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「幻滅」

2012年03月28日 | 読書日記ードイツ

『トオマス・マン短篇集』所収
実吉捷郎訳(岩波文庫)



《あらすじ》
サン・マルコの広場で出会った、年齢のよく分からぬ、風変わりな男は、彼の生涯にわたって続く「幻滅」について語り始める。

《この一文》
“ 人生というものは、私にとってまったくのところ、いろんなぎょうさんの言葉から成り立っていました。なにしろ、そういう言葉が心中に呼び起す、あの絶大な茫漠たる予感をのけたら、私は人生についてなにひとつ知っていなかったのですからね。 ”




トーマス・マンは、ほんとうに残酷だと思う。道を行き過ぎる人たちの姿から、あるいは毎日鏡に映してみる私自身の姿から、ときおり滲み出るあのどうしようもない哀しみについて、どうしてこんなふうに書いてしまうのかといつもしょんぼりさせられる。この「幻滅」は『トオマス・マン短篇集』の最初のお話で、ほんの10頁ほどの短い作品です。しかし私はこれがあんまり残酷なものだから、もう次の話を読む気力もない。ひどいや。


「僕」はサン・マルコ広場で出会った風変わりな男から、数多くの幻滅に覆われた彼の人生について聞かされる。男は書物の中の多くの言葉によって人生が幸福であれ不幸であれ何か強烈なものになるに違いないと予感しながら世間へ出て行くも、その期待はそこそこ叶えられたとしても結局はいつも「けれども、こんなものにすぎないのか」と思わずにいられない。どんな不幸な目にあっても、死の予感ですら「これがどうしたというのだ」という幻滅を生じさせるばかり。幸福の、感激の体験ですら彼を幻滅させただけであった。自分は事実に対する感覚を欠いているのかもしれぬという彼は、幸福でも苦痛でも、ただ最低限度の稀薄な状態のところだけを知っているにすぎないのだろうか。

「そうとも信じられません。私は人間というものを信じないのです。ことに、人生に直面しながら、詩人どものぎょうさんな言葉に、声を合せるような奴等は、一番信じられませんな。――あれは卑怯です。虚偽です。あなたはまた、世の中にこういう人間がいるのに、お気がつかれましたか。つまり、ひどく見栄坊で、むやみと他人から尊敬されたい、ひそかにうらやまれたいと渇望する結果、自分たちは幸福についての偉大な言葉は体験したが、不幸についてのはしたことがないなんぞと、述べ立てる連中があるのですよ」



幻滅しないためには、期待をしないことです。しかし、少しの期待もなく人生を送ることはできるでしょうか。過大な期待と欲望を抱いたがために幻滅に幻滅を重ねながら、それでいてその幻滅を無視して、幸福な振りをして暮らすこともしてみたというこの風変わりな男の姿は、どこか私の姿とも重なりました。私のこれまでの人生にも、さまざまな喜びと苦しみの瞬間があり、いくつかの瞬間は私を打ち砕くのではないかという激しいものでありましたが、結局はただ一瞬間だけのものに過ぎず、のこりは平坦なものでした。それが人生であり、それが幸福だといえば、そうなのかもしれません。

人生とはこんなものでしかないのか、と問えば、必ずしもそうではないのでしょう。しかし、「私の人生とはこんなものでしかないのか」と私自身に問えば、「そうだろうな」と思うのです。私は常に何か凄いものに私ごと打ち砕かれたいと願ってはいますが、私の器は小さく脆く、簡単に打ち砕かれそうなのになかなかそうならない。それは単に「私にはその価値がないから」あるいは「私には常にその用意があると思ってはいるが、それは思い込みに過ぎない」のではないかと思うのです。そう考えることは私のためにはとても哀しい。ときどきそんな姿が鏡に映るのを見ては哀しみを感じます。


トーマス・マンの作品をいくつか読みましたが、ときどきこういった人物が出てくるので悲しいです。最初からその人が持ってすらいない何かを身のうちに留めようと空しく見当はずれな努力を続ける人物。その何かにこだわるあまり、すっかり時間や世間の流れからはずれて、年齢不詳の、一見若いようにも見えるがよく見ると年老いて残骸のようでもある風采の人物。私もそのうちこうなるだろうと思うと悲しい。でも、こんなふうに見えたり、こんなふうになったりすることが、どうして悲しいのかな。なにが悲しく思えるのだろう。なにか悪いことがあるだろうか。得がたいものを熱烈に求めることは無様なことだろうか。いや違うか、得がたいものを熱烈に求めながら、結局得られないことが無様なんだな。得られないと知りながら諦めないでいることが悲しいんだ。でも…どうしてそれが、そんなに悲しいと言うの?



ともかく、「幻滅」にはガックリきました。トーマス・マンはこんなお話ばかりを書いていて辛くはなかったのでしょうか。こんなふうに世の中を見つめてしまえることが辛くはなかったのでしょうか。

私も毎日身に余るほどの期待と欲望のために幻滅をつづけています。彼のように人生を決定づけるほどの幻滅もいくつかあった気もしますが、今日のところは、この「幻滅」について3日間もくよくよ考えさせられたことに「幻滅」。その上その間考えたことをすっかりまとめきることができなかった私の能力のなさにも「幻滅」しております。でも、まあ、それはいずれもうちょっとマシになるんじゃないかな。私はきっとそこまで「幻滅」しきれるほどの器じゃないや。そんな、なにごとも中途半端な私にまた「幻滅」。「幻滅」がとまらない! けど、こんなのはささいなことだ。


私はまだ「ぎょうさんの言葉」に翻弄されるのが楽しいから、本格的に幻滅と哀しみを味わうのは、私が残骸になってからにするとしよう。さあ、夢を見て星を数える作業に戻るんだ!







『ヴェニスに死す』

2012年01月03日 | 読書日記ードイツ

トオマス・マン作 実吉捷郎訳(岩波文庫)


《あらすじ》
旅先のヴェニスで出会った、ギリシャ美を象徴するような端麗無比な姿の美少年。その少年に心奪われた初老の作家アッシェンバッハは、美に知性を眩惑され、遂には死へと突き進んでゆく。神話と比喩に満ちた悪夢のような世界を冷徹な筆致で構築し、永遠と神秘の存在さえ垣間見させるマンの傑作。


《この一文》
“そしてアッシェンバッハは、すでに度々感じたように、言葉というものは、感覚的な美をほめたたえることができるだけで、それを再現する力はない、と苦しい気持で感じたのであった。 ”



昨年末に読んだ1冊。考えるべきポイントは結末部分にあると思うものの、振り返るとやはり最初のある場面が頭から離れないのでした。私はこの『ヴェニスに死す』を3度目の挑戦でようやく読み終えたわけですが、前の2回はいずれもその場面にさしかかったところで挫折していたのでした。それは、こういう場面。

旅に出たアッシェンバッハはヴェニス行きの船に乗るのだが、そこで一人の男を見かける。その男は淡黄の、極端に流行風な仕立の夏服に、赤いネクタイをつけ、思いきってへりのそりかえったパナマ帽をかぶり、からすのなくような声を出しながら、ほかの誰よりもはしゃいだ様子を見せている。しかしよく見ると、その青年はにせものなのであった。

“しかしアッシェンバッハは、その男にいくらか余計注意してみるやいなや、この青年がにせものなのを、一種の驚愕とともに認めた。彼は老人である。それは疑うわけにはいかなかった。小じわが目と口のまわりを囲んでいる。頬の淡紅は化粧だし、色のリボンでまいてあるむぎわら帽の下の、栗いろの髪の毛はかつらだし、くびはやつれてすじばっているし、ひねりあげた小さな口ひげと、下唇のすぐ下のひげとは染めてあるし、笑うときに見せる、黄いろい、すっかりそろった歯並は安物の義歯だし、両方の人差指に認印つきの指環のはまった手は、老人の手なのである。ぞうっとしながら、アッシェンバッハは、その男の様子と、その男が友人たちと相伍している有様とを見守っていた。 ”



老いるということは、必ずしも醜くなるということを意味しないし、ここでもそういうことが描かれているのではないと思います。アッシェンバッハが「ぞうっと」なるのは、青年のような外見とその中身の老いぼれぶりとが、あまりにもかけ離れていていたからでしょうか。にせものの青年は、極端に若作りするべきではなく、たぶんもっとうまく実年齢に見合った若々しさの演出をするべきだったのかもしれません。

この残酷な場面をこらえて物語を読み進めていくと、ヴェニスで神々しいまでの美少年を見かけて夢中になり、それまでずっと外見のことをさほど気にしたことのなかったアッシェンバッハもまた若さを取り戻すべく、美容師の手にかかって化粧を施してもらうのです。そしてその結果に「ひとりの生き生きとした青年を見た」と満足するのです。

老いるということは必ずしも醜くなるということではありませんが、しかし若さにはそれ自体美しいところがあるのは認められる事実でしょう。老いるごとにその美しさは少しずつ失われてゆくように感じることも、私にも実感としてあります。みずみずしさが失われ、以前と同じような体型、顔つきをしていたとしても、やはり決定的に印象が違ってしまう。

にせものの青年も、初老に至って恋をしたアッシェンバッハも、我が身を過ぎ去った若さを、美を、ふたたびその身に取り戻したかった。前者の極端ななりふり構わぬ若作りと、後者の品よく身分と年齢をわきまえた若々しい身繕いとでは、第三者が受ける客観的な印象に違いがあるのだろうと思います。けれども二人が求めているのは、いずれにしても若さとその美。その求める思いの程度に、どのくらいの違いがあるのか私には分かりません。

美とはなんなのでしょうか。

私たちをただ通り過ぎたり、あるいはかすりさえしないところにあるものでしょうか。美の象徴のように描かれる少年タッジオにしても、アッシェンバッハは少年の歯並から彼が長生きしないだろうと推測して安心するのです。それは老いればあの美少年からもやはり美が失われてしまうに違いないと考えるからでしょうか。美しいものと一体となっているあいだに死んでしまうほうがいいと思うのでしょうか。

美とはなんなんだろう。
ただ通り過ぎていくだけのものだろうか。あるいはずっと遠くに届かないところにあるだけのものだろうか。留めておけないなら、手に入らないものなら、どうしてそれを追い求めなければならないのだろうか。一瞬、それに触れられたような気がしたことがあったとして、それだけで満足できないとしたら、それはどうしてなんだろう。美しいもののことを思って、悲しくなることがあるのは、いったいどういうわけなんだろう。




読み落としているところがたくさんあって、まだちゃんと考えたとは言えませんね。けれども、印象的な物語でした。もう一回くらいは読めるかな。自信ないな……






『果てしなき逃走』

2010年01月07日 | 読書日記ードイツ
ヨーゼフ・ロート作 平田達治訳(岩波文庫)



《あらすじ》
オーストリアの将校トゥンダは第一次大戦のさなかロシア軍に捕らえられ、赤軍の兵士として革命を戦うこととなる。10年ののち故郷に帰還したとき、もはやそこに彼の居場所はなかった……。ガリチアに生まれ、ウィーン、ベルリンを経てパリに客死した放浪のユダヤ人作家ロート(1894-1939)が、故郷喪失者のさすらいを描いた代表作。

《この一文》
“ それは一九二六年八月二十七日午後四時のことだった。どの店も満員だった。百貨店では婦人たちがひしめいていた。モードサロンではマネキン人形がくるくる回転し、喫茶店ではのらくら者たちがお喋りを楽しみ、工場では歯車がごうごうとうなりを上げ、セーヌの河岸では乞食たちが虱取りに勤しみ、ブーローニュの森では恋人同士が接吻し、公園では子供たちがメリーゴーランドに乗っていた。ちょうどこの時刻にわが友トゥンダは三十二歳で、元気溌剌とし、いろんな才能を持った、若くてたくましい男として、マドレーヌ寺院前の広場に、世界の首都の真ん中に立ち、これからどうしたらよいか途方に暮れていた。彼には職も、愛も、欲望も、希望も、名誉欲も、エゴイズムさえもなかった。
 彼ほど余計な人間はこの世にいなかった。 ”



とても残念なことに、この世には余計な人間というものがいるものです。たとえば、このトゥンダのような、そしてたとえばこの私のような。

年末に帰省する際、私は宿命の命ずるままに3冊の本を携えて帰りました。1冊はブルトンの『狂気の愛』、もう1冊はある小説、そして最後に『果てしなき逃走』を。3冊とも、私はまだ冒頭を読んだだけの状態で、帰省している間に読んでしまおうというつもりで。

宿命と書きましたが、私は宿命とか、巡り合わせというものを非常に重んじています。それは確かにあります。私には、それが分かる。それが分かる、ということだけが私に与えられた唯一の才能です。私には、たとえば、私が探している言葉がどこにしまわれているのかが、どうしてだか分かる。本の中だけではなくて、それは偶々出会った人の口から語られることもある。分かったからと言って、それで何かがどうなるというわけではないのだけれど、とにかくそれだけが私のただひとつの才能であることには違いありません。

私はしかし持っていった本を読めぬままに年を越すと、元日の夜になって、父が思わずたまらずこう言いました。

 “お前のように何者でもないものは、どこにもいないぞ”

と、そんな感じのことを。父は普段はそういうことを思っていても口にしない人ですが、この夜はどうしても堪えきれないというように、つい口にしてしまったようです。父は何者でもない私を、何者にもなろうとしない私を悲しみ、恐れているのかもしれません。この世では、人は必ず何かであらねばならないからです。そのことは、私にもよく分かっているのです。私は何か言い返そうと思いましたが、そんなことが出来るわけもありませんでした。というのも、私には、言葉がないから。私の中には、言葉がないから。私はそれを私の外に探さなくてはならない。それが私の宿命です。

父の言葉に打ちひしがれて、私は結局横浜へ帰ってくるまでこれを読むことができませんでした。しかし、この本は依然として私に向ってくるので、昨日とうとう読みました。すると、まさに私の体験してきた通りのことが延々と書かれてあるではないですか。私は、私のただひとつの能力が、今回もやはり正しく発揮されていることを知りました。もちろん、それで何がどうなるというわけではないのですけれども。答えが見つかるというわけではないのです。ただ、私はそこに、私の問題を、言葉にしてはっきりと見つけられるというだけのことなのです。


オーストリア帝国の陸軍中尉であったトゥンダは、戦争という世界の大きな悲しみによって美化され、死と背中合わせであることによって偉大になり、栄光に包まれた輝かしい将校であった。しかし、ロシア軍の捕虜となったことをきっかけに、彼の運命は急展開する。行方不明者となった彼は、10年間放浪し続け、そのあいだに名前も、名誉も、なにもかもなくしてしまう。故郷に戻っても、もはや彼に居場所はなかった。

輝かしい経歴があって、順調に進んでいればトゥンダには美しい婚約者とともにある、平穏な、豊かで幸福な生活を得られたのに、どうしてだかそうはならなかった。一度社会的に死んだ人間の、その元の社会へ戻ることの不可能を、淡々と描いています。トゥンダにはなにもない。彼は生きているけれども、死んでいる。死んでいるのに、生きなければならない。立ち尽くす。立ち尽くす。社会に生きるということは、ただ生きているだけでは足りないのだという。何者かであらねば。何者かであろうとしなければ。

社会は、その中でしかるべき役割を演じられない人間を必要としていない。当然だ。でなければ、世の中が崩れ落ちてしまう。たとえ自分の役割が本来の自分がそうであるのと違っていても、そうでありたい姿と異なっていても、役割は果たされなければならない。演じ続けられなければならない。それが出来なければ、社会で生きる資格がない。

ところが、とても残念なことに、この世には余計な人間というものがいるものです。たとえばトゥンダや、たとえばこの私のような。しかし、そうだとすると、どうして……

私もやはり途方に暮れてしまうのだけれど、私も一丁前にトゥンダと同じように腹を立てているので、とりあえずは彼を見習って、でまかせを売りさばいてでも生き延びてやろうと思う。


 “兄はぼくが職業もなく、金儲けもしていないので、道徳的にぼくには生きる資格がないと、多分そう言うだろう。ぼくは兄に食べさせてもらっているので、ぼく自身、内心うしろめたさを感じている。それはそれとして、ぼくは世の中に対して腹を立てており、その代価を支払ってくれない限り、この世で職業を持つことができないだろう。ぼくは世間一般のものの考え方には全く合わないのだ。
 (中略)
 ”そして今こそ金儲けをしなければならない時なのだ。この社会秩序の中では、ぼくが働くことなど重要ではない。しかしそれだけに、ぼくが収入を得ることは一層必要なのだ。収入のない人間は名前のない人間か、あるいは肉体のない影のようなものなのだ。自分が幽霊のように感じられてくる。これは右に記したことと少しも矛盾しない。ぼくは自分の無為のために良心の呵責を覚えるのではなく、他のすべての人たちの無為には十分報酬が支払われているのに、ぼくの無為は一文の収入にもならないからこそ、呵責を覚えているのだ。生きる権利は金によってしか得られない。 ”



生きる権利は金によってしか得られない。
私には、この世の美しいものへの憧れはあるけれど、他にはなにもない。実際のところ、金も、名誉も、信念も、職も、愛も、欲望も、希望も、名誉欲も、エゴイズムさえも、ない。何もない。
けれども、ただひとつの才能があって、それが私に告げるから、私は何故社会が余計者を生み出し続けるのか、何故それを余計だと思いながらも処分することもせず放置しておくのかに怒りを感じながらも、諦めて大人しくここから辞退する気はない。私は無為の中を生きてやる。何者でもないままでも生きてやろうと思う。私は立ち尽くし、途方に暮れてしまいそうになる。誰がどう見ても立ち止まっているようにしか、私自身にもそのようにしか思えないことがあるけれど、でも私はノロノロと、おし黙って、ただ言葉を探しているだけだ。私を形作ってくれる言葉を、私に魂を吹き込んでくれる言葉を探しているだけだ。何故そうするのか分からない。けれども、それが私のただひとつの才能であり、それが宿命だと告げるから。

私を生き延びさせるのは、憎悪と怒りだ。私はいつかこの世のすべての正しいことが、本当はそれほど正しくないということが分かって、水平で安定していると信じていた地面が突然に傾いて、誰もが泣き叫びながら滑り落ちていけばいいと思っている。その日を見るために、私もそこから滑り落ちながら、それを見物してやろうと思って生きている。
これが、私を支えているひとつの大きな柱であるということが、新年早々にはっきりと分かりました。私は半分死んでいますが、もう半分は到底死にそうにもありません。ここしばらくは、死のうと思ったことさえない。生き延びてやる。絶対に生き延びてやるぞ。



と、思わず暗黒の力に突き動かされてしまいましたが、私の精神的支柱は憎悪と怒りだけというわけではないようです。そのことは、また別の言葉が、私に教えてくれることでしょう。


あ、そう言えば、作中にエレンブルグが出てきました。新進作家として。そういう時代だったのですね。エレンブルグもユダヤ人でしたが、このヨーゼフ・ロートもユダヤ人でした。自らの体験を元に描いた『果てしなき逃走』の12年後、ロートは44歳で死んだそうです。さんざん彷徨った挙げ句に。絶望と怒りと、希望と夢の間を彷徨って。ひとりで。豊かで美しい才能があったのに。
けれども、この人は、その言葉を残してくれた。私はそのおかげで生きていけるというものなのです。私が生きていることなんて、なんにもならないとしても。それでも。





『ウィーン世紀末文学選』

2009年06月05日 | 読書日記ードイツ


池内紀編訳(岩波文庫)



《収録作品》
*レデゴンダの日記…シュニッツラー
*ジャネット…バール
*小品六つ…アルテンベルク
*バッソンピエール公綺譚…ホフマンスタール
*地獄のジュール・ヴェルヌ/天国のジュール・ヴェルヌ
        …ヘヴェジー
*シャイブスの町の第二木曜日…ヘルツマノフスキー=オルランド
*ダンディ、ならびにその同義語に関する
  アンドレアス・フォン・バルテッサーの意見
        …シャオカル
*オーストリア気質…フリーデル
*文学動物大百科(抄)…ブライ
*余はいかにして司会者となりしか…クー
*楽天家と不平家の対話…クラウス
*すみれの君…ポルガー
*落第生…ツヴァイク
*ある夢の記録…ベーア=ホフマン
*ファルメライヤー駅長…ロート
*カカーニエン…ムージル


《この一文》
“伯爵はおごそかに言った。
「貴族には果たすべき義務があるのです。たとえこの悲しむべき共和国には見捨てられた種族だとしても――」
  ――「すみれの君」(ポルガー)より ”

“知りうるかぎりでは、このファルメライヤーに異様な運命を予測するなど不可能だった。にもかかわらず異様な運命の手が彼をとらえ、さらっていった。ファルメライヤー自身、ある種の愉悦をもって、その手に身をゆだねたけはいがある。
  ――「ファルメライヤー駅長」(ロート)より ”



どこか憂鬱で不安を掻き立てるような作品もありましたが、意外と愉快な物語もまた多く収められていました。なかなか読み応えのある一冊。
特に印象的だったいくつかの作品についての感想を残しておこうと思います。



*ジャネット…バール

ジャネットと、彼女を共有する二人の男の物語。美しいジャネットは、生活のために年取った金持ちの男と付き合い、同時に、恋愛を楽しむために若い美男子と暮らします。彼女のなかではそれが極めて合理的態度であるのですが、ふたりの男がその事実を知ったとき、男たちはそれぞれに彼女に裏切られたと感じます。そして、ふたりの男は偶然にも知り合って、お互いそれと知らずに浮気な自分の恋人のことで意気投合するのですが……というお話。
面白かった。笑えます。


*地獄のジュール・ヴェルヌ/天国のジュール・ヴェルヌ
        …ヘヴェジー

これはかなり面白かった。
ジュール・ヴェルヌが地獄と天国へ行ったときの記録。天国よりも地獄の描写の方がユーモラスです。地獄の釜の燃料は薪! というところが笑えました。


*シャイブスの町の第二木曜日…ヘルツマノフスキー=オルランド

シャイブスの町の人々はたびたび無理な要請をしてきたのだが、このあいだ町名の Scheibs を Scheibbs と(bをひとつ増やして)表記する特権を得たばかりなのに、今度は「週のうちにもう一日、木曜日を認可してほしい」と言い出した…! というお話。
これもなかなか面白かった。この明るくほのぼのとしたテーマがいいですね。一週間に木曜日がもう一日出来ちゃったら、いったい宇宙の秩序はどうなってしまうの? というようなことを心配しだす人も現れたりとか、間抜けでとても愉快です。で、オチはまあ、そういうことなのですが……。この素っ気なさもとても私好み。


*すみれの君…ポルガー

ルドルフ・フォン・シュティルツ伯爵は、骨の髄までの騎士、山のような借金を持ち、色ごと、決闘沙汰は数知れない。すみれの君と呼ばれる彼は典型的なオーストリア貴族で美男子だったが、莫大な借金のためにいつしか身を持ち崩し、貧しい暮らしのうちに見る影もなく老いぼれていた。そこへある日、昔なじみのウィーン・オペレッタの舞台の星ベッティーナが現れ、彼に結婚してほしいと頼む…というお話。
このアンソロジーの中では、私はこの物語がもっとも好きです。没落してゆくすみれの君の姿にはとても哀愁を誘うものがあるには違いないのですが、経済的には没落していても失われなかったもの、貴族的な美意識や義務感、なけなしの誇りを守っているところなどは素直に美しく愛すべきものに思えます。優しい物語。


*落第生…ツヴァイク

うわぁぁ~~っ……悲惨。辛過ぎる感じ。


*ファルメライヤー駅長…ロート

妻と双子の娘とともに平凡な駅長として暮らしていたファルメライヤーは、ある大事故の夜、ひとりの美しいロシア女性を救出する。伯爵夫人であったその女性は数日間ファルメライヤーの家で休養し去ったのだが、ファルメライヤーは彼女の面影を忘れることができない。そして戦争がファルメライヤーをロシアの地に向かわせ…というお話。

いろいろと痛みを感じる物語でした。どこが痛いと言って、ファルメライヤーは恐るべき情熱でヴァレヴスカ伯爵夫人を愛するようになるのですが、戦時中の混乱の中、いつまでも帰ってこない伯爵を待つ夫人が、目の前に突然現れたファルメライヤーをいつしか愛するようになり、ふたりはともにロシアの地を離れ、互いにすべてを捨て去り幸福に暮らそうとしていた矢先に、伯爵が帰還します。それまではファルメライヤーに対して独占欲を丸出しにしていた伯爵夫人の変貌が、痛くて辛い。ファルメライヤーの熱烈な愛情に対して、彼女の愛情は、何と言うか愛情には違いないけれど結局は単に自身の保護者に対する愛情と言うか、伯爵が戻ってきてしまえば、ファルメライヤーはただの元駅長、使用人レベルの人間でしかなく、それが伯爵夫人にとっても、ファルメライヤー自身にとっても抵抗するべくもない圧倒的事実として受け入れられてしまうあたりが、なんかもう猛烈に虚しかったです。あー、これは辛いなぁ。別に伯爵夫人が悪いというわけではなく、両者とも真剣には違いなかっただろうに、状況によって運命を変えられてしまうところが、なんとも……。

愛情の質の不一致というべきか、ファルメライヤーの夢見るような理想としての愛に対して、伯爵夫人の極めて現実的な生活の確保という意味での愛情……。どちらにも落ち度はないと思うのに、その食い違いが不幸な結果をもたらしたのでしょうか。伯爵夫人のためにそれまでの人生のすべてを捨てて、既に家族にとっては死んだことになっているファルメライヤーは、新しく得た人生そのものであったはずの伯爵夫人をも失って、今度こそ決定的に死んだ人間になってしまうのでした。うーむ。辛い、辛過ぎる。

それにしても、ドラマチックで面白い短篇。映画にしたらよさそうです。前々から思っていることなのですが、ヨーゼフ・ロートはぜひ他の作品も読んでみたいところです。




だいぶ前に購入したこの文庫ですが、久しぶりに開いたら、暗がりにしまってあるにもかかわらず本体がかなり傷んできていてびっくりしました。まあ、文庫だから仕方がないとは言え、もう少し気を遣って保管しておくことにしましょう。





『夢小説・闇への逃走 他一篇』

2009年05月27日 | 読書日記ードイツ

画像を載せる気力もなく…

シュニッツラー作 池内紀・武村知子訳(岩波文庫)






何も書きたくない。一言も言いたくない。でも、またうっかり忘れて、同じ地雷を踏んでしまわないためにも、修行だと思って少しだけ書いておくことにする。

シュニッツラーの『夢小説・闇への逃走』のことである。

「夢小説」までは、まあよかった。フリドリンがその生活にも妻にも失望しつつも、幻の女の影を追いきれず、生活も、妻も、幻滅そのものであると思いつつ結局は手放すことをしない。気が滅入るには違いないけれど、まあ、これはよかった。優柔不断が、選択の先送りが、人任せが、結局は自らの幸福とは何かを、どこまでも曖昧なものにしていくのかもしれないという、そこはかとない気まずさとやり切れなさを、幻想的な物語のうちに読むことができたと思う。

ここでやめておいたらよかったのだが。

「闇への逃走」については、何も言う気がしない。
思い出すのも危険だ。これを読むべきは、幸福の絶頂にあって馬鹿げた狂気など笑い飛ばせるくらいの健康状態にあるか、もしくはささやかな倦怠感からちょっと「不幸な自分を演じたい」と酔狂な遊びに手を出そうかという、いずれにせよ健やかで明るく、正しい人間が読むべきだと思う。引き摺られやすい、心の弱い私のような人間には必要ない。この人の暗闇の黒さは私の底の割れた魂には馴染みすぎて、何も満たしてくれない。ガルシンの「赤い花」を読んで、ただでさえ気落ちしていたところに、とどめをさしてくれやがった。もう、いい。私は行きます。主人公の名前を、もう忘れた。お兄さんの名前がオットーだったことは思い出せるのだけれど……

読んでいて、電話が鳴ったのでびっくりして飛び上がり、その驚きようにまたびっくりした。相当血の気が引いていたのか、文庫を持つ手が細かく震えているので、また驚く。何か気分を変えて別のものを読もうと書棚に手を伸ばすと、奥の列から、全く購入した記憶もないシュニッツラーの別の本が出てきたので、ぞっとする。いったいどういうつもりなんだろうか。

私は偶然を信じない。なにかにつけそこに予兆を見いだしたがる。だが私はそんなふうに生きるべきなんだ。では今度のことは、私に何を教えようとしているのか。これまでのいくつかの物語は、私に進むべき道を、考えるべき問題を、見るべき美しいものを提供してくれることが多かったと思う。さて、これは何だろう。
私はこれを立ち入り禁止の警告だと受け止めることにする。あまり自分の内側にある暗闇のことばかりに目を向けすぎてはいけない。それは私を滅ぼしたがるだけで、私を救いはしないだろう。分かっていることじゃないか。こいつのために、これまで何かいいことがあった試しがあるだろうか。何が原因かなど、もうどうだっていい。やめた。やめろ。

このあいだ、山の夢を見た。山に登ろうとして悪天候のために登らなかったが、改めて計画を立て直して、またいつか登ろうとする夢だった。
私は選ばなくてはならない。
光り輝く美しいもので満たすんだ。もっと注意深く、そこここにある美しいものを集めなくては。美しいものへの憧れだけが私を満たしてくれる。ただ、割れ底からたえず美しいものは流れ出ていってしまうから、もっと、もっと注意深く、ないもののなかにもあると思って。砂のなかから砂金をよりだすつもりで、砂自体が砂金だというつもりで。


疲れた。私は常にひとりになりたがりながら、同時に猛烈に寂しくもあるのだ。ばかばかしい。とても素敵なワンピースを買ったばかり。これを着て、どこかでかけよう。どこか、美しいもののある、どこかへ。







『ウンラート教授-あるいは、一暴君の末路』

2009年04月30日 | 読書日記ードイツ

ハインリヒ・マン 今井 敦訳(松籟社)



《あらすじ》
彼はラートという名前だったので、学校中が彼を「汚れ物(ウンラート)」と呼んだ―――。人生のほとんどの時間を学校という狭い空間でのみ過ごしてきた中学教師ラート教授の喜びは、彼に反抗する生徒たちを学校から追い出し、破滅させること。しかし、美しき女芸人ローザとの出会いによって、ラート教授は周囲を奈落の底へ突き落としながら、自らもまた深く落ちていくのであった。

《この一文》
「とりわけ一つのことは確かだ。幸福の頂点まで登りつめた者は、底の見えないほどの奈落にもまた、よく通じているのだ。」



学校中、ひいてはその卒業生からなる町中の人々から嫌われ、疎まれ、「汚れ物(ウンラート)」と揶揄されているラート教授。彼の視野は恐ろしく狭く、そのために、実はウンラートというからかいの中にいくらかは彼への好意の感情も含まれているということに気付かず、自分に歯向かう生徒たちへの復讐心を募らせる毎日を送っています。

このラートという人物は、実に不快な人物で、物語の前半は、彼の生徒と同様に読者も彼への嫌悪感でいっぱいになることでしょう。要するに、読むのが辛く、退屈です。もう途中で挫折しそうでした。ところが、後半になると彼は突如として恐るべき魅力を放つようになるのです。

それは、ラート教授が長年どうにか抵抗していたウンラートという忌まわしいあだ名を自ら受け入れ、汚れ物それ自身になったと自覚するあたりから始まります。彼はとうとう真の暴君へと変貌し、大きく深い奈落の口をこじ開け、自らもそこへ落ちながら、彼の周囲の人々をも破滅の大渦へと巻き込んでいきます。

彼の、この暗い輝きはどうだろう! この狂気の、なんという魅力! 退屈だった前半の物語も、ここへ差し掛かるとあれは必要な退屈さだったのかもしれないとさえ思えます。そのくらいの勢いがあります。

ラートは、学校の3人の生徒、とりわけローマンという生徒を破滅させてやりたいと願います。ローマンという人物は、ラートと対照的な人物として設定されています。家柄も、容姿も恵まれ、知性的かつ冷静な彼は、ラートを嫌悪しつつも、彼の偏狭さにいくぶん同情し、またその純粋なまでの偏狭さに圧倒されてもいます。ローマンは、最終的にはラートが破滅させるべきと考える人間全体の象徴となり、両者の感情の行き違いというか、ラートの一方的な思い込みによって、物語の勢いはどんどん加速していきます。

ラートとローマンの間を結ぶのが、町へやってきた女芸人ローザ。ローマンが彼女に思いを寄せていると誤解したラートはローマンの破滅のきっかけを掴もうとローザに近づきますが、逆にラート自身がローザに夢中になってしまいます。ローザを美の女神と崇めるラートによって、ローザもまた自分の美しさへの自信を過剰なまでに高めていき、ラートのみならず多くの男性の愛を得るようになっていくのでした。こういう女は、実に女らしく恐ろしく描かれています。周囲に破滅の芽をまき散らしながら、しかも本人には全然悪気がないあたりがまたたちが悪い。それにしても、たいへんな美人であるローザが、何故にラートという奇人に惹かれていくのか、そのあたりも見所です。


意外と複雑な物語です。かなり面白かった。
破滅が始まるとき、誰もそれに気がつかないで、むしろ自らその深くて暗い大穴へと飛び込んでいきます。そして落っこちてから、あるいは運良くあと少しで落ちそうなすれすれのところまできてからようやく、「どうしてこんなことになってしまったのか……」と思い返すのでしょう。

しかもきっかけはいつも些細なことで、どんどんと膨らんでいく破滅の恐怖とそれ自体の持つ魅力を前に、私たちはそれが罠だと知らぬまま、あるいは知っていたとしても抗えず、転落への道を選ばずにはいられない。

ラートという特殊な人物によって提示されるこの破滅の道はしかし、我々がときにあっさりと訳もなく自らを見失って狭い視野に捕われてしまいがちであるということをも示唆するようでした。そんな、心の奥が震えるような暗い、暗い欲望を刺激するようなお話でした。


ついでに、ハインリヒ・マンという人は、トーマス・マンの実弟だそうです。はー、なるほど。さらについでに、この物語は『嘆きの天使』という題で映画化もされているそうです。映画版ではラートの人物像がかなり違うらしい。私は映画を観たことがないですが、小説のラートという人物は一見の価値があると思いますね。どす黒く燃え上がる憎悪の炎、純粋な復讐心を煽りたたせるラート教授には、ローマン同様、一種の同情と憧れを禁じ得ません。

面白かった。






『流刑の神々・精霊物語』

2009年04月20日 | 読書日記ードイツ
ハインリヒ・ハイネ著 小沢俊夫訳(岩波文庫)



《内容》
キリスト教が仮借ない非寛容性をもってヨーロッパを席巻していったとき、大陸古来の民間信仰はいかなる変容をしいられたか。今から1世紀以上も前、歴史の暗部ともよぶべきこのテーマに早くも着目したハイネは、これら2篇のエッセーでギリシアの神々と古代ゲルマンの民族神たちの「その後」を限りない共感をこめて描いている。

《この一文》
“トイフェルは論理家である。彼は世俗的栄光や官能的喜びや肉体の代表者であるばかりでなく、物質のあらゆる権利の返還を要求しているのだから人間理性の代表者でもあるわけだ。かくてトイフェルはキリストに対立するものである。すなわちキリストは精神と禁欲的非官能性、天国での救済を代表するばかりでなく、信仰をも代表しているからである。トイフェルは信じない。彼はむしろ自己独自の思考を信頼しようとする。彼は理性をはたらかせるのである! ところで自己独自の思考は、もちろんなにかおそろしいものをもっている。ゆえにローマ・カトリック・使徒教会が独自の思考を悪魔(トイフェル)的だとして有罪と認め、理性の代表者たるトイフェルを虚偽の父であると宣言したのももっともなことではある。”

“問題は、ナザレ人の陰気な、やせ細った、反感覚的、超精神的なユダヤ教が世界を支配すべきか、それともヘレニズムの快活と美を愛する心と薫るがごとき生命の歓びが世界を支配すべきであるかということなのだ。”
   ―――「精霊物語」より



「精霊物語」「流刑の神々」という題から、ものを知らぬ私はずっとこれが、沈鬱かつ悲しく、それでいて美しく端正な、もの思わしげな青白い美青年的イメージを持つ文章だと想像しておりましたが、読んでみて、まあ多少はイメージ通りな感じはあるにはあったのですが、何と言うかむしろ裏切られたと感じるほど猛烈に面白かったです。私はハイネのことをろくに知らぬまま勝手なイメージを作り上げていたわけですが、こんなに面白い人だったとは思いもしませんでした。面白すぎる。

ここに書かれていたのがどういうことだったのかを簡単にまとめれば、本の表書きにもあるように「キリスト教が仮借ない非寛容性をもってヨーロッパを席巻していったとき、大陸古来の民間信仰はいかなる変容をしいられたか」ということだと思います。そもそも私はこのあたりのことが知りたかったためにこの本を読もうと思ったのではありますが、実際に読んでみると、ハイネによって取り上げられているドイツおよびヨーロッパ各地の伝説・伝承などの内容が面白すぎて、本題よりもむしろそちらにばかり気を取られてしまいました。どの物語も、またそこに登場するキリスト教に逐われた神々や精霊たち、いずれもやたら魅力的で想像力を刺激します。彼等は次第に悪魔的存在として扱われるようになるらしいのですが、私は悪魔的なものが好きなので、それぞれの逸話はとても興味深く読めました。同時に、私がなぜ悪魔的なものを好むのかということについても、いくらかヒントを得たように思います。

「精霊物語」で取り上げられている〈ローマ近くのある邸宅の庭で友人たちと球を打って遊ぶ騎士の伝説〉からは、メリメの「イールのヴィーナス」を思い出しました。あれはこの伝説をもとに書かれてたのでしょうか。騎士が遊ぶ間、邪魔になるので指輪を女神像の指に嵌めたら抜けなくなり、ここで騎士と女神像の婚姻が成立してしまったために、騎士は人間の女との結婚生活を妨害されるという物語です。ちなみにメリメによるお話は、それはそれは凄惨で、忘れがたい物語です。

〈ヴェヌスとタンホイザーの物語〉からは、ゴーチエの「死霊の恋」を思い出します。愛すべき吸血鬼クラリモンドがヴェヌスで、タンホイザーになり損ねたのがロミュオーということだったのでしょうか、もしかして。

「流刑の神々」で取り上げられた物語の中では、ハイネの友人という漁師のニールス・アンデルセンが語って聞かせる「ユピテルのその後」のお話が面白かったですね。とても。これはすごく面白かった。


というわけで、追い払われた神々と精霊たちの物語を密かに受け継いでいたヨーロッパの精神的土壌の豊かさを、ちらりと垣間見たような気がしました。たくさんの物語を語ってくれるハイネの意外に熱い語り口には、なにか夢中になってしまうところがあったのでした。部分的に何度も読み返しそうな予感がする1冊。




『トーニオ・クレーガー』

2007年11月04日 | 読書日記ードイツ
トーマス・マン 佐藤晃一訳(「世界文学全集32」河出書房新社 所収)

《あらすじ》
トーニオは裕福なクレーガー家に、北方の真面目な実務家の父と、南方の情熱的でほがらかな母の息子として生まれた。彼は詩を、その世界を愛する一方で、詩などには目もくれぬ《幸福な人々》への憧れをも募らせてゆく。
故郷を離れたのち、作家として名をあげた彼は、ふたたびかつて住んでいた街を訪れるのだが…。


《この一文》
“――認識と創造の苦悩との呪いから解放されて、幸福な平凡のなかで生き、愛し、ほめたたえるようになれたならなあ!……‥ もう一度初めからやる? しかし、そんなことをしたところでどうにもなるまい。また同じことになるだろう、――いっさいがまたこれまでと同じことになるだろう。というのも、ある人々は必然的に道に迷うからで、それは彼らにとっては正しい道というものが全然ないからなのだ。   ”



私はいつか読もうと思って何冊かトーマス・マンの本を長らく手もとに置いたままにしていましたが、なかなか読むことができませんでした。
結局、私は自分が持っている本ではなく、K氏の持っている本(『詐欺師クルルの告白』という作品が収められていて、それが面白そうだった)で、『トーニオ・クレーガー』を読むことになりました。

これまでに私はたびたび「トーニオが人生に決定的な影響を与えた」という人の文章を見かけたのですが、今回手にした本のしおりには、その中でももっとも強烈な告白が載せられていました。少し引用してみましょう。


“へたにこの本の悪口でもいってみろ、ただではおかぬ、と、いまさらもうそんなことをいうつもりはない。そのころにしてもそうはいわなかった。けれども「トーニオ・クレーガー」、ぼくはこの小説をたいそう愛していた。生きることよりもこれの方がだいじに思われたことがあった。この小さな本が道づれであるなら死んでもいいとさえ思われた、むしろそうして早く死にたいと思った。
      ――中田美喜(ドイツ文学・慶応大学助教授)  ”


「むしろそうして早く死にたいと思った」。興味津々です。私はこの人とは逆に、本と出会うことでますます「このまま死ぬわけにはいかない」と強く思うのですが、情熱の種類は多分に同じ気がして、読んでみたくなったのです。

それで、読んでみたところ、「早く死にたい」とはやはり思いませんでしたが、たしかに多くの人の心を掴むだけのことはある物語でした。

無知で無関心で純潔でどこまでも美しく幸福な人々。彼らを軽蔑すると同時に激しく憧れもする。何の疑問も抱くことなく「あたりまえの幸福」のなかに反り返って立ち、その外を軽蔑のまなざしをもって見下ろす彼らを、自分とは決定的に違う人間であることから憎みつつも、しかしやはり美しいとしか思えない。

実に悲しい。引き裂かれるような痛みを感じます。

上の中田先生の続きの文章にも書かれているのですが、この小説を読むとしまいには「トーニオと自分との見境いがつかなくなる」ところがあります。人間のなかには程度に差はあれ、いくらかこのトーニオ的気質を持った者がいるのかもしれません。私はどうだろうか。少なくとも、ハンスやインゲボルクではあり得ないと自覚するならば、いくらかはやはりトーニオ側の人間かもしれません。
いえ、正直に告白すると、私は《この一文》で取り上げたあたりを読んでいるときには既にすっかり「トーニオと自分の見境いがつかなくなって」いました。
私は流されやすい性質であることを除いても、実際にこの小説にはたしかに人の心を掴むものがあるようです。

トーニオは詩人らしい感じやすい性質の、一方では冷静で自らを客観視できる人物として、それ故に世間に馴染みきれない人物として描かれています。が、これまでに多くの人を熱狂させたという事実を考えてみても、むしろ特殊なのはトーニオのほうではなくハンスやインゲボルクらの《幸福な人々》のほうではないかと思ったりもします。
でも、どうだろう? どのくらいの人々にとってこの『トーニオ・クレーガー』は必要だろうか? 《幸福な人々》にとってはまったく不必要な物語であるとは思う。読む気にさえならない、それが幸福者の条件である。
けれども、なにせこの作品は世間一般でも「名作」として認知されている上に、今でも大勢の読者を獲得しうる文学である。大勢の読者を…
と、ここまで考えて、文学を必要とする人間は必ずしもそう多くはないという現状に思い当たり、またその上で、これを読み、そして共感した私はもしや《幸福な人々》の列には連なることができないのではないかという怖れから(とは言え私のあと半分の心は「そうならない」意志を持ち、それを怖れてもいないのですが)、とりあえず私はこの問いは保留にしておくことにしました。

仮にこの作品を読もうとさえ思わない《幸福な人々》のほうがはるかにこの地上を占めているとしたら、それは喜ばしいことではないですか。おそらく。きっと。

しかし当分はある程度の割合で、ここにたどり着かざるを得ない人間も生み出され続けることでしょう。というのも、ある人々は必然的に道に迷うからで…‥



ドイツらしい静かで透明な物語の底には灼熱のようなものがたぎっていました。


『チャンドス卿の手紙 他十篇』

2007年10月14日 | 読書日記ードイツ
ホフマンスタール著 檜山哲彦訳(岩波文庫)

《内容》
何ごとかを語ろうにも「言葉が腐れ茸のように口のなかで崩れてしまう」思いに、チャンドス卿は詩文の筆を放棄する。――言葉と物とが乖離した現代的状況をいち早くとらえた「チャンドス卿の手紙」こそは、新しい表現を求めて苦悩する20世紀文学の原点である。ホフマンスタール(1874-1929)の文学の核心をなす散文作品11篇を精選。


《この一文》
“それ以来、あなたには理解していただけないような生活をおくっています。精神も思考もなく日々が流れてゆきます。もちろん、隣人や親戚や、この王国に住むほとんどの地主貴族とほぼ変りのない生活ですが。
            ――「チャンドス卿の手紙」より  ”


“自分自身を見いだそうとするのなら、内面へおりてゆく必要はないのだ。自分自身は外部に見いだすことができる、外部に。ぼくらの魂は、実体をもたない虹に似て、とめがたく崩れゆく存在の絶壁のうえにかかっているのだ。ぼくらの自我をぼくらは所有しているわけではない。自我は外から吹き寄せてくる。久しくぼくらを離れていて、そして、かすかな風のそよぎにのってぼくらに戻ってくるのだ。じつにそれが――ぼくらの「自我」なるもの!
            ――「詩についての対話」より  ”


“生あるものはなんであれいつか、いかなる風景もいつか、完璧に、おのれを開示することがある。ただしかし、深く揺り動かされた心にたいしてのみ。
            ――「ギリシャの瞬間」より  ”



帯を見ると、この本を買ったのは2000年の秋のことだったようです。
あの当時に関しては、果てしない薄暗がりと改良されるべく解体された左の手のひらというほとんどふたつの記憶しかないのだけれど、そのころの私がどうやってこの本を手に入れたのか、それを手に取ったのは左手を解体したかった右手だったのか、もしかしたら何によってでもよいから解体されたかった左手だったのだろうか、としょうもないことをふと考えました。

いずれにせよ、私はこの本を購入以来一度も開かずに7年間も放置していたことだけははっきりとしています。
どうしてそんなことができたのだろう。読んでみれば、ここにある物語はいずれも、私にはあまりにもよく分かるものばかり。いえ、分かるというよりも、……分かるというよりも、なにかうまく言えないけれど、興味深いもの。やみくもに面白かったです。どうして今まで読まなかったのだろう。


さて、ホフマンスタールと言えば「バッソンピエール」。「バッソンピエール元帥の体験」という題で、この短篇集にも収められていますが、ほかのドイツ小説集にもこの物語は必ずと言っていいほど必ず収められています。よって、私はこの作品に限っては既に4、5回は読んでいると思います(このバッソンピエールには元ネタがあるらしいことは、今回のあとがきで初めて知りました)。
その他の作品は、たぶんこれが初めてでした。そしていずれに対しても、異常に惹き付けられます。


とにかく、物語の多くはドイツ文学らしく静かで限りなく美しい色彩豊かな描写から始まります(ホフマンスタールはウィーンの生れだそうです)が、あるところから突然に陰うつで湿っぽく息もつけぬほどの閉塞的状況へ疾走する展開には参りました。とくに最初の「第六七二夜のメルヘン」などは、もうほとんど裏切りです。タイトルからの連想ではもっとロマンチックな物語になるのかと思いきや、なんですかあの結末は。あまりに恐ろしくて息苦しい。信じられない、だまされた、ああ、だけど面白かったのです。

「ルツィドール」というお話が唯一ちょっと明るかったでしょうか。これもものすごく面白い物語でした。男装させられた女の子の恋の物語です。

全体を貫いているものには、「目に見えるものの、その奥に潜むものを見るようになり、そしてそのことがそれまで自らが世界に対してとってきた認識のありかたを一変させてしまう瞬間」というようなものがある、という主張だったでしょうか。そのあたりは非常に魅力的で面白い。何と言っても、この人の語り口は見た目よりもかなり情熱的なので、激情家の私としては共感するなというのは全く不可能なことであります。面白い。これは面白い。


行ったこともなければ、その名前も知らない深い森に、だけどたしかに住んでいたという記憶があり、今でもなお時々はそこへ帰ってゆくつもりになるような空想に耽ってしまうタイプの人間にはうってつけの物語かもしれません。
そしてそのような者が愛するだろうこの秋という季節にはぴったりの物語であるでしょう。
つまり、私にはぴったりの物語でした。

面白かった。

『ドイツ怪談集』

2007年09月10日 | 読書日記ードイツ
種村季弘 編 (河出文庫)


《収録作品》
ロカルノの女乞食……ハインリヒ・フォン・クライスト
廃屋……E・T・A・ホフマン
金髪のエックベルト……ルートヴィッヒ・ティーク
オルラッハの娘……ユスティーヌス・ケルナー
幽霊船の話……ヴィルヘルム・ハウフ
奇妙な幽霊物語……ヨーハン・ペーター・ヘーベル
騎士バッソンピエールの奇妙な冒険……フーゴー・フォン・ホーフマンスタール
こおろぎ遊び……グスタフ・マイリンク
カディスのカーニヴァル……ハンス・ハインツ・エーヴェルス
死の舞踏……カール・ハンス・シュトローブル
ハーシェルと幽霊……アルブレヒト・シェッファー
庭男……ハンス・ヘニー・ヤーン
三位一体亭……オスカル・パニッツァ
怪談……マリー・ルイーゼ・カシュニッツ
ものいう髑髏……ヘルベルト・マイヤー
写真……フランツ・ホーラー


《この一文》
”それから二人は、都会の貧しい雪が薄く降り積もった街路を歩いていった。高い建物の谷間になった街路で、薄く霜のおりた電線の針金の真中に、二、三個星が出ていた。その星は電線の間に捉えられた楽譜記号のきらきら光る点のように見え、地上で屈辱を強いられる天井の光の、無限に厳しく苦痛にみちたメロディーをあらわしていた。
  ―――「死の舞踏」(カール・ハンス・シュトローブル)より  ”


”ところが現実は、禁断のひそやかな空想を味わった廉でまことに手きびしい罰を下すのだ。この種の人間はそもそもがいかなる俗事をも企ててはならぬ、家を建てたり、国債を買ったりなどしてはならぬのだ! ――地上ばなれのした瞑想に耽ってさえいれば、失望もそれほど激甚ならずともすむではないか!
  ―――「三位一体亭」(オスカル・パニッツァ)より  ”





途中までしか読んでいないのに、すっかり読みおえたと思って放置してありました。あるいは、やっぱり読みおえていたのだけれど、内容を忘れてしまったのか、後半はまるで初めて読むような新鮮さでした。真相は分かりません。いずれにせよ面白かったから、それでよいのです。


クライストやホフマンの作品は、正直「またこれか」というくらい、あちこちのドイツ小説集に収められているもので、どうやら定番中の定番であるもよう。「騎士バッソンピエールの奇妙な冒険」(ジョジョっぽいですね)も、どこかで読んでいました。

ですが、その他の作品については私は初見のものばかりで、たいそう興奮いたしました。

「金髪のエックベルト」は童話風の美しい描写ながら、かなり暗い内容です。問題作ですね。妙な味わいがあって、とても面白かったです。

「オルラッハの娘」は、少しだけ『尼僧ヨアンナ』を彷佛とさせるオカルトものです。なんとも不気味なんです。これは怖かった!

「幽霊船の話」は、まあありきたりと言えばありきたりのお話ですが、アラビア風の幻想をうまく描いているので、とても楽しく読めました。印象的なお話です。

「こおろぎ遊び」以下の作品は、いずれも「ええッ!? それで、つまり!?」という読後感です。わりと現代の物語なのでしょうか。分かるような分からないような結末でしたが、どれもたいへんに面白かったのはたしかです。迫力がありました。

このなかには気持ちが悪かったものもありまして、「カディスのカーニヴァル」などはたいして怖くもなさそうなのに、妙に不気味でした。
祭りの夜に、切り株が広場を歩き回り……という内容で、私は《歩く切り株》と言えば映画『黒猫白猫』(エミール・クストリッツァ監督)にも登場するメルヘンでファンシーなイメージが脳裏をよぎったのですが、この作品では恐ろしげなものでした。ああ、なんだか気持ち悪い。

「ものいう髑髏」はちょっとユーモラスで良かったですね。


それにしても、ドイツ小説はいつ何を読んでも、どこか秋のような感じがするのでした。