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祝!『バラバ』重版再開

2010年05月14日 | 読書日記ーラーゲルクヴィスト

私という人間を変えた
忘れがたい小説『バラバ』




さっき岩波のHPを見たら、ラーゲルクヴィストの『バラバ』がようやく重版再開となっておりました! しかも本日 5/14(金)から! めでたい! 今日は記事がふたつになってしまいましたが、急いでお知らせということで。


ようやく重版になりましたね。よかった、よかった。これまで読みたかったけれども手に入らなかったので読めなかったという方は、今のうちにお買い求めになるとよろしいのではないでしょうか。私はもう持っているのですが、だいぶボロくなってきたので、新しく買い直そうかと思います。本屋に行かないと!!


 →→ 岩波書店:今月の復刊





『地獄へ下るエレベーター』

2008年06月06日 | 読書日記ーラーゲルクヴィスト

ペール・ラーゲルクヴィスト 谷口幸男訳
(『現代北欧文学18人集』新潮社 所収)

《あらすじ》
愛し合う一組の男女がエレベーターで下ってゆく。女にはしかし別にもうひとりの、とっくに愛想の尽きた恋人がいたが、今は目の前の男に夢中だ。二人を乗せて、エレベーターは下りに下る。そして着いたところは、地獄だった。

《この一文》
“――考えてみて、と女は、長い抱擁から自分をとりもどすと言った。あの人にあんなことができるなんて。でも、あの人ったら、いつも変な考えにとりつかれていたのよ。あの人はものごとをあるがままに、素直に、自然にとることができなかったのよ。いつも命にかかわるみたいだったの。――まったくばかばかしい話さ、とイェンソンが言った。  ”



うっかりして読むのを忘れていたラーゲルクヴィストの短篇。思い出して良かった!

この「地獄へ下るエレベーター」は、調べてみるとラーゲルクヴィストの初期の短篇であるようです。『刑吏』や『こびと』よりも前の1924年の小説集『不吉な物語』に収められた一篇。ごく短い短篇です。

ひとことでこの物語の印象を述べるならば、非常にお洒落であるということでしょうか。『バラバ』や『巫女』に見られた震え上がるような迫力は見られません。それは、この作品がとても短いというためかもしれません。が、とにかく、どちらかというときらびやかで明るく軽い印象です。ユーモラスでさえある。

それでも、ここにはすでにラーゲルクヴィストという人特有の疑念というか悲観というか、憎悪というべきか、そういうものも感じられます。

ひとりの女を愛する二人の男。男のひとりはイェンソン支配人。女の現在の愛を一身に浴びて幸福の最中にあります。もうひとりの男はアルヴィド。去っていく女を引き止めることができなかった「くそまじめ」な男。

女はなぜイェンソン支配人を選ぶのか。ものごとを疑わずにはいられないアルヴィドはなぜ捨てられるのか。
なぜ女とイェンソン支配人は地獄まで下りていかねばならなかったのか、なぜ二人はそこでアルヴィドと会わねばならなかったのか、そしてなぜ二人はなにごともなかったかのように平然と地上へと上がるエレベーターに乗って帰ることができるのか。

女はイェンソン支配人と出会うまで「愛ってどういうものか、知らなかった」と言う。またしても「愛」だ。この人の作品を読むと、「愛」の身勝手さや閉鎖性、無責任、そういうことばかり頭に浮かんでしまう。愛。そのひとことで全てが解決するだろうか。いや、誰も解決など望んでない。そもそもそこに問題があることすら気が付いていない。これが幸福というやつだろうか。そうかもしれない。たしかに問題なんてないのかもしれない。愛し合うふたりは美しくも見える。

だけど、でも。では、アルヴィドはなぜ地獄の住人とならねばならなかったのだろうか。彼が全てを疑ったからだろうか。そうかもしれない。今や地獄も近代化され、すっかり人間的になった。なにものをも信じられぬ魂を持つアルヴィドには地獄がふさわしい。愛のもとに手を取り合って見つめ合う幸福な男と女だけが、上へあがるエレベーターに乗ることができるのだ。

これはもちろん痛烈な皮肉だろう。と私は思う。でなければ、私の感じているこの激しい胸のむかつきに理由をつけることができない。


深く読もうとすると、私の読みは合っていないかもしれないけれど、なんだかとても痛みを感じる短篇です。苦い。




『こびと』

2007年06月12日 | 読書日記ーラーゲルクヴィスト
実は、ラーゲルクヴィストの『こびと』を先週くらいに読み終えたのですが、記事にする気がなかなか起きません。ですが、せっかく読んだので、メモ程度には書き残しておきましょう。



どうにも暗いのは、中世が舞台だからなのでしょうか。『刑吏』のときも思いましたが、滅入るほどに暗いです。

主人公の《こびと》も、ラーゲルクヴィスト作品の例によって、やりきれないほどに孤独でした。ただ、ほかの登場人物のあり方や物語の展開などは、これまで読んだ作品とはちょっと雰囲気が違うように感じます。

いずれにせよ、ラーゲルクヴィストは、いつもたまらない孤独の中へ私を突き落とし、かぎ爪のように深く突き刺さる謎をぶつけてくるので、今回もとにかく消耗しました。

これではちっとも書き足りませんが、今は気持ちが乗らないので、続きはまた次の機会に。


ほんとうは、例の作業もするつもりでしたが、図書館の返却期限がきてしまった(今日だったのに忘れてた)ので、また後日に延期です。私はこの本を何回借りれば気が済むのだろう。もう4回くらいは借りてます。前は同収の『刑吏』を写すので精いっぱいでした。今回は『こびと』を読むので精いっぱい。写せず……無念。
今度こそ、完了したいです。


それにしても暗かった。
面白かったかどうかについては、それはもう、言うまでもないことです。

『バラバ』 再読

2006年07月16日 | 読書日記ーラーゲルクヴィスト
ラーゲルクヴィスト作 尾崎義訳(岩波文庫)

《あらすじ》

ゴルゴタの丘で十字架にかけられたイエスをじっと見守る一人の男があった。その名はバラバ。死刑の宣告を受けながらイエス処刑の身代わりに釈放された極悪人。現代スウェーデン文学の巨匠ラーゲルクヴィスト(1891-1974)は、人も神をも信じない魂の遍歴を通して、キリストによる救い、信仰と迷いの意味をつきとめようとする。


《この一文》

” --これは不運な人間なんだ、と彼はいった。そしてわれわれにはこの男を裁く権利はない。われわれ自身欠点だらけであるが、それでもなお主がわれわれを憐れみ給うたことは、それはわれわれの手柄ではないのだ。神をもっていないからといってその人間を裁く権利は、われわれにはない。    ”



もう10回くらいは読み返している、いや、まだ10回と言うべきかもしれませんが、『バラバ』を再び読みました。これまではこの物語の怒濤の勢いに身をまかせ一息に全力疾走で読み進めていたのですが、今回は一語一語を確実に追うゆっくりとした読書を自らに課すことにしました。少々時間がかかりましたが、その甲斐は十分にありました。今までは走り過ぎていて、きちんと理解していなかった点に気が付くことができました。よかった。

さて、私はこの『バラバ』の記事は1年半くらい前にも書いています(全然参考になりませんが「こちら」です)。それを読み返してみると、あまりにあっさりとした書きっぷりに驚きを隠せませんでした。ほとんど「あらすじ」しか分かりません。ほかに書きようがいくらでもあっただろうに……情けないことです。それにしても最も印象的な一文の引用が今回も前回も同じ箇所であったのは、なんとなく意外でした。印象的な「場面」ということならば、他の場面のほうが印象的だと常々思っている私ですが、「一文」ということになるといつもこれを選んでしまうからには、きっとこの文章には何か重要な問題が表されているに違いないと思います。問題点が多い、というのがラーゲルクヴィストの最大の魅力なのですが、短い物語の中には、驚く程多くの、おそらくはどれも非常に重大な問題が提起されているのです。


バラバはキリストの代わりに赦免された極悪人です。母親の世界に対する呪いと憎悪のうちに産み落とされた彼は、あらゆることに無関心で、人と関わらず、何も信じたりはしません。その彼が、自分の代わりに磔刑に処される人物の死の瞬間に起こった異常な光景を目撃することで変わってしまいます。ありえないことが起きそれを見てしまったことで、彼は迷い始めます。それまでは当たり前と思い、無関心でいることができた彼を取り巻く現実というものが揺らいでしまったようです。

今回あらためて気がついたことは、私はこの物語の登場人物について誤解をしていたところもあったということです。というわけで、バラバの関わる人物は少ないですが、その人たちについて改めてまとめてみることにします。彼らの存在はバラバにとってどういう意味を持っていたのでしょうか。

【クリストス・イエースース】バラバの代わりに処刑された男。バラバはどうしてもその男のことが好きになれなかったが、その男の死の瞬間にあたりが暗闇に包まれたのを目撃してしまう。救世主と呼ばれたその男は「人を愛せよ」と言う教えを広めていた。バラバにはその教えについてもまったく理解できない。

【ふとっちょ女】盗賊としてのバラバを愛した女。死を免れて帰ってきたバラバを世話するが、すっかり変わってしまった彼の姿を心から悲しむ。バラバがこの女を愛することは決してなかった。

【赤毛の大男】キリストを師とし、故郷ガリラヤを遠く離れたことを嘆きつつも心から信じている師に付いてきた純朴な男。救い主の代わりに赦免されたバラバを許さないキリスト教徒のなかでほとんど唯一バラバに対して差別も非難もせずに対話することができた人。

【兎唇女】バラバがかつて足を折り動けないでいた時に、バラバによって身も心も利用された女。そしておそらくその為に、胎内の子とともに呪いを受け、故郷から放り出されることになった。子は生まれることなく死に、バラバとも久しく会っていなかったが、再会したころには彼女は例の救世主を信仰するようになっていた。

【甦った男】キリストの奇跡によって死から甦った男。キリストの教えや奇跡を信じられず、何よりも死を恐れているバラバが、愛餐をともにすることになる人物。恐ろしく空虚な目をしている。

【サハク】バラバが年老いてから奴隷として鉱山で働いていたころ、ひとつの鉄鎖で結びつけられていたアルメニア人の奴隷。キリスト信者で、バラバが実際に救い主を見たことがあることに感激し、バラバの奴隷鑑札に自らのと同じように救い主の名をきざみつけた。長い間バラバと同じ鎖で結ばれていたことにより、二人はまるで一人のように常に一緒に行動することになる。

【ローマ総督】バラバとサハクがキリスト信者であることを聞き、二人を呼び立てて彼らが「神のものであるのか? それとも国家のものであるのか?」と問いただす。非常に現実的、実際的で、厳しい統治を行うが自身はわりと気さくな人物。ローマへと引き上げる際にも、信仰がもたらす死よりもそれを捨てることで生き延びることを選んだバラバを連れてゆくことにした。


まとめてみると、バラバには人を愛したり信じたりする、あるいは神を信じたりきっぱりと否定する機会は彼の前にあらわれる登場人物たちによって何度かもたらされたという気がします。しかし、その度ごとに彼はどうしても決着をつけることができません。絶望的に孤独な人間として生き続けます。それは、彼には何事も信じるということができなかったからでしょうか。彼を通り過ぎて行った人たちのように何かを信じることができたならという憧れよりも、どうしてなのかという疑念の方が大きかったということでしょうか。疑いつづけるというのは、たしかに恐ろしく孤独な作業です。何かを心から信じるということはその存在を確信するということでしょうから、少なくとも自分のほかに別の対象を持ち、そのことで孤独はある程度解消されるでしょうが、すべてを疑うとしたらそういったよりどころを一切持つことができないということになりましょう。実に不安で孤独なことです。

今回もある場面にさしかかると私の目からは涙が流れ出しましたが、どうしてそうなるのか今もよく分かりません。疑いつづけたバラバが自らの孤独を初めて自覚するそのときに、私は私自身の姿と、そしておそらく非常な努力でもってこの物語を編み出した作者の姿をも見出しているのかもしれません。疑うことは辛いことではありますが、どうしてもそうしなければならないとしたら、それにもきっと意味があるはずだというメッセージを感じます。このことが、バラバのように徹底的に全てを信じられないわけではありませんが、何を信じたらよいのかまったくわからずに呆然とするしかなかった私という人間を変えたと思います。あらゆることを疑って、そのために孤独に陥るかもしれない人生に価値があるのかないのかを決めるのは自分自身ではないのだということを理解したように思うのです。

そしてまた、さまざまなことを疑いながらも、純粋に素朴になにかを信じられる魂への憧れが私のなかにも確かに存在することにも気が付きました。私もあることを信じています。無力感に押しひしがれて、なかなかそれを認めることはできませんでしたけれども。そしてやはりそれは神の名を持たないものなのですけれども、心には確かに火が燃えて、私はもう絶望しなくともよいのです。
ただし、兎唇女やサハク、赤毛のガリラヤ人のように「そのために生きる」ことの美しさに私は心を打たれましたが、「そのために命まで失わなければならなかった」ことに対しては、まだどうしても悲しみと不条理を感じて仕方がありません。
よく考えてみると、誰からどのように否定されたとしても、自らの信念を命さえ投げ出すほどに貫き通すというのも、また孤独なことのように思えてきます。ただ、全てを疑うのに比べて、こちらの場合には少なくともそのことを信じている本人にとっての心の平安がもたらされうるかもしれません。しかし仮にそうだとしても、素朴に信仰する人々の死には、彼らが信じた救い主の死の瞬間に起こったような奇跡も感動もともないません。誰にも気付かれず、ただ死んでゆくだけです。でも、そのように終わる人生の価値を判断することもまた我々にはできないのかもしれません。心から信じてしまっていることを、そのために生きているそのことを否定してはとても生きられないと考える人がいたとして、それが正しいとかそうでないとかいうことを誰に断定できるでしょうか。


読めば読む程、人間を救うものは必ずしも「神」ではないと思えてきました。と言って、私は決して「神」を信じている人を否定するものでもありません。上に引用したのは、赤毛の男の発言なのですが、彼の言うのとは逆に「自分が神をもっていないという理由で、もっている人を裁く権利は、私にはない」のです。要するに、どのような立場であっても、他人の信念を傷つけるようなことをする権利は誰にもありません。「みんなが同じことを信じている」ということよりも「自分はこのことを信じている」ということのほうが重要ではないでしょうか。とても個人的な問題であるはずなのに、自分の信じることを他人が信じないからといって争ったり虐げたりするのは、本当に悲しく哀れなことです。いつか、誰を否定しなくとも、誰に否定されなくとも何かを信じていられる日が来るでしょうか。そのためにはどうしたらよいのでしょうか。



うまくまとめて、少しは成長したことを証明したかったのですが、まだまだ力が及ばないようです。もっと色々なことを考えたつもりでしたが、うまく書けませんでしたね。






『刑吏』

2005年08月26日 | 読書日記ーラーゲルクヴィスト
ペール・ラーゲルクヴィスト 山口琢磨訳(「ノーベル賞文学全集 11 フォークナー/ラーゲルクヴィスト」 主婦の友社)


《あらすじ》

人間の歴史とともに生き続ける首切人。彼は人間の救い難い悲惨さと蛮性を見つめ、苦しみ悩み続けた果てに、何を望むのかーー。


《この一文》

” わしこそおまえ方のキリストなのじゃ! 額に首切人の烙印をおされてはおるが。おまえ方のためにこの世につかわされたキリストじゃ!
 地には争い、人には悪意じゃ!
 おまえ方は神様を化石させてしまった。もうずっと前から死んでおる。じゃがわしは、おまえ方のキリストのわしは生きておるのじゃ。わしは神の力ある意志、神の息子じゃ。神様がまだ生きており、力があり、自分のやりたいことがわかっておった時分に、わしはおまえ方と一緒に神様が生み出し、造り出したものじゃ。ところで神様はこの世をどう始末するつもりだったのか。今では神様は玉座の上で、癩病やみみたいにボロボロに崩れてしまった。永劫の呪いの風がその灰を天の沙漠に吹き散らしておるのじゃ。しかしわしは、キリストのわしは生きておる。おまえ方が生きるためにじゃ! わしはわしの戦いの道を行く。世界中をかけめぐる。そうして毎日、血の中でおまえ方に救いを施しておるのじゃ。--しかもこのわしだけは、おまえ方は十字架につけることはできんのじゃ!    ”



私はかねてから、人間が真に共感し合うことができるのは、理想とか正義といったポジティブな考えにではなく、暴力や苦しみといったネガティブな考えに対してではないかと疑っているのですが、これはそんな私の気持ちを一層重くさせる悲惨の物語です。
「刑吏殿」は血の色の服を着た首切人で、額にはその烙印を押された呪われた存在として描かれます。人類の歴史が始まった時からずっと生き続け、彼が言うところの「刑吏宿舎」である人間の心の檻に閉じ込められ、絶え間なく無数の人間を処刑しています。彼自身はこの仕事にうんざりしているのですが、人類が存在する限りは自分には休息も自由も与えられないにちがいないと絶望しているのでした。物語は、中世と現代の二つの時代を舞台としていますが、共通するのは人類の無知と恐怖と暴力です。いつまでも愚かでい続ける人間。滅入ります。
しかし、ラーゲルクヴィストの作品にはよく出てくるのですが、刑吏とともに暮す貧しい身なりの女の存在にかすかな希望を見出すことができます。彼女は首切人が仕事を終えるのをいつも外で待つ、彼に対して唯一やさしく振舞う特別な存在です。ラーゲルクヴィストは、こういった素朴な人間に対して何か特別なものを感じているようです。彼等は常にすべてを受け入れ、すべてにやさしく、身を飾るものひとつ持たぬ貧しい身なりですが、呪われ苦悩に満ちた主人公たちは、神によってではなく、いつもこの素朴な人間によって救われることになるのです。ラーゲルクヴィストにとっては、これが神を信仰することができなかった彼のひとつの到達点だったのかもしれません。人間の心の中に存在する二つの魂。もしかしたら人間は自力で平安を得ることができるのではないか、絶叫のような激しい物語の中にそんなささやかな祈りのようなものを感じないではおれません。

『アハスヴェルスの死』

2005年07月22日 | 読書日記ーラーゲルクヴィスト
ラーゲルクヴィスト 谷口幸男訳(主婦の友社 「キリスト教文学の世界13」所収)


《あらすじ》

中世のどこかわからぬ巡礼宿。あらゆる階層の人びとからなる巡礼者の一団とそれにたかる悪人たち。この山中の宿に嵐をさけた一人の見知らぬ男がはいってくる。「遠い遠い昔に汲みつくされた泉のような眼」をしたこの男、キリストに呪われ、永遠に地上をさまよわねばならないユダヤ人アハスヴェルスである。彼は、学生から兵士に、さらに盗賊にまで成り果てたトービアスの打ち明け話に耳を傾け、彼の愛人だった野生の女ディアーナも今は淫売婦としてすさんだ姿をさらす。この三人に共通した点は巡礼の意味を信じていないこと。聖地を目指す彼等は、どういう運命をたどるのか。

《この一文》

” 人は、どうやって生きるかについては真剣に考えます。それに心を奪われ、よくしゃべります。しかし、人は何のために生きるのでしょう。それをわたしにいえますか。
  人は何のために生きるのでしょう。      ”



熱望していたこの作品をようやく読むことができました。あいかわらず胸に深く突き刺さるような鋭さです。ほんの短い物語ではありますが、とても重要な問題が提起されています。人は何のために生きるのか。不条理で無意味としか思えない悲惨さにまみれて生まれたり死んだりする人間は平安を得ることができるのか。神を信仰することが、果して本当に人間に安らぎを与えることなどできるのか。もし与えることができるとしたら、神を信じない者に魂の平安は訪れないのか。
「さまよえるユダヤ人」であるところのアハスヴェルスは、『巫女』に引き続き今回も登場します。そして、『巫女』同様物語のほとんどの部分で、彼は聞き手として描かれます。今回、苦しみを述べる語り手は、トービアスという貧乏学生から兵士に、さらに盗賊にまでなった男です。彼の巡礼に同行し、トービアスの苦しみや彼の代わりに女(トービアスがかつてともに暮した女。本名は明かされないが彼はディアーナと呼んでいた)が死んでいくところに居合わせることで、アハスヴェルスは神の求めるところを知ることとなります。ディアーナは神など全く信じてはいませんでしたが、彼女が決して側を離れようとしなかったトービアスのために生命さえ投げうったというその事実に満足して死んでいったと、アハスヴェルスは思います。誰かの「代わりに」生命さえ投げ出す人々、神を父と仰ぎ人々の「代わりに」磔になったキリスト。結局のところ、人間を美しく輝かせるものとは、そのために生きているという実感、そのためなら全てを犠牲にしてもかまわないほどの何か理解を超えたものなのではないか。それは必ずしも神である必要はないかもしれない。
キリストによって呪われたと思っていたアハスヴェルスは、実のところ神によって呪われており、その神はキリストにとっても同じように犠牲を要求したという点において、アハスヴェルスとキリストはともに犠牲者、兄弟であったと気が付きます。しかし、キリストの方が幸せなように思えたのは、彼が「人々の代わりに自分を犠牲にする」ことを成し遂げたという満足感を感じていたからでした。呪いを受けさまよいつづけたアハスヴェルスは、ついに自分を呪った神の正体を、常に犠牲を要求するその姿を知り、そしてその神よりもさらに向うに確かに存在する何かもっと神々しいものの存在を感じることで神に打ち勝ち、呪いから自らを解き放つことになるのでした。
信じたくても信じられない苦しみや不安から抜け出すためのひとつの考えを得ることができました。私も、一人の神を信じることが出来なくとも、そのさらに向うに確かにある何かを信じ、そのために生きることができるでしょう。私のずっと先を歩いたラーゲルクヴィストのあとをもう少しついていこうと思います。そのためには、とりあえずこの『アハスヴェルスの死』につづく『海上巡礼』、『聖地』を読まねばなりますまい。しかし邦訳されてなさそうです。

ところで、ストルガツキイの『みにくい白鳥』でもダイアナという女性が登場しましたが、ここでもディアーナという女性が出てきます。「狩りの女神」であると同時にたしか「月の女神」でもあったのではなかったでしょうか。どういう象徴を持っているのか、この『アハスヴェルスの死』でも、謎めいた女性でありました。




『巫女』

2005年03月15日 | 読書日記ーラーゲルクヴィスト
ラーゲルクヴィスト作 山下泰文訳(岩波文庫)



《あらすじ》

山のあばら家から
老いた目でデルフ
ォイを見下ろす一
人の巫女。苛酷な
運命に弄ばれ、さ
すらいながら神を
問いただす男にむ
かって巫女が物語
る数奇な身の上、神殿の謎、狂気の群衆、息子の正
体ーー神とはなにか、人間とはなにか。ノーベル文
学賞『バラバ』に次ぐスウェーデン文学の巨匠の、
悪と崇高と愛にささげた傑作小説。



《この一文》

” 道の曲がり角で、これを最後と下僕を、わしの友を、わしの幸せを願ってくれている唯一の男を目にしようと振り返った。するとそこに、神殿の階段に下僕も立って見送るようにこちらを見ておる。そこに箒を持って泣きながら立っておる。胸がきゅうと苦しくなり、わしも涙がこらえ切れなくなった。次の瞬間こちらからは姿が見えなくなって、急にまったくの独りぽっちになった気がした。      ”



何度読み返しても、その度に新しい感動をもたらしてくれる物語があります。
ラーゲルクヴィストの『バラバ』や『巫女』もそれにあたります。
どちらも3、4回は読み直していますが、その度に打ちのめされます。
200頁ほどの短い小説ではありながら、濃密な内容に圧倒されます。
信仰とは何か。
ラーゲルクヴィストはこの『巫女』において、宗教に対して人々がとる様々な態度を恐ろしく的確に表しています。
宗教に関わる人のどれほどが真に「神」を信じているのか。
人は何のために「神」を信じるのか。
「神」とは何か。
多くの疑問が投げかけられます。
主人公はいつもたまらなく孤独で、ひとりきりで疑問の中に投げ出されます。
私の目は涙で曇り、その姿を見失いそうになりながら必死で後を追いかけるのでした。

『バラバ』

2004年12月07日 | 読書日記ーラーゲルクヴィスト
ラーゲルクヴィスト作 尾崎義訳(岩波文庫)

《あらすじ》

ゴルゴタの丘で十字架にかけられたイエスをじっと見守る一人の男があった。
その名はバラバ。死刑の宣告を受けながらイエス処刑の身代わりに釈放された
極悪人。現代スウェーデン文学の巨匠ラーゲルクヴィスト(1891-1974)は、人も
神をも信じない魂の遍歴を通して、キリストによる救い、信仰と迷いの意味を
つきとめようとする。


《この一文》

” --これは不運な人間なんだ、と彼はいった。そしてわれわれにはこの男を裁く権利はない。われわれ自身欠点だらけであるが、それでもなお主がわれわれを憐れみ給うたことは、それはわれわれの手柄ではないのだ。神をもっていないからといってその人間を裁く権利は、われわれにはない。    ”



大変に興味深いテーマです。
私も信仰らしいものは持たずに生きているので、とても考えさせられます。
文章はさっぱりとして簡潔でありながら人を惹き付ける表現力があり、かなり私の好みにかないました。
同じ人の『巫女』もまた迫力ある作品で、邦訳されている残りの作品もはやく読んでみなければなりません。この人の魅力は、何回読んでもその度に新しい発見があるというところでしょうか。いつも違うところに感動させられます。驚くべき表現力です。
スウェーデン文学、『長靴下のピッピ』くらいしか読んだことがありませんでしたが(それすら最近ようやくスウェーデンであることを知る)、もっと知りたいところです。