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さよならガルシア=マルケス

2014年04月19日 | 読書ー雑記




コロンビアの作家、ガブリエル・ガルシア=マルケスが亡くなりましたね。ご冥福をお祈りします。そして多大なる感謝を。

ここにもこれまでに何度も書いていますが、18歳の時にこの人と内田百﨤に出会っていなければ、その後の私の人生は全然違ったものになったかもしれません。私はお話を読むのは好きでしたが、物語を読むということの本当の意味を知ったのはガルシア=マルケスの短篇集『エレンディラ』と内田百﨤の『冥途』によってでした。小説の世界がこんなにも豊かで不可思議で美しく、そしてこんなにも広く深いものだとは! 衝撃だったなあ。ちなみに私は『エレンディラ』の中では「大きな翼のある、ひどく年取った男」と「この世でいちばん美しい水死人」が好きです。びっくりするほどよぼよぼで埃っぽかった。びっくりするほど海が美しかった。薔薇の香り。そしてエステーバン。うむ、彼はエステーバンに違いないよ。こんなふうに物語が存在し得るなんて、私には想像もつかなかったものです。ほとんどまったく異次元でした。南米文学は凄くて素敵だ。そのことを教えてくれたガルシア=マルケスには心から感謝を捧げたいです。


さよなら、ガルシア=マルケス。
私はあなたの作品をいくつも読んだけれども、よりによって最大の傑作『百年の孤独』はまだ読んでいないのです。でも、だからこそ私はこれからも安心して生きていけます。私をもう一度変えるかもしれない衝撃が、まだ私を待っている。お守りのように大事に、ずっと持っている。
ありがとう、ガルシア=マルケス。どうか安らかに。





はじめての物語

2013年04月30日 | 読書ー雑記





息子に読み聞かせるお話として、最初は何がいいだろうかとあれこれ考えていました。

『くまのプーさん』かなあ。しかしあれはイーヨーの扱いがあまりにもあんまりだからなぁ。

『ピーター・ラビット』かな。待てよ、あれも色々ヤバいよな。冒頭からしてピーターの父うさぎが肉のパイになっちゃってるし。ベンジャミン・バニーの父は立派だったのにベンジャミンはなんだかろくでなし風味になっちゃうし、ジマイマおばさんの卵は食われちまうし。
イギリスはもうちょっと後にするか…。

では宮沢賢治かな。…あれ、本が見あたらない。えーと、どこへしまったのだっけ。ないな。

しょうがない。ストルガツキーから入るか。いきなり『収容所惑星』は難しいよなー。うーん、うーん。


そうやって本棚の前をウロウロしていたら、アンデルセンの『絵のない絵本』が目に留まりました。おお、これにしよう。

なにげなく手に取った1冊ですが、息子に初めて読み聞かせる物語にはよいですね。とても美しいお話です。「第二夜」まで読んだところで息子は寝てしまいました。こらこら、まだ10ページも読んでいないぞ…


いつか、息子のところへも本物のお月様が物語を聞かせにやってきてくれるでしょうか。いつか、息子もまた月の晩、自分の足元に黒い暗い影が落ちているのを眺めるのでしょうか。それともただ月を見上げてその美しさにうっとりするだけだろうか。そうだ、月はいつだって美しい。








アンデルセン作 大畑末吉訳(岩波文庫)


《内容》
ひとりぼっちで町に出てきている貧しい絵かきの若者をなぐさめに、月は毎晩やってきて、自分が空の上から見た、いろいろな国のいろいろな人に起ったできごとを、あれこれと話してくれた。それは、清らかな月の光にも似た、淡く美しい物語のかずかずであった。生涯旅を愛したアンデルセン(1805-75)らしいロマンティックな1冊。

《この一文》
“ ほんとうにふしぎなことです! ぼくは何かに深く心を動かされると、手と舌がまるでしばりつけられているような気持ちになるのです。そして、心のなかにはっきりうかんでくることでも、それをそのまま絵にかくこともできなければ、また、言葉に言いあらわすこともできないのです。 ”








なんとない読書リスト

2012年05月30日 | 読書ー雑記






ときどき『幻想文学1500ブックガイド』を開いては、これは読みたい! と思う作品を書き出したりしています。しかし、実際に読むところまで辿り着けることは少ない。。。徒歩1分のところに市立図書館があったころは、随分と捗ったものですがね; 自分で調達しなくてはならないとなるとなかなか見つからない希少なものが多いので、一向に進まないのでした。

でもまあ、とりあえず、面白そうな小説が今回もいくつか見つかったのでリストを作っておきましょう。


*『闇の聖母』フリッツ・ライバー(ハヤカワ文庫)
  C・A・スミスの日記に導かれ、狂気の書『メガポリソマンシー』の謎を求めて、霧のサンフランシスコを彷徨する怪奇作家フランツ。ジャック・ロンドン、ビアス、スターリングらの運命を狂わせた暗黒のカルトと闇の聖母とは何か? 米国都市幻想譚の白眉。

おお、面白そう! 狂気の書『メガポリソマンシー』とかゾクゾクしますね。フリッツ・ライバーはいくつかの短篇を読んだ限りでは、ものすごく私好みの作家です。


*『クトゥルーの呼び声』H・P・ラヴクラフト(青心社)
 死せるクトゥルー甦るとき世界は狂気の巷と化す……超古代の暗黒神の復活(未遂)とカルト教団の狂奔を描き、空前絶後の架空神話大系の開幕を告げた屈指の名作。海上に浮遊するクトゥルー神殿の悪魔的描写はただごとではない。作者一党の神話創造への執念は、神話もたぬ国の民ゆえか?

アニメ『這いよれ!ニャル子さん』によってクトゥルーブームが再燃しているらしいので、私もできれば乗っかりたい。


*『ドリアン・グレイの肖像』オスカー・ワイルド(新潮文庫)
 美青年ドリアンは快楽主義者ヘンリー卿の影響を受け、頽廃的な生活を送るようになる。年月を経ても彼は若々しいままだったが、彼の肖像画は日に日に老い、悪事を重ねるたびに醜くなっていく……。ホモセクシュアルと世紀末的頽廃のムードを漂わせながら、徹頭徹尾モラリスティックな怪奇小説。

前から読みたいと思っているのですが、そろそろ本当に読みたい。


*『ヴァテック』ウィリアム・ベックフォード(国書刊行会)
 アラビアのカリフであるヴァテックは酒色と知への飽くなき欲望に憑かれ、悪魔に魂を売り渡す。地獄への道をまっしぐらに降っていくヴァテックとその母親の魔女カラチスの放恣と悪行がすさまじい中編。また、すべてが巨大で、眼路の届く限り円柱の列や拱廊の連なりが立ち並び、人々がひたすら黙ってそぞろ歩く、という地獄の表現が、ピラネージの牢獄をイメージさせるものとして有名である。

ほほう。初めて聞く作家と作品ですが、なんだか面白そうですね。


*『オーレリア』ジェラール・ド・ネルヴァル(思潮社)
 〈夢はもうひとつの生である〉というあまりにも有名な一文から始まる、夢と白昼夢、幻覚とに支配された作品。私はオーレリアに報われぬ恋心を抱いているが、彼女は死んでしまう。惑乱する私に夢の啓示が与えられる……。象徴としての夢、何事かを告げる神秘的な夢が、作者にとっては真実なのだ。オーレリアが〈変貌を遂げ、光り輝く〉さまを夢に見て、試練が終わり、許しが得られたことを知った私が、夢の神秘の探求に夜の生を捧げ、現実では病者として過ごしていることを静かに語るさまは、一種異様な感動を読者に与えるだろう。

えっ、『オーレリア』って、こんなお話だったのか。これは読みたいな。夢の物語だなんて、ものすごく面白そう。




あれも読みたい、これも読みたいと言うのはいいのですが、今も脇に集英社版『ラテンアメリカの文学(全18巻)』を山積みにしたままでいる私は、まずはこれから読まないとならないでしょう。これを制覇することが今年の課題です。その合間に、上のどれかひとつでも読めるといいんだけどなあ…!(^o^;)





岩波書店の電子書籍配信

2012年04月11日 | 読書ー雑記




4月26日から岩波文庫の電子版が配信されるそうです。とりあえずは、28点32冊とのこと。
こちらからラインナップが確認できます。

 → 編集部だより 岩波文庫編集部


ふうむ。
どうしても欲しくなるような本は、今のところはありませんね。すでに何冊かは持っているし、こう言ってはなんですが、青空文庫でたいていのものは調達できそう…みたいな……そんな作品群であります。


それから、どうしても気になってしまうのが、その価格です。控え目に言ってもこれは高すぎるように思うのですが、どうなのでしょう? 電子版ではない通常の本を買うのと大差ないように感じるのですが、いくらか安くなっているんでしょうか。電子版ならば安くならなくてはおかしい! とまで言うつもりはありませんが、製本や配本にかかるコストと電子化およびデータ管理にかかるコストなどを比較すると、電子版の方が低コストで済むのではないかと考えるのは素人の浅はかさでしょうか。
電子版を購入するメリットが書籍にとられるスペースの解消だけだとしたら、私なら通常版を選んでしまうかもしれませんね…。紙の本は電力をまるで使わずに読める点において、依然として安心感もあり安定感もありますから。場所は取るけど(^_^;)


しかしながら、私としてはこの書籍の電子化の流れ自体は歓迎したいところです。もう本棚がミッチミチなんですよ。自炊しようかという寸前なんですよ。引っ越しを繰り返していると、本当に本の多さは苦痛でしかありません。これさえなければもっと簡単に移動できると思うと、しかし手放す訳にもいかないし、と毎度のことながら苛まれます。最近は1冊本を買うのにも、余程の吟味が必要です。それに、持っているだけで読めないのなら、持っていてもプレッシャーを感じるだけですしね(^_^;) できれば電子データで所有したいという気持ちは私もおおいにあるのです。

今回はまだわりと売れ筋の基本的な名作ばかり扱われているようですが、すでに絶版となって久しい作品、もう二度と重版は出ないだろうという作品については、もし電子版を出してくれたら、私はある程度の値段でも買ってしまうかもしれません。理想を言えば、安価で期限付きレンタルにでもしてくれたほうが利用はしやすいですけれど。激レア書籍を電子版で復活させてくれたら、私は一生懸命に借りに行くけどなー。漫画業界では貸本形態は既に始まっていますよね。私もこないだ【Renta!】を利用しましたわ。でも貸本はやっぱり漫画向きかなぁ。小説は借りてもそんなに早く読めないしなあ(私は特に)。

出版社の「本を売る形式」についても、これからどうなっていくのでしょうか。電子データなら、本を1冊丸ごと売ることに、そこまでこだわらなくてもよい場合もありますし。短編1編を数十円で売ってくれれば助かるなぁ、と思ったり。
ま、こんなことは業界の人たちはとっくに考えていらっしゃるんでしょうがね。


ともあれ、今後が気になります。









新しい読書

2011年04月04日 | 読書ー雑記








いま、『汝、人の子よ』という小説を読んでいます。画像でもお分かりの通り、ラテンアメリカの小説です。作者はアウグスト・ロア=バストス、パラグアイの人です。恥ずかしながら私は読み始めるまでこの人の名を知らず、そればかりかパラグアイの地理さえつい最近ようやく把握したところでした。ものを知らぬということは実に辛いことですが、いやでも手遅れになる前でよかった。この偉大な作家の名を知ることができてよかった。


ちょうど半分まで読んだところです。凄まじい吸引力で、昨日は夢中になって半分まで読み進めました。描かれている内容もまた凄まじく、人間がこの世界で生きることの困難と苦しみ、悲しみが溢れ出ています。これまでにも私はこういう悲惨を描いた物語を読んできて、そこに描かれている苦しみや悲しみは、たとえ物語の中のことであろうとも、作者の本当の心の底から生まれでた、本当の感情を描いたものなんだと理解してきたつもりでした。けれど、いま、前とは違ったレベルで、あれらの苦しみや悲しみ、そこからどうにかしてわずかばかり絞り出される希望が、いよいよ本当の実感をともなって私に向かってくるようです。

いま読み終えた部分のうちで、印象的だった部分を引用しておきましょう。


“そうだ、生きるということは、どれほど前方から、あるいはどれほど
 後方から眺めようと、つまりは心の奥底で執拗に焔(ほのお)を燃や
 すことなのだ。一見不可能と見えるものも達成し、最後まで持ちこた
 え、力の限界を越え絶望とあきらめを乗り越えて耐え抜かずにはおれ
 ないことなのだ。 ”
 ――『汝、人の子よ』ロア=バストス(集英社版 ラテンアメリカの文学10)




パラグアイの歴史にもまた、凄まじいところがあるようです。これを機にちょっとパラグアイという国についても勉強しておこうかな。








チャンス到来

2010年12月11日 | 読書ー雑記






バルガス=リョサの『世界終末戦争』が出ましたね! ノーベル賞効果ってやつですね、めでたい! これは本当に面白い作品だったので、私としてはすぐにでも手に入れておきたい1冊ですが、えーと、あのー、今月はもうあれこれと散財してしまったので、もうちょっとしてから買おうかと思います。あ、そう言えば、装幀も新しくなっていますね。私は前の黄色いのも好きでしたけど、こちらもシックな感じでよろしいかと。

実は『緑の家』もまだ買っていないし、手元に置いておくべき本は他にも沢山あるのですが、うーむ、キリがない。闇雲に所有しても読まなきゃしょうがないですよね。いつまで未読のまま積んでおくのかと時々は自問してしまうのですが、とりあえず手元にないと落ち着かない本というのはやはりあるものでして…。先日も、以前から欲しくてたまらなかった本を1冊入手したばかり。あー、また増やしてしまった。
今年はひとまずこのくらいにしておこう。そして年が明けたら、また気合いを入れ直して、読んだり買ったりしようと思います。



これでひと安心

2010年09月18日 | 読書ー雑記

おお、これは…!





前々から欲しかった河出文庫の『東欧怪談集』をついに入手しました。わ~い! これでこの怪談集シリーズは、ドイツ、ロシア、フランス、ラテンアメリカ、東欧の5冊が揃ったわけです。私は残りの日本と中国、アメリカとイギリスを持っていませんが、おいおい集めることにしましょう。とりあえず、どうしても欲しかったものはこれで集まったので私は大満足であります!

「不思議通り」を読み返したかった。もういつでも読み返せるんだ! やったー!










すべてを失ってゆく物語

2010年09月11日 | 読書ー雑記




昨日感想文を書いたドノーソの『三つのブルジョワ物語』の最後のお話「夜のガスパール」が忘れがたい余韻を残しているので、私はなんだか今日も落ち着きません。


「すべてを失って、そこではじめて…」という物語には、私は悲しみながらも魅かれてしまいます。私が読んできた物語には多かれ少なかれ「喪失」ということが描かれていたかと思うのですが、そのなかでもとりわけ「主人公が何もかも失ってしまう」お話というのは忘れられないような印象を残しています。

ドノーソの「夜のガスパール」を読んで思い出した物語が、他にいくつかあったので、忘れないように書いておこうと思います。


 まずは、ヨーゼフ・ロート『果てしなき逃走』。

 次に、やはりホセ・ドノーソの短篇「閉じられたドア」。

 それから、フロベールの『ジュリアン聖人伝』。


上の三つのお話を、一晩の間に私は連想したわけですが、並び順としては、それぞれの物語の結末において主人公が感じていただろう幸福感・充足感が低い方から並べてみました。あとへいくほど、主人公は幸福であっただろうと私は考えているということです。もっとも、いずれも「すべてを失ってしまった」3人の主人公ですが、『果てしなき逃走』のフランツは結末ではまだ生きていてその後もおそらく生き続けねばならず、一方で「閉じられたドア」のセバスティアンと『ジュリアン聖人伝』のジュリアンは結末にその最期(幸福な解放としての死)が描かれてあったので、そのように感じるだけかもしれません。

また、よくよく考えてみると、フランツ・トゥンダはいくぶん「奪われるようにして失った」のに対して、セバスティアンとジュリアンは「自覚的に、自発的に捨て去るようにして失った」という違いはあるかもしれません。この意識の違いは大きいのかもしれない。


3つの物語を挙げてみたものの、思ったより考えがまとまらないのでこれ以上何も書けませんが、ひとつ言えることには、私はたぶん「すべてを失って」しまっても「代わりに何かを得られる」のではないかと思いたいのだということです。

フランツ・トゥンダは名誉も地位も金も愛も希望も何もかもなくして呆然と立ち尽くしてしまいましたが、けれどもそこからこそ始まる何かがあるのではないか。そこからこそ、ようやく何かに近づけるのではないか。

と考えたい。私は「失う」ということを、もう少し肯定的に考えたいのかもしれません。

この、「失う」ことを肯定的に、というのがどこからくる発想なのかについて、ちょっとよく思い出してみると、大昔に習った漢文の教科書だか参考書に載っていたお話を思い出したのでした。詳細は忘れてしまいましたが、

「人は生きている限り失い続けるものだから、たとえば腕や脚を失ったとしても、まあ、たいしたことではない」とある老人が言った、というようなそんな感じのお話。

かなりおぼろげな記憶…。これが何のお話だったか、どなたかご存知でしたら教えてください。それともすっかり私の捏造でしょうか? とにかく古い記憶、かつてそれによってものすごく納得したというある記憶が、私の深いところに根付いているようです。




つねにじりじりと失いつづけていながら、私は失うことが恐ろしくてたまらない。いつか何もかも失ってしまう。そしてそれはほんのちょっと先のことかもしれない。
こういう人間のために、文学や、たとえば宗教やなんかも生まれてきたのかもしれないなぁ。と、当たり前の中途半端なところで、今日のところは考えるのを中断したいと思います。
たまには出かけないとね!








『緑の家』が出たらしい

2010年09月03日 | 読書ー雑記

 





バルガス=リョサの『緑の家』が上下巻で岩波文庫から出たらしいことを、Amazonさんがお知らせしてくれました。おっと、これは買わないと。


……でも、文庫かー。文庫ねー。うーむ。単行本で欲しかったような気もするけど、そうだなぁ、文庫でもいいか。軽いし、小さいし、お手頃ですからね(いくらかは…)。ついでに傑作『世界週末戦争』も出してもらえないものでしょうかね。あれは最高に面白かったよなぁ。恐るべき物語であったことよ。しかし、あの超大作を文庫にするとなると、上下巻では収まらないですかね? 全3巻くらいならいけるかな。まあいいから、出してくれ。




と、飽和状態の書棚を横目に、今日もまたまた本が欲しくなってしまうのでありました。いえね、そんなに持っていても仕方がないということは分かっているんですけどね(/o\;)

正直なところ、私としては「紙の本」という形態にこだわらないので、どんどん電子化してくれたほうがいいのです。とにかく、名作はいつも手に入る状態で置いといてほしいですよね。いつでも読める、というのがとにかく大事なんですよ、ねえ?





トルストイのための覚書

2010年08月05日 | 読書ー雑記

マックス・ヴェーバー著 尾高邦雄訳(岩波文庫)









マックス・ヴェーバー先生の『職業としての学問』に次のような一節があり、なるほどなーと思ったので(何が「なるほど」なのかはひとまずおくことにして)、メモっておこうと思います。



 しかし、何千年来西欧文明のうちに受けつがれてきたこの魔法からの解放過程、いいかえれば、学問がそれの肢体ともなり原動力ともなっている「進歩」というものは、はたしてなにか実際上あるいは技術上の意味以上の意味をもつであろうか。諸君は多分この問題が、レオ・トルストイの作品中でもっとも根本的に取り扱われていることを知っておられるであろう。トルストイは、かれ独特のやり方でこの問題に到達している。かれの頭を悩ました全問題は、結局、死とは意味ある現象であるかいなかという問いに帰着する。かれはこれに答えて、文明人にとっては――いなである、という。なぜかといえば、無限の「進歩」の一段階をかたちづくるにすぎない文明人の生活は、その本質上、終りというものをもちえないからである。つまり、文明人のばあいには、なんぴとの前途にもつねにさらなる進歩への段階が横たわっているからである。どんな人でも、死ぬまでに無限の高みにまで登りつめるというわけにはいかない。アブラハムだとか、また一般に古代の農夫たちだとかは、みな「年老いて生きるに飽(あ)いて」死んでいったのである。というのは、かれらはそれぞれ有機的に完結した人生を送ったからであり、またその晩年には人生がかれらにもたらしたものの意味のすべてを知りつくしていたからであり、かくてついにはもはやかれらが解きたいと思ういかなる人生の謎もなく、したがってこれに「飽きる」ことができたからである。しかるに、文明の絶えまない進歩のうちにある文明人は、その思想において、その知識において、またその問題において複雑かつ豊富となればなるほど、「生きることを厭(いと)う」ことはできても「生きることに飽く」ことはできなくなるのである。なぜなら、かれらは文明の生活がつぎつぎに生みだすもののごく小部分をのみ――しかもそれも根本的なものではなく、たんに一時的なものをのみ――そのつど素早くとらえているにすぎず、したがってかれらにとっては、死はまったく無意味な出来事でしかないからである。そして、それが無意味な出来事でしかないからして、その無意味な「進歩性」のゆえに死をも無意味ならしめている文明の生活そのものも、無意味とならざるをえないのである。――こうした思想は、トルストイの作品の基調をなすものとしてかれの後記の小説にはいたるところにみいだされる。





「死はまったく無意味な出来事でしかないからである。そして、それが無意味な出来事でしかないからして、その無意味な「進歩性」のゆえに死をも無意味ならしめている文明の生活そのものも、無意味とならざるをえない」という思想が、トルストイの後期作品の基調をなしているというのは、つまりあれでしょうか。

『トルストイ全集10後期作品集(下)』に収録されていた、たしか「祈り」というタイトルだったかと思うのですが、小さなまだ2、3歳くらいの男の子が死んでしまって、その母親と乳母とが悲しみの涙に暮れているのですが、泣きつかれて眠ってしまった母がその夢のなかで男の子が成長した姿を見るというもの。そこでは愛らしい男の子はすっかりその面影を失っており、酒場で飲んだくれる惨めな中年男となっているのでした。そして母親はひどくショックを受けて目覚める、という内容だったかとおぼろげに記憶しているのですが、記憶違いでしょうか(この作品のこの悲しいイメージは私の深いところに痛みとともに刻まれてしまっていて、道行く幼い人々を見るたびにこれが重なって、大層苦しい思いをする羽目に陥っています)。

本が手もとになくて確認できませんが、たしかにこの本で読んだという記憶はあります。同じ本に収録されている「コルネイ・ワシーリエフ」などもどうしたらよいのか分からないくらい重かった。その重さが何なのかはっきりとは分からなかったのですが、「無意味」ということが関わっている故のことだったのかもしれないですね。なるほどなー(なんとなく)。



ところで、ヴェーバー先生の『職業としての学問』は、何度読んでも私には理解しきれません。ところどころ「おっ!」と思う文章があっても、全体としてうまくとらえることができないのでした。ついでに『職業としての政治』についても同じような感じです。どうしてなんだろう……(/o\;)