半透明記録

もやもや日記

お知らせ

『ツルバミ』YUKIDOKE vol.2 始めました /【詳しくはこちらからどうぞ!】→→*『ツルバミ』参加者募集のお知らせ(9/13) / *業務連絡用 掲示板をつくりました(9/21)→→ yukidoke_BBS/

物語の力

2016年03月03日 | 学習



「物語は無力であるか」ということについて、実はもうずっと長いこと考え続けていて、記事にしようとしてはうまく結論がつかずにすでに7回くらい途中まで書いたのを破棄してきました。で、まあ、今もよく分からないでいます。

しかし、最近になってひとつ気がついたこととしては、物語は全ての人にとって必ずしも必要なものではないかもしれないけれど、ある種の人々にとって物語とは目の前にいる誰か生身の人間の発言よりもはるかに重く響く言葉の繋がりであるようだ、ということがあります。

たとえば私の息子。
私やK氏がいくら「今日はさっき1個食べちゃったから、もうゼリーは食べられないよ」と言っても絶対に納得しませんが、ゼリーを食べて膨らんだ息子の腹に耳をあてて、「あ、たっちゃんのお腹の中でゼリーさんがこう言ってるよ。《今日はもうお腹の中がギューギューになってて、これ以上入れないよ~! ちゃんとご飯も食べてくれたら、ぼくもそれを食べて一生懸命走って遠くまで行くよ、そしたらまた明日あたらしいゼリーがお腹に入れるようになるよ~》って」

すると息子は納得して、「がんばって~、ゼリーさ~ん! はやく出てって~~」などと自分のお腹に話しかけながら、もうゼリーを要求して来なくなるのでした。なんでやねん。父と母の言うことは聞けなくてもゼリーの言うことなら聞くんかい。私とK氏としては、そのへんがとても納得いかないところではありますが、しかし私とK氏自身もかなり息子と同じタイプの人間なのでありました。生きている人間の言うことなんてほとんど聞く耳持たない。持論は曲げない。頑固が服着て歩いてます。けど、小説を読んで泣きながらあっさり改心したりする。

そんな両親の性質を受け継いでか、息子もおはなしが大好きです。おはなし仕立てにすると面白いほどに言うことを聞いてくれるので、私は毎日あらゆる作り話をして息子を操っています。「暗くなるまで外で遊んでいると、猫ちゃんが来るよ…」とか(息子は猫が怖い)、「夜おそくまで起きていると鬼さんが来るよ…ほら! なんか外から鬼さんがガリガリする音が聞こえない!? 近くまで来てるよ! はやく寝なきゃ!!」とか(息子は鬼が死ぬほど怖い)、「エレベータのボタンをむやみに押すと、上の階でお仕事をしている大勢の猫ちゃんが降りてきて、たっちゃんのお顔をペロペロしにくるんだよ…そしたらお顔に猫ちゃんみたいなヒゲがはえてくるんだよ…あそこにいる猫ちゃんもね、前はたっちゃんみたいな男の子だったんだよ、悪いことばっかりして猫ちゃんに舐められてるうちに、その子も猫ちゃんになっちゃったんだって、こわいねー…あれっ!? たっちゃんにも猫ヒゲが生えてきてないっ!!??」などなど。いまは猫ネタと鬼ネタしか思い出せませんが、私は日常的にこんな嘘ばかりついて息子を脅かしています。教育に悪いでしょうか^^; かもしれないけど、息子がいちいち神妙な顔つきをするのが面白くて、つい。。。


なんだかよく分からない話になってしまいましたが、なんでもおはなしにすると面白くなるということです。私の貧弱な創作物にさえ息子は耳を傾けてしまうほどに、物語にはどこか不思議なほどの魅力があって、そこに物語があるというだけで心が震えたりするものです。なんだか分からない力で、ついつい納得させられてしまうことだってあるんです。なにがどうしてそうなるのか、いつか私にも分かる日が来るでしょうか。

いずれにしても、息子にはおはなしからたくさんのものを汲み取れるようになってもらいたいものです。喜びも悲しみも、楽しさも不思議も、たくさんのものが物語には詰まっている。自分が欲しいだけ、必要なだけいくらでもそこから得られるんだ、ということをいつか知ってもらいたい。君がもう立てないというその時に、必要なのは一口の水かもしれないし、ひとかけのパンかもしれない、あるいはほんの一節のメロディかもしれないし、誰かの握り返してくれる手か、痛みを和らげる薬品か、なにかもっと別のものであるかもしれない。もう駄目だというその時に、たぶん物語もまた心を支えてくれるひとつのものとしてあるんじゃないかな、と私は思っているのです。



物語に力はあるのか。あります。それは間違いない。あの子を脅かすばかりでなく、もっと素敵で愉快な物語も話して聞かせてやりたいですね。反省、反省! ついでに、息子も自分なりにおはなしを作って聞かせてくれるまでに成長してきたので、それについてはまたいずれ書ければいいなと思っております^^






不可視の山を登るには

2015年08月17日 | 学習




思いつきメモ。


不可視の山を登るには、その山の実在を確信するところから始めねばならず。この世のすべてに美しさを求めるならば、この世界そのものの美しさを確信するところから始めるよりほかないのではないか。

人間に想像可能な物事は、人間によっていつの日にか必ず実現され得ると私は思います。よって、汚れものや納得のいかないもの、苦いもの、耐えがたいもので溢れているように見えるかもしれないこの世界を見つめながら、同時にいまははっきりと見えなくとも美がそこにも確かに存在すると信じ続ければ、人類はいつかただありのままのこの世界の美しさをその目に映すことができるに違いない、私を含むこの世のすべてをその存在自体から美しいと感じられるようになるに違いない。世界は常に美しくなり続ける(あるいは世界はすでに美そのものである)という確信こそが、世界を美しくするのかもしれない。




なかなかよい思いつきだと思ってメモしてみましたが、単なる真夜中の狂気のような気もしてきました。まあ、いいや。狂気だろうが幼稚だろうが、実はこれは思いつきでもなんでもなくて私の核心をなす思想のひとつであり、たぶんこれまでにも何度も同じようなことを書いてきたような気もするし、こんなことを信じているからといって誰かが損するわけでもないだろうから、明日も私は信じ続けます。




長い夏休みを終えて、奈良へ帰ってきました。更新すべき記事はほかにあれども、とりあえずは走り書きで再開。






二つの世界のあいだに

2012年11月21日 | 学習





 ”ーーすると突然、郷愁が彼の胸をはげしい苦痛でゆり動かした。
  そのために彼は思わず知らず暗闇のなかへあとしざりして、自分
  の顔のひきつるのをだれにも見られまいとした。”

  「トーニオ・クレーガー」
  トーマス・マン 佐藤晃一訳 河出書房『世界文学全集32』所収



明るくて、鋼のように青い目をして、金髪で、純潔と明朗と快活との印象、ほこらしげであると同時に単純で、取りつきようもなく澄ましているという印象を与えるハンスとインゲボルグの姿を間近に目にして、思わず暗闇へ引き下がってしまうトニオ・クレーガーのこの場面。芥川龍之介の『河童』で、芸術家で超人的恋愛家のトックがある家庭の団欒を窓の外の暗がりから覗き込む場面と同様に、私に強烈な印象を与えて、どうしてもどうしても忘れることができない場面のひとつです。

私はこれらの場面を読んで以来忘れたことはありませんが、このところ特に頻繁に心に浮かんでくるようになりました。おそらく、これが私の新しいテーマとなりうるのでしょう。

ずっと自分をトニオやトックと同じで、明るく暖かいところに激しく憧れながらも決してその中へすすんで入れるような人間ではないと私は思っていましたが、そうではなかったのかもしれない。実際には私はずっと暖かくて単純で明るいところに属していたのかもしれない。なぜなら思い返せば私はいつもそう不幸ではなかったし、客観的に見ても暖かい環境に恵まれていたと言えるし、今も本当の孤独の悲しみを知っているとは言えないから。しかしもし本当にハンスやインゲボルグとすっかり同じ場所にいたなら、自分を暗がりに属する人間だと想像することさえなかっただろうことを思えば、少なくとも、明るいところと暗いところ、どっちつかずの場所にいたのじゃないかとは言えそうだ。


今、私ははじめて明るくて暖かい場所を作ることを目指していますし、これからはそうあるべきだと思っています。と同時にやはり明るく眩しい場所に立つことには気恥ずかしさに似た感情を抱いてしまいますし、そうであるからにはその理由を考えるべきであり、暗がりへの想像力、暗がりはすぐそこに存在するという意識を常に持つべきなのかなとも思います。トニオは物語の終わりでこう言います。「私は二つの世界のあいだに立っています。どちらの世界にも安住していません。」これに続く言葉がとても興味深いのですが、いまのところ私にはまだ深く理解することができないようなので、いずれじっくり考えることにしましょう。私は結局はトニオとは違う種類の人間であるかもしれませんが、やっぱり彼のように迷いながらでなければ歩けない種類の人間ではあります。どんなに正しい道が目の前にのびていたとしても、迷ってしまう。迷わずに歩くことはできない。

私にはこれが精一杯なのだけれども、二つの世界のあいだを迷いながら歩いていくことを、あなたがたは許してくださるだろうか。迷いながら愛するから、どうかここから何かよいものが生み出されますように。


 “悲劇的な姿も、滑稽な姿も、同時にその両方でもあるような
  姿もいます、ーーそしてわたしはこの両方をかねたものが非
  常に好きなのです。しかし、わたしの最も深くてもっともひ
  そかな愛は、金髪の青い目の人たち、明るくて生き生きとし
  た人たち、幸福で愛らしい普通の人たちに寄せられているの
  です。
   どうかこの愛をおとがめにならないでください、リザヴェ
  ータさん。これはよいもので、生産的なものです。そのなか
  にはあこがれと、憂鬱なそねみと、わずかばかりの軽蔑と、
  あふれるばかりの純潔な幸福とが宿っているのです。 ”













マンガ顔の鳥

2012年09月30日 | 学習

マユグロアホウドリ-wiki





最近知った、ある鳥の顔がなんだかマンガっぽいのです。その鳥は「マユグロアホウドリ」といって、その名の通り目の上に眉のような黒い模様が入っています。フォークランド諸島あたりで彼らの巣作りする様子が見られるそうなんですが、もうその顔がね、とにかく顔が、インパクトありすぎです。やべー、一目惚れしてしまった…(´∀`*)!

グーグルさんの画像検索なんかにかけると、色々捗りますよ。

「マユグロアホウドリ」で画像検索。

(英名の「Black-browed Albatross」だと、もっと捗ります)


アバババ! だめだ、面白過ぎる…! 空を飛んでいても、つがいで寄り添っていても、卵をあたためていても、何をしていてもこのキリッとした顔が面白くてたまりません。切れ長の眼差しwwww それにしても、美しい鳥だ。


あー、鳥って本当に可愛いなあ。









台風前夜のアキレスと亀

2012年06月19日 | 学習





低気圧のせいか、カタツムリのようにヌメヌメとへばっている私です。しかしカタツムリはあれでへばっているわけではなくて、むしろ元気いっぱいな姿なんですよね。私はカタツムリが好きです。あの角とか殻の渦巻きとか。ついでにナマコやウミウシなども好きです。彼らが動いていると、ついまじまじと眺めたくなる。


さて、台風が近づいていた昨晩。K氏と私は湿気に唸りながらも、夕食時に「ゼノンのパラドックス」について話し合いました。K氏はこれが好きらしく、そのなかでも「アキレスと亀」についてはこれまでにも何度か話題に上ったことがあります。飯時にこんな話題を笑いを交えて持ち出すことのできるK氏という人を、私は素直に尊敬しちゃいますね。そして、普段のように世をはかなんで嘆くばかりの時よりも、こんな時のK氏は百万倍も魅力的なのです。


それはさておき、私は昨日の対話によって、ようやく「ゼノンのパラドックス」を理解しました(という気になれる段階に到達しました)。なるほど、そういうことだったのか。では、どういうことを理解した(つもりになっている)かというと、こういうことです。

以下はWikipediaより「アキレスと亀」について引用。

_________________________________

あるところにアキレスと亀がいて、2人は徒競走をすることとなった。しかしアキレスの方が足が速いのは明らかなので亀がハンディキャップをもらって、いくらか進んだ地点(地点Aとする)からスタートすることとなった。

スタート後、アキレスが地点Aに達した時には、亀はアキレスがそこに達するまでの時間分だけ先に進んでいる(地点B)。アキレスが今度は地点Bに達したときには、亀はまたその時間分だけ先へ進む(地点C)。同様にアキレスが地点Cの時には、亀はさらにその先にいることになる。この考えはいくらでも続けることができ、結果、いつまでたってもアキレスは亀に追いつけない。

_________________________________


「いや、普通にアキレスがあっさり追い越すでしょ^o^ ゼノンさんは、どこかちょっと具合悪かったんじゃね??」と言い切ってきた私は、これまで何が問題なのかを理解していませんでした。

要は「アキレスと亀との間の差を無限に切り分ける」と、「亀はその地点でアキレスのさらに先にいる」という前提がある限り、「アキレスは亀に追いつけない」ということだったんですね。なるほど。分かったよ。極限の話を出されたのでよく分かった。そういうことだったんだね。


で、何が分かったかを説明しようと思いましたが、えっと、それは…K氏とWikipediaにおまかせ☆ え、私? 分かってるよ。本当だよ。運動の話でしょ。連続を切り分けて見ることはできるけど、その断片を繋ぎ合わせてみても連続にはならないっていうんでしょ。でさ、普通に考えるとやっぱり、アキレスは亀に追いつけるよね。そうか、つまりはそういうことなのだ(ほんとうか!?)。

 →詳しくはこちらから:「ゼノンのパラドックス」-Wikipedia




世の中を、「普通」を飛びこえた眼差しで見つめ直そうとする人々というのは美しいものです。どんなに奇妙に思えても、どんなに馬鹿げた試みに思えても、彼らが示すのは膨大な可能性の物語なのです。世界を取り囲む壁を押しやり、乗り越え、私たちの認識の領土を拡大しようとしている人たちがいる。たぶん今もどこかに。であるがゆえに、そういうものに少し触れられた時、私やK氏の胸のうちには緑がかった金色の炎が明るく燃えさかるのでした。さまざまな試みのあとが、さまざまな思考の痕跡が、どこでどんな風に活用されるかはまだ分からず、それがこれからの世界にどんな影響を与え得るのだろうと考えると、心が躍るようですね。まあ、私はそういうのを遠くから眺めるだけで理解すらできないでしょうが、人類全体のことを考えると、やっぱり楽しくて仕方がないのでありました。

私にもなにか人類に貢献できることがあればいいのにとは思いますが、とりあえず何も思いつかないので、ひとまずは「アキレスが亀に追いつけない」などと言うゼノンさんとその一派をちょっといかれた人たちだと思っていたことに対して詫びておこうと思います。
ごめんなさい <(_ _)>
あなた方のような人がいなければ、この世界は面白くないですね。さあ、その意気でこれからも頑張れ!

と、偉そうに終わる。ハハハハ! あー、台風来た~~?







金星の太陽面通過

2012年06月06日 | 学習




本日の大阪の空はこんな感じでした。雲はやや多いものの、すぐに流れていくので太陽の様子を観察することができましたよ。


本日6/6には、金星が太陽の表面を通過するとのことで、私は先月の「金環日食」に続き、今回も日食グラス越しに太陽を見つめてみました。

さて、晴れ間を狙って4、5回観察してみたのですが、えーと、何と申しますか、太陽も金星も肉眼だと小さすぎてよく見えない…!(´;ω;`)
写真に撮って拡大すればいいかな、と思って撮ってみたのは、こんな感じ。


 午前11時頃の太陽の様子。

……、うん、太陽って丸いですね(^o^;)

ダメだ! 私の装備ではこれが限界!! 天体望遠鏡があれば、もっとまともに観測できたようですが、あいにくとそんな素敵アイテムは持ち合わせておらず…。視力が良ければ肉眼でも確認可能であると【国立天文台】のHPの「観察方法」のところには書いてありましたが、とりあえずは私の右目の「1.5」の視力ではよく見えませんでした。無念!



この「金星の太陽面通過」は、前回は2004年の6/8にあったそうですが、そのときは私は気づかずにぼんやり過ごしちゃってましたね。次回は105年後まで起こらないそうです。

今回はつまり私が生きている限りでは最後のチャンスだったというのに、自分の目で確認することができなかったのは残念です。しかし前回2004年の時の観測画像が【国立天文台】のHPで公開されています。それを見ると、金星が小さな点となって太陽の表面を通過していく様が確認できますよ。
太陽ってものすごくでかいなあ! というのがよく分かりますね。この小さな点に過ぎない金星よりも、人間というのはもっとずっと小さな存在であることを思うと不思議です。宇宙は広すぎるし、大きすぎるなあ。それでもこれからさらにその広大な宇宙の神秘に近づいていくのでしょうね。遠くの星を、隣町くらいに認識できる日がいつかは来るのかなあ。



正午にも太陽を見上げたら、高度が高すぎて首が痛いです。





土曜日のまんが道場!

2012年02月19日 | 学習




土曜日はkajiさんとお茶してきました!
【にしむらコーヒー】のグラタンセット、おいしかったっス!

ストルガツキーやらブルガーコフやらSF映画やらその他の映画やらの話でいつものように盛り上り、本屋へ行けば欲しい本が次から次へと見つかってしまってえらいこっちゃで楽しかったです。でも私は結局小説を買うのはやめて、漫画を2冊買ってきました。萩尾望都の『ポーの一族(文庫版第3巻)』と諸星大二郎『栞と紙魚子(文庫版第1巻)』です。我ながら渋いセレクションであります!! うへっへっへ、読むのが楽しみ。


夕方には梅田から場所を移動して、電車の中でkajiさんが「紙に漫画のネタを描きたい」みたいなことをおっしゃるのですが、奇しくも私も同じことを思っており、この日はあらかじめ紙とペンを用意してきていたのでした。

てなわけで、久しぶりに即興まんが道場が開催されたというわけです。



このところ「やる気出ねえ~~」と怠けまくっていた私でしたが、「1頁漫画」を描こうとkajiさんから促されると、不思議なほどにすらすら描けました。いやー、集中力って振り絞れば出るもんですね!

けれども、そもそもkajiさんというのは不思議な人で、kajiさんから言われると私はずっと心の奥底に仕舞い込んでいたネタを掘り出して紙の上に乗せてやることができたりするんですね。自力だと半年に一回くらいしかそんなことはできないのに、土曜日は2度もそんなことができました。

あやふやなアイディアを具体的に視覚的にしてくれる。

これは間違いなくkajiさんの持ってらっしゃる特殊能力。もしかしたらkajiさんはスタンド使いなんじゃなかろうか? というくらいに、kajiさんといると、私は急に創造的な人間になったみたいな気になり、魔術的な力に支配されまくって、どうにかこうにか形にすることができてしまうんですね~。


さて、そういうわけで、私とkajiさんとふたりで漫画の描きっこをしてきましたよ。それぞれ2作品ずつ、描いている間に時間が飛ぶように過ぎているのにも気づかぬほどに集中して描き上げました!


描いたのは、こんなのです。
まずはkajiさんから。

*【むかしのともだち】



少女漫画の手法を研究中のkajiさん。
うっ、なんかこの前よりかなり上手くなっておいでです!
さすがだなぁ~(^o^)!

1コマ目などは、非常に少女漫画的導入部という感じですね。それからモノローグの達者なところが素晴らしい。これぞ少女漫画における重大ポイントというところがおさえられています。

帰宅してからK氏に見せたら、彼はこれが一番気に入ったそうです。凄く分かる! と言ってましたぜ。そうよね、たしかに伝わってくるものがありますよね。



一方私のはこんなん。

*【アッチからとコッチからと】



「意味不!」と帰ってからK氏には厳しい評価(てか、私もそう思うが…)を貰いましたが、kajiさんは気に入ってくださいました。
褒め上手で、深い洞察力をお持ちのkajiさんは、この意味の感じられない私の漫画からも「ああ、言われるとそんな気がしてきた!」という素晴らしい分析をしてくださいます。これがkajiさんのスタンド能力だ!

「このふたりの猫たちは、本当は会えるかどうか分からないのだけれども、それを確かめるべくひとつの決意をもってこのような行動に出たのである」とか、そんなこと私は考えたこともなかったぜ!
「そして、これがノトさんのやりたいことの究極的な形であり、出会えるかどうか分からなくても、それぞれが違う道を辿ったとしても、最後はやっぱり会える。そういうことです」とか言われると、「はっ、そ、そうかも!!」と私は盛大に納得しました。やだ、そんな哲学的な漫画を描いてたなんて知らなかった…(=´v`=)ムフ

まあ私としては意味などはなくとも、10年近く温めてきたネタを放出できて満足なのです(でも10年も温めるようなネタか!?と;)。建物のあっちとこっちの入り口から別々に入って、真ん中で合流する! というのを描きたかった。このイメージがずっと呪いのようにつきまとっていたので、スッキリしましたわ~。



さらにもうひとつkajiさんの。

*【フルーツパーラー】



実際に見た夢の再現だそうです。続きはまだあるそうですが、1頁には収まらなかったと。。。じゃあ、それはまた次回に。夢のお話を詳しく聞いていたら、続きを描けたらすごく素敵な漫画になりそう。

それにしても、いつのまにこんなにレベルアップなさったのか。もう完全に漫画じゃないですか。コマ割と構図、それからやはりモノローグにkajiさんの繊細なロマンティシズムを感じますね。ちょっと前まで絵とかあまり描かない人だったのに、これはすごい。

うーん、私もこんなの描いてみたいなあ!



とか言ってたら、kajiさんからお題が出されました。

kajiさん「少女漫画で、テーマは『恋』で!」
私「え…むりっす…」
kajiさん「主人公は人間の女の子で!」
私「に、にんげん…?? (しーん)」
kajiさん「…じゃあ、人間の男の子で…!」
私「に、にんげん…?? (しーん)」
kajiさん「人間だとキャラが動かないのね?…なら動物でもいいよ」
私「それならなんとか!☆(ゝω・)v」


という、いささか無茶ぶりなやりとりがあって、私は「恋」にまつわるような漫画を描いてみましたよ。辛かったわ~~!


*【雨傘】


ただでさえ意味が分かりませんが、これは以前に描いた漫画の続編というか別バージョンです。
(参照:以前描いたロマンチック(?)漫画『夢のなかで』

ぐはっ…!!(´;ω;`)

やっぱストーリーがあるっぽいのは難しいぜ。モノローグが苦手な私の手にかかると、それはテンポも響きも悪くていまいちだし、直したいところが盛りだくさんだわ~。それに最後にむりやりクロネコを登場させてしまうところなんて、恥じらいを捨てきれない私の心の弱さを露呈しちゃってますね。やるならやり切らなければ!

コマ枠の装飾などは、kajiさんには結構ウケました。こういう装飾的なのは少女漫画風でいいですよねー。私ももうちょい研究したいところです。


内容については、kajiさんから「少女漫画の恋愛ものの醍醐味は『恋に至るまでの過程』の面白さであることが多いけれども、ノトさんのは最初から恋人関係になってしまっている」という鋭い指摘を受けました。おー、ほんとだ!
私も恋愛ものを読むのは好きなのに、自分で描くとなると随分難しいですね。「恋に至る過程? なにそれ??」 あー、でも考えてみると私は「出会った瞬間にお互いにそれが相手だと分かる」的なシチュエーションが好きなのかも。そんでこれは習作のつもりなので、いずれ16頁くらいのまとまった作品として作り直したいと考えています。今回のはそのエッセンスを抽出しただけ、意味がよく分からないのはそのせい、みたいな…(言い訳エンドレス)






なにはともあれ、充実した楽しい時間を過ごしました。
なんだかんだで私たちは漫画が大好き! 自分で描こうとすると、漫画を読む時の読みかたも変わってきます。プロの漫画家の描く1頁にはどのようなテクニックが駆使されているのかを解析すべく、私とkajiさんは「次回までには、どれか漫画の模写をしてくること」という宿題を持ってお別れしてきました(^_^)
おつかれさまでした!
どうもありがとうございました~~☆







私と『輪るピングドラム』

2011年12月26日 | 学習







一瞬の触れ合いが、決定的に意味を与えてくれる。
その名とその姿を忘れてしまったとしても、触れ合ったという感触がわずかにでもあれば生きていける。
どうして私はいつまでも恥かしげもなく生きていられるのか分からなかったけれど、もしかしたらそれは私が忘れてしまっている何かの、誰かのおかげなのかもしれない。
そしてこのようなことを輝かしく美しいと思える心を自分の内側に発見した今、私はもう何者にもなれなくとも、全然、構わない。もう、そんなに怖れなくてもいいんだ、きっと。怖れるよりほかにできることがあるんじゃないのか。



『輪るピングドラム』という作品は、見る人によってさまざまな解釈や見方を取りうる作品であったかもしれません。あちらこちらの感想や分析、まとめを見て回りましたが、まさに人それぞれ。テーマは始めから終わりまでずっと変わらなかったと思うものの、あの流れ全体の中から何を選び取り出すかによって、物語の様相は違ってみえるようにできていました。そして私にとっては『輪るピングドラム』は上のような物語だったということです。
それにしても、最終回まで毎回ハラハラドキドキ、震えるほどに印象的な演出力の卓抜さは相変わらずで感心しましたね。

この2年間、ぴったりかっきり2年間、私は自分が「何者にもならないし、なれない、なりたくもない」という問題に地道に取り組んできたつもりです(2年前、ヨーゼフ・ロートの『果てしなき逃走』を読んだ頃からそれは始まりました)。ところが一向に進まない。泥沼の八方塞がりだった。苦しくてたまらなかった。もう何も考えることができなくなってしまった。私は求めている言葉を見出せず、すっかり放り捨てられたような気持ちでいたのです。私は自分を見限ってしまっていた。
そこへ、『輪るピングドラム』がやってきた。「プリンセス・オブ・ザ・クリスタル」が冠葉と晶馬に告げるあの言葉を聞いた時の私の衝撃がいかほどであったか、とても言葉では言い表すことができません。


 「きっと何者にもなれないお前たちに告げる!」


この台詞が作品の上でほんとうはどういう意味を持っていたのかは、私にはまだ分かっていません。けれども、この台詞が放たれたその時、私には運命がとうとうやってきたとはっきり分かった。運命の物語との出会いだという実感が私を激しく貫いたのです。物語を最後まで観て、この時の実感は間違っていなかったと確認できました。すっかり説明できるほどにはまとまっていませんが、つまりこういうことです。



たとえ何者にもなれないとして、手になにひとつ持っていないとして、それでも誰かのためにこの手をただの手を差し出すくらいのことはできるのではないか。もし誰かが手を取ってくれたなら、そこから生まれ、はじまるものが確かにあるのではないだろうか。

何者にもなれない私には、誰からも何ものをももらえるはずがないとして、それにもかかわらず誰かが手を差し出してくれたなら、信じてその手を掴むくらいのことはできるのではないか。もしその手から何かを受けとることができたなら、そこから生まれ、はじまるものが確かにあるのではないだろうか。

ひとたび手を取り合ったら、その後永久に離ればなれになったとしても、繋がったという事実を消すことはできない。けして消えることのない輝きが私を、誰かを、暗がりのなかで照らしてくれる光となって、私たちはそうやって歩いて行けるのではないのだろうか。



まだまったくまとまりませんが、私にとっては『輪るピングドラム』は今のところこのような物語として受け止められました。いずれもっと深くまではいりこんでいくつもりですが、焦ることはありません。できるだけ長い時間をかけて考えていきたいです。村上春樹の「かえるくん、東京を救う」との関連性についても考えたいところですしね。誰も知らないところで、しかし確かに戦いは行なわれている。深手を負いながら、完全に結着をつけるまではいかなくとも、どうにかミミズくんをしばらくの間は大人しくさせることができた。けれども、そのことを誰も知らない。誰にも知られなくても、みんなから忘れられてしまったとしても、その人たちを守りたかった。そういう戦いが、『ピングドラム』でも描かれていましたよね。


『輪るピングドラム』は私に差し出された手です。私はそれをどうしても掴みたかったし、いくらか掴むことができたと思います。伝えたいと分かち合いたいと差し出されたものを、私は受けとりたいと分かり合いたいと願い手を伸ばし、欠片ほどの小さなものをしかし透明に輝きつづける美しいものを得られたのではないかと感じます。欲しかったものを、私は掴みましたよ。

もしも誰かに手を差し出したり誰かの手を掴んだりする価値や資格がこの私には備わっていないとしても、しかるべき時には勇気を奮って、おそるおそるでも自分の手を伸ばせるような人間になりたい。私はせめてそんな人間になりたい。闇雲に怯えて手を振り払うようなことは、もうしたくない。
私は自分がそれに値しないと思いながらも人からもらうばかりで、しかも浴びるほど、溺れるほどにもらうばかりで、時にはもらったものをその価値が分からずに投げ捨てさえしました。与えられたことの有難さをようやく分かるようになってみると今度は、何者でもなく何も持たない私には何一つ彼らに返せるものなんてないのではないかと、返せないまま生きてしまっていいのかと、そのことが本当に気がかりでした。けれどももしかしたら……私がまだこうして生きていられることには意味があって、いつかこの空っぽの手を誰かに差し出し差し出され、誰かの手を取り手を取られ、私たちは輪になってそこから何かを始められるかもしれないな。


『輪るピングドラム』。震えながら透明に輝き続ける美しい希望に満ちた、優しい物語でした。半年間、ほんとうに楽しかった。

ありがとう!







ライブハウスに行ってきた

2011年05月24日 | 学習





5月22日の日曜日の夕方、アメリカ村にある「SUNHALL」というライブハウスへ行ってきました。この日のライブは3組のバンドが出演の予定。私はライブハウスなんて、ものすごく久しぶりに行きましたね! ドンドンドカドカという大音量のリズムが私の薄い胸板を震動させるので、心拍が止まってしまうのではないかと心配になりました。おお、これぞライブハウスの楽しみ。




6時半からの開演で、最初は「heliotrope」というグループ。正直に言って、私は聴くなりとても気に入りました。朝焼けのような夕焼けのような、爽やかな沈鬱さとでもいうような曲調は、私がすごく好きなタイプの音楽でありました。とにかく、若々しくて好感。青春っていいなぁ! って感じです。がんばってほしい!
演奏後には希望者にCDを無料配布しているというのでもらってきました(^o^)☆ 最後の曲が素敵だと思っていたら、それが入っていて嬉しい♪



2組目がお目当ての「ultimate」。カッコイイ系の音楽。私はあらかじめYouTubeでPVを観ていたのですが、やっぱり生で聴く方が断然いい感じでしたね。6曲のうちの5曲が、勢いのあるテンポの良い曲だったのですが、私はこういうのは結構好きです。ドカドカバンバングネグネするのっていいですよね(^o^)
ちなみにお友達の紹介で聴きに行ったのですが、メンバーの方々はみなさん気さくで勉強熱心な方ばかりで、ぜひともこれからバシバシ活動していただきたいところです♪
今回のライブでは、最後の曲がとくに良かったです。これはYouTubeですでに聴いていた曲だったので聴き慣れていたせいもあるのかもしれませんが、実際に目の前で演奏されるとまた違った感じがしましたね☆






3組目は「RUSTY」。ボーカル登場からしてインパクトがあって面白かったです! いや、面白がるところじゃないのかもしれないですが、でもとても面白かった(^_^) 首に2つも3つも羽毛のマフを巻いた、長めの前髪が目の上にかかって耽美な、そしてややコロッとした体型のボーカルが華麗に登場したのですが、この人の歌がめっちゃうまい…やだ、カッコイイ……! 曲も演奏も素晴らしくて、この日の奏者のなかでは、この「RUSTY」が一番上手だなと思いました。まー、私は音楽のことなどはサッパリ分からないわけですけれども…; でも、ライブ慣れしている感、というんですかね。お客さんと一緒に楽しもうという意志を強く感じて、そこにとても好感が持てました。楽しかった!





そんなわけで、久しぶりのライブハウス体験でした。なんにせよ、楽器が演奏できるって凄いな! と、これに尽きますね、私は。そういうのは見ているだけでも楽しい。生演奏が好きだし、情熱を持って楽しそうに何かに取り組んでいる人を見るのが好きです。なので、面白かったです(^o^)!







歌川国芳展(大阪市立美術館)

2011年05月09日 | 学習






大阪市立美術館の「歌川国芳展」に行ってきました。この展覧会は前期と後期に分かれていて、私が行ったのは前期(4/12~5/8)のほうです。


さて、黄金週間のまっ只中の美術館は予想通り大混雑でありました。やっぱり平日に行くべきだった…! 美術館に入ると、案内のお姉さんが「順路は決まっていません、おならびにならなくても、お好きなものからご覧下さい。肩越しにご覧いただけます!」とおっしゃる。……肩越しかー。うーむ、うーむ。。。

作品はさほど大きなものはなく、その前にはずらずらと人垣ができていました。肩越しにご覧いただけると言われても、実際のところはそれでは作品の色合いが分かるくらいで、細部まで眺めることはできず、何枚かの作品はいったい何の絵なのかすら分かりませんでした…(-_-;)しまったなー、やっぱ本当に平日に来るべきだった…!


この「国芳展」には連休中のK氏とともに行ったのですが、人ごみにすっかり閉口した我々は、ともかくこの日の目的の「国芳の猫関係の作品」をみるべく、館内に展示されたたくさんの作品をほとんど素通りし、奥へ奥へと進みます。

前期の展示品は、「武者絵」「説話」「役者絵」「美人画」「肉筆・板木・版本ほか」「子ども絵」「風景画」「摺物と動物画」「戯画」「風俗・娯楽」というようなラインナップとなっていました。

我々の目的は「動物画」と「戯画」でしたので、先にそっちを見て、あとで順路を逆走して最初の方からちらちらと(結局肩越しに;)作品を見てまわりました。「武者絵」のコーナーには、おそらく今期の目玉である「相馬の古内裏」(有名な大きな骸骨のあれ)と「宮本武蔵の鯨退治」(これまた有名な巨大鯨のあれ)もありました。この2枚は並んで壁にかかっていましたが、恐ろしいほどの人垣ができていましたので、見るのに一苦労しましたよ。もう少し色鮮やかなものを想像していましたが、それほどでもなかった。でもそれは館内の照明がやや暗いせいもあったかもしれないですね。




さて、国芳と言えば猫。下調べをちゃんとせずに見に来ていた私は、「もしも今期の展示に猫関係のものがなかったらどうしよう…」といささか不安だったのですが、ちゃんとありました。よかったー!

「猫の当て字 ふぐ」とか、「たとゑ尽のうち」(ことわざに関する猫の絵があれこれ書いてある)とか、「流行猫の曲手まり」(猫が当時流行していた曲芸師を真似てまりで曲芸しているさま)なんかは、よかったです。猫ー!

猫のほかには、狐がいい感じでした。「狐の嫁入り図」で後ろの松明みたいなのをくわえた狐が可愛かった。それから「金魚づくし いかだのり」の金魚とか、「狸の川がり・狸の夕立」なんかも面白かったです。ユーモアが溢れていて、ニヤニヤしてしまいますね。


ほかには、「みかけハこハゐがとんだいゝだ」もありました。半裸の男たちが寄せ集まって、人の顔を形成しているあの作品です。私はどうもこれをみると、昔『探偵ナイトスクープ』でこの作品を3次元での再現に挑戦していたのを思い出してしまって、二重に面白かったです。ははは、くだらなくって楽しいな!

また、どの作品も細部まで異常に凝っていて、着物の柄や奥の奥にいる人物の表情などなど、ちらっと見るのではとても見尽くすことができないようでした。時間を取って、もっとじっくり眺めるべきでしたね。反省、反省。



ミュージアムショップでは、これを買ってきました(K氏が)。



これは前期ではなく後期の出展になるようですが、「きん魚づくし ぼんぼん」。金魚が蛙の手を引いております。そしてここに登場している全ての金魚は、猛烈に面白い顔をしております。うぐっ、これはたまらない…!





「歌川国芳展」は前期と後期で、展示品を総入れ替えするそうですから、後期もできれば行きたい。今度はきっと平日に行こうっと!