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もやもや日記

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『エピクロスの園』

2008年07月31日 | 読書日記ーフランス
アナトール・フランス著 大塚幸男訳
(岩波文庫)


《内容》
作家アナトール・フランス(1844-1924)は思想的には懐疑主義の流れを継ぐ自由思想家といわれる。本書はその随想集。宇宙全体がはしばみの実くらいに縮んだとしても、人類はそれに気づくことはないだろうという「星」をはじめ、さまざまな題材を用いて洒脱にその人生観を述べている。芥川はこの書の影響を受けて『侏儒の言葉』を書いた。

《この一文》
“「皮肉」と「憐れみ」とはふたりのよき助言者である。前者は、ほほえみながら、人生を愛すべきものにしてくれ、後者は、泣いて、人生を聖なるものにしてくれる。わたくしがその加護を祈る「皮肉」は残酷なものではない。それは愛をも美をもあざけりはしない。それはやさしく、親切である。 ”






「やっと来た」
そう思いました。最初に読んだのは、何だったでしょう。青空文庫で読んだ「バルタザアル」だったか、岩波文庫の『少年少女』だったでしょうか。そのあと、『シルヴェストル・ボナールの罪』も買いましたが、まだ読んでいません。どこかのアンソロジーで「聖母の軽業師」を読んだ記憶があります。内容は覚えていませんが。そしてこのあいだは『ペンギンの島』を読みました。これは最高に面白かった。皮肉と諧謔と悲しみの中にも楽天を、真の楽天主義を見るようでした。それでようやく、どちらかというとお堅いイメージだったこの人の面白さに気が付いたのです。そしたら、ずっと読みたかった『エピクロスの園』が重版されたではないですか。

そういうわけで、今頃になってようやく面白い人だと分かったアナトール・フランス。この『エピクロスの園』には、私がずっと若かった頃から言いたくてもうまく言えなかったことや、理解したくてもよく理解できなかったことなどについて、まるで読みたかったそのままに書かれてありました。と思ったら、こんなふうに書かれてあります。

 われわれは本を読む時には、自分の好きなように読む。本の中から自分の読みたいことだけを読む、というよりもむしろ自分の読みたいことを本の中に読む。


うーむ。まるで心を読まれているようではないか。と思ったら、こんなふうに書かれてあり…と思ったら、こんなふうに書かれてあり…と無限に繰り返してしまいそうなほど、いやもう、書かれてあることについてすごく分かってしまう。なんだか実によく分かる。それでもって、ふと胸を衝かれる。涙がこぼれそうになる。実際にすこしばかりこぼしてしまう。

というのも、読んでいると、この人はとても優しい人らしいことが伝わってくるのです。絶望や滅亡や絶叫といったものを好む暗黒趣味の私は、普段から、多くの作家がのこした社会への人類への憎悪や失望、怒りの言葉を求めたがります。不条理に満ちたこの世の中を思うならば、彼らの言い分はもっともだと思うからです。

以前同じくアナトール・フランスの『ペンギンの島』を読んだのもそういった興味からのもので、ペンギン人たちの来し方行く末を皮肉を込めて描いている物語に魅力を感じてのことでした。ところが、『ペンギンの島』を読んでみると、何と言うか、予想とは違う面白さだった。ユーモラスであるとか、それにもかかわらず悲しい物語であるとかいうだけではないのです。それだけではない何かがある。それが何なのか、その時にははっきりと分からなかったのですが(ただ、悲しみの中にも希望を見せてくれるような奇妙な楽観的さは感じたけれども)、『エピクロスの園』が教えてくれました。それは、優しさ。ありあまる優しさ。本当に、なんて優しい人なのだろう。

染み込むように、柔らかいもので撫でられるように、この人の言葉が私の中に入ってきます。別のところではあるいは厳しいことも言っているのかもしれません。実は私はまだ全部を読み終えていません。好きなところだけ、好きな順番で読んだので、たぶん半分くらいは未読です。これから時間をかけてじっくり読むつもりです。そういうことを許してくれる本だと思います。いつでも手に届くところに置いておこうと思います。厳しかったり悲しかったりする以上に優しいということが、私にはすっかり分かってしまった気持ちでいるのです。



ところで、訳者の大塚先生によるあとがきに、アナトール・フランスを熱愛した芥川についても言及されていて、それがとても面白かったです。芥川は、アナトール・フランスやメリメのように本格的な歴史小説を書きたかった(「現代人の視点からではなく、同時代人の眼をもって、この歴史の一齣を描き出し」たかった)らしい。でも出来なかった。
いえ、私が面白かったというのは、芥川が憧れたけど果たせなかったというエピソードではなく(もちろん興味深い問題ですが)、アナトール・フランスが本格的な歴史小説を描いていたという部分です。『ペンギンの島』を読んだ時、私はこんなふうに書きました。

 読み終えて凄かったと思うのは、語られる時代ごとにその時代の雰囲気がぴったりと表現されていることでしょうか。それゆえに、章ごとにバラバラに読んだとしても、それぞれがひとつの物語としても十分に魅力的です。それでいて、もちろんそれぞれの物語は一続きにきちんと繋がってもいるのです。そんなのは当たり前のことかもしれませんが、凄い。圧倒的です。


うーむ、表現力のなさは諦めるとしても、我ながらこの読みの確かさには驚かされます。「その時代の雰囲気がぴったりと表現されている」。そうそう、そう思ったんでした。それはあれが「本格的な歴史小説」だったからなのか。
それにしても、私の洞察力の鋭さよりももっと驚かされることには、この本の中では、あとがきに至ってまで「読みたいことだけを読」めるということですね。ははは。

…なんてことはさておき、こんなふうに私をなだめてくれる本は、ほんとうに久しぶりのことだったなあ。




ピザトーストなら食べられる

2008年07月30日 | もやもや日記

暑くて食欲のわかないこの季節ですが、ピザトーストなら食べられます。なんででしょう。ほどよい酸味が良いのでしょうか。

サンドウィッチに並んで私の得意なパン料理がこのピザトースト。誰にでも簡単に作れる。そこが肝心。あまり見た目は美しくできないのが悩みですが、まずまずおいしいから良いのです。タマネギとピーマンしか乗ってないけど良いのです。チーズがあるし(今は高級食材)。
それにしても、夏になっていい加減さが加速している私。それでも良いのです。いよいよバテたら、こうはいかないぜ。


ついでに、暑くなってもいまだ毎朝エスプレッソをいれています。ひとたび日課にしてしまえば、暑くても飲めるものですね。おいしいですよ。
そして、金縁のデミタスカップはノリタケ。昔、父が買ってくれたものです。ちゃんと受皿もあるのですが、それは仕舞ったまま……。えーと、いや、なんとなく。

私は実は金縁の食器が好きなので、そのうちお皿とかボウルとかも金縁で揃えたいものです。器だけでも豪華に! ってことですよ。とか、書けば書くほどしみじみしてくるなあ。もうちょっと立派に生活をすべきだな。うん。よし、秋になったら。


『フランス幻想文学傑作選 2』

2008年07月29日 | 読書日記ーフランス
窪田般弥・滝田文彦編 (白水社)


《収録作品》
狼狂シャンパヴェール(ペトリュス・ボレル)
ある厭世家の手記(アルフォンス・ラッブ)
幻燈だよ! 摩訶不思議!(グザヴィエ・フォルヌレ)
白痴と《彼の》竪琴(グザヴィエ・フォルヌレ)
地獄の夢(ギュスターヴ・フローベール)
魔術師(アルフォンス・エスキロス)
悪魔の肖像(ジェラール・ド・ネルヴァル)
屑屋の悪魔(ヴィクトール・ユゴー)
夜のガスパール(アロイジウス・ベルトラン)
魔法の指輪の物語(フィロテ・オネディ)
サン=ドゥニの墓(アレクサンドル・デュマ)
第二の生(シャルル・アスリノー)
降霊師ハンス・バインラント(エルクマン=シャトリアン)
二重の部屋(シャルル・ボードレール)
鷹揚な賭博者(シャルル・ボードレール)
前兆(A・ド・ヴィリエ・ド・リラダン)
ヴェラ(A・ド・ヴィリエ・ド・リラダン)
ロキス(プロスペル・メリメ)
星間のドラマ(シャルル・クロ)

《この一文》
“しかし、僕が、人間たちのなかで、あるいは人間たちからはなれ、これ以上生きながらえることがあるとすれば、それは、君がえらぶ道を、僕がえらぶということなのだ。
    ――「狼狂シャンパヴェール」(ペトリュス・ボレル)”





このあいだ、前からずっと欲しかった『フランス幻想小説傑作選』の第2巻を入手しました。予想していた通り、面白くてたまりません。
何度も言うようですが、私はフランス小説が好きです。ですから、ほかに何冊か読みかけの本があるのですが、どうしても我慢できずに先に『傑作選』のほうを読み出してしまうわけです。これはもうしょうがない。

今回読んだ第2巻には、だいたい19世紀くらいに活動したロマン派の作家たちの作品が主に収められているようでした。物語は面白ければただそれだけでいいと考えがちな私は、そういう文学史的な流れについては全く興味も理解もなかったのですが、あとがきを読むと、彼らロマン派の作家、とくに小ロマン派の作家は、のちのシュルレアリスム作家たちに多大な影響を及ぼしたらしい。なるほど、そう言われると、私がこれらの作品に惹かれる理由も分かるというものです。ちゃんと流れているのです。私が自覚するしないにかかわらず、私自身はやはり系統の中に属しているらしいのです。面白いなあ。

そして、いままで知らなかったのですが、ユゴーって結構面白いということが分かりました。ここに収められた物語に登場する「騎士ペコパン(←美男)」の名前のインパクトによって、なんだか他のも読んでみたいと思い、さっそく『死刑囚最後の日』と『ライン河幻想紀行』を買ってきました。ここでは1章のみ抜粋でしたが、『ライン河』のほうには「ペコパン」の他の全部が収められているらしい。こうやって次第に、有名な作家や作品に対して感じていた愚かな先入観を取り払われてゆく私。そのうち『レ・ミゼラブル』も読めるかも知れません。

というわけで、どれもこれも傑作揃いの本書ですが、私が特に打たれたのは、ペトリュス・ボレルの「狼狂(リカントロープ)シャンパヴェール」です。これは先に読んだ『フランス幻想小説傑作集』(これは、『フランス幻想文学傑作選1~3』と『現代フランス幻想小説』に収められた作品からいくつかを選び直し、再収録したもの)にも収録されていたので、そのときにも衝撃を受けましたが、ふたたび読んでもやはり衝撃的でした。

ちなみに作者のペトリュス・ボレルという人は、あとがきにあったゴーチエの描写によるとこんな人物だったそうです。

 「ロマンチスムの理想の最も完璧な見本であり、バイロンの作中人物として
 モデルにもなれそうなペトリュスは、皆から讃美され、天才と美貌を誇り、
 肩に外套(マントー)の垂れを撥ね上げ、仲間を従へて歩き廻り、その後に
 曵かれる影法師を踏むことは禁制とされていた」

おお、なんというダンディ……!! しかしその後の彼の没落ぶりがまた悲しみを煽ります。人生とはいったい何なのでしょう。

さて、主人公の男シャンパヴェールは、社会や人生に対して激しい呪詛と憎しみを吐き散らします。物語はまずシャンパヴェールが親友ジャン=ルイに宛てた遺書の形式をとって始まります。とにかく、シャンパヴェールのジャン=ルイに対する恨み節が凄まじい。この部分はかなり興味深いものでした。

読めばすぐに分かりますが、この物語にはあまりに激しい憎悪が渦巻いています。私は魂ごと揺さぶられました。私もまたかつてはシャンパヴェールやその愛人フラヴァであったことを思い出してしまう。いや、今もなお彼らであり続けながらもそれを自らの奥深くに隠して、私はまるでジャン=ルイ同様に生に執着するようになり、まるで何もなかったかのごとく恥ずかし気もなくこの世の幸福のことを言ったりする。これは私の呪詛であり憎しみであり悲しみである。深く突き刺さった棘がいまだ抜けず、この先も決して抜けることはないことを、激しい痛みによって知るのです。いつかこれが私にとどめを刺すのだろうか。もしもそうなったら、その時には私もやはり彼らと同じようにこう叫ぶに違いない。

 「無の世界へ!」



多くは失意のうちに人生を終えなければならなかった彼らの生み出した物語が、依然としてこれほどに強い魅力を放っているのは、いったいどういう理由なのでしょうか。私を掴んで放さないこの力はどこから来るのでしょう。何もかもすっかり滅んでしまったって構わないのだけれども、それでも私は今はまだこの手を伸ばさずにいられない。遠くへ瞳を彷徨わさずにはいられない。彼らが私を手放すか、私が自ら彼らの手から逃れるその時までは。



晴れのち豪雨

2008年07月28日 | もやもや日記

今日は、ずっとさぼっていた用事を済ますために、あちこちへ電車やバスを乗り継いで移動しなくてはなりませんでした。はー、だるかった。

朝は多少曇っていたものの、やっぱり夏らしい暑さでした。電車に乗って梅田まで出たついでに、書店やデパートのお菓子売り場を彷徨いました。店内は冷房がききすぎて寒い。汗だくになった直後に急速冷却されると、どうにかなっちゃいそうです。

ついでに寄っただけの梅田にはやはりあまり用事がなかったので、正午前にさっさと十三(じゅうそう、と読む)へ向かいます。めんどくせー、あつー、わー。と、内心ぶつくさ言いながら、なんとか1時間ほどで終了。でもまた来なくてはならんのだと思うと暗澹としますが、まあいい。
阪急線の駅に向かう途中は、飲み屋やスナックや喫茶店などがひしめく細い細い路地を抜けるのですが、なんとその狭い狭い道の端を通っているこれまたごく細い幅10センチほどの排水溝の鉄板の蓋の切れ目から、思いがけないものが顔を出していました。

あれは…………………………………、イタチ??

最初はネズミかと思ったんですが、しっぽがかなり長くふさふさしていたので、どうもイタチのように見えました。こんなところでどうやって生活しているのか気になります。しかし、私はイタチと闇雲な判断を下しましたが、やっぱりネズミだったかも。だって、こんな町なかだし。あるいは白昼夢だったかも。だって、あんな炎天下だったし。かなり朦朧としてましたし。写真でも撮りゃよかったかな。

そんなこんなで訳のわからぬものを目撃して、疲労はいや増しに増しますが、まだ用事は終わってません。さらに電車で移動。

今度はお役所でちょっとした申込手続き。思ったよりも空いていたので助かりました。すぐに済んだので、あとは帰るだけでしたが、見上げるとさきほどまで晴れていた空が真っ黒です(上の写真参照)。えー、なにこれ。風も冷たくなってきたうえに、黒い雲の下でぴかぴかと稲妻が光っています。

ここから家までを歩いて帰ると1時間近くかかるので、とりあえず、JRの駅近くのミスドに避難して、おそらく来るだろう雨をしのごうと考えました。コーヒーをがぶ飲みしながら、梅田の書店で思わず買ってしまってあった本を読んで面白さにうち震えていたら、予想どおりの豪雨の開始です。あー、やっぱり歩いて帰らなくてよかった。

しばらく時間を潰した後、せっかくここまで来たのだからと、近くのブックオフへ入り、首尾よく戦利品を得ました。もうかったー。

だいぶ弱まったとはいえ、まだ雨が降っているのと寒いのと疲れたのとで、帰りは阪急バスを利用することにしました。ここに住むようになってもう5年目ですが、バスに乗るのは初めてです。料金システムにいくぶん不安を感じましたが、良かった、一律料金です。うーむ、なかなか都会的だわー。
私はほっとして空いた車内の前部座席に座り、これまでに通ったことのない市内の道を通りながら、家の近くまで乗りました。なるほどなー、このあたりはこんなふうになっていたのか。近所なのに知らなかったよ。


1日がかりで移動して、どうにか用事は済みました。今日はほんとうにたくさん乗り物に乗ったなー。でも、実は総移動距離は大したことがないんだよなー。そのくせ無闇に交通費がかかってしまったなー。このあたりが便利で不便な都市生活者なんだなー。いやもう、なんだかなー。

という一日でした。疲れた。
おや、しかし、大雨の成果でずいぶんと涼しいです。今夜はよく眠れそう。


最後の法則

2008年07月25日 | 夢の記録


「ああ、これで万事解決。そのほかのこともきっとこれですっかりうまく運ぶに違いない」

という高揚感と達成感に満たされた私は、これを忘れないうちにちゃんと記憶しておかなくては、と半覚醒の頭に言い聞かせました。ところが、やはり起きてみるといつものとおり、何がどうしてああだったのか、すっかり忘れてしまいました。なんてこった。輝かしい光に包まれたという感触だけ残って、肝心のところは1ミリも覚えていないぜ。


こういう、全てが丸くおさまる完全無欠の法則を夢の中で発見してしまうことは、誰にでもよくあることではないでしょうか。私もこの手の夢なら、もう何度となく見ています。夢の中での栄光がある分、起きてそれが忘却の彼方へ消え去ってしまったことを知ったときの失望感は実に堪え難いものです。思わず二度寝してしまったほどです。いや、もう一度あの夢を取り戻せるかと思って(しかし、それが成功した試しがないことも、嫌というほど知っているのだが)。

それにしても今朝は残念だったな。あとちょっとだと思ったんだけどな。でも、これは良い徴候です。というのも、最近の私は怠けていてあまり物を考えなかったのですが、こういう夢を見るのは、たいてい何か問題意識を持っている時だからです。そういう時には、夢の中でも私は私のまま登場することが多い。今朝もそうだった。それ以外のすべてを忘れてしまったのは残念だ。

もう一度あの夢を見たいので、もっとがんばらなくては!

せっかく見てもいつも忘れてしまうこの手の夢ですが、私にやる気を出させるという実際的な効用もあるにはあるのでした。あー、夢って不思議。


すっかり夏

2008年07月23日 | もやもや日記


前にも書きましたが、大阪は連日の熱帯夜。
「熱帯夜」って、字面からしてもう暑そうでありますし、実際にとても暑い。どうして寝ながら汗だくにならなくてはいけないのでしょうか。相当に疲れます。

昨夜もいつものようにじめじめと蒸し暑い夜でしたので、私はずいぶんとうなされました。それで、起きたら朝の四時半くらいでした。外はだいぶ明るい。
さっそく家中の窓、玄関のドアまで開け放って、換気をしました。明け方になるとさすがにいくらか空気が冷えています。あれだけ熱かったものが、よくここまで冷えるなーと、少し感心しました。地球って壮大だなーと、無闇に壮大なことを考えてしまうのは、朝という時間の静けさのせいでしょうか。

結局それからしばらくは寝付けず、ぼんやりと窓の外を見ていました。新聞配達の人くらいしか、人気がありません。近所の公園で、鳥だけが鳴いています。スズメのほかにも知らない鳥の鳴き声が聞こえます。
蝉は六時くらいに起きるようでした。突然思い出したように一斉に鳴き出すので、もう夏なのだとあらためて感じます。


こうやって、夏にはほとんど眠れません。疲れるなー。これが9月の終わりまで続くんだもんなー。猛暑日や熱帯夜が当たり前でニュースにさえならなくなるんだからなー。やれやれ。今日も空が真っ青だ。



『ONE PIECE』

2008年07月22日 | 読書日記ー漫画
尾田栄一郎(ジャンプコミックス 集英社)

《あらすじ》
麦わらのルフィは海賊王になることを決意し、海へ出る。冒険の途中で新しい仲間を加えながら、「大いなる航路」を目指して航海を続ける。



ようやく50巻まで読破!
うーむ。私は今頃になってやっと、なぜこの漫画がこれほど愛されているのかが分かりましたよ。心が躍るんですね。真っ直ぐなんですよね。とてもすがすがしい。


物語は、悪魔の実・ゴムゴムの実を食べてゴム人間となったルフィという少年を主人公にした冒険譚。ルフィは海賊王になるために、ひとりまたひとりと仲間を加えながら、行く先々の不思議な冒険に乗り出すのでした。
この冒険具合がたまらなく楽しい。すげーワクワクする。

今のところ単行本は50巻まで出ているようですが、たいてい新しい仲間が加わるごとにひとつの冒険、というように物語はいくつかに分かれています。
その中でもおそらく特に人気があるのは、チョッパーのお話ではないでしょうか。チョッパーは、悪魔の実を食べてトナカイ人間になってしまったという元トナカイ。トナカイなんだけど医者。可愛い。あの話は泣くでしょうね。いや、泣きますよ。ええ。

ロビンさんのお話もいいですね。ロビンさんも悪魔の実を食べた能力者。クール・ビューティ。考古学者。とにかく美女。好きです。
謎の美女として登場するロビンさんにはとても悲しい過去があるのですが(というか登場人物はみな悲しい過去を背負っているのですよね)、彼女がルフィ達に心を開いていくあたりがもうダメ。泣きますよ。クールなロビンさんが涙と鼻水を垂れ流して絶叫するんですから。もうダメですよ。

こんな感じで、どのエピソードをとってみても、胸に熱いものが込み上げてきてしまいます。どこをどうみても、あまりに直球。たぶん、これこそがこの漫画の最大の魅力。少年漫画はこうあるべきかと。あと、泣きどころ同様、ふんだんに盛られた笑いどころもいいですね。明るいユーモアで満たされています。実にすがすがしいな。

ついでに、ルフィの仲間たちのなかで私が一番好きなのは、実はウソップ。いやー、我ながら意外。ウソップは名前の通りウソとハッタリだけで急場をしのぎ、特別な能力があるわけでもないまま(しかし射撃の腕は一流)、ルフィ達とともに冒険の旅を続けます。ところが、その冒険の行く手にはいつも馬鹿げた強さの猛者が立ちはだかるので、ウソップは幾度も脱落しそうになるのでした。でも、結局は脱落しない。肉体的な能力ということでは仲間よりも数段劣るウソップですが、彼には精神の強さがあるのです。いや、精神的にもビビリでネガティブな彼ですが、そのネガティブも行き過ぎてむしろポジに反転してしまっているようなところが、いい。
ソゲキングもいいキャラだし。

最近は面白さが失速しているのでは、という意見もあるようですが、私が読んでみた限りでは別にそんなことはないと思いますね。がんばって最後まで連載し切ってもらいたいものです。


そんなこんなで今頃『ONE PIECE』の面白さを体感した私。しかし例によって漫喫で無理な速読を強いられたために、まだ満足できません。読み足りない。……集めるか。でも、50巻……。どうすんの。どうしたらいいの? うおー、でもあと何回かずつ読み直したいんですよ!



『ヘルシング』

2008年07月21日 | 読書日記ー漫画
平野耕太 (ヤングキングコミックス 少年画報社)



とにかく、たまげた。とりあえず8巻まで読みましたが、いやもう、参りました。なにこの迫力。エネルギーが凄い。途中から息をするのを忘れていたらしく、8巻が終わったあたりで目眩がしました。参ったなー。

吸血鬼漫画です。すごく面白いらしいという話を聞いたので読んでみましたが、実際ぶっ飛ぶ面白さでした。

簡単なあらすじは、英国で代々吸血鬼退治を行っているヘルシング卿に仕える最強の吸血鬼ハンター・アーカード。ほとんど無敵の強さを誇る彼自身も、実は吸血鬼であった。ヘルシング卿、ヴァチカン、ナチスの残党がぶつかり合い、英国は地獄の戦火に呑まれていく――。
みたいな。不正確なところはあるかもしれません。なにしろ漫喫で読んできたものですから……。

なにが凄いって、この設定。びびった。思いきりよすぎ。狂気。わなわな。台詞まわしが怖えー。最近の漫画で、8巻という分量でこんなに突っ走っているものがあっただろうか。2巻くらいまでは普通の吸血鬼漫画で、ほのぼのとさえしている展開に「ふーん」という感じで読めますが、5、6巻くらいになると、もう何が何やら。1冊読むあいだに、呼吸を1セットくらいしかしてなかったかも。まばたきに至っては、まったくできなかったかもな。画面に吸い付けられてしまった。とにかく半端ない迫力です。なんだかうまく言えませんが、闇雲な説得力があるんですねー。なんだろう、これは。

しかし、物語の異常なスピード感に比べ、単行本の発行ペースはのんびりしているようです。1巻が出たのが1998年。最新9巻が出たのはこのあいだのようですから、……10年? まあ、描くのが大変なんだろうなー。作者の平野さんには、ほんとこれからもがんばってほしいものです。

とりあえず私は1度では読み足りない感じなので、買いに走ろうかと……。ああ! また漫画が増えるわい(/o\)



物語はどこから来るのか

2008年07月19日 | もやもや日記


優れた文学作品を読んでいると、あるいは面白くてたまらない漫画などを読んでいると、いつも不思議に思うことがあります。これらの物語はいったいどこからやってくるのだろうかと。どういう状況にあれば、こんなイメージが沸き上がってくるのだろう。たしかにそこに生きているとしか思えない人物はどこから。
創作をやる人には、当たり前のようにそれができるものなのでしょうか。私は残念ながらそういう方面の能力がないので、どうも想像がつきません。

私は文章を書くことはありますが(現に今も書いてます)、それが物語であることはほとんどありません。私が書くものは、実際にどこかへ出かけていって見たり聞いたりしたこと、あるいは夢の中で見たり聞いたりしたことを、もしくはあーでもないこーでもないと考えたことについて、できるだけ正確に書き写そうという種類のものです。事実や思考の流れの羅列であって、物語ではないのです。いつもオチがないのは、多分にそのせいかもしれません。ここがいつも残念です。
私の漫画やアニメーションがわりと「意味が分からない」「面白みがない」「人物に個性がない」とないない尽くしで評価されるのを、できれば克服したいのですがねー。もうどうしようもないの……?

先日、同人誌に参加して下さったねこきむちさんにお会いした時、ねこきむちさんがこんなことをおっしゃっていて「へ~~」と感心してしまいました。ちなみに、ねこきむちさんという人は、ものすごく筆の速い人で、次から次へと新しい小説を送って下さるので、進みのノロい私の同人誌には到底掲載しきれないほどです。で、そのねこきむちさんが、
「自分のなかに溜まったものを、吐き出さないと潰れてしまうから」みたいなことをおっしゃって、私は「なるほど、なるほど」と思うと同時に「私はそんなこと、感じたことないや」と気が付いたわけです。もっと正確に言うと、私にも多少「何か書かなくてはならない」という欲求はあるものの、それが「物語としてあらわれてくることはまったくない」ようだ、と気が付いたのです。これが不思議だった。私はこんなにも物語を好きだというのに。でも、物語は読むに限るのですよねー。

このあいだの同人誌『YUKIDOKE』でも、私は自分も寄稿して、いちおうそれは物語の形式はとっているのですが、実はただ夢見たことをそのまま写しただけのものです。なので、どことなく物語風ではあるものの起承転結も伝えたいことも何もありません。
なんかなー、何となく無念なのです。物語らしい流れのあるものが生まれてこないということが。次回にも寄稿したいのですが、やっぱり夢ネタでオチもないし。うーむ。いいのだろうか。そんなことで……。かと言って、夢ネタを離れて完全に創作ということになると、もう絶対に無理だし。小説とか、詩とか、書けない。書こうと思ったこともない。無理にオチをつけると、壮絶につまらないものに仕上がるし。というか、オチとか以前に、何かが決定的に足りないよなー。私の好みじゃないんだよなー。読むのは好きで、目も肥えてるつもりなのになー。
と、我ながらくだらないと思いつつ、ちょっと悩んでいます。読む能力と、書く能力は別物だとは分かってはいるのですがねー。

でも、私には私の作品が(いちおう作品ではあると思う)が物語とは思えないけれど、ひょっとしたらどこかにあれが物語のように思えるという人がいるかもな、と思ってもいます。そういう可能性があるから、「なんか面白くもなんともないのに、なんで書いちゃうのかなー」と首をかしげつつも、私は書いてしまうのかもしれません。「なんか分かんないけど書いちゃう」というのは、ねこきむちさんに比べるとかなり消極的ですが、同じ欲求かもしれませんね。問題は、私が望むように、もっとそれを物語的に表現するにはどうするかということだ。だって、自分でも面白いと思えるものを描きたいじゃないですか。

そこでちょっと、私の書いたり描いたりするものを分析してみました。私にとってあれらが物語でないのは、おそらくあれらがいつも「一場面」でしかないから。とにかく「一場面」。「ネコとネコが待ち合わせ」「美術学校に入学」「授業で見学」「ヒャクボルコの随想」「サンショウウオを捕まえた」。うーむ。ストーリーが無い。自分で言うのもなんですが、それがどうしたって言うんだ、というものばかり。いったいどうすればいいのだ。
………。だが待てよ、「一場面」をずっと続けて、それを並べたらどうにか流れをもったものに成長しないかな。だってほら、「美術学校」は続けざまで見た夢をそのまま繋げただけだけど、なんか物語っぽくなったし。ひょっとしてそういうこと?(どういうこと?とは、はっきり言えないけど) 甘いかな。甘いかもな。でも別に甘くてもいっか。

というわけで、次回作も懲りずに意味も主題もない漫画を描いちゃおう。でもなー、いいのかなー、ちょっとは学習とか向上とかあってもいいんじゃないかなー………もんもん(/o\)。
はあ。暑い。
しかし、ほんとに垂れ流しだな、私の書くものは。きっとあれが足りないんだな、全体を統制する力が。はじまりからおわりに向かって流れを制御する力が。それって……どこかに売ってはいませんかね。やっぱ訓練しかないのでしょうか……もやもや。
はあ。暑い。
ほんとうにどうでもいいことで、スミマセン。はは。