったと思われる。
それにしても甚だ「劇場化」的な裁判。だからこの映画は1960年代の歴史映画ではなくて、かなり「今」らしい話で、そして今のあらゆる細々とした生活の中の「思考停止」を顧みて、密かにぞっとする映画だったりする(「実際のフィルム」のところが、特に「これ、本当に言ってるのか?」と思うと、一番怖い気がする。しかし、これが覆い隠せない20世紀の現実だと思う)。オルテガとかジョージ・オーウェルとか読んでもそういうことを感じるし、彼女の宿題が21世紀にもまだ残っているどころか、いよいよまずいのかも。知識人、マスコミ、政治的力関係、人間同士の心の葛藤とか、かなり地味な頭脳戦というか淡々とした描き方だが、これもじわじわ来るし、案外難しくない構図のドラマに作ってある。誹謗も断絶もあるが、ささやかなところに友情とか信頼とか、大学の講堂で聴いてる学生たちの表情も、物語ってたし(これから続く若い世代への期待か)。映画ってこういうほろ苦い展開の話も一つのentertainmentに作り上げてしまうんだなと思う。そこも話題の理由だろうか。
「思考しない」ということは「人間であることをやめてます」なのだと。「人間であることをやめない」で居続けることは、時として本当に困難であるけれど、それでも、やめない、ということ。それを英雄化してしまうことも、もしかするとアーレント自身は警戒しているかもしれないけれども。
※なお、20世紀中盤の話なので当然飲酒喫煙は日常生活の常識、それもぷかぷか大盤振る舞いである。自分の幼児の頃よくそこで遊んでた(今なら汚染された空気が子供に悪いと問題になりそう?w)紫煙たなびく父親の書斎の中のようだ。喩えて言えば「酒飲みすぎ煙草吸いすぎイングヴェイ=マルムスティーン(※LOVE LOVEゲストについての堂本剛氏評、1997年頃のラジオにて?)みたいなもの。言い方が難しいが、「男前」(?)というか。
途中で通ったマリンメッセ福岡で、フィギュアスケートのGPファイナルの今日はエキシビジョンをやっている。国際大会らしく、世界各国の旗が立ってたりする。
本日のBGM:白夜を行く(「白夜行」より)/ 河野伸 町田樹選手のエキシビジョンの音楽。
ちょうど「八重の桜」も先週の襄に続き山本覚馬逝去。この人も主人公のようだった気がする。今日が最終回前半みたいな感じでもあったが、来週が従軍の怒涛の中でラスト?(20131208)
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