半透明記録

もやもや日記

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手作り日記のもと

2005年03月30日 | 手作り日記
私はものを作るのが楽しいのですが、何の専門的知識もない私でも、
洋服や小物が作れてしまうのは、こういう雑誌があるからです。

『別冊 装苑 Making』および『Making +(プラス)』(文化出版局)という雑誌は
残念ながら現在は休刊中なのですが、私の秘蔵中の秘蔵本です。
はじめのほうの2冊を除いて、手に入ったものは全て大事に保管してあります。
この本には、服の製図が沢山のっているので、それを見ながら、
自分で製図するのは楽しいものです。
また、洋裁のテクニックなども詳しく説明されていたりして、
初心者の私でもよく分かるのでした。

私が初めて作ったのは、今思うとかなりのテクニックを要する変わった切り替えの
緑色のノースリーブのワンピースでしたが、それはもうひどい仕上がりでした。
友人には「縫い目が笑っている」と厳しく指摘され衝撃を受けたものですが、
思い返してみるとそれでもかなり控えめな表現でした。
ありがとう、気をつかってくれて。
あれから4年近く経ち、最近はようやく少し上達した気がします。
なんとか真っ直ぐ縫うことが出来るようになり(前は出来なかった。論外です)、
きちんと寸法を合わせて、印通りに縫っていけば、それなりのものが出来るのだ、
ということにやっと気が付いたようです。
こうやって身に付いた技術が、いつか何かの役に立つといいなあ、と思いつつ、
のろのろとではありますが、地道に励んでいます。


もうひとつの『Ku:nel』(マガジンハウス)という雑誌には、ちょっとした小物の作り方や
おいしいご飯やお弁当の中身、色々な人の色々な暮らしについての記事が
掲載されています。
ほとんど全部がカラーページで、色や写真がきれいなので、気に入っています。
年間購読を申し込んでいるので、発売日より少し前に届くのが楽しいです。
というと、まるでマガジンハウスの回し者のようですが、そういうわけではないですよ。
記事を読んでいると、たまに気恥ずかしくなることもあります。
ちょっと気取っているというか、すましているというか、そういう表現があったりして。
なので、文章はあまり読んでいないのでした・・・。
もったいないですね。

こんなふうに毎日あれやこれやと想像をふくらませています。
今は襟・袖付きのワンピースを製作中です。
あとはボタンをつけるだけのところまできました。
布選びには若干失敗したものの(致命傷)、素敵に仕上がりそうです。
次はがんばるぞ!

ノースリーブワンピースを作ってみた

2005年03月29日 | 手作り日記
紺色にバラ柄のノースリーブのワンピースを作ってみました。
以前作ったメキシコ風ワンピースと色違いです。
なんつー派手さ。
でも、地が紺色だとまだましでしょうか。
思ったよりも涼しげな感じに仕上がった(個人的判断)ので満足です。
夏にはきっと気持ち良く着られるでしょう。
まだ春も来ないうちから気が早いですけれど。

ワンピースやスカートは裾にまつり縫いをしなければなりません。
昔は苦手だったこの作業も、最近は割と好きになりました。
仕上げの作業なので喜びながらせっせとまつり続けた私の首に鈍痛が。
朝から痛かったので、寝違えかと思っていたのですが、夕方には下を向くことも
出来なくなりました。
「これは、噂に聞くあれでは・・・」。
そう、ヘルニアです。
ぎっくり腰ならぬ、ぎっくり首です。
痛い。
痛過ぎる!
まつり縫いで過労気味の首の筋肉に、カタクチイワシのわたを長時間とり続けるという作業が
(カタクチイワシは沢山入っていても安くてお得です)ダメ押しをしたようです。
そんなわけで、しばらく安静にしていました。
というか何もできませんでした。
それほどひどくなかったようで、もうすっかりよくなりましたけど。
寒い季節は気をつけないといけませんね。
なにもかも、なかなかやって来ない春のせいです。
せっかく作ったワンピースも着れないではないですか。

『みにくい白鳥』

2005年03月26日 | 読書日記ーストルガツキイ
A&B・ストルガツキイ 中沢敦夫訳(群像社)



《あらすじ》

その街では永遠の雨が続き全てを腐敗させていた。政治家は暗躍し大人は特殊病院の患者を追い立てる。だがやがて読書にふける早熟の子供たちが反乱を始めた!


《この一文》

”「それこそが問題なんです。問題は、僕たちが現実の生活を知っているかどうかなんてことじゃないんだ。問題は、あなたやあなたの本の中の人物がそんな未来をもろ手をあげて受け入れているのに、僕たちにとって、そんなものは墓にすぎないということなんです。それは、希望の終焉、人類の終焉、行き詰まりです。それだからこそ、僕たちはあなたの書く、安らぎに渇えたタイプ、頭のてっぺんから爪先まで汚れ切ったタイプの幸福のために力を費やすのはいやだと言っているんです。」     ”




いやはや、大変に難しかったです。
『滅びの都』のように突如「赤い館」のような異世界が出現するわけでもなく、物語は、雨が数年来降りやまない街を舞台として展開していき、結末に至ってはこれまでにない爽やかささえ感じられるのですが、終盤になって怒濤のように分からないことが続出してきてすっかり参りました。
”濡れ男”って? どうなったの??
なんで葡萄酒が水に変わってしまったの?
あれってどうして?
これは??
などなど、不思議なことが多過ぎて、なんだかよく分かりません。
まあ、そういう細かい点は置いておくとして、テーマは非常に重要です。
引用した部分は、ボル・クナツ君という早熟な少年のセリフなのですが、あまりにも核心に迫っていると感じました。
大人は子供の幸福を願いますが、それはあくまでも大人の価値観に基づく幸福であり、せいぜい十分に食べたり飲んだり出来るくらいで、あいもかわらず争い、虚偽にまみれて、子供は必ずしもそんな幸福観に価値を見いだすとは限りません。
子供たちが自分たちで理想の社会を建設しようとすること、それ自体は、喜ばしいことだと個人的には思います。
たとえそれが旧世代を排除してしまうことになったとしても。
ただ、何もかも新しく、すばらしい社会を作ったとしても、帰る道が必要であるというのは、来た道を忘れないように、間違いに気が付いた時にそこまで戻ることができるように、という意味なのかな・・・・、と私なりに理解しました。

読んだ後、随分と頭をひねりましたが、結局まだよく分かっていません。
まだまだ深く掘り下げるべきところでしょう。

『HUMAN NATURE』を観た

2005年03月23日 | 映像
ストルガツキイの『みにくい白鳥』を読みました。
む、難しい・・・。
正直なところよく分かりませんでした。
でもとっても面白かったのです。
分からなかったのに、面白かったとはまた随分といい加減なものですが。
記事を書きたいのに、今のところどう書いたらいいのやらさっぱり分からないので、
気晴らしに、録画してあった映画でも観ることにしました。

『HUMAN NATURE』という映画には、主に3人の一風変わった人物が登場します。
1人目は、体質的に非常に濃い体毛を持つことを悩む女性ライラ。
2人目は、人類の平和のため、ねずみにテーブルマナーを教え込む研究者ネイサン。
3人目は、自らを類人猿と思い込んだ父親に森の中で育てられ、文明を知らずに成長した青年パフ。
ライラはネイサンと恋に落ち、ネイサンはパフを文明社会に適応させるべく、
研究室で教育を始めます。
と、簡単に説明してしまいましたが、これが結構面白く展開していくのでした。
言葉を知り、考えることをはじめた人間はもはや森へは帰れないのかーー。
ということを考えさせられると同時に、自分の信念を他人に押し付ける者は、
結果的に身を滅ぼすのかもしれないということも感じさせられました。
予想以上に面白かったです。

しかし、気晴らしをしようと思ったのに、また考え込んでしまってます。
どうしようもないですね。

『地獄から来た青年』

2005年03月22日 | 読書日記ーストルガツキイ
A&B・ストルガツキイ 深見弾訳(群像社)



《あらすじ》

はてしない戦争が続く惑星から瀕死の兵士を救い出したのは高度の文明をもつ惑星の地球人だった。戦うためだけに生きてきた若者の利用価値を探る目的は何か?


《この一文》

”「任務だと? おまえみたいな薄らトンカチにどんな任務があるというんだ?」
 「わたしにできることであれば、どんな任務でも遂行することです」
 「ふん!・・・ じゃあ人間の任務は何だと言うんだ?」
 「人間に任務はありません、マスター」
 「でめえは馬鹿か! この抜け作。本物の人間がどんなものなのかおまえにわかってたまるか!」
 「質問の意味がわかりません、マスター」
 「まだ何も聞いてない」
  ドランバは黙りこんだ。           ”




ひたすら戦争に明け暮れる世界と、平和で美しく高度に発達した技術に守られているものの、暇過ぎてよその世界の歴史に介入してゆく世界と、どちらもが地獄であるとするならば、天国はどこにあるのでしょう。
結局のところ私たちが求めるものは何なのか。
相変わらず色々と考えさせられてしまいました。

主人公のガークは、兵士として公爵に妄信的に仕えています。
異世界に連れてこられて、その世界の発達した機械などに出くわす度に、「ロケット弾でもかなわない」などと思ったりします。
驚いたり感心したりするガークの様子は割とユーモラスに描かれているのですが、そのうち、なんだかいたたまれない気持ちになりました。
ちょっとこれまで読んだストルガツキイの作品の主人公とは違った印象です。

次は『みにくい白鳥』です。

『尼僧ヨアンナ』

2005年03月21日 | 読書日記ー東欧
イヴァシュキェヴィッチ作 関口時正訳(岩波文庫)



《あらすじ》

フランスの小都市ルーダ
ンで実際に行われた悪魔
祓いを題材とした作品。
舞台は、中世末期のポー
ランドの辺境の町ルーデ
ィン。修道院の若き尼僧
長ヨアンナに悪魔がつき、
悪魔祓いに派遣された神
父はあれこれ手を尽くす
が万策尽きて・・・。映画
化され広く世界各国にも紹介された、ポーランドの作
家イヴァシュキェヴィッチ(1894-1980)の代表作。



《この一文》

” 「だがもしサタンが彼女を捨てて、わたしに取り憑いたら?」彼は自問した。「いや、たとえ狂人と思われようとも恐れはしない。世の中が狂人をあざわらうなら、わたしをあざわらうがいいーーわたしはヘロデの前のイエスのようになるのだ。打つなら打たれよう、愚弄されよう、わたしは自分の帽子にこの美しい花束を、世の人のかえりみない狂気の花束をかざそう、そしてーーわれらの聖者イグナチオの教えのままにーーわたしは世の人々のさげすみと怒りとを買い、いわれなき迫害を受けるだろうーーこの犠牲が何を意味し、何をもたらすか、それを知る者はわたしをおいてないのだ・・・・」        ”




今日はとてもよく晴れて、春らしい気持ちの良い陽気でした。
そんな日に家に引きこもって悪魔祓いの話を読んでしまう私はどうなんでしょうか。
それはともかく、結構読みごたえがありました。
結末は特にこれといって予想していたわけではありませんが、ちょっと意外な展開でした。
先日読んだ小松左京の「ゴルディウスの結び目」という話と似ているような気がします。
ちょっと怖いので、夜ひとりでは読めないなあ、と思いました。
やっぱり今日の昼間に読んだのは間違っていなかったのでしょう。

『退屈な話・六号病室』

2005年03月20日 | 読書日記ーロシア/ソヴィエト
チェーホフ作 湯浅芳子訳(岩波文庫)



《あらすじ》

短篇小説の世界的名手チェー
ホフ(1860-1904)の代表的2
篇を収める。世間的な名声を
博しながら自分では人生の意
味を発見できずに苦しむ「退
屈な話」の教授。懐疑におち
こんでは狂人と普通人との区
別がつかなくなる「六号病室」の医師など、いずれ
も救いなきインテリの苦悩を描くもので、いわば
作者による病めるロシアの臨床的診断書であろう。



《この一文》

”「かつては金だけを軽蔑した、ところが今は悪い感情を抱くのは金に対してではなく、まるで彼らに罪があるように金持に対してなんだ。かつては暴力と専横を憎んだが、今は暴力を用いる人びとを、罪があるのは彼らだけで、互いに育てあうことのできないわれわれみんなではないかのように、憎んでいる。これは何を意味するか? 新しい思考や新しい感情が信念の変化から生じたとしたならば、この変化はどこから突如現れえたのか? 果して世界はよりわるくなり、ぼくはよりよくなったのであろうか、それとも以前はぼくが盲で、無関心だったのだろうか? もしこの変化が肉体的な、また精神的な力の全般的な衰退から生じたのなら(わたしは病気で、毎日目方が減っているのだからね)わたしの状態はみじめなものだ。つまりわたしの新しい思考は異常で、不健康で、わたしはそれを恥じ、とるに足りないものとせねばならぬというわけだ・・・」
           ーー「退屈な話」より  ”





このところ私の読書が変わってきました。
いままでずっと本を読むことが好きで楽しいと思っていたのですが、物語の内容や文章の意味について少しでも理解しようと思うようになったのはほんの最近のことです。
この『退屈な話・六号病室』も、かつての私には本当に退屈な話でありまして、とても最後まで読むことができなかったのですが、つまり私は未熟過ぎました。
読者の力が足りなければ、物語のほうから受け入れてくれないとのだいうことが身に沁みました。
しかし、ロシアの文学には何かしら私を覚醒させるところがあったようです。
ザミャーチンの『われら』以来、何を読んでも面白くて仕方がないのでした。
そして、チェーホフはなるほど短篇小説の名手でありました。
これまで食わず(読まず)嫌いをしていて、すみませんでした。


さて、「退屈な話」「六号病室」の両者とも、読み終えるとひどく圧迫感を感じました。
様々のことに疑いを持つということには、どんな意味があるのでしょうか。
もしくは、そうやって懐疑に飲み込まれてゆく人を哀れんだり軽蔑したりすることには、どんな意味があるのでしょうか。
現段階で、私が思い付いたこととしては、生活する上でどちらが得か損かということであって、どちらが正しいとか正しくないということではないのではないかということです。
疑って悩み苦しむことは、日常生活や心の平静を脅かすかもしれませんが、人類が真実を見出すために必要であるからこそ備わっている能力なのだと、私は信じたいです。
それが否定され、拒絶されるとしたら、あまりにも悲しいと思うのですが。
ここまで考えてみたものの、物語の趣旨は正しく理解していないかもしれないという疑念がわいてきてしまいました。
もっと読解力を身につけなくてはなりません。
不安でたまりませんが、せっかく考えたことの記録として残しておくことにします。

リバティの布

2005年03月17日 | もやもや日記
大阪在住の私ですが、近所の布地屋さんで昨日から、
”特選服地大安売り”のちらしが出ていたので、早速行ってみました。
すると、憧れの「LIBERTY」の布の一部がなんと¥1、260/m!
安い、安過ぎる!
というわけで、興奮した私は全部で6メートルほど購入してしまいました。
贅沢ですねー。
そう、リバティの布はとっても上質なので、普段は倍以上のお値段です。
「リバティ柄」というだけで、こういう花や植物の柄を想像できるくらいに、
ここの布は有名なのでした。
最近はよく若い人の洋服屋さんでもリバティ柄のブラウスやワンピースが売られています。
私もこれでブラウスを作るつもりです。
うふうふふ。
ボータイの付いた繊細なデザインにも挑戦してみたいですね。
イギリスの香りです、うっとり。
と思ったら、”PRINTED IN JAPAN”とありました。
へぇ、買うのははじめてなので知らなかったですよ。
日本でもプリントしていたんですねー。

私は花柄が大好きなので、もうすっかり春の気分になりました。

『巫女』

2005年03月15日 | 読書日記ーラーゲルクヴィスト
ラーゲルクヴィスト作 山下泰文訳(岩波文庫)



《あらすじ》

山のあばら家から
老いた目でデルフ
ォイを見下ろす一
人の巫女。苛酷な
運命に弄ばれ、さ
すらいながら神を
問いただす男にむ
かって巫女が物語
る数奇な身の上、神殿の謎、狂気の群衆、息子の正
体ーー神とはなにか、人間とはなにか。ノーベル文
学賞『バラバ』に次ぐスウェーデン文学の巨匠の、
悪と崇高と愛にささげた傑作小説。



《この一文》

” 道の曲がり角で、これを最後と下僕を、わしの友を、わしの幸せを願ってくれている唯一の男を目にしようと振り返った。するとそこに、神殿の階段に下僕も立って見送るようにこちらを見ておる。そこに箒を持って泣きながら立っておる。胸がきゅうと苦しくなり、わしも涙がこらえ切れなくなった。次の瞬間こちらからは姿が見えなくなって、急にまったくの独りぽっちになった気がした。      ”



何度読み返しても、その度に新しい感動をもたらしてくれる物語があります。
ラーゲルクヴィストの『バラバ』や『巫女』もそれにあたります。
どちらも3、4回は読み直していますが、その度に打ちのめされます。
200頁ほどの短い小説ではありながら、濃密な内容に圧倒されます。
信仰とは何か。
ラーゲルクヴィストはこの『巫女』において、宗教に対して人々がとる様々な態度を恐ろしく的確に表しています。
宗教に関わる人のどれほどが真に「神」を信じているのか。
人は何のために「神」を信じるのか。
「神」とは何か。
多くの疑問が投げかけられます。
主人公はいつもたまらなく孤独で、ひとりきりで疑問の中に投げ出されます。
私の目は涙で曇り、その姿を見失いそうになりながら必死で後を追いかけるのでした。

『壁』

2005年03月14日 | 読書日記ー日本
安部公房 (新潮文庫)



《あらすじ》

ある朝、突然自分の名前を喪失して
しまった男。以来彼は慣習に塗り固
められた現実での存在権を失った。
自らの帰属すべき場所を持たぬ彼の
眼には、現実が奇怪な不条理の塊と
うつる。他人との接触に支障を来た
し、マネキン人形やラクダに奇妙な
愛情を抱く。そして....。独特の寓
意とユーモアで、孤独な人間の実存
的体験を描き、その底に価値逆転の
方向を探った芥川賞受賞の野心作。



《この一文》

” 間もなく壁は見渡すかぎりの曠野の中に、ただ一つの縦軸として塔のようにそびえ立ちました。
      ーー「第一部 S・カルマ氏の犯罪」より ”



とてもシュールです。
名刺が女の子といちゃついたり、狸に影を食われたりします。
かなり面白かったです。
これまで読んだ中では(『砂の女』『カンガルー・ノート』『第四間氷期』だけですが)、最も幻想的でした。
面白い、面白い!
盛大に面白がってしまいましたが、テーマは深刻です。
現実の世界での存在権を失ってしまったら、どうしたらよいのでしょうか。
なんだかとても不安です。
それなのに、物語に悲壮感はありません。
「第一部 S・カルマ氏の犯罪」の終わりでは、涙がこぼれそうに感動します。
忘れてしまわないように引用しておきましょう。

” 見渡すかぎりの曠野です。
  その中でぼくは静かに果てしなく成長してゆく壁なのです。  ”