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『唐宋伝奇集』(上)

2010年09月01日 | 読書日記ーその他の文学

南柯の一夢 他十一篇
今村与志雄訳(岩波文庫)



《内容》
「南柯の一夢」の主人公は官僚を嘲笑する自由人である。そういう男が役人になって栄達の限りをつくし、得意と失意をたっぷりと味わう。味わったところで夢からさめ、槐の根もとを掘るとどうだろう、夢みたとおりの小さな蟻の王国があったのだ。唐代伝奇の面白さは、幻想を追っているようで実は深く現実の人間の本質をついているところにある。

《この一文》
“「僕は、いま、やっと生きているだけです。愉快とはとんでもありません」
 呂翁、
「それが愉快とは申せないとするなら、なにを愉快と申せましょう?」
  ――「邯鄲の夢―枕中記」より ”


“神を語り、怪を説くことは、儒教教典の教えにそむくけれども、官位を盗んで生命に執着する人々にとって、これが戒めとならんことを。後世の君子が、南柯を偶然の事と考えて、名誉や地位でもって天地の間で驕ることがないように希望する。
  ――「南柯の一夢―南柯太守伝」より ”






夢を見なくても、空想をしなくてもじゅうぶんに生きてはいけるでしょうが、もしもそれらをしなければ、人は一通りの人生しか生きられないことになると言えましょうか。



蔵書を減らそうという試みのために、私はいよいよ岩波に手をつけようかと決断しました。この一年の度重なる引っ越しで、既に100冊以上の本が私のもとから去ったわけですが、でもまだ減らさないと本棚に収まらないのです。個人的には収まらなくてもいいような気もしますが、なんとなく何とかしなくてはいけない雰囲気が漂っていて……

沈んだ気持ちにうなだれながら、私は『唐宋伝奇集(上下)』を手に取りました。これはもう15年も前に買った本で、最近読んでいないし、いつでも手に入りそうだし、思い切って処分してしまおうかな。そういうことなら最後にもう一度だけ読んでおこう。ペラペラ(ページをめくる)。

 なにこれやっぱり面白すぎ!
 手放すとかって……絶対無理!!

ということになりました。うーむ、まあ当然の成り行きですね(^_^;) 無理ですよ、無理、無理! 私には無理です! いやー、無理だったわ\(^o^)/




さて、『唐宋伝奇集』です。
タイトルの通り、上巻には唐代、下巻には唐代から宋までの伝奇小説を集めてあります。非常に面白い。中・高校時代に漢文の参考書を読みふけっていたのを思い出します。あの頃はどうしてあんなに漢文ばかり好きだったのか自覚できませんでしたが、まず単純に物語が面白かったからなんだなぁ。長いこと忘れていましたが;

『唐宋伝奇集』の上巻に収録された物語はどれもこれも豪華絢爛、ロマンチックで情緒豊か、洗練された美意識に溢れていて大変に面白いのですが、なかでもとくに印象的だったのは、ふたつの夢のお話。「邯鄲夢の枕」と「南柯の一夢」。どちらも人の世のはかなさを言う時によく用いられる、有名なお話です。しかし、あらためて読むとやはり面白い。

「邯鄲夢の枕」は、貧乏な書生が、旅の途中の道士に自分の境遇を嘆いてみせたところ、道士が青磁の枕を貸してくれ、書生はその夢の中で栄華の限りを尽す。欲望の限りを尽して生涯を終えたところで目が覚めると、さきほど枕を借りた時からさほどの時間も過ぎてはいなかった、というお話。普通に面白すぎる。なんて面白いんだろう。

「南柯の一夢」は、金持ちだったが落ちぶれて酒ばかり飲んで暮らす男が、ある時飲み過ぎて加減が悪くなり庭の槐(えんじゅ)の根もとで眠ったところ、「槐安王国」というところから迎えがやって来て、手厚くもてなされる。男はそこで栄達の限りを尽すが、王国の滅亡が迫って失意のうちに故郷へ帰るところで目を覚ます。不思議なことに男が寝入ってからまだ少しも時間が経っておらず、庭の槐を掘ってみると男が栄華を得たのと同じさまで蟻の王国が見つかった。さらに不思議なことには、夢の中で出会った現実世界での友人はふたりとも死の際にいて、男自身もその後予言通りの時期に死んでしまった、というお話。これまた面白すぎるお話です。この不思議具合が絶妙です。

これらが大昔に作られた物語であるとは、人類の創造の歴史ってほんとうに刺激的で素晴らしい。昔の人もやはり人生を夢にたとえたりしていたのですね。人生と夢との不思議な関わりというのは、もしかすると人間が夢を見始めてからずっと脈々と受け継がれてきた謎なのかもしれません。ロマンだわー。






夢を見なくても、空想をしなくてもじゅうぶんに生きてはいけるでしょうが、もしもそれらをしなければ、人は一通りの人生しか生きられないのではありますまいか。人生は夢だ、幻だ、蜃気楼だ。それはつまり、素晴らしいものであれとどんなに願っても結局生きることというのは儚く空しいものだと認めざるを得ない一方で、ただ我々が願いさえすればその心の中では喜びと興奮に充ちた色とりどりの生を無限に、幾通りも同時に生きられるということでもあるに違いない、と私は思うのでありました。侘び暮らしのなかで豪勢な夢を見る。どちらにしろ、それは決して惨めでも悲しくもないはずさ。

夢よ、幻よ、蜃気楼よ。いつかの誰かのまぼろしよ、そこで待っていろ。いま私が飛び移るから。



久しぶりに震えるほど興奮しました。







『歯とスパイ』

2010年07月22日 | 読書日記ーその他の文学

ジョルジョ・プレスブルゲル 鈴木昭裕訳(河出書房新社)




《内容》
SD4・右上第一小臼歯。この歯が痛むとき必ず、要人が暗殺される! そして、IS1・左下中切歯。この歯が黒ずんだとき、不倫の愛がはじまった。続々と登場してはわたしの運命を狂わせる奇人歯科医たち。すべてが〈歯〉のしわざなのか。
東欧的想像力が生んだ寓意と奇想あふれる物語。


《この一文》
 “「肉体のなか、それに歴史や宇宙のなか、どんなに遠くかけ離れたもののあいだにも、なにかのつながりは隠されている。これが偶然でありえようか?」その朝、わたしはそう思った。万物照応の理をかいま見てからは、その思いが、六年以上にわたり、わたしの心を照らしてくれた。その後、わたしの人生が嘘と作為と本心のはざまでこじれだすと、その光は少しずつ消えていった。それ以来、わたしは半ば盲いたまま、すくわれない薄明のなかにある。だが、いっそのこと、まったくの盲目であるほうが幸せなのではなかろうか? ”





いったん流れに乗ってしまうと、しばらく同じようなテーマを扱う物語が立て続けに目の前に現われるものです。『シルヴェストル・ボナール』で人生の空しさを思わされた私はその後は何を見ても空虚な気持ちしか沸いてこず、それを加速させるかのように、私の目に飛び込んでくるのは人生の空しさを扱った物語ばかりでした。これはいつまで続くのだろうと問いかけそうになりましたが、そもそも蔵書を落着いて見返してみると、私はこんなテーマの本ばかり集めているんですよね。じゃあしかたない。

ついでに書くと、あまりに暗くなってきたので、ちょっと前に録画してあったBBCのドラマシリーズ『華麗なるペテン師たち2』の第二回をまだ観ていなかった! そうだ気分転換にあの愉快爽快なドラマを観ようじゃないか! と張り切って観てみたらそれは、アルバートが詐欺師仲間の孤独な死をきっかけに老年に至った自分の人生を迷ったり、その他のメンバーも「死」と「嘘に塗り固められた詐欺師としての自分の人生」に直面させられたりする話でした。ぐぐっ、これは……。というわけで、このくそ暑いのに、私の心は静まり返っています。いいですね、これはこれで。暑さだって、いつまでも続くものではないということですよ。はは。


さて本題。
帯にある「この歯が痛むとき必ず、要人が暗殺される!」という言葉に惹かれて買った小説です。なにこれ、すごく面白そう! と興奮した私は、買ってすぐに最初の30ページほどを読みました。読んでみると、これは予想していたような痛快スパイアクション小説でもなければ、「歯の痛み」と「要人暗殺」という結びつき難い二つの物事を愉快に結びつけて描いた単なるユーモア小説でもないことが分かりました。当時の私はそれ以上読み進めることができず、数ヶ月後に再度挑戦した時も70ページ以降よりは進められず、今回3度目でようやく読み通すことができました。物語にはやはり読み時というものがあるのです。冷房のない部屋で、汗と勇気を振り絞り、キリキリと締めつける胸の痛みに歯を食いしばって読みました。思っていた以上に暗くて面白かったです。暗いユーモアがあります。いかにも私の好きそうな物語でした。

登場人物はなかなか魅力的です。淡々と語りを進めつつもどこか間抜けさを感じさせる主人公のS・Gは、東欧のとある国に生まれ、秘密の使命を帯びてさまざまな職に就き、世界を飛び回ります。どうやらスパイのような仕事をしているらしいのですが、その仕事ぶりは地味なもので、第一線というよりは裏方であるようです。S・Gの唯一の友人である有名な音楽家でスパイ仲間のマエストロGも面白い人物です。主人公とマエストロとの緊迫感のある命がけの友情のありようは実に読みごたえがありました。

物語は細かく章分けされ、章のそれぞれを独立したお話として読むことができます。主人公が生まれ、歯が生え、それが生え変わり、永久歯が抜け落ちてしまうまでのことが、数々の恋愛話や不可思議な出来事などを盛りこみながらテンポよく語られてゆきます。彼の歯の一本一本がどういう運命を辿ったのか、その歯は何を象徴していたのか、その歯が傷つき浸食され痛みの後に抜け落ちるちょうどその時、世界のどこかでは紛争や戦争のために多くの人間が虐殺されたり、名のある人物が暗殺されたりします。世界の諸々の大事件(はっきりと名指しされてはいないものの、現実の事件と思われる。ベトナム戦争やチェルノブイリの事故など)と、S・Gの人生の転換点と、彼の歯とが不思議な連動を見せているあたりが面白いところです。また、主人公がゆく先々で出会う数多くの歯科医とのやりとりもまた面白く描写されていました。特に、主人公が信仰をめぐってある歯科医と「賭け」をするお話があるのですが、その結末はとても意外なものでしびれました。

最後に、この物語にはいちいちグサッとくる文章が挿入されていたので引用しておきたいと思います。



 “一九四五年八月
 わが家にもどる。息子の口に最初の永久歯が生えていた。日本ではひとつの町が三分間で消失した。どちらが大切なできごとだろうか? 歯が現われたことか、町が消えたことか? ”(父の日記から)


 “「そちらが勝ったら、抜歯代は要らない。だが、わたしが勝ったら手術は明日まで延期だよ」「そんな! 明日までなんか待てません!」「だったら、せいぜい知恵を絞るんだね。考えてもみたまえ、人間を駆り立てるのは痛みと絶望ではないのかね。人生の原動力は、自己満足や――たわけた言葉を使わせてもらえば――幸福などではもちろんないんだよ。さあ、きみは白で指したまえ」”(SD5:啓示の物語)

 “いまのわたしには、批判的判断力などどうでもよい。世界に対して、なんの興味ももてないからだ。そんなものを気にかけなくなってからもう久しい。老いという生ぬるい狂気のなかで、文句もいわず、適当に楽しみながら、いまのわたしは生きている。”(知恵の歯、または親知らず)

 “遅まきの涙にわたしが誘われたのは、喪失の思いからではない。人間の永遠不変のありようが眼前に立ち現われたからである。目も、歯も、なにもないままに生き抜く人間の姿。あとはすべてが幻なのだ。”(SS3:女医の夢)

 “「どうしてあんなことができたのだろう? 記憶の眼に映るあの青年はほんとうにわたしだったのか? いくら想像をめぐらせても、わたしには自分と彼が同じ人物だったとは思えない。あれはすべて存在しなかったできごとなのだ」まがいもののID6が落ちた日、わたしは心のなかでそう思った。「わたしはいまだかつて存在したことがない。わたしは誰かの記憶の記憶の記憶なのだ」”(ID6:地下道にて)





痛くなってくるので、これ以上引用するのは止めました。諦観と悲観と幻滅に満ち満ちた物語です。ものすごく面白かったのですが、正直言って、かなりこたえました。人はなぜこんなふうに生きるのでしょうかね。でも、諦めても悲しんでも人生は続いてゆくようです。得たものを失うのが怖いけれど、次々とそれらを失って、いつかすべてを失ってもまだ生きていそうでもありますね。人間は鈍くて慣れやすく、またしぶといものなのかもしれません。






『コルヴォー男爵 フレデリック・ロルフの生涯』

2010年04月16日 | 読書日記ーその他の文学

河村錠一郎(試論社)




《内容》
ビアズリー、ワイルドが活躍した世紀末に妖しくその名を馳せた一人の作家がいた。コルヴォー男爵、本名ウィリアム・フレデリック・ロルフ。D・H・ロレンス、W・H・オーデンらに絶賛されながらも忘れ去られた男の、美と背徳の生涯。


《この一文》
“文明社会の定義そのものともいえる「偽りの構造」を攻撃するのに、ロルフは偽りをもってした。爵位詐称の象徴する意味はそこにある。馴れ合いを拒否し、その生から「何となく」や「涼しげなスマートさ」や「それなりに」を振り捨てた男、権力に抗った男――。 ”




試論社は私が個人的にちょっとしたご縁のある出版社で、そこのKさんとお茶をしていた時に(要するに私はKさんと友達なのです)、ふとこの『コルヴォー男爵』の話になりました。私は以前に試論社の出版書籍一覧を見ていて、この紫のような青のようなかなり印象的な表紙カバーが強く脳裏に刻まれていたのですが、「忘れ去られた男の生涯」という内容もすごく面白そうだよね、と申し上げたところ、なんとKさんは一冊私に譲って下さいました。わーっ、そういうつもりではなかったのですが、Kさん、どうもありがとう!

さて、頂いた本だから、あるいは友人が関わっている本だから、そういう理由で褒めようというわけではありませんが(私は極力率直でありたいので、まったくそんな気持ちがないとは言い切れませんが、しかしそれでもやはり)、この本は装丁からしてとても凝っていて美しい本でした。
まず、先にも述べましたが、表紙カバーの色合いが強烈に印象的です。そして、カバーを取ると、本の本体には真っ黒な背景にロルフの肖像(モノクロ写真の人物像を輪郭に沿ってクッキリと切り抜いて)が大きく配置されていて、すごく格好良い。さらに、本を開くと、見返しには金色で美しい人物画が置かれてあります。
私は正直なところ、本の装丁そのものにはさほどこだわりのない人間なのですが、それでもやはり美しい本を美しいと思えるだけの感性や、それを喜ぶような性質はいくらか備わっています。私が持っている本の中では、これはエレンブルグの『わが回想』と並ぶ美しさですね。


内容について以外のことをだいぶ書いてしまいましたが、私にしてみれば、その本がどうやって私のもとへやってきたのかも重要なことなので、記録しておきたかったのです。私は偶然を信じません。やはりこれも偶然の出会いではなかったと、「今このタイミングで読まなければならない本」であったと、読んだら分かりました。そういうわけで、私はこの本に関わった多くの方々に感謝を捧げたい気持ちです。
ちなみに明日の土曜には、国立西洋美術館で著者の河村先生の講演会があり、またしてもKさんのご厚意で私はその講演会を聴きに行ける予定なのでした。楽しみ!




さて、本題です。
コルヴォー男爵、本名ウィリアム・フレデリック・ロルフ、優れた才能を有しながらも世に出られず、争いの種をまき散らし、いくつかの偽名と身分詐称の上に不遇の人生を送った人物。絶えず浴びせられる屈辱と、忍びがたい赤貧という闇の中に身を置きながら、輝かしい美の世界を描き切るだけの精神を持ち合わせた人物。

私は普段は随筆などを少し読む程度で、小説以外の文章はほとんど読まないのですが、この本は、《コルヴォー男爵》という謎に満ちた人物の生涯を、その埋もれた著作(作品の内容は作者の実生活や実体験と緊密に関わっているらしい)や、破棄されることを前提に美しい少年たちとの交わりなどをあけすけに書いたロルフの書簡などを引用しつつ、読者がその特異な魅力にぐいぐいと惹き付けられるように紹介してくれています。また、ロルフの著作をめぐる人物が、時に小説の登場人物のように登場するので、私にはとても読みやすかったです。


それにしても驚くのは、光と影と真っ二つに引き裂かれたような、同時にそのいずれでもあるというような、コルヴォー男爵/フレデリック・ロルフの生涯です。
巨大な才能と願望を持ちながら、誰からもほとんど認められることなく、何一つ手にすることのないまま世を去ることになったこのロルフ氏の生涯はあまりに凄まじく、まるで物語のようでした。いっそただの物語であれば良かったのに、と思うほどの悲惨に覆われた彼の生涯ですが、不屈のロルフ氏は、逆に彼の物語の中に、彼の求めたすべてを描き出し、その世界のうちに美と幸福を実現したようにも思われます。そこが凄い。そこが素晴らしい。ただ者ではありません。普通の精神力ではない。

赤貧にのたうちまわりながらも素晴らしい作品を世に残した人物と言えば、ヴィリエ・ド・リラダンが浮かびますが、彼は落ちぶれたとはいえ本物の貴族であって、作品もいまだ世の中に広く読まれているのに対し、コルヴォー男爵は貴族でもなければ(著者による、この身分詐称についての解釈には納得)作品も広く読まれたとは到底言えないのが実に悲しい。こうやって埋もれていった輝きが、これまでどのくらいあったのだろうか、どのくらいの才能が浮かびあがることなく沈んでいったのだろうか。なんという悲しさでしょうか。けれどもまだ、コルヴォーはすっかり忘れられたわけではないのですね。それをこの本が証明していました。そうして私のところまでやってきました。胸が詰まりました。


本書では、ロルフの著作『ハドリアヌス七世』『自らを象って』『全一への希求と追慕』などいくつかの作品が部分的に引用されていますが、そのどれもがものすごく面白そうです。
それから、ロルフの書簡の内容もまた興味深いものです。カトリックの熱烈な信者であり神父になることが生涯の夢であったロルフでしたが、その一方で裸体の美しい少年の写真を撮ったり肉体的に交わったりすることに無上の喜びを感じているらしいこともうかがえました。人間というのは実に複雑なものですね。

引用された文章のなかでも私が特に気に入ったのは、作家コルヴォーの想像力の秘密に迫るために引用された『自らを象って』のなかの、ドン・フェデリーコが少年トトに、トトが語る物語の出所を訊ねる場面です。

“ ……ぼくは無から創造することのできる万能の神ではありません。
 ワインを作るのに、ぼくには葡萄と清潔な足が要るのです。   ”

そう語る少年トト。水の中に真逆さまに、底まで目を開けて潜るというトト。美しいトト。

涙で目が曇りました。できれば全篇通して読みたいものです。日本では翻訳されていないのでしょうか。どうにかして読めないかしらと、私はなにかジリジリするのでありました。




ある人物の生涯を追うことで、創作、芸術、社会、あるいはそれ以上のことについて考えさせられる一冊です。






『ちくま文学の森6-思いがけない話』

2009年07月13日 | 読書日記ーその他の文学

編者:安野光雅/森毅/井上ひさし/池内紀
(筑摩書房)




《収録作品》
夜までは…室生犀星/改心…O・ヘンリー/くびかざり…モーパッサン
嫉妬…F・ブウテ/外套…ゴーゴリ/煙草の害について…チェーホフ
バケツと綱…T・F・ポイス/エスコリエ夫人の異常な冒険…P・ルイス
蛇含草…桂三木助演/あけたままの窓…サキ/魔術…芥川竜之介
押絵と旅する男…江戸川乱歩/アムステルダムの水夫…アポリネール
人間と蛇…ビアス/親切な恋人…A・アレー
頭蓋骨に描かれた絵…ボンテンペルリ/仇討三態…菊池寛
湖畔…久生十蘭/砂男…ホフマン/雪たたき…幸田露伴


《この一文》
“それから長いあいだというもの、きわめて愉快な時にさえも、あの「かまわないで下さい! 何だってそう人を馬鹿にするんです?」と、胸に滲み入るような音をあげた、額の禿げあがった、ちんちくりんな官吏の姿が思い出されてならなかった。しかもその胸に滲み入るような言葉の中から、「わたしだって君の同胞なんだよ。」という別な言葉が響いてきた。で、哀れなこの若者は思わず顔をおおった。その後ながい生涯のあいだにも幾度となく、人間の内心にはいかに多くの薄情なものがあり、洗練された教養ある如才なさの中に、しかも、ああ! 世間で上品な清廉の士とみなされているような人間の内部にすら、いかに多くの凶悪な野生が潜んでいるかを見て、彼は戦慄を禁じ得なかったものである。
  ――「外套」(ゴーゴリ)より ”




「思いがけない話」というだけあって、ここに収められた短篇は、いずれも思いがけず口をあんぐり開けてしまうような、意外な面白い作品ばかりでした。

モーパッサンの「くびかざり」、ブウテの「嫉妬」、サキ「あけたままの窓」、芥川「魔術」、江戸川乱歩「押絵と旅する男」、アポリネール「アムステルダムの水夫」、ビアス「人間と蛇」、アレー「親切な恋人」、ホフマン「砂男」、と収録されたおよそ半分の作品については、私はすでに別の本でも読んだことのあるものなのですが、これらの作品は何度読んでもやっぱり面白い! という類いの短篇なので、今回も楽しく再読しました。特に芥川龍之介の「魔術」は最高に面白い。あの切れ味! 鮮やかな描写! わなわなしますね。

ここで初めて読む作品のなかで、私が特別に衝撃を受けたのは、以下の3作品。

O・ヘンリー「改心」、ゴーゴリ「外套」、久生十蘭「湖畔」。この3つは、本当に口がアガガガガとなって、あまりの面白さに最後まで一気に読み通してしまうレベルでした。無茶苦茶に面白い。信じられない。というわけで、それぞれについての簡単なまとめ。

*改心…O・ヘンリー

ジミー・ヴァレンタインは金庫破りの罪で服役していたが、赦免される。釈放された彼は、とある町でラルフ・スペンサーと名前を改め、靴屋を始め、靴屋は繁盛し、町の銀行家の娘との婚約も果たす。成功と幸福が約束された彼の前に、しかし思わぬ危機がおとずれ……というお話。

とにかくもう、今となっては見え見えのベタな展開なのですが、なんか格好いい。今までに制作されたこの手の格好いい系のドラマなんかは、こういうのがベースになっているのでしょうか。物語の結末のあまりのクールさには、もう爆笑です。格好よすぎ! 決まりすぎていて笑えるのですが、しかしやっぱり格好いい。王道ですね! わーい!


*外套…ゴーゴリ

万年九等官のアカーキイ・アカーキエウィッチは、そのずたぼろの外套を思い切って新調することにし、努力と節約の結果、立派な、一番上等な猫の毛皮の、身体にぴったりの外套を手に入れた。生涯でもっとも誇らしいこの外套を、彼はしかしお祝いの帰り道で奪われてしまい……というお話。

これはたまげました。今ごろになってようやく「外套」を読んだのかと、自分でも呆れますが、途中まで読んだことのあったこの作品を、かつてはどうして途中で投げられたのか理解できないほど、恐ろしく魅力的で、思いがけなく、胸が苦しくなるような驚きと悲哀に満ちた凄い作品でした。まあ、何と言うか、はっきり言って凄い。凄いスピード感。特にクライマックス周辺の、突然幻想味を帯びる盛り上がりと意外性には、ほんとうにびっくりしました。凄く面白い。いやー、驚いた。開いた口が塞がりませんでした。たまげたなぁ。


*湖畔…久生十蘭

貴族の家柄で、英国留学中に決闘で受けた弾痕によりただでさえ恐ろしい容貌をいっそう恐ろしいものにしてしまった《俺》は、誰かに愛されたいと願いながらも、生来の鬱屈した強い猜疑心のためにそれを得られないでいる。だが帰国して後、若く美しく、心根も朗らかな少女 陶と出会い、彼女を妻とするのであったが、相変わらず素直になれない《俺》はその冷酷さが原因で裏切られ、彼女を殺し、湖に沈めるのだが……というお話。

異常に興奮しました。異常に面白い。もうどうにかなりそうです。
久生十蘭の「湖畔」は面白いらしいという話は聞いていたのですが、予想よりもずっと面白かったです。なんという激しい愛の物語。いや、主人公と陶の愛の顛末も面白いのですが、この作品の面白さはそれだけではないですね。とにかく、意外性が随所に満ちているのが、たまらなくこの作品を面白くしています。

ストーリーの意外性はさることながら、登場人物の設定もまた、読み進むにつれてその意外性が明らかになっていきます。性格はひねくれ、容貌魁偉であると自己について告白する主人公が、実は作品中でもっとも素直で単純、優しく公平な人物であったり、天真爛漫、美しく清らかで儚げな存在であると思われた陶が、実はかなり情熱的で実際家だったりするというこの意外性。これらをすべて主人公が一人称で語るのですが、それがまた物語を生々しく鮮烈なものにし、かつ結末の清々しさを激増させているようでした。うーむ、面白い! 面白い! 2度も繰り返して読んでしまったほどです。


うーん。やっぱり面白い物語には意外性というのがかなり重要な要素であると、あらためて実感しました。ええ!? とびっくりさせられる快感を味わうのが、物語を読む楽しみのひとつでありますね。ふふふ。




『書物の王国5ー植物』

2009年06月28日 | 読書日記ーその他の文学


(国書刊行会)



《収録作品》
*花の教…クリスティナ・ロセッティ
*植物の眠り…ファーブル
*望樹記…幸田露伴
*毒よりの脱出…一戸良行
*新曼陀羅華綺譚…須永朝彦
*疾める薔薇…ブレイク
*ナイチンゲールと薔薇…ワイルド
*神秘のばら…ピエール・ルイス
*花魄…袁枚
*藤の奇特…井原西鶴
*菊…内田百
*花のこころ…小松左京
*白いダリア…ラスカー・シューラー
*相思…王維
*かざしの姫君 …須永朝彦訳
*柳の精…須永朝彦訳
*清貧譚…太宰治
*牡丹と耐冬…蒲松齢
*晶子牡丹園…与謝野晶子
*零人…大坪砂男
*人間華…山田風太郎
*毒の園…ソログープ
*柏槙の話…グリム
*受難華…ベッケル
*乳母ざくら…小泉八雲
*百合…川端康成
*風景…山村暮鳥
*玉川の草…泉鏡花
*庭樹…鏑木清方
*サフラン…森鴎外
*銀杏とGinkgo…木下杢太郎
*植物の閨房哲学…荒俣宏
*巨樹の翁の話 …南方熊楠
*蓮喰いびと…多田智満子

《この一文》
“「すると、子供を残さぬ愛は、まったく無意味なものと君はいうのだね?」
  ――「人間華」(山田風太郎)より ”


植物にまつわる短篇をあつめたアンソロジー。古今東西のいろいろなお話をまとめて読めるので、なかなかお得感を感じられる一冊です。


ここに収められたいくつかの作品については、他の本でも読んだことのあるものでした。内田百の「菊」は、私の大好きな話で、これは何度読んでもやはり面白い。「菊の夢は、美しい花だと思つて眺めてゐると……」。うおー、美しい!

大坪砂男の「零人」も面白いですね。みごとに咲き乱れるベゴニアには、ある秘密があって……。昔の怪奇ものは雰囲気があっていいですねー。この人の作品はこれしか読んだことがありませんが、他にもあるのでしょうか。このさっぱり風味は私は結構好きなので、読んでみたいですね。

はじめて読んだもので面白かったのは、まずソログープの「毒の園」。これについては先日別に感想を書いたので省略。

太宰の「清貧譚」、蒲松齢の「牡丹と耐冬」も面白かったです。どちらも、花の化身のお話です。

グリム兄弟の「柏槙の話」は、かなりショッキングな内容でした。男の子の首が、リンゴの入った大きな箱の重い蓋が閉まったひょうしに飛んでしまいます…。ひょえー。その後の展開も恐ろしく残虐。これは凄まじい。

山田風太郎の「人間華」もまた、独特の魅力のあるお話でした。悲しいけれども、非常に胸を打つ短篇。死を間近に控えた妻との愛の証を生み出すために、医者である夫はある研究に乗り出すのだった……。壮絶な物語です。山田風太郎はあまりよく知りませんでしたが、結構面白いみたいですね。


この【書物の王国】というシリーズは、ほかにも面白そうなものがたくさんあるので、機会のあるごとに読み進めたいです。とりあえず、次は《同性愛》の巻を借りてきました。もうだいたい読み終わってしまいましたが、こちらも大変に面白かったです。あとは《夢》とか《美少年》、《両性具有》、《奇跡》なども読みたいところです。




『石の幻影 短編集』

2009年01月22日 | 読書日記ーその他の文学


ディーノ・ブッツァーティ 大久保憲子訳(河出書房新社)


《あらすじ》
1972年4月、X大学の電子工学教授 エルマンノ・イスマーニは、国防省から1通の文書を受け取った。イスマーニはある国家的な、最高機密扱いの研究に参加することになるのだが……。
表題作他5つの短編を収録。

《収録作品》
石の幻影/海獣コロンブレ/一九八〇年の教訓/
誤報が招いた死/謙虚な司祭/拝啓 新聞社主幹殿

《この一文》
“私は、自分が破滅してしまったと思いこんでいたあの時期のことを、今は懐かしんでいます。
   ―――「石の幻影」より   ”


前から少し読んでみたかったイタリアの作家 ディーノ・ブッツァーティの短編集。
表題作「石の幻影」が思ったよりも長そうだったので、はじめにその他の短編から読みました。思ったよりもずっとあっさりとした雰囲気だったので、いささか拍子抜けしてしまったというのが正直な感想です。「誤報が招いた死」などは、そのあっさりとしたところが面白みを増幅していて良い感じではあったのですが。どの作品でも〈ちょっと不思議な話〉が語られていて、そこはとても魅力的で面白いのですが、描写があっさりし過ぎていて、私の好みからは少しはずれているかな、とそう思っていました。

それで、「石の幻影」を読む頃にはあまり期待もせずに、とにかく読みはじめてしまったのだから我慢して最後まで読もうかという態度でした。我ながらひどい。そして、結論から言えば、私は大きく誤っていました。このお話は、途中からすごく面白くなります。イスマーニが参加することになった謎の研究内容が明らかになるあたりから異常に興奮しました。これは面白い。

イスマーニは妻を連れて研究施設へと向かうのだが、研究内容をイスマーニ本人も知らず、同行する軍部の人間も知らず、ただその道の途中の不気味さがあおられていくあたりにどきどきします。
ようやく施設に着いてみれば、同僚は著名な科学者たちであるが、みな変人揃い。おそろしく閉じた世界で、奇妙な実験が行われていて……。

細かいことは結局ほとんど分からない、この放置っぷりが気に入りました。不思議だから良い。面白ければ良いのです。
ついでに、この物語の主人公はイスマーニなのかと思っていたのに、全然そうではなかったところも良かったです。意外と先の読めない展開、意外と複雑な人間関係などなど、なにかと意外に思わせられることが多くありました。さらに、クライマックスの勢いを保ったまま結末を迎えるあたりも良いです。なるほど人気があるわけだ。面白かった。

ひとつひとつの場面を思い浮かべると、じわじわ面白さがわいてきます。どことなく間抜けな感じがするところがあるので、なんだかんだで私はけっこう気に入ったのでした。

『夢のかけら』世界文学のフロンティア3

2008年09月04日 | 読書日記ーその他の文学

今福龍太・沼野充義・四方田犬彦 編(岩波書店)



《収録作品》
死者の百科事典(生涯のすべて)…ダニロ・キシュ
海岸のテクスト…ガブリエル・ガルシア=マルケス
最後の涙…ステーファノ・ベンニ
一分間…スタニスワフ・レム
災厄を運ぶ男…イスマイル・カダレ
ユートピア/奇跡の市…ヴィスワヴァ・シンボルスカ
ゆるぎない土地…ヴォルフガング・ヒルビッヒ
魔法のフルート…ボフミル・フラバル
かつて描かれたことのない境地…残雪
コサック・ダヴレート…アナトーリイ・キム
ハーン=ハーン公爵夫人のまなざし…エステルハージ・ペーテル
金色のひも…アブラム・テルツ


《この一文》
“私は走りはじめました。足音が幾重にも木霊してどこか闇の彼方に消えていくのが聞こえました。胸をどきどきさせて、息を切らせて「M」のところまで来ると、はっきりとそのつもりで、中の一冊を開きました。私にはもう分かっていたのです、どこかでこのことについてもう読んでいたのを思い出したんでしょう、これがあの有名な『死者の百科事典』なんだ、と。分厚い一冊を開くまでもなく、たちまち何もかもはっきりしたのです。 
   ―――「死者の百科事典」(ダニロ・キシュ)より ”



本というものを読みはじめてからずっと短編集やアンソロジーを好んできましたが、ひょっとしたら、私は間違っていた、あるいは間違っていないまでも絶望的に力が足りていないのかもしれないという不安に苛まれました。短編集やアンソロジーの短さと多彩さが私を喜ばせてきたのですが、面白く読んだわりに、すぐに忘れてしまう物語はあまりに多いです。物語が短いからといって、作者が言いたかったこともはたして些細な事柄であったとは言い切れないのではないか。私は今さらそんな疑念がわいてきて、どうにも落ち着きません。短編小説はもっと気軽なものだと思っていたのに。

私がこんな疑惑に悩まされることになった原因のひとつには、この『夢のかけら』の最初に収められているダニロ・キシュの「死者の百科事典」を読んだことがありそうです。『死者の百科事典』はダニロ・キシュの短編集で、ここに収められたのはそのうちのおそらく表題作です。先日読んだ『東欧怪談集』の中にも同じ短編集から「見知らぬ人の鏡」という話が収められていました。あちらも強烈でしたが、こちらはさらに強烈な物語でした。

「死者の百科事典」に描かれている【死者の百科事典】という書物は、おそらく私が求めてやまない種類の本であり、読みたくてたまらないと願いつつもそのことにずっと私は気が付いていなかった種類の本でもありました。
つまり、【死者の百科事典】には、無名のごく普通のなんでもない人物の生涯についてが事細かに記されています。著名な人物は含まれていません。物語の中で主人公は、2か月前に死んだ父の項目を読むことになります。一晩かけて、父の人生のすべてを。

死んでいったごく身近な人物のその生涯について、あるいは今はまだ元気に生きているやはり身近な人物のこれまでの生涯について、私はほとんど知ることがないのだという事実に愕然としました。かれらの生涯の断片を垣間見ることは出来ますが、しかしそのすべてについて知ることは出来ません。あの時どんな風に思ったのか、あの時なぜあんな風だったのか、ここへ来るまではどこをどう通って来たのか。

私は物語の中にさまざまな人生を、たとえ誰かの手によって描かれたものであっても本物の人生を見出すことは可能だと常々考えていたわけですが、生きている、あるいはこれまで生きていたすべての人々それ自体が短い、ささやかな物語であり得るということにはまったく気がつきませんでした。このダニロ・キシュによるほんの短い物語の終わりにさしかかった時、私はあんまり驚いたためか、涙が噴き出すのを止めることができませんでした。驚いたためなのか、この物語に備わったすべての人々への優しい眼差しのためなのか、あるいは私と私を取り巻く人々とのそれぞれの生涯が思われてのことなのか、理由はまだはっきりとは分かりませんが、いずれにせよ、私はたいへんな衝撃を受けました。そして、私は短編小説というものを自分がどのように考えていたのか、実のところこれほどまでの力を持つものだとは考えていなかったことなどを反省させられたわけです。


最初のこのお話があまりに強烈だったので、あとに収められたいくつかの物語は、ほとんど私を素通りしていきました。イスマイル・カダレの「災厄を運ぶ男」はちょっと印象的でしたが。
こんな風に、やはり誰かが一生懸命書いたものであるのは同じなのに、素通りしてしまう。こんなことでいいのだろうかと、少しばかり悩みました。ですが、やっぱりこれはこのままでいいのかもしれません。今はちらりとその姿を見ただけで通り過ぎてしまいましたが、いずれまたどこかで再会することもあるでしょう。
私を素通りしたり、そもそも私と出会うことさえない無数の物語があるように、私を素通りし、そもそも私と出会うことさえない無数の人々もいることでしょう。しかし、その中にはそのうちに私がその人のことを知りたくてたまらなくなるはずの人も含まれています。同じように、ひょっとしたら、すれ違った誰かが私のことを知りたくてたまらなくなるかもしれません。その時、【死者の百科事典】の在り処を知らぬ我々は、お互いが失われてしまった時点で、どうやってお互いのことを伝えたらいいのでしょう。もしかしたら珠玉の物語であるかもしれぬものが、今にも絶えずひっそりと消え去ってゆくことを、どう受け止めたらいいのでしょう。


ところで、求めているもの以外にも確かに存在する物語のすべてに正面から向き合い、そしてそのすべてを愛するということは私には不可能ですし、おそらくその必要もないのでしょう。きっと人間についても同じことです。物語も人も、私にとって必要な限りにおいて、興味深く愛すべきものであり、それで十分なものです。これまでと同じように、私は多くの短編や人物と出会っては別れ、ちょっと一緒に歩いたり、頻繁に思い出したりすっかり忘れ去ったりを繰り返すことでしょう。ここまでは、これまでと同じだと思います。
「死者の百科事典」が私を変えたとすれば、実際にどこかしら以前とは変わってしまったという実感があるのですが、それは多分、私が出会わない物語や人物、一言も言葉を交わすこともなくすれ違ってしまう物語や人物に対する意識でした。無いも同然だった彼等の存在を、今なら少し感じることができます。このわずかではありますが決定的な変化は、この先私を少し優しい人間にするかもしれません。そうだったらいい。そうだったらいい。



『黒い蜘蛛』

2006年05月29日 | 読書日記ーその他の文学
ゴットヘルフ作 山崎章甫訳(岩波文庫)

《あらすじ》
初孫の洗礼の日、招待客から柱に汚い黒い木が使われている理由を問われた祖父は、ここだけの話だといって、奇想天外な物語をかたりはじめる。スイスのエンメンタール地方に伝わる民話を素材に、人間の邪悪を蜘蛛に象徴させて描いた中篇小説(1842)。作者(1797-1854)は、ケラー、マイアーとならびスイスを代表する国民作家。


《この一文》
”誰もが、罪のある者に罰が下るのは仕方のないことだが、自分と自分の家族は罰をまぬかれたいと思った。そしてこうした恐ろしい危惧と争いのなかにあっても、彼らは、新しい、罪のない犠牲が見つかりさえすれば、自分だけは救われることを期待して、その犠牲にたいしてまた罪を犯したことであろう。”

”思い上がりと金のあるところでは、自分の欲望を知恵と思い、この知恵を神の英知よりも高いと考える妄想が生まれがちなものなのだ。以前彼らが騎士に苦しめられたのと同じように、今度は彼らが召使いをきびしく扱い苦しめた。自分で働くことが少なくなればなるほど、召使いにたいする要求は大きくなった。そして下男、下女にたいする要求が大きくなればなるほど、ますます彼らを分別のない家畜のように扱い、彼らにも守らるべき魂のあることを考えなかった。”


理由は分かりませんが、実際に読んでみるまではもっと幻想的な物語なのかと思い込んでいました。表書きの「奇想天外」という文句にだまされたのかもしれません。いえ、確かに奇想天外でしたけど。
爽やかな一日の始まりと、めでたいその日を祝うための山盛りのご馳走、これから洗礼を受けるべく美しい着物に包まれた美しい男の赤ちゃん。物語は実にほのぼのと始まりますが、男の子の洗礼が無事に終わり、新たなご馳走がお客にふるまわれるまでの空いた時間に祖父から語られる物語はとても壮絶なものでした。かつてその地に起こったとされる伝承は、城主の圧政に耐えかねて悪魔と取り引きする羽目に陥った農民たちが、いずれそのために村人のほぼ全員が滅び去ることになったという、恐ろしい物語です。黒い蜘蛛が農民たちを次々と殺してゆくさまは、残忍極まりません。物語の中では、神に対する信仰がない、もしくは忘れ去っている者はもちろんのこと、信仰篤い教会の司祭や敬虔な信者も、悪魔の使いである黒い蜘蛛の犠牲になります。しかし、その死に際しては、信仰を掲げて死に望むものには、それなりの平安がもたらされます。ここでは信仰の有り無しを問われてはいますが、単にそれだけでなく、富や力を得て傲慢になった人間の限りない欲望の醜さを非難しているように感じます。たとえ個人の欲望や傲慢が直接的に災厄をひき起こすものではないにしろ(黒い蜘蛛は、あとがきにもありましたが、例えばペストなどの疫病を暗示しているとも考えられます)、「自分が恵まれているのは自身の力量のたまものに他ならないが、都合の悪いことは全て自分以外の誰かに責任がある」と考えがちなのは今も変わらないのかもしれないと、はっとさせられました。

まだまだ人間の手に負えない事柄は山のようにあるのに、ちょっとの財産を築いたからといって何もかも支配できるつもりになるのは実に愚かしいということ、どのような富にも死から身を遠ざける力がないとするならば、問題はそれにどう向き合うか、つまり人間は人間としてどのように生きるべきかということを、この物語は描いていたのでしょうか。私はどうにも反省せずにはいられないのでした。

『コロノスのオイディプス』

2005年12月16日 | 読書日記ーその他の文学
ソポクレス 高津春繁訳(『アイスキュロス・ソポクレス 世界古典文学全集 第8巻』 筑摩書房)


《あらすじ》

オイディプス王が自分の素性を覚り、自分が父親殺しであり、母親を妻として、不倫の交わりから、ポリュネイケスとエテオクレス、アンティゴネとイスメネの二男二女を設けた天人共に許すべからざる罪人であることを知り、自ら両眼をつぶして盲目となってからのことは、ホメーロス以来いろいろな話があって一致しないが、ソポクレスのこの劇では、王が国を追われる時に、二人の息子たちは父を庇おうとしなかったことに立腹し、姉娘のアンティゴネに伴われて、諸国を流浪の末、アッティカのアテナイ近郊コロノスのエリニュス・エウメニデスの神域の森に到着することになっている。
 この時王の祖国テーバイには、王座の争いから、国を追われたポリュネイケスが、アルゴスのアドラストス王の援助を得て、その大軍をひきいて城下に迫っている。この戦の始末は、アイスキュロスの『テーバイ攻めの七将』と、ソポクレスの『アンティゴネ』が扱っているが、『コロノス』はこの悲惨な事件のプロローグであると同時に、神々の虐い運命にしいたげられたオイディプスの神々との和解の物語である。


《この一文》

”すると突然、誰かの声があの人を大音声で呼んだので、並みいる者たちの髪の毛は、たちまち恐怖に逆立った。というのは、神は彼をいくたびも幾重にも呼んだからだ。そこなるオイディプスよ、オイディプスよ、なぜわれらは行くことをためらうのか。お前はもう遅れているぞ! 彼は神に呼ばれているのに気づいた時に、この地の王テセウスに自分に近づくことを求めた。そして近づいた時に、言った。   ”





『コロノスのオイディプス』は、制作年代は最も後になりますが、物語の順番で言うと、『オイディプス王』の次、『アンティゴネー』の前の話になります。ソポクレスの最晩年の作品であると言われておりますが、さすがに他の2作に比べてこの物語がもっとも壮大であるように感じました。あいかわらずテンポが良く、シンプルでありながら極めて印象的な表現が続きます。面白いです。ラーゲルクヴィストばりに感動しました。要するに、現代文学と比べても、全く劣らないほどの完成度です。さすがに古典中の古典だけはあります。本当に偉大だなあ、ソポクレスは。

この作品中で、ソポクレスは、オイディプスに彼が実は被害者であったということを自ら語らせています。彼は確かに父を殺し、母を妻としましたが、それは自分でも知らずに来た道を辿った末のことであり、不可避であり正当でもあったと覚ります。オイディプスが最後の最後で救われるのは、そのためであるのかもしれません。もちろん、この呪われた家系の悲劇は彼の死後もまだまだ続くのではありますが。神はなぜオイディプスにこのような苛酷な運命を担わせたのでしょうか。そもそもこの呪いは、オイディプスの父ライオスから始まっているような気もしますが(ライオスは亡命先の国の王子に恋をしそうになったことで呪われ、子を設ければその子に殺されるという神託を受けたにも関わらずオイディプスを生ませ、棄てさせます。私個人の感想からすると、王子に恋したくらいで呪わなくても……という気もしますが、神は彼を許しません)、一人の過ちが一族全体を滅ぼすほどの悲劇を巻き起こすことになるとしたら、それは何とも恐ろしいことです。ソポクレスの物語では、その恐るべき神の道を逃れることは、人間には決して出来ないようになっています。悲劇を避けるための決断というものが、彼等にはどうしても出来ないのです。いったん始まってしまえば、どうあっても、たとえその先が悲劇であっても突き進むしかないのです。恐ろしい。神の意志(時にきわめて不可解な)の前には、人間の起こす行動など、たとえそれが善意からであれ悪意からであれ、ほとんど無意味に等しいのでした。人間は自分では正義を発見することが出来ず、されるがままに浮かびもし沈みもします。


正義とは。
不可解で絶対的な神の道を、人はただ打ちのめされて歩くしかないのか。
神々との和解とは。
人類が長らく抱えている深刻なテーマと言えましょう。現代に生きる私に涙させるほどの傑作を生み出したソポクレスは偉大であることは疑いもありませんが、別の見方をすると、人類はソポクレスの時代から現代に至っても、いまだ精神的にはさして進歩を遂げていないというふうにも言えるかもしれません。私はソポクレスから、一体何を学べば良いのでしょうか。いつか我々は、新しい眼を持ち、この問題を過去のものとすることが出来るのでしょうか。それとももう既に誰か答えを得た人がいるのでしょうか。いずれにせよ、私はもっと勉強しなくてはならないことには違いないでしょう。

『アンティゴネー』

2005年12月13日 | 読書日記ーその他の文学
ソポクレース作 呉 茂一訳(岩波文庫)


《あらすじ》
『オイディプス王』『コロノスのオイディプス』とつづいたオイディプス王一家にまつわる悲惨な運命を描く悲劇の終幕。父王オイディプスの死ののち、故郷テーバイに帰った娘アンティゴネーは、王位をめぐる抗争のすえ祖国に弓を引いて倒れた実兄ポリュネイケスを葬ろうとして、埋葬の儀を厳しく禁ずる叔父の新王クレオンと対立する。


《この一文》

”でも、どんな神々の掟を犯したというのでしょう。どの神さま方に、この不運な私が、まだおすがりができましょう。どの方のお救けを呼び求めたらいいのです。だって、まったく、道を守る心ばかりに、道にはずれたと言われるのだから。それにしてもだわ、ともかく、こうなることが、神さま方のご嘉納なさるものでしたら、仕置きを受けて自分の咎を、私もきっと覚ることでしょう。でも、もしこの人たちが間違ってるなら、道にはずれた裁きに私を処刑するより、もっともっとひどい目を、この人たちがいつか見などはしませんように。    ”




大筋としては、前回読んだ『オイディプス王』と同じような展開でした。今回転落するのは、アンティゴネーの叔父であるクレオンです。クレオンは、決して悪人ではなく、優れた統治者として登場します。「秩序」ということを非常に重んじ、法を犯した者は、血縁であっても決して容赦しないと明言しています。このクレオンの信念には確かに説得力があるのですが、問題は「法」というのが、主に彼の独断によって決定されるものであるというところでしょうか。この人は全然人の意見を聞こうとしません。クレオンは、オイディプス王の二人の息子が争い、互いに滅ぼし合った時、反逆者として死んだポリュネイケスの亡骸を葬ることを禁じます。それに対して、オイディプスの娘であり、兄弟の実の妹であるアンティゴネーはそのお布令に背いてポリュネイケスを埋葬するのでした。このことに怒ったクレオンに対して、アンティゴネーはこんなことを言います。

”だっても別に、お布令を出したお方がゼウスさまではなし、彼の世をおさめる神々といっしょにおいでの、正義の女神が、そうした掟を、人間の世にお建てになったわけでもありません。またあなたのお布令に、そんな力があるとも思えませんでしたもの、書き記されてはいなくても揺ぎない神さま方がお定めの掟を、人間の身で破りすてができようなどと。   ”


興味深いです。私もこのところ、こういうようなことについて考えていたので余計に興味深いです。私はここで激しく共感しましたが、クレオンには全く通じません。クレオンは誰の意見も聞かないで、結局アンティゴネーを生きたまま墓に閉じ込めるという処刑を行います。その後、預言者テイレシアス(竜族の子孫らしい。かっこいい。毎回ここぞ!というところで登場する)の言葉を受けて、反省し、アンティゴネーを出してやろうとするのですが、時すでに遅し。悲劇に次ぐ悲劇が彼を襲う羽目となるのでした。


今回の物語でも、特に誰が悪いというわけではありません。クレオンはあまりにも頑なではありますが、悪人ではありません。ただ彼は自分で決めたことに固執し理性的に物を見る目を失ったために、結局は自らを滅ぼすことになるのでした。運命の恐ろしさ。人間には計り知れない法則。ささいなことがきっかけで引き起こされる大いなる悲劇。ソポクレス、鋭いです。この作品は、紀元前440年くらいに上演されたそうですが、そんな大昔にこんな物語が出来上がっていたなんて、我々にはもうすることなどいくらも残されてはいないのではないかと思わされる偉大な作品でありました。
あとは『コロノスのオイディプス』がシリーズのうち未読なわけですが、岩波書店では品切れになってました。………シリーズものなのに、何故揃えて出さないのか、岩波め~ッ。まあ、これは有名なので、図書館へ行けば、いくらでも借りられるからまだマシか。私が読もうと思う本や好きでたまらない本は、かなりの確率で絶版の憂き目にあっている気がします。誰も読みたがらないような物語を私が好きなだけなのか、私が読みたがるような名作はすぐに売り切れてしまうので手に入らなくなるのか(だとしたらなかなか再版されないのはおかしいか)、もしくは私がひょっとして呪いにかかっているので手にする本、手にする本がつぎつぎと隅へ追いやられて行くのか。たまに憂鬱になります。