半透明記録

もやもや日記

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『地獄の黙示録』

2008年04月28日 | 映像
監督:フランシス・F・コッポラ
出演:マーロン・ブランド/マーティン・シーン他

1979年 アメリカ


《あらすじ》
1960年代末のヴェトナム。ウィラード大尉は、ジョングルの奥地で王国を築いたとされるカーツ大佐を暗殺する命令を受け、ナング河を溯っていく。その過程でウィラードが遭遇するさまざまな戦争の狂気。

《この一言》
“ 欺瞞だ  ”



有名すぎるこの映画を、私はまだ観たことがなかったのですが、ようやく観ました。すごく長かったので、多分「完全版」の方を観たのかと思われます。疲れた…。

で、どうだったかと言うと……うーむ。とにかく憂鬱です。ただ、内容の恐ろしさから連想していたような直接的な残虐描写はあまり見られず、どちらかと言えば幻想的とさえ言えるような狂気の世界が、これまた憂鬱なことに美しいとしか言えない映像で表現されていました。
特に、序盤でワーグナーの大音量の中をヘリコプターが隊列を組んでやってくる場面や、終盤でウィラード大尉が水の中から静かに頭を出す場面などは、観ていない人にも知られているほどに有名なだけあって圧巻です。フランス人の館も美しかった。
しかし、どの場面を取っても、狂気が渦巻いているようで、私はめまいがするようです。しまいには、狂気とは何だろうか、正常とはどういうことだったろうか、という手に負えない疑問に襲われてしまいます。

ひとつ感じたことには、この映画は、観客が登場人物に感情移入することをあまり許してくれない作品なのではないかということです。誰の立場にも、ある程度は理解を示すことはできるけれど、どこかで突き放されてしまう。主人公のウィラードにしても、最初からちょっとおかしな人物だったのですが、中盤はわりと分かりかけた気がしたのに、最後にはやっぱり分かりませんでした。
誰も彼もが少し(あるいはすごく)おかしい。
その状況に置かれなければ分からない、と言ってしまえばそれまでですが、登場する誰ひとりとしてその心を理解できないとすれば、おかしいのは私も同じではないだろうかと思えてきて仕方がありません。これは何か危険な臭いがする。もうやめておこう。


ここからはネタバレ注意!

観終えて、K氏が鋭いことを言っていたので書き留めておきましょう。

陽気なサーファーのランスが最後まで生き延びたのは、彼だけが「欺瞞」に侵されていなかったからではないか。途中からの彼はただ欲望の赴くままに行動しており、その精神は何ものにも引き裂かれていなかった。だからカーツは彼には構わなかったし、最後の地から生き延びることができた。

なるほど、そうかもしれません。ランスの中には暴力と慈愛が、なんの矛盾もなく同居しているように見えました。彼が恐怖心を表さなくなったのには、なにかそういうことも関係しているのでしょうか。


とにかく、色々な意味でヘトヘトになった1本。



本日の名文

2008年04月27日 | もやもや日記

フェーチカがこのパイプに不満を感じたことは一度もない。特権や立身出世の何たるかを知らない彼は、人生のなかで人生そのものよりほかに何物ももたなかったから、心は平静かつ露き出しで、小鳥のように若々しかった。彼はさまざまな娘たちと何度も知り合い、夜のくらがりのなかで接吻したけれども、たとえきのう彼と接吻した娘が今日はほかの男と接吻したところで、フェーチカはけっしてイライラとパイプを噛みしめないし、そのにがい後味に不満を感じたりもしないのである。……。
 ――「外交官のパイプ」(イリヤ・エレンブルグ『13本のパイプ』)より




「人生のなかで人生そのものよりほかに何物ももたなかったから」。

どうしても、この一文を今日の私は読まなければならなかったのでした。愛するエレンブルグに心からの感謝を。あなたは今日も私を救ってくれました。私には自ら投げ捨ててしまったものも多くあるけれど、幸運によって得られたものもまた数多くあるということを、あらためて感謝しなければなりません。

「フレニト先生に捧げ」られた短篇集『13本のパイプ』のなかの13の物語の中でも、私がもっとも好きなのが、この「外交官のパイプ」です。

はじめは外交官の所有物だったドイツ式のパイプは、持ち主を次々とかえて、最後はペンキ塗りのフェーチカのものになります。おそらくエレンブルグもそうであったように、私も彼のような人物に憧れます。こんな日にはとくに。

自らの過大な欲望から自由になって、若々しく飛び回りたい。
小鳥のように。




季節が君だけを

2008年04月25日 | 映像

さいきん、今さらながら BOOWY にはまってます。前から好きだったけど、やっぱ格好いい。名曲が多すぎます。

5歳上の姉の影響で、私は10歳くらいから BOOWY を聴いていたでしょうか。YouTube にアップされているライブ映像を探して見ていると、そのころに青春を送った人々のその青春のありさまを想像しては、もしタイムマシンがあったならどうにかこのライブ会場に潜り込みたいと願ってしまいます。ものすごい熱狂なのです。楽しそう~。うらやましい~。乾いた消極の90年代少年少女だった私にはその本当のところを知ることができない時代です。

で、私が最も好きなのは、やっぱ「B・BLUE」。それから「Dreamin'」もやばい。やばすぎる。あとは「わがままジュリエット」とか。「HONKEY TONKEY CRAZY」の躍動感も最高です。ああ~。他にも「Only You」とか、「No New York」とか数えきれないですね。どれもこれもメロディーが信じられないくらいに格好いい。布袋さんって凄い人ですね。間奏がスッゲー!んですの。超いかす!

そんなわけで、10歳からの刷り込みの影響力を32になってもいまだ大きく感じているわけですが、それにしてもやはり BOOWY というのは何か伝説的なエネルギーを放ったバンドだったのはたしかではないでしょうか。YouTube で発見した動画の中には特に素晴らしいものがあって、私は不覚にも涙をこぼしてしまいました。ええまあ、私はセンチメンタルな人間です。

というわけで、「季節が君だけを変える」のPV。
画面に映し出されるのは、多くの10代の若者たち。あの時代にも少年少女たちはそれぞれの痛々しさをふりまきながら、しかし必死に時代に追いすがろうとしていたのだろう。まっすぐに何かを貫こうとする(と同時にどこか脅えたような)眼差しは、あれから20年の間に何を映し出しただろうか。あれから20年の季節は君だけを変える。




  ココカラ ↓↓↓↓↓
(YouTube : BOOWY 「季節が君だけを変える」



最近のお気に入り

2008年04月23日 | もやもや日記
" Vieira de Castro " Milenium


これ。
【“ビエイラ・デ・カストロ”ミレニアム】(200g)。

ナビスコのオレオに似たお菓子です。
ポルトガルからやってきました。
はまってます。

私は昔からとにかくココア系のお菓子が大好きなので、チョコレートは無論のこと、オレオのようなココア風味の強い焼き菓子にも目がありません。それらの菓子とコーヒーがあればそれで満足。あー、痺れるぜ(気持ちのいい物質が脳内を駆け巡る~)。

大学生だった頃、私はお金を持っていないときは(注:金が無かったのではなく、昔は土日なんかはATMが閉まっていてお金を引き出すことができなかったりしたため)よくオレオを食べていました。で、そのころK氏に「ゆうべ何を食べたの?」と訊かれたことがあったようで、私はすかさず「オレオ!」と答えたらしい。彼にしてみればかなりの衝撃発言だったらしいですが、どうやら夕食にオレオは考えられなかったらしい。でもしょーがないじゃん、金を持ってなくてオレオしか買えなかったんだから(しかし落ち着いて考えると、オレオって結構高級なお菓子かも。若人の考えることは分からんですね)。
まあともかく、腹が減っている時でもオレオはちょっと食うだけでかなり気持ちの良い満足感を与えてくれるので(なにかそーゆー物質が含まれているのでしょうか)、私は昔から現在に至るまで愛し続けているわけです。さすがに夕飯にオレオ、ということは今ではなくなって私も立派な大人になったものですが、いまだにオレオを食べようとするとK氏がもの言いたげな顔をするので少し気になります。もう放っておいてくれたまえ。


それはさておき、長年オレオを愛してきた私がここ1年くらいはまっているのが、このミレニアム。ポルトガルから輸入されてくるようで、近所の Shop99 に売られています。
試しに買って食べた当初は、ナビスコのオレオに比べて若干クリームの香りが強いようで、正直馴染めませんでした。しかし、根気良く食べ続けるうちに(どういう努力だ…)すっかり病み付きになりました(やはり何事も努力次第です)。なんというか、この歯触りのガツガツ感がいいですね。食べごたえがあります。ああ気持ちがいい。

このミレニアムと私の幸福な蜜月はこれからも続くに違いないと疑わなかったある日、それは突然の出来事でした。

Shop99 の店頭からミレニアムが消えていたのです……!

ま、まさか…!? いや、落ち着け、ただの在庫切れという可能性もある。だがしかし、在庫切れにしてはおかしな点もある。ミレニアムを補充して並べるべきスペースがもはや棚には残っておらんではないか……。穀物価格高騰のあおりを受けているのだろうか…ああ!

失意の私はそのまま何も買わず店をあとにしました。予期せぬ別れでした。いつだって別れは突然にやってくるものです、さよならを言うこともないままに……。


悲しみに暮れる数週間を過ごした後、私はふと気になって久しぶりに Shop99 へと足を踏み入れました。もしかしたら、という望みを抱いて。
すると、そこにはありました。たしかに、ミレニアムが! ああ、復活している! 良かった! まだ食べられるんだ!
再会の喜びはひとしおです。思わず写真に撮ってしまいました(それが上の画像)。さっそくコーヒーをいれて、食べました。あー、痺れる!


しかし、こんな平和なことをいつまで考えていられることでしょう。そのうち私の好きなものが本当に手に入らなくなるかもなあ。やっぱ農学をやっておくんだったかな。穀物価格とバイオ燃料開発の関係が気になる今日このごろ。



『幽霊殺人』

2008年04月22日 | 読書日記ーストルガツキイ
ストルガツキー兄弟 深見弾訳(早川書房)

《あらすじ》
警察監督官、ピーター・グレブスキーが二週間の休暇にやってきた山小屋には、どこか尋常ではないところがあった。前年の事故で死亡した登山家にちなんで変えたというホテルの名《山の遭難者》の悪趣味もさることながら、泊りあわせた客たちの風変りさはまた格別だった。札束で煙草の火をつけわがもの顔でホテルをのし歩く大富豪モーゼスと、頭は弱いが絶世の美女の彼の妻、あたりかまわず自慢の腕を披瀝してまわる奇術師ドュ・バルンストクル、そのほかひとくせもふたくせもありそうな連中。そして、吸いさしの煙草をグレブスキーの部屋において、彼を歓迎する山の遭難者の幽霊。しかも、泊り客のなかに殺人者が紛れこんでいるという置き手紙が、無慈悲に彼の休暇を取りあげてしまう。破れかぶれで真相の究明に乗りだすグレブスキーの行手には、だが思いがけぬ事態が待ち受けていた!
英米に匹敵するSFの生産・消費国ソビエトは、近年その質的な面での急激な変化をとげてきた。本書は、そうした新しいタイプの作品のひとつとして、あくまでもミステリ仕立てのストーリー展開と、従来のソ連SFには見られない娯楽性をもつ、才筆ストルガツキー兄弟による意欲的長篇である。


《この一文》
“「裏切ったな!」おれは驚いて叫んだ。
「違いますよ、そうじゃありません、ピーター。理性的になってくれなきゃ。人の良心は、法だけじゃ生きていけないんです」  ”




ついに読了。良かった、面白かった!! 大枚をはたいて激レアのこの本を購入した甲斐があったというものです。あー、満足。

さて、ストルガツキーのこの作品は、本の裏表紙の紹介によると「ミステリ仕立ての」とある。なるほど、たしかにミステリー仕立てでありました。邦題は『幽霊殺人』となっており、どこからどうみても赤川次郎の『幽霊シリーズ』ではないですか。おそらく原題は『ホテル《山の遭難者》』という感じかと思われます。そのまま訳したほうが良かったのではないだろうかと、いらぬお世話なことをつい考えてしまいます。


雪に覆われた《山の遭難者》という名のホテルには、奇妙な客が滞在している。主人公がそこへ休暇で訪れると、次々と奇妙な事態に見舞われる。そんななか、ホテルと街とを繋ぐ唯一の道である《壜の細頸》と呼ばれる渓谷が雪崩によって封鎖され、さらに不幸なことに、客の一人が死体となって発見される。犯人は誰だ――?

うむ、あらすじだけ見ればたしかにミステリーです。もしもこれがストルガツキー作品だと知らなかったならば、豪華でロマンチックな文章を愛する私などは、

「おれは車を止めて外へ出ると、サングラスをはずした。」

なんていう似非ハードボイルドな感じで始まる小説なんかは読む気にならないだろうところです。しかし、そこはやはりストルガツキー作品だけあって、私の文体の好み云々は問題にならないくらいに、物語は魅力的なのです。

結局のところ、この物語がミステリだろうがSFだろうが、どちらでも構わないのです。ここには、いかにもストルガツキー作品らしく、奇妙な人物がこれでもかというくらいに登場します。そして、奇妙な名前のホテルで繰り広げられる事態もまたとても異常なものなのです。さらにまた、多くのストルガツキー作品においてみられるように、この主人公の警察監督官グレブスキーもまた、「正しさ」というものを選び迷うことになります。彼はつねに正しいことを選択したつもりでいるのに、どうしてだか疑念や後悔に襲われることもある。守るべき正しさというのは、いったいどういうものであり、またそれはどこにあるのか。
私はこれだからこの兄弟の物語が好きだ。

あとがきで深見さんもおっしゃっていましたが、この物語の舞台はどこの国であるのかが明確に示されていません。ストルガツキーはソ連時代の作家ですが、その批判の精神は必ずしもソ連のあり方にのみ向けられたのではなく、より広く人類全体、過去だけでなく現在にも未来にも適応されるような何か普遍性をもっているように、今回もやはり考えさせられました。ミステリ仕立てで軽めの内容にもかかわらず最後にはそのように考えさせるあたりは流石。

まあ、細かいことを考えなくても、私はミステリ風味のストルガツキー作品を読めたというだけで十分満足ですよ。欲を言えば、もうちょっと派手にやらかしてくれても良かったかもしれません。


『不思議惑星キン・ザ・ザ』

2008年04月21日 | 映像
ソ連 1986年 135分

《あらすじ》
パンを買いに出た建築技師は、街角で異星人らしき男に出会ったはずみで、バイオリンを持った学生とともに地球から遠く離れた惑星へ飛ばされてしまう。どうにか地球へ帰ろうと、二人は砂漠の惑星で悪戦苦闘を繰り返すが――。

《この一文》
“おめー馬鹿か? オレンジと緑は全然違うだろうが。 ”



正直に言って、これほどに完成された映画だとは、観る前には露ほども思っていなかった。衝撃。なにこれ、超凄い。

えーと、何がそんなに凄いって、もう何もかもが凄いです。「135分かー、なげーなあ」と思っていた私、表へ出やがれ! 始まるなり目も耳も釘付け、あまりに凄すぎて、各所の笑いどころにも十分な反応を示すことができません。気が付けば劇終。なんという傑作!

しかしまあ、ここまで衝撃を受けるかどうかは好みによると思われますが、実際私はかなりの衝撃を受けました。やっぱロシアにはかないませんよ(監督はグルジアの人らしいですが)。映像もストーリーも音楽も何もかもが私のツボに入りまくりですよ。もうだめだー。わあー。一分の隙もありやしない。わああ。

うーむ。これはもう一度観たいなあ。いや、一度と言わず何度か観たい。DVDを買おうかな。


この面白さをいったいどのように表現したら良いのでしょう。とにかく、絶妙な間抜け感を漂わせる音楽、完全無欠の造形美、砂漠の荒涼感、地下道のロシアらしさ、無駄のないストーリー、強烈なキャラクター、どこをとっても最上級品なのです。すげーな、こりゃ。

特にストーリーは一切の無駄もなければ余分もないという感じです。130分超という時間を流れるようなスピードで進んでいきます。あの結末の鮮やかなことと言ったら! 

そして、各所にロシアらしい笑えるような笑えないような笑いどころも満載です。バイオリンを弾けない「バイオリン弾き」、よりによってマッチがこの星の高級品、謎めいた身分制度があり「赤ステテコ様」が一番偉かったり、それから、それから。
どうしてこんなに上手く間抜けさを表現できるのでしょう。しかもこの間抜けさというのが、もっと突き詰めると意外と深くて鋭いメッセージとして捉えることも出来そうなところが凄い。すごいなあ。表現とはこうありたいものだ。

私などは圧倒され過ぎて、もしかしたらまだよく把握できていない箇所があるのではないだろうかと気になって仕方がありません。もう一度観たい。買うか。何という名作だろうか。


プロフィールを入れませんか

2008年04月20日 | 同人誌をつくろう!


同人のみなさま、こんばんは!

今さら! という気がしなくもないのですが、先日同人のkajiさんからとても冴えたアイディアをいただいたので、間に合うかどうか心配しつつも一応みなさまにもご意見を伺いたいと思います。

実は、先日お知らせしたみなさまの作品扉の裏のページを、「白紙のままにする」か「そこから本文を始めてしまう」か悩んでおりました。するとkajiさんから、「裏にはみなさんの簡単なプロフィールを入れたらどうでしょう?」というナイス・アイディアをいただいたわけです。
わ~、冴えてる!

というわけで、私としては是非とも採用したい案なのですが、いかがでしょう? 言われてみると、どういう方の作品が掲載されているのかが少しくらいは分かった方が同人誌らしくて良いですよね。思い付かなかったーー!

早速、このくらいの分量でどうでしょう?というサンプルを作りました。
(クリックで別窓&拡大)


   ↑これ の裏が これ↓



私の場合はとくにアピールすることが思い付かなかったので、適当に埋めてみました。ついでに、宣伝用にこのブログの URL を入れてあります。
なんとなく同人誌っぽくなったのではないでしょうか。


いかがでしょう?
お忙しいところへまたまた追加で申し訳ないのですが、ご意見をいただけるとありがたいです。
よろしくお願いします~!!




トマト

2008年04月19日 | もやもや日記

別に何の意味もありませんが、トマトの絵を描きました。
ちょっと疲れているのかもしれません。
疲れてくると、何か色のはっきりした果実が食べたくなります。
なので、きっと今晩にはトマトを食べることでしょう。


「荷物の中に入れてあった林檎一つを家内と半分宛(ずつ)食べて」
「林檎半顆(はんか)だけ」
  ――(『新方丈記』内田百間)

百間先生の随筆を読んでいると、普段はなかなか目にしないような美しい日本語が並んでいるので気持ちが良かった。空襲で焼け出されて住む家も失った直後にも、この人は美しい言葉で物事を描き出す。でも辛くて読んでいられなかったので、途中で止めてしまった。




『すばらしい新世界』

2008年04月18日 | 読書日記ー英米
オルダス・ハックスリイ 松村達雄訳
(「世界SF文学全集10」早川書房)

《あらすじ》
「中央ロンドン人工孵化・条件反射育成所」では、階級ごとに選別された胎児が安定的に大量生産されている。この文明世界においては人々は「共有、均等、安定」のなかにあり、人工孵化は人々を「単なる自然への奴隷的模倣」であった妊娠・出産に伴う家族関係から解放し、彼らはまた病も老いも死をも恐れることなく幸福に暮らしている。
そこへあるとき、不幸とも言える偶然によってこの文明社会に、上流階級の男女を「両親」に持つ青年が現れ――。


《この一文》
“しかし、一たん目的観的解釈を認め出せば――いや、その結果がどうなるか、しれたものでない。それは、上層階級の思想堅固ならざる連中の条件反射訓育をただちに台なしにするおそれのある思想である――彼らをして至高善としての幸福に対する信仰を失わせ、その代りに、目標はどこかはるか彼方に、現在の人間世界の外のどこかに存すると信じ込むようにさせ、人生の目的は幸福の維持ではなく、意識の何らかの強化と洗練であり、知識のある種の拡張だと信じさせるようになるかも知れない。多分その考えが正しいかも知れないのだが、と所長は思うのだった。しかし、現在の状況ではそれは認めるわけにはゆかぬ。 ”





絶句。

思考の混乱。

どう考えていいのだか、さっぱり分からない。ただ、暗いひとつの考えがあまりにはっきりと頭に浮かんでくる。ひょっとしたら人類は幸福というものには……。だめだ、うまく考えられない。私は深いところではたぶん、この恐ろしさの源を理解しているのだろうけれど、どうしてもそれを取り出してみる気になれない。きっと耐えられないような気がする。

読む前からある程度は分かっていたつもりだったけれど、なんという暗鬱な物語だろう。なにが暗鬱かと言うと、人類の幸福なんていうものは、どこにもないのじゃないだろうかということを考えずにはいられないのです。いや、どこにもないと言うよりはむしろどうにでもなるもの、それは単なる条件反射、刷り込み、いくらでも誰かの思うがままに操ることが可能なもの。しかも、思い込みだろうが洗脳だろうが、それで実際に幸福感を味わえるとしたら…。そんなのは間違っていると、偽物の幸福に過ぎないと、果たして言い切ることができる人間など本当にいるだろうか。

かりに造られた幸福感を偽りのものだと断ずるとして、「真の幸福」を得るために時々持ち出される「苦痛」や「煩わしさ」というものの必要性。だが、こういうものは何故必要なのだろうか。幸福と、いったいどんな関係があるのだろうか。「苦しみを乗り越えてこそ幸福な未来が得られる」というようなことが時々叫ばれるけれど、果たしてそうだろうか。それはそれで重度の思い込みではないだろうか。だって、どこにも根拠や関連を見いだすことができない。そもそも「未来」などという何の当てもない時点を持ち出すこと自体、壮大な誤魔化しの臭いがぷんぷんする。

幸福というのは何だろうか。私たちはなぜそれを求めなければならないのか。与えられることと、獲得することとにどんな違いがあるというのだろうか。「幸福感が感じられる」という結果が同じだとすれば。

分からない。

例えば、全ての人がいつまでも若々しく健康で、自らの置かれた環境に満足し、汲み尽くせないほどの喜びと快楽を保証された世界に暮らせるとする。人々はもはや誰かの「親」であったり「子」であることを止め、独立した個人として存在しつつ、社会全体の一部でありそのために自分に最も適した場所で働く。人口は安定的に維持・管理され、完全に階級分けされた人々はもはや無意味な競争にさらされることも他者を抑圧することもなく最大限の幸福の中に暮らすことができる。そして、そのことを誰一人疑問にも思わないで受け入れている。
率直に言って、私にはこれがうらやましいと思える。誰だって病気をしたくないし、できることなら老化や死の恐怖などを味わいたくないのじゃないだろうか。でもって、少ない椅子を取り合って、無いかも知れない能力があると信じて罵りあい、殴り合い、相手を引きずりおろそうとしないですむ世界。血縁という謎めいた関係性に縛り付けられては行動を制限され、謎めいた慣習や迷信に縛り付けられては活動を限定されることのない世界。これを幸福ではないと、どうやったら言い切れるだろう。

ところが、彼らがこの状況を受け入れているのはひとえに「徹底的な条件反射の植え付け」によるものだとする。とすると、「そんなのは嫌だし、非人道的だ!」という考えも出てくるだろう。幸福は人から一方的に与えられるものでも押し付けられるものでもない、洗脳によって得られる幸福感など偽物だ。そうかもしれない。苦痛や不安定というものがあってこそ、はじめて幸福の輝きが増すのである。血みどろの殺しあいを経てこそ、平和のありがたさが身にしみる。そうかもしれない。親子の愛情は何ものにも代えがたいものだ。子は親に育てられるのがもっとも幸せなのだ。そうかもしれない。
親子の愛情と言えば、こんな一文があった。

“ 総統は二十度パイプを突き刺した。するとちょびちょび出るけちくさい噴水が二十できた。
「わたしのベビーちゃん、わたしのベビーちゃん……!」
「母ちゃん!」かく狂気は伝染する。
「わが愛するものよ、たった一人の、大切な大切な………」
 母親、一夫一婦制、ローマンス。噴水は高く噴き上げる。ほとばしる水は猛烈な勢いで泡立つ。衝動はたった一つの吐け口しか持たない。”

“ 家族、一夫一婦制、ローマンス。至るところ排他主義、至るところ興味の集中、衝動と勢力を狭い通路に専ら流し込む。”

ともある。私はこれにぞっとしてはいけないと思いつつ、ゾっとなってしまった。ああ、だけどこんなふうに考えてはいけない。ここに「狂気」など見いだしてはいけない。だが、じゃあこれは何だ? 何故、血の繋がった自分の子を特別に愛することがこんなにも美徳とされるのか。何故、すべての子を同じように愛することができないのか。この排他主義というやつを無視することは私には難しい。こんなことを考えてはいけないのだろうか。いけないさ。何も間違ってはいないだろうから。
だが私は経験的に、すべての人が必ずしも自分の子だけを愛するわけではないと知っている。だからなおさら、この排他主義というやつを無視することが私には難しく思えるのかもしれない。

他人を押しのけなければ自らの存在意義を認めることが出来ず、戦争を体験しなければ人は平和に暮らすことは出来ず、また親に育てられなかった子は完全な幸福を得ることが出来ないのか?

本当にどうなのだろうか。一般的な感覚からみれば「当たり前」に思えるかもしれないが、結局はそれも人類が長いことかけてやってきた、最も効率的で効果的な教育という名の条件反射の植え付けではないだろうか。しかし、こういうことを考えてはいけないのだろうか。いけないかもしれない。不安になる。

こんな一文もあった。

“「不幸への過剰補償(ある欠点をかくそうとして、反対の特性を極度に誇張すること。精神分析学用語)と比べれば現実の幸福はかなり醜悪なものに必ず思えるものなんだから。そして、いうまでもなく、安定は不安定ほどには目ざましいものでもないから。それに、満足の状態というものは不幸との勇敢な戦いのような輝かしさも全然なく、誘惑との苦闘だとか、熱情や懐疑による致命的な敗北などのような華やかさも全然ない。幸福とはけっして壮麗なものではないのだ」 ”

停滞。
私はこれが恐ろしいのだろうか。そうかもしれない。だけど「何故それが恐ろしいのか」と問えば、何とも答えられない。何故。何が。


物語では、文明社会における人々の幸福観と、その社会の外からやってきた青年が持つ幸福観とが激しく衝突します。どちらが正しいのか。多分、どちらも……。要するに、幸福とは何かと言えばそれは「どのように教育され、何を教え込まれたのか」によって大きく左右されるものであり、正しいとか正しくないとかいう判断は下しようがない、ということだろうか。私はこの物語における文明社会の生活をうらやみつつも何か釈然としない気持ちを抱え、一方でその外からやってきた《野蛮人》である青年の主張するところの苦痛を克服してこその幸福、という考えにも納得できなかった。どちらも、何か、どこかがおかしい。けど、それが何なのかがどうしても分からない。


幸福とは何か、正しい社会とは、正しい人間とは、などということはどうだっていいと思いたいのに、私の気持ちはとめどなく沈みながら、もうこれ以上考えたくないのに考えるのを止めることができない。何故だろう。何が気に入らないのだろう。あまりの寄る辺なさに、ひどく不安を感じる。どうしてしまったことだろう。どうしたらよいのだろう。

ただひとつ言えることは、今の私にはまだ立ち向かえない。この物語に立ち向かい、そこから何か有用なものを得ることはできそうもない。私が今のところ得られたのはただ、重く沈む心と、青ざめた顔、冷たく震える手。それだけだ。





最近みた映画(その2)

2008年04月17日 | 映像

ここ1か月の間に観た映画。(その1)のつづき。


『東京ゴッドファーザーズ』


『パーフェクト・ブルー』『千年女優』『パプリカ』などなど、出す作品出す作品が注目される今敏監督のアニメーション。『東京ゴッドファーザーズ』はとても面白いらしいと聞いていたので、ずっと前から観てみたかったのです。で、結論から言いますと、これまで観たなかではこの作品が一番楽しい! 非常に楽しい映画です。実によく組み立てられた物語です。とにかく、全体的に明るく、爽快な疾走感があるのが素晴らしい。それに何と言っても、絵がきれいだし!

主人公たちは3人のホームレス。それぞれに悲しい過去を抱えていますが、そういう悲しさや侘びしさというものを語る彼らは、悲しいのだけれど自分でも「そういう自分ってちょっと間抜けかも」と思っているように見えます。私が思うに、真剣なメッセージを伝えるのに必要なもののひとつには、この「間抜けさ」というのがあると思います。そういう訳ですので、私にはこの物語がとてもストレートに伝わってきました。自分の間抜けさとか、人生の間抜けさとかというものを考えたなら、苦しみや悲惨にもちょっとは耐えられる気がする。いや、違うか。間抜けなものでしかない人生を、わざわざ苦しめたり悲惨なものにする必要はない。そう思いたい。

しかし、いやー面白い。もう一度観たい。

声優さんも豪華キャストで器用な方ばかり。主演の3人の役は江守さん、梅垣さん、岡本綾さんがなさっています。特に、岡本さんは異常に上手だったので、私はてっきりプロの声優さんだと思いました。

いやー、面白い。もう一度今度はクリスマスに観たいです。
(クリスマスからお正月にかけての物語なのです)




『マイケル・コリンズ』


アイルランドの英雄マイケル・コリンズの生涯を描いた歴史大作。
実は、私は史実ものが苦手…しかもアイルランド問題、暗そう……(/o\) と思いましたが、何となく見始めてしまい、何となく見終わりました。

やっぱり暗かった……!

まあ、でも観て良かったです。アイルランドの悲しい歴史の一端をうかがい知ることができましたし。1900年代当時、アイルランドはイギリスに統治されて既に700年、ようやく独立が実現しようとしたその時に活躍したのが、マイケル・コリンズです。波乱に満ちた彼の生涯が、たったの31年間だったということに、私は驚きを隠せませんでした。そして反省も。
人間の31年をどのように使うべきか、そういうことをちょうど私の31年が過ぎ去ろうとしている時に深く考えさせられるのでした。

そして、物語のなかではとにかく人間がばたばたと死んでいきます。ということはつまり、実際に当時のアイルランドではばたばたと人が死んだということでしょう。どのくらい歴史的事実に忠実な映画なのかは分かりませんが、イギリスと戦っていたはずのアイルランドの人々が、やがては仲間割れのために互いに滅ぼしあうようになるさまは、とても見ていられませんでした。

本当に、人類というのはほんの100年前にも意見の相違を乗り越えられず、相手を滅ぼそうという勢いでもって殺しあわずにいられなかったのです。そして、それは今でもそのまんまなのです。はあ。アイルランドの戦いは未だに終わってないようですしね。ということはもう800年になるのか。うーむ。




『ハリー・ポッターと炎のゴブレット』


そろそろみなさん、だいぶ大きくなってきました。ハリーは14歳という設定らしい。お年頃ですね。ですので、お年頃らしい物語の展開でした。ロンがいちいち拗ねるのです。昔は間抜けで可愛かったのだがなあ。大人になってしまうんだなあ。しみじみ。

変わっていってしまう。

まったくです。そういうのはちょっと寂しいものですが、年齢を重ねてみると、「変わっていってしまう」ことがはっきりと目に見えていたあの頃というのは、懐かしくもうらやましくもありますね。成長しているのを自覚できる(少なくとも肉体的には)というのは、うらやましい。

それにしても、私は原作を読んでいないためか、物語のところどころでよく分からない箇所に出くわしました。何となくは分かったけど、これはやはり原作を読んだ方がいいのかもしれません。あれだけの分量を2時間でまとめるとなると、どうしたって端折らなければならないのでしょう。それは仕方がない。
原作の方は聞くところによるとネガティブパワーが炸裂しているらしいので、ちょっと興味があります。面白いんだろうなあ。第一、【魔法学校】とかいうだけで興奮できるじゃないですか。いいなあ、私も入学したい。お城のような学校に寄宿したい。天井から無数の蝋燭が吊りさがっている食堂でお食事したい。ああ~。




ということで、わりと有名どころを重点的に観たので、だいぶ世の中の流れに追い付いたような気がしています。

ちなみに次に観るのは、『不思議惑星キンザザ』の予定。
カルトでどうも。