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『ビブリア古書堂の事件手帖~栞子さんと奇妙な客人たち~』

2014年02月19日 | 読書日記ー日本

三上 延(メディアワークス文庫)



《あらすじ》
不思議な事件を呼び込むのは一冊の古書。
鎌倉の片隅でひっそりと営業している古本屋「ビブリア古書堂」。そこの店主は古本屋のイメージに合わない若くきれいな女性だ。残念なのは、初対面の人間とは口もきけない人見知り。接客業を営む者として心配になる女性だった。
だが、古書の知識は並大抵ではない。人に対してと真逆に、本には人一倍の情熱を燃やす彼女のもとには、いわくつきの古書が持ち込まれることも。彼女は古書にまつわる謎と秘密を、まるで見てきたかのように解き明かしていく。
これは“古書と秘密”の物語。

《この一文》
“人の手を渡った古い本には、中身だけでなく本そのものにも物語がある。”




なるほどなー。とても人気のある小説であることは聞いていましたが、なるほど面白かった。これはライトノベル枠の作品なのでしょうか? 日本の現代小説を読むのが久しぶりだったせいか、おそろしいほどに読みやすかったです。すいすいと1時間ほどで読んでしまいました。

『ビブリア古書堂の事件手帖』は、4冊の古書をめぐる連作短編となっている上に、全体としても大きな一続きの物語ともなっています。最後で最初の謎が解けるようになっています。ひとつひとつの本にまつわる謎解きもそれぞれに面白いですし、その本に対する知識もわずかながら得られるようになっていて、対象の本を読んだことがあってもなくても楽しめるように作られていました。なかなか親切設計ですね。ちなみに私は登場する本は一冊も読んだことがありませんでした。夏目漱石の『それから』とか太宰治の『晩年』くらいは読んでいてしかるべきかもしれませんが、読んだことがないんだから仕方がない。それでも本書は楽しく読めましたよ。へえ、『それから』や『晩年』はそういうお話だったのか。

また、登場人物も分かりやすく魅力的に描かれています。言うまでもなく本書の重要人物であるビブリア古書堂の店主 栞子さんは非常に魅力的です。あざといくらいに魅力的。知的だが内気すぎる美女が自分だけには少し心を開いてくれるような…とか、物語の上でしかあり得ないよ!と分かってはいても、思わずぐっときてしまいます。くそー、罠だな、罠だぜ。ともあれ、栞子さんと本書の語り手である五浦君の関係のように、本についての話を聞いてくれる相手がいるというのがいかに幸福なことであるか、本について語ってくれる人がいるというのがいかに幸福なことであるかについて、私はなによりも共感するわけです。
その他の人物も特徴豊かで、とてもイメージしやすい。人物設定がなかなか上手ですね。

私は第3話の「ヴィノグラードフ・クジミン『論理学入門』(青木文庫)」が気に入りました。素敵なお話でしたね。



続きがあるんでしょうか? あるんだったら読みたい。そんな1冊。









「かえるくん、東京を救う」

2011年11月09日 | 読書日記ー日本

村上春樹(新潮文庫『神の子どもたちはみな踊る』所収)



《あらすじ》
ある晩、片桐がアパートの部屋へ帰ると、巨大な蛙が待っていた。その蛙は片桐にひとつ用件があると言う。蛙が言うその用件とは、「東京を壊滅から救う」こと、片桐と一緒に。


《この一文》
“「誤解されると困るのですが、ぼくはみみずくんに対して個人的な反感や敵対心を持っているわけではありません。また彼のことを悪の権化だとみなしているわけでもありません。友だちになろうとか、そういうことまでは思いませんが、みみずくんのような存在も、ある意味では、世界にとってあってかまわないものなのだろうと考えています。世界とは大きな外套のようなものであり、そこには様々なかたちのポケットが必要とされているからです。 ”




私は村上春樹を読まないのですが、「かえるくん、東京を救う」という短篇は、現在放送中のアニメ『輪るピングドラム』に関係のありそうな場面があったので、良い機会だと思い読みました。kajiさんが貸して下さった!

それで、「かえるくん…」だけをまずは読んでみたわけですが、面白かったです。けれども、どういうことだか私にはよく分からなかった。どういうことを言おうとしているのかが、ハッキリとは分からなかった。結末は悲しい、無力感のような、空虚のような、狭くて何もない部屋に放り込まれたような、それでそこから出られないような、そんな気持ちがしましたね。



以下は物語のまとめです。未読の方はご注意を。

*********

かえるくんは東京を壊滅から救おうとする。そのために、地下で東京壊滅の原因となろうとしている「みみずくん」と闘うつもりだ。かえるくんは孤独なその闘いを支援してくれるように片桐に頼む。片桐は東京安全信用金庫新宿支店融資管理課の係長補佐で、風采の上がらぬ独身者だが、真面目に職務をこなし脅しに屈せぬ勇気と強靭さを持った人物。かえるくんは一緒に闘うのは、その片桐でなければならないと言う。

東京壊滅の前夜、かえるくんと片桐は地下ボイラー室で待ち合わせていたが、片桐がその直前の夕方に狙撃され、約束の場所には行けなかった。目ざめると病室で、約束の時刻はとうに過ぎ、翌日になってしまっていた。東京は壊滅していなかった。

その夜にかえるくんがやってきて、片桐は約束の場所へ行けなかったことを詫びるが、かえるくんが言うには、前夜はかえるくんと片桐とはちゃんと一緒に闘ったらしい。かえるくんはみみずくんを倒すことはできなかったが、引き分けることはできた。かえるくんは重傷を負った。

かえるくんは片桐の目の前で眠りにつき、その体は瘤状に隆起しては弾けて中から無数の虫が這い出す。暗黒の虫は片桐のベッドの中にも入ってきて、片桐は叫びながら目を覚ます。


*********




このお話で重要なのは、「かえるくんと片桐とが、みみずくんと闘って東京壊滅を救ったことを、誰も知らない」ということでしょうか。彼らの闘いは「想像力の中でおこなわれました」とあるので、誰も知らないのは仕方がないかもしれませんが。あるいは、片桐が自分の人生を充実させることよりもその弟妹を育て上げることに時間と財産を費やしたことを、誰も知らないし、その当の弟妹も感謝すらしていないということ。または、片桐が厳しい職務を果していることを上司や同僚が正しく評価しないばかりか知ろうともしないということでしょうか。

誰かが別の誰かのために、なにか正しいと思うもののために働いているという事実が尊いものとして描かれながらも、時としてそのような人物や行動はまったく無視されてしまうこともあるところにひとつの焦点が当たっていたかと思われます。

誰も知らない死闘の末、かえるくんと片桐はみみずくんに勝利することはできず、傷ついたかえるくんはその内側から崩壊して真っ黒な虫に変わってしまう。かえるくんは失われ、片桐は目覚めを繰り返し、どこからが夢でどこからが現実であったのかがもう分からない。ここがとても悲しい。ここが、とても悲しい。どうしてかえるくんは勝利できないのか。どうしてかえるくんは失われてしまうのか。かえるくんの中の「非かえるくん」とは何なのか。どうしてかえるくんは誰の目にも見えないのか。



どんなふうに読み解けばよいのか、私にはまだ分からないようです。かえるくんはところどころでトルストイの『アンナ・カレーニナ』やドストエフスキーの『白夜』について言及するのですが、片桐同様私もそれらをまだ読んだことがないので、読んだらもう少し理解が深まるでしょうか。どうだろうな。









『どちらかが彼女を殺した』

2011年09月04日 | 読書日記ー日本

東野圭吾(講談社文庫)




《あらすじ》
最愛の妹が偽装を施され殺害された。愛知県警豊橋署に勤務する兄・和泉康正は独自の“現場検証”の結果、容疑者を二人に絞り込む。一人は妹の親友。もう一人は、かつての恋人。妹の復讐に燃え真犯人に肉薄する兄、その前にたちはだかる練馬署の加賀刑事。殺したのは、男か? 女か? 究極の「推理」小説。





これは面白かった。前に読んだ『卒業』同様、暗くて暗くてしょうがなかったですが、この作品はあれこれと仕掛けがしてあって、斬新な面白い形態をしていましたね。


まず、タイトルからも分かるように、ふたりの容疑者のどちらかが犯人なのですが、かわるがわる疑惑がかけられていくので、最後まで犯人が分からない。ハラハラしながら読み進めることができます。

しかし、そういうのはミステリでは普通の流れですよね。この作品の面白いのは、最後の最後まで、どちらが犯人なのか分からないままで終わってしまうというところでしょう。

えっ!?

最後の場面はとてもダイナミックでドラマチックだったけれども、ちょっとー、どっちが殺したのか教えてくれよ~~。スッキリしないじゃないの~~!

と、もやもや感を抱えたまま放り出されてしまいましたが、私はあの人が犯人だと思う! あの場面でのあの行動が決め手になったと思うね! それに、あの人の方が、より殺人への動機が強いだろうし、普通に考えて……

このように私なりに推理してみましたが、でも、やっぱりスッキリしない。



どうもよく分からない、という人のために、この文庫には《推理の手引き》なるあとがき解説が付いています。

ところが!

このあとがきが、なんと「袋綴じ」になってるんですよね; なにそれ、どういうサービスなの? あ、でも、先にあとがきから読んでしまう人へのネタバレ防止策ということなのかもしれませんね。ともかく、「袋綴じ」になっています。

私はこの本を姉から拝借したのですが、姉はだいぶ前に読んだのに、袋綴じを開けていなかった……
「あれ? 解説を読まなくてもどちらが犯人か分かったの?」と尋ねると、姉は「え…そんな話だったっけ? さっぱり覚えてない」。この凄まじい忘却力、よく似た姉妹です。私も『名探偵ポワロ』のTVドラマなんて、毎度犯人もストーリーも思い出せぬまま無限ループで見続けてるしな…。

ともかく、姉は袋綴じを開けていなかったので、私も開けなかった。でも中身が気になるので、袋綴じの隙き間からどうにか覗いて読んで(←結局、読むことは読む)、犯人確定の手がかりを得ようと試みたわけです。

それで、このあとがきが役に立ったかのかと申しますと、これが驚いたことに大して役に立たなかった…! ぐふっ。あくまでも「推理の手引き」に過ぎず、犯人を名指すようなものではなかった。うーむ、そうだろうと思ったけど、ここに書いてあることくらいまでなら、私も推理できてたんだよ~~!
まあでも、こういうつくりは面白いですね。



そんなこんなで、私はあの人が犯人だと思っていますが、ほんとうはどうなのか分からない。え、なにそれ、そんなのってアリ?? こんな推理小説ってアリなの!? スッキリしねえなあーー!! ミステリでの読後感としては、こりゃあ新感覚だぜ。

もうほんとうにスッキリしなくてもやもやしますが、物語のハラハラ感と、先を読まされるスピード感は爽快でした。ぐんぐん読み進む感じというのは久しぶりだったので気持ちがよかった。あと、物語の暗いところがなんだかんだで良かったです。


ただひとりの家族である妹を溺愛し、復讐に燃える兄。けれども、どうして妹が殺されたのかを調査してゆくうちに、妹とその親友、元恋人との人間関係のどろどろさ加減が明らかになり、兄は自分のまるで知らない妹の人物像が知ることになったりするのです。相手によって見せる顔がまるで違う。誰にでも、そんなことはある。


殺人のトリック云々よりも、この暗く冷たいドラマ部分が心に残ります。ある人が、別の誰かとの信頼関係を失いながら生き続ける悲しみというか。『卒業』でもそうでしたが、これこそが東野テイストということなのでしょうか。どんよりした余韻がありますね。


さて、初・東野作品2冊を読んでみて、結構面白かったので、今後も読んでいきたいと思っています。「加賀シリーズ」以外のシリーズも読んでみたいなあ。姉がほとんど取り揃えているようなので、正月にまた借りようっと!






『卒業 雪月花殺人ゲーム』

2011年09月01日 | 読書日記ー日本

東野圭吾(講談社文庫)



《あらすじ》
七人の大学四年生が秋を迎え、就職、恋愛に忙しい季節。ある日、祥子が自室で死んだ。部屋は密室、自殺か、他殺か? 心やさしき大学生名探偵・加賀恭一郎は、祥子が残した日記を手がかりに死の謎を追求する。しかし、第二の事件はさらに異常なものだった。茶道の作法の中に秘められた殺人ゲームの真相は!?





あれっ!?
推理ものって、こんなに後味悪かったっけ………?



というのが、読後の最初の感想でした。これは、私が殺人ミステリを読むのがものすごく久しぶりのせいなのか、それとも初めて読んだ東野作品特有の暗さなのか、まだ判断がつきません。でも、よく考えると、人がバタバタ死ぬ(殺される)ミステリというのは、暗くて当たり前だよな。うむ。


高校時代からずっと仲の良かった友人が、学校から社会へとその身の置き所を移そうとするその直前に、突然死んでしまったら? しかも、その死がこの仲間内の誰かによってもたらされたものだとしたら?

という疑心暗鬼のなかで、学生時代の貴重な最後の日々が費やされていくという暗黒物語でした。ひとりが死んだと思ったら、またすぐ別の人も死ぬんです。で、それはどうやら殺人のようで、グループ内の誰かが殺しちまったみたいなんですよ。ああー、暗いよーー!




この作品のやりきれなさというのは、すごく仲の良かった友人同士が、実はそれぞれ自分の利益のために仲間内で陥れ合い、そればかりか殺し合ったりし、長い年月を仲良く過ごしてきたはずなのに、結局はまるで他人で、互いの深いところまでは少しも理解し合うことがなく終わってしまうというところにあるでしょうか。

登場人物の多くに殺人の動機があるように描かれるのはミステリだから仕方ないとは思うものの、それにしても後味が悪い。
仲良しグループ内の人間関係が、どろどろしすぎてます。気が重くなる。こんなふうに友情が崩壊していくのを見させられるのは嫌なもんですね。けど…結局人はどんなに誰かを好きになったとしても、その動機は「それが自分の利益になるから」に過ぎず、同じように「利益を確保するためなら」友人といえども利用するし陥れもする、ということなんでしょうか。そうかもしれない…どんより。いや、そんなことはないか。これはお話だし……





とにもかくにも、予想以上に暗黒なのでビックリしました。ちょっとかなり衝撃でした。こういうもんだったかなあ? ミステリ離れしてたせいなのかなあ? ビックリしちゃったヨ!
でもこんなに暗かったのは、主人公が事件の内部にいたからかもしれませんね。よそからやってきて事件を解決するタイプの探偵小説では、ここまで暗くならないような気がする。そうだよ、うん。


と、気を取り直して同じく東野圭吾『どちらかが彼女を殺した』もすぐに読んでみましたが、これはこの『卒業』にも登場する加賀君という人が今度は刑事として事件に外部から関わる話なんですが、やっぱり暗かったです。あ…あれ?? あー、でもこれもまた主人公は事件の内部にいる人だからだな(加賀君は脇役)。
これも暗い、暗い言いながら読んだ『どちらかが~』の感想はまた明日。










「奴隷根性論」

2010年11月18日 | 読書日記ー日本

大杉栄(青空文庫)


*以下より無料で読めます。↓
青空文庫: 大杉栄「奴隷根性論(HTML版)」





《この一文》
“勝利者が敗北者の上に有する権利は絶対無限である。主人は奴隷に対して生殺与奪の権を持っている。しかし奴隷には、あらゆる義務こそあれ、何等の権利のあろう筈がない。
 奴隷は常に駄獣や家畜と同じように取扱われる。仕事のできる間は食わしても置くが、病気か不具にでもなれば、容赦もなく捨てて顧みない。少しでも主人の気に触れれば、すぐさま殺されてしまう。金の代りに交易される。祭壇の前の犠牲となる。時としてはまた、酋長が客膳を飾る、皿の中の肉となる。
 けれども彼等奴隷は、この残酷な主人の行いをもあえて無理とは思わず、ただ自分はそう取扱わるべき運命のものとばかりあきらめている。そして社会がもっと違ったふうに組織されるものであるなどとは、主人も奴隷もさらに考えない。”




 “そして社会がもっと違ったふうに組織されるものであるなどとは、
  主人も奴隷もさらに考えない。”



違った風に組織される社会、あるいは真の自由とは何か? ということについて考えてみても、私にはまったくその手立てが、ほんの少しそれを想像してみることすらできないということに唖然となります。だが、待て。それではいけない。ちょっとは考えろよ。


 “一体人間が道徳的に完成せられるのは、これを消極的に言えば、
  他人を害するようなそして自分を堕落さすような行為を、ほとんど
  本能的に避ける徳性を得ることである。”


大杉先生によると、一般に上のようなものであるはずの人間社会の道徳律というものが、この「奴隷根性」によって歪められ腐敗した形で構築されているという。つまり、「強者に対する盲目の絶対の服従」。主人に対する恐怖の念により、奴隷は地べたに四這いになって平伏す。四這いになっているうちに、この屈辱的行為も苦痛でなくなってきて、かえってそこに愉快を見出すようになり、ついには宗教的崇拝ともいうべき尊敬の念に変わってしまう。このような道徳的要素を加えることで、奴隷根性はますます強化されていく。人間の脳髄は、生物学的にそうなる性質のあるものであると。

おなじようなことは短編小説「鎖工場」の中でも描かれていました。皆がみんな、鎖に縛り付けられている。どんどん締めつけてくる鎖をほどこうとするものもいるが、一方で自分の鎖の立派さを見せびらかすような者もいたりする。締めつけられることをかえって誇りに思ったりする。そしてそのような彼らは、鎖を生成する作業をさぼろうとする別の人間を鞭打ったりするのであった。



「奴隷根性論」。ここで求められていることは何だろう。人間が誰の奴隷でもなくなるということは、すっかり独りっきりに孤立するということではないと思う。人間が集団でこそ成し遂げられる物事がある。たとえ集団になったとしても、その構成員のひとりひとりが真に自由で、誰にも束縛されず、誰をも束縛しない社会。そんな社会を構築しなくてはならないということだろうか。
だが、どうやったらそんなことが可能になるだろう。この社会を支配する権力のもとで、この社会を支配しようと、支配し続けようとする権力欲そのものに対して、どうしたらよいのだろう。人間からこの手の欲望を失わせることは、いったい可能なんだろうか?

権力から力を奪うには、支配されようとする人間が支配されない自由を得たらよいということでしょうか。では、どうやったらその真の自由とやらを得られるでしょうか。私は自分自身を主人でないと思うからには、なにかの奴隷であるに違いありませんが、どうしたらその支配から脱却できるのか。あるいは脱却すべきなのか。私はそこでどんな社会を理想とすべきなのか。少しも何も思いつかない。
また、私は無邪気にも自分を何かの奴隷だと思っているが、自分の知らないところで誰かを虐遇していないだろうか。虐遇に慣れ過ぎて、そのことに気づきもしていないだけではないだろうか。私はただ盲目でいるだけではないのか。


こんなことを考えても、私にはどうせ分からないのだから無駄だと思う。鎖に繋がれていれば目をつぶっていたって、どこかへ引っ張っていってもらえるのだから、そのほうが楽だし安全だと思う。生まれてしまったから死ぬまで生きる。それだけだ。私が何に平伏そうが、私の知らぬ誰かが(あるいはよく知る誰かが)私の暴虐に苦しんでいようが、私が自分でそれに気づくことがないならば、屈辱も虐遇も存在していないのと同じではないだろうか。楽しく、楽に、生きたいじゃないか。

何も考えずに生きられるならそのままで、いざ窮地に立たされてからようやくはじめて泣き叫んだらいい。その時になってどんなに喚いたって、どのみち何も変わりはしないのだがね。

そうだ。私は何度も泣き叫んで、そのたびにうなだれてきたんだ。さまざまな事柄が何故そのようなのかを問うたって、どうせ何にもならないと思って。今もどこかで誰かが嘆き悲しんでいる、これから来る人もきっと涙に暮れるだろうその予感がありながら、「すべて無駄だ、無意味だ」と冷たく言い放ちその脇を通り過ぎようとする私に、良心はないのか? 人間として生きるということはこういうことだったのだろうか? こんなふうであるべきだろうか?


罪悪感とはまた違う。私は、私の何も無さに驚いている。











『居候々』

2010年09月13日 | 読書日記ー日本

内田百(ちくま文庫)




《内容》
同僚の教師や生徒たちの生態を動物に擬してコミカルに描いた表題作に唯一の童話集『王様の背中』を併せて収録。谷中安規氏の美しい版画と共に楽しめる一冊。
「この本のお話には、教訓はなんにも含まれて居りませんから、皆さんは安心して読んでください。どのお話も、ただ読んだ通りに受け取って下さればよろしいのです。」(『王様の背中』序より)


《この一文》
“「万成さん」と鳥雄さんが後から顔をのぞけて云った。「猫の子は捨てたかい」
 「ええ、今捨てて来た」
 「もう死んだかね」
 「もう死んだでしょう」
 後(うしろ)を向いて見たら、鳥雄さんはもういなかった。 ”
  ――「居候々」より




「居候々(そうそう)」は、「時事新報」の夕刊に連載された小説だそうですが、読んでみると、本当に、何と申しますか、わりとどうでもいい内容です。でも面白い。私などはもうこの文章を読んでいるだけで面白くなってしまう。それに、ところどころに版画家の谷中氏の愛嬌のある版画が挿入されているので、それを見るだけでも楽しいのでした。


物語の方は、ある苦学生(万成くん)が、独逸語の吉井先生(あだ名はネコラツ。ネコがラッパを吹いている看板絵にそっくりなところに由来)の家に書生として入ることになり、奥さんにこき使われたり、息子の鳥雄さんは子供のくせにかわいげがなかったり、家族の食卓ではなぜか食器がすべてブリキ! という異常事態に困惑する日常を描いてあります。どうでもいいんだけど、なんだか面白い。

それで、なんでもないようなお話のなかにも一応の筋らしきものはあって、学校の先生同士の内紛が起こりそうな雰囲気がじわじわと漂って来たり、ネコラツ先生が身重の奥さんを差し置いて、なにやらお隣のお嬢さんと怪しい関係になっている様子だったりと、事件が起こりそうなことは起こりそうなのです。
しかし、さあこれから事態が緊迫してきそうですよ! というところでまさかの大惨事が!

私としては、物語もそこそこ面白く読んでいましたけれども、百先生が連載していた「時事新報」が、連載途中にまさかの倒産! という顛末にもっとも面白みを感じてしまったわけです。(原稿料も貰えなかったらしい。…だめだ、笑ってはいかん!)いやもう、ひどい話ですよ!

お話の途中で子猫を箱詰めにして川へ捨てにいくとても心の痛む場面があるのですが、それが何か薄暗いものを暗示していたのか、登場人物および作者の百先生、また時事新報もみな川に流されたかのようなひどい運命に見舞われたのでした。そのへんのいきさつが、あとの方の「再び作者の言葉」に詳しく書いてあって、笑ってはいけないと思いつつ、大変に笑えました。

そういうわけで、非常に面白かったです。このお話は最初と最後の「作者の言葉」がとくに見所と言えますね。もう呪われているとしか思えない。オチとしても強烈すぎる!



『王様の背中』もまた、どうでもいい感じのお話ばかりで楽しいです。「教訓は含まれて居りません」と書かれてある通り、一切教訓などは見当たりません。それどころかお話の筋すらなかったりもします。でも、やっぱり面白い。「桃太郎」で、桃太郎に夢中になって割れた桃の存在を忘れてしまっているおじいさんとおばあさんから、その桃を失敬してくる猪……なんていうところなどは、着眼点がいいですよね。で、この話もただそれだけの話で、オチも教訓もありません。ただ面白い。


ちょっとした気晴らしにはよい一冊と言えましょう。
何と言っても、挿絵がふんだんに入った本というのは楽しいものです。







「サキノハカといふ黒い花といっしょに」

2010年05月24日 | 読書日記ー日本

宮沢賢治詩集 天沢退二郎編(新潮文庫)









いつまで人の言葉にすがり続けるのだろう。
どうしてひとりで立てないのだろう。
どうしてだか、すぐに砕け散ってしまう。

雨の音を聴きながら、しばらくそうしていようと思っていたら、
雨あしが弱まって、雨音が絶えてしまった。

そこへ美しい言葉がやってきた。


****「サキノハカといふ黒い花といっしょに」

 サキノハカといふ黒い花といっしょに
 革命がやがてやってくる
 ブルジョアジーでもプロレタリアートでも
 おほよそ卑怯な下等なやつらは
 みんなひとりで日向へ出た蕈(きのこ)のやうに
 潰れて流れるその日が来る
 やってしまへやってしまへ
 酒を呑みたいために尤もらしい波瀾を起すやつも
 じぶんだけで面白いことをしつくして
 人生が砂っ原だなんていふにせ教師も
 いつでもきょろきょろひとと自分をくらべるやつらも
 そいつらみんなをびしゃびしゃに叩きつけて
 その中から卑怯な鬼どもを追ひ払へ
 それらをみんな魚や豚につかせてしまへ
 はがねを鍛へるやうに新しい時代は新しい人間を鍛へる
 紺いろした山地の稜をも砕け
 銀河をつかって発電所もつくれ



****「生徒諸君に寄せる」
 (略)
 新しい時代のコペルニクスよ
 余りに重苦しい重力の法則から
 この銀河系統を解き放て


 (中略)
 新たな詩人よ
 嵐から雲から光から
 新たな透明なエネルギーを得て
 人と地球にとるべき形を暗示せよ
 
 新たな時代のマルクスよ
 これらの盲目な衝動から動く世界を
 素晴しく美しい構成に変へよ

 諸君はこの颯爽たる
 諸君の未来圏から吹いて来る
 透明な清潔な風を感じないのか

 今日の歴史や地史の資料からのみ論ずるならば
 われらの祖先乃至はわれらに至るまで
 すべての信仰や徳性はただ誤解から生じたとさへ見え
 しかも科学はいまだに暗く
 われらに自殺と自棄のみをしか保証せぬ、

 誰が誰よりどうだとか
 誰の仕事がどうしたとか
 そんなことを云ってゐるひまがあるのか
 さあわれわれは一つになって
(以下空白)
****(「詩ノート」より)


冷たく透き通り、たしかな美しい言葉の連なりは、
こわれものの心を一瞬で満たしたけれども、
割れたところからすべて流れ出てしまった。

私は
せめてこのひび割れも
透明なものを通過させたことで、ついでに透き通ってゆかないだろうかと
浅ましいことを考える。

けれど、冷たく透き通ってたしかな美しいものは、
私を通過する間に生ぬるい不確かな別のものへと変わってしまった。



未来圏から吹いて来る透明な清潔な風を、
卑怯な鬼どもとして追い払われることを、
おそれている私は
いつまでこうやって立ち尽くすつもりなのでしょうかね。
いえ、別に今日も元気なんですけれども。
透明で確かなものへの憧れを、少し、持て余しています。







「征服の事実」

2010年04月14日 | 読書日記ー日本

大杉栄(青空文庫)


《内容》
過去と現在とおよび近き将来との数万あるいは数千年間の人類社会の根本事実たる征服を説く。


《この一文》
“ 敏感と聡明とを誇るとともに、個人の権威の至上を叫ぶ文芸の徒よ。講君の敏感と聡明とが、この征服の事実と、およびそれに対する反抗とに触れざる限り、諸君の作物は遊びである、戯れである。われわれの日常生活にまで圧迫して来る、この事実の重さを忘れしめんとする、あきらめである。組織的瞞着の有力なる一分子である。”







ほんとうはこのへんで踏みとどまりたいのですが、なんか、ダメっぽい…。私はどこへ向かおうとしているのやら分かりませんが、気の済むまでは、というか行けそうなところまではとりあえず行ってみるか!


先日読んだ大杉栄の「鎖工場」があまりに衝撃的だったので、K氏にも青空文庫のリンクを貼ったメールを送りつけたところ、早速読んでくれたらしいのです。それまでは私ひとりが「鎖が…鎖がですね…」とつぶやいていたのですが、それ以後、彼もまた私と顔をあわせるたびに「鎖…」と暗くなっているのでした。すまんね。

小説「鎖工場」では、工場(というひとつの社会)の中で鎖に縛られている人間のタイプを的確に分類しているのですが、自分たちは一体どのタイプに属するだろうか、多分時々鎖を作る手を休めてはぼんやりと夢を見ているあのタイプかしら……などと話し合いながら、このところの我々は飯を食ったりしています。なんつー暗い食卓!! 消化に悪いですね、ほんとスミマセン。

それからしばらくして、今度はK氏から「「征服の事実」を読んだら、なんか大杉さんが君みたいなことを書いてるのでますます凹んだ…」と言われたので、私も読んでみました。K氏が言うのは、「征服の事実」のこの部分だそうです。


“ ここに初期の人類は、自然の富饒の間に暖かい空気の下に、動物のような生活を送りながらも、なお多少環境を変更し、または他の肉食獣を避けもしくは欺くに足る知識もあり、非常な速度で繁殖することができた。そして血族関係から生じた各集団の人口が多くなって、互いに接触し衝突するようになれば、その集団は思うままに四方八方に移住した。かくして長い間、原始人類の間に、安楽と平和とが続いた。この時代が、昔からよく言う、いわゆる黄金時代であったのである。”



あー、なるほど。たしかに私もそんなことをよく言ってるかも。凹む、か。うん、凹みますねえ。
私はユゴーの『死刑囚最後の日』を読んだ時にも、ちょっと違うけど似たような、ひと気のない世界への憧れのようなことを書きました。まあ私に限らず、文明があるから(しかもそれが一個じゃないから、価値観の相違で)揉めるんじゃないの? あと地上に人が多すぎるんじゃないの?という疑問は、誰しもの心に根付いているのではないかと思われますが、どうなのでしょうか。フリオ・フレニトやエンス・ボートが目指した世界というのも、ひょっとするとこういうものに近かったのかもしれない(…いや、違うかな、やっぱり。でもこの問題は一部分ではあるのかも……。エレンブルグ:『フリオ・フレニトの遍歴』『トラストDE』参照。私はまだこれらを正しく読みこなせてはいないのです)、となると私がこういうものに惹かれるのにもなるほど一貫性があるね、などと話しては、またしても食卓を限りなく暗く沈鬱なものにしているのでした。



さて前置きが長くなってしまいましたが、私は大杉栄という人をついこないだまで知らなかったというのに、その存在感が急激に増してきていて、この迫力に立ち向かおうとするだけで正直疲れています。つ、疲れるわ。けれども、何と言うか、これは今のような時代にこそ一度読まれるべき代物ではないか、そういう気配がするので、疲れるけれどももうちょっと読んでみようと思います。結構面白いんですよ。ええ、ほんと疲れますけどね。ほんの短い文章なのに、なぜこれほど疲れるのか……。内容理解のために気持ちを奮い立たせるべきところかもしれませんが、なんだかひたすら打ちひしがれてしまいます。うなだれてしまいます。

そういうわけで私はやたらと疲れてしまって、内容についてじっくり考えをまとめたりする気力と能力が出てきそうにないので、長文をそっくり引用して、今日のところはひとまずおしまいにしたいと思います。そのうちに私のくたびれた脳髄にもわずかでもひらめきが発生すればよいのですけれど――。



“ 歴史は複雑だ。けれどもその複雑を一貫する単純はある。たとえば征服の形式はいろいろある。しかし古今を通じて、いっさいの社会には、必ずその両極に、征服者の階級と被征服者の階級とが控えている。
 再び『共産党宣言』を借りれば、「ギリシャの自由民と奴隷、ローマの貴族と平民、中世の領主と農奴、同業組合員と被雇職人」はすなわちこれである。そして近世に至って、社会は、資本家てう征服階級と、労働者てう被征服階級との両極に分れた。
 社会は進歩した。したがって征服の方法も発達した。暴力と瞞着との方法は、ますます巧妙に組織立てられた。
 政治! 法律! 宗教! 教育! 道徳! 軍隊! 警察! 裁判! 議会! 科学! 哲学! 文芸! その他いっさいの社会的諸制度!!
 そして両極たる征服階級と被征服階級との中間にある諸階級の人々は、原始時代のかの知識者と同じく、あるいは意識的にあるいは無意識的に、これらの組識的暴力と瞞着との協力者となり補助者となっている。
 この征服の事実は、過去と現在とおよび近き将来との数万あるいは数千年間の、人類社会の根本事実である。この征服のことが明瞭に意識されない間は、社会の出来事の何ものも、正当に理解することは許されない。
 敏感と聡明とを誇るとともに、個人の権威の至上を叫ぶ文芸の徒よ。講君の敏感と聡明とが、この征服の事実と、およびそれに対する反抗とに触れざる限り、諸君の作物は遊びである、戯れである。われわれの日常生活にまで圧迫して来る、この事実の重さを忘れしめんとする、あきらめである。組織的瞞着の有力なる一分子である。”



最後の段落がとくに強烈。この部分は「生の拡充」へと続いているので、そこであらためていくらか考察できるといいなぁ…。でもたぶん私には「考察」とか無理ですけど; ああ、なんて骨なし能なし野郎なんだ! うーん、うーん……。







『鎖工場』

2010年04月04日 | 読書日記ー日本

大杉栄(青空文庫


《あらすじ》
「俺」は夜中に目をあけてみると、妙なところにいた。周りを見渡すと、長く延びた鎖を人々は自分の体に巻き付けては、それを隣の奴に渡している。妙なところだと思っていると、「俺」は自分の体にもその鎖が十重二重にも巻き付けてあるのを発見するのであった。


《この一文》

“ なまけものに飛躍はない。なまけものは歴史を創らない。

 俺は再び俺のまわりを見た。
 ほとんどなまけものばかりだ。鎖を造ることと、それを自分のからだに巻きつけることだけには、すなわち他人の脳髄によって左右せられることだけには、せっせと働いているが、自分の脳髄によって自分を働かしているものは、ほとんど皆無である。こんな奴等をいくら大勢集めたって、何の飛躍ができよう、何の創造ができよう。 ”




大杉栄に関する基本情報としては、思想家、作家、社会運動家、アナキスト。1923年9月16日、妻、甥とともに憲兵に殺害される(甘粕事件)。これ以上のことは私は詳しくは知りませんが、思想と行動の人だったのでしょうかね。


「鎖工場」は、ごく短い小説で、すぐに読んでしまうことができました。そういうわけで、私は2度3度と読み返すことが容易にできたわけですが、何かグサッと胸に深くささるものの痛さを感じはするものの、この小説をどう捉えたらよいのかはまだ分かりません。

私は自分のことだけを、自分の生活のことだけを考えるならば、細々とでもどうにか生き延びられるだろうかなぁと思ったりもするのですが、社会のことを考えると、私のような在り方は許されないと思うのです。社会に生かされていながら、その発展に貢献しないということは許されない。
私はどう自己弁護しようとしても、怠け者の役立たずに他なりません。けれど、行動するということがどういうことなのか、私には分からない。正しい行動とはどういうものなのかが分からない。正しい行動とはこういうものだ!という信念があったとして、そういう信念を持つことは恐ろしいような気もするのです。いや、信念を持つこと自体は恐ろしくないかもしれないけれど、その信念が別の誰かの信念と相反する時、衝突を避けられないだろうことが恐ろしいのです。

これを読んでどういうことを問題として考えればいいのかすら、私にはまだよく分からないけれど、こういうことは少し気になる。

別に、鎖に縛られていようが何だろうが、自分でそれを幸福だとか安定だとかいうふうに思い込めさえすれば問題ないのではないだろうか。そりゃまあ、時々は鞭で殴られたりすることもあるかもしれないけれど、いつもはそれなりに自分がそこに居ることを、我々を見下ろしながら優雅にタバコをふかしている工場主が保証してくれるというなら、それでいくらか安心して生きていけるというなら、そんなに無理をして自由になる必要があるんだろうか。そもそも自由ってなんだ。

ハクスリーの『すばらしい新世界』でも、人々は徹底的に管理されてはいるものの、その社会の内部にある限りは病気や老い、生活に関わるその他諸々の不安や苦痛からの解放を約束され、幸福で輝かしい暮らしを送って、そのことに満足していたではないか。例えばそういう社会の在り方というのは、人々が社会によって(社会をコントロールするごく一部の人間によって)管理されているというただそれだけのために、間違っていると言えるのだろうか。自由ってそんなにいいものだろうか。そりゃまあ、時々は巻き付いた鎖ごと引っぱられて、どこか望まぬような場所へ、なにか望まぬような事態へと追い立てられることはあるかもしれないけれど。でも、いつもは鎖の締め付けのきつさにすら安心して暮らしていけるなら、それでいいのではないのか。


自由ってなんですか。それは金になりますか。私の暮らしを豊かにしてくれるものですか。あなたと違う意見を持つ私を許してくれるものですか。それがあれば、私と違う意見を持つあなたを、私は許すことができるものでしょうかね。仮に自由とやらが、そんなに正しいものならば、なぜこの世界はその正しさによって支配されていないんでしょう。その正しさの前に、なぜ鎖はいつまでも強固さを保っていられるのでしょう。



痛くて痛くてたまらない。これはいったい、なんの痛みなんだろう。






「毒もみのすきな署長さん」

2009年11月19日 | 読書日記ー日本


宮沢賢治 (青空文庫)


《あらすじ》
プハラの国の第一条は「火薬を使って鳥をとってはなりません、毒もみをして魚をとってはなりません。」ということだ。ある夏に町へ新しく警察署長さんがやってきた。不思議なことにちょうどそのころから第一条に反して毒もみをやる者が現れて……

《この一文》
そうすると、魚はみんな毒をのんで、口をあぶあぶやりながら、白い腹を上にして浮びあがるのです。そんなふうにして、水の中で死ぬことは、この国の語(ことば)ではエップカップと云いました。これはずいぶんいい語です。



このあいだ友達とご飯を食べた時に、この「毒もみのすきな署長さん」が凄いという話をきいたので、読んでみました。た、たしかに凄い!! K君、ありがとう!

上に引用したのは「毒もみ」とは何かの説明の部分なのですが、まあ何と言うか、えーと、あれですね。宮沢賢治って、こういうところが凄いですよね。すんなりと「これはずいぶんいい語です」と言い切ってしまうあたりが、実に超越的です。なかなかこの域まで達することは常人には難しいと、私などはいつも感服させられます。

ほんとうは、この物語の結末部分がもっとも強烈なので、そこを引用したい気持ちはいっぱいだったのですが、それをすると未読の方の楽しみを半減するかと思い、止めました。いや、私は結末を知ってて読んで、それでも十分に楽しかったんですけどね。いずれにせよ、これは面白いです。とにかく凄い。善とか悪とか、そんなことはお構い無し、好きだったら好きなんだ! こういう面白さは面白いですね。もっと深く考察することはできると思うのですが、物語の上辺をなぞるだけでも、十分に面白いとも思いました。

「フランドン農学校の豚」を読んだ時にも思いましたが、これは農学校の豚が解体されるまでを描いた物語ですが、そこではものすごい悲哀を描いていながらも、描写は恐ろしくあっさりとしているんですよね。ユーモラスでさえある。この人は、こんな感じでいつもあっさりとしている。この人の作品がいつも透き通って見えるのは、この淡々とした語り口にも原因があるのかもしれません。しかし、どのようにとらえたらよいのか見当もつかない、悲しいのだか可笑しいのだか分からない物語の内容については、私にはその魅力がどこからやってくるのかを突き止めることはできそうにもありません。面白いということだけは、はっきりと分かるのですが、それがどうして面白いのだかが分かりません。まあ、私は他の作家の他の小説であっても、それがなぜ面白いのかを説明することができないのが常なのではありますけれども。

それにしても不思議な人です。読書の守備範囲の狭い私が言っても説得力はないかもしれませんが、他にこの人に似た人を思いつきません。物事が違って見えてくるような気がする。どこから来た人なんだろう。どこか遠い世界のお話であるようにも見えるのに、たしかに私たちの世界を描いているようにも強く感じられるというこの感じ。物語というのはおしなべてそのようなものであるかもしれませんが、この人の作品においては特に強くそれを感じさせられます。うーむ。


あ、宮沢賢治の作品は、《青空文庫》というところでかなり沢山公開されています。著作権の切れた作家の作品が、テキスト形式や、HTML形式などで無料で大量に配布されていてとても便利なので、興味がおありでしたら活用なさってはいかがでしょうか(^^) 紙の本のほうが読みやすいとは思うものの、思いついた時に気軽に文学作品に触れられるのは、やっぱりいいですよね~。

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