半透明記録

もやもや日記

お知らせ

『ツルバミ』YUKIDOKE vol.2 始めました /【詳しくはこちらからどうぞ!】→→*『ツルバミ』参加者募集のお知らせ(9/13) / *業務連絡用 掲示板をつくりました(9/21)→→ yukidoke_BBS/

本日の名言

2009年05月06日 | もやもや日記


“戦争――それは民族の民族に対する憎悪である、ところがその半面、いかなる世界同胞の宣教師も、いかなる作家の作品も、いかなる旅行も、いかなる民族の移動も、この塹壕生活の数年ほど、諸民族を近づけ、融合させ、国境を除去することはできなかった。これまた戦争のいたずらである。すべてが逆目とでた。すべての人びとが憎み、喜び、ひるみ、刺し、塹壕の中でたえしのび、すすり泣き、死んで腐っていったのである、 ――フランス人も、ドイツ人も、ロシア人も、イギリス人も――あきれるほど同じであった。ならんですわっていて――互いにそれを知った。ひとりがマンドリンをひき、他のひとりが猟槍をもって熊狩りをしているあいだは、どこかちがった人間のように見えた。あるいは、たしかに、熊のほうがマンドリンをキイキイやってる人間よりも近く、親しかったかもしれぬ。ところが同じことをやらされると――たちどころに双生児どころか、まったく生き写しで、違うといえばひとりは肩胛骨の下にいぼがあり、他はときどきしゃっくりをするくらいのものだ、ということが明らかになったのである。”
  ―――エレンブルグ『フリオ・フレニトの遍歴』より




ちょっと見返してみたら、私が『フリオ・フレニトの遍歴』を初めて読んだのは、2年前のちょうど今ごろのことでした。あれからもう2年になるのか。胸を絞られるような衝撃を感じたのを覚えています。そろそろ読み返そうかな。

上に引用したあたりの文章は、その前後もとても印象的な場面で、私はことあるごとにそれを思い出しています。戦闘地域で、弟子たちに向かってフレニト先生が語る場面です。大変に心を打たれる場面です。

私たちは、互いにとても似た性質を持ちながらも、互いの違いを許容することが出来ず、いつまでも争いを続けたがります。相手を屈服させ、自分の価値観を受け入れさせるために。ここで言う争いとは必ずしも銃撃や爆撃によらず、もっと別な形でも、その大きさと深刻さに関わらず常にそこら中で繰り広げられているのかもしれないな、と私は最近になって思うようになりました。ささいなものから、重大なものまで、世界はさまざまな形の争いに満ちているのかもしれません。


そんなこんなで、先日『菊と刀』、『スリーキングス』という、戦争を扱った作品に触れる機会があったので、争いということについてまたまた色々と考えさせられました。戦争において、敵と味方が置かれた立場は、両者がそれぞれに考えているほどには違っていないのではないか。同じ悲しみ、同じ苦しみを共有していながらも、それぞれの主義の押し付けあるいは利益の収奪のために攻撃せずにはいられない。どうしてそうなるのか分からないけど、「相手の気持ちが分かる」というだけでは争いは収まらないような気はする。そこが悲しいところなんだろうなあ。「相手の嫌がることをしてはいけません」みたいな考えだけでは、残念だけど、到底足りないのだろうな。相手の苦しみや悲しみを想像できると同時に私たちは、相手を手段を問わず屈服させることへの喜びや快感をも同時に持っているような気がする。でなければ、ちょっとした論争でさえもがあんなに盛り上がることはないでしょう。相手をへこませるのは楽しい。ところが、相手が自分とは違う、しかも違いながら価値のある考えを持っていたとしたら、私たちはどのあたりで折り合いをつけたらいいのでしょう。それが分からない。分からない。どうにかしてどこかで折り合いを付けるべきなのか、あるいは聞かなかったことにして無視すべきなのか、それともやはり一方が折れるまで徹底的に言い争うべきなのか、それも分からない。

途方に暮れてしまいそう。幸福の世紀は、人類には訪れないのかもしれないけど、それでも、考える価値はあると思う。たとえ私には解けない問題だったとしても、ここに問題があるように思えるなら、私としては考え続けない訳にはいかないんだろうなあ、ときどきは。そもそも争いもなく平穏な状態こそが幸福と言えるのか、それさえ分からないのではあるけれども。でも、ストレスは少なくて済みそうではないですかね。ストレスがあるからこそ発展があるのかもしれないですけど……だけど発展、発展って、なにがそんなに立派な発展なんですかね? それってどういうものですかね。物で世界を満たすこと? 高度な知性を人々に行き渡らせること? それとも……
幸福って何だろう。誰にとっての? どの正義にとっての? ……


いつかすっきりするといい。