半透明記録

もやもや日記

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『HEROES/ヒーローズ』

2009年05月31日 | 映像



実は、地上波で毎週深夜に放送されていた第1シーズンから地道に見続けている海外ドラマ。突っ込みどころは満載ながら、なかなか面白いのです。


登場人物の多くは超能力者で、迫りくる危機から世界を救うため、協力し合ったり反目し合ったりしてドラマが進んで行きます。第1シーズンの危機は、ちなみに「ニューヨークでの核爆発」。これを阻止するために、時間を止められる能力者(日本人で、あの「ヤッター!」の人)や、空飛ぶ政治家、怪力美女、不死身のチアリーダーなどなどが複雑に関係し合います。それにしても、毎度のことながら、核を甘く見過ぎでは…? と思わないこともないですが、まあいい。第1シーズンは恐ろしく強引にまとめましたね、そりゃもうビックリでしたよ; 全く予測不能の超展開でした。いやー、すごかった。

そして私は今、ちょうど第2シーズンの終わりの方まで観たのですが、相変わらず突っ込みたいところがいっぱいです。なに、あの、1600年代の日本に対する奇天烈なイメージは…?? とか、クレア(美人?チアリーダー。とにかく、ごつい女の子)ったら第1シーズンの苦労も忘れて親父に対してむやみに反発し過ぎじゃない? とか、ミスター・マグルス(犬。すごいフカフカ)が可愛過ぎ、とか。いろいろ。先の展開が全く読めないのですが、なんとなく行き当たりばったりで設定やストーリーを考えているのではないだろうかと邪推してしまうほどに強引な展開が多いので、あれこれ予想するのは止めて、素直に楽しむことにしました。ちなみに第2シーズンの危機は、「ウィルス」がどうしたとかこうしたとか…よく分かりません。もうすぐ終わりそうなのに…どうなるの??


このドラマシリーズは、とにかく能力者たちの性格が無茶苦茶なので、目が離せません。ニキ(怪力で二重人格に苦しむ美女)などは、とてもイライラします。ピーター(能力を吸収する能力者。イケメン)もノロマ過ぎて腹が立ちますし、第2シーズンから登場のウェスト(空飛ぶ男の子。クレアのボーイフレンド)のストーカーっぷりにもゾッとします。
それに対して非能力者の登場人物には割といいやつが多いので、これは好感が持てますね。
インドからやってきた学者のモヒンダなんかは、いい人過ぎて死んじゃうんじゃないかといつもハラハラしてしまいます(だが意外に丈夫…重要な役だから?)。そしてまた、この人はハンサム過ぎてドキドキします。
日本のサラリーマンであるアンドウ君(ヒロの友達。韓国系の役者さん?が演じています)などは、一生懸命日本語で台詞をしゃべっているのですが(無意味にリアリティを追求したドラマ;)、吹き替えなしで聞いてみると時々何を言っているのかサッパリ分からないけど(せっかく日本語でしゃべっているのに吹き替えられてしまう件について……;)、一生懸命なのが伝わってきて、応援したくなります。いいやつなんだよなー、アンドウ君は。
あとは、ヒロの父親のカイト・ナカムラ(宇宙大作戦のヒカル・スールー役のジョージ・タケイさんが演じておられます)がいちいち格好良すぎますね。この人は能力者らしいのですが、なんの能力を持っているんだか全然披露されません。
しかし、総じて日本人が随分と好意的に描かれているあたりが、アメリカのドラマなのにちょっと不思議です。
アメリカ人の登場人物は、みんな悲惨なのですよ。不倫とか浮気とか隠し子とか、裏切りにまみれています。大丈夫なのでしょうか。アメリカ社会の暗部を目の当たりにするようです。まあただのドラマに過ぎないと言えばそれまでですが。



というわけで、私はいまスカパーのスーパードラマTVを契約しているので、そこでこのドラマを視聴中なわけですが、このあいだ第3シーズンが始まったところなので、どんどん先に進んでほしいです。グダグダだっていい。このドラマは、ストーリー以外のところに面白さがあるような気がする。とりあえず、途中で打ち切りになったりせずに無事に完結してほしいものです。




今日抵抗せよ! 明日も抵抗せよ!

2009年05月29日 | もやもや日記
キジマ教授の講演会。
(未完成イラスト)




“今日抵抗せよ! 明日も抵抗せよ!”

というのは、あるドラマのある場面の名台詞なのですが、最近の私の胸の内にはこの言葉が大きくこだましています。

衣替えも近づくこの季節、足が太くてズボンがぴちぴちとか、……耐えられないわ!! 太りにくい体質だと思っていたのに、いつの間にこんな激太りしちゃったの!? 食事量は変わっていないのに、なぜ、なんで?? はぁ~、がっくり。

もしかすると、私は年を取るほどに重くなる…のかも。前に祖母が私の腕を取って「昔はばあちゃんも、こんくらい細かったがやけどねぇ(訳:このくらい細かったのだけどねー)」と言っていて、(またまたご冗談を…)と軽く受け流していたのだがなぁ。体質って、いくらか遺伝しますよね; ……ッ!!(焦)


というわけで、ちょっと前からがんばっている筋トレですが、まだまだ足りないようなので、もっと励みたいと思います。タンパク質を十分に摂取しつつ、運動して筋肉量を増やすと、脂肪が燃えやすいらしいですよ。
なんにせよ、健康的に締まった体を手に入れたいものです(/o\) ズボンが履けなくなるとか思うと、ストレスが溜まります。私は健やかに暮らしたいのです。うぅッ!



抵抗せよ!

ワンサイズ上げればよくない?…なんていう魔のささやきに抵抗せよ!





天使の反逆、きた!

2009年05月28日 | 読書日記ーフランス


まだよく調べていないのですが、嬉しかったのでご報告。

アナトール・フランスの『天使の反逆』を長らく探していたのですが、どうやら【ゆまに書房】というところから、今年の4月に出たようです。ヒャッホーーッ!!

装丁があまり気に入らないですが、贅沢は言いますまい。いささか値が張るのですぐには買えないですが、嬉しい! 絶版になる前に、ぜひとも手に入れたいところです♪♪ わーい、わーい☆ やっと全篇が読める!


さっきまで泥のように沈んでいた私の心は急上昇です。
若い頃は下手すると1週間くらい沈みっぱなしだったこともあるのに、なんというか、年を取ったおかげなのか、気持ちの切り替えが早くなったなあ。しみじみ。





『夢小説・闇への逃走 他一篇』

2009年05月27日 | 読書日記ードイツ

画像を載せる気力もなく…

シュニッツラー作 池内紀・武村知子訳(岩波文庫)






何も書きたくない。一言も言いたくない。でも、またうっかり忘れて、同じ地雷を踏んでしまわないためにも、修行だと思って少しだけ書いておくことにする。

シュニッツラーの『夢小説・闇への逃走』のことである。

「夢小説」までは、まあよかった。フリドリンがその生活にも妻にも失望しつつも、幻の女の影を追いきれず、生活も、妻も、幻滅そのものであると思いつつ結局は手放すことをしない。気が滅入るには違いないけれど、まあ、これはよかった。優柔不断が、選択の先送りが、人任せが、結局は自らの幸福とは何かを、どこまでも曖昧なものにしていくのかもしれないという、そこはかとない気まずさとやり切れなさを、幻想的な物語のうちに読むことができたと思う。

ここでやめておいたらよかったのだが。

「闇への逃走」については、何も言う気がしない。
思い出すのも危険だ。これを読むべきは、幸福の絶頂にあって馬鹿げた狂気など笑い飛ばせるくらいの健康状態にあるか、もしくはささやかな倦怠感からちょっと「不幸な自分を演じたい」と酔狂な遊びに手を出そうかという、いずれにせよ健やかで明るく、正しい人間が読むべきだと思う。引き摺られやすい、心の弱い私のような人間には必要ない。この人の暗闇の黒さは私の底の割れた魂には馴染みすぎて、何も満たしてくれない。ガルシンの「赤い花」を読んで、ただでさえ気落ちしていたところに、とどめをさしてくれやがった。もう、いい。私は行きます。主人公の名前を、もう忘れた。お兄さんの名前がオットーだったことは思い出せるのだけれど……

読んでいて、電話が鳴ったのでびっくりして飛び上がり、その驚きようにまたびっくりした。相当血の気が引いていたのか、文庫を持つ手が細かく震えているので、また驚く。何か気分を変えて別のものを読もうと書棚に手を伸ばすと、奥の列から、全く購入した記憶もないシュニッツラーの別の本が出てきたので、ぞっとする。いったいどういうつもりなんだろうか。

私は偶然を信じない。なにかにつけそこに予兆を見いだしたがる。だが私はそんなふうに生きるべきなんだ。では今度のことは、私に何を教えようとしているのか。これまでのいくつかの物語は、私に進むべき道を、考えるべき問題を、見るべき美しいものを提供してくれることが多かったと思う。さて、これは何だろう。
私はこれを立ち入り禁止の警告だと受け止めることにする。あまり自分の内側にある暗闇のことばかりに目を向けすぎてはいけない。それは私を滅ぼしたがるだけで、私を救いはしないだろう。分かっていることじゃないか。こいつのために、これまで何かいいことがあった試しがあるだろうか。何が原因かなど、もうどうだっていい。やめた。やめろ。

このあいだ、山の夢を見た。山に登ろうとして悪天候のために登らなかったが、改めて計画を立て直して、またいつか登ろうとする夢だった。
私は選ばなくてはならない。
光り輝く美しいもので満たすんだ。もっと注意深く、そこここにある美しいものを集めなくては。美しいものへの憧れだけが私を満たしてくれる。ただ、割れ底からたえず美しいものは流れ出ていってしまうから、もっと、もっと注意深く、ないもののなかにもあると思って。砂のなかから砂金をよりだすつもりで、砂自体が砂金だというつもりで。


疲れた。私は常にひとりになりたがりながら、同時に猛烈に寂しくもあるのだ。ばかばかしい。とても素敵なワンピースを買ったばかり。これを着て、どこかでかけよう。どこか、美しいもののある、どこかへ。







「赤い花」

2009年05月26日 | 読書日記ーロシア/ソヴィエト

ガルシン 中村 融訳
(『世界文学大系93 近代小説集』(筑摩書房)所収)


《あらすじ》
癲狂院に入れられた「彼」は、庭園の花壇に咲く異様にあざやかな赤い花を見つける。彼は、この花を摘む行為が自らがなしとげねばならぬ、地上を悪から救うための偉業であると考え、ひとつひとつ赤い花を摘み取っていく。


《この一文》
“朝になって彼は死体となって発見された。その顔は、安らかで明るかった。薄い唇と、深くくぼんで閉じた目をもつ疲れ果てた面ざしは、何か得意な幸福といったような色を表していた。”




10日くらい前に読んだのですが、恐くて感想が書けませんでした。「彼」は狂っている。赤い花にこの世の悪のすべてを象徴させ、それを摘み取ることで自分が世界を救うことになるのだ、なんて、どうかしている。馬鹿気ている。まあ、狂っているのだから仕方がないか。と、このように思うために書かれた作品ではないでしょう。そんな風にはとても思えないところに、この作品の力があると思います。しかし、作者はつまりどういうことを言いたかったのだろう。私はこれをどのように受け止めたら良いのだろう。ただ、恐れるだけでなくして。

この物語の恐ろしいのは、こういうことだろうか。
まず、「彼」は癲狂院に入れられ、査問を受ける身の上ではあるが、ほんの一年前までは「彼」が査問をする方の立場であったということ。なにかのきっかけが、「彼」をすっかり狂わせてしまったらしいこと。そして狂気に陥った「彼」の異常な行動、異様な論理、手に負えない凶暴性などは実際に恐怖を感じさせます。

もうひとつは、そのように狂ってしまい破滅へとひた走る「彼」ですが、花壇の赤い花を全て摘み取り、世界を救うためなら死すら厭わないまでの使命感に燃え、実際にそれをやり遂げ、達成感と幸福感のなかに死んでゆく「彼」のその姿に、たしかにある種の爽快さ、美しさを見いださずにはいられないことです。

「彼」にとっては、赤い花を殲滅することが使命でありその達成こそが喜びであったわけですが、たとえばいわゆる正気の、正しく立派な人たちが、時にその生涯と全精力を捧げて、克服すべき障害を乗り越えて成し遂げた偉業によって、満足感と賞賛に溢れた生涯を送るのと、あるいはごく「当たり前の」人々が、ごく「当たり前の」生き方を追求し、それを妨げる邪悪なものを排除しながら「当たり前の」幸福な生涯を送ろうとするのと、どこがどのくらい違っているのでしょう。いずれも、自分の幸福を実現しようとし、ついでに他人の幸福をも願おうという点では、彼だってその心根は同じだとしたら。

だが、実際のところ、赤い花なんか摘んだところで、世界に平安は訪れない。どうせなら、もっと目に見えて役に立つことをしろよ。おわり。
……だが、本当にそうなんだろうか。いや、そうなんだろうけど、本当に、すっかりそうと分かりきったことなのだろうか。誰も、自分の行動が結局のところは赤い花を摘むのと大差ないと知らないまま、それをただ「当たり前」だからと、「正しいことだ」と信じて、そうやって生きているのではないだろうか。
だとしても、だからどうしたというだけの話かもしれないけれど、私は心細くなる。私は、なにかを、なんであれ、深く、真剣に信じきるということが恐ろしくてできないから、こんな風に思うのかもしれない。


私は「彼」を恐れたと同時に、憧れというような気持ちが湧いてくるのも感じる。臆病な私には選べない。狂気か、正気か、いずれにしても選ぶことができず、幸福も満足も、自分から得ようとも認めようとさえしないまま、怯えながらただ流されてゆくだけだ。

私ならきっと、赤い花を見つけても摘み取るだけの勇気もなく、ただ遠くから見つめるだけだろう。それがひとりでに枯れるのをひたすら待つだろう。そして、秋が来て冬が来て、花が視界から消えたことに安心するしばしの時間を過ごしたのち、また春が来て、あたらしく咲き出した赤い花を見つめるのだろう。いつまでも踏ん切りはつかない。

それとも、私自身が摘み取られるべき悪の花だろうか。なにも持たず、なにも生み出さず、なんの手だてもない私は、摘み取られ、撲滅するべき対象となっても仕方がないだろうか。そうかもしれない。なぜ私ごときに摘み取るかどうかを選択する資格があると考えたものだろう。

正義とか悪とか、正気とか狂気とか、幸福だとかそうでないとか、私に分かることはほとんどない。ただ、とめどなくぼんやりとした暗闇がひろがってゆくばかり……





スタートレックまるごと20時間

2009年05月24日 | 映像

という特番を、昨日からスカパーの【スーパードラマTV】でやっているので見ているのですが、全5シリーズのそれぞれ4話分のベストエピソードを放送しています。

で、ヴォイジャーをいままさに放送中なのですが、1、2話放送された段階で、2話とも「前編のみ」なんですけど……!!
うお~~っ!! 続きが超気になる…!!

DS9はほぼ全話分を執念で録画保存してあるので、いつでも見られるのですが、ヴォイジャーは途中までしかみていない上に、録画したデータも少なくて……。うーむ。こういうことがあるとDVD-boxが欲しくなっちゃうんだよなぁ。


ちなみに、視聴者からの人気投票によって構成されているらしい今回の20時間まるごとスタートレック。ヴォイジャーについては、第3位のエピソードは猛烈に面白かったです(と思って調べてみたら、第7シーズンの最後から2話目の話なんですけど; つまり最終回の一回前。これは見たらいかんでしょ…しまったー!)。しかし、悪魔艦長の相変わらずの悪魔っぷりと、セブン・オブ・ナインのツンデレっぷりといったら、もう。面白過ぎる。あ、第2位の放送が始まるぜ……戻らねば……。

最終シリーズのエンタープライズは、まあ、わりとどうでもいい…。その分新スタートレックとか増やしてくれたらよかったのに。




新幹線と空母

2009年05月23日 | もやもや日記



ずいぶん昔のTV番組ですが、新幹線の開発について特集したものをみる機会がありました。

それで私は、これまでは「新幹線のチケットってもう少し安くならないものかしら…」などと思っていたのですが、番組終了後には少々高くても仕方ないよねと思うくらいに、その開発やメンテナンスに携わっている人たちの努力には感動させられたわけです。
時速200キロで走る新幹線は、開発当時、その200キロというスピードを出すのはそれほど難しいことではなく、それをどうやって停車させるか、ということのほうが大きな問題だったそうです。へ~、意外! で、あれやこれやのアイディアを出すのですが、どうしてもすんなり停まることができない。そこで、発想の転換ですよ。

「じゃ、停まらなければいいんじゃない?」

な、な、なるほど!! 新幹線の路線内に人が侵入できないようにしたり、車体の下に障害物を払いのける裾のようなものをつけたりなど、新幹線には工夫がいっぱい。そして、新幹線の営業が済んだ深夜、メンテナンスのための特別な列車が線路の状態をチェックし、傷んだレールを研磨、補修したりするそうです。なんというきめの細やかさ。泣けますね。こういうたゆまぬ努力の結果、運行開始以来ほとんど無事故という偉業(中越地震のとき、ちょっと脱線したくらい? というか、走行中に地震に見舞われて脱線だけで済むとか、凄すぎます)が成し遂げられるのですね

このように常に技術の向上と安心・安全を目指して日夜がんばっている人たちって、ほんとうに素晴らしいなあ。こういう人たちのおかげで、私などは便利で快適な生活を満喫できるというものです。ありがたい、ありがたい。


技術開発、建築、建設関係のドキュメンタリーって、人間の美しさを改めて教えてくれるので、私は好きです。まあ、技術を磨いた結果、研究の結果のすべてが必ずしも人類に平安をもたらすものではないかもしれませんが、多くの人々は「なにかもっと良いものを!」と願って努力しているわけで、それぞれの成果が何をもたらすのかはともかく、その蓄積は人類の力を拡張し続けていることには違いないでしょう。

このあいだナショナル・ジオグラフィックで特集していた「空母で暮らす人々」(←正確なタイトルは忘却)という番組も凄かったです。空母には、なんと6000人近い人が暮らしているんだそうですよ! とにかくでかい。甲板には戦闘機が着陸したりもしますしね(まあ、空母ですから)。その戦闘機はもの凄いスピードで空母に向かって突っ込んでくるのですが(スピードがないとかえって危険らしい)、それをガッと受け止めるのは、なんと伸縮性のあるワイヤーだったりして。機体下部のフックにワイヤーを引っ掛けて停まる。意外にもローテク…! びっくりしますね。
しかし、小さな町くらいの規模はある巨大な船を海に浮かべるなんて、人間のやることって、実に凄まじいと言わざるを得ません。

この凄まじさ。常軌を逸した考えを具体化してしまう凄まじさ。こういう凄まじさには、言いようのない恐ろしさを感じると同時に、震えるような、一緒に飛び出したいような情熱にもまた襲われるのでした。


とにかく、理系の人、技術者、職人さんの方々には頭が上がりません。
科学と技術の世界に生きる人々に、不滅の栄光あれ!





いま読んでいるところの本

2009年05月22日 | 読書ー雑記


こういう記事を書いてしまうと、どういうわけか、全部読み終わった後に感想を書きづらくなってしまう傾向が私にはあるのですが、湿っぽい天候で調子が上がらないので、とりあえず書いてしまいます。

いま読んでいるのは、だいたいこの4冊。


*『夢小説・闇への逃走 他1篇』シュニッツラー(岩波文庫)

ずっと前から持っていたけど、まだ読んでいなかった本書にいよいよ手を付ける。
「死んだガブリエル」と「夢小説」は読んだ。あとは「闇への逃走」。結構、というか予想していたよりもかなり面白い。シュニッツラーという人はどうも生活とか男女の関係などに対して憂鬱になりすぎているように思えますが、いかが。私には他人事とは思えないくらい、主人公の男たちは現実の世界に失望するあまり、激しく夢と幻想へと傾いちゃってるんですけど……; それにもかかわらず、幻滅しきった現実を手放すほどの勇気も持てず……。
うーむ。憂鬱です。だが、そこが面白い。


*『ウィーン世紀末文学選』池内紀編訳(岩波文庫)

読むのは多分3回目。でも、いつものようにきれいさっぱり、1ミリも覚えてないです! 素晴らしい忘却力!!
で、ここにもシュニッツラーの作品が収められています。やっぱりそこはかとなく暗い…(^o^;)
ヘヴェジー「地獄のジュール・ヴェルヌ/天国のジュール・ヴェルヌ」が猛烈に面白かったです。地獄篇が特に笑えます。こういう地獄下りのネタって私は好きです。ラーゲルクヴィストの『地獄へ下るエレベータ』も面白かったしなぁ。アナトール・フランスの『ペンギンの島』にも愉快な地獄の場面があったし(しかし、あれは天国の描写のほうが面白かったかも。神様のいい加減さには思わず爆笑)。
ヨーゼフ・ロートの「ファルメライヤー駅長」は衝撃。これについては、あとできっと考察したいところです。しかし毎度のことながら、これほどに印象的な作品を読んでおいて、私はどうして忘れ去ってしまうことが出来るのか…厳しく問いただしたい気分。


*『聖アントワヌの誘惑』フローベール(岩波文庫)

…ギャグじゃないんですよね? と、つい言いたくなってしまうところもあるくらい面白い。なにかにつけての聖アントワヌの恨み節が…! 貧乏過ぎ! 孤独過ぎ! でもまだ最初の方なので、たぶん読み進めて行くと、大真面目になるのだろうな。と期待。


*『世界文学大系93 近代小説集』(筑摩書房)

かなり多くの短篇が収められているので、なかなか読み切れません。図書館で借りてきた本なので、返却期限が間近に迫る今、急いで読んでしまわないとなりません。ロシア、北欧、南欧、などなど盛りだくさんです。しかもそれぞれが結構良いセレクションです。こういうお得感のある本って好きですよ。



さてと、雨も上がるみたいだし、がんばって読まないと!









吉野行

2009年05月20日 | 夢の記録

とりとめもなく夢のはなし。


よく味わう前に桜が散ってしまったのが残念だというK氏を、「吉野の奥のほうならば、まだ咲いているかもしれない」と言って誘い出す。念のため、インターネットで【桜開花情報】のサイトを確かめてみると、吉野のあたりは辛うじて桜が残っているらしいことが分かる。

K氏を誘ったはずだったのだが、どういうわけか、私の連れは小学校時代の久しぶりに会う女の子の友達である。彼女は昔のまま、小学生の姿のままだ。いや、それより少し成長していたかもしれない。一方、私は三十三歳より少し若かったように思う。
さっそく駅で吉野へ向かう電車のチケットを買うのだが、特別なチケットらしく、一週間の有効期限のうち、土日利用と平日利用では後で請求される値段が違うという。土日は高額である。資金に乏しい私は、「ならば平日に…」と思いつつも、今日は土曜日で、なんとなく平日を待てないまま電車に乗ってしまう。いくらくらいかかるのかはっきり分からないので、とても不安だ。やや曇って暗くなってきた空を眺めながら、電車に揺られる。

吉野へ着くと、連れの人数が知らないうちに四、五人に増えている。しかし、いずれも私の知人ばかりだ。そのなかにK氏もいた。愉快なハイキングの様相を呈してきた。私たちはどこで調達したのか思い出せないが、しっかりと食事の用意をしてあったので、丘の途中で昼食をとることにする。四角い弁当箱にぎっしりと詰まった白いご飯と、サバだかサンマだかホッケだかの大きな魚の開きを、これまたどこから持ってきたのだか分からないがバーベキュー用の炭火焼コンロで焼いて食べる。しかし魚は結局一匹余ってしまった。あとで食べようかと言うことで、どこかへしまっておくことにする。しかし、どこへしまったのか……よく思い出せない。

吉野へは桜を見に来たはずだったのだが、どうやら今となっては、我々の目的はあの山の頂上を目指すことらしかった。日帰りだというのに、あんな高いところまで登れるのだろうか。それに、吉野にしては随分と切り立っている気もする。でもまあ、とりあえず先へ進もうじゃないかと言い合って、一列に連なって細い山道やゆらゆらする吊り橋を渡ったりしてずんずんと登って行くのだが、途中で霧がかかってきた。帰りの電車の時刻を考えると、やはり頂上へ到達することはどうやら無理らしい。私たちは諦めて、いつかまた、今度は一泊するつもりで再挑戦することにしようか、とあっさり引き返した。

食事をとった丘まで戻ってくると、まだ帰りの電車までは少し間がある。それぞれにしばらく休憩した。私は丘の斜面で、K氏にじゃれついて彼の首にぶら下がると、K氏は私をぶら下げたまま軽やかにくるくると二、三周まわった。私はそれが楽しくて大笑いする。

そろそろ駅へ向かわないと。駅前の商店街の細い道を上がって行く。ふと空を見上げると、私たちの歩く道に沿って、大きな鳥が飛んでいた。藍色の巨大な、太い足の鳥が優雅に羽ばたくたびに、立派な羽根の先が靄のように柔らかくなびいている。美しいとは思うもののどこか不格好でもあると思って見ていたら、不意にその鳥が脇道にある工務店の前に下り立った。私が驚いて口を開けていると、大きな鳥は太い二本足で真っ直ぐに立って、右の翼で工務店の戸をがらりと開けて中へ入っていった。あれは実は人だったのだ。

さきほどからずっと暗い空から、いよいよ雨がぽつぽつと降り出した。私は傘をさす。駅まではほんの少しの距離だったから、無駄だったかもしれない。すぐに駅の構内にある土産物屋に入った。私はただちに傘を畳むつもりだったのだが、さしたまま少し店内に入ってしまう。土産物屋にはガラス製品ばかり置いてあるので、店の主人は私の傘を恐れて、私の両方の脇のあたりを太い人差し指で突き刺しながら、私を外へ追い出す。私は突っつかれているのが、くすぐったいような痛いような気持ちで、「ご迷惑をかけて申し訳なかったですが、傘ならもう畳みました」と言いたいのに、声も出ない。苦しくて畳んだ傘を放りだした途端に、左手から現れた数人の子供たちがそれを奪って走り去ってしまう。私は傘を取り戻すために彼らを追いかけたいのに、土産物屋の主人がまだ私を離してくれないのでできない。もうすぐ電車も出る頃だ……しかし、脇がくすぐったくて、私は石のように固まって動けない。離してくれ、そろそろ離して――



**************************


という夢を見た。山の夢は久しぶりだ。結局、登らなかったのだけれども……。私の夢には、山とか大きな鳥がよく登場する。あの鳥には少しだけ見覚えがある。だけれども、前に見たときは色が違ったな。あの時は茶色かったし、お寺の庭の大きな松の枝にとまっていて、とても良い香りがした。ロシアの砂浜で見かけた時は(もちろん、夢のなかのロシア)、色が白かったし、何羽もいた。
それから、前に見た登山の夢では、いきなり山の頂上に辿り着いてしまっていたのだっけ。そのあと大津波に襲われたのだったな。私はそれで、自分が新聞記者だったことを思い出して……。


余談ですが、夢のなかでK氏が私を首にぶら下げたままくるくるとまわったのがあまりに楽しかったので、実際にやってみてもらったところ、リアルの私は重すぎて、少しも軽やかにまわれませんでした。そりゃそうか。夢のなかの私は羽根のように軽かったのだがなぁ……。






A・H・トルストイ-「恋」

2009年05月19日 | 読書日記ーロシア/ソヴィエト


A・H・トルストイ 北垣信行訳
(『世界文学大系93 近代小説集』(筑摩書房)所収)



《あらすじ》
エゴール・イワーノヴィチには家庭も仕事もあったが、やはり既婚者であるマリヤ・フョードロヴナとの恋を成就させるためにすべてを捨て、マーシャの妹ズュームとともに彼女を迎えに行くのだが、彼女の夫は決してそれを許さず――

《この一文》
“「君はぼくを棄てることができるのかね?」彼は立ちあがると、火掻き棒を取って、それを炭のなかに突っこんだ。「ところが、ぼくはこう思っていたんだぜ――君とぼくだけだと……君とぼくだけだと。」”




「カリオストロ」、「五人同盟」のA・H・トルストイの短篇。この人の作品は、どうやらとてもドラマチックであるようです。「カリオストロ」などは、私はもう夢中になりました。あまりに……こう、面白くて!! 鮮明なクライマックスの、その鮮明さが非常に印象的です。

この「恋」という短篇も、それぞれに家庭を持つ男女の恋を描いた、言ってみれば普通のラブロマンスなのですが、結末へさしかかるあたりの勢いがすごい! あの加速度はすごい。映画のストップモーションのよう。盛り上がります。わなわなしてしまいました。クライマックスの面白さは異常です。いいなぁ! しかし結末が悲しいのはいつものことなのでしょうか。「カリオストロ」もハッピーエンドのようなそうでもないような感じでしたけど(たしか…)。

それから、ヒロインの描き方がよいですね。「カリオストロ」のマリヤもかなり可愛い女性でしたが、この「恋」のマリヤもなかなかです。ふとした瞬間の描写にぐっときます。

“ふり返ってみると、マーシャは目を閉じたまま坐っていた。その濡れた睫毛からは涙が頬をつたって流れていた。”

とか! う-む、美しい。実に美しい。それから上にも引用しましたが、エゴールのこの台詞もたまりません。

“「ところが、ぼくはこう思っていたんだぜ――君とぼくだけだと……君とぼくだけだと。」”

君とぼくだけだと……君とぼくだけだと。……うぅっっ!! こういうところが、私には魅力的でしかたがありません。もうだめだ。




この人の作品では『苦悩の中を行く』が名作なのだそうです。そのうちに読みたいところです。また、解説に挙げられている『アエリータ』(映画化されたことがあるらしい)や『技師ガーリンの双曲面体』(大昔に邦訳があったらしい)なども読みたいのですが、どこかで読めないものですかね。