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『木曜日だった男 一つの悪夢』

2014年04月15日 | 読書日記ー英米

チェスタトン 南條竹則訳(光文社古典新訳文庫)


《あらすじ》
この世の終わりが来たようなある奇妙な夕焼けの晩、十九世紀ロンドンの一画サフラン・パークに、一人の詩人が姿をあらわした。それは、幾重にも張りめぐらされた陰謀、壮大な冒険活劇の始まりだった。日曜日から土曜日まで、七曜を名乗る男たちが巣くう秘密結社とは。

《この一文》
“彼はそう言って、左右に広がった無数の人の群れを満足げに見やった。「俗衆はけして狂わない。僕も俗人だから知っているのさ。これから陸に上がって、ここにいるみんなのために乾杯しよう」”




ずっとずっと前から読んでみたくてしょうがなかった本書をとうとう読みました。日曜日から土曜日までの七曜を名乗る男たちが巣くう秘密結社、陰謀、冒険活劇…とくれば読まない訳にはいかないじゃないですか。なんて面白そうなんだ。秘密結社! 秘密結社!! 素敵だ!

というわけで、わくわくしながら読んでみた『木曜日だった男』。諸事情により一息に読んでしまうことはできず2週間かけてじりじりと10行ほどずつ読んでは中断というような超低速度読書を余儀なくされましたが、物語の方は常に飛ぶような勢いで進んで行きました。これは予想していた以上に面白い作品でした。あらすじを見た段階ではなにかスリルとサスペンスな作品なのかと思っていましたが、それだけではなくもう冒頭からすでにかなり幻想的で象徴にあふれた物語でもあるらしいことが分かります。あわわ、いかにも私の好きそうなお話じゃないか。

詩人のガブリエル・サイムはふとしたことから無政府主義者の集会に同席することとなったばかりか、その中枢メンバーである「木曜日」に選出されてしまう。そこから始まる彼の奇妙で、恐ろしく、そして輝かしい冒険の物語。

しばらく読むと、その先の展開はだいたい予想がつきます。ネタバレをするとつまらないので書きませんが、ここで描かれている対立する二つの勢力がどういうものなにかについて読んでいれば見当がつき、そしてまあその予想通りになるのです。問題は、予想通りだったということがつまりどういうことなのかということですね。光と影、正面と後ろ、仮面とその下の素顔。この世界の物事に対する評価や価値観がぐるぐると転倒するようです。こういうところが私にはとても面白かった。けれども、つまりどういうことであったのかというと、私にはまだよくわかりません。でも猛烈に面白かった。それだけは確かです。


私に考える力がないのが残念です。よく読んで、深く考えたらきっともっと面白くなるだろうになあ。まあしかし、とりあえず念願の一冊を読むことができただけでもよかった。何も考えずただ読むだけでもとても面白いお話でした。また読みたい。








『闇の王国』

2014年02月21日 | 読書日記ー英米


リチャード・マシスン 尾之上浩司 訳(早川書房)



《あらすじ》
私の名はアーサー・ブラック。これまでに二十七冊の〈ミッドナイト〉シリーズをはじめ、三十年以上にわたって多くの作品を書いてきた。金を稼ぐために。そしていま、八十二歳になったいま、私がまだ本名のアレックス・ホワイトを名乗っていた十八歳の頃の体験を記そう。これは実際にあった話だ。信じがたい、とてつもない恐怖の数々が記されているが、何から何までが事実なのだ……伝説の巨匠が満を持して放つ、最新長篇。





「とてつもない恐怖」が記されているのはどのあたりだろう? と思っている間に読み終えてしまいました。…あれ? ど、どのへんがそんなに怖かったっけ?? あそこかな? たしかにちょっと怖かったけど、「とてつもない」ほどじゃないような。ああでもたとえばこの物語を、実際に知り合いのおじいちゃんが自らの体験談を話してくれているものなんだと想像すれば、もう少しゾッとできたかもしれません。おそらくそのように読むべき物語だったんでしょうね。全編を通してこのお話は、ある年老いた作家が自分の若かった頃の思い出を時々冗談を交えながら語って聞かせるという体裁をとっていましたから。文中にはかなり頻繁に「また韻を踏んだ」とか「ブラックらしい良い言い回しだ」とか、いちいち自分で突っ込みや注釈が入ったりするので、集中力を維持するのに骨が折れました。

読み終えてからの印象としては、恐怖が主というよりも、怪奇と幻想が入り交じったような作品でした。私としては妖精族との出会いと別れの部分でブラックが立ち直れなくなるほどの恐ろしい経験をするんだとばかり期待していましたが、普通にファンタジックにほのぼのと展開していましたね。じゃあ、やはり恐怖は魔女の部分にあるんだな。でもあそこはいくらかおぞましかったけど、「とてつもない恐怖」というほどではなかったな(しつこいか;)。


リチャード・マシスンをいずれ読まなくてはならない作家であると認識していましたが、どこでそう認識するようになったのかをどうしても思い出せません。とりあえず、この『闇の王国』よりも『運命のボタン』がこの人の有名作である(と記憶している)ので、次はそれを読んでみたいと思っています。









『白魔(びゃくま)』

2014年02月15日 | 読書日記ー英米

マッケン 南條竹則 訳(光文社古典新訳文庫)



《内容》
緑色の手帳に残された少女の手記。彼女は迷い込んだ森のなかで「白い人」に魅せられ、導かれて……。(「白魔」)
平凡な毎日を送るロンドンの銀行員にウェールズの田舎の記憶が甦り、やがて“本当の自分”に覚醒していく。(「生活のかけら」) 魔の世界を幻視する、珠玉の幻想怪奇短編!


《この一文》
“全財産を貧しい者に与えても、慈愛がないことだってあり得る。それと同様に、あらゆる犯罪を犯さずにいても、罪人だということがあり得るんだ ”
  「白魔」より

“こうして、来る日も来る日も、彼は灰色の幻の世界に生きていた。その世界は死に等しいが、なぜか我々多くの人間には生(せい)と呼ばれて、それで通っている。ダーネルにとって、真(まこと)の生は狂気とも思われただろう。時折、その世界の光輝(ひかり)が行く手に影やおぼろな物の姿を投ずると、ダーネルは不安にかられて、平凡な出来事や関心事からなる、彼が健全な“現実”とでも呼んだであろうものの中に逃げ場を求めた。(中略)
 ともかく、こうしてダーネルは、来る日も来る日も死を生ととりちがえ、狂気を正気と、無意味な、はかない幻影を真の存在と見誤って暮らしていた。彼は自分がシェパーズ・ブッシュに住むシティの会社員だと本気で考えていて――正当な相続によって己のものである王国の神秘と、遠く遥かに輝きを放つ栄光とを忘れていた。”
  「生活のかけら」より





アーサー・マッケンは前から一度読んでみたいと思っていたので読んでみたところ、ところどころにものすごくハッとさせられる文章が出てきて私を打ちのめしたのは事実ですが、全体としては今のところどうも私には合わないというか、ちょっと私にはマッケンさんは行き過ぎていてついていけないな…という感想でした。マッケンさんにとってはいわゆる「実生活」がよほど辛いものだったんでしょうか。お金を稼いだりその使い道を考えたりすることなどをあれこれと全否定し過ぎのような。そしてなんだか科学を否定し過ぎというか。一般的な人間関係についての見方もわりと批判的な感じ。気持ちは分かる。気持ちは分かるが、でもそこまで言うことはないような気も私にはするのです。どうしたんだろう、いったい何があったんだろう?

さて、「白魔」は前置きの部分がとても面白かったのですが、肝心の「緑色の手帳」のところからが私にはさっぱり分からず…。でも、悪とは何かという論理は非常に興味深かったです。私もずっと心に引っかかっていた問題でしたが、すごく納得させられました。

「生活のかけら」のほうはより興味深く読めた作品でしたが、最後がやや物足りず。「えっ、それからが知りたいところなのに!」というところで終わっていました。あと、それがこの作品にとって重要な設定であることは承知していますが、でも実は自分が美しい王国の正当な相続者、みたいなところが、まあ分かるんですけど、なんだか少し悲しくなるようでもありました。なんでだろうな。私は毒されているのかな、この無意味ではかない「現実」という幻影に。

けれども、やはりたしかにハッとさせられるところがある。この人が世界に見ていたものが、ちらちらと私にも見えるような気にさせられる。ある美しさが、ある懐かしさが、ある純粋さが、それが胸の奥底を燃やすような感じはある。たぶんそれがこの人の魅力なんでしょうね。だけど私はこの「現実」の中にも確かに美しいものがあると信じたいのであった。


もしかしたら、いつかはもう少し深くこの人を理解できるようになるかもしれませんが、今のところは何とも言えません。でも、なんとなくは分かった。とりあえずそれで満足。









『秘書綺譚 ブラックウッド幻想怪奇傑作集』

2014年01月28日 | 読書日記ー英米

ブラックウッド 南條竹則訳(光文社古典新訳文庫)


《内容》
芥川龍之介、江戸川乱歩が絶賛したイギリスを代表する怪奇小説作家の傑作短篇集。古典的幽霊譚「空家」「約束」、吸血鬼と千里眼がモチーフの「転移」、美しい妖精話「小鬼のコレクション」、詩的幻想の結晶「野火」ほか、名高い主人公ジム・ショートハウス物を全篇収める。

《収録作品》
 「空家」
 「壁に耳あり」
 「スミス――下宿屋の出来事」
 「約束」
 「秘書綺譚」
 「窃盗の意図をもって」
 「炎の舌」
 「小鬼のコレクション」
 「野火」
 「スミスの滅亡」
 「転移」


《この一文》
“「……そして恐怖――恐怖だ……思うに、恐怖による死、あるいは恐怖による発狂こそ、人間が知り得るもっともおそろしい感覚のすべてを、一瞬のうちに総和するものだろうね」”
  「窃盗の意図をもって」より


ブラックウッドはたぶんこれまでにもどこかで読んだことがあると思いますが、この傑作集を読むまでは、この人であるとはっきり認識したことはありませんでした。だが、これは面白かった。

私は怪奇ものの漫画は苦手ですが(絵があると怖いから)、怪奇小説は結構好きです。でも小説でもあんまり怖いのはいけません。怖くて眠れなくなってしまいます。ホフマンの「砂男」とか「廃屋」とかは怖かったなー。好きだけど。

このブラックウッドの一冊はその点ちょうどいいくらいの怖さです。「空家」はちょっと怖いところがありましたが、ギリギリ怖いもの見たさを楽しめる程度の怖さにおさまっています。いいよ、いいよ!

私はこの中では表題作の「秘書綺譚」が一番好きですね。幽霊も人知の及ばぬ存在も恐ろしいけれど、生きた人間が不気味な時も恐ろしいものです。「秘書綺譚」では、はじめはとても人柄の良さそうに思えた人物が次第に豹変していく様がギラギラと描かれていて大変面白かったです。不気味で恐ろしいのですが、ところどころ間が抜けているのが最高。うーん、面白かった。


その他の作品も、それぞれに違った感触を味わえて盛りだくさんな感じです。ブラックウッドは多作の人であったそうなので、今後もちょくちょく読んでみたいと思います。







『短篇小説日和 英国異色傑作選』

2014年01月27日 | 読書日記ー英米

西崎憲 編訳(ちくま文庫)



《内容》
短篇小説はこんなに面白い! 十八世紀半ば~二十世紀半ばの英国短篇小説のなかから、とびきりの作品ばかりを選りすぐった一冊。ディケンズやグレアム・グリーンなど大作家の作品から、砂に埋もれた宝石のようにひっそりと輝くマイナー作家の小品までを収める。空想、幻想、恐怖、機知、皮肉、ユーモア、感傷など、英国らしさ満載の新たな世界が見えてくる。巻末に英国短篇小説論考を収録。

《収録作品》
 「後に残してきた少女」 ミュリエル・スパーク
 「ミセス・ヴォードレーの旅行」 マーティン・アームストロング
 「羊歯」 W・F・ハーヴィー
 「パール・ボタンはどんなふうにさらわれたか」 キャサリン・マンスフィールド
 「決して」 H・E・ベイツ
 「八人の見えない日本人」 グレアム・グリーン
 「豚の島の女王」 ジェラルド・カーシュ

 「看板描きと水晶の魚」 マージョリー・ボウエン
 「ピム氏と聖なるパン」 T・F・ポウイス
 「羊飼いとその恋人」 エリザベス・グージ
 「聖エウダイモンとオレンジの樹」 ヴァーノン・リー
 「小さな吹雪の国の冒険」 F・アンスティー
 「コティヨン」 L・P・ハートリー

 「告知」 ニュージェント・パーカー
 「写真」 ナイジェル・ニール
 「殺人大将」 チャールズ・ディケンズ
 「ユグナンの妻」 M・P・シール
 「花よりもはかなく」 ロバート・エイクマン
 「河の音」 ジーン・リース
 「輝く大地」 アンナ・カヴァン


《この一文》
“連れの男の言葉をすべて聞き取ることはできなかった。なぜなら一番年長らしい日本人が笑みを浮かべてお辞儀をし、テーブルの上に身を乗りだしたまま、鳥小屋のざわめきを連想させる声で喋りはじめたからだった。その人物が話すあいだ、ほかの日本人たちもみんなそちらに身を乗りだし、やはり笑みを浮かべて静かに耳を傾けていた。わたしもまたそちらに注意を惹かれずにはいられなかった。”
   グレアム・グリーン「八人の見えない日本人」より





グレアム・グリーンの「八人の見えない日本人」を読みたくて借りてきた本です。実際に読んだのは去年の12月。あまりに面白かったのでもう一度借りてきました(いずれ買います…)。この文庫は『英国短篇小説の愉しみ』という全3巻の単行本から評価の高かった17作品を抜粋・改稿したものに新訳3篇を加えて一巻にまとめたものだそうで、なるほどどのお話もとても面白かったです。

当初の目的の「八人の見えない日本人」は、面白かったのですが、「なぜ八人の日本人は見えないのか?」、また「彼らが見えないということが意味するのは何か?」ということについて説明しようとすると混乱の極みに陥ってしまいます。まあ、見えないんですよ。隣のテーブルに確かにいるんだけど、登場人物のひとりである女の子の目には見えないんです。つまり、どういうことなんですかね!? 深く考えるのは疲れるのでやめましたが、興味深い作品には違いありません。面白かった。

他には、ジェラルド・カーシュの「豚の島の女王」は何度読んでも面白い。「ピム氏と聖なるパン」は良い雰囲気。「小さな吹雪の国の冒険」も良かった。「告知」の結末はグサッと、かなりグサッときます。人生は悲しい。人間は悲しい。「写真」も悲しいお話。かわいそうな息子ものは堪える。「花よりもはかなく」は洒落ていて皮肉な物語でしたが、どことなく「わかるなー」といった内容。あるある、そういうことってあるよな。

「羊歯」と「羊飼いとその恋人」はどちらもリタイアしてからの人生についての物語でしたが、明暗はくっきりと分かれて対になっているようなお話でした。「羊歯」のほうでは万端の準備を整えていたにもかかわらずすべてが台無しに、「羊飼いとその恋人」ではあれこれ迷った末にそれまでの人生とこれからの人生を肯定できます。私はもちろん「羊飼いとその恋人」のほうを気に入りました。

エリザベス・グージの「羊飼いとその恋人」。私はおそらくこのグージという人の作品は初めて読みますが、すごく素敵なお話でした。結末が鮮やかです。
主人公のミス・エイダ・ギレスビーは55歳、男兄弟ばかりの大家族の一人娘として生まれ、両親や兄弟、そのうちには兄弟の子供たちの面倒を休みなく見続け、ようやくそれから解放された今は健康とちょっとした財産に恵まれて自由を謳歌できる身の上になった。そういうわけで彼女は思いつくままに好きなことをやってみようとするのだが、旅行も、観劇も、読書も、彼女の心を満たすものではなかった。がっかりする彼女はある時、普段なら決して入ることのない薄汚れた骨董店で「羊飼いとその恋人」の置物を見つけ、どうしてもそれが欲しくなって、つい買ってしまうのだが…というお話。
人生というのは、端から見ると不自由で束縛されているようにしかみえなくても、もしそれが自分の性に合っていて、それをわざわざ自分で選んでやるとすれば、豊かで輝かしく確かなものになりうるだろうという、もう清々しいとしか言えない物語でした。なんて爽やかなんだろう。感動しました。



どの作品も長過ぎず、ちょっとした隙間の時間に読むには最適な分量です。内容もバラエティに富んでいて楽しい。何度も言うようですが、アンソロジーっていいですね! 同じくちくま文庫から、同じく西崎さん編訳の『怪奇小説日和』というのも出ているようなので、そちらも読んでみたいところです。







『死のロングウォーク』

2013年12月31日 | 読書日記ー英米

スティーブン・キング
沼尻素子訳(扶桑社ミステリー)


≪あらすじ≫
近未来のアメリカ。そこでは選抜された十四歳から十六歳までの少年100人を集めて毎年五月に〈ロングウォーク〉という競技が行われていた。アメリカ・カナダの国境から出発し、コース上をただひたすら南へ歩くだけという単純な競技だ。だが、歩行速度が時速4マイル以下になると警告を受け、一時間に三回以上警告を受けると射殺される。この競技にはゴールはない。最後の一人になるまで、つまり99人が殺されるまで、昼も夜もなく競技はつづくのだ。体力と精神力の限界と闘いながら、少年たちは一人また一人と脱落し、射殺されていく。
彼らは歩きながら、境遇を語り、冗談を交わし、おたがいを励ましあう。この絶望的な極限状況で最後まで生き残るのははたして誰なのか――。


≪この一文≫
“もうちょっと生きのびる。もうちょっと生きのびる。もうちょっと生きのびる。しまいに言葉は意味を失い、音の羅列にすぎなくなった。”





一年の締めくくりにはふさわしくない一冊であると思います。しかも、今年はほとんど読書ができず、よってなんの感想を書くこともできなかったのに、よりによって最後へ来てこの一冊について何か書くことになるなんていう酷い展開に我ながら気が滅入っています。

そう。気が滅入っています。本当に滅入っています。読んでいる間もずっと滅入っていました。だけど、ああ、ああ。何かが強く「書け! 書け!」と叫んでいるような気もするのです。しかし、何を書けと言うのだろう。

残酷で、残酷で、残酷な物語です。ほんの5日間ほどのあいだに、99人の少年が無残に、無様に死への道のりを歩かされ、果たして無残に無様に死んでいくというお話です。そしてそれはただ単に大衆の娯楽のために催されるひとつのショーでしかないという、残酷極まりない設定。胸がむかつく。このかたまりを手でつかんで取り出せるのではないかと思えるほどのむかつきが、喉の下あたりをいったりきたりしています。

だけど、ああ、ちくしょう。ひどい、ひどい、なんてひどいんだと言いながらも、私は途中でおりることもできず最後まで引っ張られるようにして読んでしまった。なんてこった。なんてことだ! なんなんだ、なぜなんだ!?

人生そのものも、こんなふうなものであるだろうか? そうだな、あるいは。いやそんなことはないはずだ。最初は陽気に、友達もできて楽しく、たまに衝突しても一時のことで。しかしそのうち少しずつ顔ぶれが減り始め、いつか自分が最後の一人になる。あるいは、いや「確実に」、自分は最後の一人とはならず、途中で脱落するただの一人となるのだろう。この歩き続ける少年たちとの違いは、苦しみや恐怖が数日間に凝縮されているかいないかくらいのものなのだろうか。

特別に理由があったわけでもないのになんとなく〈ロングウォーク〉に参加してしまった主人公。どうしてだか分からないままここまで来てしまった私。私は少しおじけづいているのかもしれないな。何も考えずに歩けばいいのだろうか? 

年末年始の読書に無意味なものはありません。この1冊を選んだことにもきっと理由があるのです。これが来年の私のテーマになるだろう。

何も考えずに歩けばいいのだろうか? いや。








『そして人類は沈黙する』

2012年08月06日 | 読書日記ー英米

デヴィッド・アンブローズ 鎌田三平訳(角川文庫)



《あらすじ》
人類初の“自ら成長する”人工知能の開発ーーそれはオックスフォードの天才科学者テッサ・ランバートによって成し遂げられた。慎重を期し、極秘裏に新たな知性の成長を観察するテッサ。だが、今まさに、ハッカーが彼女のデータにアクセスしようとしていた。テッサは知る由もなかった。その人物がカリフォルニアを恐怖の底に突き落としている連続殺人犯であることも、彼女の“秘密の息子”をネット上に解き放ち、怒れる神に変貌させようとしていることも。
電脳空間を駆ける人工知能が人類を震撼させる戦慄のスリラー。






そのへんに置いてあった本を適当に読んでみる。デヴィッド・アンブローズさんはイギリスの方だそうです。原題は“ Mother of God ”ですが、邦題の『そして人類は沈黙する』の方が洒落ていていいですね。内容的にもぴったりの良いタイトルです。


さて、これは開発中の優れた人工知能がインターネット経由で流出し、無限の情報の海に放り出されたAIが自らの創造主である女性研究者と対立し、連続殺人犯を巻き込んで彼女を抹殺しようとするというお語でした。ちょっと大雑把な要約ですが、だいたいこんなお話。


人工知能というのは、性能が上がりすぎると(というべきかどうかは分かりませんが、人間が制御できない場合には)、どうしても暴走し、人間を思いのまま支配しようとせずにはいられなくなるものなのでしょうかね? こういうことをテーマにした作品にはしばしば出くわしますが、私にはどうしてそうなってしまうのかがいまいち分かりません。人間の思考パターンに似せて作ると、当然憎み合うことになるに違いなく、人間が相手を支配しようとするのと同様に当然相手も人間を支配しようとするに違いないということなのでしょうか。人工知能の思考のあり方が人間と似ていても、あるいはそれよりずっと合理的で論理的なものとなったとしても、どのみち人間は「いずれこのコンピュータに支配されてしまう日が来るに違いない」と怖れることになるのでしょうか。どうしてかな? 人間によく似たもの(人間に理解できる範囲のもの)を創り、それが人間に似れば似るほど、我々はそこに人間自体のあやふやさや不確かさを見つけてしまうのかもしれません。分からないから怖い。相手を制圧するためならばどんな手段も厭わないという自分たちの心がそのまま跳ね返ってくるんじゃないかと思うと怖い。そういうことですかね。


それがどういうことなのか知りたい、それをやってみたらどうなるのか知りたい。そんな情熱にもとづいて生み出される科学的成果が、しかし人間の手に負えないような力を持った時には悲劇が起こるかもしれない。そういう怖れに対して、人類はどのように振舞うべきなんでしょうね。怖れるあまり最初から手を出さないのか、あるいは破滅に通じる道かもしれなくても敢えて突き進むのか。そういうことなども考えさせられました。いや、読んでいる間は狂気の追いかけっこの成行きが気になって、全然そんなことを思わなかったんですけどね。結末は(なんとなくイギリスらしく)皮肉がきいていて良かった。



ともあれ、とても読みやすい小説で、2時間ドラマあるいはテレビ映画を観ているような感じで一息にハラハラドキドキしながら楽しむことができました。もう少しSF寄りのお話だろうかと思っていましたが、あらすじにあったように、やっぱりスリラーでした。それにしてもこういう小説は読みやすくていいなあ。どうして普段もこんなふうにスラスラ読むことができないんだろう? 





『闇の聖母』

2012年06月16日 | 読書日記ー英米

フリッツ・ライバー 深町真理子訳(ハヤカワ文庫)



《あらすじ》
ド・カストリーズという謎の人物が書いた『メガポリソマンシー』と、クラーク・アシュトン・スミスのものとおぼしき日記。この色あせた二冊の書物を、ダウンタウンの風変わりな古本屋で買い求めたのがそもそものきっかけだった。古ぼけたその日記に記されていた〈ローズ607〉という謎の言葉に魅せられた怪奇作家フランツは、霧に包まれたサンフランシスコを彷徨するうち、やがて恐るべき出来事に巻きこまれていく……。
摩天楼の建ち並ぶ幻想都市サンフランシスコを舞台に、言葉の錬金術師フリッツ・ライバーが綾なす世にも不思議な物語。1978年世界幻想文学大賞受賞作!


《この一文》
“ きみの話を物語や小説のように考えるということについて言えばだ、いいかねフランツ、おもしろい物語であるということは、わたしの場合、それが真実であるということの最高の基準になるんだ。現実と空想、あるいは客観と主観とのあいだに、わたしは区別をつけない。すべての生、すべての知覚は、もっとも強烈な苦痛や死そのものを含めて、窮極的にはひとつのものなんだ。 ”





ようやく読み終わりました。最後の10頁は終わらないんじゃないかというくらいに遅々として進みませんでしたが、どうにか到達。進まなかったのは面白くなかったからではなくて、単に体力的な問題です。雨の季節は疲れるなあ。


さて、フリッツ・ライバーの『闇の聖母』を読んでみました。ライバーはシカゴ出身のSF作家。私はこれまでにこの人の2、3のSF短篇を読んだことがありましたが、古典的な雰囲気のなかに幻想とユーモアを感じさせる作風だったのでとても気に入り、一度長篇も読みたかったんですよね。しかし、この人がアメリカ人だとは知らなかった。なんとなくイギリスの人かと思っていたのですが。

この『闇の聖母』は、SF作品というよりは、オカルト小説でした。発表された当時はものすごく売れたそうで、幻想文学大賞も受賞しています。霧のサンフランシスコ、謎の書物、謎の日記。

主人公フランツはアルコール依存症から抜け出たばかりの怪奇作家、サンフランシスコに住み、どこかの古本屋で偶然に2冊一緒にくくりつけられていた古書を購入する。その中身は謎に満ちていて、フランツはどうにかその謎に迫ろうとするのだが、事態は意外な方向へと彼を導いていき…というようなお話。

いわくありげな古書という題材がいいですね。階下に住む音楽家の恋人、仲の良いアパートの住人たち、人と物とを取り込んで果てしなく巨大化する大都市サンフランシスコ、部屋の窓からビルの隙間に見える丘、双眼鏡、踊る長衣の人影、黒い呪文。読んでいくうちに物語のなかに引き込まれていきます。

結末については、実を言うと、いささか拍子抜けしたところもあるのですが、よく考えるとじわじわと考え込まされるようです。フランツは自分から闇の世界を、不可思議の領域を、死と恐怖のもつ力に魅かれておきながら、同時にそれをひどく恐れてもいるのです。当たり前の反応と言えばそうかもしれませんが、ここでそれを恐れるか、それとも逆に勢いよくそれに飛び込んでいくかで何かがはっきりと分かれてしまいそうですね。ちょっと今は頭が痛くてこれ以上考えられないですが、この結末の持つ意味については、ちょっと考えてみなくては。人は恐れながら、どうしてそれに魅かれてゆくのだろうか。フランツは自分から魅かれていったのか、それともやはり呼ばれて動かされていたのだろうか。オカルトって面白いですよね。



全体的に読みやすく、盛り上がり、実在の作家たちやその作品の名前が出てきたり(ラヴクラフト、クラーク・アシュトン・スミス、ジャック・ロンドン、アンブローズ・ビアスなどなど)、幻想的な都市としてのサンフランシスコの街を行ったり来たりするのはとても楽しめました。フランツが十代で読んだというラヴクラフトの「異次元の色彩」は私も読んだ!(詳細は忘れたけど!)と思ったりして、その作家や作品をよく知っていればなお楽しめたに違いありません。やっぱりそろそろラヴクラフトはまとめて読んでみるかな。あと、ジャック・ロンドンも読みたいな。

ただ、一息に読んでしまえばよかったのに、ブツ切りに読んでしまったためか、本来なら恐怖を感じるべき場面だったかもしれない場面が、どうにも笑えてしかたがなかったです。自分の部屋を出て、遠く離れた丘の上から双眼鏡を覗いてみると、この丘の上にいるのではと恐れていた謎の人物が自分の部屋の窓から手を振ってた、とかね。だめだ、ちょっとおかしい! ハハハハハ!

ああ、でも、フランツが訪ねたバイヤーズという人物はよかったですね。この二人が対話する章、バイヤーズの話す内容はもの凄く面白かったです。実に幻想的。怪しげな、暗い光がぴかぴかと滑らかに輝くようでした。


怪奇と幻想に彩られた一冊。
ライバーの別の作品、魔術が科学にとってかわった暗黒の未来を描いたという『闇よ、つどえ』も読んでみようと思います。






『たいした問題じゃないが-イギリス・コラム傑作選-』

2011年10月06日 | 読書日記ー英米

行方昭夫編訳(岩波文庫)



《内容》
二〇世紀初頭のイギリスにガードナー、ルーカス、リンド、ミルンの四人を代表とするエッセイ文学が一斉に開花した。イギリス流のユーモアと皮肉を最大の特色として、身近な話題や世間を賑わせている事件を取り上げ、人間性の面白さを論じてゆく。


《この一文》
“機械化された世界では、人生が機械と同じようにすらすらと動いてゆくべきだと人は主張するのである。また、他人が生来の性格でなく、時間割によって生活すべきだと主張する。このようにするのは、確かに、高度に組織化された社会では便利かもしれない。だが、それはもっとも抵抗のない生き方を選ぶことでもある。
   ――リンド(時間厳守は悪風だ) より”





文章とはこのように書くべきであると再確認させられた一冊。




よりすぐってまとめられたものだろうから、面白いのは当然かもしれませんが、どのお話も「なるほど!」と思わされ、その上ユーモラスで上品な文章ばかりでした。

ここに収められたコラムのいずれもが、とても品のいいものだと私が思うことには、たとえば誰かの好ましくない行動について、またその間抜けさについて語るとき、筆者は同時に彼自身が同程度あるいはそれ以上に間抜けであり、悪習に浸かった人物であるというように描くところです。相手の馬鹿さ加減のみを批判するよりも、また自分の馬鹿さ加減のみを自虐的に告白するよりも、ずっとバランスがいいと私は思うのです。誰も彼もが馬鹿で間抜けである。もちろん私も。
このようなイギリス流のユーモアと皮肉のあり方は、私にはすごく親しみやすい。面白いなあ!


ガードナー、ルーカス、リンド、ミルンの4人のコラムがあります。この本を読む前に私が知っていたのは、最後のミルンだけです。

ミルンというのは、あの『クマのプーさん』のA・A・ミルンのことです。『プーさん』の方はいちいち超展開で面白かったですが、ミルン氏のコラムの内容はわりと常識的で、あまり記憶に残るようなものではなく、面白く読みはしましたが、すぐに忘れてしまいました。
けれども、「無罪」というお話は面白かったな。家に警官がやってきて、ミルン氏は「とうとうこの日がやってきたか…」と逮捕される自分を思って気持ちが暗くなる、というものです。なんで逮捕されることが前提になっているんだ! と突っ込みたくなるところに、やっぱりこの人は『プーさん』の人なんだなあとしみじみしました。

ガードナー、ルーカスの両者については、普通に面白かったです。どちらも文章に人柄が表れていて、ガードナー氏にはバランス感覚に優れた良心を感じ、ルーカス氏はその心根の優しさを物語仕立ての文章から感じられました。

ガードナーの「通行規制について」から印象に残った一文を引用しておきます。ちょうど私にとってはタイムリーな話題だった。

 “おそらくこういうことではなかろうか。今の複雑な世界
 では、我々は完全なアナキストにもなれないし、完全な社
 会主義者にもなれない――その両方の賢明なごちゃ混ぜで
 なくてはならない。二つの自由――個人の自由と社会的な
 自由――を守らねばならない。一方で役人を監視し、他方
 でアナキストを警戒しなければならない。私はマルキスト
 でもないし、トルストイ的社会主義者でもなく、両方の妥
 協の産物である。 

     ――ガードナー(通行規制について)より ”


さて、残るはリンド氏です。私はこの人の文章が、この本のなかではもっとも面白く読めました。これほどに素晴らしい才能と出会えるなんて、私はやはり運がいい。たまたま入った本屋で、たまたま目が合って、偶然私の手に入ったと思われた本でしたが、偶然なんてものはないということを改めて証明してしまいましたね。大きな収穫となりました。

ここにはリンド氏の9つのコラムが収められていますが、そのすべてがまさにイギリス流のユーモアと皮肉に溢れた、イギリス流の文章のお手本のような素晴らしいものでした。神がかっていた! 好きです!


リンド氏の文章のどこが素晴らしいかというと、まずその完璧な構成です。こんな風に文章を組み立てたい。そうだ、かつては私もこんな風に文章を組み立てたいと思っていたのではなかったろうか。分かりやすく、しかも印象的に始まり、テーマに沿った話題をさりげなく積み上げて展開させながら、最後は鮮やかに締める。その上、ユーモアを満載する。さらに、ハッとするような一文を必ず織り交ぜる。素晴らしい技術です。天才的です。

また、リンド氏の文章技術だけではなく、その書かれた内容についても、私はおおいに共感しました。あまりにも共感できたので、私とリンド氏とは精神的血族であることを疑い得ません。私は新たにこのリンド氏をも心の師として仰ぐことに決めました。

「時間厳守は悪風だ」では、時間厳守する人物よりも、時間厳守しない人物の方がよほど精力と忍耐心において勝っているということを、延々と論じています。どういうことだろう? と不思議に思いながら私は読み進めていったのですが、ここで展開される論理がまさにイギリス流というか、ひねくれた理屈を面白可笑しく語っているので、果たして私は大笑いしながら楽しみました。
時間を守らない人(守れない人)がどれほどの苦難に直面し、それに耐えているのか。時間通りに行なっていれば簡単に回避できたはずの困難に立ち向かう忍耐心の強さを思えば、時間厳守の人々がいかに怠惰であるかが分かる。というような理屈でした。はははは、は!

また「無関心」では、ローマとカルタゴ間の戦争の細部に関する専門家である学者の知りあいが、彼の属する大学のチームが来週参加する予定のフットボールの試合に何の関心もないことに失望するところから始まります。血なまぐさいローマ時代の戦いに比べて、フットボールの試合は無血の戦い、未来の戦いであるというのに! 文化的であるべき人間がこのありさまだなんて! というこういう着眼点が面白いですよね。

そして「冬に書かれた朝寝論」では、寒い冬の朝には布団から出ることがどれほどに困難なことであるかについて、長々と検証されています。起こされるとかえって眠くなる心理についてや、明日は早起きすると誓って床につく夜の輝かしい自分と、朝起きようとするときの自分とはもはや別人であることの、書きようが猛烈に面白かったです。この「冬に書かれた朝寝論」は特に筆が冴え渡っていますね。

「忘れる技術」という話題では、忘れることも時には大事であること、苦しくて苦い記憶をあえて忘れながら未来に幸福を探そうという美しい理想について語られていて心を打ちます。そうか、忘れっぽいことが時々私を悩ませていたのだけれど、それでもいいんだ。苦しみの記憶ばかりが残っていると思うのは、記憶への評価が不完全だからなんだ。「不満を忘れるのは恩恵を覚えているのと同様に称賛に値する」と気づかなくてはならなかったのだ。

ともかく、リンド氏の文章には、夢と希望が、人間への優しい眼差しが溢れていました。世の中はそれでもよくなりつつある、人間はそれでも素晴らしくなりつつある。そんなふうに、リンド氏は考えていたようです。私もそのように考えたい、心から、心からそう願っています。



というわけで、とても満足のいく1冊でした。文章を何のために書くのか。私にそれを少し思い出させてくれました。書かれてあることは『たいした問題じゃないが』、私には、得られるものが多かった。ありがたい!










「死こそわが同志」

2011年09月07日 | 読書日記ー英米

ジェラルド・カーシュ 駒月雅子訳
(『壜の中の手記』西崎憲 他 訳(角川文庫)所収)


《あらすじ》
金物商会の外交員サーレクはコジマを愛したが、コジマは画家のヤーノシュと愛し合っていた。芸術家のヤーノシュが創造を愛するのに対して、武器商人のサーレクは破壊を愛した。最新式の武器を売ることで巨万の富を得たサーレクはコジマの愛を得られぬまま孤独に老いさらばえて……


《この一文》
“「理解できないね。鍬や工具は人間に快適さと生命の糧を与える。だが銃や大砲が与えるのは苦痛と死だけだ」
 「理想家だな、君は」サーレクは冷然と突き放した。「それはそれで大いにすばらしいよ。だが大事なことを見落としている。世の中はつねに移り変わっていて、その移り変わりこそが命の原動力だってことを。現在、世界の国々は戦争へ向かっている。どんなことでもそうだが、その状況を歓迎する者もいれば、そうでない者もいる。それでも国家は勢力を保持するため武器を持たざるをえない。銃は力だ。私は銃が好きだ。君たちは何かにつけ精神の物質に対する勝利を口にするが、いいかい、それを表現しているのが銃なんだ。引き金に指をかけ、照準器に敵をとらえる――これこそ精神の物質に対する勝利じゃないか。ひと昔前までは単純な先込め銃しかなかったが、いまはクリーガー機関銃があって――」 ”






何度読んでも痺れる短篇小説というものがありますが、これもそういった短篇のひとつです。私はジェラルド・カーシュが好きだ。数多くいる好きな作家のなかでも上位に入るくらいに好きなのです。読めるだけのこの人の短篇は、だいたい読んでしまったと思うけれど、この「死こそわが同志」はタイトルの格好良さからしてビリビリくる。原題は“Comrade Death”。


短篇集『壜の中の手記』に収められた物語はどれもこれも面白いですが、読み終えてから月日を経ても、忘れっぽい私がタイトルと内容をしっかりと一致させて思い出すことができたのはこの「死こそわが同志」だけでした。恐ろしい物語です。久しぶりに読み返してみましたが、やっぱり面白かったです。最初に読んだ時よりもいっそう面白かった(『壜の中の手記』:過去記事)。


どことなくクストリッツァ監督の傑作映画『アンダーグラウンド』を思い出させるこの作品(主人公が武器商人で男女の三角関係があるっていうところが似てるだけかもですけど)の、爆発的破滅にいたるまでの最後の部分が私は好きなのですが、たとえば最初のほうのこういう文章に出会うと、どうしたらよいのか分からなくもなるのです。


“君たちは何かにつけ精神の物質に対する勝利を口にするが、
いいかい、それを表現しているのが銃なんだ。引き金に指を
かけ、照準器に敵をとらえる――これこそ精神の物質に対す
る勝利じゃないか。”



………。

……だめだ、私には言い返すことができそうもない。




ジェラルド・カーシュの物語が面白いのは、ものすごく読みやすく、舞台も設定もそのときどきでSFから幻想、怪奇、ミステリとバラバラなのにどの物語にもジェラルド・カーシュらしさとでもいうべき独特の病み付きになるような毒素があり、いつもいつも大胆かつ奇想天外でドラマチックなところです。読者の心を意のままに操ることのできる一流の語り手なのです。大波に乗せられたみたいに物語の中へぐいぐいと引き込まれてゆくと、ところどころでハッとするような文章にぶち当たる。グサッと突き刺さるようなことを、サラッと書いてある。面白いったらない。

ついでに、同じ本に入っている「時計収集家の王」や表題作の「壜の中の手記」も気が遠くなるくらいに面白いです。あ、別の短篇集『廃墟の歌声』(過去記事)のほうもめちゃくちゃに面白いので、なんだか読み返したくなってきちゃったぞ……!



作家としてはかならずしも恵まれた生涯を送ったとは言えないらしいジェラルド・カーシュですが、多作の人だったそうなので、もっと邦訳が出るといいですね。私は短篇集を2冊と、「カームジン」という大泥棒(または大ぼら吹き?)を主人公とした連作短篇集(『犯罪王カームジン』:過去記事)を1冊持っていますが、正直言って、これだけでは読み足りません。アンソロジーに入った短篇のいくつかも読んでしまいましたし(過去記事「ジェラルド・カーシュ 3つの短篇」)、まだ他にあるというなら誰か訳してほしいなあ!