半透明記録

もやもや日記

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はじめての物語

2013年04月30日 | 読書ー雑記





息子に読み聞かせるお話として、最初は何がいいだろうかとあれこれ考えていました。

『くまのプーさん』かなあ。しかしあれはイーヨーの扱いがあまりにもあんまりだからなぁ。

『ピーター・ラビット』かな。待てよ、あれも色々ヤバいよな。冒頭からしてピーターの父うさぎが肉のパイになっちゃってるし。ベンジャミン・バニーの父は立派だったのにベンジャミンはなんだかろくでなし風味になっちゃうし、ジマイマおばさんの卵は食われちまうし。
イギリスはもうちょっと後にするか…。

では宮沢賢治かな。…あれ、本が見あたらない。えーと、どこへしまったのだっけ。ないな。

しょうがない。ストルガツキーから入るか。いきなり『収容所惑星』は難しいよなー。うーん、うーん。


そうやって本棚の前をウロウロしていたら、アンデルセンの『絵のない絵本』が目に留まりました。おお、これにしよう。

なにげなく手に取った1冊ですが、息子に初めて読み聞かせる物語にはよいですね。とても美しいお話です。「第二夜」まで読んだところで息子は寝てしまいました。こらこら、まだ10ページも読んでいないぞ…


いつか、息子のところへも本物のお月様が物語を聞かせにやってきてくれるでしょうか。いつか、息子もまた月の晩、自分の足元に黒い暗い影が落ちているのを眺めるのでしょうか。それともただ月を見上げてその美しさにうっとりするだけだろうか。そうだ、月はいつだって美しい。








アンデルセン作 大畑末吉訳(岩波文庫)


《内容》
ひとりぼっちで町に出てきている貧しい絵かきの若者をなぐさめに、月は毎晩やってきて、自分が空の上から見た、いろいろな国のいろいろな人に起ったできごとを、あれこれと話してくれた。それは、清らかな月の光にも似た、淡く美しい物語のかずかずであった。生涯旅を愛したアンデルセン(1805-75)らしいロマンティックな1冊。

《この一文》
“ ほんとうにふしぎなことです! ぼくは何かに深く心を動かされると、手と舌がまるでしばりつけられているような気持ちになるのです。そして、心のなかにはっきりうかんでくることでも、それをそのまま絵にかくこともできなければ、また、言葉に言いあらわすこともできないのです。 ”








76日目

2013年04月24日 | もやもや日記




大阪へ帰ってきて5日目。ようやく新居での生活にも慣れてきたところ。週末にこちらへ戻り、送ってくれた私の両親は土日はまだ残って面倒をみてくれましたが月曜に帰ったので、いよいよK氏と私と息子との新しい生活が本格的に始まったというわけです。K氏と息子は実に2ケ月ぶりの再会でした。息子はK氏の顔を少しも覚えていなかったようですが、驚くべき順応性の高さですぐに慣れてしまいました。下僕が新たに一人増えたと思っているのかもしれません。

それにしても予想はしていたけれど、当分は自分だけの時間を持つことは難しくなりそうです。久しぶりに食事の支度をしたら、手際の悪さに我ながらびっくりです。けれども私の息子はなかなかのお利口さんなので、日中はよく寝てくれます。どうにかこうにかやっていけそうかな。


さて、今日のところは時間が足りないので、とりあえず無事に大阪へ戻ったというご報告だけで失礼! なにしろ私は忙しい。授乳の時間に合わせて溜まったアニメを観なきゃならんのです! ひとまず『兵部京介』全話と『まおゆう』を9話まで観たところ。急がなきゃ、急がなきゃ、追いつけないぞ!!

…も、もちろんほかのことでも忙しいのですよ^^; さあさあ、子が寝てるあいだに羊羹を食わなきゃ!





最終日

2013年04月19日 | もやもや日記




20歳の時に家を出てから17年。ほぼ毎年のように盆と正月には帰省していましたが、滞在期間はせいぜい1週間ほどでした。まさかまたこの家でこんなに長く暮らすことになるとはなあ。

お産のために里帰りして4ヶ月。長かったような短かったような日々でしたが、それも今日が最終日です。明日には大阪へ帰ります。4ヶ月間も両親にご飯を食べさせてもらったので、帰ってからちゃんと自分で食事の用意ができるか心配です。作れたとしても今更ふたたび私の手料理の味(=限りなく無味に近い薄味)に耐えられるのかしら・・・。でも帰省中に蛋白がおりてしまったから、塩分は控えないとならないしな。味のしない飯も懐かしいといえば懐かしいや。

それからこっちにいるあいだに、言葉がすっかり富山弁に戻ってしまいました。あれほど完璧に習得したはずの標準語のイントネーションもたちまち曖昧になってしまった。17年前に上京したときにも最後まで直らなかった「なーん(否定の言葉)」を克服するのが大変だぞ、また。


ようやく子育てにも慣れてきたとはいえ、それはあくまで実家のサポートがあればこそ。大阪では新たに環境を整えていかなくてはなりません。しかも今度はK氏とふたりっきりで。(実は私はまだ自分だけで息子を風呂に入れてやったことがないのであった。いつも母におまかせしていた。ど、どうすんだ、これから!?)
うーん、がんばらないとね。


とりあえず、お父さん、お母さん、お姉ちゃん、甥のRちゃん、犬のPちゃん、長いことどうもありがとうございました! 久しぶりに一緒に暮らせて楽しかったですよ。大阪は近いからまたちょくちょく帰ってくるつもりですので、よろしく!(^_^)





69日目

2013年04月17日 | もやもや日記



今日は良いニュースと悪いニュースを。


まずは良いニュースから。



 【朗報】母にバウンサー(↑これ)を買ってもらった!

先日、高校時代の友人ふたりが息子の顔を見に来てくれたのですが、そのときに『バウンサー』なるもののことを聞いた私。なにやらそれは赤ん坊を乗せる台のようなもので、それに座らせると自分の重みでゆらゆら揺れて落ち着くらしい。抱っこしないで家事をこなせるようになるので便利だよーというのです。

そこで早速調べてみたら北欧ブランドの素敵なバウンサーを見つけたので、母にお願いして買ってもらいました。母はあれもこれも買ってやる!と以前から息巻いていたのですが、私としてはこれをいただければもう十分。こういう、自分で買うのはちょっと冒険だけど、貰うと嬉しいもののほうがありがたい。

週末には大阪へ帰るので、配送先は大阪の住所にしてもらってあります。届くのが楽しみです! 久しぶりに「欲しい!」と思ったものなので、今から待ちきれません(^o^) それにしても生後2ヶ月から本物の北欧家具を使うなんて贅沢な息子だわ。私とK氏なんて「北欧(風)家具」で我慢しているというのに・・・
喜んで座ってくれるといいなー!


さて、次に悪いニュースを。

ひと月くらい前の記事で私は自分が赤ん坊の頃の写真を載せましたが、そのころは私と息子は似ていなかった。ところが・・・

 【悲報】息子が私に似てきた・・・!
 (↓こんなんになってきた;)



最初はK氏にも私にもあまり似ていないと思われたのですが、ほっぺたが大きくなるにつれ、どことなく私の方に顔つきが似てきてしまいました。顔つきだけならまだよかったのですが(よかったのか?)、髪の毛まで似てしまった。ふわふわさらさらの細い髪だと思ったのに、とんだ剛毛だったぜ。まだ細いのですが、硬い! 逆立ったまま寝ない! ヤマアラシかよ!

まあ、私もK氏もタワシのような髪質だから、息子もその運命からは逃れられなかったということですね。かわいそうに(;_;)


うーん、実家暮らしも残すところあと3日。荷造りを終わらせないとな!




木曜日に来た男

2013年04月14日 | もやもや日記



忘れ去ってしまう前にやっぱり書いておきましょう。ちょっと長いですが、お産は帝王切開を計画していたのに、子が先走って出てきそうになるとこんな風なドタバタした展開になりますよ、ということで。まあ、なにかの参考になれば・・・ならないか、どうかな。

そもそもの出産予定日は2月17日でしたが、子宮筋腫のために帝王切開で産むことになり2月8日に手術日を設定。それまで待っててくれよ、と腹に向かって語りかけていたというのに、それが気に入らなかったのかは分かりませんが、息子は1日早い2月7日の夜に生まれ出ました。なぜだ・・・! 計画が台無しだよ! 私がたまにちゃんと計画しようとしたらこの有様だよ!


というわけで、以下。長々しくまとめ。


**********************

*2月7日(木)。冷たい風が吹き荒れる。翌日に帝王切開手術を控えた私は午後から母に付き添ってもらって入院。

 病院で諸手続きを済ませ、翌日また来てもらうことをお願いして母帰る。

 福岡のK氏は翌朝一番の新幹線でこちらへ向かい、午後からの手術にギリギリで間に合う計画を立てていたので、その最終確認をメールでやりとり。


*夕方、主治医の先生が麻酔医の先生を連れて病室まで挨拶に来てくれる。「もう準備万端だから安心して! 明日はがんばろうね~!」と和やかに告げてお帰りになった。

 看護士さんが定時の巡回に来て、明日の手術についての事前説明などを受ける。「今晩産気づいたら緊急手術になりますからね~☆」「いやー、さすがに予定日の10日も前なんで、それはないですよ! ハハハハハ!」と笑いあう。


*シャワーを浴び、夕食をとり、手術のための絶食は午後9時からか・・・今のうちにもうちょっと何か食べておこうかなと悩みつつ、あと念のため遺書でも書いておこうかと思いながらも一息ついた午後8時。
 窓の外に吹き荒れる雨と風を眺めていたら、

 謎の出血!!(ここから先3時間は怒涛の展開)


*ナースコールで「・・・あのー、なんか出血したみたいなんですが」と看護士さんを呼ぶ。「うわー、これは『おしるし』ですね・・・破水はしてますか?」と言われるも、まだしてない様子。と思いきや、看護士さんが病室を出て行った途端に破水した。本当に「破水」といった感触で、水が流れるようだった。焦る。

 当直の若い先生がやってきて「しばらく様子を見ますが、このままだとお産が進行してしまいますので、いま主治医の先生を呼び戻してます(←帰宅なさっていたらしい・・・申し訳ない;)。普通分娩でいけるか、手術になるかは診察のあとで決めましょう」と言われる。実は帝王切開を予定していたものの、筋腫が微妙な位置にあるので場合によっては普通分娩にチャレンジしようという状況だった。しかし私はすっかり帝王切開のつもりだったので、いまさら普通分娩とか言われても困る!!

 とりあえず、関係各所(母とK氏)にメール。「件名:破水しました・・・」

 K氏は手術に立ち会うかもしれなかったところだったのが、これで完全に立会いはなくなった。残念!(私はどっちでもよかったけど)
 K氏からのメールの返事は「落ち着いて、がんばれ!」とのことだった。しかし時既に遅し。私は混乱のあまりフリーズしていた。結果的には落ち着いて見えたかもしれないが、内心では屋外の雨風に劣らぬほどの暴風雨が吹き荒れていた。まだ心の準備もできてないのに、今すぐ手術とか言われても困る!!


*破水してしまったが陣痛はなく(?)、モニターで腹部の張りを計測するとかなり張っているらしいが私には感じられない。主治医の先生が来られたので診察してもらうと、子宮口はまだ1センチほどしか開いていないらしい。
 「手術しましょう」ということに決まった。午後9時45分。当初の予定よりも半日以上早い緊急手術となった。Oh・・・


*母が病院に駆けつけてくれたが、まともに言葉を交わせたかどうか覚えていない。診察室を出て、夜10時の消燈時間が過ぎた暗闇の病棟を車椅子に乗せられたまま駆け抜けた。手術室までのものすごいスピード感。あー、私まだ遺書を書いてなかったのに~、などと思う。別れの挨拶すらままならず。

 手術室には6~7人のスタッフの方々がおられ、私は丸裸になって手術台の上に乗せられる。麻酔は部分麻酔で下半身のみ。手術台の上で背中を丸めて横になり、腰から麻酔を打たれる。麻酔が効くまでおよそ10分間ほどだろうか。

 あばらから上は麻酔が効いていない。手術台の上に大の字にされた私は、ガタガタと震えだす。両腕は台の上に固定されているのだが、それを看護士さんが握りさすってくれ、「手がこんなに冷たくなって! 心配しなくても大丈夫ですからね!」と励ましてくれる。うっ、やめてくれ! これじゃまるでビビッるみたいじゃないか! べ、別にビビッて震えてるわけじゃないっスよ! ちょっと緊張してるっていうか・・・ガタガタブルブル謎の(?)震えが止まらない私はどうにか「だだだ大丈夫です」と返す情けない状況で手術は進行。

 下半身の感覚がなくなったと思ったらすぐに切開、赤ん坊を取り出す(感覚的には「始めますよ」と言われてから10分間ほどの出来事。実際そのくらいだと事前に説明を受けていた)。取り出されている感触はまったくなし。

 こうして産まれた赤ん坊はふにゃあふにゃあと猫のような泣き声を上げた。
 私はほっとしてようやく震えが止まり、看護士さんが全身をきれいにした赤ん坊を手術続行中の私の頭の横へ持ってきてくれて、挨拶させてくれた。「お母さん、赤ちゃんにチューしてください♪」とか言われるが、鼻先に近づいてきた子の頭はやや生臭い。それに私は鼻に酸素吸入のチューブを挿しこまれていることもあり届かず、チューするふりだけしてやり過ごした。
 
 彼は元気な男の子で、片目を開けてふにゃふにゃと不思議な顔つきをしていた。私はとにかく安心して眠くなる。

 2月7日、午後10時50分。3025グラムの男の子だった。検診の段階ではもっと大きいことが予想されていたので、先生が「意外と小さかったね」とちょっと残念そうにおっしゃり、私は「そうですね」と同意した。

 その後赤ん坊は別室へ連れていかれ、残された私の方は10センチ以上切り開かれた腹部を縫合する。手術の大部分はこの縫合に費やされる。私はもう眠いのと麻酔がいつ切れるのか恐ろしいのとで寝てしまいたいのだが、うとうとすると看護士さんが「大丈夫ですかっ!?」とその度に訊いてくるので寝られない。そういうわけで、麻酔の効いていないあばらの上に手術道具が置かれているらしい感触と、時々胃のあたりを強く引っ張られるような感触に耐えつつ縫い終わりを待つ。ほかのことを考えよう。宇宙、そうだブラックホールってなんか怖いよね・・・えーとタイムトラベルが・・・・・・長い時間だった。

 手術が終わるとベッドに寝かされたまま集中治療室へ運ばれる。手術室や病棟の廊下の天井を見上げながら「あー、これはまるで安部公房の『カンガルー・ノート』の世界だな。脛からカイワレ大根」などと思うゆとりが生まれるが、意識はかなり朦朧としている。そのまま翌朝まで夢も見ないで眠る。ときどき看護士さんが見に来て、寝返りを打たせてくれる。朝は病室の白さがまぶしくて目を開けられない。


*手術の翌日の午後、産科の病室へと移された私は、そこでK氏と再会した(たぶん。記憶がおぼろげ)。「お互いがんばろう」と言って握手で別れてからちょうど2ヶ月。私はそこそこがんばったので(冷静に考えるとがんばったのは主に執刀してくれた先生方だけど、一応私も手術には耐えたので)、もう一度握手で再会した。母やK氏と会話を交わし、友人にはメールを送ったりしたが、この日の記憶は今ではほとんどない。とにかく傷が痛んだ。傷だけでなく全身がギシギシいう。疲れていた。顔色は最悪に青黒い。


*術後数日は息子とはほとんど会わずに過ごすので、なんのために入院したのだか忘れそうになる。が、傷はものすごく痛み、卵巣切除のときよりも数段苦しい。傷が数倍だから痛みも数倍ということだろうか。いたい~。


*それでも術後2日目から立たされる。尿道に通されていた管を引き抜かれ(これもまた痛い)、ベッドから下りる。それから50メートルほど先の新生児室までよろよろと歩いていき、赤ん坊の世話についての説明を受ける。「3時間寝られればラッキーだと思うような生活になるよ!」とのこと。真っ直ぐ立つのもやっとの私は非常に疲れていたので、それを聞いてものすごく憂鬱になる。


*3日目。散々悩んだ末に、息子の名前を決める。K氏はこの日までずっと病院に詰めて私の話し相手になったり、病室へ連れてきた息子のおむつを替えたり、写真を撮ったり、抱っこしてみたりしてくれていたが、午後から福岡へ帰っていった。


*1週間の入院中は、とにかくハード。腹の傷が痛む上に、赤ん坊の世話。母乳をうまく飲めない息子との付き合いに不安を感じ、抱っこもうまくできない。
 母子同室を推奨している病院なので、3日目から同じ病室で寝起きするが、1時間半ごとに授乳に挑戦していたら寝る時間がなくなる。昼夜問わず泣き止まない息子を抱えてお互いにへとへとになるが、昼間から寝ているところを看護士さんに見られてはいけないと考えた私は、とにかく寝ずにがんばった。するとたちまち血圧が跳ね上り、看護士さんからは「昼間でもなんでも、寝られるときに寝てくださいね!」と安静を命じられた。そうか、昼間に寝てもいいのか。「3時間寝られればラッキー」というのは「最大3時間しか寝ちゃいけない」という意味ではなかったんだな(←落ち着いて考えればそうだろうに;)。
 私がこんな調子だったので、息子は一時的にふたたび新生児室で面倒をみてもらうことになった。不慣れな母ですまない。
 翌日には血圧は正常値へ戻った。


*ひーひー言いながらも、その後はそれなりに順調に回復、子の経過も良好。無事に1週間で退院することができた。めでたし、めでたし!


**********************

以上、こういうお産の風景もあるという記録でした。
珍しく計画通りに事が進みそうで、面白エピソードなんて生まれそうもないと思われた私のお産は、やっぱり直前でドタバタしてしまいましたね。うぅ、あんなに慌しいのはもう懲り懲りですわ!


それにしても、本当になんで息子は1日早く生まれてきたんですかね。私達に誕生日を勝手に決められそうになったのが気に食わなかったのでしょうか。それとも、2月8日に生まれる!→それなら今から出る準備しなきゃ!(=破水)→翌日に普通分娩で間に合うつもりでいたら緊急手術になって取り出されてしまったでゴザル、ということだったのでしょうか。分かりません。なんにしろ、無事に済んでよかったです。

あれからもう2ヶ月。3025グラムだった息子は今はもう倍くらいの大きさになりましたよ。成長が早いですねー。考えてみたら、去年の今頃はまだ発生すらしていなかったんだから、なんともものすごい。来年にはもっと大きくなっているんだなあ。

その前に、今月は私の誕生日。もうすぐ37歳か。うーん、早いな・・・。





62日目

2013年04月10日 | もやもや日記



月曜日に私の祖母がうちへ来て、赤ん坊用の手編みのケープをくれました。タンスの奥にしまったままになっていたものらしいのですが、オフホワイトなので男の子でも着られるだろうということで私の息子にくれたのです。

そのケープがものすごく可愛い。私の息子は白が似合うのでこのケープも似合うことでしょう。純毛なので今からは使えないのがちょっと残念ですが、少し大きめなのでおそらく1歳になる冬には着られるんじゃないかと思われます。身頃部分にはラメが少々入っており、ラメ無しの別糸で編まれた裾はひらひらしていて本当に可愛い。うーん、可愛い。・・・何なら私が着たい。ドラえもーん、でっかくするライト持ってきて! あー、大人用だったらよかったのにな・・・!(^o^;)

祖母がこれを編んだのはもうだいぶ前のことらしいですが、「編むのにどのくらい時間がかかった?」ときいてみると、「1日もかかってないよ」とのこと。なんて器用なんだ!! なぜ私は祖母に似なかったんだ!! とつくづく思わされます。編み物ができるのはうらやましいなあ。私は編み物は苦手で、昔K氏に手編みのマフラーを編んでやりましたが、なんだかイカの干物みたいなものができあがっただけでした。そんな低レベルな私からすると、この裾の編み目なんて複雑すぎて理解不能です。すごいなあ。


息子をスリング(中に赤ん坊を入れて肩からかける布袋)に入れると、そのままぐっすり寝てしまうのと、怒り狂って余計に泣くのと半々というところ。狭いところが好きなのかそうじゃないのかいまいち分からないな; かと言って布団に寝かせると高確率で30分~1時間ほどで起きちゃうし・・・。

もうすぐ大阪へ帰るので、私の両親の助けがなくとも、どうにかできるようにならないと!





さくらさいてた

2013年04月08日 | もやもや日記



あまり外を出歩かないので分からなかったのですが、久しぶりに外出したら桜が咲いていました。ちょうど満開くらいでしょうかね。波浪警報の出ていた昨日とは違って、今日は暖かでよい天気でした。


桜というと毎年必ず思い出すのが私の高校の入学式。たしかあれは4月8日のことじゃなかっただろうか。あれから21年か。・・・・・・えっ、21年かっ!? 驚くほどに長い年月ですね。いやー、驚いた。あの暖かな昼下がり、はらはらはらはらと桜の花びらが静かに舞い落ちていたことを、憧れの制服に袖を通して狂わんばかりに舞い上がったあの時の感情を、今でも昨日のことのように思い出します。

桜の季節にはいつもやたらと高校時代が懐かしくて、別にやり直したいとかあの頃に戻りたいとかそういうわけでもないけれど、それに近い感傷のようなものを私はずっと抱き続けてきたのです。でも、そう言えば、このごろはあまり思わなくなっていたな。16歳の春から21年。常に過去を振り返りそれとともに生きてきた私も、いよいよ大人になったということなんだろうか。あるいは何かしらを諦めたということなんだろうか。何がどう変わったのかは分からないけれど、いつの間にか私は未来を見つめるようになっていたんだなあ。可能な限り長く生きてやる、もっと先を見に行くんだと思うようになっていたなあ。生きているって、何が起こるか分からないってことなんだ。


 時はお前のため花の装いをこらしているのに、
 道学者の言うことなどに耳を傾けるものでない。
 この野辺を人はかぎりなく通って行く、
 摘むべき花は早く摘むがよい、身を摘まれぬうちに。

   -『ルバイヤート』オマル・ハイヤーム


時が流れていきますね。そして、ほら、今も美しく花が咲いていますよ。





55日目

2013年04月03日 | もやもや日記




雨。でも今日はわりと暖かいです。もう春ですね。こちらは桜はまだなんですけれども。


さて、息子は2月の風の強い雨の日の夜に生まれましたが、彼はまだ雨を知らないんだろうと思います。これまでは晴れた日にしか出かけたことがないですから。そこで雨が降っているところを見せてやろうと思い窓を開けてみましたが、外を見ても興味なさそうに何やらもぞもぞと動いていました。ミルクが足りないのか、それともウンチがしたいのに出ないのか。

数日前から息子は時々声を出すようになりました。まだ何の意味もなさそうな一音ずつの短い発声ですが、ひとりで何やらお話ししているようにも見えますね。もうすぐ生まれて2ヶ月になりますが、ずいぶんと大きくなったので既に生まれたての頃がどうだったか思い出せないくらいです。みるみる大きくなってはいるけれど、彼が生まれたのは雨の夜だったということを自分で分かるようになるのは、まだまだ先のことだろうなあ。





エイプリル・フールっていうことですので

2013年04月01日 | もやもや日記



エイプリル・フールってことですので、私もネタをいくつか(^o^)


おとといの晩のことでしたが、夜中にふと目を覚ますと、隣で梅宮辰夫さんが寝てました。「何ッ・・・!?」と目をゴシゴシこすってよく見ると、それは私の息子でありました。なんだ、驚かせるなよ・・・ふふふ。しかし目をこすってよく見ても、やっぱり梅宮辰夫さんにソックリな息子。うーん、似てるなあ。これはなんとも・・・いや、いいんだけど、梅宮氏は美しいお顔立ちだとは思うし。息子はこのところ顔が四角いんですよね。

その数日前には、押井守監督にソックリだった私の息子。これも本当によく似ていました。押井監督はこないだ写真でお姿を確認した限りでは髪を短くされてまして、それで一層よく似て見えました。押井監督顔でグズる息子。グズグズいうのをあやしながら、「もういい年なんだから、しっかりおし!」とか言いたくなる気持ちを抑えるのに一苦労でありました。ああ、久しぶりに「ビューティフル・ドリーマー」が観たいな。あれは名作。

そんなおっさん顔の息子ですが、時々ジュード・ロウに見えることもあるんですよ。とくに額のあたりなんかはよく似ています。ていうか、まあ、額のあたりしか似ていないっていうか、完璧美人のジュード・ロウの一番似てなくてもいいところが額の生え際だと思いますが、そのあたりがもうソックリで・・・! うーん、将来が楽しみだなぁ・・・・・・

さあ、それでは私の息子は結局誰に似てるんですかね? エイプリル・フールってことですから、どれかに嘘が紛れているかもしれません。梅宮辰夫氏、押井守氏、ジュード・ロウ氏、のお三方のうち私の息子が似ているのはどなた!?

嘘でもいいからジュード・ロウに似てくれないかなあ・・・!!
(生え際がソックリなのは本当ですが・・・)



さて、ネタはもうひとつ。

昨年末に福岡へ引っ越した私ですが、同時期にお産のために富山へ里帰りしたので、まだ福岡へは行ったことがありません。新大阪駅でK氏と「お互いがんばろう!」と握手で別れてからもうすぐ4ヶ月です。ちょっと里帰りが長引いていますかね。でもそれももうすぐ終わりです。私はいよいよ里帰りを終えてK氏のところへ帰ろうと思いますよ。そう、福岡へ・・・

・・・のハズでしたがッ!!!!

色々あって、再び大阪へ戻ることになりました~~~!!!


誰かポルナレフのAAを貼ってくれ(^o^;)
「何を言ってるか分からねーと思うが、俺も何を言ってるか分からない」っていうアレを。ほんと、なにがどうなるとこんな事態になるっていうんですかね!? 人生って不思議ですね!

そういうわけで、私は今月からまたまた大阪の住人になるわけですが、今のところはまだ福岡に住民票は置いてあります。まだ一度も行ったことがないというのに私は福岡市民だった・・・!!
という摩訶不思議な状況もあと半月ほどで終了か。結局一度も行かずじまいで終わってしまったな。またまた私は経歴におかしな時代を付け加えてしまったようだぜ。
それにしても息子を玄界灘に浸からせてたくましく育て、高校は「修猷館(しゅうゆうかん)」へ行ってもらおうと考えていたというのに(そんな気軽に行けるところかどうかはともかく響きがカッコイイですからね)、そんな私の黄金計画がしょっぱなから台無しですわ! 九州新幹線にも乗りたかったのによう・・・(T_T)

というわけで、ただ単に里帰り出産して帰る、ということに落ち着きそうな私です。引越しの必要はなかったのではないかというのは言わないお約束です; 人生には挑戦すべき時があるものです、しかしそれが必ずしも成功するとは限りません。でもそれでよいのですよ。
大阪では、最初に大阪へ移ってきたときに住んだ街に戻ることになりました。やったぜ、あそこはいい街なんだぜ! 最初からやり直そう。なにもかも最初から!

今日はもう4月1日ですが、はじめにK氏からこの事態を聞かされたときには正直、

誰かエイプリル・フールだと言ってくれ・・・!!

とか思いましたよ(^o^;)いやー、ほんと、なにがどうなっているんですかねー。でも大阪へ戻れるのは嬉しいや。


今日から新年度。心機一転がんばるぞ!