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『あまりにも騒がしい孤独』

2017年06月12日 | 読書日記ー東欧

ボフミル・フラバル 石川達夫訳(松籟社)



《あらすじ》
三十五年間、「僕」は故紙に埋もれて働いている。地下室に積み上げられた紙の山を来る日も来る日もプレスしながら、出来上がった紙塊(しかい)を美しく飾り立てるのを楽しみにしている。これは、そんな僕のラブ・ストーリーだ。


《この一文》
“横になっていると、僕には分かった――マンチンカは望んだわけでもないのに、自分が思いもかけなかった人間になり、僕が人生で出会ったすべての人たちの中で、いちばん遠くにまで辿り着いたんだ。僕の方は、絶えず読書をして、本の中に何かの徴(しるし)を求めてきたのに、本たちは僕に対して陰謀を企て、僕は天のお告げをまったく得られなかった。それに対してマンチンカは、本が大嫌いだったのに、今あるような女性に――もっぱら本に書かれているような女性に――なり、そればかりか、石の翼で飛び立った。”



子供が生まれてからというもの、読書をする機会と気力が激減しましたが、そのなかで私がどうにか最後まで到達できる作家の一人がチェコのボフミル・フラバルです。この『あまりにも騒がしい孤独』が3作品目で、最初に読んだのはたしかずいぶん前になりますが『ポケットの中の東欧文学』(成文社)所収の「黄金のプラハをお見せしましょうか?」、次に読んだのは2年くらい前で『私は英国王に給仕した』(河出書房新社)でした。

フラバル作品の印象をあえて一言に言い切ってみると、「とても映像的な文章である」という感じでしょうか。まるで映画を読んでいるよう。
一人称で語られる文章は非常に読みやすく、またこの本のあとがきにも書かれてありましたが「物語の代わりに一連の面白い絵のような場面と状況が生じる」という独特の語りによって物語が成り立っています。グロテスクで冷たく悲しい描写のところどころに、鮮やかな美しい色彩が散りばめられているのも印象的です。なんていうかまあ、要するに、とっても私の好きそうな作家であると言うことですね。「黄金のプラハ~」(たしか結石を患ったおじさんが登場したかと記憶するけれど、全然違うかも。私の記憶は当てにならない;)ではあまりピンと来なかったのですが、次に読んだ『私は英国王に給仕した』(感想は書けず仕舞いですが、かなり面白かった)でハッキリと好きになり、この『あまりにも騒がしい孤独』では残りの作品も読めるならきっと読むことにしようと決心するに至りました。小説のスタイルもテーマも、そして多分翻訳も、非常に私の好きな感じなので読みやすいことこの上ありません。読みやすくもありますが、物語の結末にもたらされるあのドッとくる感情、あれをなんと言ったらいいのか分かりませんが、あの感じもたまりません。

作品の内容について感じたことを、うまく説明することは今の私にはできそうにありませんが、ただ、この人の世界と言うのは、改行なしの溢れてこぼれるような文章によって構成されているにも関わらずいつも奇妙なほどに静か、ユーモラスでありながら悲しく、みじめで孤独で汚れにまみれていながらもそこには確かに輝くように美しいものが見つかるのです。取るに足らない人間の一生を美しくするものがあるとするなら、それは何か。時として冷たい泥沼のような人生を歩まねばならぬとして、その一歩を歩ませる力となるのは何なのか。そういうことを問われているような気がします。


『あまりにも騒がしい孤独』というのは、廃棄される書物を解体しプレスして紙の塊を作り続ける主人公が日常的にたくさんの、多すぎる言葉に囲まれていながら、ほとんど誰からも顧みられることなく静かすぎる地下室の職場でひとりきりで夢を見ながら働き続けているようすをあらわす、素晴らしく印象的なタイトルでした。

『私は英国王に給仕した』も『あまりにも騒がしい孤独』もその他の作品も映画化されているらしいので観てみたいなあ。きっと私が読んだ通りの映像になっているに違いない。