「ゆわさる別室 」の別室

日々BGMな音楽付き見聞録(現在たれぱんだとキイロイトリ暴走中)~sulphurous monkeys~

20070901

2007-09-01 | 矮小布団圧縮袋

○花火大会と縁日にかこつけて遊びに来る人々と夜中に宴会。なんか「盆に都会から戻ってくる息子や孫を迎える田舎のおばあちゃん」になった気分だ。LFを見て(にきびってめんどくさくてやだなあ。そろそろそういうの吹き出物っていうんじゃないか?・笑)と思いつつ酒のつまみやおかずを昼頃から作って備えるのはいいが、一人暮らしなのであまり食器が無くあるもの総動員して、冷やしておいた祝い酒をふるまう。思えば一週間前の同じ曜日の同じ時間にも数百キロ先の標高七~八百m付近だかのとんでもない所で、叙情詩の後の打ち上げ花火にどよめいていたわけだが。それにしても、花火は大勢でみんなで見た方がいい、なんて常識的なことを、どうしてこの歳になるまで人生においてあまりよく考えてこなかったんだろう。ま、それだけ恥ずかしすぎてかつそういうことをかなり馬鹿にして(いけすかねー)ひきこもりだったんだけどさ。2005年夏にどこのライブにも行けずかつ引きこもり鬱気味になった分、今年は少しは反省した過ごし方になった、ということもあるかもしれない。

 どこまで人といっしょに生きられるか。てのはもう老後、死ぬまで一生の課題だ(爆)一人暮らしを続けるにせよ親類と住むにせよ、万が一別の誰かと暮らすようになるにせよ。過ごしている一瞬一瞬が楽しい、ということは、世評とは関係なく自分にとって本当にそう感じられる意味がないと、無意味である。しかし自分だけではなくて、自分の生きた時間が自分以外の他人の記憶にもまた残るかもしれない、だから楽しい時間を共有するにも意味がある、ということが、少しずつわかってきたような気もする。子供の頃から、それがずっと信じられなかったし、今でも「それは何かの思い込みで、楽しいのは自分だけかもしれない、ほかの人は嫌なのに我慢しているかもしれない、自分が時々そうであるように」と思うことはあるけれど。少し外に出て、本当に人に会ってみて、初めてわかることもある。嫌なことも楽しいことも。それを少しずつやってみる夏だったんだろう。発見があるのは面白い。自分も歳で、昔のような子供の役割より、人の面倒見る側や心配する側の役割になれたりするわけだから。まあもう少し早く、せめて20代のうちに気づけよ、みたいな話だけど、それはもう別にいいんです。その分発見も感慨も深いような気がして。

 キンキラ(LF+R)が始まる頃に終電に間に合うよう花火で沸いた酔っ払いの皆さんを帰して、ラジオを聴きつつお皿をお片付け。どうなんだろうな自分、とまた考える。今日なんかまだいい方だが、仕事の繁忙期だとまたキレまくって余裕なくってこんなことはできないのかな。人と同じ部屋にいると凄く緊張する癖は未だに直らないし、仕事上も一人の方がずっと集中できるのが原則で、そうしてきているが。それとも家族と同居したりすると何でもできるようになるのかな、親戚の兄弟一家や友人夫婦一家みたいに(ほんとに偉いと思う)。余裕のあるときなら、料理や掃除や洗濯は相当な精神的なバランスの調整にはなるような気がするんだけれど。あとはそこまでして同居したい人がいるかっちゅー話で(爆)まあこの「別室」でわかろうが呆れられ断られる事必至。今日は今日でちゃんと生きたしかなり面白かったからいいってことにしとけ。(20070901)
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