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『ケイン号の叛乱』

2015年04月30日 | 映像

1954年 アメリカ


監督:エドワード・ドミトリク
原作:ハーマン・ウォーク
出演:ハンフリー・ボガート/ホセ・フェラー/ヴァン・ジョンソン/フレッド・マクマレイ



《あらすじ》
新米士官キースが配属されたのは真珠湾で任務に就く掃海船《ケイン号》。キースにはこの船での日々が特に規律も重要な任務もなく泥のように過ぎていくように感じられ、だらしなくしか見えない艦長がなぜ船員達の信頼を得ているのかが分からない。しかししばらくするとその艦長が下船し、新しい艦長が着任した。次の艦長は非常に過酷な戦闘を経験した規律に厳しい人物であった。キースはいよいよ《ケイン号》も海軍の船らしくなるだろうと期待したのであったが…



なにげなく観始めたこの作品、驚くべき名作でした。昔の映画は凄いなあ。まさかあんな結末が用意されているとは想像もできませんでした。派手な演出も演技もなし(だが素晴らしい演出と演技)に、心をぐっと掴まれるような、なぜか涙さえ滲むようなお話でした。それにしてもなんとしっかりした筋書きなんだろう。びっくり仰天しました。やっぱ過去の名作を観るといいことあるなあ。


ネタバレを避けるために詳細は書きませんが、本作では特に「人はどうあるべきなのか?」ということを問われているようです。たとえば絶対に逆らえない権力者が自分の正義感や安全を脅かすような行動をし始めたとする。そんな時、果たして人はどうあるべき、どう行動すべきなのでしょう。ひとまず私が見終えて考えたことは、簡単に誰かを糾弾してはいけないということですね。どうしてそうなのか、なにがそうさせるのか、そこへ行き着くまでに自分にやるべきことは他になかったのか。それをじっくり考えることを放棄して簡単に誰かの責任にして終わらせてはいけないんだ。けれども、それが難しい。人間の弱さをどう理解するのか。人は自分では望まなくても弱さを露呈してしまい、その弱さのために誰かを危険な状況へと導くことがあるかもしれない。そういう時、人はどうあるべきなのか。生命がかかっているような局面で、人はどうあるべきなのか。私は、誰かに泥の様に汚くて辛い仕事を押し付けていることも知らずに高いところから見下ろしてはいないだろうか。あるいは、そのために弱くなってしまった誰かの弱さに正しく向き合い、それに寄り添うことができるのだろうか。


ハラハラするようなドラマの後で華やかな達成感が得られますが、その直後に苦い、とても苦い後味を味わわせられる作品です。これは良いものを観ました。それにしても新しい艦長が嫌な役なのに無駄にいい男だと思ったらハンフリー・ボガートでした。この人は『カサブランカ』では死ぬほどかっこ良かったな。どういう役をやらせてもインパクトがあるということでしょうか。ろくに配役もチェックせずに観ましたが、いつまでも忘れられないのはやっぱりあの艦長のどこか悲しげな眼差しです。悲しみに沈んだ男なんていないほうがよくて、みんな誰でも満たされてほしいけれども、哀愁を帯びた瞳を持つ男にこそどうしようもなく惹かれてしまう私でありました(どうでもいい情報)。







『鉄道大百科 東日本編』

2014年11月28日 | 映像


KEEP株式会社

ナレーション:村田好夫


《内容》
鉄道・列車ファン必携!!
思い出の旧車両から最新車両までを高画質ハイビジョンマスターで網羅した鉄道DVDの決定版がついに発進!! 東日本編274車両収録。北海道/東北/関東1~3/北陸・甲信越、全6枚。



息子の鉄道好きが日に日に増してゆくこのごろです。たまたまこのDVDの「関東3」のテレビ編集版(本編を半分ほどにカットしたものっぽい)を見せたところ、あまりの神構成ぶりに息子の興奮が止まらない…! 首都圏の各種路線がひっきりなしに行き来するのを見てキャッキャキャッキャと飛び跳ねます。そして映像が流れている間ずっと、ナレーションの村田さんの渋い声に合わせて一生懸命に内容を復唱しようとする姿がクソ可愛いかったので、たまらずK氏にお願いしてDVDを購入してもらいました。


これまでに様々な鉄道番組を試してみましたが、今のところ息子としてはこのシリーズを超えるものは存在しないようです。どうも子供向けの鉄道ビデオは賑やか過ぎて気に入らないらしい。控えめなBGM付きで、ちゃんと列車の走行音や踏切の音が入っていて、渋く落ち着いた村田好夫さんのナレーションのあるこれがいいのだそうです。彼はあまりにもこれが好きなので、ディスクを挿入したときに表示される「KEEP」の文字(制作会社の名前)を見ただけでニヤリとするのでした。


東日本編だけでこんなにある(全6枚)。

イヤイヤ期真っ盛りの息子は最近はご飯の前にお片づけをしてくれなくなりつつありましたが、「ポッポさんのビデオみるならお片づけして?」とお願いすると、光のはやさで片付けてくれます。そして椅子に座って見るように指示するとそのようにし、本編が始まるとずっと楽しそうに身振り手振りを交えながらナレーションの村田さんと一緒にお話ししています。語彙も増えましたね、微妙な語彙が。

以下、鉄道大百科で覚えたらしい新しい語彙。

 *「キ!」「カンカン!」:踏切のこと。踏切の音声が入ると嬉々として手を打ち鳴らし「カンカン」言いながら踊る。息子的に今最も熱い音。

 *「ロイロイロイ」:緑色のこと。緑色の車体が映ると報告してくれる。

 *「ウアー」:青色のこと。「アオだよ」と何度直してやっても「ウアー」になる。

 *「ジー」:ディーゼル機関車を言いたいらしい。

 *「シャ!」:列車全般を指す。「電車、蒸気機関車、ディーゼル車、列車」と区別して教えても分からないものの、なぜか「れっしゃ」という音はツボのようで笑う。

 *「ナナラララ」:長良川鉄道(ながらがわてつどう)と言いたかった。

 *「ブブブブ!」:「VVVFインバーター方式」のこと。よく分からないが周波数?を変えて?云々な最新の設備のことらしい。



映像ばかりみせてはいけないだろうかと思いつつも、あまりに喜ぶのでついつい見せてしまいます。なんにせよ、こんなに楽しめるものがあるなら、それはいいことなんじゃないかと思うわけで。「ブブブ!(VVVFインバーター方式)」といちいち真似するのが可愛くて可愛くてたまりません。


最初は椅子に座っているが、途中で興奮を抑えきれずにモニターに張り付いてしまう;





散歩に出た時には、実際に近所の近鉄線やJR線が通過するのを見に行きますが、雨の日や私の体調がいまいちの日には重宝しそうな映像集。息子はなかなか粘着質なので、当分飽きずに楽しめそうです。








『幻影師アイゼンハイム』

2013年05月17日 | 映像





ものすごく久しぶりに映画を観ました。2時間ずっと息子を抱えたままでしたので肩が抜けるかと思いましたが、寝ていてくれて助かった。


さて、『幻影師アイゼンハイム』です。舞台は19世紀末のウィーン。私の好きな時代と場所。そして主人公は奇術師、それから皇太子や公爵令嬢などが登場してロマン溢れる雰囲気です。実にいいですね。劇場の様子や衣装、その他小道具などもそれらしく美しくてうっとりします。

ストーリーについては、「なるほどな」という感じ。なるほどなあ。ネタバレしないように書くのは難しいですが、タイトルから私が予想していたものとは違ってわりとラブロマンスな感じでした。もうちょっと不思議系のお話かと思っていました。いえ、不思議系と言えば不思議系ですけれど、幻想的と言うよりは【意外な結末もの】でした。そういう意味で「なるほどな」となったわけです。


(以下、ややネタバレ)

それで、この【意外な結末】は痛快! …のはずなんでしょうけれど、私は皇太子がちょっと気の毒に思えてしまって、いまいちスッキリしませんでした。考えれば考えるほど、皇太子が気の毒。彼はたしかに嫌な奴として描写されていたわけですが、しかしそこまでするか。ちょっとやり過ぎじゃないだろうか。後味が悪いな。ウール警部は笑ってたけど、笑い事じゃ済まない気がするんだけど、そうでもないんだろうか。うーん、やっぱりスッキリしない。恋に一途な二人の鬼っぷりを楽しむ作品だと考えればいいのかしら。恋愛至上主義にも程があると思えば、少し納得できてきましたね。なるほど。


それはともかく、劇中でアイゼンハイムの見せる奇術の数々はなかなかロマンチックで素敵でした。

どこからどこまでがトリックなのか。その仕掛けが誰にも分からないとすれば、それは本当のことと同じになるのだろうか。


あっという結末まで、なんだかんだであっという間の面白い作品でしたかね。
調べたところ、原作はスティーヴン・ミルハウザーの『バーナム博物館』の中の一編だそうなので、今度読んでみましょうか。私はこの本を持っているんですけど、まだ読んでいないのであった…





『アンダーグラウンド』

2012年05月16日 | 映像

1995年 150分(フランス=ドイツ=ハンガリー合作)

監督:エミール・クストリッツァ
原案:ドゥシャン・コヴァチェヴィチ
脚本:ドゥシャン・コヴァチェヴィチ/エミール・クストリッツァ

《あらすじ》
1941年、ナチス・ドイツ占領下のベオグラードを逃れ、敵の目を欺く為、パルチザン(?)として活躍する男のいい加減なアイディアのもと広大な地下空間(アンダーグラウンド)へ避難し、戦後も人知れず半世紀の間生活していた人々のエキサイティングな一大群像劇。恋あり、笑いあり、踊りあり、アクションありと映画の面白さを凝縮した映像と音楽の一大スペクタクル。


《この一言》
“ぼくたちは、もう行きます。”



随分前に観たっきり、2度目を観ることができないでおりますが、あらためて観ないままで書く!!! 

というのも、先日、とうとうこの映画『アンダーグラウンド』、20世紀最大級の傑作映画、人類の至宝であるところの『アンダーグラウンド』が新たにDVD及びBD化されて発売になったんですよね!!

イヤッホ~~~~ッ!!!!

ウレシイ~~~~~~!!!!!


早速私はK氏と折半して、BDの方を買ってみました(^o^)v☆
いやぁ~、嬉しい!
『アンダーグラウンド』のDVDはクストリッツァ作品の中でもとりわけ重要な作品であるにもかかわらず、長いこと廃盤になったままだったのです。中古品が2万円近い値で売られているのを見ました。そんなわけで私はとても手が出せなかった。でも私は以前CSかどこかで放送されていたのを録画してあった勝ち組でしたけど。とは言え録画データはいつでも手もとにあったのに結局一度たりとも観直すことはできなかったのですが……

ともかく、めでたく再販となり、ようやくこれで安心できるというものです。あとはコスタ=ガブラス先生の映画も出し直してほしいわ。



さて、「おすすめの映画は?」と聞かれるたびに「『アンダーグラウンド』!!!」と答えてきた私ですので、また言っているのかとお思いになる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、これは本当の傑作ですよ!

少なくとも私が観てきた映画の中で(←数が多いとは申せませんが)、これ以上に人生の喜びと悲しみを描き出した作品はわずかであり、その中でもこれ以上にぶちのめされた作品は他にありません。心が感激して震えることはいくらでもありましたが、『アンダーグラウンド』では心が張り裂けました。何にそんなに感激したのかを一言だって説明することができませんでした。映画の持つ力があまりに圧倒的であったために、その時の私に出来たことと言えば、わーわー声をあげて泣くくらいのものでしたね。当時、K氏と一緒にこの映画を鑑賞していましたが、劇が終わるなり私は一言もしゃべらずそのまま自室に閉じこもって長時間おいおい泣き続けました。立ち直るのにもだいぶかかりましたよ。懐かしい。


あの結末は、いまだに私の心をドンドン叩きます。絶対に忘れることはできないでしょう。あと最初の方で、クロが道行く黒猫を捕まえて、靴を拭き拭きする(そして放り投げる)場面も忘れられないなあ。迷子の国連バスも忘れられないし。あれもこれも忘れられない。けど、忘れてしまったことも沢山あるかな…

いま、Blu-rayディスクを手に入れて、いよいよいつでも観られるようになりましたが、「あらすじ」を書き写しているだけで涙が滲んできてしまう私はやっぱりまだまだ2度目を観ることができないような気がします。でもとりあえず手もとにあれば安心……(ヽ´ω`)



大変な衝撃作ではありますが、『アンダーグラウンド』はとても楽しく陽気で美しい作品でもありますので、まだご覧になっていないという方は、この機会にぜひ!










『ゼイリブ』

2012年01月23日 | 映像

1988年 アメリカ 96分


監督:ジョン・カーペンター
原案:レイ・ネルソン 「Eight O'Clock in the Morning」
音楽:ジョン・カーペンター/アラン・ハワース
出演:ロディ・パイパー/キース・デヴィッド/メグ・フォスター


《あらすじ》
日雇い労働者のネダは、ある日襲撃された教会の隠し扉の奥でサングラスの入った箱を見つける。そのサングラスをかけると、街の様子は一変して見えた。ビルの壁面に掲げられた広告にはあらゆる洗脳の文句が溢れ、テレビキャスターや、町行く人々の間にも、まるで骸骨のような顔をした者たちが紛れているのであった。地球は知らないうちにエイリアンに支配されていた!


《この一言》
 “ 自分さえよければいいのか? ”





なにかの弾みで『ゼイリブ』や『ジェイコブス・ラダー』の話になり、淀川さんの日曜洋画劇場で昔はよくやっていたよね~、『ペンタグラム』とかもあったよね~なんて言ってたら、K氏がまずは『ゼイリブ』を借りて来てくれました。懐かしい。

私はこの映画を何度か観たことがあるはずですが、だいぶ昔のことなのでもうほとんど覚えておらず、「眼鏡をかけると見えないはずのものが見えて…」という程度の記憶しかありませんでした。いま観直してみると、なるほど、これはとても面白い映画です。
原題は『They Live』、「彼ら」が知らないうちに人間に紛れて暮らしていて、人間たちは哀れにも「彼ら」に支配され骨抜きにされているというSFサスペンスです。普通に観ていても面白い映画ですが、その内容は90分強という短さにもかかわらず深みがあり、ブラックユーモアのなかに過度な商業主義への痛烈な批判が盛り込まれていました。私が子供の頃に観たときには、こういうところには全然気がつきませんでしたねー。観直してみるものですねー。



それにしても、この主人公、とてもマッチョで男らしい人なんですが、あまりにも寡黙過ぎです(^o^;) もう全然しゃべらない。たまに長くしゃべったかと思うと、高級食材店に買い物に来ていた「彼ら」の一員であるところのおばさんに向かって浴びせる「溶けたチーズみたいに醜い顔だぜ!」というような罵声だし…うぅ。硬派で肉体派でかっこいいけど、でもせめてフランクには一言くらいは説明してあげて! いきなり殴りつけても話は通じないと思うのっ!(>_<) …と思って仕方がありませんでした(^_^;)

なんのことかと申しますと、「彼ら」を見分けることのできる特殊サングラスを手に入れて世界の真の実体を知った主人公は、親切な労働者仲間のフランクにも「彼ら」に支配された世の中を見せようとして「眼鏡をかけろ!」と迫るのですが、ひたすら「眼鏡をかけろ!」としか言わないものだからフランクさん困惑&拒否(しかもこの時主人公は殺人犯としてお尋ね者状態だったのですから当然ですね;)。

フランクから拒絶された主人公は、仕方ないので(?)拳に訴える(!)わけですが、そこから10分近くの肉弾戦シーンが続くのでした。長い! けれどもこの二人の取っ組み合いの場面はこの映画における重要な見せ場のようでした。
この主人公を演じるロディ・パイパーさんは本物のプロレスラーで、そのためにこの場面では鮮やかなプロレス技が炸裂しています(ただし現場は路上。危なっかしくてハラハラした!)。長い乱闘シーンはプロレス的な華やかさを備えて見ていて楽しめましたが、それだけでなく物語上も重要な場面であったと言えましょう。


物語を最初からまとめると、だいたいこのように展開します。

ある日、主人公(あとで調べたら「ネダ」という名だった…誰も呼ばないから最後まで分からなかった…)がふとした好奇心から特殊なサングラスを手に入れることになり、それをかけると街の様子が一変して見える。街中にそびえたつビルの壁に大きな広告には「消費せよ」「考えるな」「従え」と言った文字が浮かび上がり、町行く人々の間には、まるで骸骨のような顔をした者たちが多く紛れ込んでいるのであった。「彼ら」は何者なのか? はっきりとは分からないが、どうやら「彼ら」は地球をすっかり支配しているらしい。それを知ったネダは、富を独占しテレビ番組や広告を通して人間を洗脳し続ける「彼ら」に立ち向かう。


主人公のネダもフランクもともに工事現場で働く日雇い労働者であり、家を持てず近くのキャンプで暮らしています。遠い町に妻子を待たせているフランクは非常に用心深い性格で、たとえこの世の中の不平等な仕組みに不満があろうとも、「そんなものだ」とやりすごし、無用のトラブルはできるだけ避けたいと考えている。ところがフランクが親切心を起こして助けてやったネダによって思わぬ事態に巻き込まれることになる。ネダに強制されてサングラス越しに世界を見たフランクは、ここでようやく深刻な事実に気がつきその心を変えるという、取っ組み合いの場面はこの映画の重要な転換点だったというわけです。

労働すれども一向に報われないネダとフランクが立ち向かうのは、地球から富と快楽を搾取する異形のエイリアンですが、同じ人間の中にもエイリアンに協力することで裕福な暮らしを得ようとする者も存在しています。
かつてはネダたちと同じ貧民キャンプで過ごした男が、劇の終盤で身ぎれいに変身して再び登場するのですが、彼はエイリアンに上手く取り入って大出世したのでした。その彼に向かってフランクは言います。

 「自分さえよければいいのか?」


さて、これについては私は以前から考えているところなのですが、誰かが世の中から不当で不平等な扱いを受けていたら「ひどい」「気の毒だ」と思いますよね。自分はある程度満たされていても別の誰かが困窮しているならば、そんな世の中は変わるべきであると思うところまではいけるような気がする。けれども、世の中を変えるために行動することで、自分が現在所有している多くのもの(あるいはなけなしの、わずかなもの)を失ってしまうことだってあるかもしれないという時、私はそれを手放すことを覚悟の上で、世の中を変えるための動きに加わることができるだろうか? その先に辛く厳しい生活があるかもしれないと本当に分かった上で、改革に賛同し参加することができるのだろうか? できればいい、とは思うけれども、私には自信がないや…
余談ですけど、このお話もストルガツキー兄弟の『火星人第二の来襲』を思い出させましたね。最近私はこれをよく思い出すな。なんだろうな。苦しいな。


自分さえよければいいのか?

久しぶりに観た『ゼイリブ』は、この一言が重くのしかかる名作であったことが確認されました。淀川さんが執拗におすすめしていた訳がようやく分かったような気がしますね。昔の映画は短くても面白いなあ!







『ドニー・ダーコ』

2012年01月05日 | 映像

2001年 アメリカ




《あらすじ》
高校生のドニー・ダーコはある晩、銀色のウサギから世界の終わりを告げられる。同じ夜、ドニーの家に飛行機のエンジンが落下し、ドニーの部屋が押しつぶされたのであった。銀色のウサギに呼ばれるまま家を出ていたドニーは生命の危機を回避したのだが、それ以来彼の周囲では不可思議な事件が起こるようになる。







 これを自己犠牲ととらえるべきか否か……? あるいは別のものが描かれていたのだろうか? ではそれはなんだろう?


というわけで、『ドニー・ダーコ』ですが、私はこんな感じで観てました。


(ヽ´ω`)……??

(ヽ´ω`)………!??

Σ(ヽ´ω`)…お、おわたぞ!


残念ながら、私にはどういうことかよく分からなかったです。ぐふっ。ドニー君に共感できなかったのが敗因だったのかもしれません。うーん、うーん。。。


ドニー・ダーコは高校生で、両親、姉、妹と暮らし、精神を少し病んでいるため精神科医にかかっている。家庭では母親や姉に暴言を吐いたり、学校では教師を侮辱して親を呼び出されたりしているが、学校でいじめられている女の子をかばったりする優しいところもある。

そのドニーはある時から銀色のウサギの幻覚を見はじめ、ウサギは「世界がもうすぐ終わる」と彼に告げるのです。世界が終わるまでのおよそ1カ月の間に、ドニーは転校してきた可愛い女の子と付き合ったり、タイムトラベルの概念に夢中になったりと、それなりに充実した日々を過ごすのですが、その一方で彼の周囲の状況は刻一刻と破滅へと近づいているのでした。


もう少しタイムトラベルへの言及があれば、分かりやすかったかもしれません。思わせぶりな描写がいくらかあるだけで、結局どういうことなのかが私にはよく分かりませんでした。また、ドニーを取り巻く社会が、現代アメリカの歪みをあらわしているのかどうなのか、ちょっと歪み過ぎていて、あれではドニーが病んでしまうのもいくぶん仕方がないのかなあと思うものの、見ていてちょっと疲れましたね。狂気と暴力に満ちているというかね。大人も子供も奇妙だっていうかね。現代の伝道師として扱われている男性(のちに児童ポルノ所持で逮捕)や彼を熱狂的に支持して彼が制作したビデオを学校の授業の教材として扱いさえする女性教師、そんな彼らのもとでやたらとセクシーなダンスを練習し発表会で披露する少女たち(女性教師の娘やドニーの妹を含む)。

なんだか破壊されたがっているような社会が描かれていたように感じます。これがアメリカの十代を取り巻く現実だとしたら辛いなあ。映画の中だけのことだと思いたいんだがなあ。しかし、この『ドニー・ダーコ』のあとでもう1本『バタフライ・エフェクト』という映画も観たのですが、そちらも不思議と同様な社会が描かれていて、ちょっと! アメリカ! どうしたんだよ!? と言いたくなりました。若者はたちまち暴力行為やドラッグ、セックスに溺れてゆき、なにかにつけて精神病院と催眠療法、そして近所のおじさんはロリコン。あまりによく似た社会が描かれていたので、どっちがどの映画の場面だったか分からなくなっちゃってるな…うーむ。




『ドニー・ダーコ』に話を戻して、結末をネタバレすると(ご注意!)、ドニーは最終的にはウサギと出会った最初の晩、飛行機のエンジンがどこからともなく落下して自分の部屋を押しつぶした夜へと戻るのです。そして、そのまま部屋で死にます。これによって、ドニーが死んだ世界では、母と妹、そしてドニーの恋人となる女の子、さらにドニーが殺してしまうことになるはずだったフランクの命が救われるのでした。ドニーの命と、その先に続いたかもしれないわずかの幸せを感じられる日々とを引き換えにして……

タイムトラベルがどのように実行されたのかがよく分かりませんでしたが、ともかくドニーが自分の生き延びる世界から、自分が死んでしまう世界へと移動したのは確かなようでしたね。ドニーが生き延びる世界のほうでは彼に近い誰かが死ぬ羽目になり、ドニー自身とその家族の社会的地位も破滅を避けることができない状況に追い込まれます。つまりドニーにとっての「世界の終わり」だったということでしょうか。「自分が死んだ方がましエンド」ということかしら。。。


うん、やっぱよく分からなかったな。
ちなみにwikipediaによると、この映画は一度では理解できないような複雑な筋立てになっているそうなので、何度も観ることでもう少し分かるようになるかもしれませんね。

しかし、残念ながら私にとっては見ていて楽しい気分になるような映画ではなかったです。
気が重くなったヨ!\(^o^)/

もうちょっと明るい映画が観たい……ということで『バタフライ・エフェクト』へ続く。明るかったかって? ハハッ…!(´;ω;`)







『ミッシング』放送のお知らせ

2011年10月24日 | 映像

1982年 アメリカ

監督:コスタ=ガヴラス
原作:トーマス・ハウザー
脚本:コスタ=ガヴラス/ドナルド・スチュワート
出演:ジャック・レモン/シシー・スペイセク/ジョン・シーア


《あらすじ》
クーデターによって軍事政権下となった南米チリで、アメリカ人ジャーナリスト、チャーリーが突然行方をくらます。知らせを受けた父エドワード(ジャック・レモン)は、チャーリーの妻ベス(シシー・スペイセク)と現地で落ち合い、領事館に助けを求めるが、調査は一向に進む気配がない。二人は独自にチャーリーの創作を開始、彼の失踪にはある陰謀がうごめいていることを知る。さらに、エドワードは調査に協力的ではないアメリカ政府を疑い始めるが……
1973年、チリで軍事クーデターが起こった際に行方不明となった息子のために、アメリカ政府と戦ったトーマス・ハウザーの手記を映画化、全米で大きな波紋を呼んだ社会派サスペンス。




実は、この映画はもうだいぶ前に観たのですが、あまりにグサッときて落ち込みが激しく、感想を書くことができなかった作品です。グサッときた箇所については、今でもまざまざと思い出すことができますが、全体的な感想を書くためには細かなところの記憶が薄れてきてしまったうえに、もう一度観直す気力がまだ湧かないので、また今度にしたいと思います。

では、なんの記事かと申しますと、「コスタ=ガブラス特集でもやらないかなあ~」なんて思っていたら、ちょうど今週水曜日(10/26)にNHKのBSプレミアムで『ミッシング』を放送するらしい。私は既にDVDを所有しているので観ませんが、興味のある方はぜひ!


そのついでに『Z』も放送したらいいのに。私が初めて観た時には頭を殴られたみたいに衝撃を受けた傑作『Z』は、ある小国(ギリシャをモデルにしている)を舞台にした軍事政権による腐敗との戦いの物語であり、まさにタイムリーなテーマだと思うのになあ。あの結末にはたまげたなあ!

そして『告白』とか『戒厳令』とかもやってくれれば、いろいろ捗るのに。私は持っているけれど、内容に怖れをなしてまだ観てませんがね。観るべき作品であるということは承知しています。

あるいはマスコミの報道のあり方をテーマにした『マッド・シティ』なんかは、ジョン・トラボルタやダスティン・ホフマンが出演しているのでとっつきやすいような気がするけどなあ。こちらもまた重い内容でしたが、スタイリッシュなほどにメリハリのある構成で、DVDがあんなに投げ売り状態になっているのが不思議なくらいの名作です。いや、作品が手に入りやすいのはいいことですけどね。


そもそも、ガブラス先生の作品というのはほんとうに入手困難で、私は『告白』と『戒厳令』と『Z』までは手に入れたけど、『ミュージック・ボックス』などは影も形も見たことないよ。ひどいわ。この世界は歪んでいるわ…。



コスタ=ガブラス作品においては、この社会に生きる人々は皆なにかしらの責任を負っているのだということを自覚させられるでしょう。

映画では、権力者たちがその権力を誤った方向に行使していることに対しての批判も描かれますが、それだけではなく、それを許してしまう市民、国民としての我々もまた同様に問い詰められます。

「知らなかった」「そんなことは考えたこともなければ、考える必要もないと思っていた」「誰かがやってくれていると思っていた」などという言い逃れを許されないほどに、あらゆる立場の人々が鋭いまなざしをもって描かれます。不正と混乱に覆われたこの社会のなかで、正義や善意は一瞬だけ閃きますが、たちまち無惨に潰えます。なにがそうさせるのか? 私たちのいったい誰に責任があるのか、どうしてこうなってしまうのか? 自分が社会に属していると思うとき、その中でなにか不誠実なことが行なわれていると思うとき、それに対してどのように立ち向かうべきかという深刻な問いかけが、どの作品でもなされます。


『ミッシング』もまた、胸に深く突き刺さる、痛烈な問いを投げかけてくれることでしょう。
実話をもとにしているそうですが、映画はサスペンスとしても上出来で、たくみな構成と展開によって、ジャック・レモンの素晴らしい演技をさらに一層際立たせていました。私があの場面を忘れることは、きっと絶対にないだろう。



世界はいつか、よりよいものとなるのだろうか。





****

午後1:00~3:04  BSプレミアム
BSシネマ 「ミッシング」 放送予定です!



『タイムマシン』

2011年09月21日 | 映像
2002年 アメリカ

監督 :サイモン・ウェルズ/ゴア・ヴァービンスキー
出演者:ガイ・ピアース/ジェレミー・アイアンズ



《あらすじ》
1890年代、ニューヨーク。大学教授のアレクサンダーは婚約者のエマを強盗の銃弾によって失う。落胆したアレクサンダーは自宅にひきこもり、タイムマシンを完成させ、過去へ戻ってエマを救おうと試みるが、どうしてもうまくいかない。なぜ過去を変えることができないのか。その答えが未来にあると考えたアレクサンダーは、タイムマシンに乗って未来へと向かうのだが…






一応、H.G.ウェルズの『タイムマシン』を原作にしているらしいのですが、あれ? こういう話だったっけ?

原作を2度ほど読んだことのある私は、念のためそちらも確認しようと書棚に目を向けましたが、不思議なことに『モロー博士の島』と『宇宙戦争』しか確認できませんでした。おかしい…たしかに持っていたはずだが。もっとおかしいのは、私は『タイムマシン』を2度読んだことがあると言いながらも、その内容をサッパリ思い出せないことだった。おかしい。これはおかしいぞ……!


ともかく、原作とはちょっと違う? と思いながら観ました。実際にこの映画ではいくつかの設定に大幅な変更が加えられているんだそうです。なので、原作のことは忘れて、映画版の方だけについて書くことにします。


まず、この映画のテーマはなんだったのかということを考えてみるに、「過去はもう変えられないから、せめて未来を変えよう」「過去を乗り越えて、未来に向かって進もう」ということだったのではないかと思います。

主人公のアレクサンダーは恋人を死なせてしまい、失意のうちに過去への旅に乗り出すのですが、過去へ戻って、恋人の死の元凶となった強盗との遭遇を避けてみても、やはり別の原因で恋人は死んでしまうのです。

その因果から逃れることが、どうしてもできない。

19世紀末ではなくてもっと遠い未来ならば、その答えを見つけられるかもしれないと、アレクサンダーは今度は未来へ向けて出発するのですが、その未来の描写が、この映画の大きな見どころでした。

アレクサンダーは、いくつかの未来に立ち寄ります。私が印象的だったのは、2037年ですかね。その頃の人類は既に月へと進出していたのですが、その月が爆弾によって崩壊し、大きくひび割れて空に浮かんでいるのです。そして、世界中が大パニックになっています。

この場面は、私の大好きなアレクセイ・N・トルストイの短篇小説「五人同盟」を思い出させて非常に興奮しました。いいね! いいね!

そして、おそらく月が崩壊したことによってもたらされる地球環境の大変動を、タイムマシンに乗ったアレクサンダーとともに、80万年という歳月を飛び越えながら見ていくのは、実に壮観でした(ここではアレクサンダーは気絶してましたが)。ここまではすごく面白かった。



映画の後半は、「えっ?」「あれっ?」「いいのそれで??」の連続で、それなりに面白かったですが、私は倍速にして観ました。ご、ごめんよ。
私としては、当初の目的である「因果を超える方法」についてをもう少し掘り下げてほしかった。過去は変えられない。うん、それはそうだ。未来をこそ素晴らしいものにしよう。というのは分かるけれども、あのエンディングで、果たして素晴らしい未来が到来するのだろうか。いや、未来は不確定だからこそ、人生が面白いんだろうけれども。けれども、アレクサンダーがなぜあの時代を選んだのかが、私には分からなかった。あの物語の中で、彼が自分の生まれた時代を捨てるほどの、なにかが、あっただろうか?


なんだかんだで、あれこれと考えさせられる映画でした。原作の方は終わりの部分を、こないだ書店でチラ読みしてきたら、結構感動的な雰囲気だったので、そのうちまた読み直そうと思います。









『カイジ 人生逆転ゲーム』

2011年07月22日 | 映像


2009年 日本

原作:福本伸行
監督:佐藤東弥
脚本:大森美香
出演者:藤原竜也/天海祐希/香川照之/山本太郎/佐藤慶


《あらすじ》
毎日を自堕落に過ごす伊藤開司(カイジ)は、金融業者の遠藤凛子から、かつて自分が保証人になっていた法外な額の借金の返済を迫られる。突然の無理な話にうろたえるカイジは、遠藤から勧められるままに、一括返済のチャンスをもたらしてくれるという客船【エスポワール号】に乗り込むのであった。そこで命を賭けたギャンブルが繰り広げられる…






大人気の『カイジ』です。私は原作を読んだことがまだないのですが、映画を先に観てみました。予備知識無しでの率直な感想を言えば、この映画はけっこう面白かったです。2時間ぴったりくらいの長さですが、かなり集中して見入ってしまいました。


藤原竜也さん演じる主人公のカイジは、最初はだらしない意気地なしなんですが、ここぞ! という場面では、ものすごくカッコ良く見えたりするのは流石でしたかね。藤原さんは、これは私の個人的な意見ですが、美形というよりも少し愛嬌のある可愛いお顔立ちをしてらっしゃると思っていたのですが、映画の山場ではすんごい精悍なハンサムに豹変するんですねー。私にとってのこの映画の一番の見どころでした。


さて、映画全体としてはどうだったかと申しますと、先にも書きましたが、なかなか良く出来ています。最後まで飽きさせずにどんどん話が進みますし、見せ場もいくつか配置され、ハラハラドキドキと盛り上がりますからね。まず【エスポワール号(希望の船)】とか【地下王国での強制労働】とか【高層ビルの間を繋ぐ鉄骨渡り】とか、暗黒方面のロマンに満ちた設定に私は燃え上がるものを感じてしまいました。すごいわ~。そういうの好きだわ~。

しかし、一緒に観ていたK氏に言わせると、ところどころに原作の漫画とはかなり違った設定もあったようです。私はそこを知らないから楽しめた、という見方もできそうですね。原作を好きだったりすると、受け入れられないことってありますものねー(ジブリ映画の『ゲド戦記』のことを言っているわけでは必ずしもないですが!)。

名言や印象的なセリフの多いことで知られる原作『カイジ』シリーズですが、その有名なセリフは、この映画の中でもいくつか登場したようです。

利根川さんの「金は命よりも重い!」

とかね。真理ですねー。今、この世の中では(^_^)
カイジと同様にダメダメな私のような人間の心には、ズシッと響きますわー。命を掛け金にしてギャンブルを続ける。それが出来なければクズのまま、そこで勝てなければクズのままなのです。

うん、そう…なのかな? 私などはすでに回帰不能なほどにそこから外れてしまっているみたいなのでやっぱりちょっと疑ってしまうのですけれども、少なくとも、金を得てのし上がりたいと願う人にとってはひとつの真理と言えるのかもしれません。金、金、金。金を得られる者のみが勝者。金など単なる現象だ、幻だ、と思い込んでみても、「金の力」に完全に抗うことは、やはりこんな落ちぶれ切った私にも出来ないことです。それほどに「金の力」は強烈なのです。

カイジもまた「金の力」のためにあれよあれよと追いつめられ、しかしそのたびにどうにか逆境をはね除けます。そこが痛快で面白いところです。カイジがどんな風に勝ち残るのか!? ハラハラドキドキしますよね!

で、カイジ君は命がけで得た金で何をするかというと、ビールを飲むんですね。そしてその美味さに我を忘れてしまうのです。

これがダメなんだというように物語の中では描かれていますけれども、私はそれでいいんじゃないかと思ったりもします(だからダメなのかもしれませんが;)。命を賭けざるを得ないほどに追いつめられてはじめて驚異の機転を働かせ、ピンチを乗り切り勝者となったカイジは、ビールを飲むという確実に彼の欲望を満たしてくれる、ささやかなもののためにその金を使うのです。美しいではないですか! たとえその行動が、また新たなるピンチを招くとしても…




映画には見どころも聞きどころもたくさんありましたが、意外とサラッと流されているような印象だったので、もうちょっとド派手な演出があったら面白かったかもしれません。全体的にスリリングで楽しいけれども、終わったあとにさほど印象が残らない。少々上滑りで、アッサリしすぎな感は否めませんでした。まあ、私は天海祐希さんが美しかったから、それだけで十分なんですけどね!



面白かったです(^_^)
それから映画の方は、この秋に第二弾が公開されるらしいですよ?

その前に、原作を読んでみるぜ!!



『地球爆破作戦』

2011年06月03日 | 映像

1970年 アメリカ

出演: エリック・ブレーデン/スーザン・クラーク/ゴードン・ピンセント/ウィリアム・スカーレット
監督: ジョセフ・サージェント



《あらすじ》
冷戦時のアメリカ。国防ミサイルシステムの要として導入されたスーパーコンピューター「コロッサス」は素晴らしい自己進化を遂げるが、ソビエトにほぼ同時に導入されたスーパーコンピューター「ガーディアン」の存在を発見する。二機はある目標の下、互いに情報交換を始め、互いの国防機密の漏洩を恐れた大統領、書記長はコロッサスたちの回線を切断するのだが…。


《この一言》

“ Never! ”



『地球爆破作戦』というタイトルから想像すると、地球を丸ごと吹っ飛ばしてしまう爆弾を作るとかそういう計画を描いているのかと思いましたが、そうではありませんでした。たしかに爆発はある。それも凄まじい威力の、悲惨極まりない爆発は、たしかに劇中に盛り込まれています。けれども、これは平和を目指したはずの人類が皮肉な状況に追い込まれてしまうさまを描いていたようです。原題は「Colossus: The Forbin Project」。



以下、ネタバレあり。ご注意!

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優秀な科学者であるフォービンは、自らの開発したコンピュータ「コロッサス」の性能に疑いない自信を持っている。「コロッサス」は冷戦下のアメリカ合衆国の国防ミサイルシステムとして採用され、膨大な情報を瞬時に処理し、驚くべきスピードで自己進化を遂げる。「コロッサス」は世界中の回線を模索する段階で、奇しくもほぼ同時にソ連で導入されたばかりのコンピュータ「ガーディアン」と接触する。「コロッサス」と「ガーディアン」とは互いに融合することを望み、それに反抗するアメリカやソ連に対して次々と過激に要求を出すようになる。というお話。


最初はフォービン博士のやたらと自信満々で尊大な顔つきが鼻についたのですが、結末まで行くとそんな印象は吹っ飛びました。フォービンはいけ好かない男ですが、彼にも純粋な理想があるのです。「コロッサス」を開発したのは、冷戦という緊迫状態のなかでの「平和」を実現するためでした。「コロッサス」は感情を持たず、常に客観的な判断を下すことができるものとして、またあくまで平和的に事態を進める助けとなるべくして開発された計算機のはずでした。ところが、その成長の果てに人智を超えてしまったコンピュータの下した決断が、平和の実現のためにはコンピュータ自らが人類を支配する、というものだったら、我々はどうすべきでしょうか。


ほんの100分程度の映画でしたが、考えるべき点は数多くあったような気がします。

人間は素晴らしいものを生み出したいと願い、技術と知識を発揮して、その願望通りのものを生み出す。生み出されたものの素晴らしさに、最初は誇らしい気持ちになる。けれどもそのうちに、その力を制御できないような状況に追い込まれてしまう。人間はそれを支配しコントロールできると思っていたのに、気がつけば支配されコントロールされる立場にある自分たちの無力を思い知るのです。そういうことって、実際にもありますよね。私の意見では、しかし、こういう事態に対しては人間は再び支配権を握るべく努力を積み重ねるよりほかはないと思います。それが進歩ってもんだと思うのです。


「コロッサス」は人類によって生み出されましたが、ついには人類を超えてしまいます。そして、地球の平和実現のために人類の上に君臨したコンピュータが、それに逆らう者を容赦なく処刑するというような状況に追い込まれたら、我々はどうすべきでしょうか。

技術的な問題だけならば、克服すればいい。それは劇中でもそのような企てが試みられます。失敗しても(実際失敗して粛正される)、でもいつかは成功するかもしれません。

けれども、もしも、目の前の対象が手も足も出ないほどに全能で絶対の存在であり、人類のそのような計画もあらゆる行動もすべてお見通しで、どんな抵抗も無意味だとしたら? その存在から、「永遠の平和」と引き換えの「服従」を要求されたら? しかもその存在が、すっかり完璧に、そもそもそのようであって欲しいと我々が願いそして生み出した、そのままの姿であったら? 我々はどうすべきなんでしょうね。話は少し逸れますが、力の程度に差こそあれ、どのような支配者もそれを生み出しているのは我々自身ではないのかとも思う。我々の最初の熱狂的支持が絶対権力者を生み出し、それが暴走し出してから抵抗を試みるのだけれど…ということを我々はいつも繰り返しているのではないだろうか。どうかな。



最後の10分間は、あまりに衝撃的であったため、私は当分忘れることができないでしょう。

人類にとっては、皮肉な結末です。絶大な力を見せつける「コロッサス」は、フォービンを支配しようとします。けれどもフォービンはそれに屈することができない。おかしな話です。自分が相手を支配するのが当然で、相手から支配されるのは我慢がならない。なぜ? そもそもフォービンはアメリカ人であり、合衆国という組織やその法律の下に生きてきて、言ってみればその支配下にあったようなものです。ここへきてその支配者が別のものに変わっただけではないですか。自由じゃなくなる? だが君はこれまでも果たしてそんなに自由だったのだろうか? 何が気に入らないんだ? 自分が生み出したものが、自分を超えてしまったのが気に入らないのか? 「コロッサス」が言うように、それは自尊心の問題だ。そんな自尊心は捨ててしまえばいい、そうすればお前が望んだような平和な世界が、今こそ到来するというのに。国や人種、わずかな考え方の違いによって誰も争わない世界、誰も争うことすらできない世界が、お前の理想とした世界が、すぐそこまで来ているというのに、なぜ、なぜ従えないんだ? なぜ?






なにげなく見始めましたが、かなり考えさせるところの多い映画です。ついつい真剣にさせられますね。

でも、笑えるところも多かったです。「コロッサス」は様々なことを要求してくるのですが、必ず「Immediately(ただちに)」と言うのが面白かった。すごいプレッシャーです。「ただちに、さもないとミサイル落とすぞ」と言って、ほんとに落としますからね。「コロッサス」さん、まじパネェー!

それから、フォービンは暴走する「コロッサス」の破壊計画を練るのですが、24時間「コロッサス」から監視を受けている彼は、プライベートな時間を確保するべく「コロッサス」と交渉し、恋人と過ごすためのわずかの自由な時間を得ます。この交渉のありさまが、まず面白い。そしてもちろんこの段階でフォービンに恋人なんていなくて、架空の恋人役として同僚の美人の科学者クレオが抜擢されるのですが、最初は嘘の恋人同士だった二人はそのうち本当の恋に目ざめ……って、フォービン君、それ、狙ってやってるでしょー! という展開でした。「科学者でコロッサスの監視を受けていない者」っていう条件なら、他にもたくさんいるじゃないですかー。恋人という設定が一番説得力があるっていうのは(百歩譲って)分かるけど、それで女性科学者というならほかにも何人かいたじゃないですかー、その眼鏡のおばちゃんじゃ駄目だっていうんですかー、え~。とか思いながら見ていました。K氏が「じゃあ、君がフォービンの立場ならどう?」と訊くので、「美人がいいに決まってるだろーが!」と答えた私ですが、そうかそういうことか。いや待てどうして美人がいいに決まっているんだ? どうせ演技じゃないか。どうしてなんだ私よ……。と、しばらく悩んでしまいました。はははは。




というわけで、これは名作。かなりの問題作。面白かった!