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『僕、トーキョーの味方です アメリカ人哲学者が日本に魅せられる理由』

2014年07月15日 | 読書日記ー実用

マイケル・プロンコ著 矢羽野薫訳(メディアファクトリー)



《この一文》
“ 僕が心から感動するのは、荷物が行くべき場所へ確実に届くことだ。東京の道路は迷路で、住所表記はまるでなぞなぞだ。それでも宅配便のドライバーは現代の侍のように、ひるむことなくきびきびと飛びまわる。
 毎日、数え切れないほどの荷物が出発地から目的地へ迷わず移動するなんて、ほとんど奇跡だ。”
  「生活一式、宅配いたします」より


“ 新宿駅は、変化が好きな東京のダイナミズムを体現しているといえるだろう。この街は、変化を求めて変化し続けるのだ。そして東京は、過去も愛してやまない。永続性と連続性をもたらす寺の修復工事には、過去とつながっていたいという思いがあふれている。
 新宿駅を冷笑し、寺に敬意を払うのはたやすい。だが僕は、どちらの変化も好きだ。二つの変化が同時に進んでいることが好きだともいえる。未来と過去を行きつ戻りつしながら、変化する街。それが東京なのだと思う。”
  「過去へ未来へ、工事中」より



ニューズウィーク日本語版のサイトに「TOKYO EYE」というページがあって、そこでは日本に暮らす外国人達によるコラムを読むことができます。面白いので私はちょくちょく読みに通っているわけですが、なかでもこのマイケル・プロンコさんのコラムがいつも楽しみなのです。

私は元々コラムやエッセーを読むのが好きで、小説にはまる前のずっと若い頃にはもっぱらそういうものばかり読んだものです。色々な人が色々なものを見て色々に感じたり考えたりしたのを読むのが10代の頃には面白かったし、もうすぐ40になろうかという今でもやはり面白い。物の考え方に納得させられたり、視点そのものが新しくて驚いたり、時にはまるで同意できない意見に遭遇したりすることもあるけれど、こういう文章というのはいつも刺激的で楽しいですよね。

マイケル・プロンコさんの文章は面白い。日本人が気づかずにやり過ごしてしまうような物事について、東京に暮らすひとりの外国人としての繊細で鋭い眼差しをもって、極端になりすぎず、適度なユーモアを加え、街や人を鮮やかに描写し、知的で時にはハッとするほど詩的に語ってくれます。私は、街を行き交う人々が提げている様々の紙袋を見ても何も思わなかったし、そこらじゅうに溢れる自販機が茶道に結びついたりなんて想像もしなければ、ビルとビルの隙間に少しの悲しみと安らぎを感じたりすることもなかった。プロンコさんの目を通して見直すと、東京は私の知っていたのとはちょっと違った街に見えてくるのでした。


私は東京には8年間住んで、東京を離れてからはもう10年ほどになります。去ってからの時間の方がとうとう長くなってしまったか。この本は2006年に出た本なので、私が東京を離れた頃の東京を描いているということになりますか。ひとつひとつの文章をゆっくり味わいながら、私は心の中の、思い出の東京を駆け巡りました。
今でも東京は変わらずに東京のままだろうか? 街並は変わったところもあるだろうけれど、きっと今でもあの巨大なエネルギーが東京を東京らしくしていることだろうなあ。






『MARINE AQUARIUM FISHES OF THE WORLD 海水魚飼育図鑑』

2009年08月31日 | 読書日記ー実用

円山清著 (マリン企画)



《内容》
海の生物を飼う。いわゆるマリンアクアリウムの世界は、自然界が造りだしたカラフルな色彩と生命力に満ちた空間である。
さまざまなマリンフィッシュの特徴を写真入りで解説、飼育に必要な情報も併記されたマリンアクアリウムを楽しむための一冊。




綺麗なお魚の写真が多数収録されたお得なマリンアクアリウム入門の本です。図書館の除籍本となっていたのを貰ってきました。わ~い!

本書では、カラフルな魚がその種類別にオールカラーの写真入りで解説されていて、とにかく見ているだけでも楽しめます。奇抜な模様の魚が多くて、目が離せません。図鑑というのは実に面白いものですよね。どこか南の海に、あるいはどこかのおうちの水槽の中に、こんな鮮やかな魚が今この時にも泳いでいるのかも、と想像すると愉快です。それに、魚類のかたがたというのは総じて間抜けなお顔立ちをしているので、和みます。

魚の名前を見るのも楽しいです。エンゼルフィッシュなどは、なにゆえ【エンゼル】なのか私にはまったく見当もつきません。エンゼルという顔じゃないよなー。いやまあ、顔は関係ないんだろうけど。

南国の魚には、黄色に水色、緑色に紫、渦巻き模様に水玉、ストライプもいればサイケ柄もいます。なんて派手なんだ、君たちは! 楽しいな~、楽しい!


というわけで、ひたすら眺めるのが楽しい一冊です。私はあと、鳥の図鑑や野草の図鑑、茸の図鑑などが欲しいです。図鑑のなかのカラー写真をぱらぱらとめくっていくと、この世界の色鮮やかで美しいことと言ったらまるで夢のようじゃないかと思えてくるのでした。世界は今この瞬間にも美しい。愚かな私がそれに気がつかなかったとしても。でもって、現代というのは実に素晴らしい時代です。なぜなら、この世界の美しさを知りたければ、すぐ手の届くところに数多くの図鑑その他の資料が置いてあって、私たちにいつでもそれを垣間見せてくれるから。

と、急激に上昇気流が発生してしまいました。
なんか、図鑑ってテンションが上がるなぁ!!




『ナンセンスの機械』

2009年07月09日 | 読書日記ー実用

↑【ゆで卵をつくる時の自動時間計測機】


ブルーノ・ムナーリ 窪田富男訳(筑摩書房)



《内容》
イタリアの多才な芸術家ブルーノ・ムナーリによる、《学生時代、友人たちを笑わせようと思って、ただそれだけの理由で、描いたものである》愉快な機械の数々。


《この一文》
“赤海から雨をたっぷり含んだ雲をいくつか連れてきたまえ。赤海から雲を連れてくることが困難な場合は、臨時措置として、わが国の雲、とくにロンバルディア平原かヴェスヴィオ山の雲を利用してもよいはずだと思っている読者のいることも、ぼくはちゃんと承知している。どちらにしても、この機械が動くことはたしかだ。
  ――【雨を利用してシャックリを音楽的にする機械】より ”




先日、ちょっとした偶然から、私はブルーノ・ムナーリという人のことを知りました。最初は、火のついたロウソクの側に置かれた檻に、耳を澄ました猫が入っているというユーモラスな絵に惹かれたのですが、どうやらこの人はとても面白い人らしい。

この『ナンセンスの機械』には、13個の愉快な機械について、文章とイラスト両方で読者を楽しませてくれます。そのどれもが軽快なユーモアに溢れた、鮮やかで心浮き立つような、思わずにやりとしてしまうような仕掛けの、楽しいものばかりです。『ピタゴラスイッチ』のピタゴラ装置にもっと動物的要素を加えたというか、レーモン・ルーセルの『ロクス・ソルス』に登場する奇妙な発明品に、可愛らしいイラストを付けたというか(と言うものの実は私は『ロクス・ソルス』はまだ途中までしか読んでませんが)、何と言うかそういう感じです。


全ての機械は、まず番号付きでその機械の各部分についての説明があり、装置全体の図解イラスト、最後に「ノート」として部品のいくつかに関する詳細な補足説明など、という形式で掲載されています。これが面白い。

たとえば、【ゆで卵をつくる時の自動時間計測機】で重要な役割を果たすカタツムリのマリア・ルメーガ女史は、元新聞記者で、そのころに女史がいかに工夫を重ねて新聞を売ろうとし、しかもそれらのすべてが徒労に終わってしまったことを嘆いたりもしている悲しみのカタツムリであるということが延々と説明されていますが、そういうどうでもいい設定が面白いですね。

他には【目覚時計をおとなしくさせる機械】、【疲れた亀のためにトカゲを使ったモーター】、【怠けものの犬の尾をふらせる機械】など、いったい何のために必要なのか理解不能な機械が目白押しです。しかし、それらをじっくりと眺めていると、機械としては確かに機能することが分かりますし、何か生活というものが突然楽しく美しいものであったことに気づかされないこともないような気もしてきます。

人は発明ということをわりと好むものだし、そういうものを目にすると、どういう仕組みになっているのかついつい気になってしまうものです。しかもそれには必ずしも「もっと便利に、もっと速く!」という目的があるばかりではなく、「もっと楽しく、もっと美しく!」という方向性があったって、別に構わないんじゃないだろうかと思えてきました。うーむ。これは盲点でしたね。

というわけで、ものごとを別の見方で見てみたい、ものごとを出来るだけ面白いものとして考えてみたいときには、これはうってつけの一冊ではないでしょうか。





『太陽の都』

2009年04月15日 | 読書日記ー実用

カンパネッラ著 近藤恒一訳(岩波文庫)



《内容》
スペイン支配下の南イタリア独立を企て挫折した自らの改革運動の理想化の試みとして、カンパネッラ(1568-1639)が獄中で執筆したユートピア論。教育改革をはじめ、学問、宗教、政治、社会、技術、農工業、性生活など人間の営為のすべてにわたる革新の基本的素描が対話の形で展開される。ルネサンス最後の巨人の思想を集約した作品。

《この一文》
“かれらの言いますには、およそ所有権というものは、自分だけの家をつくり、自分の妻や子どもを持つことから生じ、そこから利己心が生まれるのです。と言いますのも、息子をできるだけ資産家や高官にしてやろうとか、〔大きな資産の〕相続人にしてやろうとかするあまり、だれしもみな、権勢家で恐れを知らぬものであれば貪欲に公共のものを横領するようになるし、無力な者であればけちんぼや詐欺師や偽善者になるのです。しかし利己心がなくなれば、公共への愛だけが残るのです。
  ―――「3.政体・職務・教育・生活形態」より ”

“無をめざす傾向から悪と罪が生まれます。だから、罪を犯す人は自己を虚無化するものだといわれ、また罪は、実効性のない原因をもつだけで、実効性のある原因をもちません。実効性のないことは欠如とおなじで、力とか知とか意志とかの欠如にほかなりません。そして意志の欠如にこそ罪はあるとされます。なぜなら、善をなしうる力をもち、しかも善をなすすべを知っている者は、とうぜん善をなそうと欲するはずです。力と知とから意欲が生じるのであって、その逆ではないからです。
  ―――「9.宗教と世界観」より ”



解説によると、著者はトンマーゾ・カンパネッラ。1568年9月5日生れ。洗礼名はジョヴァン・ドメニコ。
カンパネッラ(カムパネルラ)とジョヴァン(ジョヴァンニ)……と言えば、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』ですね。ひょっとしたらと思い、新潮文庫版の『新編・銀河鉄道の夜』の解説のページを開いてみると、やはりこの『太陽の都』のことが書いてありました。へえ。

『銀河鉄道の夜』のふたりの名前が、ほんとうにこの『太陽の都』の著者の名から取られたものかどうかは分かりませんが、『太陽の都』に描かれた燦然と栄光が輝く堂々たる美しい世界と、『銀河鉄道の夜』の冷たく澄んだ夜空に星がまたたく静かな美しい世界の対比を思うと興味深いです。どちらも星を見上げる人の物語であり、どちらも地上には存在し得ないほどの美しさを描いた物語のように思えます。

それはさておき、『太陽の都』は面白かったです。世界一周の航海から帰ったジェノヴァ人が、聖ヨハネ騎士修道会の騎士に語って聞かせる不思議な都市のお話です。
ジェノヴァ人は、「太陽の都」という、優れた人々によって運営される都市の構造から、そこに暮らす人々の思想、生活風俗、宗教観など、あらゆることについて、事細かに語ります。どうでもいいことですが、「○○についてはどうだね?」と質問する騎士に対して、ジェノヴァ人がいちいち「それはさっき話しましたが…」とことわりを入れるのが笑えました。


「太陽の都」においては、人々は徹底的かつ高度な教育を受け、個人による一切の専有・所有を厳しく排し、公共への愛と愛国心をうたい、健康で美しい肉体を磨き、種族としての繁栄を目指し、比類なき幸福と豊かさにあふれた生活を実現しています。まるで夢のようです。

ここに描かれた都市も人々も、夢物語でしかないかもしれませんが、しかし私には美しく魅力的に思えます。また、決して実現不可能なことではないのではないかとも思えます。もしも、人間の精神のあり方が決定的に変わり得るなら、の話ですが。所有と専有がもたらす豊かさに疑問をもたない間には、おそらく到達できないでしょう。しかし、私たちが可能な限り多くを所有したいというこの気持ちを放棄するためには、どれほどの衝撃が必要なのでしょうか。また、どのような衝撃が必要なのでしょうか。人間が変わるためには、何が必要なのでしょうか。
こういう調和のとれた理想の世界を見せられると、その実現の困難さを思って「馬鹿げてる」と言って誤魔化したくなるけれど、美しいものの美しさにはやはり憧れずにはいられません。

意志の力が重要である。ということを痛感させられます。思慮深さと知性が求められます。すべての人間がそれを獲得したならば、ひょっとすると「太陽の都」はこの輝きのままに姿を現すかもしれません。まぶしすぎる光の都市。今は目に見えないということは、「無い」ということと同じではないですものね。


解説による著者のカンパネッラの生涯を見ると、この人の意志の強さには感服します。この人の生涯を物語にしたら、かなり読みごたえがありそうです。人生のほとんどを、その思想のために弾圧され獄中で過ごしたとか、ピンチを切り抜けるために逆さ吊りになったまま数日間狂人のふりをし通したとか、もう凄すぎます。
世の中には、時々こういう強固すぎる意志の持ち主が現れるのでしょうか。不屈の精神。そのために苦痛を伴う波乱の生涯を送らなければならなかったようですが、美しい人です。不可能の中の可能性を少しでも示してくれるすべての人は、美しい。






『簡単に断れない』

2009年04月10日 | 読書日記ー実用

土屋賢二 (文春文庫)



《内容》
「お茶の水女子大の方から来ました」「妻と助手を養わなくてはならないんです」「読んでも読まなくても必ず笑えるから」などと言いながら、本書を売り歩いている哲学教授がいます。屁理屈をこねまわして簡単には断れませんので、ボランティアだと思って、ぜひ2~3冊まとめてお買い求めください。解説・三浦勇夫(精神科医)

《この一文》
“こんなにうれしそうに働いている姿に感銘を受けない者がいるだろうか。わたしはこの男のような純粋な喜びの気持ちを失っている自分を深く恥じた。
     ――「働く喜び」より ”




ブックオフの100円本のところで見つけたので、つい魔が差して買ってしまいました。土屋先生の本は、これまでにも何冊か買いましたが、本を手に取って買おうとするたびに「あれ……これ、もう買ったやつだったっけ?」と不安になります。中身をちらっと見ただけでは、既に買ったものかどうか判断できないので、いつも不安ながら「ままよ」という気持ちで買うのでした。どの本もだいたい内容が同じなので、咄嗟にそれが既に読んだものかどうかを判別できないのです。中身で区別がつかないならタイトルを覚えればいいことですが、タイトルも微妙に違うだけでほとんど同じものが付けられていたりして、全然区別が付きません。今回も心配しましたが、まだ買ってないやつでした。よかった。

しかし私の極度の忘れっぽさも手伝って、どれも似たような内容のエッセイにもかかわらず、毎度面白可笑しく読んでいます。なんか面白いんですよね。先生の周りにいる女性たち(奥さんや助手、同僚の女性教官などなど)とのやりとりを取り上げて、いかに女性が素晴らしい存在かを皮肉たっぷりに賛美しています。毎度お決まりのパターンなのですが、これがなぜかいつ読んでも笑えます。先生がお店などで空気のように無視されるパターンの話も面白いです。

ほとんどが人を馬鹿にしたような笑える話ばかりなのですが、唯一「働く喜び」だけは、例外的に真剣な語り口(わりと)だったので印象的でした。これは面白かった。働くとはどういうことかを、あらためて考えさせられます。

この文庫の表紙は、いしいひさいちさんが描いてらっしゃいますが、このあいだジュンク堂に行ったら、土屋先生の新刊(多分)の単行本が並べられていました。大胆なことに、表紙には「先生がどこかちゃんとした風の、大きなガラス窓越しに庭が見える立派な室内で、椅子に腰掛けて遠くを眺めておられる写真」が目一杯使われていました。何と言うか、すごい。


私はユーモアのある人を凄いと思うのですが、ユーモアのある人というのは頭が良さそうなので、凄いと同時に油断がならないな…とも思ってしまうのでした。でもうらやましい。笑える文章が書けるって、いいですよね。





『「ニッポン社会」入門』

2009年01月24日 | 読書日記ー実用

英国人記者の抱腹レポート
コリン・ジョイス 谷岡健彦訳(生活人新書 NHK出版)



《内容》
日本社会について手っ取り早く学びたければ、近くのプールに行ってみることだ。規則と清潔さを愛し、我慢強く、大きな集団の悪事に寛容な国民性が理解できるはずだから。過剰なまでに礼儀正しく親切な人々、思ったより簡単で奥深い日本語、ガイドブックには載っていない名所の数々……。14年間日本に暮らす英紙記者が無類のユーモアを交えて綴る、意外な発見に満ちた日本案内。

《この一文》
“ 電車の中でふたり連れが立っている。座席がひとつ空く。おたがい譲り合った後に、ようやくひとりが席につくと、必ずその人は立っている人の荷物を持ってやろうと手を差し出す。こんな心温まる小さな親切は、ぼくは日本以外のどの国でも見たことがない。
 ああ、これこそ日本。 
  ―――「日本以外では「決して」見られない光景」より ”


某所でしばしばおすすめの本として紹介されていたので、読んでみました。かなり面白かったです。2度ほど読み返しました。異常に読みやすくて、スラスラと小一時間ほどで読んでしまえます。おすすめです。

さて、私は以前から、日本語を話さない人の耳には日本語はどんなふうに響くのかというのが気になっていたのですが、コリンさんはそれについてちゃんと書いてくれていました。

「言葉が耳から「滑り落ちてゆく」ような感じがしたのを覚えている。頭の中にしっかり言葉をつなぎ止めておけないし、どこでひとつの単語が終わり、どこから次の単語が始まるのかもわからなかった」そうです。

なるほど。でもそう言えば、私には英語およびその他の言語もそんな感じに聞こえるな……。外国語を学ぶってそういうものなのかもしれないですね。
しかし日本語表記の難しさについては、やはり難しいらしいことがうかがえます。日本人の私ですら、時々読み書きが満足にできなくて硬直することがありますし。特に、咄嗟にごく簡単な漢字も書けないという局面がありすぎて、困っています。

コリン・ジョイスさんは『デイリー・テレグラフ』紙の東京特派員だそうで、1992年に日本語を学ぶために神戸へやってきたそうです。
この本の面白いところは、外国人から見た日本がどのくらい奇妙で、魅力的であるかという賞賛のみならず、理解しがたく抵抗感さえ感じる日本人の「和」という概念、巨悪に対する理不尽なほどの服従的態度などなど、批判的な意見もしっかりと述べられているところでしょう。
私が普段なにげなく日本で暮らしていると気が付かないような様々なことについて、率直にユーモラスに語られていて、興味深く読めました。


全体的にユーモアと日本への愛着が感じられて、楽しい気持ちになります。一方で厳しい意見も多々あって参考にもなりますが、日本人の私にはあまり理解できないイギリス人の考え方にも触れられて、逆にイギリス人というのがどういう人たちなのかに興味が湧いてきます。歩きながらものを食べることがなぜいけないのかなんてことは、私はついぞ考えたこともありませんでしたよ。
こういうのは面白い。

笑いどころはたくさんありましたが、私が特に爆笑したのはここ。

“(イギリスから友人がやってきたら)浅草に連れていって、黄金のオブジェを頂くアサヒビールの本部ビルを笑いながら指差し、「このビル、地元の子供たちに何と呼ばれていると思う?」と尋ねてみよう。その人が予想どおりの答えをしたら、表情を硬くして「みんな炎のビルと呼んでいるけどね」と言おう。
  ―――「イギリス人をからかおう」 より ”

このあたりは、私にはイギリス人らしいユーモアだなあと思いました(なんとなく)。アッハッハ、笑える!


社会生活にはどこであろうと、善いところと悪いところがあって当然だと私は考えます(悪いことが悪いままでいい、という意味ではありません)。しかしその内側に暮らしているとうっかり見逃してしまいそうな部分を、新しい目で少しばかり見つめ直せたような気がします。良書。



『ペンギンたちの不思議な生活』

2008年05月28日 | 読書日記ー実用
青柳昌宏 (講談社BLUE BACKS)

《内容》
序 章:それでもペンギンは飛んでいる
第1章:いろいろなペンギン
第2章:ペンギンとはどんな生き物か
第3章:ペンギンはなぜ恍惚状態になるのか
第4章:ペンギンはなぜ保育所をつくるのか
第5章:ペンギンはなぜ礼装をしているのか
第6章:ペンギンはなぜ頭に意味をもたせるのか
第7章:ペンギンはいつ、どこで出現したのか
第8章:最新ペンギン事情

《この一文》
“南極のフィールドでは、一人で歩いていると時々遠くからペンギンに呼びかけられることがある。この呼びかけはコンタクトコールといわれる鳴き声で、返事をしてやると、それに答えながら雪渓を駆けおりて、目の前までやってくるといった愉快な経験をすることができる。ただし、誰でも鳴き真似が通用するわけではなく、ペンギン語=ペングィッシュの第一課をマスターしていないといけない。
  ――「第6章 ペンギンはなぜ頭に意味をもたせるのか」 ”



私の愛読書です。もう何十回となく読み返していますが、青柳先生のユーモア溢れる分かりやすい本文よりも、ついつい数多く収められたペンギンの可愛い写真や挿絵に気を取られて、毎度あまり内容が頭に入りません。それだけがこの本の難点でしょうか。

とにかくペンギンは可愛い。どうして人はこんなにもペンギンに惹き付けられてしまうのか、それは分かりませんが、この本を読めばそんなペンギンたちに関する基礎的な知識を身に付けることができます。

有名なイワトビペンギンってマカロニペンギン属だって、知ってました? ヒゲペンギンはアデリーペンギン属なんですよ! ついでに、アデリーペンギンは「渡り」をする鳥で、繁殖のときだけ島へ帰ってくるらしい。いやー、ためになる!

著者によるそれぞれのペンギンについての解説文がとても面白いので、2つばかり部分的に引用してみましょう。
(下のペンギン絵は私によるもの)


  
【キングペンギン】(オウサマペンギン)エンペラーペンギン属
 繁殖期間は14~16ヶ月を必要とするため、完全な繁殖ができるのは3年間で2回にすぎない。人間の影響から隔離された孤島に分布しているので、生息状況は安定しており、個体数はやや増加傾向。一見、王様ぶってはいるが、人の鞄を覗きにやってきたり、ゴムボートをみんなで追っかけてきたりする癖は、どうしてもなおらない。
  
【アデリーペンギン】アデリーペンギン属
 もっとも表情豊かなペンギンで、騒がしく、喧嘩が絶えず、雛は泥んこ。呼ぶと返事をしながら走ってきて、こちらの人相を片目で観察する。アデリーこそペンギンのなかのペンギンだ。



ペンギンは可愛いだけの生き物ではない、ということも分かる実用書。
でもやっぱり可愛いな。


『心の平静について』

2007年11月09日 | 読書日記ー実用
前回『人生の短さについて』のつづき



《内容》
質素と倹約を最高に愛しながらも、同時に豪華な贅沢にも惹かれてしまうという自らの心の弱さを告白するセレヌス(セネカの友人。エピクロス主義者。63歳の時、毒きのこを食し死亡)に答えてセネカが語る。


《この一文》


“ルクレティウスが言うように、
   誰でも彼でもこんなふうに、いつも自分自身から逃げようとする
 のである。しかしながら、自分自身から逃げ出さないならば、何の益があろうか。
人は自分自身に付き従い、最も厄介な仲間のように自分自身の重荷となる。それゆえわれわれは知らねばならない―――われわれが苦しむのは環境が悪いのではなく、われわれ自身が悪いのである。 ”

“国民の務めを怠ったというのか。とすれば人間の務めを行うがよい。”

“或る薬は嘗めなくても触れなくても、ただ香りだけで効目があるが、徳もそれと同じように、遠くからでも隠れていても効果を発する。”

“特に避けねばならぬ者はいる。それは陰性で、何ごとにも嘆きを発する者たちであって、この者たちにかかっては、どんなことでも不平の種にならないものはない。たとえ誠実や好意は一貫していても心も安定せず、何ごとにも溜め息をつく仲間は心の平静にとっての敵である。”

“次に財産のことに移ろう。それは人間の苦難をもたらす最大の原因である。”

“財産を持たないほうが、失うよりもどれほど苦痛が軽いか。貧乏には失う原因が少ないだけ、それだけ苦悩も少ないことを知らねばならぬ。”

“率直さのゆえに軽蔑されても、そのほうが、絶えず虚勢を張って苦しむよりもましである。だがわれわれは物ごとに節度をもつべきである。率直に生活するか軽率に生活するかの差は大きい。”

“心には寛ぎが与えられねばならぬ。心は休養によって、前よりも一層よき鋭さを増すであろう。肥えた畑は酷使してはいけない。つまり、一度も休耕しないで収穫だけを上げるならば、畑はたちまち不毛の地に化するであろう。”


“何か崇高な、他をしのぐような言葉を発するには、心の感動がないかぎり不可能である。心が俗事や陳腐なことを軽蔑するとともに、聖なる霊感を受けていよいよ高く舞い上がれば、そのときこそ遂に、心は死すべき人間どもの口には崇高に過ぎる歌を吟ずるに至る。心が或る高く険しいところにあるものに達するには、正気であるかぎり不可能である。”





さあ、前回に引き続き、怒濤の大引用です。
おお、素晴らしい、ふるえるぞハート! 燃え尽きるほどヒート!
まったくもってセネカ先生のおっしゃることは、あまりの鋭さで私を貫きます。

貧乏がなんだ!(時間のバーゲンセール。フルタイムのパート労働者)
国に務めを果たせないからってなんだ!(私はただ税金を納めているだけである)
人類のための務めを果たせばいいじゃないか!(そうだ!)
うわーーん!!

と、もう明日にも職を辞して隠遁生活者・学究の徒と生まれ変わらんと、興奮する私でした。


だがしかし、ここでふと「そういえば、セネカ先生はどういう人だったのだろう?」と、気になる。
素性も分からぬ人の言葉にそこまで心酔するなよ、という意見もありましょうが、重要なのはその人の素性ではなく思想そのものなのですよ。

以下、あとがきによってまとめる【セネカ先生は こんな人】

*セネカ(ルキウス・アンナエウス、前5/4-後65年)。

*政治家。
  えっ!? 「国政よりも人類のために」って言って……あれ?

*30歳でローマの財務官の地位を得、色々とキャリアを積み、
 弁論によって名声を博す。

  まあ、この頃はまだ先生も若いから……。
  
*陰謀にはまって、流刑になったりする。
  ちょっと第一線から遠のいた。気の毒。

*クラウディウス帝死後の一連の勢力争いの結果、隠退。
 莫大な財産を皇帝に譲渡しようとするも拒否される。

  ……!! 莫大な財産……!?
  いや、それを「譲渡しようと」したんだよね、はあはあ…;

*ネロ暗殺に加担したとの嫌疑をかけられ、自殺を命じられる。
 死に際して、
 “一番近くにいた奴隷たちに湯を振りかけながら、
  「私はこの湯を解放者ユピテルの神に捧げる」と言った。”
 と伝えられる。

  ど、奴隷……? そうよね、ローマだもんね。
  奴隷だなんて、当たり前よね。……でも、でも……うぅ…
  最期まで財産家だった…先生!!


というわけで、セネカ先生は、そのお言葉は実にもっともなのですが、ご自身は社会的・経済的にみて、かなりの「選ばれし者」だったようです。

ぎゃふん。

「貧乏のほうが良い、って言ってたじゃん!!」という怒りの声は遠い過去にも挙がっていたようですが、セネカ先生としては


財産はないよりもあるにこしたことはない。
ただ、そのために自分を幸福とは信じない。
幸福は別のところにある。

だそうです…。ふっ。
いや、まあ分かるけど……。


こんな感じで、セネカ先生の人生を拝見すると、ちょっと意気消沈してしまいました。まあ、あるとも知れぬ能力を発揮しようと当てもない挑戦をするよりは、私は自分に出来ることからやるのが良いという結論ですね。やはり経済は必要である…。

しかし、さっきも書きましたが、セネカ先生の素性はどうあれ、その思想はたしかに、これからも私を励ましてくれるには違いありません。
そうだとも。


でも、もうひとつ収められている『幸福な人生について』は、また今度読むことにしよう…。いや、なんとなく…。
と、さっそく陰性な私であった。

 

『人生の短かさについて』

2007年11月06日 | 読書日記ー実用
控えるべき箇所が多過ぎて栞が足りない



セネカ 茂手木元蔵訳(岩波文庫)

《内容》
セネカ(前4頃-後65)はローマ帝政の初期というひどく剣呑な時代に生きた。事実、かつての教え子ネロ帝から謀反に加担したと疑われ、自殺を命じられるのである。良く生きれば人生は十分に長いと説く表題作、併収の『心の平静について』『幸福な人生について』のいずれもが人生の苦境にたちむかうストア哲学の英知に満ちている。

《この一文》


“多数の人々が次のように言うのを聞くことがあろう。「私は五十歳から暇な生活に退こう。六十歳になれば公務から解放されるだろう。」では、おたずねしたいが、君は長生きするという保証でも得ているのか。君の計画どおりに事が運ぶのを一体誰が許してくれるのか。”

“髪が白いとか皺が寄っているといっても、その人が長く生きたと考える理由にはならない。長く生きたのではなく、長く「有った」にすぎない。”

“時間は無形なものであり、肉眼には映らないから、人々はそれを見失ってしまう。それゆえにまた、最も安価なものと評価される。それどころか、時間はほとんど無価値なものであるとされる。 ”


“われわれがひどい恩知らずでないかぎり、かの聖なる見識を築いてくれた最もすぐれた人たちは、われわれのために生まれたのであり、われわれのために人生を用意してくれた人々であることを知るであろう。他人の苦労のおかげでわれわれは、闇の中から光の中へ掘り出された最も美しいものへと運ばれる。 ”

“われわれがよく言うように、どんな両親を引き当てようとも、それはわれわれの力でどうすることもできなかったことで、偶然によって人間に与えられたものである。とはいえ、われわれは自己の裁量で、誰の子にでも生まれることができる。そこには最もすぐれた天才たちの家庭が幾つかある。そのどれでも、君が養子に入れてもらいたい家庭を選ぶがよい。君は単に養家の名を継ぐばかりではなく、その財産をも、つまり汚なく、けちけちして守る必要のない財産をも継ぐであろう。この財産は多くの人に分け与えれば与えるほど、いよいよ増えていくであろう。彼らは君に永遠への道を教えてくれ、誰もそこから引き下ろされない場所に君を持ち上げてくれるであろう。これは死滅すべき人生を引き延ばす、いなそれを不滅に転ずる唯一の方法である。(中略)しかるに、英知によって永遠化されたものは、時を経ても害されることはない。いかなる時代もそれを滅ぼさないであろうし、減らしもしないであろう。次に続く時代も、更にその次の時代も、常にそれらのものに尊敬の念を強めて行くであろう。”


“誰彼を問わず、およそ多忙の人の状態は惨めであるが、なかんずく最も惨めな者といえば、自分自身の用事でもないことに苦労したり、他人の眠りに合わせて眠ったり、他人の歩調に合わせて歩き回ったり、何よりもいちばん自由であるべき愛と憎とを命令されて行う者たちである。”






さて、いかがでしょうか。
とてもすべてを引用しきれないほどに的確な意見が目白押しです。日頃から怠惰に漫然と存在している私などは、セネカ先生のお言葉の前にあわれにも震え上がっております。

セネカ先生、どうかお赦しを! 私は愚かにもずいぶんの時をただ流れるままに過ごしてしまいました。うぅ、これからは人類のために役立つような生き方を目指します! ああ、どうかお赦しください……!
などと、単純な私はあっさり感化されてワーワーと喚いておりました。太字のところは特に感銘を受けた部分。まったくその通りであります。偉大な先人のおかげで、我々の繁栄があるのです。

セネカ先生、先生の時代から2000年を経ましたが、人類はどうですか? いまだに私たちは(というか私は)自らに与えられた時の価値を知らず、人類のためと言うよりはただ経済のために、それを安値で売りに出してしまっております。私はただ経済のために…たかが経済のために、明日終わるかもしれぬ時間を無為に費やしておりました。やはりもっと人類のためになる仕事をしなければ………。




と、盛大に感激する私は、この後まさかそんなことになろうとは
このときは露ほども思っていなかったのであった……。


(というわけで、以下次回『心の平静について』に続く――)


『Q&A 天気なんでだろう劇場』

2006年09月29日 | 読書日記ー実用
岩田総司 文・絵 (岩崎書店)


《内容》
天気についてのいろいろな疑問に「なんでだろう劇場」のみんなが答えます。【なんで雨がふるの?】【なんで夕日は赤いの?】【なんで雲は落ちないの?】などなど。

《登場人物》
はれお君。にじ子ちゃん。犬のくもタロウ。猫のあめスケ。同じく猫であめスケの親戚ゆきスケ。気象予報士(岩田さん)。



東京に住んでいたころ、首都圏の18時のニュースのお天気のコーナーを見るために、職場から猛ダッシュで帰っていたころがありました。お目当ては、「岩田さんのお天気なんでだろう」のコーナーです。気象予報士でありながら、イラストもプロ級にうまい、しかも眼鏡の穏やかな表情から淡々とした語り口で放たれるギャグは、うっかり何度も聞き流してしまうほどの切れ味で、私は大ファンでした。それに、猫の「あめスケ」の暴れっぷりが可愛くて可愛くて。にじ子ちゃんに思いを寄せるあめスケは、はれお君やくもタロウの給食の牛乳を強奪し、にじ子ちゃんに貢ごうとするも、当のにじ子ちゃんは迷惑顔…。時には、夜中まで飲んだくれて、お土産の包みをぶらさげて、電柱に激突していたりもする…。あめスケ、何者……? 冬にしか登場しない「ゆきスケ」もすげー可愛かったのです。岩田さん自身とおぼしき気象予報士の男性が、時々すごく格好いい役で登場するのも最高におかしかったものです。

その岩田さんのお天気コーナーが無くなったと聞いた時は、悲しかったですねー。しかも、私はその後、関西のほうへ移ってきたので、岩田さんはいまごろどうなさってるのかしら…お天気コーナーはどこか地方で復活でもしてないかしら…と思って、調べてみたら、本を出版されてました。迷わず購入。わー、懐かしいー、あめスケだ!
内容も、とてもためになります。小学生になった甥のためにもう一冊買っておくべきかなーと思案中です。

「Q:なんで雲は落ちないの?」に対して「A:実はゆっくり落ちています」というのに衝撃! へ~、そうだったのか。ためになるなあ。そして、北陸出身の私は、冬に雷が鳴るのは当たり前だと思ってましたが、世界的にみるとかなり珍しい現象なんだそうです。へ~、そう聞くと、なんだかありがたいような気になってきたかも…でもないか。北陸の冬…(昼でも)暗い…寒い…吹雪…雪かき…ううっ。

とりあえず、普段はあまり気が付かないような疑問にもたくさん答えられているので、勉強になりました。どなたにも、おすすめの一冊です。