
事件の犯人はこの施設の元職員の植松聖である。障がい者を不要の存在、社会悪と断じる植松の思想を醸成した社会がこの問題の本質である。典型的な確信犯である。国家は不要の存在を抹消し社会の負担を軽減した自分を、国家は高く評価するべきだというこの男の考え方は日本のあちこちに存在する。
在特会がその典型であるが、現在の右翼が日本会議という巨大な組織として統合し、排他性を存分に発揮している。
ヒトラーは障がい者を収容所に閉じ込め大量殺害をしている。その後のユダヤ人収容所のモデルにもなっている。最近になってその暗部が照らされている優生保護法も同類である。社会的不要の遺伝因子を排除するため、不妊手術を基準もなく施している。
特定の人たちを排除し人権を認めようとしない、そのような団体や思想は様々な形でこの国に存在し、今や国権の中枢にすら居座っている。自民党の憲法草案から人権要項が削除されている。国家に奉仕しない経済的効率を失った人たちの存在を、憲法で認めようとはしないのである。麻生太郎などがしばしば口にする失言にその本音を見ることができる。
新たなやまゆり園は、白い強固な塀で囲われ職員を増やし、無数の防犯カメラを設置したようであるが、これは結構なことではある。教育の充実が唱えられると、校舎ばかりが近代化されるのに酷似する。障がい者の人権や教育者の待遇など、もっとま基本的なことまで覆いつくしてしまう。
障がい者を経済的評価や社会的に機能するかではなく、先ずは人権を有する個人として認めることから始めなければならない。しかし、現在の日本はその真逆の方向に向かっているようにみえる。経済的格差社会は更なる人権の格差も生むのである。