みーばい亭ブログ

言いたい放題! 飲み放題!

羽化!

2006-07-25 21:49:07 | 生き物の話
生き物は好きだが生き物を飼うのが好きかと訊かれると困ってしまう。
好きな生き物を手元に置いて眺めていたいという気持ちはあるが、飼育するとなるとその生き物に対して自分自身が全責任を負わなければいけない。
これはちょっと重い。
野生の生き物から野生を奪うことなく自由な関係で付き合いたい・・と思うのだが、これもなかなか難しい。
というわけで、ほんの少しだけ自分の責任で飼育している。
それはそれで楽しいことではあるが・・。

今朝早く、庭先でイトトンボが羽化した。
メダカの容器で勝手に育った個体だ。
面白半分にボウフラやヒメミミズを与えていたが、それも元々庭にいる生き物。
手を貸したのは羽化用の矢竹を立ててやったことだけ。
このイトトンボとは、わりと理想的な関係を築けたのではないかと思っている。
「飼っている」のではなく「勝手にいる」生き物の成長を観察する。
裏庭ビオトープの小さな醍醐味だ。
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ヤゴを育てる!

2006-07-23 10:56:35 | 生き物の話
休暇でしばらく留守にしていた間に、庭のプラケースで養育していた仔メダカが激減した。
餌もやっていなかったので自然淘汰されたのかと、気楽に考えていたのだが理由は他にあった。
ヤゴである。
飼育水がすっかりグリーンウオーターになっていたので、気付かなかったのだが、底をさらってみると、イトトンボ系らしきヤゴが3匹も出てきた。
仔メダカがいなくなるわけだ。
念のために、メインの舟池も確認してみると、こちらからはいわゆる「トンボ」のヤゴが2匹見つかった。
本来、この舟はビオトープの一部として設置したのだから、自然の生き物が勝手に産卵して成長してくれるのは大歓迎なのだが、せっかく繁殖させているメダカを食い尽くされてしまうのは面白くない。
で、とりあえずボウフラ養殖用の容器に引っ越してもらうことにした。
そろそろ1週間だが、みんな生きている。
意外と強いものだ。
ドロドロの緑水を通して、ヤゴがボウフラを捕まえる一瞬を観察するのも結構楽しいが、また餌集めの手間が増えてしまった。
イトトンボのほうはそろそろ翅芽が大きくなってきたので、間もなく羽化して飛び立つと思うのだが、トンボはまだしばらくかかりそうである。
やれやれ。

※飼育水はほとんど透明度が0なので、カメラをハウジングにセットして水中撮影を試みた。我ながら馬鹿馬鹿しいと思うが・・。
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沖縄美ら海水族館

2006-07-19 21:49:04 | 生き物の話
深い海底から塔のようにそそり立つ根。
外洋を回遊する魚は、そんな所に集まってくる。
故に、フィッシュ・ウオッチングにしても釣りにしても、そこがポイントになる。
当然潮の流れは強い。
砂を撒いて、潮流の方向と速さを確認し、上流にボートを回す。
BCのエアを充分に抜き、飛び込むと同時にヘッドファーストで一気に潜行。
視界の先に根のトップをしっかりと見据え、流されながら深度を下げて根にしがみつく。
タイミングを誤れば、翌日新聞の片隅に小さく行方不明記事が載ることになるだろう。
付着生物をできるだけ潰さないように気を使いながら、指先で根の凹凸をつかみ、体をホールドしたら、後はひたすら待つだけだ。
もちろん広い海のこと、そう都合よく魚が現れるはずもない。
タンクの残圧とダイブテーブルの時間が許す限り待ち続けて空振りに終わることもある。
それだけに、真っ青な水の彼方から、銀色に輝くロウニンアジや、猛スピードで駆けるツムブリたちや、人懐っこいカンパチや、向こうが見えないくらいのブリの大群や、ゆったりと羽ばたきながら近寄ってくるオニイトマキエイや、精悍で臆病なニタリにヨシキリザメ、そんな魚たちが現れると、マウスピースを吐き出して叫びたくなるほど興奮する。
回遊魚ウオッチングとは、そういうものである。

「狭っ!」
日本最大級という触れ込みの水槽の前に立ったとき、まずそう思った。
確かに水槽は大きいかもしれない。
しかし、どう考えても詰め込みすぎである。
見ているこっちが息苦しくなる。
何よりも青くない。
回遊魚が泳ぐ外洋の海は目に沁みるほど青いのだ。
水はうっすらと白濁し、苦しそうに泳いでいる魚たちにはまるで生気を感じない。
もちろん、あの自然の海で見せる精悍さやスピード感は微塵もない。
鮨屋の水槽を泳いでいる息も絶え絶えの魚と同じだ。
いや、切りさばかれて「ヒト」に摂食されるという、明確な利用価値がある分、鮨屋の魚の方がまだ救いがあるかもしれない。
ここの魚たちは、死ぬまでの残り数ヶ月かせいぜい数年間を、安直な見世物としてのろのろと泳ぎながら過ごすのだろう。
嫌な空間だ。
水槽をじっと眺めていたら本当に気持ちが悪くなってきた(前夜の深酒のせいもあるのだが)。

ボートに揺られることも海水に濡れることもなく、小奇麗な洋服にサンダル履きで、水槽を眺めて歓声を上げる観光客の後ろ頭が、外洋を漂う文明の排泄物である廃油ボールに見えたのは私だけだろうか?
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カメになりたい

2006-07-13 21:51:47 | 日々の戯れ
あたりまえだが海は広くて大きい。
頭では分かっているつもりだが、海に入るたびに改めて実感させられる。
水の量が物凄い。
この物凄い量の水を体感すると自分の無力さが物凄く現実味のある圧力として迫ってくる。
自然だの環境だのと口にすることが情けなくなるほどに。
野外に出て自分自身の目で現状を確認する事もなくただパソコンの前に座して命がどうのオカヤドカリがこうのとまわりに不快感を与えるだけの汚らしい言葉を撒き散らしている色白の変態を嫌悪し嘲笑し軽蔑していた自分自身さえ滑稽に思えてくる。
庭の木々やそこに暮らす虫たち、水槽の小魚に身近な小動物。
一人の人間が守りきれるものなど、せいぜいその程度だろう。
庭に殺虫剤を撒き散らしながらアフリカがどうだアマゾンがこうだなどと憂いている馬鹿にはなりたくない。
すぐ近くにいるクモや昆虫やトカゲやカエルを愛せない人間に地球を愛せるはずがないではないか。
みんながクモや昆虫やトカゲやカエルを大切にすると困る誰かが、直接関係のない遠くの自然に目を向けるように仕向けているのかもしれないが、なんにしても、くだらない世の中だ。
まったく地上は汚らしい。
今は静かなカメになって綺麗な海を泳ぎ続けたいと切に思う。

※この画像は野生動物への影響を少しでも軽減する為にノー・ストロボで撮影しています。
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ガジュマル

2006-07-12 22:23:11 | 日々の戯れ
久しぶりに、ガジュマルらしいガジュマルを見た。
前にガジュマルらしいガジュマルを見たのは、もう10年近くも前、八重山諸島の竹富島だった。
明らかに何かの意志と目的を持ってそこに立っているガジュマル。
戦争やら港の拡張工事やら自動車やら。
そして水牛やら赤瓦やら島人の暮らしやら台風やら、そんなものを全部ひっくるめてただ見るためにそのガジュマルはそこに立っていた。
受け入れるわけでも悲しむわけでも役所に電話を掛けるわけでもない。
ただ見るためだけの綺麗な心で生きている。
そんなガジュマルだった。
当然のようにそのガジュマルを撮った写真には、オレンジ色の小さな顔が映っていた。

それから、たくさんのガジュマルを見た。
吸い込まれそうなくらい大きなガジュマルも見たし、壁のように気根を垂らしたガジュマルも見た。
強風に耐え岸壁にしがみついているガジュマルには心から感動したし、ひんぷんに根を張っているガジュマルを見たときは崩れないかと心配になった。
けれど、あの竹富島のガジュマルを見たときのような「なにか」を感じることは一度もなかった。
もう木や岩や草や虫や月や魚や砂や海や鳥の「心」と同調するには汚い世界で生きすぎてしまったのかもしれない。
自嘲気味にあきらめていたから、このガジュマルを見たときは少しうれしくなった。

ひさしぶりに出会ったガジュマルらしいガジュマルは、ヤンバルの密林でも離島の絶壁でもなく、平和通りからほんの少し入った路地の奥、つまり那覇市のど真ん中に立っていた。
考えてみれば当然のことだ。
人のいないところに立っているガジュマルは人に話しかけることなど出来るはずがない。
人と心を同調させることの出来るガジュマルは人のそばにあるのだ。
そのガジュマルは、古い井戸を守るようにしっかりと立っていた。
シーサーやら芭蕉布やら砲弾やらアメリカ兵やらアイスクリームやらポーク卵やら、そしてわらわらと歩き回るヤマトンチュやらを何十年もただ見てきたのだろう。
もちろんそこには彼がいたのだが、カメラを向けると恥ずかしがって幹の向こう側に隠れてしまった。

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