半透明記録

もやもや日記

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手遅れなんてことはない

2006年06月29日 | もやもや日記

この画像は、すっかり忘れ去られた私の自作FLASHまんが「たんていものがたりー甘味処は甘くない(その3)」の予告編として作ったGIFアニメの1シーンであります。

私はイモにこの台詞を言わせたいがために あんなもの(←興味のある方はこちらをクリックしてくださいまし)を作ったりして、完成当時はひとりでご満悦だったのですが、他にもこのシーンをとても気に入ってくれた人が1人だけいました。その人が先日仕事中に大ピンチの局面に陥った時、ふと脳裏をこの芋井君(イモの名前)がよぎったんだそうです。間に合わなさそうらしい…。やばいらしいです…。イモに撃ち抜かれたらしいです…。

そんな彼の状況はとても気の毒ではありますが、そういう時なのに私の絵を思い出してくれたのは嬉しかったです。実は、アニメのことではじめて本心から誉められたという気がしました。(←え? ちがう? 誉めたんじゃないの?) というのも、彼はそのことを笑って報告してくれた(ように見えた)ので、私のつまらないアニメもちょっとは役に立ったのかなーと思ったのです。なごみ系。いやし系。

私自身も何かと焦ることはありますが、期限が明確に定められていることならともかく、ほかのことは手遅れってことはないだろうと思っては気持ちを落ちつかせることにしています。人間の行う大概の物事には期限が定まっているかもしれませんが、人生には明確な期限などありません。少なくとも自分にははっきりとはわかりません。だから大丈夫。大丈夫なはず。重要なのは知恵だ。機転だ。言い聞かせ。念。念。


ということで、私はあくまでも悪役のキメ台詞として「手遅れなんだよ」と芋井君(実はハードボイルド嗜好があるらしい。ちなみに本編ではお茶目な熱血漢)に言わせてみたというわけなのでした。フィクションですよ。嫌がらせじゃないんですよ。でもなんか不吉な運命を予言したみたいで悪かったので、この次はイモにはもっと楽しげなことを言わせてみたいと思います。「もうダメダァーッ!」とか。時には諦めも肝心。ぷぷ。キメ台詞だけ考えるのはほんとに楽しいなあ。

しかし、私もそろそろがんばるぞ。手遅れになる前にーー。うぉ、動悸が……。


意外な展開

2006年06月28日 | 読書ー雑記
プラトンの『国家』を読み始めました。プラトン。あのプラトンです。正義とは何かを知りたくて……。

さて、読み始めてまず思ったのは、これは普通に読み物として面白い~! ということです。そう言えば、学校でも大昔に習ったような習わなかったような気がしますが、ソクラテスとその周囲の人々の対話が主な内容です。でも、こんなにくだけた対話だとは思ってもみませんでした。

読むとすぐに気が付きますが、このソクラテスという人は、実にしつこい…。誰が何と言っても、しつこく相手の発言のアラを探します。冒頭でソクラテスとポレマルコスが議論をしているのを聞いていたトラシュマコスは、そんなソクラテスの態度にブチ切れです。

トラ:「言うのなら、はっきりと、そして正確に言っていただきたい。そのようなたわけたことを言ってもらっても、このわたしは、いっさい聞く耳をもたぬからな!」

ソク:(ぶるぶるふるえながら)「どうかそんなに怒らないでくれたまえ。(中略)いやいや、これでほんとに一所懸命なのだよ、君。ただ、思うに、ぼくたちには力がたりないのだ。だから、君のように能力のある人たちとしては、ぼくたちを怒るよりも哀れむほうが、ずっとふさわしい態度ではあるまいか」

トラ:「そらそらお出でなすった! これが例の、ソクラテスの空とぼけというやつさ。」


てな感じなので、私はつい大爆笑でした。お、面白過ぎる。ソクラテスってこんなキャラだったのか。ぷぷ。太宰の「新ハムレット」もバカ受けでしたが、これも劣らず大笑いです。あと、最初のほうで私の敬愛するソポクレス(アテナイ三大悲劇作家のひとり。傑作『オイディプス王』を世に送り出した超偉人)も一瞬だけ登場しました。何かとてもシブイ発言をしてました。素敵だわ…。前書きに、プラトンも優れた劇作家だと書かれていたのはどうやら本当らしいと思われます。

いやー、こんなんだったとは知りませんでした。無知というのは、まったく情けないことですねえ。でも、早めに気が付いてよかった~。って、早くもないか……。

しかし、すっごく面白いと言ってもやはり内容は真剣な議論ですし、分量もかなりあるので、読破まではまだまだかかりそうです。とりあえず、今はまだ第一巻の途中で、トラシュマコスはただの怒りん坊かと思ったら、意外にもまともなことを言い出したッ!(←あくまで私の感想) というところまでしか読んでません。ええ、ほんとうにまだ出だしです。まあ、せっかくなので、慌てずひとつずつきちんと理解しながら読みすすめたいものです。

『長い冬休み』

2006年06月27日 | 読書日記ー英米
アーサー・ランサム 神宮輝夫訳(「アーサー・ランサム全集4」岩波書店)

《あらすじ》
お母さんが出かけてしまったので、冬休みにもハリ・ハウへ滞在することとなったウォーカー兄妹はアマゾン海賊のブラケット姉妹とともに、冬の間は北極探検家となって極地を目指すことにした。同じ頃ディクソン農場に滞在していたドロシアとディックのカラム姉弟(=Dきょうだい)を仲間に加え、冬の冒険がはじまる。

《この一文》
”ドロシアは、きょうだけは物語をつくっていなかった。物語の中にいたからだった。”



 今回は、冬の物語です。いつもの連中に、Dきょうだいという町育ちのインドア派ふたりが加わります。と言うより、今回の物語はこのDきょうだいが主に中心となって展開してゆきます。
 ドロシアは物語を作るのが好きな女の子でいつも何か起こるごとに新しい物語の一節と素敵なタイトルを思い付き、ディックは天文学者を自称しあらゆる物事に科学的な興味を感じ、それに熱中しては他のことをすっかり忘れてしまいます。夢とロマンに溢れた精神生活を送るかれらではありますが、ボートを漕いだこともなければ、たき火をおこしたこともないので、極地探検家たちにずいぶんと気後れを感じます。しかし逆にふたりにも探検家たちよりも優れたところがあることにも気が付いたりもします。そうして、探検家たちとは違った資質を持つかれらは、次第に受け入れられてゆくのでした。
 私もかなりのインドア派なので、実際にウォーカー兄妹やブラケット姉妹に遭遇したら、こんな感じなんだろうなあと思いました。スーザンが怖い。「分別がない」と私も言われそうです。確かにそうなんですけど…。もちろん、スーザンは役柄的にそう言わざるを得ない人で、彼女がいなければきっとロジャが大変なことになります。そう言えば、ロジャはさり気なく今回も変なことばっかり言ってて面白かったなあ。

 タイトルにも関わらず冬休み終了まであと数日というところから始まるので、どういうわけなのだろうと思ったらそういうことだったのですか。ナンシーはまたしても災難です。でも、やっぱりナンシーは素敵な女の子ですね。大らかです。Dきょうだいのことをいつもちゃんと評価しているあたりがいいです。妹のペギイも今回はがんばってました。なので、ウォーカー兄妹はあまり目立ちませんでしたね。スーザンは怖かったけど(まだ言う)。あと、Dきょうだいが泊まっていたディクソンさん家の寡黙なディクソンおじさんが、実はかなり燃える男だったのは驚きでした。意外と負けず嫌いなんだわね…。

 というわけで、このお話は家の中に引きこもりがちな性質の人間にこそリアルに楽しめる物語なのではないでしょうか。私もボートを漕いだこともなければたきぎにちゃんと火をつける術もよくわかりません。高校時代に山でバーベキューをしたときに、突然の雨にも慌てずに、ささっとシートをテントのように張り、他の班の人々が雨が止むのをぼんやりと待っている間に、我々の班だけはそのままバーベキューを続行することを可能にしてくれたクラスメートのH君を思い出しました。あの時は(←あえて限定することもないですが)格好よかったなあ。めちゃくちゃアウトドア派だったんだなあ。水を入れるための専用タンクも持参してたし。スーザンは怖かったけど、やっぱり人間はいざというときの判断力と知識ですね。彼もやっぱりランサムを読んでいたのかしら。いつかまた会ったら聞いてみよう。

サンショウウオ

2006年06月26日 | 夢の記録
 夏休みの課題で、私はサンショウウオを一匹捕まえなければならない。しかし、体長二十五センチ足らずの可愛らしいサンショウウオたちは、学校の大きな水槽の中を群をなして泳ぎまわっていた。それで、私はその中に手を突っ込むだけでよかった。

 私は、もともと通っていた学校を一年間休学して、別の学校で生物学を習っている。それも前期が終わって、あと半分となったいまは夏休みである。課題を済ませた私は寮へ帰ろうと、日差しをよけて木々の茂る山道を葉っぱの影の形を見比べながらゆっくりと下ってゆく。ふと前の学校が懐かしくなった。ちょっと顔を出してみようと思うが、その前にいま両手にそっと握っているサンショウウオをなんとかしなければならない。
 手の中のサンショウウオは、私に捕まえられているためなのか、水から出たためなのか苦しそうに身をのけぞらせている。その体からはどんどん水分が抜け出ているらしく、しっぽの方から硬くなりはじめた。私ははやく水に浸けてあげなければと慌てるが、みるうちにサンショウウオは黒い半透明のガラスの置物のように固まってしまった。
 とんでもないことになったと嘆きながら、私はいまの学校の寮の中庭へと帰ってきた。寮は木造の二階建でコの字型をしており、壁は白く塗られ、屋根は錆色をしている。昼間の強い日差しが照りつける中庭には、ちょうど先生や他の生徒たちもいた。先生の足もとにはバケツがひとつ水を張られていて、私のサンショウウオをその中に入れるように言われた。そこで私はサンショウウオを水に浸けてみたが、すっかり固まったその体はもう水には馴染まないようで、水面から弾きかえされてバケツの外へ飛び出した。
 「これはもうだめなようだね」とおっしゃる先生と私とがふたりでその死を悲しんでいると、バケツの外に飛び散った水たまりの中で私のサンショウウオはその小さな手の指を少しばかり動かした。私がいそいでバケツに入れてやると、サンショウウオは元気がなさそうに、しかしゆっくりと水の中を泳ぎはじめた。


 半年振りに訪れた私のもとの学校の食堂には、夏休みだというのに生徒が大勢集まっている。その中には私の友人も何人かいた。食事をとっている彼女たちの向かいの席に座って、互いに近況などを報告し合った。私は先ほどのサンショウウオの事件とそのサンショウウオも明日の実習ではきっと解剖しなければならなくなることなどを話し、彼女たちは隣りのクラスにいるという美少年のことを話してくれた。
 「ほら、ちょうど彼が来たよ」と言うので振り返ると、私の後方に並ぶ白い長方形のテーブルの列の間を、夏の制服を着た男の子がひとりやってきて、彼の友人の席で立ち止まって静かに話をしている。白いシャツの彼はたしかに美しい人だった。真っ黒な大きな瞳、美しい額には艶やかな黒く短い巻き毛がかかっている。何もかも均整のとれた彫像のようで、生きて動いていることが信じられないほどだ。休学していなければ彼と同じクラスになっていたかもしれないと思うと、何だかとても惜しまれた。
 そろそろ帰らなければならない。私のサンショウウオはどうしているだろうか。


 寮に戻るともう夜だった。そのまま庭のサンショウウオのバケツを見に行くには暗いので、まずは食事を済まそうと思い食堂に入る。私の新しいクラスメートが席を取ってくれてしかも私の分の夕食の膳も用意してくれていた。お礼を言って席につくと、茶色い木の盆の上にはいつもの定食とともに黒い大きなおかずが一品加えられていた。それは盆に直に載せられた私のサンショウウオだった。私はてっきり実習のために捕まえたと思っていたサンショウウオが、実は今晩の夕食のためのものだったことを知った。
 私は箸でそっとその背中の部分をすくってみる。黒いゼラチン質の皮の下には白い柔らかい身があって、少しくせがあるけれども甘くておいしかった。向かいに座った友人は「これは身はいいんだけれど、骨が○○○○だよね」と言いながら自分のサンショウウオを食べている。うん、そうだね。たしかに骨は○○○○だね。私も白くて太い骨ごとばりばりと私のサンショウウオを平らげた。
 それだけで、すっかり腹が膨れてしまった。

『ダ・ヴィンチ・コード』

2006年06月24日 | 映像
ロン・ハワード監督
トム・ハンクス/オドレイ・トトゥ/ジャン・レノ/イアン・マッケラン


話題の映画を観てきました。
「詰まらない」「分からない」という散々な前評判を聞いていたのですが、私は結構楽しめました。思っていたよりもずっと地味なつくりが好感触です。普通に謎解き物語でしたが、展開が滅茶苦茶に速いので、確かによく分からなかったところもありましたけれども…。まあ、それは私の常識が足りていなかったせいですね。はは。タイトルの意味が全然分かりませんでした。最悪ですね、何を観てたんだ……。

というわけで、物語は主にキリストにまつわる謎解で、メディアで取り上げられては大々的にネタバレをしてましたが、私はあえて申しません。あまりこの記事を書く意味はなさそうなんですが、備忘録として念のため。すみません。

それにしても、オドレイ・トトゥさんはあいかわらず可愛いですね。私はそれだけでも満足でしたよ。あとジャン・レノも出てましたけど……ジャンさんって役を全然選ばない人ですね。あれだけ存在感があるのに、全然目立たなかったですよ…;(は、すみません、これはネタバレ? でもないか)あとは、名前を知らないのですが、ルドガー・ハウアー並に神秘的な彼は良かったですね。ああいうルックスは何でそんなに魅力的なんでしょう。不思議。


というわけで、結局「分からない」ところはありましたけど、「詰まらなく」はなかったです。でも、補完のために原作も読んでみようかしら。

『カンディード 他五篇』

2006年06月20日 | 読書日記ーフランス
ヴォルテール作 植田祐次訳(岩波文庫)


《あらすじ》
人を疑うことを知らぬ純真な若者カンディード。楽園のような故郷を追放され、苦難と災厄に満ちた社会へ放り出された彼がついに見つけた真理とは……。当時の社会・思想への痛烈な批判を、主人公の苛酷な運命に託した啓蒙思想の巨人ヴォルテール(1694-1778)の代表作。作者の世界観の変遷を跡づける5篇のコントを併収。新訳。

《収録作品》
ミクロメガス(哲学的物語)/この世は成り行き任せ(バブーク自ら記した幻覚)/ザディーグまたは運命(東洋の物語)/メムノン(または人間の知恵)/スカルマンタドの旅物語(彼自身による手稿)/カンディードまたは最善説〈オプティミスム〉


《この一文》
” ロックを信奉する小さな男がすぐそばにいた。最後にその男に言葉をかけると、男はこう言った。
 「わたしは自分がどんなふうに考えているのか分かりませんが、五官のきっかけがなければ決して考えなかったことは分かります。非物質で知的な実体が存在するということは、わたしが信じて疑わないことです。しかし、神には思考を物質に伝える力がないということは、わたしが強く疑っていることです。わたしは永遠の力をあがめます。それを制限するのは、わたしの役目ではありません。わたしはなに一つ断言はいたしません。物体の存在はわれわれが考える以上にたくさんあるかもしれないと信じるだけで満足しています。」 
   ーー「ミクロメガス(哲学的物語)」より ”

”「不可解きわまる人間よ」と、彼は叫んだ。「いったい、どうしたらこれほどの下劣さと偉大さ、徳行と犯罪とを結合させることができるのか」
   ーー「この世は成り行き任せ(バブーク自ら記した幻覚)」より”


『バビロンの王女・アマベッドの手紙』に引き続き、ヴォルテールを読みました。二冊に収められた計八話を読み通して思うことと言えば、ヴォルテールは偉大です。圧倒的な表現力、おそるべき批判精神。この迫力はただ事ではありません。私の精神活動に大きな影響を与えるものとなることは、ほとんど決定的となりました。


上に引用した「ミクロメガス」は、冒頭からかなり面白かったです。ミクロメガス氏はシリウス星人で、友達の土星人とともに地球へ降り立ちます。SFだ。内容は、副題と引用した箇所からもお分かりの通り、哲学的な対話を中心とした物語です。色々な考え方が提示されているのですが、どうやら私もロック派っぽいです。ちょっと勉強してみようかと思ってます。

もうひとつ上に一文を引用した「この世は成り行き任せ」もとても興味深いです。天使により命を受けたバブークは、ペルセポリスが滅ぼすべき土地であるかを調査しますが、そこには良いところがあるかと思えば悪いところもあり、しかも両者は同時に存在し互いに分ちがたく緊密に結びついているのでした。彼はどのように報告したらよいのか悩みます。悪と見える物事のもう一方の面が善に繋がっている、ということをうまく表現したところが、凄い。しかも物語としても面白いのです。

「ザディーグまたは運命」は、「バビロンの王女」に似て比較的楽しめる物語でした。主人公のザディーグはその誰よりも優れた才能のためなのか、次々と災難に見舞われます。しかし、最終的には、「バビロンの王女」のアマザンのように、そのたぐい稀な性質のために、最終的にはしかるべき地位を手に入れます。ハッピーエンドです。もちろん、これまでに読んだヴォルテールの物語は、どれもそれなりにハッピーエンド(もしくは”さほど悪くない終わり”)で、嫌な読後感に苦しむことはありません。この物語はそのうちでも、壮大なハッピーエンドと言えますかね。「バビロンの王女」に似ていたと思うのはそこです。

「アマベッドの手紙」を読んだ時、その生々しさに少々おじけづいてしまった私ですが、「カンディード」はそれを遥かにしのぐ生々しさです。この世のありとあらゆる悪行と不幸が、これでもかと陳列されています。あまりに立て続けにならべられるので、しまいにはそれにも慣れてしまいそうなほどでした。それが恐ろしい。話中の数々の残虐行為は、それがたかだか物語の中の話だと言って済まされないだろう深刻さをもって迫ります。いくらでも実際に起こり得ただろうし、現在も起こっているかもしれず、これからも起こるでしょう。そう思うと、まことに暗胆たる気持ちになりました。

「バビロンの王女」同様、「カンディード」でも、若者は世界中を飛び回り世の中のありとあらゆる悪に翻弄され、一方で人間がほとんど到達できないような土地にのみ存在する善意と幸福の国をも訪れます。”すべては最善の状態にある”と信じるカンディードも、どこまでも彼を滅ぼそうとするようにしか見えない苛酷な運命に見舞われ、最終的にはある結論に達します。私もその結論にはとても納得しました。人間は必要なものを必要なだけ自らの手で育て獲得できればよいわけで、過剰のものを持てば奪われ、それを与えられても足りず、足りなければ奪い、奪われれば奪い返すというようにひたすら新しく不幸を生み出すばかりなのかもしれません。私には、この物語の結末は決して派手ではありませんが、身に沁みました。人間は不足を自らの裁量でもって補うことが出来るはずだ、それには権力や富などはほとんど必要がない。ささやかではありますが、強固な希望が打ち立てられているように感じました。


ヴォルテールの作品に少しばかり触れてみて気が付いたことは、彼の物語はいつも、大地震や疫病などの自然災害と、殺戮や暴行、強奪など人間によってひき起こされるあらゆる犯罪が、誰彼かまわずあらゆる人間の上に等しくふりかかることへの疑問が提示されているようです。また、我こそがそのような災厄や悪行から人々を守り教育すると触れ回っている高い地位にある者が、その立場を利用して考えうる限りの悪徳を生み出しのさばっているということに対する彼の激しい怒りも感じます。
そして、そのような絶望的な世の中を、いつも異邦人が見てまわることになります。この形式が、これらの物語を一層印象深いものにしているのではないでしょうか。主人公が彼とは違う考えと風習を持つ人々を観察する目になることで、読み手もまた物事にはあらゆる見方があり得るということ、世間はときに不可解な迷信のようなものに支配されてしまうことなどに気付かされるようです。

この人は私にとってはただの人ではなくなりました。彼が私よりも先に生きて考えてのこしてくれたことを、感謝せずにはいられません。きっとこの先、何度でも読み返すことになるでしょう。

『ヤマネコ号の冒険』

2006年06月19日 | 読書日記ー英米
アーサー・ランサム 岩田欣三訳(「アーサー・ランサム全集3」岩波書店)


《あらすじ》
ローストフトの港にやってきたウォーカー兄妹を待っていたのは、小さな緑色の美しいスクーナー「ヤマネコ号」だった。ツバメ号の乗組員とアマゾン海賊、フリント船長の面々は、新たに老練な水夫ピーター・ダックを仲間に加え、今度は海を帆走する。

《この一文》
”どんなときでもいつもと変わらないことはあるのだ。どこにいても、船首で漕いでいた者がオールで背中を打ったら「ごめんね。」というだろうし、なにかほかのことを考えていたために、たまたま調子を狂わせたら、「わたしが悪かった。」というだろう。 ”



シリーズの3冊目です。

さて、これから読もうという方がもしかしたらこの記事をご覧になるかもしれないので、なるべく物語の内容については書かないでおこうと思います。この手のお話は、予備知識なしで読むのが一番です。そういう訳で、なるべく本筋が分からないように、私の感想を述べてみたいと思います。

物語は、なんというか、とにかく派手です。思いっきりエンターテイメントです。あまりに派手なので、私はひょっとしてティティの夢オチで終わるんじゃないかと、はらはらしながら読みました。いつもだったら、釣った魚が美味しそうとか、ママレードを塗ったブドウ入りパンが美味しそうとか、私も途中でリンゴとチョコレートが食べたいとか思うのですが、今回はそんなことを考える暇もありませんでした。あ、でもアイスクリームを食べ放題の場面はうらやましかったな。それと、ついつい焼き蟹がもったいねーとも思ってしまいました。私なら食べますよ。多分。

ともかく今回のは大冒険です。しかも誰もが憧れるような。まるで映画のように鮮やかでスリリングな展開には目が釘付けになります。

そしてまた、この胸の踊るような大冒険はとても楽しかったのですが、私の心を打ったものと言えば、ヤマネコ号の乗組員たちは、どういう状況でも節度をわきまえて決して卑怯なことはしないということです。1作目から思っていたことですが、それは彼らの育ちが良い(どう見ても経済的にかなり恵まれた家の子供のようです)というのもあるだろうとは思いますが、つまり「育ちが良い」というのはそういうことなんだろうなーと考えさせられます。生まれつきの性質というのがどれほど影響力を持つものかは分かりませんが、やはり世の中の大人がみんな公平さと分別を持っていれば、子供だってずるいことをする理由なんてないのかもしれません。ウォーカー兄妹やブラケット姉妹の周囲は幸運なことに立派な大人ばかりのようですが、可哀相なことに親のいない子供だとしても周りの大人がきちんとしていれば大丈夫なのではないでしょうか。誰かの親であるかどうかは、社会の一員として生きる以上問題ではありません。少しでも先んじて生きる人間は、後に続く全ての人のために常に襟を正さなければなりますまい。いかに現実が厳しかろうとも。と、本編とはあまり関係がないような気のするところで、ちょっと真剣に反省してしまいました。

とにかく、面白かったです。またいずれは読み直したい1冊です。

美術蔵

2006年06月17日 | 夢の記録
 その日の授業は美術品の見学だった。

 かつての城主が集めたものを収めてあるというその蔵は六角形をしている。入口からすぐに幅の狭い階段状の通廊になっている。螺旋の通廊は進むほどに高くなり、集められたものはその内側の壁に沿って並べられていた。私たちは先生に導かれて順番に美術品を眺めてゆく。

 このガラスの瓶をご覧なさい。表面には白い花の絵が描かれているでしょう。当時は幼かった城主のために作られたものです。先生がそう説明するので、私はじっと瓶を見詰めると、白い花弁が光に透けているのがわかる。それは朝の光だった。気が付くと、私たちはがらんとした静かな四角い小部屋にいた。天井から光が差している。白い花は私の鼻先まで細い茎を延ばしていた。ひんやりとした花びらはあとすこしで顔に触れそうだ。傍らには作り手の老人が座っている。思ったよりもがっしりとしているが、やはりとても静かな人だった。私は驚嘆と敬意を込めてその人を見た。言葉を掛けるなど思いも寄らなかった。

 先生は次に進んでいた。この薔薇に注意してください。五輪の花はどれも蕾ですが、それぞれに色が違っているでしょう。赤にオレンジ、緑に青にピンクです。そして、気がつきましたか、光が当たっているものもあれば影の中にいるものもあります。この点こそがこの作り手の素晴らしいところなのです。その薔薇は、さきほどの白い花と同じ人の手になるものだった。奥の三輪は何色をしているのか私にはよく分からない。しかし、すんなりと広がる棘のない五本の枝は、向うからの光によってはっきりと輪郭を浮かび上がらせていた。私は、手前の緑色の花の蕾を眺める。それを照らすのは、雨が上がった午後、雲の隙間から海を差し貫く光だった。さっきよりもこのほうが一層あの人らしいと思うが、それは私が年老いたあの人の姿しか知らないからなのかもしれない。先生は、もう部屋の奥の階段を上がるところだった。

 通廊の白い壁に掛けられたその作者不明の大きな絵には、夜空が描かれていた。深い、ほとんど黒い空には色とりどりの星が3つか4つ輝いている。そこは荒涼とした山の頂で、足元にはぐらぐらと揺れ動く岩ばかり、体の位置を変えることさえできないほどに尖り切り立った断崖のてっぺんだ。私はめまいがして、もはや絵を見ることができない。うずくまり、大きな岩にしがみつきながらも辛うじて、低いところで橙色に小さく光る星を認めた。

 蔵には色々なものが展示してあった。しかし、どれもどの時代のものなのかはよく分からなかった。先生からは特に説明もない。死んだ映画監督のところでは、彼の闘いに捧げた生涯を切り取った写真やそのために命を失うことになった映像が終わることなく白い壁に映し出されていた。彼の孫娘はトム・クルーズと結婚したのだが、彼女はある日突然いなくなってしまったのです。先生がそう言うので、私もそう言えば新聞でそんな記事を読んだことがあるような気がしてきた。


 ぐるぐると通廊を上がったはずが、しまいにはまた入口へと戻っていた。蔵から出ると、外はまだ昼だ。疲れた。しかし、午後からはまた蔵の中での授業が続く。


 ふたたび中に入ると、今度はいきなり夜空の絵のところへ出た。私たちが驚いていると、この蔵の内部は少しずつ回転しているのですよと先生が笑った。今度は、もう一度同じ美術品を見直してゆくらしい。「どの作品が良かったですか」と先生が尋ねるので、私はふと緑色の薔薇の花を思い浮かべたが、それよりも夜空の絵のほうが重々しくよみがえってくる。その絵の前に立ちながらも私はもう一度見てみようとは思わないで、先生の顔ばかり見ている。
 あれは何か圧倒的なものでした。その前ではひれ伏さずにいられないような何かがあります。何の手掛かりもなくつべつべとしていて、しかも高く高く聳え立つ壁のようでした。私は出来れば壁をよじ上りたいと願いましたが何の手立てもないので、結局は神のごとくあの絵を崇めることしかできないかもしれません。
 興奮する私に笑みを向けながら先生はこうも訊いた。
 「どの星を見ましたか」
 私は、私はどうもよく思い出せません。ずっと向うに二つの青い星が、いえ緑かあるいは紫だったかもしれません、それらが見えたような気もするのですが、私が確かに見たと思ったのはその手前の黄色い星です。おそらくは金星だと思います。

 相変らず絵から顔を背けている私を見て、先生はまたすこし笑った。

『モモ』

2006年06月16日 | 読書日記ーファンタジー
ミヒャエル・エンデ 大島かおり訳(「エンデ全集3」岩波書店)

《あらすじ》
時間どろぼうと ぬすまれた時間を 人間にとりかえしてくれた女の子の ふしぎな物語

《この一文》
” マイスター・ホラが立つと、モモもからだをおこしました。彼は手でそっとモモのもつれた髪をなでました。
 「ごきげんよう、かわいいモモ。わたしの言うことにもよく耳をかたむけてくれて、とってもうれしかったよ。」
 「あなたのことを、みんなに話してあげるわーーいつかまた」と、モモはこたえました。 ”



色々なことを考えさせられる物語なので、他にも引用すべきところはあったはずだとは思いますが、とりあえず、上の一文を取りました。マイスター・ホラとモモの別れの場面です。私は図書館の自習室で危うく泣き出すところでした。人の話を聞くというのは大切なことですね。私ももっと聞き上手だったら、それだけでも誰かの役に立てるだろうになあ、それどころか私ときたら全然話を聞かないもんなあ、と深く反省いたしました。私は、何を読んでも反省しているような気もしますが、よいのです。それが私の読書なのです。


さあ、長年の懸案だった『モモ』をついに読みました。なるほど、評判に違わず面白い。時間どろぼうにそそのかされて、未来のために時間を節約するべく無駄を省きせかせかと働きはじめる大人たち。しかし、やればやるほどに不足感が募り、さらなる忙しさを生み出すことになっていきます。それはまさに現代の社会の有様をみるようで、私は恐れおののきました。こういうところが怖いです。この人の物語はいつも。「そうは言ってもただのお話だからね」と笑い飛ばせないくらいに迫るものがあります。
エンデの物語を読むと、どうしても自分について深く考え直さずにはいられません。『はてしない物語』の時もそれはもう大変でした。壮大で明確なイメージの広がりをもつ物語は、いつもどこまでも美しいのですが、ただそれだけではなく、なにか個人の深いところに関わる問題をも提示するようです。世の中で広く長く読み続けられている理由は、そういうところにもあるのではないでしょうか。
それにしても、非常に魅力的であるのに、感想をうまくまとめられないのもいつものことです。なんでなんだろう。あらかじめ言い訳させていただきますが、今回は全体的に支離滅裂です(え? そうでもないですか? いつものことですか?)。でも、感想のようなものをなんとか書き出す努力はしたつもりです。どうかお許しを。


さて、モモは人の話を聞く才能に優れた女の子として物語に登場します。モモに向かって話すと、モモが何も言わないでも、話し手はひとりでに問題点や解決策を思い付くのだそうです。
そんな不思議なモモの大切な2人の友達、道路掃除人ベッポと観光案内人ジジもなかなか魅力的な人物です。ベッポはとても慎重で善良な老人です。他人から何と言われようとも自分の生き方や仕事に誇りをもっています。ジジは空想好きの青年です。モモのためだけに語られる、ジジとモモの物語はとてもロマンチックで美しいです。
モモと近所の子供たちの暴風雨ごっこの話も面白かったです。研究船〈アルゴ号〉の乗組員の冒険です。この章だけで読んでも十分楽しめます。どこからこんなにも豊かなイメージが沸いて出てくるのでしょうか。次々と展開する不思議で鮮やかで、しかもとても広大な世界観に目がくらみます。やっぱエンデって凄いな。

今さら私が言うまでもなく、『モモ』はとても人気もあり有名でもある物語です。まだ読んだことのない人も、いずれは読むことになるかもしれないと思い、あえて内容についてこれ以上詳しくは書きません。……いえ、私の力ではとても書けませんでした……。とにかく、まだお読みでない方は、ぜひとも読んでみてくださいませ。



モモのような女の子がいたら良いのにといくら願っても、彼女はたしかに物語の登場人物に過ぎません。しかし、私はただこの物語を読んだというだけでも、私自身の問題に直面し、それに対する解決策を考えるようになりました。こういう不思議な作用があるのが、この作品の魅力だと言えましょう。少なくとも、私にとっては大きな魅力です。

『かもめ食堂』

2006年06月15日 | 映像
だいぶ前から観たかった映画『かもめ食堂』をようやく観てきました。面白かった…! ひとりで観に行ってしまったので、だれとも感動を分かち合えず残念でしたが、いかにも私の好きそうな映画でしかも予想通り面白かったので、終了後はひとり小躍りして帰りました。だって、舞台がフィンランドだったのですもの! はあ、いいなあ、行きたいなあ。森と湖とシベリウスの国。それからノキアとマリメッコとムーミンの国。なにげに日本から一番近いヨーロッパなんだそうですよ。うずうず。


映画の内容はと言いますと、特になにも起こらない物語です。ほとんど何も起こりません。いえ、一応それなりに事件らしきものは、あるにはあるのですが……よく2時間ももたせたなあという感じです。かなりのどかな映画でしたが、しかし実に面白かった……! 何がって、素敵な衣装とか、キャストとか(小林聡美さんに、片桐はいりさん、そして、もたいまさこさんというだけで、すでにいかにも面白そうではないですか)、あの何も起こらなさ加減とか、町並みとか、空の青さとか、森とか、見所が満載でした。やっぱ行ってみたいなあ、北欧。

パンフレットも凝ったつくりで可愛らしいです。つい買っちまいました。梅田の映画館では随分長いこと上映してるわね、と思っていたのですが、驚くなかれ、今日は立ち見客も沢山いました。レディース・デーというのもあるけれど、3月からやってるというのに……。まあ、映画館が狭かったせいもありますけど、それにしてもすごい人気です。

こういう、なんでもないんだけど面白い映画あるいはドラマというのは貴重ですね。そのうちまた観たい。