半透明記録

もやもや日記

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瑞典語

2005年08月31日 | もやもや日記
図書館で『語学王 スウェーデン語』というテキストを借りてきました。CD付きです。

とりあえず、アルファベットを聞いてみると、ドイツ語に近い感触。ドイツ語の「エスツェット」にもびびったけれど、スウェーデン語も負けてません。テキストの表記に従ってカナで表すと、「w」は「ドゥッブルヴェー」、長い! まあでも「v」が「ヴェー」なのだから、分からなくもない。「v」がふたつで「w」なんだな、と推測してみる。衝撃だったのは、「z」。テキストには「セータ」と書いてあるが、CDで聞くと「せやった?」と聞こえる。……関西弁っぽい? 発音してくれるお姉さんとお兄さんのどちらを聞いても「せやった?」(語尾が上がる。疑問形風)に聞こえる。う~む、「z」だけは完璧に覚えられたではないですか。

語学をやるのに、図書館でテキストを借りても、貸出期間中に習得できるはずもなく、ちゃんと自分でも買おうと思います。それと辞書だな。スウェーデン語の書籍なんかもあれば読みたいところですが。というか、そもそもこんなことを始めた理由は、スウェーデンの本が読みたいからなんですけれど。ラーゲルクヴィスト目当てなのは言わずもがな。それなのに、スウェーデンの書籍の入手方法が分からず、とりあえず英訳版を読んでしまおうかと惑わされています。(と言って、英語も不自由な私;だらしがねえ)

いずれにせよ、目的の本を読める日は遥かに遠いですが、人生には無謀とも思える挑戦をすべき時期も必要なのです。そして重要なのはそれを達成するかどうかよりも、思ったらやり始めることなのです。そうやって自分を励ますものの、出し慣れないやる気を絞り出しているせいか、妙にふらついている気もします、あるいは、それは今が私の苦手な季節の変わり目だからかもしれません。そう、もうすぐ秋です。学問の秋。が、がんばるのだ……がく…

オレンジのポストカードを作ってみた

2005年08月27日 | 手作り日記


この2人のネコがオレンジを見詰める場面は、これまでにも何通りか描いています。緊迫感があるようなないような感じを出したいのですが、今回もあまりうまくいったとは言えず……。ナイフとフォークでオレンジを剥くというのは、かなりの上級テクだと思うのですが、このネコたちは共同作業で成し遂げようというのでしょうか。謎です。中央の文字列の意味も、私にはどうにもわかりません。一体誰の発言なんだ? 謎は深まるばかりでございます。

『刑吏』

2005年08月26日 | 読書日記ーラーゲルクヴィスト
ペール・ラーゲルクヴィスト 山口琢磨訳(「ノーベル賞文学全集 11 フォークナー/ラーゲルクヴィスト」 主婦の友社)


《あらすじ》

人間の歴史とともに生き続ける首切人。彼は人間の救い難い悲惨さと蛮性を見つめ、苦しみ悩み続けた果てに、何を望むのかーー。


《この一文》

” わしこそおまえ方のキリストなのじゃ! 額に首切人の烙印をおされてはおるが。おまえ方のためにこの世につかわされたキリストじゃ!
 地には争い、人には悪意じゃ!
 おまえ方は神様を化石させてしまった。もうずっと前から死んでおる。じゃがわしは、おまえ方のキリストのわしは生きておるのじゃ。わしは神の力ある意志、神の息子じゃ。神様がまだ生きており、力があり、自分のやりたいことがわかっておった時分に、わしはおまえ方と一緒に神様が生み出し、造り出したものじゃ。ところで神様はこの世をどう始末するつもりだったのか。今では神様は玉座の上で、癩病やみみたいにボロボロに崩れてしまった。永劫の呪いの風がその灰を天の沙漠に吹き散らしておるのじゃ。しかしわしは、キリストのわしは生きておる。おまえ方が生きるためにじゃ! わしはわしの戦いの道を行く。世界中をかけめぐる。そうして毎日、血の中でおまえ方に救いを施しておるのじゃ。--しかもこのわしだけは、おまえ方は十字架につけることはできんのじゃ!    ”



私はかねてから、人間が真に共感し合うことができるのは、理想とか正義といったポジティブな考えにではなく、暴力や苦しみといったネガティブな考えに対してではないかと疑っているのですが、これはそんな私の気持ちを一層重くさせる悲惨の物語です。
「刑吏殿」は血の色の服を着た首切人で、額にはその烙印を押された呪われた存在として描かれます。人類の歴史が始まった時からずっと生き続け、彼が言うところの「刑吏宿舎」である人間の心の檻に閉じ込められ、絶え間なく無数の人間を処刑しています。彼自身はこの仕事にうんざりしているのですが、人類が存在する限りは自分には休息も自由も与えられないにちがいないと絶望しているのでした。物語は、中世と現代の二つの時代を舞台としていますが、共通するのは人類の無知と恐怖と暴力です。いつまでも愚かでい続ける人間。滅入ります。
しかし、ラーゲルクヴィストの作品にはよく出てくるのですが、刑吏とともに暮す貧しい身なりの女の存在にかすかな希望を見出すことができます。彼女は首切人が仕事を終えるのをいつも外で待つ、彼に対して唯一やさしく振舞う特別な存在です。ラーゲルクヴィストは、こういった素朴な人間に対して何か特別なものを感じているようです。彼等は常にすべてを受け入れ、すべてにやさしく、身を飾るものひとつ持たぬ貧しい身なりですが、呪われ苦悩に満ちた主人公たちは、神によってではなく、いつもこの素朴な人間によって救われることになるのです。ラーゲルクヴィストにとっては、これが神を信仰することができなかった彼のひとつの到達点だったのかもしれません。人間の心の中に存在する二つの魂。もしかしたら人間は自力で平安を得ることができるのではないか、絶叫のような激しい物語の中にそんなささやかな祈りのようなものを感じないではおれません。

8月19日(金) 花火大会

2005年08月25日 | 旅の記録
毎年恒例のお祭りの夜。海の町、生地(いくじ)で花火大会が催される。商店街には出店が立ち並び、海岸の堤防沿いには赤や白の提灯が長々と列をなしている。この日は夕方になって激しい雨に見舞われ、花火大会の延期が危ぶまれたが、19時を過ぎて雷もおさまり、無事開催されることとなった。

地元の友人M嬢とともに会場へ向かう。出店で焼そばなどを買い、浜へと向かう。娯楽の少ない田舎のこと、しかも年に一度の花火大会とあって、小さな港町にもの凄い人出だ。漁船が何艘も海へと出ていった。どの船も色とりどりの提灯をぶら下げて、すっかりお祭り仕様に飾っている。私も一度乗せてもらったことがあるが、頭上に花火が打ち上げられるのを見られて、迫力があって面白い。ここ生地の花火は海に浮かぶ船の上から花火が打ち上げられるのだ。浜からほど近いところに少し大きな船が2隻停泊していて、筒が並んでいるのが見える。M嬢と私は、互いに少し離れて停泊している2隻の中間あたりに席を確保した。M嬢はたいへん用意がいいのでシートを持ってきてくれている。7時45分、最初の花火が上がった。

どうやら大きな尺玉は左手から上がるらしい。そして小振りな連発ものは右手から。あっちを見ては、こっちを見、テニスの試合のように忙しい。言うまでもなく、花火は大変に美しい。花火を発明した人は本当に何という偉業を成し遂げたことか。スケールがでかいぜ。夜空を一瞬だけ彩る巨大な絵を描こうというのだから、その美意識にも参る。しきりに感服していると、近くに座っていた小さい女の子が、「月が出とるよ!」と叫んだ。振り返ると、雨上がりの雲の切れ間から山際に大きな丸い月が懸かっているではないか。何という美しさ。前方の花火、後方の満月。(恐らく満月だったと思う)

卒倒しそうな美しさにしびれていると、海上を2台の船が疾走してゆく。先頭には巡視船、続いて提灯を下げていない普通の漁船のように見える船の2台である。もの凄く飛ばしている。何だ、何だと見ていたら、いきなりすぐ目の前の海上で花火が炸裂し、火の粉は我々の頭上に落ちてきそうだ。「!!」 M嬢も私もあんまり驚いて声も出なかったが、しばらくして落ち着くと大変に盛り上がってきた。目の前で花火が爆発したぞ! 2台目の船から投げ落としているのかもしれない、と話し合う。それであんなに飛ばしていたのか。船は見物客がいるあたりを駆け抜けて、3、4発の衝撃を与えては皆を喜ばせていた。楽しい演出に拍手喝采。

最後はテーマ曲に合わせての連発。曲は何故か『スター・ウォーズ』。何故だ。だがしかし、とても盛り上がった。最近の花火は種類が多いなーとか、機関銃のような恐ろしい速さで打ち続けてるけれど一体どういう仕組みになっているのかとか、音楽にぴったり合わせているけどこれまたどういう仕組みなんだろうかとか、見所が多く楽しかった。赤や緑の花火が次々と上がって、祭りの盛り上がりも最高潮に達した。本当の最後に白い小さな花火が2、3発鳴って、花火大会は終了した。

花火、爆発する魂、一瞬の輝き。我々はどうしてこんなにも花火に惹き付けられるのだろう。花火見物というのは後には何も残らないけれど、残らない故にかくも洗練された遊びとなり得るのかもしれない。

大失態

2005年08月24日 | もやもや日記
久しぶりに立ち直れないほどのショックを受けた。
なんと昨日からBS2で海外ドラマシリーズ『名探偵ポワロ』の新作を放送していた。そのことに今気が付いた。遅過ぎる。もう4作のうち半分は放送終了しているではないか。最近はほとんどテレビを見なくなっていたのが仇となってしまった。……「ナイルに死す」(昨日放送)と「杉の柩」(今夜放送)か。見たかったな……。数年来、新作を待ち望んでいたというのに、この体たらく。まあでも幸いなことに残りの2作はまだ見られる可能性があるんだから良かった。「ホロー荘の殺人」には『シャーロック・ホームズの冒険』でワトスン役(2代目)をしていたエドワード・ハードウィック氏が出るようなのでちょっと楽しみだ。明日は台風が近付くらしいけれど、電波状況が悪くならないとよいのだが。くそ~、ついてないぞ!

いずれ再放送するだろうことは分かっていても、何となく落ち込む。今夜はきっと寝付けないような気がする。私はほんとうに度量が小さくて呆れるぜ。とにかく、NHKさん、は、早く再放送してください!

『詩人のナプキン』

2005年08月22日 | 読書日記ーフランス
堀口大學訳 (ちくま文庫)


《収録作品》

ギイヨオム・アポリネエル:「オノレ・シュブラック滅形」「アムステルダムの水夫」「詩人のナプキン」/アナトオル・フランス「聖母の曲芸師」/クロオド・ファレエル:「颶風」「冷たい恋人」「萎れた手」/メデロ・エ・アブルケルク「五寸釘」/フィッシェ兄弟「エステル」/アンリイ・バルビュス「三日月」/フレデリック・ブウテ「嫉妬」/モオリス・メエテルリンク「幼童殺戮」/アンリ・ド・レニエ「青髯の結婚」/ルミ・ド・グウルモン:「水いろの目」「ドンファンの秘密」/マルセル・シュオブ:「遊行僧の話」「モネルの言葉」/レイモン・ラディゲ:「ドニイズ」「花売り娘」/マルセル・アルナック「無人島」/ジャック・ド・ラックテエル「書物と恋愛」/アルベルト・インスゥア「いまわの夢」/ジョセフ・ケッセル「懶惰の賦」/ジャン・ポオラン「嶮しき快癒」


《この一文》

”ーー僕等が法を無視した以上、僕等は法より偉大であらねばならぬのだ。彼のプロメッテエを描くために、ファラシオスは罪のない一人の男を拷問にかけさせた、しかし彼がこうして描いたプロメッテエは傑作であった、ために後代は彼の行為を許したのである。しかるに彼の描いた画がもしも全ギリシャの賞賛を買わなかった場合にはファラシオスは単に一個の殺人者であったのである。  クロオド・ファレエル「萎れた手」より”



田舎のブックオフにてお宝発見。しかも2冊も。それがこの『詩人のナプキン』ともうひとつは『新編 魔法のお店』(ちくま文庫)です。欲を言えば、ちくま文庫ならホフマンの『ブランビラ王女』やC.G.フィニーの『ラーオ博士のサーカス』などもほしかった。ああ、大昔のあの時買っておけば…、くっ……愚か者め!

さて、考えてみると意外とフランス文学好きな私は、この『詩人のナプキン』もあまりの面白さに一気読みです。アポリネールは何度も読んでいますが、ラディゲは実は初めてでした。アンリ・ド・レニエは例によって美麗だし、マルセル・シュオブの深さも期待を裏切りません。「モネルの言葉」は一度読むだけでは理解不能です。深過ぎる。収録されている3分の2は未知の作家だったのですが、新しい収穫にとても満足しています。
特に面白かったのは、クロオド・ファレエルの「萎れた手」。美しいラブ・ロマンスというだけではなく、精神の気高さについても美しく描かれています。映画のように視覚的で疾走感があって楽しいです。
他にはフィッシェ兄弟「エステル」ーーなめし皮卸小売商フェルドスパ氏の帳簿から知れる恋物語。笑えます。「11月 10日 可愛いエステルの腰巻1ダアス……二百七十法(フラン)」とか。
それから、マルセル・アルナック「無人島」ーー船が難破して無人島に流れ着いた男と女。そこで寄り添って逞しく生きようと決意するのだが…。これまた笑えます。最後の二人の台詞が最高です。ぷぷ。
フランスの短篇小説は面白いんだなー、と再確認です。

『阿Q正伝・狂人日記 他12篇(吶喊)』

2005年08月21日 | 読書日記ーその他の文学
魯迅作 竹内 好訳(岩波文庫)


《作品について》

魯迅が中国社会の救い難い病根と感じたもの、それは儒教を媒介とする封建社会であった。狂人の異常心理を通してその力を描く「狂人日記」。阿Qはその病根を作りまたその中で殺される人間である。こうしたやりきれない暗さの自覚から中国の新しい歩みは始まった。



《この一文》

” おれは知らぬうちに、妹の肉を食わなかったとはいえん。いま番がおれに廻ってきて……
  四千年の食人の歴史をもつおれ。はじめはわからなかったが、いまわかった。まっとうな人間に顔むけできぬこのおれ。   「狂人日記」より”

” このときふと異様な感じが私をとらえた。埃まみれの車夫のうしろ姿が、急に大きくなった。しかも去るにしたがってますます大きくなり、仰がなければ見えないくらいになった。しかもかれは、私にとって一種の威圧めいたものに次第に変っていった。そしてついに、防寒服に隠されている私の「卑小」をしぼり出さんばかりになった。  「小さな出来事」より”

” 希望という考えがうかんだので、私はどきっとした。たしか閏土(ルントー)が香炉と燭台を所望したとき、私は相変らずの偶像崇拝だな、いつになったら忘れるつもりかと、心ひそかにかれのことを笑ったものだが、いま私のいう希望も、やはり手製の偶像に過ぎぬのではないか。ただかれの望むものはすぐ手に入り、私の望むものは手に入りにくいだけだ。
 まどろみかけた私の眼に、海辺の広い緑の砂地がうかんでくる。その上の紺碧の空には、金色の丸い月がかかっている。思うに希望とは、もともとあるものともいえぬし、ないものともいえない。それは地上の道のようなものである。もともと地上に道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。   「故郷」より”



学校の授業でもその名を習った魯迅の「阿Q正伝・狂人日記」。名作を名作と言われているというだけの理由で避ける習性のある愚かな私は今になってやっと読みました。古典文学に対しては大勢の人が好き放題に注釈を付け、解釈や批評をしたりするけれども、古典にはそのようなあらゆる埃を自ら払いのける力があることが、原典を読むならば必ずや分かるだろうというようなことを、イタロ・カルヴィーノが言っていたような気がしますが、まさに。
「狂人日記」でいきなりの衝撃。凄いです。私の妙な思い込みを一気に吹き飛ばしました。細かい断片をつなぎあわせた語りがずっと続きますが、とにかく切れ味が鋭い。なんだこの文章は。この人の文章(翻訳だけど。訳も上手いのでしょう)には印象的なものが多過ぎます。全ては引用しきれませんでした。物語の構成もかなり私の好みに合います。特に「小さな出来事」と「故郷」の2篇は珍しく希望を提示する展開も含めて気に入りました。しみじみと盛り上がります。「故郷」は昔、教科書で読んだような記憶があるようなないような感じの懐かしいお話です。自分のことを「迅ちゃん」と呼んでくれていた昔の幼なじみに久しぶりに会ったら「旦那さま!」と呼ばれた私の悲しみ。しかし、すり減り、打ちひしがれ、互いに遠ざかるばかりだった自分の世代では得られなかった新しい生活への希望を次の世代に見出そうとします。そしてここでは、希望というものを的確にあるものに例えています。

「歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」。

なるほど。希望を持つことは誰にでもできるけれど、それを達成する難しさや覚悟の必要性を感じさせられます。また同時にこの言葉にはとても励まされるところもあるようです。少数の人間でもずっと歩き続ければ、道は続いていくからでしょうか。いつか道は大通りになって、皆でそこを何の憂いも恐れもなく歩くようになるでしょうか。あ、涙が。

ただいま帰りました

2005年08月20日 | もやもや日記
朝夕の涼しさに秋の気配を感じるようになった故郷富山を後にし、夏が健在の大阪へと帰って参りました。暑い。

写真は実家の近所の農道です。
昼間だというのに、人っ子ひとり歩いていません。田舎は全くの車社会なのですね。市民プールまでの道すがら、徒歩は私ただひとり。田んぼの真中の道をひとりで歩く私は目立ちまくりです。言うなれば、見渡す限りの曠野にただひとつの縦軸として…。そうして、着いてみればプールは休館日でした。なんてこった。帰り道をとぼとぼと歩きながら、色々とつまらない写真を撮ってみました。そのうちの1枚です。
プールへは翌日、甥を連れて行きました。おかげでまともに泳ぐことはできませんでしたが、面白いものは見られました。甥の「おぼれる真似(ぶくぶくぶく…)」とか「ミンミン蝉が鳴きながらおぼれる真似(ミ~ン、ミ~ンぶくぶく…)」とか。しかし、本人を前にしては言えなかったですが、彼は泳いでいる時にこそまさにおぼれているように見えるのでした。はやく息継ぎが出来るようになるといいですね。私が幼児用プールの狭さにもめげずに泳ごうとすると、彼は「待って~ッ!」という絶叫とともに私の腰や足にしがみつくので、浮力を失った我々は真剣に沈んでいくのでした。水深1Mでおぼれたくはないものです。なんとか生還。疲れたけれど、楽しかったので、来年もまた行きましょう。

ピンタックブラウスをつくった

2005年08月11日 | 手作り日記
夏なので、暑いので、ノースリーブのブラウスをつくってみました。暑いという割にスタンドカラーだ~!
やってみたかったピンタックをこれでもかと入れてあります。布を少しつまんで縫い目を入れていきます。た、楽しい。後ろはボタン開きです。しかし、後ろ手でボタンを開け閉めするのは大変なので、スナップにしました。はじける恐れあり。気をつけなくては。はらはらブラウス。

明日は、愛・地球博へ行きます。名古屋に1泊し、岐阜経由でそのまま田舎の富山に帰る予定です。はー、人込みか…。がんばるぞ…。
というわけで、明日からしばらく留守にします。実家はネット圏外なので更新できません; 盆と正月にやってくるアナログ生活を満喫しようと思います。それでは皆様、ごきげんよう~~

散髪しました

2005年08月09日 | もやもや日記
髪を伸ばそうと頑張っているところなのですが、暑いし鬱陶しいので昨夜少し散髪しました。勘の良い方はこの先の展開にお気付きかもしれません。そう、私は自分で切ってます。友人にそのことを告げると大抵は「信じられない!」という反応です。驚きの内容が「ギザギザだから、そうじゃないかと思ってたけど、やっぱり!」なのか「現代女性としてあるまじき暴挙!」なのか、ひょっとして「プロ並に上手い!」なのかは分かりません。私は短髪ですぐに伸びるので、一月に一回は切らなくてはなりませんが、自分でやる限りは夜中に切りたくなっても大丈夫です。自分で切り始めて4年くらいになります。
あれはある冬のはじめのことだったと思います。髪を極限まで短くしたくなった私は美容院へいきました。しかし、担当になった女性は、私のような髪質では難しいと言います。まあ、確かに私の髪は一筋縄ではいかぬ堅さを誇っています。短いのは厳しいでしょう。しかし、短くしたいのだ! 何とか出来るところまでお願いしました。その美容師さんはフレンドリーな率直さと不躾を混同していたのか、「頭の形も悪い、変なところにつむじがある、短くするにはパーマを当てないと不可能、ついでに仮に長く伸ばしたとしてもこの髪ではきれいにならないですね☆」と散々の言い様ですが、私としては希望を叶えてもらうためですからおとなしく聞いておりました。そしてパーマを当てられ、整えられた私の頭はと言えば、つまりサザエの壷焼きに酷似していました。な、なんだこれは! 無理難題を言う私も悪いとは思いますが、似合わないにも程がある! 客の要望通りにするのが無理ならせめて似合う方向へもってゆく説得力と技術も必要なのではないのでしょうか。怒りやすいと定評のある私は例によって一気に怒りの頂点に達した訳ですが、もうどうしようもないので高い料金(パーマのせいだ、畜生!)を払い、呪いの言葉を吐きながら美容院をあとにしたのです。
そんなことがあり、口だけが達者な似非プロに金を巻き上げられるくらいなら、私は自分で虎刈りになることを選びました。さか恨みかもしれませんが。しかし、自分でやるようになってからは、最初から諦めているせいか、不満に思ったことはありません。虎刈りになることもありましたが、世の中の人は私の髪など気にしてません。そのうちにまた伸びました。そして今、私は完全に自由です。もう見なくても刈れます(危険)。次第に大失敗はしなくなり、無理と言われた短さを実現することも出来ました。わはは、ざまーみろ、美容院……! こうして、私は美容院と永遠に決別したのでした。
実のところ、一度自分でハサミを入れてしまうと、もう美容院には行けません。「あ、自分で切ったでしょう!」と怒られる(何故そんなにも全てを委せなければならないのかは分からないけれど)のがオチですから。4年も自分で切っている私など、恐ろしくてとても行く気にならないのです。そういうわけなので、私の髪型がどうも変だなと気が付いてしまった友人の方々、あたたかい眼をもって見逃してやってください。これは、私の輝かしい自由の証なのです。