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もやもや日記

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火花みたいな

2011年05月31日 | もやもや日記



よそのお宅の植え込みに、火花みたいな黄色い花が咲いていました。あー、花火みたい。


うちの集合住宅の敷地内ではテントウ虫を発見。



しかし、どうしても私の写真はピントが合わないんだなぁ。

アジサイも咲いてきた。
雨の季節ですね。






ところで、昨日のことなんですけど、突然歯の詰め物がころりと落ちました。歯磨き中に、そこに無いはずの大穴(というほどでもないけど)を発見してびっくり。慌てて口内を捜索したところ、小さな金属片が見つかりました。

びっくりしましたが、よく思い出してみると私は月曜の夕飯時に、ガリッと何やら小石のようなものを噛んでしまい、その時に歯が割れたのではないかと思ったんです。でも、その時点ではなんともなかった。

さらによく思い出してみると、私はもう何年も前にも同じように何か固いものを齧っていて、実際に歯が少し欠けたんですよね。貝殻のような小さな歯の欠片を見てヒヤリとしたのを覚えています。でもその後、何度も歯科の定期検診を受けていて、そのたびにその欠けについて相談しようかしらと思いつつも忘れ、先生も何も言わないし、そのままいけると思っていたんですねー。昨日取れた詰め物は、その少しだけ欠けていた歯に詰まっていたものでした。それが、昨日で来るべき限界を迎えたわけだ。長い道のりでしたね。


さて、私はその取れた詰め物をしばらく眺めていたのですが、ずいぶんと大昔に詰められたものであった気がします。まだ子どもだったころのものだと思う。少なくとも20年くらいは私の一部をなしていたのかと思うと、しみじみしてきますね。



歯のことを思っていると、この本を読み返したくなる。
『歯とスパイ』
歯の1本1本にまつわる思い出を描いた小説です。おもしろものかなしくて、私は結構好きなんです。










残骸スコーン

2011年05月30日 | もやもや日記

チョコ入り。





昨日は大雨でした。遅めの朝食に、ホットケーキミックスを使ってスコーンを作ってみたのですが、なんか微妙な出来上がりでした。ちょっと牛乳を入れ過ぎたかな、そして生地を練り過ぎてしまったかな。K氏には「残骸みたいね」と言われた。(ヽ´ω`)ふっ、そうですね。


天気が悪くて、おまけに日曜日だったりすると、なんとなく機嫌も悪くなったりしますよね。嫌だわー。どうしてなんだろう。『月曜日は土曜日に始まる』みたいに、曜日なんて関係なく、当たり前のことのようにいつでも自分の仕事に楽しく取り組むことができればいいのになぁ。やるべきことから逃避したくなる心理って、ほんとうに不思議。いずれはやらなきゃならないってのにさ。で、逃避していることがまたプレッシャーになって不機嫌になるのです。うーん、どうしようもない。


そんなクサクサしてしまった日曜日。でもDVDを借りて来たから楽しく観なきゃ! と言いつつ、途中で寝てしまいました……。最後まで締まらなかったぜ…(^_^;)







『ブラジルから来た少年』

2011年05月28日 | 映像
1978年 イギリス

出演:グレゴリー・ペック/ローレンス・オリヴィエ
監督:フランク・J・シャフナー
音楽:ジェリー・ゴールドスミス


《あらすじ》
第二次大戦から30年、世間からも忘れられかけた年老いたナチ残党追跡者リーバーマンのもとへ、南米から1本の電話がくる。通話相手のアメリカ人青年は、ナチスの残党がそこで結集し、秘密の恐ろしい計画を立てていることを突き止めたと言うのだが……。






いつも思うことですが、ヒトラーおよびナチスって、ちょっと悪く描かれ過ぎじゃないですかね。悪の化身とか、悪魔の申し子みたいに描かれすぎると、実際のところはどうだったのかと気になってしまいます。物語のキャラクターとして、そのように描くのにはたしかに魅力ある素材だということは分かるんですけれども。

私はなにも彼らを肯定するつもりはありませんが、酷いことが起こって、その責任を特定の誰かにすべて押し付けておけばいいや、自分たちは何も知らなかったし、ただの被害者だったんだ、それで片が付いた、あるいは相手を「悪」と断罪することによってさも自分が「善なる者」であるような錯覚、というふうな気配を感じることもあるわけです。そういうことは歴史が悲劇を証明している、のかもしれませんが、その「歴史」の信憑性って、どのくらいのものかな、と私などは思ったりもするんですよね。報道資料や個人の手記や発言の記録などは一面的で、あまり当てにならなかったりするということを、最近になって身にしみて感じていますしね。結局は誰もが好き勝手なことを、自分の都合のいいようなことを言っているだけではないか、なんてね。いや、それを検証するのが、そういうのを含めて検証したのが、「歴史」なのかもしれませんけど。膨大な情報のなかからどれを残すのか。そこには何の思惑も入り込まないものだろうか。とか。
事実をその通りの大きさで評価するのは難しい。物事の善し悪しを判断するのは、私には難しいのです。



それはともかく、この『ブラジルから来た少年』。上に書いたように、ヒトラーやナチの残党が登場します。ジャンルとしては、オカルトサスペンスとでも言えますかね。

南米に潜伏しているナチの残党は、ある計画を立てます。それは「2年以内に、ヨーロッパおよびアメリカで94人の男を殺す」というもの。「94人」という人数は正確ではないかもしれませんが、100人弱の男たち、その職業はだいたいが公務員で、年の離れた若い妻を持つ、ごく普通の男たちです。奇妙な計画でした。

ネタバレをしますと(ご注意ください!)、この奇妙な計画の目的は、この世界にふたたびヒトラーを再生させることです。ナチスの医師メンゲレは、潜伏先の南米の密林の中で、生前のヒトラーから採取した細胞から100体近いクローンを生み出します。生み出されたこどもたちは、各国の、特定の条件を満たす家庭の養子となるのです。遺伝的な同一性だけでなく、生育環境の同一性にもこだわっているあたりが、慎重なんですね。
そしてこどもたちが成長して父親との別離を経験しなくてはならない年頃になり、そのためのあの奇妙な暗殺計画だったというわけです。果たして、ヒトラーはふたたびこの世に飛び出してくるのだろうか。というお話。



この計画の目的が明らかになるところくらいまでが、ハラハラします。各地で目撃される問題の少年たちは、当然ながらそっくり同じ風貌ですが、その少年の風貌が非常に印象的です。よくこんな男の子を見つけてきたものだと、感心してしまいました。忘れがたい顔つきをしています。

それから、グレゴリー・ペックが医師メンゲレ役を演じているのですが、大スターの彼は、ただでさえ大柄で目立つ姿をしていますが、それにしてもスターのオーラが出過ぎていて圧倒的存在感を放っていました。すごい迫力。これぞ狂気。最後の場面なんかは凄まじかったですね。

そして、ローレンス・オリヴィエ演じるリーバーマン。この人の思想的バランスの良さが、このお話の肝でしょうね。リーバーマンは、過去の犯罪的行為は許さない、けれども、犯罪者の遺伝子をそのまま受け継いでいるがまだ何事も為していない者の、その未来までをも断罪しようという気はありません。この点については、私はもうちょっと深く考えたいところですが、いまのところ、まだ掘り下げることができていませんので、今後の課題としておきます。(でも……最後のアメリカで遭遇した「少年」のアレは犯罪ですよねー。仇討ち無罪? いやでも、犬、怖いわー……)



最後まで飽きさせない、見事な映画でした!









エレンブルグ

2011年05月26日 | 夢の記録




夢を見ました。起きてすぐに記録しておくべきだったかもしれません。すでに大部分を忘れかかっています……。が、ちょっと特別な夢だったような気がするので、覚えているところだけ記録。



************

有名な先生の講演会があり、参加者はすべて同じ宿舎に滞在することになっている。私も聴衆としてそこにいた。同伴者がいたと思うが、誰であったか覚えていない。そして、講演会のテーマや内容についても、思い出せない。ともかく、なにかの講演会があり、主役は著名な日本人の先生で、規模も大きく、世界中から人が集まってきていたようであった。


宿舎の広さはどのくらいのものかは分からなかったが、廊下のようにまっすぐで細長くて、片側の壁に沿って二段ベッドがずっと並んでいる。もう片方の壁にはテーブルと椅子が置かれていて、参加者たちはここで歓談している。


私も本を読みながら、誰かと楽しく話していた。そこへ、エレンブルグがやってきた。日本語が驚くほど達者だった(←夢だからね;)。エレンブルグは私の肩越しに、「君、それを読むよりも、せっかくこの会に来ているんだから、あの人のあの本(講演する先生の著書)を読みなさいよ」と言う。私がその時読んでいたのは、イリヤ・エレンブルグの『現代の記録』であった。

緊張している私は、ニコニコ笑いを浮かべつつも、「いえ、でも…」などと控え目な反論を試みていた。恐ろしい。夢のなかの私の大胆さには、我ながら、夢を見ながらも、ぎょっとなる。

エレンブルグは、少し離れた席に腰を下ろし、見下ろすようにしてしばらく私に視線を注いだ後、そのまま皮肉めいたような、あるいはなにか面白がっているような微笑みを浮かべた。

私の緊張感は極限に達し、読んでいた本をぱたりと閉じた。




*****************




おおむね、こんな夢でした。
この夢が特別である理由はふたつ。

ひとつには、具体的な人物が登場すること。今回はエレンブルグ。私の精神に深い影響を及ぼした人は、ときどき夢の中にも登場します。ラーゲルクヴィストが出て来たこともあった。あれも特別な夢だった。しかしあの人は一言も話さなかったし、私も到底話しかけられず、また目を合わすことさえ不可能だった。

ラーゲルクヴィストとエレンブルグが夢に出て来たのは、私が彼らの肖像を写真でみたことがあるせいかもしれないですね。


もうひとつの理由は、夢のなかの私が、私自身であるということ。いつもの夢がそうであるように、見知らぬ人たちのドラマを傍観するスタイルではなくて、主人公が私であるというのは、特別な夢であるしるしです。内容を忘れてしまったのは大失態でした。くそー。




夢のなかでも私が動き回れると、やっぱりこことそことは繋がっているんじゃないかって気がするんですよね。こういう夢を、私は何年に一度くらいしか見られないのが残念。







「死」

2011年05月25日 | 読書日記ーロシア/ソヴィエト


アルチバシェッフ
森林太郎訳(青空文庫)


《あらすじ》
医学士のソロドフニコフはある晩、特に用事もなかったのに思わず見習士官のゴロロボフの家を訪ねてしまう。ソロドフニコフは彼の人柄をよく知るわけではないが、普段から少し見下していたゴロロボフの口から、予想だにしなかったある深刻な問題が語られ始め――。


《この一文》
“ ソロドフニコフは歩きながら身の周囲(まはり)を見廻した。何もかも動いてゐる。輝いてゐる。活躍してゐる。その一々の運動に気を附けて見て、ソロドフニコフはこの活躍してゐる世界と自分とを結び附けてゐる、或る偉大なる不可説なる物を感じた。そして俯して、始て見るものででもあるやうに、歩いてゐる自分の両足を見た。それが如何にも可哀らしく、美しく造られてあるやうに感じた。”





天気予報によると、晴れるのは今日までで、明日からはずっと雨が続くんだそうです。そんな貴重な、晴れた、気持ちのよい日に、「死」なんていうタイトルの小説を取り上げるのはどうなのかというと、これはしかし、まさにそういう話だったのではないかと思うのです。


夜、ふと暗い考えが頭の中を横切ると、それはどんどん暗い方向へとめどなく進んで行ってしまって、なんだかもう死にたいとか、もうどうでもいいとか、どうせ人は皆死んでしまうのになぜまだ生きていなければならないのかとか、そんなことを考えてしまうものです。真っ黒な暗闇が身体ばかりではなく心の中にまで染み込んできて、そのまま飲まれてしまいそうになる。それを追いやろうとするには、私という存在はあまりにちっぽけなので、へなへなと萎れるような気持ちがすると同時に、むかむかと抑えがたい怒りのような気持ちも沸いてきたりします。ともかく、夜はそんなふうになりがちな時間帯です。


そうだ。
人は生れてしまえば、いつかは自分が死んでしまうということを分かっていて、毎日を過ごしている。死の恐怖を感じながら、それでいてそれがここまでやってくるのはまだ先のことだと、死ぬのは私ではなくてとりあえず今は別の誰かだと思いながら過ごしている。でも、死ぬ。誰も彼も死ぬ。それは明日かもしれないし、明後日、来月、来年、かならずどこかで死ぬ。死んだ肉体はしかし分解されて、私を構成していた原子はふたたび何かの物体に、何かの生命として再構成されるかもしれない。けれども、霊魂は? この魂は? ここで苦しみ悲しみ喜び楽しんだ、この魂はどうなるのだろう? 魂なるものが存在するとすればの話だが、それは、ぱっと虚しくも消滅してしまうのではないだろうか。そしてまたいつか人類が全滅してしまう日が来るとしたら、我々のこの建設も生産も、いずれはすべて同じように消滅してしまうのではないだろうか。だとしたら、これはなんだ? まるで消滅するために繰り返されているようにみえる、これはなんだ?



若い見習士官のゴロロボフは苦しみます。彼は生きたいと願っているのに死ななければならない。生きる能力があるのに、いつかは死ななくてはならない。彼はその死というものの暴力に、暴力をもって対抗しようというのです。

それを聞いた医学士ソロドフニコフは、職業柄、人間の死に慣れていたはずであったのに青ざめます。彼はそんなことを考えたことがなかった。死ぬのは当たり前だと思っていた。けれども、なぜ当たり前なのか? なぜ死なねばならぬのか? 己が死んでもすべては元の通りこの世界に残される。己以外のすべてはここに。己だけが消え去るのだ。「なんの為めに己は生きてゐて、苦労をして、あれは善いの、あれは悪いのといつて、他人よりは自分の方が賢いやうに思つてゐたのだ。己といふものはもう無いではないか。」

ゴロロボフの考えが伝染し、死の恐怖にはじめて対面したソロドフニコフ。ゴロロボフは自然の死という死刑宣告に対して、自殺という手段で打ち勝つつもりだと医学士に告げ、果たしてその通りに死んでしまうのでありました。



先に読んだ「笑」と同様のテーマを扱っています。
人はなぜ生きるのか。死ぬと分かっていて生き続け、生産し、建設し、苦しみに、喜びに、転げ回って、それが明日にも無へと帰してしまうかもしれぬというのに。いったいなんのために生きるのだろうか。気づいたら「生」へと引き摺り出されていて、あっという間もなく今度は「死」へと追いやられる。なぜだ。なんのためなんだ。この、されるがままにされるしかない「私」とはなんなんだ?


「笑」では、最後は登場人物のふたりが、死の、終わりの恐怖を、虚しさを、狂気のような笑いで追いやろうとするように笑って終わりました。私も彼らのように、自分がいずれ死ぬと知り、人類の歴史もまたいずれは終わるだろうと予想しながら生きています。その最後の日がすぐそこまで来ていると知れば、私だってきっと笑うだろう。でもそれは、死と、終わりとが、恐ろしいからというのではない。すべてが虚しくなるその不条理の、ナンセンスに笑うのではない。私はもっと違うふうに笑いたいと思うのであります。



「死」の医学士ソロドフニコフも最後は微笑みます。ゴロロボフの死はソロドフニコフに強い衝撃を与えましたが、夜が明けた。夜明けは美しかった。世界は美しかった!

この残酷さに耐えかねてゴロロボフは死んでしまったのかもしれませんが、彼の死がまるで何でもないことであるかのように、翌朝の世界は美しいものだったのです。太陽は美しく燃えるのです。ソロドフニコフは死の恐怖を認識したのと同時に、生きることの美しさもまたはじめて発見したのでした。

世界は美しい。


そうだ、人は死ななければならない。生きることがそんなにも美しくて素晴らしいというなら、ずっと生き続けることができればいいし、そうあるべきではないかとも思うのに、なぜだかそれはできない。そのことにはどうも納得できない。恐ろしいし腹も立つ。けれども、なんでもいい。「恐怖、憂慮、悪意、なんでも好い。それが己の中で発動すれば好い。さうすれば己といふものの存在が認められる。己は存在する。歩く。考へる。見る。感ずる。何をといふことは敢て問はない。少くも己は死んではゐない。どうせ一度は死ななくてはならないのだけれど。」

ここに、涙が滲むほどの感激がある! 生産も、建設も、関わらないでやってきた私はきっと何も持たず、したがって後には何も残さずに消え去るだろう。構わない。今、私に注ぎ込まれたこの感激があれば、それを感じられさえすれば、あとはどうでもいい。私はただの器でいい。ここへ様々のものを注がれる、しっちゃかめっちゃかに注がれる、絶望でも、悲嘆でも、恐怖でも、美でも、その歓喜でも、なんでもいい。器が満たされているとき、たしかに私は存在する。打ち砕かれるまで、注がれるだけだ。


私もいつかは死ぬ。それは恐ろしい。けれども実のところ私は、自分が死ぬことよりも私のまわりの人が死んでいってしまうことのほうが恐ろしい。その人を失って、それなのに続く世界を容認できない日が来るだろう(そして既に来ている)ことを怖れている。それは恐ろしい。けれども、皆いつかは死なねばならないのだ。なんてこった。


私はただの器だ。なんのためにこしらえられたのか知らない。空っぽのところに、好き勝手なものを注がれるだけの器。いつかは砕かれるだろう。けど、まだ砕けてないよ。私にはその意味が分からない。けれども、いつか、どこかで、誰かにはそれが分かるのかもしれない。私には分からなくても構わない。私はただの器でいい。ここへ様々のものを注がれる、しっちゃかめっちゃかに注がれる、絶望でも、悲嘆でも、恐怖でも、美でも、その歓喜でも、なんでもいい。器が満たされているとき、たしかに私は存在する。だから、打ち砕くまで、注いでくれよ!


明日すべてが砕かれます。あはは、そう、じゃあこれもみんなこぼれてしまいますね。けど、それなら、いまのうちにもっと、もっと! もっと!!!






ここに満ちた、朝と昼の、これを、少しでも器に残して置くことができれば、私は次の夜もどうにか越えられる。昼と、夜との繰り返しですね。

いつか私が打ち砕かれても、その翌日が何事もなかったかのように美しいものであったらいいな。いつか人類が地球全体が打ち砕かれてしまったとしても、その翌日(もう翌日という数え方はできないかもしれないけれど)の宇宙が何事もなかったかのように美しいものであったらいい。そんなことを思って、私は微笑みを浮かべたい。それが明日なら、私もきっと笑うけど、それはできればこんな微笑みであったらいいと思うのです。





********

アルチバシェッフの短編「笑」と「死」とは、こちらで読めます。

 *アルチバシェッフ「笑」:青空文庫

 *アルチバシェッフ「死」:青空文庫






ライブハウスに行ってきた

2011年05月24日 | 学習





5月22日の日曜日の夕方、アメリカ村にある「SUNHALL」というライブハウスへ行ってきました。この日のライブは3組のバンドが出演の予定。私はライブハウスなんて、ものすごく久しぶりに行きましたね! ドンドンドカドカという大音量のリズムが私の薄い胸板を震動させるので、心拍が止まってしまうのではないかと心配になりました。おお、これぞライブハウスの楽しみ。




6時半からの開演で、最初は「heliotrope」というグループ。正直に言って、私は聴くなりとても気に入りました。朝焼けのような夕焼けのような、爽やかな沈鬱さとでもいうような曲調は、私がすごく好きなタイプの音楽でありました。とにかく、若々しくて好感。青春っていいなぁ! って感じです。がんばってほしい!
演奏後には希望者にCDを無料配布しているというのでもらってきました(^o^)☆ 最後の曲が素敵だと思っていたら、それが入っていて嬉しい♪



2組目がお目当ての「ultimate」。カッコイイ系の音楽。私はあらかじめYouTubeでPVを観ていたのですが、やっぱり生で聴く方が断然いい感じでしたね。6曲のうちの5曲が、勢いのあるテンポの良い曲だったのですが、私はこういうのは結構好きです。ドカドカバンバングネグネするのっていいですよね(^o^)
ちなみにお友達の紹介で聴きに行ったのですが、メンバーの方々はみなさん気さくで勉強熱心な方ばかりで、ぜひともこれからバシバシ活動していただきたいところです♪
今回のライブでは、最後の曲がとくに良かったです。これはYouTubeですでに聴いていた曲だったので聴き慣れていたせいもあるのかもしれませんが、実際に目の前で演奏されるとまた違った感じがしましたね☆






3組目は「RUSTY」。ボーカル登場からしてインパクトがあって面白かったです! いや、面白がるところじゃないのかもしれないですが、でもとても面白かった(^_^) 首に2つも3つも羽毛のマフを巻いた、長めの前髪が目の上にかかって耽美な、そしてややコロッとした体型のボーカルが華麗に登場したのですが、この人の歌がめっちゃうまい…やだ、カッコイイ……! 曲も演奏も素晴らしくて、この日の奏者のなかでは、この「RUSTY」が一番上手だなと思いました。まー、私は音楽のことなどはサッパリ分からないわけですけれども…; でも、ライブ慣れしている感、というんですかね。お客さんと一緒に楽しもうという意志を強く感じて、そこにとても好感が持てました。楽しかった!





そんなわけで、久しぶりのライブハウス体験でした。なんにせよ、楽器が演奏できるって凄いな! と、これに尽きますね、私は。そういうのは見ているだけでも楽しい。生演奏が好きだし、情熱を持って楽しそうに何かに取り組んでいる人を見るのが好きです。なので、面白かったです(^o^)!







「笑」

2011年05月22日 | 読書日記ーロシア/ソヴィエト


アルチバシェッフ
森林太郎訳(青空文庫)




《あらすじ》
医学士は窓辺で死について思いをめぐらせている。彼は気持ちが暗くなってきたので、病院内を歩き回って、ゆうべ新しく来た患者の部屋へ入ってみたのだが――


《この一文》
“不思議はそこではなくて、別にあります。不思議なのは、人間といふ奴が、始終死ぬ事を考へてゐて、それを気の遠くなるまでこはがつてゐて、死の恐怖の上に文化の全体を建設して置いて、その癖ひどく行儀よくしてゐて、真面目に物を言つて、体裁好く哀れがつて、時々はハンケチを出して涙を拭いて、それから黙つて、日常瑣末な事を遣つ附けて、秩序安寧を妨害せずにゐるといふ事実です。それが不思議です。わたくしの考へでは、こんな難有い境遇にゐて、行儀好くしてゐる奴が、気違ひでなければ、大馬鹿です。”






無と、無の、その間に己の命があるのだとしたら、この一瞬間に過ぎない生命にはいったいどんな意味があるというのか。死がおそろしい。己の生も死も、永遠のなかで無限に繰り返されているだけの、ただそれだけのものだとしたら、己のこの生命にはいったいどんな意味があるというのか。それでも、己はここで悩んだり苦しんだり怖れたりしながらも生きて、そういった己の苦しみがあとからやってくる世代の役に立つだろうとも思う。けれども、しかし………。



とても短いお話です。ところが、興味深い点がいくつもある。私はそれについてよく考えてみようとしばらくうなってみましたが、もやがかかったみたいに、うまくいかない。彼らの対話の全部を秩序立てて考えてみることができない。でも、面白かったですよ。



物語に登場する医学士と入院患者との対話は、最後は笑いで終わります。彼らは笑うんです。彼らが怖れる彼ら個人の死の虚しさは、永遠ほども長い時間のなかでまた別の命として果てしなく繰り返されるというならば、あるいは、彼らが死に至るまでの考えや行動のわずかばかりでも次の世代へそのまた次の世代へと受け継がれていくというならば、それが確かなことならば、己の死はそこまで虚しいものでもないと思えたのかもしれない。個人が死に絶えても、人類としてはその生命をずっと未来まで、ほとんど永遠とも思えるほど先の未来まで繋げられるとしたら、この己の死がその一部であるならば、そこまで虚しいものではないのかもしれない。けれど、私が死ぬ、そして人類もまたそのほんの少し先の未来で死に絶えてしまうと分かっていたら? 地球上の生命の死滅の時が、もうそこまで迫っていると知ってしまったら?

それで、医学士と患者とは笑うのです。

私もまた笑うだろうか。毎日笑って過ごせば幸福でいられるようなことがよく言われるし、私もそう思うのだけれども、でも、どうして笑ってただそれだけで済んでしまうような気になるんだろう。あははと笑いさえすれば、物語だってそれでなにかうまくいったみたいにして終わることもできる。

楽しいから、面白いからといって笑うのは、すべていいことだと疑わなかったけど、でも笑うって何だろう。そら、痛かったり苦しかったりするよりも、楽しかったり面白かったりする方が気持ちがいいから、そういうときに出て来る「笑い」というものも肯定的に考えているのかもしれない。けれど、楽しいとか面白いとか、それってそんなによいことなんだろうか?

分からないことだらけのこの世の中で、笑って過ごすことだけがわずかに確からしいと信じてきましたが、それがそうではなかったらどうする? たとえば、この地上で、一生懸命に仕事をしたり、綺麗なものを造り出したり、大切に保管したり、遠くへでかけたり、あれをみて喜んだり、これを聞いて読んで楽しんだり、そういうことを美しいと私は思ってきたけれど、美しいと思ったのは、それらすべてが人類全体の財産となり、これからの世代をいつかはもっと美しいところへ連れて行く助けとなるだろうと思っていたからかもしれません。でも、たとえば、その人類が、自滅ではなく、宇宙の天体のバランスの問題で否応なくその破滅をすぐ先の未来で約束されているとしたら? それはたとえば数百年後とかで、私はその時にはもう生きてはいなくて事態を目撃することはないにしても、地球を丸ごと崩壊させる不可避の大事件がすぐそこにあると知ったら、私もやっぱり笑うんじゃないかな。

明日に打ち切られてしまうプロジェクトを、それと知らずに、明後日もその先も存続すると信じて打ち込むのは、ちょっと馬鹿げてはいないだろうか。いつ終わるかを知らないからがんばれるけれど、もし期待よりもずっとはやくに終わると知ってしまったら? 


私も笑うかもしれない。これは楽しいからだろうか、それとも面白いからだろうか。「狂気」の一言でこれを片付けられる? どうかな、どうだろう。



私もたぶん笑うと思う。けれども、その笑いはこのお話の結末でふたりが笑ったような笑いではなく、もう少し違った意味を含む笑いとなるのではないかと、今は、思っています。アルチバシェッフのもうひとつの短編「死」もまた「笑」と同じテーマを扱ったものですが、こちらの結末のほうが、今の、私には共感できるものでしたね。「今の」というのは、私も別の時期にはやはり「笑」のふたりが笑ったように笑うと思うからです。こことそこをいったりきたりしているからです。

というわけで、今度はもうひとつの短編「死」について考えてみるつもりです。アルチバシェッフ、面白いよ。青空文庫で読める森鷗外先生の翻訳は、どれも面白い作品ばかりでいいですね。しかし聞くところによると、鷗外先生はお話を翻訳する際に大胆に改変したりすることがあったといいますから(←どこで得た情報かはおぼろげ;)、アルチバシェッフの原作がこの通りであるかどうか私には分かりませんが、いずれにしても、「笑」と「死」とは、私には面白いテーマを持った作品であることには違いがないようです。

ふと思いついて蔵書を調べてみたところ、私はこのアルチバーシェフの『サーニン』を持っていました。アルチバシェッフってあんまり聞いたことないけど、結構面白いよね、とか思っていましたが、あっ、この人だったか!! 有名人だった…全然気がつかなかった…そして『サーニン』はまだ読んでいなかった……はぁぁぁ。

まあ、ともかく、次回(か次々回)は「死」について。







繋がらない日

2011年05月21日 | もやもや日記





いま、プロバイダを変えるとか変えないとかいう途中段階で、私のネット環境は不安定状態にあります。K氏におまかせしているので、どういう状況なのかはっきりとは分かりませんが、回線が繋がったと思うと突然切れたりして、どうもうまくいかず……。聞いたところでは、今はちょうどツナギの段階で、もうしばらくすると正式の環境が整えられるんだそうです。そうか、まあ私はいつも便乗させてもらうだけなので、切れても切れなくても、大人しくしています。


というわけで、ネットにあまり繋がらなかったので、昨日は先日K氏が読んで面白かったというアルチバシェッフの「笑」という短編小説(←もともとは私がK氏におすすめしたのだが、私は例によってキレイサッパリ内容を忘却していたので読み返した)について一日中考えて、「笑いってなんですかね? あのお話の最後の笑いって、いったいなんだったんだろう? そもそも人はなぜ笑うの?」ということでウンウン唸っていました。夜になってK氏にそのことを話したら「平和でいいですね…」と言われました。「はい」。


ゆうべは、私はどうしてもワインが飲みたくなって、夜になってから赤ワインを一本買いに出たのですが、それを飲みながらK氏と、さきほどのアルチバシェッフの「笑」と「死」について話し合いました。私はグラス一杯のワインですっかり気持ちよく酔っぱらってしまい、面白く語ったはずの内容を今朝はもうよく覚えていません。あはは、あはははは…ああ、こういうときにも、笑いが出てくるもんですね。笑うって不思議だ。


インターネット接続も、私の思考の接続も、うまく繋がらなかった昨日。そして、今日もまた同じように、すんなりとは繋がらなさそうであります!








くもり空に鳥影

2011年05月19日 | 手作り日記



バサバサバサ







グレーの綿絹の薄いセーターの腹の当たりにシミがあった場合にはどうすべきかしばらく考えました。洗濯してみても落ちない。気にせず着用を試みるも、やっぱり気になる。うーむ、うーむ。。。


悩んだ末に、今回はアップリケを縫い付けてごまかすことに決定です。


というわけで、私は朝から、まずは黒い花柄のチュールレースを鳥の形に抜き取り、セーターの前身頃のシミのある部分や何でもない部分にも、ちくちく、ちくちくと縫い付けていたわけです。ああ、首がいてー。


こういった作業をしているといつもの通り「好きな鳥のモチーフをのせれば、私は楽しくこのセーターを着られるようになると思い込んでいるようだが、果たしてそうなるだろうか? こんなことをして、いったい何になるというのだろう? この数時間を賃労働にあてれば、私はそれでちゃんとした綺麗なお洋服を買えるのではないだろうか…?」という疑念にさいなまれたわけですが、ソゴル氏の言葉を思い出しては、気力を振り絞って最後まで縫いつづけたのです。


 “たとえそんな確信に反して、じつはなにかとんでもない錯覚の
 とりこになっているのだとしても、そういう努力をついやすこと
 でなにひとつ失うものはないだろう。なぜなら、どのみちこのよ
 うな希望がなければ、生活のすべては意味をうしなってしまうだ
 ろうからだ。” -『類推の山』ルネ・ドーマル -


ですよね~。


さて、疑惑と疲労感とに耐えに耐えて、縫い付け作業は終了しました。前身頃だけでなく、左袖にもシミがあるような気がしたので、そこにもひとつ鳥影を付けました。さあさあ、これは単なる迷走だったのか、それともなにか甲斐のある努力であったのか……?

いちおうの出来上がり。↓





うーむ。どうなんでしょう。暗めのマリンテイストを意識してみたつもりですが、言わなきゃ「鳥」って分からんかな…(ヽ´ω`)ぐふっ

着てみた感じは、そう悪くないと自分では思いましたが、鳥の形が不鮮明ゆえに、
「あれ!? 腹のとこ、ゴミ付いてるよ!」
「どしたん!? 墨汁、こぼしたん!?」
とか言われても仕方ない感じかもな……(ヽ´ω`)ぐふぅっ





うん、まあ、でも、いい。

晴れていても、くもっていても、軽やかな鳥のようにゆこうじゃないか!

  


※その後、さらにセーター本体の形状も修正。
 脇と肩にシャーリングを入れることで、貧相な私の上半身に
 よりフィットさせました(´∀`)よし…着るよ! 着ちゃうぞ!









5月6日:京都散策

2011年05月18日 | 旅の記録






kajiさん、ユキさんとともに「茨木音楽祭」へ行った5月5日のすぐ翌日、今度は3人で京都へ行きました。


朝9時に阪急梅田のホームにて待ち合せ。私は諸事情(K氏が風邪をひいて寝込んでしまい、朝からあれやこれやを買いそろえなくてはならなかった…)のためにギリギリで間に合いました。この日もとても良いお天気です。

9時ちょっと過ぎの特急電車に揺られて、京都へ向かいます。5月6日は、連休の谷間の平日ということもあり、電車の中には出勤するらしい人の姿も多く見られました。京都までは4、50分で到着。



*イノダコーヒーの朝食

阪急の烏丸駅で降りた我々の目的は、相国寺の「若冲展」をみることなのですが、まだ少し時間が早い。というわけで、軽食でもとろうと、駅を出てすぐのところにたまたま見つけた「イノダコーヒー」の喫茶室へ入ることにしました。

イノダコーヒーは京都の街のあちらこちらでみかける有名コーヒー店です。私も何度か入ったことがあると記憶していますが、朝食は初めてでした。このお店のモーニングセットは、「モーニングセット」とは書いてなくて、そのままズバリ「朝食」としてありました。何でもないようなことですが、これがちょっとした衝撃。

「朝食」の中身は、小さな山型のトースト、卵焼き、ベーコン(←ここまでがサンドイッチになっている)、サラダ、ジャーマンポテト、フルーツジュース、コーヒー、という豪華セットです。お値段もお手頃で600円くらいでした。お得でしたわー! また、サンドイッチの可愛らしさには感激しました。こんな小さな食パンで作ると、サンドイッチも上品でいいものですね~。



*京都御所

イノダコーヒーでの朝食に満足し、ぼちぼち京都の街を歩くことにします。目的地の相国寺までは少し距離がありますが、時間はあるので、てくてくと北上しました。
烏丸通の途中には、コンビニのローソンが何軒もあるのですが、その同じローソンの看板のデザインが一つとして同じものがなかったのは驚きました。どれも控え目なデザインになっているところが、京都らしい、というところでしょうか。



京都御所まで来たので、せっかくだから中を散策することに。

桜がまだ咲いていた。


大きな木。あっちにもこっちにも巨木がそびえ立っている。


山吹。


こういう道が歩きやすい。


しばらく行くと、お花畑を発見。


黄色い、可愛らしい花がたくさん咲いている。



この黄色い花は、何という花か知りませんが、花弁の表面が、蝶の羽のようにつやつやとした光沢をもっていて、不思議な魅力を放っていました。私は黄色い花が好きだ。こんな花が咲き乱れる森で、木の上で歌をうたったりしていたら、狐が訪ねてきたりするんです…と、朝からメルヘンなことを妄想して、我ながら少し気持ち悪かったです;


*相国寺「若冲展」




京都御所を抜けると、同志社大学があって、その近くに相国寺があります。ここまで辿り着いてから気がつきましたが、私は以前にもここで「若冲」の展覧会を見たことがありました。あのときはもっと大がかりな展覧会だったので、ものすごい行列だったんだよなあ。

しかしこの日はちょうどいいくらいの混み具合でした。終了日間近で、しかも墨で描かれたものばかりで地味だからなのか、他のお客さんとぶつかることもなく、内部を好きなだけ、じっくりと眺めてまわることができました。

私は、葡萄のが好きですね。これは前にも展示してあったかと思いますが、やっぱり葡萄のが好きです。あとは、鶏の屏風。6枚くらいで対になっていましたが、どの鶏も異常にユーモラスな表情をしていて、ほとんど漫画でした。面白いなぁ。私には漫画にしかみえないけれども、この羽根の表現なんかにはきっと超絶的な技法が使われておるのだろうと思うと、またまた面白い。


*スマート珈琲店で昼食

さて、ひとしきり展示物をみて満足したので、1時間ほどで相国寺をあとにしました。今度は来たときとは反対の、京都御苑の東側を下って河原町まで行こうということになりました。少し空が曇ってきたかな? と見上げると、飛行船が一隻ぷかぷかと浮かんでいました。おお。

寺町通を下っていると、右手に素敵な珈琲店を発見しました。kajiさんはそういうことに詳しくて、このお店は「スマート珈琲店」といって京都では老舗中の老舗だということでした。表の看板にはランチもやっている旨が書いてありましたので、我々は「それなら!」ということで入ってみました。

入口からして、素敵なたたずまいです。


お食事は2階席で、階段と食堂はガラスで仕切られ、白い壁には薔薇の絵がかかっていたりします。そして「スマート珈琲店」のトレードマークがカップや包装紙、店内の壁や窓のあちらこちらに配置されていて、それがまた素敵な感じでした。

ランチメニューは、好きな料理を2つ選べるということで、私は「クリームコロッケ」と「ポークソテー」をお願いしました。結論から申しますと、たいへんおいしかったです! クリームコロッケとか、久しぶりに食べましたよ!! おいしい~。

単品メニューや、デザートのプリンなどもおいしそうでした(他のテーブルを横目でみていた…)。ここは是非また来たいなあ!

食後のコーヒーが、また美味い。



*街をぶらぶら歩き

朝食に続いて、昼食でも満足した我々は、京都の街を、上ったり下ったり、違う通りを何往復もして練り歩きました。疲れたけど、楽しかったです。今度はお買い物メインでも京都に来たい。あと、漫画ミュージアムにも久しぶりに行きたい。

街歩きの途中で、私はお土産に「林万昌堂」の甘栗を買いました。これがおいしいんです!



*河原町→梅田(大阪)→弁天町

ものすごく歩き回って、夕方になりました。そろそろ帰ります。
帰りも阪急で梅田まで揺られましたが、私はその途中でものすごい睡魔におそわれ、kajiさんとユキさんが楽しくお話ししているちょうど真ん中で、うとうとする始末。あと一歩で寝てしまうところで、大阪に到着。

大阪からは、環状線で弁天町まで移動し、「イナズマコーヒー」へ行きました。コーヒー店三昧の一日です。夜はお酒も出してくれるこのお店では、私は「Newton」という、リンゴ風味のビールを頼んでみました。マスターによると、このビールは変わっているけど飲みやすいのに、残念ながら注文する人は多くもないらしい。そしてマスターは、それを注文した私に、こんな可愛い物をくださいました。

ミニチュアの「ニュートン」ストラップ!


「ニュートン」は、ビールの苦手な私でも余裕で飲めるくらいに飲みやすかったです。ほとんどジュース! これは美味い! また飲みたい! いただいたストラップは、これだけでも可愛いのですが、底の部分を押すと、なんとピカピカ点滅して光る!! おもしろーい! わーい!!

などと盛り上がり、お料理(とくに唐揚げ!)やカップにたっぷり注がれたコーヒーがいちいち「うめー!」「うめー!」とか言ってたら、すっかり遅くなってしまいました。kajiさんとユキさんのお話も相変わらず面白かったですしね。早朝から夜中まで、私はたいへん愉快でございました(^_^)


というわけで、出かけまくった私の黄金週間。面白かった!!