半透明記録

もやもや日記

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さむい

2008年10月31日 | もやもや日記



明日から11月、というところで急に寒くなりました。

今日の大阪は曇りです。そのためか余計に寒い。ちょっと前まで夏日も珍しくなかったのに、急激な冷え込みです。そろそろ上着を着ないと寒いじゃないですか。
空気が冷たくなるにつれて、公園の木々も少し赤くなってきました。落ち葉の上をざくざく歩き回れる日も遠くなさそうです。


林檎を買ってきた

2008年10月30日 | もやもや日記

秋です。リンゴの季節です。

昨日、袋詰めのリンゴが安かったので買ってきたのですが、「スターなんとか」だか「なんとかスター」という聞いたことのない品種で、ものすごく皮が赤く、実はこぶりで、底がでこぼこしていてこのあたりは星っぽい。珍しかったので買って帰り、さっそく食べてみると……

 サクッ。

 !?(……おや?)

 シャクシャクシャク……

 うぐっ……(/o\;) あ、味がしねえ……!


まだ熟していないのでしょうか、それとも生食用ではないのでしょうか、味がほとんどしません。酸っぱいとかいうレベルでさえなく、ほとんど無味。食感はまぎれもなくリンゴですが、味は何と言うか、えーと、何だろう……。や、やばい、8個くらいあるのに、どうしたらいいですか……。


一切れ食べただけの段階で一瞬パニックを起こしかけましたが、そう言えばこのあいだ帰省した時に父が、「食べごろを過ぎてしまった梨を砂糖で煮て、冷まして食べるといいらしい」と言っていたのを思い出し(実際やってみたら旨かった)、今回は「食べごろを過ぎた梨」ではないですが、やってみることに。

落ち着いて考えると、砂糖で煮るというのは、あれですかね、コンポートというものでしょうか。ジャムなら作ったことがありますが、コンポートのほうが楽に作れて、しかも食べやすそうです。

で、とりあえず2個分を煮てみた。
切ったリンゴ。砂糖。水。贅沢に白ワインも投入。
煮る。
煮えた。
冷ました。
食べてみた。
美味しくなった!

わー、よかったー! これなら食べられます。温かいうちに味見した感じでは、温かいままでも美味しかったです。ようやく果物らしい味わいです。ヨーグルトと一緒に食べようかな。


それにしても、そのまま齧れるのが楽なのと、糖分を控えようと思ってリンゴを買いにいったのに、とんだことになったものです。まあ仕方ないか、秋だし、甘いのが旨いのです……。


『動物農場』

2008年10月28日 | 読書日記ー英米
ジョージ・オーウェル 高畠文夫訳(角川文庫)


《あらすじ》
「荘園農場」のジョーンズ氏が眠った後、農場の建物のそこらじゅうから大納屋へと動物たちが集まった。目的はみんなの尊敬を集めている中白種の豚 メージャー爺さんの夢の話を聞くこと。爺さんの驚くべき話を聞いて衝撃を受けた動物たちは、ついに革命を起こし、農場からジョーンズ氏を追い出し、「荘園農場」あらため「動物農場」を自力で切り盛りしてゆく。ここにはじめて動物たちによる平等で輝かしい希望に満ちた社会が訪れたかに見えたが――。

《この一文》
“丘の中腹を見下ろしているクローバーの目は、涙でいっぱいだった。もし彼女が、自分の思いを口に出すことができたとしたら、それは、次のような言葉となっていたであろう。「今から何年か前に、わたしたちが人間たちを打ち破ろうといっしょうけんめいに頑張っていたとき、わたしたちは、けっしてこんな状態を目ざしていたのではなかったんだわ。メージャー爺さんが、わたしたちを奮起させ、反乱を思い立たせてくれたあの晩、わたしたちが心に描いていたのは、けっして、こんな恐ろしい、むごたらしい場面ではなかったはずよ。もしわたしが、自分で未来像というものを抱いていたとしたら、それは、動物たちが飢えと鞭から解放され、みんなが平等で、おのおのが自分の能力に応じて働き、メージャー爺さんの演説のあったあの晩、ひとかえりのみなし児のアヒルのひなたちを、わたしが前脚で守ってやったように、強いものが弱いものを守ってやる、といった動物社会の像だった。ところが、現実は、それとはおよそ正反対で――なぜだか、わたしにはわからないんだけれど――」  ”



1984年』を読んだ時、私はそれがしばしば言われているような単純な「反共小説」とだけ読むことは不可能だと思ったのですが、スターリン独裁下のソビエトを批判するために書かれたと言われるこの『動物農場』も、単にそれだけでは済まない普遍性を備えていると感じます。これは多分、私でなくとも、読んでみれば自ずと感じられることではないかと思います。
たとえば、本書のあとに収められた開高健氏による「24金の率直――オーウェル瞥見」でも、ここにはあらゆる時代と思想を超えうる、ある完璧な定理が実現されていると述べられています。さらに開高氏によると、

  この作品は左であれ、右であれを問うことなく、ある現実に
 たいする痛烈な証言であり、予言である。コミュニズムであれ、
 ナチズムであれ、民族主義であれ、さては宗教革命であれ、い
 っさいの革命、または理想、または信仰のたどる命運の、その
 本質についての、悲惨で透明な凝視である。理想は追求されね
 ばならず、追求されるだろうが、反対物を排除した瞬間から、
 着実に、確実に、潮のように避けようなく変質がはじまる。


と、『動物農場』の核心でもあり、同時に人類がその歴史上でひたすら繰り返している「権力構造」がもたらすひとつの形式について的確に説明がされてあり、私もこれに関しては全面的に納得しました。私もそう思う。

問題は、我々はこれに対していったいどうしたらいいのかということだ。問題は、人間の愚かさに対して我々はいったいどうしたらいいのかということだ。いまだ愚かなままで、しかしそれでもどこかへ向かわねばならない。支配、不寛容、虐待。いずれにせよここへ行き着いてしまう、この道を外れようとするにはあまりにも大きな抵抗感。誰もが平等で幸福な世界など、まるで夢物語だ。

いつまでもいつまでも、ひたすらに煽動され、いいように支配される動物たち。黙って付き従う彼等の(我等の)、辛く悲しいだけに終わる多くの生涯は、唯一遠い未来への希望にのみ支えられている。そこには悲しみと苦痛以外の何ものをも見いだすことはできないけれど、ささやかな希望とか理想といったものが、ずっと人類をしぶとく走らせてきて、これからもそうだろうと私は思う。途中でいくたびも壮大な過ちを繰り返してはいるけれど、捨て去るには美し過ぎる希望や理想があるならば、それは捨て去るべきではないと私は思う。暗闇の中でただひとつ輝くものがあって、たとえそれが幻に過ぎないとしても、それなしでいったい進むことなどできるだろうか。一歩も動かず、その場にじっと留まるという選択肢もあるだろう。でも、ここを心細いほどの暗闇だと感じ、本物の光を見たいと願うなら、ちっぽけなかりそめの明かりでも頼りにして這っていかねばなるまい。ただ、自分と同じように小さな明かりを掲げる別の誰かに遭遇したとき、その色の違いによって殴り合わずに、なんとか話し合って、道を譲り合って進むってことは、難しいんだろうなあ。一時的な、戦略的な和解ではなく、真に、心から理解しあうなどという世界は、今のところ私には想像がつかない。恐怖におびえ、震えながら、騙し合い、罵り合い、掴み合い、他者を引きずりおろし、蹴落としながら、実はなんの知恵も展望もなく、ただ漫然となんとなく日々を暮らす人々の世界なら想像できる。そんなひどいことばかりではない(と信じたい)が、でも確かにこんなところのあるだろう、これが現代の現実の世界で、私もその一端を担っているという自覚がある。

少しの違いをも許すことのできない私たち。
自分の正しさを証明するために、あるいは自分の利益を守るために相手をぶちのめさずにはいられない私たち。
一方で、よく考えてみることもなしに、簡単に到底ありそうもないうまい話を信用してしまう私たち。
少なくともこの点においては、私たちは誰もが実によく似ている。
似ているからといって、分かりあえるものでもないんだな。どちらかと言うと、似ているからこそ分かりあえないのかもしれない。気持ちが沈んできてしまうなあ。でもまあ、私はまず自分の愚かさをもうちょっと改善するべきだな。話はそれからだ。


ジョージ・オーウェルによる『カタロニア讃歌』もそのうち読みます。



10月25日/26日 神戸ダイジェスト版

2008年10月27日 | 旅の記録
高校時代の友人minaちゃんと神戸を旅行しました。
そのあらまし。


25日朝。新大阪駅のホームにてminaちゃんと合流。
さっそく目的地 三宮へ向かう新快速に乗車。
到着後、ホテルへ荷物を預け南京町へお昼を食べにいく。



【民生広東料理店】で3品注文し、やや割高かなと思いつつもおおむね満足して昼食を終える。エビのマヨネーズソース和えとチャーハンがやみくもに美味しかった。
南京町をぶらぶらし、港のほうまで歩く。



私はポートタワーを初めて見た。
堤防の先端までてくてく歩いて、「海だねー」と言ってまた帰ってきた。メリケンパークにはさまざまなオブジェが配置されていたが、公園のはずれのほうにひっそりと巨大な魚の像が身をのけぞらせていた。オブジェの説明文を読んでminaちゃんが言うには、この魚はどうも有名な人の作品らしい。



旧居留地を散策。
ウィンドウショッピングと建物探訪。石造りな建物っていいなあ。



おやつにケーキセット。
実はホテルを予約したら、翌日の朝食券とともに、元町周辺の3つの洋菓子店で使用できる1000円分のチケットをもらったので、そのうちのひとつのお店に入った。ああ~、ケーキ! ケーキ! しかもケーキと飲み物を注文したら、さらにお店のおまけで焼き菓子とシャーベットが添えられて出てきた。もう何も言うことはない。満足。



三宮周辺を夕方まであちこち歩き回り、いったんホテルへ帰る。夕食の時間まで一時休憩。

ホテルにもレストランがあって、そこでも良かったのだが、ちらっと覗くとなにやらみなさん黙々と食事をしているようで、なんだか気が張りそうだと思った我々は、ホテルからは三宮駅の向こう側にあるやや遠い神戸牛ステーキの店へ行ってみることに。ところが結論から言うと、その店は貸し切りで(結婚式の2次会が多いのか貸し切りになっているレストランがほかにもたくさんあった)入れなかった。
……とぼとぼと下りてきた坂を再び上がる我々は、道すがらいくつかのレストランを探しながら歩いた。すると一軒のステーキ屋さんの看板が目に入り、「えー、どうしよう?」と二人で相談しているところへ、お店から4、5人のグループが「ああ! おいしかった!」「いやー、ほんとおいしかった!」とさながらサクラのようにわいわい言いながら出てきた。「おねーさんたち、迷ってるなら、入った方がいいよー!」と言われたので、素直に入ることにした。なんて素直なんだ。



結論から言うと、大当たりだった。すごく感じの良いお店で、私はまた食べにきたいと思った。おじさんが肉を焼いておばさんがサービスしてくれるという、こじんまりとしながらもこざっぱりとした気持ちの良い、しかもほんとにおいしいお店だった。デザートとコーヒーまでのコースなのに、値段がてごろなところも私には優しかった!
こういうことがあるから、旅行って楽しいんだよなー。



26日。
この日の朝は早い。minaちゃんは実は別の旅行の途中で、昼前には山陰に向かうので早めに行動。
朝から面白かったのは、朝食のバイキングでココット皿に入ったタマゴの何かを、私は一瞬プリンかと思ったけど横にカマボコがあったのできっと茶わん蒸しだろうと思い避け、minaちゃんはココットに入っているんだからきっとプリンだろうと思って取り、結局それは茶わん蒸しだったこと。彼女は「騙されたー!」と言いながら、コーヒーと一緒に茶わん蒸しを食べていました。わはは! まあヨーグルトの脇に置いてあれば、誰だって間違うよなー。でも面白かった。



異人館。
恐ろしく急な坂道を、しかも蛇のように細い急な坂道を、はあはあ言いながら登った。
時間があまりないので、急ぎ足で外部からのみ見てゆく。ちょっと雨が降ってきた。



異人館をひとめぐりしたので、坂を下る。
当然ながら恐ろしく急な坂道なので、途中で膝がかくかくと笑ってくる。あとちょっと……。
新神戸駅まで歩いて、minaちゃんと別れた。おつかれさまでした!



私はこのあと元町へ戻り、前日に行かなかったあたりを散策。しかし雨がしとしと降っているのに傘を持っていなかったので、ぐるぐると急いで歩き回っただけで疲れて帰ることにした。



帰り際にトアロード沿いの可愛いパン屋さんで可愛いパンをいくつか買った。ショッキングピンクの紙袋に入れてくれるので、すごく楽しい気持ちになる。

三宮駅へ向かう途中で外国からの旅行者カップルに声をかけられる。ステーキハウスに行きたいらしい。旅行者には親切にすべきと考える私は、地図を見せられて「まっすぐ行って、右ね」と言いたかったのに、"turn right" という言葉が出てこない。激しい身ぶり手ぶりでなんとか説明し、微妙に伝わったような感じだったが、それにしても情けないことこの上ない。知性が足りないと親切にもできないなと痛感。反省しきりで電車に飛び乗った。あのカップルが無事にステーキを食べられたことを祈る。

こうして、雨がしとしと降る神戸をあとにしたのであった。
美味しい町、神戸!は栄えていました。



ミシシッピー殺人事件

2008年10月25日 | もやもや日記

という昔のファミコンのゲームがあります。
私はやったことがないのですが、もともとは海外のゲームらしいということもあるのか、そもそもあの当時のファミコンのゲームってどれもそうだったのか、色使いがシンプルかつとても美しいので、今になってやってみたい気持ちです。

色使いのセンスということが、しばしば私には大きな問題となるのですが、ひょっとしたら限られた少ない色数から選べば、もっと綺麗におさまるのではないかな、とこういう昔のゲーム画面を見ては考えています。甘いですかね。

ちなみにファミコン版のこの『ミシシッピー殺人事件』は、選択を誤ると、殺人事件が起こる前に探偵役が死んでしまう…というようなことも起こりうる壮絶なゲームらしいですよ。オモシロソー。


ところで、土日はちょっと神戸を旅行してきます。
うちから1時間もかからないところですが、泊まっちゃいますよ。友達と旅行なんてすごく久しぶりなので、楽しみでしかたがありません。

『燃えるスカートの少女』

2008年10月24日 | 読書日記ー英米
エイミー・ベンダー 管啓次郎 訳(角川書店)


《内容》
不可思議で、奇妙で、痛々しく、哀しみに満たされた、これは現実をかたる物語たち――失われ、取り戻される希望、ぎこちなく、やり場のない欲望、慰めのエクスタシー、寂しさと隣り合わせの優しさ、この世界のあらゆることの、儚さ、哀しさ、愛しさ。
少女たちが繰り広げるそれらの感情が、物語を超え、現実の世界に突き刺さる。
本処女作にして強烈な才能を発揮し、全米書評家たちをうならせ絶賛された、珠玉の傑作短編集。

《収録作品》
*思い出す人
*私の名前を呼んで
*溝への忘れもの
*ボウル
*マジパン
*どうかおしずかに
*皮なし
*フーガ
*酔っ払いのミミ
*この娘をやっちゃえ
*癒す人
*無くした人
*遺産
*ポーランド語で夢見る
*指輪
*燃えるスカートの少女

《この一文》
“私の髪は茶色。ときどき私は一週間ばかり赤毛に染めてみることがあったが、それは小間使いにお姫さまのガウンを着せるような気分だった。育ちがともなっていなかった。
  ―――「ポーランド語で夢見る」より ”



女性的であるとか、あるいは男性的であるとか、そういう区別をどういうふうにしたらよいのかはっきりとは分からないけれど、現実あるいは幻想のなかにおいては、たしかに女性的とか男性的と感じられるものがあって、これらの作品は紛れもなく女性的な感じがしました。書いたのが女性だからというだけでなく、感性の鋭さの方向が女性的というか。

前半の「皮なし」までの物語では、私にしてみれば特にその傾向が強く感じられ、あまりの生々しさにさっと血の気が引くようです。耐え難いほどです。「溝への忘れもの」がもっとも耐え難かった。吐きそう。「マジパン」はちょっと面白かったけど。
生々しいといってもそれはどろどろしたものではなく、どちらかというとさらっとしているけど、ただすごく冷たい。私がしばしば夢に見る、大きな水槽の中にホルマリン漬けにされたバラバラの少年少女の体の部分、そのイメージがよみがえるような暗い冷たい感触です。気分が悪い。
ひたすら淡々と語られるだけなのに、いやむしろこの淡々とし過ぎたところが、あらゆるものを拒絶しているような、この人は決して私を許したり、認めたりさえしないだろうとまで思えてくる。

そんなことを感じながら半ばまで読んだところで一旦眠りについた私は悪夢を見、その夢では、檻に閉じ込められた体じゅう傷だらけの青白い肌をした少年少女たちが男に悪逆の限りをつくされながら、互いに折り重なって横たわっているのだが、生き残った数人の少年と少女(大部分はいつのまにか死んだらしい)は檻から脱出し、ついに男に反逆する。彼等のひとりに足首を掴まれブンブンと振り回された男の体は、頑丈な鉄の檻にぶつかってまるで紙粘土で作った人形みたいに、まずは腕、つぎは脚というように少しずつバラバラになるのだった。
と、こんな夢を見てしまった。この夢とこの短編集とにいったいどんな関わりがあるのかは知りませんが、いずれにせよ私はヘトヘトです。

ここでもう止めてしまおうかと思いましたが、ひょっとしたらまだ面白くなるかもと思い直し、先を続けました。
結果としてその判断は間違っておらず、次の「フーガ」から突然面白くなりました。突然慣れて受け入れられるようになったのかもしれませんが、この「フーガ」という作品以降、物語の幻想性がぐっと増したような気がします。この人の奇想の才能がぱっと開いたような感じです。

「癒す人」という作品がとりわけ奇妙で、あらすじをまとめるのは難しいですが、ある町に住むふたりの少女の一方は燃え上がる火の手を持ち、もう一方は岩のように固まった氷の手を持っています。彼女たちが手を繋いだときにだけ、ふたりは普通の手を手に入れることができるのですが、手を繋いだ子供のころを過ぎ大きくなるにつれ、ふたりの距離は遠ざかっていく。燃える手の少女は人々から恐れられ、氷の手の少女は人々を癒し続ける。しかしある時……
という話です。変な話過ぎて、全然まとめられません。でも、どことなく寓話風で面白かったです。

全体的にグロテスクで冷たい印象の物語ばかりでした。
でも、どうやらこのエイミー・ベンダーという人はとても人気があるらしい。最新刊を図書館で借りようとしたら、予約で待っている人がたくさんいました。たしかに、人を魅力する力のある人のようには感じます。たしかに、すごく読ませる力は感じます。
……ただ、私に次が読めるか。自信はない……。




『廃墟の歌声』

2008年10月22日 | 読書日記ー英米
ジェラルド・カーシュ 西崎憲 他訳(晶文社)



《収録作品》
*廃墟の歌声
*乞食の石
*無学のシモンの書簡
*一匙の偶然
*盤上の悪魔
*ミス・トリヴァーのおもてなし
*飲酒の弊害
*カームジンの銀行泥棒
*カームジンの宝石泥棒
*カームジンとあの世を信じない男
*重ね着した名画
*魚のお告げ
*クックー伍長の身の上話


《この一文》
“ですから、我々人間は何か素晴らしい目的のために生かされているのではないかと思わずにはいられないのですよ。かくも多くの苦難を乗りこえて生きのび、なおかつ毅然としていられるのですから!

   ――「魚のお告げ」より  ”



このなかからどれか「あんまり面白くなかったな…」というのを選ぶのは難しいです。あえて挙げるなら、「盤上の悪魔」と「飲酒の弊害」がやや地味で、現代から見れば若干使い古された感じがあるでしょうか。でも、それでも十分に不気味で、独特の魅力に満ちています。

どれもこれも面白かったなかでも、特に「カームジン」のシリーズは居ても立ってもいられないくらいの面白さで、「新刊本は新しすぎて買えない…」とか訳の分からないことを言って一時はビビっていた私ですが、「そうだ、カバーをかけてもらえばいいじゃないか」と気が付いたので速攻で買いに行きました。いやー、良かった!
しかし、いいなあ、ジェラルド・カーシュ! こういうの好きだなあ。私はこういうヨタ話を大マジで語られるのが好きです。どこまでも人を馬鹿にしたような嘘くささをまき散らしつつ、それでいてつい本気で信じてしまうほどの説得力を持ったお話を聞くのは、たいへんに楽しい。

さて、『壜の中の手記』に続いて、カーシュの短篇集です。今回も非常に面白かったです。この本は晶文社ミステリから出ていますが、物語のジャンルはミステリかと言われればそうでもあり、幻想怪奇小説でもあり、SFでもあり…というようにジャンル分けは難しいようです。「廃墟の歌声」という話などは、最初は怪奇風味の探検ものとして始まりますが、終わりの2ページくらいで突如近未来SFであったことが発覚したりします。これと同じパターンがいくつかの作品で見られますが、さてさて今度はどういうオチで来るんだろ…と毎度わくわくしてしまいます。

「一匙の偶然」というお話は、とてもよくできたスピード感ある物語です。これがやばいくらいに面白かった。
古きよき時代、多くの人を愛し、また愛されたジーノのレストランの立派なスプーンは、ジーノ亡き後にはうす汚れたレストランに引き取られていた。それを久しぶりに手にした「私」はかつてジーノの店で出会った2人の人物について思い出すのだった。ひとりはやくざものの美男子スタヴロ、もうひとりは落ちぶれた元貴族で頬に目立つ傷を持つ『伯爵夫人』。
これが、やばいくらいに面白かったです。スプーン一本からこんな物語が語られるとは、とうてい想像できません。奇妙に錯綜する人々の運命を、ユーモラスにかつ非情なもの悲しさをもって語ります。やべー、おもしれー!

それから問答無用で面白かったのは、「カームジン」の4つの短篇。これは手放しで笑えます。むちゃくちゃに面白いです。最高でした。久しぶりにツボでした。完璧です!
強烈な個性を持つ迫力満点の怪物じみた老人カームジンは、いつも素寒貧で、話を聞かせてやるかわりに「私」にコーヒーやたばこをねだります。そんなカームジンが語るのは、かつて彼が成し遂げたまるで夢のように壮大な大犯罪の話。「私」はなんて嘘くさいんだろうと思いつつも、ついつい真剣に話に耳を傾け、結局のところは心から信じてしまうのでした。
はあ~、面白い。このユーモア! この素晴らしいカームジンのシリーズが、このあいだちょうど『犯罪王カームジン』として出版されました。私ときたら、なんてツイてるんだ!

というわけで、激ハマリのジェラルド・カーシュ。こういう人がいたと知ることができるから、読書って、世の中って、素晴らしい!


スイッチ設置

2008年10月21日 | もやもや日記
黒い猫



とめどなく盛り下がっているので、ネコ画像でも見ることにします。あちこちにスイッチを仕掛けておいて、それさえ切り替えればスパっと気分も変えられる、そんなふうでありたい。いつでも常に前向きで! というのはネガ基調の私などには至難の業ですが、必要以上に落ち込んで良いことがあったためしはありません。パッと切り替えられるようになりたいんだよなあ。それだけで私の生活はかなり喜ばしいものになるはずです。

だいたい、私の描いているマンガが面白くならないってことくらいどうとでもなるじゃないですか(←そんなことで…)。面白くないことを嘆くより、面白くする努力をするべきところです。エネルギーの遣いどころには、もっと気をつかうべきだよなあ。落ち込むのにもやる気を出すのにも、同じように精神力が必要だもんなあ。同じように時間も必要だしな。だったら良い方に遣いたいよな。金と同じだな。つい無駄遣いしてしまう、というのはやっぱり私の弱さなんだよな。ときどき「あ、久しぶりにやってしまった…」というくらいの無駄は仕方ないかもしれないけど、無駄がメインになると困るよなー。だいたいそれって全く物を考えていないってことだもんな。そういうことだよな。うん。さあ、やるぞ。ガチャン。よし、切り替えたぞ。おお、やれば出来るじゃないか!

ネコと目が合ってもまだグズグズ言ってるような私でありたくない。
ネコと目が合って、気後れするような私でありたくない。
私のネコを喜ばせてやりたいじゃないか。


それにしても猫って、ぱっと見ただけではオスなのかメスなのか分からないなあ。見る人が見ればすぐに分かることなんだろうか。



書店で

2008年10月19日 | もやもや日記
昨日ちょっと梅田に用事があったので、久しぶりに街へ繰り出したのですが、ついでにジェラルド・カーシュの『犯罪王カームジン』の単行本を買おうと思いました。それで、ジュンク堂へ行ってみると、ミステリコーナーに置いてあります。割と最近に出たばかりの本なので、在庫は豊富でした。普段は絶版本ばかり買い漁っている私ですので、こんなことは久しぶりです。黄色いカバーがまぶしいその『犯罪王カームジン』は、別の本に一部が収められていたので読んだことがあるのですが、むちゃくちゃに面白いです。絶対に手もとに置いておきたい一冊です。フガフガ!

そうして勇んで棚から一冊抜き出したところが、……なんか新しすぎる……。出版されたばかりの本はあまりにも綺麗すぎて気が引けてしまい、情けない話ですが、私には買えませんでした……! 手触りの、あのまっさらな感じに違和感を覚えます。文庫本であれば今でも新しい本が好きなのですが、単行本の新しいのは今の私にはいささか刺激が強すぎたようです。おいおい、なんてこった。

昔は図書館の本ですら汚れが気になって読めなかったというのに、私も来るところまで来てしまったな…としみじみしながら、そっと本を棚へ戻し、書店をあとにしました。とりあえず、まずは図書館で借りてみて、落ち着いたらまた買いに行くことにします。そうだ、そうしよう。


という、えーと、それだけの話です。ネタ切れでスミマセン。

話はかわりますが、これからの一週間は私は珍しく多忙な予定。一週間のうちに3人の友達と会う予定です。土日は神戸に泊まっちゃいます(うちからは一時間もかからない場所ですが;)。楽しみだなあ!