半透明記録

もやもや日記

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『神様はつらい』

2005年05月31日 | 読書日記ーストルガツキイ
ストルガツキー兄弟 太田 多耕訳(早川書房 世界SF全集24)



《あらすじ》

地球からある惑星に派遣されたアントンの使命はその世界の歴史的瞬間を内側から目撃することだが、血なまぐさい中世さながらの世界において虐殺されてゆく人々をただ傍観するだけの彼は苦悩しはじめる。



《この一文》

” ブダフは額にしわを寄せて、黙って考えこんだ。ルマータは待っていた。窓の外ではふたたび荷馬車が悲しげにきしり始めた。ブダフは小声でつぶやいた。
 「それなら、神様、私たちを地上から一掃してしまって、あらためて、もっと完全な人びとをおつくりください・・・・でなければ、いっそ、私たちをこのままに放っておいて、私たちに自分の道を歩ませてください」    ”




『収容所惑星』とほとんど同じ設定で、暗いです、重いです。悪とは何か、善とは何か。人間を人間たらしめているものは何なのか。例によってそんなことを考えさせられるお話です。
アントンは平和な地球から派遣されて来た歴史家で、人間という存在を疑いもなく愛していましたが、自分が知る世界とは全く違った苛酷な時代に生きる人々に出会って、自らの性質もまた粗暴な方向へと変化しているように感じ脅えます。人間の性質を決めるのは社会であって、あらゆる悪意あるいは善意というのは社会のバランスやその人の立場によっていくらでも現れ方が左右されうるのではないだろうかと感じます。ある人にとっての悪事というのは、別の立場から見るとそうでないことがあります。善悪の判断はその社会のルールに基づくものであり、必ずしも真理や普遍性などに結びつかないのではないでしょうか。そう考えると、自分の価値観を優れていると思い込んで押し付けようというのは、やはり危険であり、もしかしたら無意味でさえあるかもしれません。何かを思い込んだり信じ込んだりするのが恐ろしい。ひとりでひっそりと思っているならまだいいけれど、そのために手段を選ばないようになるのが恐ろしい。同じ時代、同じ土の上に生きていて、「君たちは間違っている!」なんて誰に断言できるというのでしょう。
絶望的な気持ちになってしまいそうですが、何もかも分からないから良いとも言えます。我々は「それは本当にそうなのか、あれはどうしてああなのか」とあらゆることに対して疑問を持つことくらいは許されているはずだと思うからです。疑いを持つということは強制力も攻撃力もない柔らかい行動であり、それは目に見えぬほどゆっくりとした動きでも、世の中のバランスを変える力となるかもしれません。私たちは何でも迅速に簡単に済ませたがるけれど、その道は急いでは通れない道なのかもしれないのです。
そんなことをついつい真剣になって考えてしまう深刻な物語でありました。


大阪城公園

2005年05月30日 | 旅の記録
5月某日 晴れ

13:00 梅田にて友人と合流

高校時代からの友人M嬢が大阪へ遊びに来た。会うのは半年振りである。1泊2日の滞在中、大阪観光のお伴をさせていただくこととなった。とりあえず昼食をとりながら、近況報告をしつつ今後の計画を立てる。この日はもう午後ということもあり、大阪城などをまわってみようではないかというとこで話が決まった。

14:30 大阪城公園

梅田から地下鉄谷町線に天満橋まで乗る。私は大阪に住むようになって1年以上も経つというのに、未だに大阪城へ行ったことがなかった。というか梅田と難波周辺しか行ったことがないという、案内人としてはほとんど役に立たない人間である。谷町線に乗るのだって初めてだ。そんなことを言ってM嬢を不安に突き落としたような気もするが、とりあえず駅を出て城を目指した。地下鉄を出ると、小学生の列が延々と角の向うから続いている。それで何となく、小学生のやってくる方角に城があるように思った。きっと遠足に違いない。あとで判明することだが、彼らは大阪城公園にごく近い学校から出て来たのであったが、まあ着いたのだから間違った判断ではなかったわけだ。小学生の列をひたすら遡ってお堀をぐるりとまわって、釣り糸を垂れている人を横目に、植え込みのシロツメクサの香りを嗅ぎながら、ようやく城に通じる坂を上がる。緑が美しい季節である。
大阪城に詳しい方はお分かりのことと思うが、我々は北側から入ったので、天守閣の真裏に架かる極楽橋を渡ることになる。橋の上で先ほどとは別の小学生の集団とすれ違う。男の子が「もう少しだぞ、がんばれー!」と声を掛けてくれた。我々はそんなに辛そうに見えるということなのだろうか。まだそんなに疲れていないつもりだが・・・。思わずM嬢と顔を見合わせた。
天守閣の方まで来ると、さすがに人が多い。修学旅行生が炎天下に並んで座らされている。上の方から声が聞こえるので見上げると、天守閣には登れるらしく、人影が見える。まずは1周してみようと、内堀に沿って歩いてみた。東側からは木が沢山植わった場所が見え、何だろうと言っていたら梅林だった。こうして見ると、ここは本当に緑が多い。大阪はあまり緑がないように思っていたが、ここにこんなにあったのか。
天守閣を観覧することにする。実を言うと私は高いところが苦手である。展望台や観覧車などには全く興味が持てないのだ。まあ、天守閣は資料も展示されてるし、と思い直して上がってみることにした。8階の展望台からは、ずっと遠くまで見晴らせた。視界の部分だけ安全ネットが切れているのが、親切だが私にしてみれば怖い。東西南北に見える建物の説明の写真なんかがあるが、「あー、あれが○○ね、うんうん」などと生返事をしながらひと回りした。ふー、危なかった。下りながら資料を見ていくが、どうしてだかいつもこういう資料というのは眠くなる。なんとなく眺めただけで一気に下りた。
天守閣で貰った公園案内図を正しく読めなくて、なかなか公園から出られない。帰りは裏口ではなく正面の桜門から出た。大手門なんかはいかにも門らしくて良い。大きな門をくぐるのは、どうしてこんなに楽しいのだろうか。

16:40 南堀江

大阪城公園を後にし、今度は谷町四丁目から地下鉄に乗り、大阪のお洒落ゾーンと言われる南堀江に行ってみることにした。もちろん私も行ったことがない。したがって、やはり中心地から離れたところに降り立ってしまった。人気のない家具屋さんが立ち並ぶ通りをてくてく歩く。喉が渇いて仕方ない。そういえばずっと休憩も取っていない。熱中症になってしまう。喫茶店を探すがなかなか見当たらない。オレンジストリートという通りを端から端まで歩いたところで、ようやく休憩した。夜は道頓堀のほうでお好み焼きを食べようと計画する。
ここから道頓堀までは歩いて行けそうだな、と詳しくもないのに見当を付けた。記憶と勘に従って歩いて行く。地図によるとアメリカ村はもうすぐそこらしい。そこへは行ったことがあるのだ。当たり前のことだが、一度通った道で迷ったことはない。(地下道は除く。迷いまくり)先日このあたりはKT様に案内していただいたので、真っ直ぐ道頓堀まで辿り着くことができた。心より感謝申し上げます!

18:00 「美津の」にて夕食

山芋のお好み焼きが激旨だった。もうひとつはモダン焼き。全然役に立てなかったのに、お礼にとM嬢に御馳走になってしまった。とても申し訳ないので、この間またまたKT様に教えていただいた「法善寺横町」へ案内することにした。もう日が暮れて、提灯に灯がついて趣深い。お地蔵様に水を掛けたり、細い路を通ったりして楽しい。

19:15 梅田

翌日は朝早くに待ち合わせて、UNIVERSAL STUDIOS JAPANへ行こう! というところで1日目終了。

帽子をつくってみた

2005年05月29日 | 手作り日記
日差しがまぶしいので帽子を作ってみました。
久しぶりに会った友人にはすぐに手作りとばれてしまいました。何故なのか。やっぱ少しクタっとしてるからでしょうか。もっと精進しなくてはなりません。人に出来て(既製品だってどこかのお針子さんが裁断したり縫製したりしてるんですし)私に出来ないことがあるはずがない!と思い込んで頑張ります。
コサージュは巨大な目玉のようで無気味になってしまいましたが、取り外しができるので安心です。とりあえず、直射日光を遮るという目的は何とか果たしているから、今回はまあこれでいいんです。あー、でも、こういう妥協がよくないんだよなー。それが私から色々な可能性を奪ってきたのではないかという問題の核心に触れそうになってきました。
暗い・・・、あ、もう夕方だ。

『ナインスゲート』を観た

2005年05月27日 | 映像
なんとなく『スリーピー・ホロウ』と区別がつかなかった『ナインスゲート』(ジョニー・デップさんつながりってだけですかね?)を観ました。
これが、面白い!
なんですか、これは! と久々に興奮してしまいました。あらすじは、ある悪魔に関わる本の真贋を鑑定するように依頼を受けたコルソ(デップ氏)。三冊存在するその本の内容は全て同じだと思われていたが、それぞれが少しずつ違っていることがわかる。人類を超越する力を得られるというナインスゲートをめぐるオカルトな物語。
本にまつわる物語だったのと、異世界に通じる扉が扱われていたりなどという点に惹き付けられました。本との出会いというのはやはり運命だよな~~、なんてしきりに頷いてしまいました。映画みたいに派手にはいかないけれど、本は私を押し上げてくれる偉大な力なのです。もっと真剣に読まなくては、そして考えなくては~。

とうとうこの手に

2005年05月26日 | 読書日記ーストルガツキイ
書店でも図書館でも見つけることができなかった『月曜日は土曜日に始まる』をついに入手しました。ありがとう、古本屋さん!
それにしても、群像社から出ているストルガツキイの本は、いまのところいつも表紙の絵は桂川寛という人に手によるもののようですが、この『月曜日~』の表紙が一番私の好みでございます。黄緑がきれい~。ロケットも飛んでるし。話も飛んでて面白いらしいです。登場人物のプリワーロフがいい。名前の響きが。『白鳥』のズルズマンソルも好きでしたけど。
ところで、まだこの本を読んでいません。あとがつかえていて、読むのはもう少し先になりそうです。でも、もういつでも読めるのです! 本が手もとにあるというのは、なんと幸せなことでなんでしょうか。うっとり。

きのこ三国志

2005年05月25日 | もやもや日記
夜10時からの「ガイアの夜明け」という番組できのこ業界の熾烈な争いを特集していました。普段何気なく安くておいしいと思っていたブナシメジやエリンギですが、過酷な値下げ競争で、雪国まいたけとホクトは大変そうでした。何事に付けても競争ばかりの世の中ですね。
もちろん雪国やホクト以外にも個人のきのこ業者もいるわけで、そういうところはもう競争に参加することさえできません。やっぱり安けりゃいいという消費者の態度にも問題があるんだなあ、としみじみしました。きのこをおいしく食べようと思ったら、それなりの対価を支払わなくてはなりません。今不自由なく食べている量を、山へ入って採ってこようと思っても、もはや不可能ですからね。しかし、そうはいっても一旦競争が始まると、値は下がっていくしかないんですよね。お店で安く売られているものに、それ以上の代金は支払えません。もしくはものすごく品質を上げて高級きのこに仕立て上げるという差別化も必要かもしれません。
争う2社の他に、タカラバイオというところが今度はホンシメジの生産に目処を付けたそうです。このホンシメジというのはおなじみのブナシメジよりも形が丸く大きく可愛らしい。一体どの業者が生キノコるのか? すみわけができるといいですねー。

写真はホンシメジを見て思い出したNHK教育で放送中の「カペリート」。鼻をつまむと(きのこのくせに)カサの部分が帽子になったりするのでした。シュールな話が多いので楽しい。

もやもやの「月曜日」

2005年05月23日 | もやもや日記
アマゾンに注文していたストルガツキイの『月曜日は土曜日に始まる』が2か月ほど待たされた挙げ句「確保できませんでした」という知らせがきました。
やれやれだぜ。
品切れならそう言ってほしいものです。しかも未だに『月曜日~』は注文可能で「4~6週間以内に発送」となっているし、大丈夫なんだろうか。確保できないなら品切れということは意味が違うんですかね・・・。
とにかく待っても無駄なことが分かったので、気を取り直して今度は古本を取り寄せることにしました。あとは古本屋さんから送られてくるのを待つだけです。いよいよ入手です!
それにしても、ストルガツキイがもっと爆発的に人気があったら、こんな苦労もせずに済むんでしょうね。がんばって布教しなくては~。

ムギムギ(苺ミルク味)

2005年05月22日 | もやもや日記
もの凄いインパクトのあるお菓子のパッケージを発見してしまいました。
とっても陽気な感じのイチゴのキャラクターがミルクを注いでいます。
はたらきものですねー。
それにしても、その笑顔が妙に気になります。
あ、よく見ると歯があるようにも見えるぞ!
こわいっ!
ちなみに私は生のイチゴは好きですが、イチゴ製品は苦手なのでした。

レース付きブラウスをつくってみた

2005年05月20日 | 手作り日記
誰しも一度は憧れる、レースがついたブラウスを作ってみました。
ちょっとまえ、NHKの「おしゃれ工房」で林マヤさんが着ていたプルオーバーのブラウスがあんまり素敵だったので、私も欲しくなったのです。
デザインはマヤさんのブラウスに似せたつもりですが、私は前をボタン開きにすることにしました。着やすいし。それと襟の部分は前からやってみたかったボータイにしてみました。
おおむね上手く出来たとは思うのですが、裾の始末はいまいちだったかもしれません。あとボタンも実はまだ付いていません。綺麗なアンティークのボタンをつけたいのですが、まだ良いのが見つからないのです。ボタンホールで失敗しそうな予感もあって、まだまだ油断はできませんが、今回はなかなか満足のいく仕上がりです。袖の広さや袖口のサイズもぴったりに作りました。
かなりロマン的。
ポーの一族みたい。(注:個人的イメージでお送りしております)

あとは似合うかどうかが問題なのですね。

『世界終末戦争』

2005年05月19日 | 読書日記ーラテンアメリカ
M・バルガス=リョサ 旦 敬介訳 (新潮・現代世界の文学)


《あらすじ》
突如現れた流浪の預言者。世界の終末を説く男は、たちまちにして貧困と飢えに悩む人々の心を捉える。人間の誇りと深い憎しみ、不寛容な戦いの壮大な叙事詩。



《この一文》

”「何十人も何百人もが死んでいっている」。クンベの司祭は通りの方をさし示しながら言った。「どうしてなんだ? ただ神を信じたがゆえにだ。ただ、神の法にしたがって生きようとしたがゆえにだ。またもや、無実の人間が虐殺されているのだ」        ”



19世紀末、ブラジル奥地のカヌードスの地にコンセリェイロ(預言者)率いる宗教集団が街をつくり始めます。
ブラジル共和国はこれを許さず、軍の大部隊を送り込みますが、共和国側の当初の思惑と反して、カヌードスの激しい抵抗に軍は壊滅的な打撃を受け、陥落までには1年という長い時間を要します。
ブラジルの歴史的事実だそうです。

人間にもっと寛容の性質が備わっていたら、世界は違う風に現れてくるのではないかと思います。
信念を持つことは美徳とされがちですが、信念を持つということは同時に自分の考えを尊重し、他者の考えは排斥することであるとも言えるでしょう。
つまり、信念が不寛容(他者を許さない心)と結びつくのです。
とくにその信念が社会構造に関わる場合には、激しい争いを生むことになるのかもしれない、とそんなことをひしひしと感じさせられる1冊でした。
もちろん、一番の問題は貧困なのですけど。
貧困や差別といったこの世界の不条理に説明を付けてくれるのが、たまたま宗教であっただけのことかもしれません。
神様を信じる人々がどうして憎しみあって殺し合うのか、私にはどうにもわからないでいたのですが、もしかしたら信仰と寛容ということは全く関係のないことなのかもしれません。
コンセリェイロのもとに集まった人々は、殺した軍の兵士を裸にして睾丸を切り取って口に詰め込み、木に吊るして鳥に食わせます。
正しく埋葬されない人間は地獄に堕ちると考えていたからです。
負傷した兵士には、傷口に潜り込む性質のある虫を送り込み、生きたまま内臓を食いやぶらせたりします。
カヌードスの人々はほとんど老若男女の区別なく戦いに参加し、徹底的に殺戮します。
それもこれも、彼らにとって最後の地を守るためなのです。
迫害され、ようやく安息の地を見つけ、ひっそり暮そうと思っていた彼らには、こんな奥地にまで攻め込んでくる共和国を決して許すことなどできないのです。
一方で、共和国はどうして彼らを認めることができなかったのか。
近代国家を目指す共和国は、新しい税制に反対し国勢調査にも参加しないカヌードスの街が次第に巨大化していくことに脅威を感じます。
共和国としては、人々を奴隷制度から解放し、不平等や無知から人々を救い出そうという理想もあるにはあるのです。
が、勢力争いによる仕組まれた不確かな情報のために、カヌードスの後ろには王党派やイギリスがまわっているに違いないなどの憶測が乱れ飛び、ついには討伐隊を派遣することになるのでした。
どうしたらよいのでしょうか。
死が人間にとっての究極的な恐れである限り、殺し合うことは止められないのでしょうか。
いつか段階を上がって結論が見えてくることを願います。
もうひとつの問題は我々がどちらが正しいかなんて知らないことでしょう。
ただ信じているだけだから、正義のためだと言ってはひどいことだってできるのです。

引用した部分は、七つの大罪を全て犯したジョアキン神父の言葉です。
彼はこの作品中で最も変化する人物のひとりで、脇役ではありますが、私はかなり移入してしまいました。
神父の彼は、酒にも女にもだらしなく、気さくではありますが極めて小心者でもあります。
その彼が、内縁の妻がコンセリェイロに従って出て行った日から変わります。
命がけでカヌードスのために武器を調達してきたり、最後には銃を取って戦いにも加わります。
何が彼をそうさせたのか、ただ信仰のためだけではないようでしたが、まだよくまとまりません。

他にも作中には魅力的に描かれる人物が多く登場します。
カヌードスに加わった人だけでなく、軍の人間の持つ理想や、ヨーロッパからやってきた革命家の考えなど、色々な立場から世界を描き出しています。
長くなるわけです。(約700頁、重い)
その他の人物に対しての私の意見も書きたかった気もしますが、やめておきます。
書いても書ききれない、物語の分量に劣らない厚みと深みを持った傑作でありました。