半透明記録

もやもや日記

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みなさま、よいお年を

2009年12月30日 | もやもや日記





謎の胃痛に悩まされているあいだに、数日が経過してました。いかん、今年も終わりだ。明日は帰省せねばなりません。日本海側は明日から大荒れだそうですが、寒いの嫌だー。つか、電車とかちゃんと動くんだろうか……(/o\;)



画像は同人誌用マンガ「ロシア海岸」の画像データを、色味を調整して保存し直したところ。あらためて読み返してみると、あまりの盛り上がりの無さにビックリですよ。あれ~、もうちょっと筋がまとまっているつもりで描いてたのに、全然まとまってないや。すごいブツ切れ感! 意味のなさ加減も壮絶です。こういう訳の分からないマンガを描くのには、私もそろそろ慣れて(=諦めて)きたものの、やっぱり結構苦行です。もうちょっと面白ければ、描くのも楽しいんじゃないかなぁ……? うっ 昨夜も、チラ読みした浦沢直樹さんの『パイナップル・アーミー』のあまりの絵の上手さとストーリーの面白さに唸らされ、完全に戦意喪失でした。漫画って、プロの漫画って、ほんと面白いんだよな~。しみじみ。

しかし、いくら私の描いたマンガがアレだからと言っても、もう後戻りできない! 帰省の大移動中にひょっとしたら良い修正のアイディアをひらめくかもしれないし、とりあえずこれでしばらく放っておくことにしましょう…。というか、私はなんでマンガが描きたいのかなぁ? うーむ。でも描くのは面白いんですよね。それなりに。たとえ出来上がった作品が詰まらなかろうとも! なんか描きたくなっちゃうんですよね。たとえ出来上がった作品が詰まらなかろうとも! …しくしく、ネガティブが止まらない;

さて、気を取り直して他の仕事に取りかからないと。同人のみなさまには年内に簡単なサンプルをお送りしたかったのですが、えーと、年明けまで待ってくださいませ。ノロくてスミマセン…こんな年越しでスミマセン 来年はがんばります!



というわけで、みなさま、2009年もお世話になりました。来年もよろしくお願い申し上げます!





いろいろと片付け

2009年12月27日 | もやもや日記



もう年末です。うっ……

さて、年末年始に田舎へ帰省する前に、色々と片付けなければならないことがあって、今日はそれを朝から片付けているところです。たとえば、引越しましたのお知らせハガキを出すとか……今ごろになって; でもどうにか完了。もう年賀状はいいや。友人のみなさま、来年の年賀状はありません。どうもスミマセン(/o\;)

あとは、同人誌用のマンガが今度こそほんとに仕上がりそうです。どうしても描く気がしなかったコマも、なんとか乗り越えました! やった! あとほんとちょっとだ! わ~~っ!……でも微修正はあとでやるつもり。うん、それでいい。修正の作業の方が楽しいし。
さてそうなると、次はウェブ版のサンプルにとりかからないと。いや、ちょっとはとりかかっているのですが、こちらもどうにもデザインが決まらず…! うーむ、落ち着かないとね。とりあえず出来るところまでやってしまおう。

家のことでは、カーテンを買ってこないとなりません。それから造り付けの棚が奥行きが深くて使いにくいので、それ用の引き出しも。引き出しはちょうどいいサイズを探すのが骨なので、自分で作ろうかと思います。紙で。さっき寸法を測りました。工作大好き。久しぶり。



うーむ。今までモタクサやっていたツケが、いつものようにまわってきて、私は性懲りもなくアタフタとしているのですが、そこへ田舎の姉から電話がかかってきて、「いつ帰ってくるの?」と訊くので「…大晦日までには;」と返すと、「なるべくはやく帰ってこい! 年賀状を刷ってもらわないとならないから!(←もちろん姉の分です)」と例年どおりの依頼を受けました。…そろそろ自分で出来るようになろうぜ!と、とりあえず説得;


そんな感じで、年末というのは本当に慌ただしいですよね。でも、今のうちに片付けておければ、心安らかに新年を迎えられるのでは……。がんばろうっと。






街のあかり

2009年12月25日 | もやもや日記

ガラスのツリーを囲んで会議。
クリスマスとは
…いったい何だったのか。




どうやらクリスマスらしいですね。私は昨日の朝方にはそのことを一瞬だけ思い出しましたが、その後はさっぱりと忘れて、夜遅くになってK氏が「ケーキが売り切れていた」と言い出すまで思い出しませんでした。そうか、クリスマス・イブだったんだ。私は里芋を一生懸命に煮ていたりして(←夕飯)、忘れていたよ。私はクリスマスというイベント自体はわりとどうでもよいのですが、そう言われるとケーキはちょっと食べたかった。幼かった頃、両親はいつもホールのケーキを用意してくれて、私と姉はそれを食べきれず、翌日にもまだ残っていることを喜んでまた食べたものでした。



さて、冬、空気が冷たくなってくると、街のあかりはいっそうきらきらと輝いてみえるものです。この季節、特にクリスマスから年末年始という時期に、私が思い浮かべるのはこういう場面です。



“――すると突然、郷愁が彼の胸をはげしい苦痛でゆり動かした。そのために彼は思わず知らず暗闇のなかへあとじさりして、自分の顔のひきつるのをだれにも見られまいとした。
 (中略)……きみのようだったらなあ! もう一度初めからやって、きみのように育ち、実直で、快活単純で、普通で、規則正しく、神とも世間とも仲良くして、無邪気で幸福な人々から愛され、きみ、インゲボルグ・ホルムを妻にし、それから、きみ、ハンス・ハンゼンのような息子を持ち、――認識と創造の苦悩との呪いから解放されて、幸福な平凡さのなかで生き、愛し、ほめたたえるようになれたらなあ!…… もう一度初めからやる? しかし、そんなことをしたところでどうにもなるまい。また同じことになるだろう。というのも、ある人々は必然的に道に迷うからで、それは彼らにとっては正しい道というものが全然ないからなのだ。 ”
 ――「トーニオ・クレーガー」トーマス・マン
  (『世界文学全集32』河出書房)


“僕はある月の好い晩、詩人のトックと肘を組んだまま、超人倶楽部から帰って来ました。トックはいつになく沈みこんで一ことも口を利かずにいました。そのうちに僕らは火かげのさした、小さい窓の前を通りかかりました。そのまた窓の向うには夫婦らしい雌雄の河童が二匹、三匹の子供の河童といっしょに晩餐のテエブルに向っているのです。するとトックはため息をしながら、突然こう僕に話しかけました。
「僕は超人的恋愛家だと思っているがね、ああいう家庭の容子を見ると、やはり羨しさを感じるんだよ」
「しかしそれはどう考えても、矛盾しているとは思わないかね?」
 けれどもトックは月明りの下にじっと腕を組んだまま、あの小さい窓の向うを、――平和な五匹の河童たちの晩餐のテエブルを見守っていました。それからしばらくしてこう答えました。
「あすこにある卵焼きは何と言っても、恋愛などよりも衛生的だからね」 ”
 ――「河童」芥川龍之介
  (『日本文学全集28』集英社)





…………。大きな円いケーキを分け合ったあの日々から、思えば遠くへ来たものだ。いえ、別に私は芸術家でも自由恋愛家でもなければ、なにか特別に重大な家庭的な問題を抱えている訳でもありませんし、一般的に見ればごく普通に結構恵まれているとさえ思うのですが、それにもかかわらず、私という人間は不意に自らすすんで暗がりへあとじさりしようとするところがあることは否定できません。どうしてなんだろう。もしかすると、「どうしてなんだろう」といちいち考えてしまうところに、原因があるのかもしれません。

上の2作品は、いずれも数年前に読んでからというもの、奥底深くに突き刺さり、ことあるごとに冷たいまなざしで私を見つめ返してくるのでした。特に「河童」は、ある年の年明けと同時に、「歯車」、「或る阿呆の一生」とともに3連続で読んだために、初春のおめでたさを一瞬で吹き飛ばしてしまうほどの衝撃を与えられたものです。あの時はそれで、泣きながら列車に乗る羽目になった気がする。なので、冬になって田舎へ帰省しなければならないとなると思い出してしまう。
みなさんもどうですか? 恋人や家族、楽しい友人たちと過ごす素敵な冬休みに、こういった作品を読んでみるというのは。幸福で暖かく正しい人たちの輪から一歩後退して、暗がりのなかへ身を置いてみるというのは。


暗がりから見るあかりは、いつだって明るく美しく、暖かそうである。
しかし、常にそのあかりのなかに居るのが当然であるという人々は、暗がりから見たときのその美しさを知っているのだろうか。それとも、そもそも彼らはそんなことを知る必要さえないのだろうか。なにもかも当たり前過ぎて。どうなのだろう。

だが、夜でなければ星が見えない。月明りでさえ明る過ぎるという夜があるではないか。まして昼の強過ぎる光のなかでは、遠くから放たれる星々の美しい光を確認することができないではないか。昼の世界が美しいように、夜の世界もまた異なって美しいと、私は思うのだがなあ。自分自身が光ってはならぬ。美しいものの光を讃えるために、自らは暗く静かに沈潜しなければならない。ただそれだけの、そんな生き方があってもよいはずではないかなあ。
と、とりとめもなく考える昼下がり。どうして私はこうなんだ。ああ、そうか、あれだ。というのも、ある人々は必然的に道に迷うからで、それは彼らにとっては正しい道というものが全然ないからなのだ。



街のあかりは私にいくらかの哀しみと痛いような羨望をもたらしますが、同じように街のあかりを見ても、このように感じることも可能なのです。

“日暮れに雨が上がった後は、部屋の中にいると、もやもやする程暖かくなったので、外に出て見たら、町にはずらずらと灯が列んでいる。明かるくて、綺麗で、どこまでも続き、遠いのは靄の中で光っている。ぶらぶら歩いて振り返り、又横町をのぞいて見ても、どこにも、きらきらと電燈が点っている。大した事だと考えて、少しく荘厳の気に打たれた。どの家でも、みんな電燈料を二ヶ月以上は溜めていない証拠なのである。”
 ――「風燭記」内田百
  (『大貧帳』ちくま文庫)



アハハハ! そ、荘厳の気っ! 二ヶ月…!! ぶはーっ!
だめだ! 何度読んでも笑える! こういうところが好きだ。いや、これはこれで結構悲しいというか、身に沁みるところはあるのですけれども、それでもこんなふうになりたいと思う。こんなふうに世の中を見つめられたらいいと思う。


街のあかり、というひとつのことを取ってみても、そこには様々な見方があるわけです。私が思っているよりも、もっと多くのそれぞれに異なった明るさや暗さを、世の中の人々はそれぞれに感じているのかもしれないですね。






柚子ジャム

2009年12月24日 | 手作り日記

本日の昼食。
…というシリーズをやろうという訳では
ないのですが……(/o\;)




このあいだ柚子をたくさんいただいて、どうやって使おうかなーと考えていたところに、今朝私の実家からも荷物が届いて、そのなかにまたしても柚子がたくさん入っていました。うーむ。柚子を大量に使えるというと、アレしかないですよね。ジャム。

というわけで、柚子のジャムを作ることにしました。ところが、私は引越しの荷造りの際に、ジャム用の空き瓶などはすべて処分してしまったので、保存容器がない。よって、あまりたくさんのジャムを作っても保存しておくことができないので、とりあえず、小さな柚子を4、5個選んで、少量だけ作ることにしました。

私はこれまで何度か柚子でジャムを作ったことはあったのですが、苦いのは当たり前だと思っていた柚子のジャムも、作り方次第で苦くならないということを知りました。皮の部分を水にさらしたり湯にさらしたりすることで苦みがなくなるらしい(←テキトーな記述ですみませんが、ググったら柚子ジャム作りには色々なコツがあるようでした)。実際にやってみたところ、たしかにあまり苦くありません。へー、へー!


ちょっとだけだったので、ジャムはすぐにできました。
本当は瓶に詰めたかったのですが瓶が無いので、とりあえずガラスのコップに入れて、密閉用の蓋をしておきます。明日までに食えば大丈夫だろう。

 ジャムはこんな感じ。

味について言えば、材料が柚子オンリーだったせいなのか、砂糖の分量が足りなかったせいなのか、苦くはないもののジャムにしてはいささか酸っぱいです。だがまあ悪くない。私は柑橘類の酸っぱさは好きです。新しい瓶を買ってきたら、残りの柚子のいくらかはまたジャムにしてみようか。



柑橘類と言えば、話は変わりますが、K氏はどうしても【シトラス】のことを【シラトス】と言ってしまう人なのですが、昨日は【マロニエ】のことをごく自然に【マロエニ】と言っていました。何故そうなる……!





チーズと卵サンド、ついでにミズオト情報

2009年12月23日 | もやもや日記

本日の昼食





関東へ戻ってきて良かったなーと思うことのひとつに、そのへんのスーパーで8枚切りの食パンが普通に買える、ということがあります。大阪の、私の住んでいたところではなかなかお目にかかれませんでした。4、5、6枚切りしかなかった。
私は昔からサンドウィッチというものが好きなので、横浜へ越してきて以来、この8枚切りのパンを買ってきてはせっせとサンドウィッチを作っています。8枚では少し厚みがありすぎると思われるかもしれませんが、私の好みからすると10枚切りだとちと薄い。

昨日は図書館へ行ったついでに【成城石井】でチーズを買ってきました。なので、今日はチーズ入り卵サンドというわけです。うめーな、おい! でもパセリとかあったらもっと良かったかも。今度はそうしよう。




ところで、話は急激に変わりますが、今日は休日なのでせっかくだしここに書いてしまおうかと思います。

同人誌【ミズオト】ですが、じわじわと原稿が集まってきています。しかも、今回から新たに参加して下さる方も数名いらっしゃいますし、これまでの2号に参加して下さった方々も、今回はまた違った作風のものをお寄せいただいてまして、私は公開できる日が待ち遠しい! 本当にすごく面白いものばかりを投稿していただいているので、がんばって編集しないとなー、と思っております。うむ。はやく作業を進めなくては…; 年内にサンプルだけでも作りたい……というかその前に自分のマンガも仕上げないといけないのですが、今度こそ本当にあとちょっとで仕上がりそう…やった……!

マンガと言えば、私は横浜へ来て以来、何人かのお友達とメールをやりとりしたり実際に会ったりしたのですが、皆さん口を揃えて「今度のマンガも楽しみにしてるよ」と言って下さるので、私はかなり励まされています。そのお言葉をたよりに、どうにかこうにか今回も仕上げられそうです。皆さん、どうもありがとうございます! 私が皆さんからの作品を読むのが楽しくて嬉しいように、私のマンガも皆さんをいくらかでも喜ばせられるといいなぁ。

長引いた引越し放浪生活もどうやら目的地へたどり着いたようですし、少しずつ生活も安定してきました。上向き、上向き!(たぶん。集中して本を読めるようになったし。)
さあて、今日もがんばるぞーっ!!


と書いてみたものの、なんかテンションが高過ぎて、自分でもちょっと違和感(/o\;)アレ?私はもっとネガってないと…… うん、でも、まあ、たまにはむやみにポジティブなのもいいですよね。うんうん。





ザミャーチン「島の人々」

2009年12月22日 | 読書日記ーロシア/ソヴィエト

ザミャーチン 水野忠夫訳
(『現代ソヴェト文学18人集1』新潮社 所収)




《あらすじ》
ジェスモンドが生んだ誇り、『強制救済の遺訓』の著者であるジュリー司祭は秩序を重んじ、毎日の生活が規則正しく行われることを妻であるジュリー夫人にも説いていた。しかしある日、ジュリー司祭の家の前で交通事故があり、車に轢かれた大男が司祭の家に運び込まれ、司祭と夫人の規則正しい生活が狂い始める。狂い出したのは夫妻の生活だけではなく、看病されている男ケンブル自身にもその影響は及ぶ。故ケンブル卿の子息で身体も頭もどっしりとしたケンブルは秩序と規則から外れたことを考えることさえ出来なかったはずが、事故をきっかけに知り合った享楽的で騒がしい弁護士オー・ケリー、その事務所で出会った髪を男の子のように短く刈上げた奔放な美女ジジと付き合ううちに、彼はハンドルが壊れた自動車のように狂乱し疾走し始める。


《この一文》
“教養のある、りっぱな人々と名づけられる名誉を得るためには、家も、樹々も、街路も、空も、その他この世にあるありとあらゆるものが、そのような条件を満足させねばならぬことは当然である。それゆえ、涼しい灰色の日々が過ぎ去り、突如として夏が訪れ、太陽がまばゆいばかりに輝きはじめたとき、ケンブル卿夫人は衝撃を受けたような感じに襲われたのである。 ”





いつか読もうと思ってはいたのですが、そのいつかが今朝唐突に訪れました。ザミャーチンはこれが3作目。『われら』、「洞窟」、そしてこの「島の人々」。

この人の作品はいやに洒落ていて、どうしてだかとても未来っぽい。『われら』はSF小説だったから未来的なのは分かるとしても、この「島の人々」は現代イギリスを舞台にしているようなのに、この未来っぽさはどこからくるのだろう。焦燥を煽られるような疾走感があります。そして、この人はいつもどうしてこんなに、何に対してこんなふうに怒り、絶望しているのだろう。

そんなに長い物語ではないので簡単に読めると思っていましたが、第3章あたりに入ると、これはどうやら私ごときの手に負える物語ではないらしいと感じました。はっとさせられるような文句が次から次へと繰り出されるので、私はいちいち立ち止まらずにはいられません。そうやってザクザクと胸を刺されながら、ゆっくりでも途中で止めることはできず、最後まで一息に読みました。暗い。重い。悲しい。だがやはり面白い。


私は、この物語はきっと、秩序を頑に守り通し、全ての人々にもそれを押し付ける者たちと、その硬直した秩序の枠から飛び出して自由と快楽とを求める者たちとの戦いの物語になると期待していました。けれども、どうもそうではなかったらしい。そう単純な、気楽な話ではなかった。巨大な秩序の前に、人々はその無力さをどうしようもなくあらわしてしまう。最後にはうなだれてしまう。一時はそこから逃れ出るために自分でもあると知らなかった力を振り絞ってみるけれども、結局は自滅してしまう。ああ、『われら』もそんな物語だったな。どうしてそのことを忘れていたのだろうか。なんて迂闊なんだ、私は。

ケンブルはどうして自滅してしまうのか。彼は「道路を渡ろうとする歩行者の前では停車するべきだった自動車」によってはね飛ばされ、秩序の圏外に放り出されます。そして奔放で魅了的な女 ジジを愛し、そのためにそれまで無自覚にかつ強固に属していた秩序立った世界から自らを解放しようとします。それにも関わらず、ジジとの新しい生活を始めようとするケンブルの頭には、依然として「~は~でなくてはならない」という考えがしっかりと根付いていて、それがジジを退屈させ、そのために引き起こされる彼女の何気ない裏切りに憤り、自ら破滅への道を突き進んでしまうのでした。これはいったいどういうことだろう。いや、分かる。少し分かってしまうところに恐ろしさがあるんだ。

ケンブルは自由と快楽の象徴であるジジを愛し求めながらも、彼女という存在をそのまま理解し受け入れることはし切れずに、捨て去ろうとした古い型を捨て切れずに自滅した。一方、ジジという女の本質を、彼女の気まぐれを、その美を理解し愛したもう一人の男オー・ケリーもまたやはり破滅する。そしてジジはいつも誰と居ても冷たい陶器で出来た犬だけを愛しており、最後にはいったいどこへ行ってしまったのだろうか。

どうだったら良かったのだろう。どうだったら良かったんだろう。秩序と規則の正しく美しい人々、特徴もなく皆同じ顔、同じ服、同じ家に住む彼らの間に、しかしなぜジジやオー・ケリー、ケンブルのような異物が現れてきてしまうのか。勝利するのは誰だ。もちろん秩序と規則の面々だ。勝利も正義も彼らのものだ。そうだ。そうだ! その通りだ! それなのに、なぜ……。それがそんなに正しいというなら、それがそんなにも輝かしいというのなら、私はなぜこんなにも悲しく、嫌な気持ちのために歯を食いしばり、手を冷たくしてわなわなと震えなくてはならないのだろう。なぜ許容できないのか、どこが、どこで、誰が間違っているのか、いや、誰か間違っているのか。それが、そんなことさえもが分からなくて、私は呆然としてしまう。


なぜ、どうして、いったいどうしたら。まだ書き足らないことがたくさんあるようなのに、まとまらぬ考えがただ私の頭を渦巻いています。やっぱりザミャーチンは凄いと思う。走り抜けるような描写、切れるほどに澄んだ表現、深い意味と象徴を人物や物事へ封入し、それらを目に見えぬ細い糸で複雑に美しく留め合わせているような感じがします。読めばいつも悲しい。とても遣りきれない。けれども、燃え滾るような何かがあって、私を強く引っぱたくような何かがあって、私はきっとまたこれを読み返すだろうと思うのでした。『われら』を何度か読まされたのと同じように。

しかし、このタイミングでこの物語を読ませるとは、ザミャーチンさんにはあらためて深く感謝したい気持ちです。私はちょうどこういうことについておぼろげに考えていたところだったのです。面白い。面白いなあ。

燃えるような喜びが、私へ戻ってくる。







アステリスクからのハガキ

2009年12月21日 | 手作り日記


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何と言うか、そろそろ引越しが済んで一週間になるので、友人知人に【引越しましたハガキ】を出さないといけないかなぁと思って、なんとなくそういう雰囲気のものを作ってみました。←歯切れが悪い…; だって、もう年賀状の時期だし、今さら感が満載ですよね~。やっぱ年賀状でしれっとお知らせすることにしようかな…。てゆーか、それで年賀状もこのテキトーなデザインのままで済ませようかな……。いや、でも(/o\;)!



アステリスクの南極のおうちにはエレベータがあるのです。ここしばらくはずっとJ町の賃貸マンションの一室に暮らしているアステリスクですが、ときどきメンテナンスのために帰るらしい。時には作業が数ヶ月に及んでしまうこともあるので、とりあえず【引越しましたハガキ】を出しておいたとのこと。そうか、そうか。イワシ、食いたいね。



……なんてことを考えている場合ではない私! 落書きのつもりがつい真剣に!
今日もこんなことをしていたら、暗くなってしまった~~(/o\.)。。





FFXIIIがやってきた

2009年12月20日 | もやもや日記

…サッズ先生……あんた、なんでそんな…
笑顔が爽やか過ぎるぜっ!





つい先日発売になったばかりの話題作『ファイナル・ファンタジー13』をK氏が買ったようです。おお、ようやく宝の持ち腐れだったPS3を有効活用できますね。長らく【トロ・ステーション】専用機となっていましたが、やっとゲームらしいゲームができるじゃないですか。

というわけで、私はK氏が早速FF13をプレイ開始したのを横で見ていたのですが、画面の美しさは半端ないです。まあ、体験版も見たことがあったので、だいたいの感じは分かっていたつもりですが、それでもやっぱり凄い。綺麗過ぎて逆にちょっと違和感を覚えるほどです。あと、ストーリーは今のところあまりよく分からない(ただいまプレイ開始3時間弱)。サッズが今回のキャラクターのなかではオアシスになりような予感。あのアフロの中に隠れてるピヨピヨが可愛い。それにひきかえ、イケメン枠のスノウの卑劣さにはビックリですよ! 武闘派と見せかけておいて、すぐ手投げ弾とか投げやがるし…なにがヒーローだよ、へっ。と言ってみる。うん、しかし、画面がきれいだから見ているだけでもなかなか面白いですね♪


ファイナル・ファンタジーの魅力はやはりフィールドを自由に歩き回って、現実には家に引きこもりながらもまるで旅行をしているかのような錯覚を覚えるほどに美麗な映像世界を堪能できるところですね。はやくストーリーが進まないかしら。わくわく。でもFF12の時はストーリーがやっつけだったからなぁ(とくに終盤)。まあ、それなりに面白かったけど。9なんかはすごく良かったのになー。今回のはどうなんでしょ。とりあえず、今回はライトニングという女の子が主人公らしいのが今までと違って良い感じ。

なんだかんだ言いながらも、FFは毎回気になってしまいます。私もそのうち別口でやらせてもらおうかな。やっぱ自分で操作しないと、ゲームをすっかり楽しむことはできないですものねー。




みっちり

2009年12月19日 | もやもや日記



今日、半日がかりでようやく本棚を組み立てました。しかし大阪で荷造りする段階でかなり減らしたつもりなのに、なぜまだこんなに本がたくさんあるのか……。

本棚を設置し終えたところで、「文庫を前後2列にして入れるなんて、異常だ!」とK氏が言うので、こないだ聞いたところによると他の人も結構そんな感じみたいだったよ、と反論しようと思ったのですが、話がややこしくなりそうというか、この本棚は実はK氏の持ち物であるのにほとんど私が占領していることを彼が思い出して激しく怒り出しそうな気がしたので、「そうかね」と軽く流しておくことにしました。ふう、危なかった。そうこうするうちにK氏は出かけていきました。よし、今のうちにどんどん詰めてしまおう…。


さて、この本棚ですが、奥行きはないものの、天井にてっぺんを固定できるつくりになっているので、高さはかなりあります。今回はせっかくなので、きっちりとジャンルごとに分類して本を収納してみました(写真はもう少しで作業完了という時のもの)。が、うーむ、微妙に入りきりませんでした。やばいなー、やっぱもうちょっと減らそうかなぁ……。ここへ引越してきてから既に何冊だか増えている上に、欲しい本はまだたくさんあるのです。ぐふっ、いったいどうしたら良いのかしら。


悩みは尽きませんが、とりあえず、本以外のものも片付けてしまわないと! どうにか年内に! あ~~






『つみきのいえ』

2009年12月18日 | 映像(アニメーション)


*監督・アニメーション:加藤久仁生
*脚本:平田研也
2008年公開


『或る旅人の日記』をずいぶん昔に観たことがあったので、私はこの加藤氏のことはずっと認識していました。それでこのあいだ、この方が『つみきのいえ』でめでたくも大きな賞をいくつも獲得なさったのを聞いても、あまり驚きはありませんでした。そうかついに、と思っただけです。ただ、この人はまだ若いのに、ずいぶんと努力研鑽なさったのだろうとは思いましたけれども。非常に繊細で優しく、それでいてどこか寂しげな世界観を持った美しいアニメーションを作る人であるようです。

私は『或る旅人の日記』を観たことがあると申しましたが、この作品はひとりの旅人が不思議な街を旅して歩くというような幻想的な作品でした。すごい!とは思ったものの、この人が描きたいであろう世界に比べて、仕上がっている作品の方は若干荒削りというか、直接的過ぎるというか、そういう印象はありました。あ、つい生意気なことを書いてしまいましたけれど、私は当時この作品がとても好きだったんですよ。はっきり言って、衝撃的だった。

そして『つみきのいえ』です。私は『或る旅人の日記』以来、加藤氏の作品には触れたことがなかったので、この人がどういうところを経てここまでやってきたのかを存じ上げないのですが、この『つみきのいえ』では、この人が描きたい世界と、その表現力や技術力のすべてがいよいよぴったりと合致しているように感じました。素晴らしく美しいアニメーションです。物語も、音楽も、色遣いも、美しい。

小さな家に暮らすひとりの老人。穏やかな生活を送る彼がある朝目覚めると、床上に浸水している。この部屋もまた沈んでしまう。また上に増築して引越さなくては。ところがうっかり愛用のパイプを水の底へ落としてしまい、老人は過去の記憶を辿るかのように、水の底へ底へと潜っていき……というお話。

私の観たDVDでは、【本編】と【本編(ナレーションあり)】という2種類が視聴できましたが、私の意見では、ナレーションがないほうがこの作品の魅力を最大限に味わうことができると思います。別に長澤まさみさんのナレーションがどうとか言うわけではありませんし(彼女はとても可愛いから好きだが、しかしあの舌っ足らずさはこの作品には合わないような気がする)、語られる言葉の数々もそんなに悪くはない言葉の連なりですが、やはりちょっと余分だと思うのです。アニメーションだけで十分に伝わるのに、言葉は余計なのではないでしょうか。もったいない。まあ、好みの問題もあるのでしょうけれど。


聞くところによると、この『つみきのいえ』についてはさまざまな意見があるそうです。私の感想としては、これは素晴らしく胸を打つ美しい物語です。人生に対する暖かな希望が示されています。年を取るごとに人や物がどんどんと自分のもとを過ぎ去っていく寂しさや悲しみを感じながらも、それが実はいつもすぐそばに静かに確かに蓄積していて、過ぎ去ったものを自分は必ずしも失っているわけではないのだと知ることで、今はただひとりで暮らすようになった老人もその人生の豊かさを喜びを、はじめて自分のものとして取り戻すようでした。人生は美しいではないですか。すべてが過ぎ去っていくことさえも美しいではないですか。これが感動せずにいられるだろうか。これを愛さずにいられるだろうか。



というわけで、泣くのをうぐぐうぐぐと必死でこらえなくてはならないような感動的な作品でした。素晴らしい!!