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『蜘蛛女のキス』

2012年05月19日 | 読書日記ーラテンアメリカ

マヌエル・プイグ 野坂文昭訳
(集英社版ラテンアメリカの文学16)




《内容》
おまえは蜘蛛女、男を糸で絡め取る。特命を持ったホモセクシアルの男は、テロリストの青年に近づいていった……。プイグが描く異端の愛。
少年時代から映画に夢中だったプイグは、22歳でイタリアへ留学。映画の勉強を始めた。しかし映画製作の権威主義に絶望。シナリオを書き始める。映画、フォトコミック、推理小説などの大衆文化的なメディアのパロディ形式の小説はいずれも好評である。


《この一文》
“「幸せを味わってるときが素晴しいのはねえ、バレンティン……それがいつまでも続きそうな気がすることなの、惨めな気持になんて二度とならないみたいな」”





初めてプイグを読みました。有名な『蜘蛛女のキス』です。プイグはアルゼンチンの作家であり、ラテンアメリカ文学に興味のある私としてはいつかは読もうと思っていましたが、とうとう読みました。
『蜘蛛女のキス』については、有名作ということもあっていくらかの予備知識というか、イメージがありました。それで、これはきっと悲しい結末になるのだろうと予想して読んでみたら、やっぱり悲しい結末でしたね。でも、悲しいというだけではなかった。悲しいというだけではなくて、何か胸がざわざわとする。このざわつきは何だろうかとしばらく考えてみましたが辿り着けなかった。

しかし、訳者によるあとがきを読んでいると、このようなことが書かれてあります。

 つまり、二人は〈搾取的性愛〉を乗り越えることが
 できなかったがゆえにこの物語は、メロドラマであ
 ると同時に悲劇なのである。

なるほどなあ。分かったような、分からないような。しかしこれは大きなヒントになりそうですね。


さて、『蜘蛛女のキス』の主人公は二人。二人とも同じ監房に収容された受刑者であり、ひとりは同性愛者のモリーナ。もうひとりは革命運動家のバレンティン。

モリーナはバレンティンに様々な映画の筋を話して聞かせるのですが、そこがとても面白い。小説の中でさらにいくつかの映画が物語られるのです。モリーナの語る映画の内容は、非常に視覚的で美しく詳細に描写されていて、実際に映画を観ているような気持ちにさせられます。私は『甦るゾンビー女』の話が好きでしたかね。ここで語られる映画のいくつかは現実に存在する映画を元にしているそうで、『黒豹女(Cat People)』は私も昔観たことがあるような。

物語の大部分は、閉ざされた監房で過ごすモリーナとバレンティンの会話によって成り立っています。モリーナとバレンティンの動作についても、すべて会話から推察されるようになっています。誰々が~~した、という説明書きはありません。
また、途中にはモリーナと刑務所長とのやり取りがシナリオ形式で、モリーナの行動を監視する内容が記録形式で、さらに第1部と第2部の終わりに長大な注釈(読むべき注釈として)が付いているという、ちょっと特徴的な構成になっています。モリーナが映画の内容を語るその作品自体も映画のように見えてくるのが面白いですね。全体的に非常に視覚的であり、会話に終始するためかとても直接的な感触のある作品だったかと思います。


とにかく、とても読みやすく、あとに奇妙な余韻を残す物語でありました。愛。抑圧からの解放。ほんとうに自由に、幸福になるためには、私たちはどんなふうであったらいいのだろう。男性性、女性性、内と外、これは私たちをはめこんでいる枠だろうか。私たちの行動を左右し決定するのはその枠組みだろうか、私たちの心を動かす事柄もその枠組みがなければ違ったふうにあらわれるようになるのだろうか。誰からも奪わず、奪われず、そんな人間関係を構築することは可能だろうか。そしてまた枠組みと役割とをどう区別したらいいのだろう。

一気に読んでしまえばよかったのに、細切れに少しずつ読み進めてしまったことが悔やまれます。モリーナとバレンティンの、映画以外のことで交わされるわずかな言葉の中には、とても印象的なものがいくつかあったので、ひとまずはそれを挙げておくことにしましょう。考えるのは、またいつか。


“希望を失うことほど恐ろしいことはない、ところがおれはそうなってしまった……自分の裡にある拷問器が、もうすべては終ったとおれに言うんだ、このあがきはこの世で経験する最後のことだと……おれはキリスト教徒みたいだ、あの世があるようなことを言ってる、実際にはありもしないのに、そうだろう?……”

“ああ、ずっと考えてたんだ、そのことをね。あんたがおれに対して寛大なのが……気に障ったとすれば、……それは、おれもあんたに対して同じ態度を取らされるのがいやだったからなんだ ”

幸せを味わってるときが素晴しいのはねえ、バレンティン……それがいつまでも続きそうな気がすることなの、惨めな気持になんて二度とならないみたいな ”






バルガス=リョサがノーベル文学賞受賞

2010年10月08日 | 読書日記ーラテンアメリカ

青い顔の人がバルガス=リョサ。
眼鏡の人の右上。





たまには時事ネタを。



ペルーの作家マリオ・バルガス=リョサが、今年のノーベル文学賞を受賞したというニュースを見ました。え! まだ獲ってなかったのか! 私はてっきりもう貰ってたんだと思っていましたが、それにしても、いや実に素晴らしいニュースですね。

私はバルガス=リョサ氏の作品はいくつか読んでいますが、この方ご自身のことはあまりよく知りません。ニュース映像を見る限りでは、非常にハンサムな方ですね。試しにgoogleさんで画像検索してみたところ、映画俳優みたいに素敵な顔写真が唸るほど出てきました。はぁ~、こんなソフトな物腰の美しい顔をした人が、「子犬たち」(上の『ラテンアメリカ五人集』収録)みたいな残酷なお話を書くのかと思うとゾクゾクしますわね。これまで作者のルックスに注目したことはありませんでしたが、リョサ氏については、今後は新しい眼差しで読んでゆきたいと思ったのでした。あら、私ったらとんだミーハーだわ!



先日ちょうど岩波文庫から『緑の家』が出たばかりなので、これは売れるんじゃないでしょうか。今のところ私の手元にあるのはアンソロジーに収録された短篇のみです。長篇はひとつも持っていません。というのも、どれも入手困難なんですよね。これを機に各社から再版されることを切に願っております。特に『世界終末戦争』を! お願い!!




これから読むつもりの本

2010年09月29日 | 読書日記ーラテンアメリカ

そのうち読む予定の南米文学3冊。
できれば今年のうちに読みたい…!




南米文学を読んでいると時々「悪魔の島」というのが出てくるのですが、それがどのへんにあるのかなーと調べてみると、仏領ギアナにあるらしいんですよ。で、仏領ギアナってどこですか? と調べてみると、私はどうもラテンアメリカの国々の正確な位置関係を把握していなかったという恐ろしい事実に直面してしまいました。ウルグアイとパラグアイなんて、思っていたのとは全然違う場所にあったYO!

そんな、秋の始まり(´・ω・`) はやく覚えようと思って、ときどき南米の地図を眺めたりしています。ああ、今日もつぶやきのような更新になってしまった……!





『三つのブルジョワ物語』

2010年09月10日 | 読書日記ーラテンアメリカ

ホセ・ドノーソ 木村榮一訳(集英社文庫)



《内容》
男の人って、〈命令したり〉、〈働いている〉のはおれたち男なんだ、だから女には何の力もないんだと思い込んでいるけど、本当におばかさんだわ。というか、無邪気なのね。…わたしたちを甘く見てはいけないわ。…(「チャタヌーガ・チューチュー」より)。ほかに、ブルジョワ社会を舞台に、人間のうちに潜む狂気と妄想をコメディ・タッチで描く「緑色原子第五番」「夜のガスパール」を含む傑作三部作。


《この一文》
“うわべは、あなただけがわたしのすべてよという態度をとっているが、その実あれは自分のことしか考えていないのだ、いやな女だ、いやな性格の上に臆病ときている、今だってそうだ、自分のいない間に、いくつかのもの、いや、たぶん沢山のものが失くなっているはずだが、それを認めるのがいやなものだから――誰だっていやなことは分かりきっている――、ベッドで狸寝入りをきめこんでいるんだ。”
  ――「緑色原子第五番」より




ホセ・ドノーソの三部作。私は最初の「チャタヌーガ・チューチュー」を3回くらい読みながらその先へ進めないでいましたが、今回ようやく読了。本の裏の内容説明には「コメディ・タッチ」などと書かれてありましたが、なかなか気持ちが暗くなる感じで面白かったです。


「チャタヌーガ・チューチュー」

3つの物語の中では、描写はいくらかグロテスクではありましたが、雰囲気と内容はもっとも明るく軽く楽しい、わりと笑って読めるような作品でした。

医師アンセルモとその妻マグダレーナは、有名モデルのシルビアと建築家ラモンのカップルと知り合う。シルビアは大変に美しい女だが、彼女のつるつるした顔のなかに鼻を見た者はおらず、聞くところによると毎朝恋人のラモンが彼女の顔に目や鼻を美しく描き込んだり、体の部品を組み立てたりしているのだという。アンセルモは彼らの邸宅に招かれて、どういうわけかシルビアと二人だけで一夜を過ごすこととなり……というお話。

物語の最初のほうで説明がある通り、シルビアはまるでマネキンのような女で、顔を自在に描きかえたり、腕や脚を取り外したりできるのです。普通は化粧を拭い取るための「ヴァニシング・クリーム」ですが、この物語におけるそれはすべてを消し去る魔法のクリームで、それによってラモンに両腕を外されどこかに隠されてしまったと言いながら、夜の屋敷をうろついていたシルビアと暗闇のなかで遭遇するアンセルモ。シルビアは顔立ちもまた半分以上がかき消されていて、口に当たる部分がもの言いたげにもごもごと動いている。このあたりはとってもホラーです。

アンセルモは、顔もなく腕もないシルビアに対して言いようのない欲望を感じ、そのまま浮気の肉体関係を結んでしまうのですが、ここからが物語の面白いところでした。
男と女、支配権を握るのは一体誰なのか。最後までぐいぐいと読まされます。




「緑色原子第五番」

私としては、3つのなかでこれがもっとも恐ろしかった。

歯科医ロベルトとマルタは新しくマンションを買ったばかり、子供のいない彼らが情熱を傾けるのは、家を素敵に装飾し、住みやすくすることだった。ロベルトには絵を描く趣味もあり、ある日曜日の朝、「緑色原子第五番」と名付けた自分の作品(これは妻にプレゼントしたもの)を玄関に飾ってみた。そこへマンションの守衛にそっくりな男(おそらく弟だろう)が訪ねてきて、部屋の中を眺めてまわり、帰り際にさっと「緑色原子第五番」を外して持ち帰ってしまった。唖然とするロベルトだったが、その時を境にして、家の中からさまざまなものが消え去っていく……というお話。

人間にははたして物をすっかり所有するなんてことができるのか。物を所有するとはどういうことなのか。と問われているよう。(以下、ネタバレ注意)

ロベルトとマルタは二人の家を飾るさまざまな物に対して愛着と執着を見せるものの、それを目の前で奪われていくときにも、彼らがブルジョワ階級に属しているという自尊心からか、あるいは育ちの良さからくる控えめさのせいなのか、略奪者に対して、それは自分たちの所有物であり持ち出すことを許さない! と告げることがどうしてもできない。家から物が失われていくだけでなく、ロベルトは外出するたびに「もう二度と家へ帰る道を見つけられないのではないか」という妄執に悩まされるようにもなる。そしてふたりは、互いのそういう頼りにならない有様を罵り合うことになるのでした。

「これは私のものだ」と宣言するためには、意外と力が必要になるのではないかと思わされます。ロベルトとマルタはブルジョワなので、お金の力でもってさまざまな物を手に入れてきたわけですが、いざそれを奪われる段になると、自分のものだと思いながらもなぜか指をくわえて見ているだけしかできない。不条理に憤りつつも、(ブルジョワらしく振る舞うべく)どうにか取り澄ましてやりすごそうとするのに、物を奪われれば奪われるほど、彼らの表面を覆っていたものは引き剥がされてゆき、最後はすべて取り払われた剥き出しの本性で掴み合い殴り合い罵り合う。恐ろしい物語でした。

結局、物を所有しようというのは、何らかの力で誰かの持ち物を奪い取ってくることでしかないのでしょうか。お金を介した交換ならば上品で円満な行為に見えるけれども、力の行使には変わりない。そこにお金と同等かそれ以上の別の力が働けば、物の所有権は簡単にどこかへ移ってしまう。という恐怖。
また一方で、そのように物に対して力を注ぎまくっては、物にますます支配されてゆく人間の姿にも恐ろしさを感じます。人は物を所有しているつもりで、物によって支配されているのだった。なんてこった。恐ろしい!


とにかく、最後まで先の読めない暴力的なまでに緊迫感のあるお話でした。疲れるほどに面白かった。




「夜のガスパール」

これは少ししみじみとする物語。とても悲しいお話でしたが、これは私の今年のテーマと深く関わるものでもありました。


シルビアは夫のもとで育てられている16歳になる息子を、恋人のラモンと暮らす家へ呼び、3ヶ月間をともに過ごすことになった。自由気ままに暮らすことを信条とするシルビアは、息子のマウリシオの年頃なら欲しがるだろう物をなんでも買ってやろうと思うが、彼は何もいらないと言う。それどころか、行きたいところもないし、食べたいものも特にないのだと。不安に駆られるシルビアだったが、あるとき開いたドアの向こうから、マウリシオの口笛が響いてくるのを耳にする。その旋律はシルビアの不安をいっそう掻き立てるような音色で……というお話。


青春小説といった風情。ほんものの自由とはどういうものか、ほんとうに束縛されないとはどういうことか。自分を取り巻く世界にまったく居所を見出せない思春期のマウリシオを通して、そういうことが描かれていたかと思われます。(以下ネタバレ注意)

シルビアは有名モデルで(「チャタヌーガ・チューチュー」にも登場している。この3部作には同じ人物が幾度も登場していて、彼らがひとつのブルジョワ社会を形成しています)、彼女はずっと自立した自由な女性としての勝手気ままな暮らしをしてきたので、母親としてどのようにマウシリオに接したらよいのか戸惑います。父親の家で厳しく育てられたのだろうと想像するシルビアは、マウリシオに対して年頃の男の子ならそう望むはずだと彼女が思い込んでいるように「何でも好きにしていいのよ」と言うのですが、実のところ、マウリシオは父親でも母親でも他の誰の言う通りにもなりたくないのでした。

私の能力ではうまく説明できませんが、マウリシオの口笛には不思議な力があって、その力で彼は分身を生み出します。そして少しずつ彼の口笛による複雑な旋律や、ちょっとした仕草の癖などを分身へと伝授していき、マウリシオに生き写しの浮浪者であるその分身と衣服を取り替えることでなりかわるのでした。そうしてマウリシオは、こぎれいな服も、口笛も、顔も、身分も家族も、すべて失って「誰でもない人間」となり、入れ替わりに元浮浪者の少年は、シルビアやその他の大人が望むような普通の「ひとかどの人間に」なろうとするマウリシオとして社会へと溶け込んでゆきます。

円満に解決したようでいて、なんだかとても悲しい。「誰でもない人間」となった少年は、これでようやく好きなところへ好きなように旅立つことができるようになったわけですが、実際のところ、彼が社会を捨てたのか、社会が彼を捨てたのか、すべてを手放さなければ人は自由になれないのか、というところが私には悲しい。また実際のところ、すべてはマウリシオの幻想であり、彼は「誰でもない人間」としての部分を切り離すことで、社会に馴染み得る大人としての人格を獲得したというわけです。これがまた私にはとても悲しい。

マウリシオがひとりで散歩する途中の描写にこんな一文があります。

 “町の人たちは仕事をしているか、下の町に働きに出ていた。母親や
 ラモンと同じようになすべき務めを果たしているのだろうが、その
 せいで自分の顔立ちを、つまり自分自身を失っていた。”


「人は誰しも社会の中では何者かであらねばならない」ということです。役割は果たされなければならないのです。そういった何者かであるために、マウリシオは「自分自身」を「誰でもない人間」として社会の外へ押し出したのです。もう会えない。会ったとしても「誰でもない」その人物に対してはもはや恐怖のような感情しか感じられず、きっと分かり合えない。「誰でもない」その人は、いったいどこへ向かうのか。もう、それを知ることはけっして出来ない――。

ということに、私はどうしようもなく悲しみを感じてしまうのでした。社会とは、いったいなんなのでしょうか。「誰でもない人間」がその中で生きていけるはずがないと、生きていていいはずがないとは私も思うのですが、でも、どうして? 





そんなわけで、かなり読み応えのある一冊でした。ドノーソと言えば『夜のみだらな鳥』も読みたいのですが、全然見当たりません。図書館は遠くてなかなか行けないので、もう少し涼しくなったらまた考えようかと思っています。





『脱獄計画』

2010年09月09日 | 読書日記ーラテンアメリカ

アドルフォ・ビオイ=カサレス
鼓直/三好孝訳(現代企画室)

ラテンアメリカ文学選集




《あらすじ》
アンリ・ヌヴェール海軍大尉はある疑惑を受けて一族の長から追放され、フランス領ギアナの流刑地での任務に就く。不吉な予感に苛まれながら、彼の任地での生活が始まるが、自分の着任を熱烈に待っていたという総督にはいつまでも会えず、しかも総督の行動や態度、島の様子に異常なものを感じ――。


《この一文》
“ 何よりもまず、ヌヴェールは小心ではなかった。お喋りにかけては小心ではなかった。話すべきことを話すという点では勇気に欠けていなかった。欠けているのは、口にしたことの結果にまともに立ち向かう勇気だった。自分は現実には無関心である、といってはばからなかった。 ”







終盤にいたるまで、ほとんど何が何やら分からず、己の読解力のなさを呪いに呪いまくっていたのですが、どうにかこらえて読み進めた結果として、最後の最後でこれはやはりものすごく面白い物語であったことが分かりました。やった! がんばってよかった!!


物語はいささか複雑な形式で語られてゆきます。「解説」の鼓直氏による説明が分かりやすかったので以下に引用してみますが、こういう感じで物語られるのです。


 フランスではむしろイル・デュ・サリューとして知られているサルヴ
 ァシオン群島の流刑地に派遣されたアンリ・ヌヴェールの奇怪な物語
 を形づくっているのは、彼のおじアントワーヌ・ブリサックのやはり
 日録であるが、そこには、しばしば矛盾をはらんだ甥からの手紙の断
 片が差しはさまれている。また、べつの甥グザヴィエ・ブリサックに
 よって書き送られた手紙の一部や、アンリ自身が送付したメモと書類、
 「人倫にたいする、いや、ある種の人間の生命にたいする、無関心さ
 を要求する実験」を行なった総督の手紙や指示書、二つの刊行者注な
 どが付け加えられている。(中略)その断片化した、多様なレヴェル
 からなるテクストを喩えていうならば、ピースがさんざんに掻き混ぜ
 られたジグソーパズルである。破片が床に散乱した鏡である。

   ――「解説」より


そう、まさにジグソーパズルといった趣でした。飛び散った欠片をどのように繋ぎ合わせたらよいのか分からないまま、結末まで連れて行かれた感じ。おまけに、この結末というのが非常に印象的なものであるのですが、印象的ではあるものの、事件が決着した様子はうかがい知ることはできても、その真相がいったいどこにあったのかは分からずじまいで終わるのです。参った。参りました。登場人物はめいめい好き勝手に断片的な言葉を残しているだけであり、またそのように感じられるのはそれらの断片を好き勝手に抽出して語るアントワーヌ自身にも何か思惑があるのがありありと感じられるからで、公平な語り手とは言いがたい彼による語りの内容がどこまで本当のことなのかが、読者には(少なくとも私には)最後まではっきりとは分からない。

しかし断片的ながらもいくらか読者に分かることには、《地獄島》と総督をめぐる疑惑だけでなく、ヌヴェールといとこのグザヴィエとのイレーヌをめぐる関係、またアントワーヌとアンリの一族との対立などなど、いくつもの薄暗い要素が絡み合っている様子です。探偵が不在のミステリ。事件が起こり、事件が決着する。しかし謎は依然謎のままで置かれている物語。これは面白い。非常に面白かったです。

いったん読み終えて、これがとても面白いお話であると理解した私は、ジグソーパズルのようにあらかじめテクストがバラバラにちりばめられているのだということを念頭に置いて、もう一度最初から読み返してみることにしました。すると、なるほどヒントとなりうる言葉の数々が念入りにあちらこちらに配置されているということに気がついたのでした。うーむ、そうだったのか!(と言って、スッキリするかというと、否!)

もしも私がもっと注意深い読者であったなら、最初からひとつひとつの言葉に気をつけていたら、1度目の衝撃をさらに大きいものとすることができただろうになぁと思わないこともありません。まあ、しかし結末を知ってから読むという行為も十分に意味があったと思います。そのような楽しみ方を可能にする、むしろそのように読むことを前提とした物語だったのかもしれません。初読で理解できなかったのは、私の理解力が足りていないせいだけではなかったんだ! そうさ! 2度読むことで、おぼろげながらでもどのあたりが分からないままで放置されているのかを掴めただけでも収穫であった、と納得したいと思います。

というわけで、とても魅力的な幻想怪奇SF小説でした。面白かったなあ! 普通にミステリやサスペンスとして読んでも十分に面白いこの小説ですが、「解説」にもあったこのような眼差しをもって読むとさらに興味深い物語となりそうです。この不安感や孤独感はどこからやってくるのか。人は、自分に向って語りかけてくる誰かの言葉を、その言葉だけでどれくらい信じることができるのか。あるいは信じるべきなのか。そのようなことにまでも考えを及ばせたくなるような奥深い作品でありました。



 ボルヘスにとっての〈迷宮〉に比べることのできるビオイの〈島〉は、
 (中略)、究極のコミュニケーションの道を閉ざされた人間の絶対的な
 孤独を象徴している。われわれ人間存在は、永久に相接することなく、
 世界という海をただようことを宿命づけられた〈島〉でしかない、とい
 うわけである。

   ――「解説」より


(私はそこで久生十蘭の傑作短篇『湖畔』や、太宰治の『駈込み訴え』などを思い出したりもします。いずれも一人称による語りによって進行する物語であり、読者はいったんは盛大にお話に対して感激するものの、あとで一歩ひいてみるとそのあまりに一方的で一面的に語られる物語の真相への疑念が募るという構造になっていると私は考えます。同じ種類の面白さがこの『脱獄計画』にもあったような気がしますね)



さて、『脱獄計画』に先立つビオイ=カサレスの代表作『モレルの発明』を読みたいと以前から思っているところなのですが、「解説」によると『モレル』の方はこの『脱獄計画』とほぼ同じようなテーマを扱っており、さらにこれよりもいくらかシンプルな構造を持つ物語であるそうなので、いよいよ読んでみようかという気になりました。また私は他にもこの人の小説を何冊か積んだままにしているので、それを読むための弾みがつきました。ビオイ=カサレスを私は理解しきれないのではないかという強い恐怖に悩まされていたのですが(ビオイ=カサレスやボルヘスを読みこなすには、一定以上のインテリジェンスを要求されるのではないだろうかという強迫観念があるのです)、でも、なんかちょっといけそうな気がしてきたぜ。へへへ。






『わが悲しき娼婦たちの思い出』

2010年06月01日 | 読書日記ーラテンアメリカ

G・ガルシア=マルケス 木村榮一訳(新潮社)



《あらすじ》
これまでの幾年月を表向きは平凡な独り者で通してきたその男、実は往年夜の巷の猛者として鳴らしたもう一つの顔を持っていた。かくて昔なじみの娼家の女主人が取り持った14歳の少女との成り行きは……。
悲しくも心温まる波乱の恋の物語。2004年発表。


《この一文》
“私は、事物には本来あるべき位置が決まっており、個々の問題には処理すべきときがあり、ひとつひとつの単語にはそれがぴったりはまる文体があると思い込んでいたが、そうした妄想が、明晰な頭脳のもたらす褒賞などではなく、逆に自分の支離滅裂な性質を覆い隠すために考えだされたまやかしの体系であることに気がついた。 ”





だいぶ前に買ったまま、なんだか読めそうな気がしなくて放置してあったのですが、昨日ようやく目が合いました。すると読めた。驚くほどのスピードで読めてしまいました。なんてこった。本の見かけほどに長くもなければ、恐れていたほどに詰まらなくもなく、むしろ走り出したくなるような高揚感があるではないですか。

『わが悲しき娼婦たちの思い出』という題ですが、あまり悲しくありませんでした。それどころかとても明るい老人讃歌。老いてますます元気。数え切れないほどの女たちと交わってきた元新聞記者の90歳の老人が、自分のそばで裸でただ眠っているだけの14歳の少女への初恋に熱狂し、今も新聞の日曜版に出しているコラムの中で燃えるようなラブレターを書き募り、誤解にもとづく嫉妬から部屋の装飾品をぶんなげてめちゃくちゃにしちゃったりするという愉快な物語でした。けれども、たしかに老人と少女との愛は情熱的かつどこか神秘的で美しかったのですが、老人が過去に捨て置いてきたさまざまな女たちとの思い出はなるほど少し悲しいものばかり。そういうタイトル通りのところから始まって、意外に明るく終わるお話でした。


この小説は、こういう一文で始まります。

 満九十歳の誕生日に、うら若い処女を狂ったように愛して、
 自分の誕生祝いにしようと考えた。 


そして老人はその通り、狂ったようにうら若い処女を愛することになります。物語の冒頭には他にも予言めいた言葉が書き連ねられていますが、最後まで読むとその通りになるところが面白いですね。眠っている少女の手相を書き写して占師に見てもらうとか、乙女座の人間はどうだとか、そういう呪術めいたことが人物の言動の中にさりげなく紛れ込んでいるところがやはり魅力的でした。
実は最初はこれまでに読んだガルシア=マルケスの作品とは違った雰囲気を感じたような気がしたのですが、ハッピーエンドの予感が珍しかったのでしょうか、いずれにせよ変わらず面白かった。文字から目が離れませんでした。飛ぶように、猛スピードで文字が飛び込んできました。楽しかった。



結局のところ、老人は少女に対してこれといった行為に及ばず、眠る姿をひたすら眺め、汗を拭いてやり、体中に接吻するくらいです。起きている時の少女がどういう人物なのかを知らず、声を聞いたこともなけば(老人が空想の中に作り上げた少女は話すけれども)、本名も知りません。娼家の女主人の口から断片的に伝えられる情報があるだけです。けれども、老人と少女の間には確かに燃えるような愛情が通い合っているらしいという不思議。不思議なお話です。初めての恋に燃えて、いつ死んでもおかしくないと自分では思っていた老人が、全然死にそうにもなくなっていく過程が愉快です。自転車にだって乗ってしまいます。やる気がみなぎっている様子には、読んでいるこちらも元気がでるようですね。

しかし、そのような明るく愉快な老人の恋の向こう側に、これまで通ってきた無数の女たちの思い出が浮かんでは消えて行きます。そこには悲しみがある。たとえば、老人の家の家事をしに若い頃からずっとやってきていたダミアーナには、老人は肉体的な欲望を感じて関係を持ったものの恋愛は生まれず、「二十二年間あなたを思って泣いた」という老いたダミアーナをよそに、老人は別のところで「セックスというのは、愛が不足しているときに慰めになるだけのことだよ。」なんて言ったりもしています。なんて残酷なんだ。
想っても、相手からも想われなければ悲しいものとなってしまう愛もまた描かれていました。

悲しい思い出を越えてのハッピーエンド。この明るい終わり方が私はとても気に入りました。また、全体的に主人公がとぼけた感じに描かれているのが良かったですね。他にも老人が何人か登場しますが、誰も老いているからといって惨めに描かれ過ぎない。それがいいです。



面白かったです。いくつになっても初めて知ることがあるらしい。そいつは素晴らしいぜ!








『エレンディラ』

2010年01月21日 | 読書日記ーラテンアメリカ

G.ガルシア=マルケス 鼓直・木村榮一訳
(ちくま文庫)


《内容》
コロンビアのノーベル賞作家ガルシア=マルケスの異色の短篇集。“大人のための残酷な童話”として書かれたといわれる六つの短篇と中篇「無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語」を収める。

《収録作品》
*大きな翼のある、ひどく年取った男
*失われた時の海
*この世でいちばん美しい水死人
*愛の彼方の変わることなき死
*幽霊船の最後の航海
*奇跡の行商人、善人のブラカマン
*無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語

《この一文》
“「まだ子供だね」と彼は言った。
「そんなことはありません。この四月で十九歳になるんです」と彼女は答えた。
 上院議員は興味を持った。 
「何日だね?」
「十一日です」と答えた。
 上院議員は気が楽になった。
「すると、私と同じ牡牛座だな」そう言うと、ほほえみながらこうつけ加えた。「孤独の星だ」 ”
  ――「愛の彼方の変わることなき死」より




私にとっては、好きとか嫌いとか、そういう次元にはない1冊です。なんだか久しぶりに読み返したくなったので、読んでみました。この本のことを記事にするのは2度目です。

これまでにも何度か読み返してはいたのですが、今日になってはじめて、私はこの人のお話を読んで笑ったことがないということに気がつきました。翼に大きな翼のある、よぼよぼの男は雨の中を惨めに行き倒れており、またある晩には、海の向うから薔薇の香りが漂ってきて老婆は夫に自分を墓に生き埋めにして欲しいと頼み、またある貧しい村には見たこともないような美しい水死人が流れ着き、その美しさに打たれた村人は見知らぬ水死人のために盛大な葬式をとりおこなう。こんなにも奇妙な物語ばかりなのに、奇妙な光景が次々と繰り出されるのに、そこにはユーモアの気配がない。美しい水死人はエステーバンという名前だったんじゃないか、と決めつける村人たち。なにそれ。なに言ってるの? でも全然笑えません。恐ろしく大真面目なのです。

18歳だった私が(次の4月末で19歳になる冬のことだった)その時なにに驚いたのか、今でははっきりと思い出すことはできませんが、たぶん今日と同じように驚いたのでしょう。とにかくびっくりする。あまりに面白くてびっくりします。なんだこれ。いったいどうなっているんだろう。

ここから始まって、あれから私もさまざまなものを読みました。けれども、また最初に戻ってきたら、あれから私はあまり変わっていないことを知らされます。今でも読みこなせない。分からないことばかり。少しの分析すらできない。そんな気持ちさえ起こらない。ただ面白くて。

別に私は、他にたくさんある私の好きな本を読んだときのようには悲しくもならないし、うっとりするわけでもない、そもそもここに収められた物語の持つ意味すら掴めません。ただ面白い。ただ凄い。


世の中は私が思っている以上のものであるらしいと、今日もやっぱり思いました。






『魔法の書』

2009年11月09日 | 読書日記ーラテンアメリカ

エンリケ・アンデルソン=インベル 鼓直・西川喬訳
(国書刊行会)



《内容》
古本屋で見つけた一冊の本はキリスト生誕以来の歴史を物語る魔法の書物だった。けっして終わりまでたどりつけない不思議な本の物語「魔法の書」。
ミステリ狂の医者が自らの手で完全犯罪を成し遂げようとする。計画通りにすべてが運び、満ち足りた悦びに浸れるはずが……「将軍、見事な死体となる」。
民俗学に興味を持つ中学校の歴史教師がインディオの村から持ち帰ったのは小さな小さな人間の首だった。それを契機に浮かびあがる夫婦の愛憎劇「ツァンツァ」。
そのほか、身体がどんどん軽くなっていく男の話「身軽なペドロ」、天使を素手でつかまえようとする無謀な試みの行く末「手」、人間のようになるために魔法を禁じた妖精の国の話「決定論者の妖精」など、ユニークなアイデアと洗練された語り口で読む者を魅了する作品集。

《収録作品》
 *魔法の書
 *将軍、見事な死体となる
 *ツァンツァ
 *亡霊
 *船旅
 *事例
 *身軽なペドロ
 *空気と人間
 *手
 *屋根裏の犯罪
 *道
 *水の死
 *決定論者の妖精
 *授業
 *ファントマ、人間を救う
 *解放者パトリス・オハラ
 *アレーホ・サロ、時のなかに消える
 *森の女王
 *ニューヨークの黄昏


《この一文》
“「いや、何もそんなに驚くことはない」とラビノビッチはひとりごちた。「すべての書物がそういうものではないのか?」言語は、それ自体としては存在しない。存在するのは、それを話す者たちである。書物についてもおなじ。何者かが読みはじめるまでは、それは記号のカオスでしかない。読み手こそが、こんがらがった文字に生命を与えるのだ。
 ――「魔法の書」より ”

“待てよ。俺も行く。罪というものを作っておきながら、あとでそれを抑えるなんて、文明的じゃないと思っていたんだ。
 ――「決定論者の妖精」より ”



思ったよりも陰鬱な物語が多かったです。「亡霊」や「授業」といった短篇では、からっとした語り口で生きることの辛さや悲しみ、死の孤独というようなことを語っているので、気持ちが沈んでしかたがありませんでした。読んでいる時、私がちょうど体調を崩していたせいもあるかもしれませんが。

しかし、全体的に幻想的、滑るような勢いのある展開で、飽きさせない一冊だったかと思います。特に表題作の「魔法の書」は傑作ですし、「将軍、見事な死体となる」もかなり面白かったです。

「将軍、見事な死体となる」は、完全犯罪を成し遂げた医師は、フェアプレー精神を発揮して、自らが犯人であることを示すような証拠などもちゃんと残したりしていたのに、謎解きが始まると期待した矢先、事態は思わぬ方向へ進んで……というトホホな感じのお話です。これはかなり面白かったです。かなり皮肉のきつい物語であったかもしれません。殺人事件の謎解きが成立するためには、ある程度その社会が成熟・安定していないとならないともいえるかもしれません。グロテスクな展開には、しかし痺れました!


ゴホゴホと咳をしながら読んだので、あまり頭に入らなかったのが残念です。調子の良い時に読んだら、もっと楽しめたんだろうになぁ。





アルフォンソ・レイエス「アランダ司令官の手」/「夕食会」

2009年09月16日 | 読書日記ーラテンアメリカ

『美しい水死人』(福武文庫)
『遠い女‐ラテンアメリカ短篇集』(国書刊行会)
所収



《この一文》
“また、自分のことを知らない人がやってくると、わざと、目につくところに寝そべって<死んだふり>をするのだが、そのあとだしぬけに卑猥な指形を作ってみせた。かつての主人である司令官の顎を軽く叩くのがひどく気に入っていたが、蠅がうるさくまとわりついたりすると根気よく追い払ってやったものだった。司令官は出来の悪い息子でも見るように、そんな手をうっすら涙を浮かべ、やさしい目でじっと見つめていた。
 ――「アランダ司令官の手」より ”




ラテンアメリカの作家を整理する、第2弾。
今日はメキシコの学匠詩人・外交官であったアルフォンソ・レイエス(1889-1959)です。この人の作品は、『美しい水死人-ラテンアメリカ文学アンソロジー』(福武文庫)と『遠い女‐ラテンアメリカ短篇集』(国書刊行会)にそれぞれ1篇ずつ収められています。


まずは「アランダ司令官の手」(井尻香代子訳:『美しい水死人』所収)から。
さて、何度読んでも、燃え上がるような興奮を抑えきれなくなる物語というのがいくつかありますが、アルフォンス・レイエスの「アランダ司令官の手」もそんな物語のひとつです。これを読んだか読まないかで、私の人生は大きく違ったことでしょう。面白いのです。ありえないくらいに面白いのです。私がもっとも好きな短篇のひとつです。超傑作。

アランダ司令官は戦闘で右手を失い、その右手を剥製にして飾っておくことにします。よく手入れされ、ガラスケースに飾られた司令官の右手はしかしあるとき突然に自意識を持ち、好き勝手に家中を歩き回っては司令官の家庭に大混乱をもたらすことになる……というお話。

なにこれ。本当に何度読んでも面白過ぎます。この奇想! このユーモア! 短篇小説がこんなに面白いなんてことが、こんなにも面白く読めるなんてことがありうるだろうか! ほんとにもう面白いとしか他に言いようがないです。

この面白さを私はどうにか人にも伝えたいと以前からずっと思っていて、機会があるごとに一生懸命に説明しようと努力を重ねてきたのですが、なかなかうまく伝えられません。なにしろ一分の隙もなく面白いので、私は「面白い、凄い」のほかに言葉が出てきません。他に言いようがありません。たとえば、切断された手が自我を持ってその辺を這い回り、いたずらしたり筋トレしたり自分で運転してドライブに行ったり愛人である左手のもとへ夜ごと忍んできたり、しまいには文学に目覚めたり…なんて粗筋を説明しても、それだけではこの作品の面白さは伝えられない気がします。むしろ私はここで全文引用したいくらいです。そうすればいかにこの物語が驚異的であるかが分かってもらえるだろうになぁ。と、いつも己の説明能力の足りなさが恨めしく思われるのでありました。ついでに残念ながらこの本は絶版です。なんてこった!

それで今日もまた私は面白い、面白いとひたすら連発しているのですが、ただ愉快だとか笑えるという面白さがあるだけではありません。読者はここに描かれた《手》を通して、さまざまな問題に直面させられます(多分)。何度もしつこく読み返しているくせに私はまだこの物語を読みこなしているとは言いがたいのですが、多分ものすごく深いところにある意味を探ることも可能な作品なのではないかなと思います。

人生とは、社会とは、人類とは何か、というところまでだって行こうと思えば行けそうです。けれどもそんなことを考えなくても文句なしに面白く読める! というところがやはりこの作品の素晴らしさと言えましょう。好きです。もう無茶苦茶に。感動的過ぎる。


もうひとつは「夕食会」(入谷芳孝・木村榮一訳:『遠い女』所収)です。
正直なところ、私はこれはいったいどういう話なのかがよく分かりません。なにか意味深なところがあるのは感じるのですけれども。

見知らぬ二人の女性から夕食会に招待されて行ってみると、彼女たちは「僕」になにか頼みたいことがあるようで…というような話。うまくまとめられません。

いまのところこれは私の理解を遥かに超えています。見返してみるまで「アランダ司令官の手」と同じ作者によるものだと気がつかなかったのですが、とにかく幻想怪奇風味な一篇です。



というわけで、アルフォンス・レイエス。他にも読んでみたいところですが、邦訳はこの2篇以外になさそうです。残念だなー。ま、でも私は「アランダ司令官の手」と出会えただけで、かなり、十分に満足しているのですがね。





パチェーコ「砂漠の戦い」/「遊園地」

2009年09月10日 | 読書日記ーラテンアメリカ

ホセ・エミリオ・パチェーコ 安藤哲行訳
(『ラテンアメリカ五人集』集英社文庫/『美しい水死人』福武文庫)
所収


《この一文》
“わたしたちはみんな偽善者なのだ。他人を見てはその人を判断するが、自分のこととなると同じようには自分を見つめたり判断したりすることができない。
  ――「砂漠の戦い」 より”


“鳥舍の向こうに汽車の駅がある。たくさんの子供たちが、ときには両親に連れられて、汽車に乗る。胸をわくわくさせて乗りこみ、汽車が動きはじめるとびっくりするが、やがて嬉しそうに茂みや、森や人工の池を見つめる。この汽車にはひとつだけおかしなところがある。それは二度ともどってこないということ――もどってきたとしても、汽車に乗っていた子供たちはもう大人になっている。そのせいか、恐怖にとりつかれ、しきりに後悔する。
  ――「遊園地」より ”






この素晴らしい批判精神。私はうっかりして今まで素通りしてきましたが、今日になってようやくパチェーコという人に気がついたのです。ホセ・エミリオ・パチェーコ。1939年、メキシコ生まれの作家。

現代文学は日本のものであれ世界のものであれ、どうにも読む気のしない私が、どうしてラテンアメリカに限っては面白く読めるのか。本当にどうしてなのでしょう。摩訶不思議に幻想的だからでしょうか。それとも、あの重苦しい熱気のためでしょうか。あるいは、この独特の問題意識のためかもしれません。何であれ、私が求めているものが、ここには溢れるほどにあるようです。読めばきっと溺れてしまう。


『ラテンアメリカ五人集』(集英社文庫)所収の「砂漠の戦い」は、かなり印象的な物語です。同級生の母親である美しい女性に恋してしまった少年時代を回想するという形式で語られるお話なのですが、単なるノスタルジーで終わっていません。ハードな展開にびっくりします。それにしても悲しい物語です。

第二次大戦が終わり、新しい大統領が政権をとり、急速に近代化していくメキシコ。雑多で不安に満ちた時代の浮き沈みの激しい生活にはわずかな希望があったものの、欺瞞とレッテル貼りばかりの社会や大人に対する少年の失望と怒り、違和感といったものを、細かく章分けしてスピーディーかつ鮮やかに描いてあります。ちなみに、不味そうな食事の描写の不味そうさ加減が凄かったです。

カルロス少年が恋した同級生の母親マリアーナは、何か美しいもの、たしかなものへの憧れを象徴するものだったと言えるでしょうか。手に入るだなんて思ってはいなかったけれど、ただ恋をしただけだったのだけれど、しかし、永遠に失われてしまったマリアーナ。

夢のように手がかりをなくしてしまった過去を振り返ると、現在が当時からはまるで様変わりしてしまったことの喪失感とともに、当時未来に対して望んでいたようには何も変えることが出来なかった現在の我々への失望感もまた同時に感じられます。また、マリアーナが結局どうなってしまったのかを思うと、非常な恐ろしさも感じます。一人の人間を抹殺してしまえる世界があったとしたら。覚えているのは自分だけで、誰にもそれを確かめることができないとしたら。

短い物語ではありましたが、引用したくなるような文章をたくさん含んだ作品でした。面白い!


『美しい水死人』(福武文庫)所収の「遊園地」は、これまでまったく印象に残らなかったのですが、パチェーコという人の作品だということを念頭に置いて読み返すと、なるほどその人らしいという気がしてきます。

“遊園地の中の遊園地に含まれる遊園地に包みこまれた遊園地の中の遊園地、つまり、それがたくさんの遊園地を中に含んでいると同時に幾重にも重なる遊園地の中に含まれる遊園地という果てしない遊園地の連鎖の最小の環となっており、どの遊園地にいても誰一人として自分が人から見られ、どんな人間か判断され、批判されることなしには、他人を見ることはできないのです。”

こういうことを言い出す人って好きですよ、私は。


というわけで、パチェーコをもう少し読んでみたくなりました。この2篇の他に邦訳されているものは、あと1冊『メドゥーサの血』という短篇集があるそうです。よしきた!