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『ロシア・ソビエトSF傑作集(下)』

2006年09月30日 | 読書日記ーロシア/ソヴィエト
ベリャーエフ他 深見 弾訳(創元SF文庫)


《内容》
長い伝統を誇るソ連SFを革命前ロシア時代と、その後、第二次世界大戦までに区分し、年代順に編んだアンソロジー。ソビエト編。ソ連のヴェルヌと呼ばれ、ツィオルコフスキーと共に高く評価されている、ベリャーエフの奇譚「髑髏蛾」、スターリン時代に文壇から葬りさられたブルガーコフの、いまだに本国では日の目を見ない作品「運命の卵」、アレクセイ・トルストイによる「五人同盟」など全五編を収録。巻末の訳者による詳細な解説「初期のソビエトSF」は上巻巻末解説と共にファン必読。ソ連SF入門の書

《収録作品》
五人同盟(アレクセイ・トルストイ)/運命の卵(ミハイル・ブルガーコフ)/髑髏蛾(アレクサンドル・ベリャーエフ)/危険な発明(エ・ゼリコーヴィチ)/不死身人間(ゲ・グレブネフ)/初期のソビエトSF-革命後から第二次世界大戦まで-(深見弾)

《この一文》
”「攻撃の構想はこうだ。未曾有の堪えがたい恐怖で世界をたたきのめすのだ……」
 テーブルに坐っていた者のうち四人はふたたび葉巻を口から離したが、今度は笑わなかった。
  --「五人同盟」より ”

”「きみは、ぼくの気持もわかるが、あとでぼくがきみやエグナスのことを理解するようになると言ったね……どうやらぼくはきみたちを理解したらしい……全世界の自由と文化の運命が決せられる時代にぼくたちは生きているということがわかったよ。」
  --「不死身人間」より ”



上下巻なのに、どうして下巻から読むのか--。いいんですよ、アンソロジーですから。それに私はどうしてもアレクセイ・トルストイの「五人同盟」が読みたかったのです!

というわけで、上下巻揃いで購入した『ロシア・ソビエトSF傑作集』ですが、とりあえず下巻の品揃えはほぼ完璧でした。なにこれ、すげー面白いんですけど。

お目当ての「五人同盟」は期待を裏切らない面白さです。前回『怪奇小説傑作集(ドイツ・ロシア編)』に収められていた「カリオストロ」があまりに面白かったので、この「五人同盟」も読みたくなったのですが、こちらは魔術を扱っていてロマンス的要素の強かった「カリオストロ」とはまた違った味わいで、いかにもSFでしかも社会派、スケールも予想以上にでかくてびっくりしました。わー、面白いー。視覚的なインパクトの強さは、前作と同様とても強烈です。うん、うん、いいですよ。大昔に『技師ガーリン』という作品も邦訳されているらしいです。読みたいよう。なんとかならないでしょうか。

ブルガーコフはまたしても「運命の卵」が収録されていたのは無念。いえ、もちろんとても面白いんですけど、これはもう別の本でも持ってるから、他のが読みたいよう。『犬の心臓』とか。古書ではほとんど出回ってないようで、このあいだ見かけたのには、単行本なのに驚きの1万円超。……さすがに無理です。とりあえず図書館で借りるか。

ベリャーエフの「髑髏蛾」は虫だらけで、虫が苦手な私には地獄のような物語(特に前半)でしたが、なんだかとても面白かった。アマゾンに迷いこんでしまった学者の末路とは…。ロビンソン・クルーソーのようですが(実は私はまだ読んだことがないけど)、結末はわりとダークな感じ。この人は割と有名で、私でも知ってるくらいですが、まだほとんど読んだことがなかったので、他のも読んでみようっと。

エ・ゼリコーヴィチという人は経歴不詳らしい。この「危険な発明」は、お話の中でさらにお話が語られるという構造になっています。ある男の子が従兄にお話をねだります。それを友達の少年たちも一緒になって聞く。今回は「ほこり」をテーマにした物語を作ってくれと少年たちはせがむのでした--。なんて無茶な…。でも従兄は「はらはらして、面白くて、真面目で、空想的で、科学的で、おかしくって、しかも本当の話」を作ってくるのでした。この物語がかなり面白い。私はとっても気に入りました。「ほこり」って重要だったんですねー、しみじみ。

最後のゲ・グレブネフ「不死身人間」は、タイトルはちょっと笑ってしまいますが、内容はかなり真剣。全体的なノリとしては、こんにちではよく見かけるような超能力ものSF的な描写(謎の器械《エマスフェラ》の作用によって、主人公に近づこうとする人間がふっとばされたり、弾丸が跳ね返ったりとか。まんがっぽい)が満載ですが、書かれたのが1938年であることを考えると、かなり先取りしてますねー。すごい。ごく短い作品ではありますが、激動の時代を生きる人間の苦悩や、科学技術が進んでいくことを渇望しながらも、それが同時に悪用されうる不安も引き起こしていたりする状況をうまく描いています。面白かった。この作者も経歴がよくわからないらしいのが残念。


さあて、上巻のほうもよだれの出そうな作品ばかりです。うふふ。読むぞー!

『Q&A 天気なんでだろう劇場』

2006年09月29日 | 読書日記ー実用
岩田総司 文・絵 (岩崎書店)


《内容》
天気についてのいろいろな疑問に「なんでだろう劇場」のみんなが答えます。【なんで雨がふるの?】【なんで夕日は赤いの?】【なんで雲は落ちないの?】などなど。

《登場人物》
はれお君。にじ子ちゃん。犬のくもタロウ。猫のあめスケ。同じく猫であめスケの親戚ゆきスケ。気象予報士(岩田さん)。



東京に住んでいたころ、首都圏の18時のニュースのお天気のコーナーを見るために、職場から猛ダッシュで帰っていたころがありました。お目当ては、「岩田さんのお天気なんでだろう」のコーナーです。気象予報士でありながら、イラストもプロ級にうまい、しかも眼鏡の穏やかな表情から淡々とした語り口で放たれるギャグは、うっかり何度も聞き流してしまうほどの切れ味で、私は大ファンでした。それに、猫の「あめスケ」の暴れっぷりが可愛くて可愛くて。にじ子ちゃんに思いを寄せるあめスケは、はれお君やくもタロウの給食の牛乳を強奪し、にじ子ちゃんに貢ごうとするも、当のにじ子ちゃんは迷惑顔…。時には、夜中まで飲んだくれて、お土産の包みをぶらさげて、電柱に激突していたりもする…。あめスケ、何者……? 冬にしか登場しない「ゆきスケ」もすげー可愛かったのです。岩田さん自身とおぼしき気象予報士の男性が、時々すごく格好いい役で登場するのも最高におかしかったものです。

その岩田さんのお天気コーナーが無くなったと聞いた時は、悲しかったですねー。しかも、私はその後、関西のほうへ移ってきたので、岩田さんはいまごろどうなさってるのかしら…お天気コーナーはどこか地方で復活でもしてないかしら…と思って、調べてみたら、本を出版されてました。迷わず購入。わー、懐かしいー、あめスケだ!
内容も、とてもためになります。小学生になった甥のためにもう一冊買っておくべきかなーと思案中です。

「Q:なんで雲は落ちないの?」に対して「A:実はゆっくり落ちています」というのに衝撃! へ~、そうだったのか。ためになるなあ。そして、北陸出身の私は、冬に雷が鳴るのは当たり前だと思ってましたが、世界的にみるとかなり珍しい現象なんだそうです。へ~、そう聞くと、なんだかありがたいような気になってきたかも…でもないか。北陸の冬…(昼でも)暗い…寒い…吹雪…雪かき…ううっ。

とりあえず、普段はあまり気が付かないような疑問にもたくさん答えられているので、勉強になりました。どなたにも、おすすめの一冊です。

終わっちまったー!

2006年09月28日 | もやもや日記
NHK総合 火曜日夜11時から放送していた「サラリーマン NEO」が終わってしまいました。昨日、最終回を録画していたのを観ました。おお、残念。面白かったのになー。再開してほしいなあ。

さて、今日は木曜日だというのになんだか月曜日な気分。それはぜんぜん関係ないのですが、とにかく燃え尽きている場合じゃないのです。今年もコンテストの締切がせまってるんです。とりあえず出せるものを出すぜ。気張っていくぜ、おー!

『アメリ』

2006年09月26日 | 映像
監督:ジャン=ピエール・ジュネ
出演:オドレイ・トトゥ/マチュー・カソヴィッツ/ドミニク・ピノン/セルジュ・メルラン



これは私の非常に好きな映画のひとつで、何度観ても面白いだろうと思いつつ、実は劇場で1度観たっきりでした。だいぶ前にBSで放送していたのを録画してあったので、5年ぶりくらいでもう一度観てみることにしました。それで、どうだったかというと、やっぱすっげー面白かったです。なんだこれは。

なんといっても、主人公のアメリが可愛い。変なんだけど。幼い頃のエピソードがたまりません。指のさきにラズベリーをさして食べるのが、あまりに可愛かったので、描いてみました。


全編を通して、彼女のイメージカラーは赤と緑と黒のようです。赤い壁紙、緑の壁紙、黒い髪と眼、赤いスカート、緑のカーディガン、黒ずくめのパーティー・グッズ(扮装用)。寝室の壁に掛かっている絵も可愛い。ミヒャエル・ゾーヴァの絵らしい。そう言われると確かに。ベッドの脇に置かれた豚のランプもその人のものらしい。なるほど。赤い部屋のなかに、鮮やかな青いランプシェードというのも美しかったです。はあ。

物語は、空想の世界に逃避しがちで、現実に向き合えない女の子が、周囲の人たちをちょっとだけ幸せにするべく(復讐も含む)こっそりと彼らの生活に介入しつつ、最終的には自分の人生にも立ち向かうというものです。すがすがしいです。小さなエピソードがいくつもいくつも積み重ねられています。私が好きなのは、やっぱお父さんの庭の小人が世界旅行に行く話ですかね。お父さんが励まされるだけでなく、その仕掛けの協力者も楽しんでいたというところが素晴らしい。美しい話です。

実は私はこれまでに2人のひとから「アメリに似てる」と言われたことがあります。つい先日もクレーム・ブリュレの表面の焦げているのを見て『アメリ』を思い出した Aちゃんがぽろっと口にしたのを、私は聞き逃しませんでした。それで、映画を観なおす前までは、「やっぱ見た目が、ってことかな。(根拠:髪も眼も黒いし)」と思ってました(我ながら、とてもポジティブです。あッ、刺さないでください)が、今、観なおしてみると、たぶんあのお二方の言いたかったのは「現実逃避型のところが…」ってことだったんだろうなあ。するどいなあ。どうしよう。当ってますよ。私もそろそろ現実に立ち向かいたいですね。

というわけで、この映画は、観るとやる気の出てくる素敵な映画なのでした。

この記事の下の3つの記事は…

2006年09月25日 | もやもや日記
友人のおめでたい結婚式に招待されたことに関して、いろいろと書いてみました。あの日、ご一緒させていただいた方々にも、その他の方々にも、私がいかに感動したかということが伝わるとよいと思いまして。そのまえに、私自身ための記録として、ぜひとも残しておきたいと思いまして。ご当人のお許しも出たので、長々と書き連ねてみました。

全部で「9月23日はテニスの日」「鳥のうた」「電車に乗ると」の3つの記事になりました。よろしければ、どうぞごらんください。

9月23日はテニスの日

2006年09月25日 | もやもや日記
9月23日に、私の大切な友人である Akikoさんが結婚しました。相手はこれまた私の大切な友人である I氏。それぞれに幸せになってほしかった友人が同時に幸せになったので、私はとても嬉しい。ほんとうに、おめでとう。

挙式は新横浜のあたりで夕方から開かれました。とても素敵な会場でした。風が強く、大阪に比べるとだいぶ寒かったですが、暗くなると、星がいくつか輝いていました。ふたりとも、見たことがないような美しい白い姿で私の目の前にあらわれたので、驚きを隠せませんでした。ふたりとも非常に幸せそうであります。

その後、披露宴となりました。会場は、ふたりらしく、こじんまりとしていますがとても素敵なところです。宴席の手前に小さな庭のようなスペースがあり、そこに小さなテニス・コートが設置されていました。ふたりは私が大学時代に所属していたテニス・サークル(この記事をごらんの方のなかには、全面的にインドア派の私が何ゆえテニス・サークルに所属していたのか不思議がる方もいらっしゃるでしょうが、理由は私にもわかりません。しかしとても愉快な楽しいサークルでした)の仲間なのです。式の当日の昼にまでテニスをしてくるという救い難いテニス馬鹿の彼を尊重した演出があちらこちらになされている、実に彼女らしい披露宴でした。まずはこの庭で、みんなが乾杯したあとで、宴席のほうへ移動となりました。新郎と新婦が入口で、ひとりひとりを出迎えてくれます。そのあたりも、実にかれららしい。

披露宴の冒頭で、私は新郎、新婦共通の友人を代表してスピーチを読みました。私は自分があれほどアガリ症だとは、知りませんでした。原稿を読み上げるだけなのに、ほとんど何を言っているのかわかりませんでした。というか、原稿そのものが何を書いてあるのか、新郎、新婦以外の方々にはさっぱりわからない内容でした。しかも、自作の物語を読みあげました。なんてことだ。こんなことになって、ごめんね。原稿をおこしている時点ですでにアガッてましたのよ。それに、いまにも泣いてしまいそうだったので、その原稿の内容も、だいぶハショッて読み上げましたのよ。ごめんね。言い訳終了。(スピーチ内容の詳細は、下の記事「鳥のうた」参照のこと) そんな惨澹たるスピーチを、それでも、ふたりはちゃんと聞いてくれました。Akikoさんは前かがみになって揺れていたので、爆笑していたのかと思ってましたが、どうやら泣いていたそうです。私ははげしく緊張していて、よく見えてなかった。ちらっと見た限りでは、I氏のほうは、いつものように、笑って聞いてくれていました。それだから、私はきみたちが好きだ。私を許してくれて、優しくしてくれて、ありがとう。いつもそれに甘えるばかりで申し訳ない。ということも、本当は言いたかったのですけれど。

大緊張のスピーチを終えて、これでようやくご馳走にありつけるというものです。おいしい。おいしい。でも、緊張しすぎたせいか、いつもの調子が出ず、最後のお料理を食べ損ねてしまいました。無念。デザートは、ふたたび庭のほうに選り取りみどりに並べられていて、まるで夢のようでした。おいしかったー。

お祝いに集まった方々は、つぎつぎとふたりにお祝いとして色々な言葉や、歌や、踊りをお贈りになります。ふたりも、一生懸命にそれを受け取って、それにこたえるべく頑張ってもてなしてくれました。ほほえましい、優しい、美しい、幸せな宴会でした。



二次会も楽しかった。あんなに笑ったのは、ひさしぶりです。終電を過ぎるまで騒いで、疲労の極限にあった I氏とAkikoさんに横浜まで車で送らせちゃって、ごめんね。Aちゃんも、私に付き合って、朝まで漫画喫茶なんかで過ごさせちゃって、疲れてたのにごめんね。私ってやつは……。いつもありがとう。
それから、披露宴のとき、余興の準備で席を外してらした A木さんや、お仕事で披露宴にはいらっしゃれなかった K木さんが、聞けなかった私のスピーチを聞きたがってくださったり、その訳のわからないスピーチを、わからないなりにあの場にいらしてた方々が一生懸命に聞いてくださったことは、とても嬉しいことでした。ありがとうございました。
私は、I氏と Akikoさんが幸せなところを見にいった先で、私自身もそうとうに恵まれていて幸せであるということを知って帰ってきました。
翌朝の空が、私がスピーチで読んだように青く高く澄んでいたので、私は青春のかけがえのなさや、その美しさが今も続いている幸運や、それがこれからも続いてゆくだろう希望に、涙が出ました。


ところで、Akikoさんと I氏は、披露宴に出席した人たちのひとりひとりにメッセージ・カードをくださいました。スピーチを読んだ私には、こんなコメントが。

「今日は物語を朗読してくれて、ありがとう。今まで、私の知らない世界観をたくさん垣間見させてもらってきたのに、ほとんど返せてないね。これから新しい生活の中で見つけられたら、報告します」

いいえ。それは違います。あなたや、あなたがたが、私に関わってくださってはじめて、私のまき散らす感情の断片を丁寧に拾ってくださってはじめて、私の言葉が意味を持つのです。もらっているのは、いつも私のほうなのです。これからも、どうぞよろしく。

鳥のうた

2006年09月25日 | もやもや日記
(友人の結婚式のためのスピーチを、お許しを得たうえで掲載しておきます。言うべきことは他に沢山あったはずだと思うのですが、こんなことに…。ほんとうに申し訳ない。でも、少なくともきみたちふたりに喜んでもらいたくて書いたのは本当です。言い足りなかったことは、またいつか別の機会にでも言わせてください)


********************

 本日はまことにおめでとうございます。
 新郎および新婦共通の友人を代表して、御祝いの言葉を述べさせていただきます。しかしながら、わたしは長く話すことが苦手ですので、きょうは、みじかい物語を朗読させていただこうとおもいます。わたしと、おふたりとの三人が共有する、ある思い出をもとに書きました。私は喜んで読みますので、どうか楽しんで聞いてください。タイトルは「鳥のうた」といいます。それでは。



         《 鳥のうた 》



 季節は春です。森にすむ鳥たちは、春の喜びに浮かれて、仲良く飛びまわっています。胸を柔らかく美しい赤い羽毛でおおわれた小さなコマドリも、鳩やツバメ、尾長やカモメ、スズメや雷鳥と楽しげにさえずりを交わしました。

 夏のある朝、小さなコマドリは、気難し屋の雷鳥と強気なカモメとともに、森の向うの海岸におりたちました。三羽の鳥たちは、前の晩から降っていた雨が上がったばかりで、濡れて冷たい砂浜をはしゃぎまわります。そうするうちに、太陽が昇り、海の上に美しい大きな虹がかかりました。気難し屋の雷鳥は、虹に向かって飛び出そうとしました。「虹の足には、財宝が眠っている」という伝説を信じていたのです。
 それを見たカモメは、光の秘密を教え、虹というのは追いつけるものではないことを雷鳥に言いきかせますが、気難し屋の雷鳥は納得しませんでした。それどころか、カモメの言うことを聞いて、なにかをひらめいたようすの雷鳥は、こう言います、「自分はこれからあの虹に向かって飛ぶよ。きみたちはここにいて、それを見ていてくれる? そしたら、少なくともきみたちの眼には、わたしが虹の根元に辿り着いたように見えるんじゃないだろうか」
 カモメは、あきれましたが、結局は黙って見ていることにしました。コマドリは、雷鳥がそんなことをやりたがるのには馴れていたので、やはり黙って見ていました。ふたりとも優しい鳥だったのです。

 雷鳥はふたりの友人を浜辺に残し、どんどん沖のほうへ飛んでいきました。飛んでも飛んでも、やはり虹にはすこしも近づきませんでしたが、そろそろいいだろうかというところで、雷鳥が振り返ると、遠い砂浜でふたりが手を振っているのが見えます。どうやら思ったとおりになったようです。それで、気難し屋の雷鳥は満足そうにゴロゴロと鳴きながら、ふたりのもとへ帰りました。コマドリとカモメは優しかったので、さすがにすこし恥ずかしそうにしている雷鳥をからかいもせず、「ちゃんと虹のなかにいるように見えた」と言ってあげたのです。三羽の鳥は一緒になって笑いました。雷鳥はその朝のことをいつまでも忘れませんでした。


 季節はそれからいくつも過ぎ去っていきました。森の鳥たちは、いつしかそれぞれが目指す方向へと飛び立ちました。小さなコマドリも遠くの空を飛んでいます。木にぶつかって羽根を折ったり、蜂にさされることもありました。時には夜の闇のなかを、あるいはくちばしの先も見えぬ程に濃い霧のなかを、方向も失って、孤独と不安におののきながら飛ぶこともありました。それでもコマドリはとにかく飛びつづけたのです。

 そうして、また春になり、長いあいだ飛びつづけたコマドリは、いつしか故郷の森へと帰っていました。森には昔の仲間の鳥たちの姿もちらほらと見えます。みんなそれぞれに成長しているようでした。コマドリは懐かしい森を訪ねて歩きます。森の中心からすこし離れたところに、コマドリがそれまで何度か行ったことのある小さな泉があります。そこに、カモメが休んでいるのが見えました。泉のほとりで、ふたりは再会を喜び合いました。過ぎてしまったいつかの季節がまたすぐによみがえったように思えました。
 しかし、かれらは変わらないように見えて、やはり変わっていました。ふたりとも遠いところを旅して帰ってきたところなのです。かれらはそれぞれが見たり聞いたりしたことや、自分がどれほど成長したかということを確認しあいました。カモメは前よりも力強く旋回してみせました。コマドリは前よりもはやく羽搏けるようになっていました。ふたりはそれを喜んで、ぐるぐると森の木々の上を飛び回ったのでした。

 二羽の鳥がそうやってまた森で楽しく暮らし始めたある日、コマドリは泉の底に、なにかきらきらと光るものを見つけました。それは、見たこともない美しいものです。コマドリはそれをそっと指差して、カモメにしめしました。それを見てカモメも「美しい」と言いました。カモメはコマドリのために、その光るものを泉の底から掬いあげました。ふたりがそれを覗き込んで、きらめきの奥に見たのはなんだったのでしょうか。
 かれらは、そこに同じものを見ました。そして、コマドリはカモメとであれば、カモメはコマドリとであれば、きっとそれを見つけられるだろうことを知ったのです。



 季節が秋に変わるころ、夕暮れの森には鳥たちが大勢集まっていました。そして森でもっとも高い木の上には、二羽の鳥がとまっています。それはコマドリとカモメでした。かれらはこれから飛び立つところなのです。そのまえに、ふたりのために祝宴がひらかれようとしているのです。
 その夜は、空には星が明るくかがやいていました。鳥たちがうたう祝福の歌は森中に響き渡り、明け方まで途絶えることがありませんでした。

 夜が明け、白みはじめた空を、二羽の鳥が仲良く飛んでいきます。ふたつの影の小さいほうの胸のあたりに、なにかきらきらと光っているのが、ふたりを見送るすべての鳥たちに見えました。みんなが祈ります。コマドリとカモメの行く先がどこまでも美しく豊かでありますように。

 見送りの列のなかから飛び上がって、雷鳥は大きく手を振りました。あの朝の海岸でのように。今度は雷鳥がふたりに手を振ったのです。虹はかかっていませんが、飛び立ったふたりに虹は必要ありません。ふたりは、雷鳥にこたえて、くるりと一回だけまわりました。
 そのときちょうど昇ってきた朝日が、かれらの羽根を美しく照らしだしました。コマドリとカモメは高く、楽しげに飛んでいきます。

 森の鳥たちは大合唱で、晴れ渡った空へと、ふたりを送りだしたのです。


 (おわり)




 さて、あの朝、気難し屋のわたしが追いかけたのは実際には虹ではなく海から昇る太陽の光でありましたが、わたしがふりかえって見たのは、きみたちふたり。そのとき、友情は朝日よりも美しかったものです。他ならぬそのきみたちふたりが、あのころは予想もしなかったけれど、これからは一緒に歩いてゆくというので、わたしは、人と人とが出会うことの不思議とその美しさというものを信ずることができるようです。

 どうか望むように飛んでいってください。きみたちがどこへ行くのか、わたしは楽しみに見ています。手を振ってほしければ、いつでも振りましょう。どうか、きみたちの行くさきが豊かで美しいものでありますように、変わらぬ友情をこめて、きょうはほんとうにおめでとう。

****************



《付録》 : 「運命の輪」

およそ1年前にも、私は↑こんなポエムのようなものを、ふたりに贈りました。内容は重なっていますけど、懐かしいので読み返してみました。私って……恥を知らないのだろうか。よければ笑ってください。


電車に乗ると

2006年09月25日 | もやもや日記
私は、電車に乗ると、感情的になることが多いです。
昨日も、新幹線に乗って、新横浜から大阪へ帰りましたが、ずっと我慢していたのに、走り出した途端に涙が出てきて仕方がありませんでした。土曜は友達の結婚式だったのです。青い空を見ていたら、いろいろと思い出したりして、泣けてきました。

まだ大学生だったころには、東京から実家のある富山へ帰る特急に乗っていると、列車は新潟の海辺のあたりにさしかかり、その親不知のあたりは本当にすぐ海が間近に迫っていて、そのときは夕暮れで、海には水があまりにも満ち満ちていて、私はそれを見て泣きました。

高校生だったころには、通学のために乗っていた電車から、常願寺川などを通過するときに、川面に明け方の青い空や、夕方の赤い空などが映っているのを見て泣いたものです。


 人間の肉体が、その身体的能力をはるかに超えたスピードでもって運搬されると、それによって、なにかしら肉体的、精神的影響を受けるのではないだろうか。ということは、このあいだも友人と話したことですが、私の場合は、明らかに感情的に、涙もろくなります。窓の外の景色が、猛烈な勢いでやってきて、そして猛烈な勢いで過ぎていくせいもあるかもしれません。じっとしていると気が付かないけれど、いつだって時間は飛ぶように過ぎているということを思い出してしまうようです。
 昨日は、過ぎ去った私の青春時代を思っては、その美しさにいまさら気が付いて、あのころの私がどれほど恵まれていたかということが、そしてあのころの人々が今でも同じように私に接してくれることの有り難さが、つくづく身に沁みました。私が時々はあの人たちを思い出すように、あの人たちのほうでも時々は私を思い出し、会えばすぐに私を受け入れてくれるのです。放っておくとどんどん独りになろうとする私は知ろうともしなかったけれど、私はいつでも、今でも、とても恵まれていたのでした。人と関わり合って、誰かを好きになってその人からも好きになってもらい、その関係が持続する以上、時が過ぎ去っていくことは、少しの悲しみもなくただ美しくなっていくことなのかもしれません。私にはあの人たちとの美しい思い出があって、私はいつまでもあの人たちのことが好きで、久しぶりに会ったらまた楽しくて、それも美しい思い出になって…。その繰り返し。こんなに美しい人生があり得るとは、信じられない。が、今の私にはそれが現実なのです。私の人生を美しくしてくれる、あの優しい人たちに、私は何を返すことができるでしょう。面白くもなんともないのに、どうして、私を好きでいてくれるのでしょう。わからないことばかりですが、とりあえず今の私にできることと言えば、あの人たちの優しさや美しさを言葉にして伝えることくらいでしょうか。ひょっとしたら、あの人たちには当たり前過ぎて、自分たちの美しさに気が付いていないかもしれませんから。今まで出会った人たちにも、これから出会う人たちにも、私はそれを伝えられたらいいと思います。



『怪奇小説傑作集5 ドイツ・ロシア編』(ロシア編)

2006年09月20日 | 読書日記ーロシア/ソヴィエト
原卓也訳 (東京創元社)

《収録作品》
深夜の幻影(ミハイル・アルツィバーシェフ)/犠牲(アレクセイ・レミゾフ)/妖女ヴィイ (ニコライ・ゴーゴリ)/黒衣の僧(アントン・チェーホフ)/カリオストロ(アレクセイ・トルストイ)


《この一文》
” 「おまえは知りたいというのか?」何者かの声がたずねた。その声は四方八方から響いてくるように思われた。「だが、深い知識は悲しみを増すものだぞ。悲しみは賢人の受けねばならぬ定めなのだ!」
 「わかっている……知りたいんだ!」歓喜にふるえる人間の声が必死に答えた。
   --「深夜の幻影」より ”

”が、不意に彼女は赤くなった。「あなたをお見かけしたとたんに、心があたくしに囁きましたのよ、幸せになれって……」 
   --「カリオストロ」より ”



さて、ロシア編の「ヴィイ」と「黒衣の僧」はそれを目当てにこの本を買ったくらいですから、文句なく面白いです。しかし、その他の短篇も、まったくハズレなしでした。面白い!

収められた5編は、いずれも、主人公は正気と狂気のはざまをかけぬけています。私はそういうのが好きなので、どうにもたまりません。なぜこんなにも面白いのでしょうか。
アルツィバーシェフは青空文庫でもなにか読んだことがあると記憶していますが、内容はすっかり忘れてしまったので、あらためて読み直そうっと。
アレクセイ・トルストイの「カリオストロ」は滅茶苦茶に楽しめました(ちなみにロシアにはトルストイという作家が幾人もいるようで、このアレクセイさんは、A.N.トルストイであるらしい。他にA.K.トルストイ(河出文庫『ロシア怪談集』所収の「吸血鬼の家族」はこの人かしら?)や、レフ・トルストイ(一般的にトルストイというのはこの人)もいる。複雑です、ややこしいです)。それにしても、この「カリオストロ」はなんという面白さ。ロマンチックだし、それでいて気色悪いし。ああ、この人の作品はほかのも読んでみたいと思って、さっそく『ロシア・ソヴィエトSF傑作集』も注文してしまいました。「五人同盟」というのが読めるらしい。わくわく。


そんな感じで、期待を上回る品揃えのこの『怪奇小説傑作集5』は、買って良かった。さあ、4巻の「フランス編」も読むぞー!

『時をかける少女』

2006年09月19日 | 読書日記ー日本
筒井康隆 (「筒井康隆全集 第4巻」所収 新潮社)


《あらすじ》
理科実験室で試験管の割れる音がした。誰もいない実験室で、芳山和子はふしぎな香りをかぐ。それから彼女の身には奇妙なことが起こりはじめた。


《この一文》
” それは、すばらしいかおりだった。和子はそのにおいがなんなのか、ぼんやりと記憶しているように思った。--なんだったかしら? このにおいをわたしは知っている。--甘く、なつかしいかおり……。いつか、どこかで、わたしはこのにおいを……。 ”



このあいだ観た劇場アニメ版の原作です。お、面白い。ずいぶん昔のお話ですが、なんというか、全然だいじょうぶです。古いけど、古くありません。「スタンド使い」になれると思っていた私は、この作品ももっと若い頃に読んでいたら、ぜったいに「タイム・リープ」にも挑戦しただろうなあ。

それはさておき、最初は意外とあっさり、シンプルに面白く作ってあるなー、という印象でしたが、何度か読み返してみると、もしかしたらすごく複雑に仕組まれているのではないだろうかという気もしてきました。引用したのは、その疑惑をひきおこす、物語の最初の部分からの一文です。うーん、面白いな。

さて、この物語の主人公は中学3年生の芳山和子という女の子。理科実験室でふしぎなにおいを嗅いだあと、どうも体の具合が悪い。ある日、ふとしたきっかけで、彼女は突然に過去へと時間を遡ってしまいます。しかし、彼女はそんなおかしなことが自分の身に起こることに耐えられません。元凶をつきとめるべく、彼女は過去へとさかのぼるのでした。

タイム・トラベルもの、あるいは超能力もののSFとしても、ときめきの少女小説としても、若者の成長物語としても楽しく読めます。分量のわりに、内容は盛りだくさんです。

このあいだ観たアニメ版もたいへんに面白かったですが、何度も映像化されるだけあって、原作は非常に魅力的でした。盛り上がるし、結末も良いし。この原作の主人公の芳山和子が、アニメ版では主人公である真琴の叔母として登場していました。原作を踏まえてアニメ版を考えると、ちょっと切なくもあるような。でも、アニメ版の彼女も、たぶんあれでよかったんだろうなあ。


そう言えば、アニメ版の公式サイトで監督の細田さんがこのようにおっしゃっていました。

「時をかける少女」には、その時々の言葉で、時々の方法で、時々の少女たちで、何度も語られるべき、世界の秘密が隠されているのだと思う。

おお、まさに。我々はこの物語のなかに、年頃の若者が未来へ向かおうとするその瞬間を何度でも見るのです。傑作です。



さあ、あとは、大林版 映画「時をかける少女」を観るぜ。原田知世さんが出てるし。楽しみ。