大杉栄(青空文庫)
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青空文庫: 大杉栄「奴隷根性論(HTML版)」
《この一文》
“勝利者が敗北者の上に有する権利は絶対無限である。主人は奴隷に対して生殺与奪の権を持っている。しかし奴隷には、あらゆる義務こそあれ、何等の権利のあろう筈がない。
奴隷は常に駄獣や家畜と同じように取扱われる。仕事のできる間は食わしても置くが、病気か不具にでもなれば、容赦もなく捨てて顧みない。少しでも主人の気に触れれば、すぐさま殺されてしまう。金の代りに交易される。祭壇の前の犠牲となる。時としてはまた、酋長が客膳を飾る、皿の中の肉となる。
けれども彼等奴隷は、この残酷な主人の行いをもあえて無理とは思わず、ただ自分はそう取扱わるべき運命のものとばかりあきらめている。そして社会がもっと違ったふうに組織されるものであるなどとは、主人も奴隷もさらに考えない。”
“そして社会がもっと違ったふうに組織されるものであるなどとは、
主人も奴隷もさらに考えない。”
違った風に組織される社会、あるいは真の自由とは何か? ということについて考えてみても、私にはまったくその手立てが、ほんの少しそれを想像してみることすらできないということに唖然となります。だが、待て。それではいけない。ちょっとは考えろよ。
“一体人間が道徳的に完成せられるのは、これを消極的に言えば、
他人を害するようなそして自分を堕落さすような行為を、ほとんど
本能的に避ける徳性を得ることである。”
大杉先生によると、一般に上のようなものであるはずの人間社会の道徳律というものが、この「奴隷根性」によって歪められ腐敗した形で構築されているという。つまり、「強者に対する盲目の絶対の服従」。主人に対する恐怖の念により、奴隷は地べたに四這いになって平伏す。四這いになっているうちに、この屈辱的行為も苦痛でなくなってきて、かえってそこに愉快を見出すようになり、ついには宗教的崇拝ともいうべき尊敬の念に変わってしまう。このような道徳的要素を加えることで、奴隷根性はますます強化されていく。人間の脳髄は、生物学的にそうなる性質のあるものであると。
おなじようなことは短編小説「鎖工場」の中でも描かれていました。皆がみんな、鎖に縛り付けられている。どんどん締めつけてくる鎖をほどこうとするものもいるが、一方で自分の鎖の立派さを見せびらかすような者もいたりする。締めつけられることをかえって誇りに思ったりする。そしてそのような彼らは、鎖を生成する作業をさぼろうとする別の人間を鞭打ったりするのであった。
「奴隷根性論」。ここで求められていることは何だろう。人間が誰の奴隷でもなくなるということは、すっかり独りっきりに孤立するということではないと思う。人間が集団でこそ成し遂げられる物事がある。たとえ集団になったとしても、その構成員のひとりひとりが真に自由で、誰にも束縛されず、誰をも束縛しない社会。そんな社会を構築しなくてはならないということだろうか。
だが、どうやったらそんなことが可能になるだろう。この社会を支配する権力のもとで、この社会を支配しようと、支配し続けようとする権力欲そのものに対して、どうしたらよいのだろう。人間からこの手の欲望を失わせることは、いったい可能なんだろうか?
権力から力を奪うには、支配されようとする人間が支配されない自由を得たらよいということでしょうか。では、どうやったらその真の自由とやらを得られるでしょうか。私は自分自身を主人でないと思うからには、なにかの奴隷であるに違いありませんが、どうしたらその支配から脱却できるのか。あるいは脱却すべきなのか。私はそこでどんな社会を理想とすべきなのか。少しも何も思いつかない。
また、私は無邪気にも自分を何かの奴隷だと思っているが、自分の知らないところで誰かを虐遇していないだろうか。虐遇に慣れ過ぎて、そのことに気づきもしていないだけではないだろうか。私はただ盲目でいるだけではないのか。
こんなことを考えても、私にはどうせ分からないのだから無駄だと思う。鎖に繋がれていれば目をつぶっていたって、どこかへ引っ張っていってもらえるのだから、そのほうが楽だし安全だと思う。生まれてしまったから死ぬまで生きる。それだけだ。私が何に平伏そうが、私の知らぬ誰かが(あるいはよく知る誰かが)私の暴虐に苦しんでいようが、私が自分でそれに気づくことがないならば、屈辱も虐遇も存在していないのと同じではないだろうか。楽しく、楽に、生きたいじゃないか。
何も考えずに生きられるならそのままで、いざ窮地に立たされてからようやくはじめて泣き叫んだらいい。その時になってどんなに喚いたって、どのみち何も変わりはしないのだがね。
そうだ。私は何度も泣き叫んで、そのたびにうなだれてきたんだ。さまざまな事柄が何故そのようなのかを問うたって、どうせ何にもならないと思って。今もどこかで誰かが嘆き悲しんでいる、これから来る人もきっと涙に暮れるだろうその予感がありながら、「すべて無駄だ、無意味だ」と冷たく言い放ちその脇を通り過ぎようとする私に、良心はないのか? 人間として生きるということはこういうことだったのだろうか? こんなふうであるべきだろうか?
罪悪感とはまた違う。私は、私の何も無さに驚いている。