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ストルガツキー兄弟

2012年11月22日 | 読書日記ーストルガツキイ




ボリス・ストルガツキーが11月19日に亡くなったそうです。兄のアルカージイ・ストルガツキーが没したのは1991年。先日ボリスが亡くなって、とうとうふたりともいなくなってしまったのか。悲しい。

私が初めて読んだストルガツキー兄弟の作品は『滅びの都』でした。当時はまだロシア・ソヴィエト文学(とくにSF)には全然馴染みがなくて、ザミャーチンの『われら』とブルガーコフの『巨匠とマルガリータ』を読んだだけのところだったように記憶しています。『滅びの都』は、そのあらすじがあまりに面白そうだったので、まず図書館で借りてみたのです。


 *『滅びの都』あらすじ

全人民の幸福を実現する実験のため〈都市〉では国家を捨てた人間たちが世界中から集まり働いている。人工太陽が明滅する〈都市〉の内部では、労働する人間に進化するはずのサルの群れが暴れ、赤い館に入った住民の連続失踪事件が起こり、急進改革派はクーデタで起死回生をはかる――。ごみ収集員から大統領補佐官にのぼりつめたロシア人アンドレイと過去の文書を読みふけるユダヤ人カツマンの都市=地獄めぐりを軸に、全体主義のイメージを脳裏にきざみこむストルガツキイ兄弟最期の長編。



最期の長編から読んでしまったあたりがいかにも私らしいところでしたが、この借りて読んだ『滅びの都』が面白かったので、その後続けてストルガツキー作品を借り、さらに借りるだけでは飽き足らず作品は手に入るだけ買い求めることになりました。

『滅びの都』が日本で出版されるにあたり、巻頭にボリスが日本の読者に宛てたまえがきを書いてくれています。

“しかし、この小説は切実な問題性を失っていないと私には思われる。現代の読者は(少なくともロシアでは)今ちょうどわれわれの主人公の立場に置かれているのではなかろうか。これまでの理想はことごとくかき消え、足元を支えるイデオロギーは消滅した、だがこれから先も何とか生きていかなければならない――ただ飲んで、食べて、気晴らしをするだけでなく、何か大切な目的を追求し、生きることのなかに何か気高いものを求め、食べるために働くのでなく、働くために食べるのでなければならない。だが何のために? われわれの世界はどこへ行くのか? それはどうなるべきか? またわれわれはどうなるべきか? ”



ストルガツキー兄弟の世界は実に刺激的で魅力にあふれています。『ストーカー』『収容所惑星』『月曜日は土曜日に始まる』『みにくい白鳥』などなど、大好きな作品がいくつもあります。私はここでたくさんのものを得ることができたと思っていますし、読み返せばこれからも多くを得ることができるでしょう。
どうもありがとう、どうか安らかに!





『火星人第二の来襲―或る常識人の日記―』再読

2011年11月18日 | 読書日記ーストルガツキイ

ストルガーツキイ兄弟 橋本俊雄訳
(群像社『季刊ソヴェート文学』1987年No.98 所収)




先週末にK氏と討論をしていて、…いや正確に言うと討論にはならなくて、彼が世の中とその未来を悲観してあれやこれや言うのに対して私がいつものように「どうして? どうして?」を繰り返すと、「君はそうやって《どうして?》と訊くだけで実に楽ちんだね。質問するにしろもっと論理的に具体的にしろよ」と言われただけでした。それで今更ながらに気がついたのですが、私は論理的に物事を考えることもできなければ論理的に物事を考えたいとも思っていないということなのであった。そういうわけで、その場は「そうかい、悪かったね」で流そうとしたというわけです。しかし私の「どうして?」にも答えられないようでは、君のその論理もそれだけ脆いものだと思うのだが…と、喧嘩になるから止めとくか。実際は止めませんでしたが。


それはさておき、K氏のネガティブな発言を聞いていて、私の脳裡に電撃的に思い出された物語がありました。それは、ストルガツキー兄弟による『火星人第二の来襲』という中編小説で、K氏の話の内容とは直接的に関わるかどうかは分かりませんが、彼の発言の一部はこの小説の登場人物の発言とピタッと一致していました。私はこの小説の細部を忘れきっていましたが、深層の私はどうにかそれを記憶していたようで、読み返してみたら「これか!」という台詞に行き当たって安心しましたよ。


K氏は、この世界をよりよい方向へ導くべき思想が現在には存在していない、今を生きる思想家や芸術家、あるいは発言力・影響力のある誰かがそれを示すことができていないということを不満に思っているようでした。時間が経過しているので、彼の真に言いたかったことからだいぶ離れているだろうことを怖れてこれ以上は書きませんが、彼の本筋からは少し離れるものの、その一部では大体こんなことを言っていたようです。そして私はこれに反論して、彼を不愉快にさせた。なぜそんなに急ぐの? こんなに大勢存在している地球人類の中から、今後も誰一人として次なる思想を生み出す人間が生まれてこないというなら、それはなぜ? 人類がそうやって何も見出せずに終わるとしたら、それは結構なことではないだろうか。それが避けようのない道筋で起こることならば、どうして逆らうの? でも、人類にはまだ時間が残されていて、未来のことは誰にも分からないのに、自分とその近い周辺から探し出せないからといって、なぜそんなに失望しなきゃいけないわけ? と訊きまくれば、まあ普通は気分が悪いかもしれませんね。私なら怒るわな。うむ、きっと怒る。


ともかく、『火星人第二の来襲』にも、同じような発言があります。似ていると私は思ったけれど、ちょっと違いましたかね。けれどK氏とのやりとりをきっかけに、私はこの発言を思い出したのです。


***************

“「何も言うことはないよ」――両手を広げてわしは言った。「私もありません」――また陰気な顔つきにもどったカローンはそう答えた。「残念ながら私も言う言葉がありません。何か言わねばならないのですけど。何か言わなければ我々なんか一文の値打ちもないんですがね」 ”


***************


カローンは新聞社の編集長であり、火星人による支配下に入った地球人類を解放するためにテロ活動を起こしますが拘束されます。そして、あまりにも理知的かつ理性的な火星人から、彼の野蛮で拙い攻撃性を指摘されつつ、あくまでも人道的に解放された彼は、そんな火星人に対してすっかりなす術を失っている状態です。

何かを言わねばならないのに、何も言うことができない。人類の未来について考えるとき、現在がずいぶんと立派で充たされているように見えるなら、あるいはどこかで誰かが苦しんでいるかもしれないが当面自分自身の人生はどうにかなりそうだと確信できたなら、それ以上なにか考えることができるだろうか? 考えるべきなのだろうか? 自分の人生にさえ満足できれば、それで十分なのではないか? 未来、どこか遠い世界、見知らぬ人々の「自由」「幸福」。私に何ができるというのだ。もう既に「誰かが」保障してくれるというならば。


苦しみや障害が目の前にあったとしても、こういうことを考えたり、言うべき言葉を見つけ出すことは困難ですが、もしも世界が一見して充たされているように感じられでもしたら、それはますます困難を極めます。

物語では、地球人類はある日突然に火星人の支配下に置かれます。しかし火星人の支配が始まっても、皆が怖れていたようなことはとくに何も起こらず、ただ青い小麦を支給されたためにパンやお酒の色が青くなったり、納税の方法がお金から「胃液」徴収という不可解な形式(文字通り「胃液」です。消化に必要なアレ)に変わったりするだけです。しかも「献液」した胃液を現金に換えてくれたりもします。
火星人の与えてくれるシステムはとても整然として公平であり、むしろ「胃液」を現金に換えられることに人々は喜ぶようになるのです。青いパンも最初はその色にびっくりしたけれども食べてみたらなんだかとっても美味しいし、胃液の分泌が活発になったおかげでますます現金を手にすることができるようになった、安心して暮らしていけそうだ。言うことは何もない。

しかし。人類は支配されている。火星人によって管理されている。人類は自然の頂点であることを止めてしまった。たしかに人々の人生には初めて平安と安定がもたらされたけれども、それは我々が自力で得たものではなく外から与えられたものにすぎない。これについて何か言うべきなんだろうか。どうだろう。私もここしばらくずっと考えてみたのだけれども、どうしても反論することができない。安定を願う人間がそれを得たというのに、それについて「なぜ?」とたずねることは躊躇われます。でも何か考えなくてはならないような気がするんだけれど…何を?



「或る常識人の日記」というのは、『火星人第二の来襲』の語り手である元教師のアポローンの日記のことです。カローンは彼の娘婿であり、これから年金をもらえるかどうかの瀬戸際にあるアポローンは、カローンの活動の悪影響で彼の年金のランクが下がるのではないかと心配しています。そのアポローンの台詞。

***************

“「カローンよ」――わしはできるだけ声を和らげて言った。「なあ、ほんの僅かの間でいいから、雲の上から罪深い地上へと下りて来んかね。人間にとってこの世で何よりも必要なのは平安であり、明日への確信だと考えてみることは出来んかね。そうであっても、何か恐ろしいことが起こるわけじゃない。お前さっき、今じゃ人間は胃液製造工場になってしまったと言ったね。それは大袈裟な言い方ってもんだ。カローンよ。実際にはどうやら反対のことが起こったんだ。生存の新しい条件に直面した人間は、この世界での自分の位置を確固たるものとする手段として、その生理的財産を利用するという素晴らしい方法を見出したんだ。お前さんがたはそれを隷属と呼んでいるが、理性的な人間なら誰でも、それは互恵的な通常の商取り引きだと考えている。いったいどうしたら隷属なんてことになるのかね? 自分は欺かれているのではないかと理性的な人間が既に自問をしている、それでもし実際にだまされているのなら、その人間は結局のところは正しい結論に到達するはずだ、それはわしが保障するよ。おまえ、文化や文明の終末とか言っていたが、そんなこと全くの絵空事だよ! おまえが何のことを言ってるか理解できないくらいだ。新聞は毎日出ているし、本の新刊は出ている。新しいテレビ映画は作られているし、産業は活動している……カローンよ! ええ? 一体何が不足だっていうんだ? 今まであったものはみな残されている。言論の自由、自治制度、憲法。それだけじゃなく、ラーオメドン氏の悪の手からも救われたじゃないか! やっとのことで、いくら相場が変動しても全く影響を受けない安定した、信頼できる収入源が与えられたんじゃないか」 ”


***************




人間は自身の人生を安定させる以上のことを考えるべきなんだろうか。人間の幸福がその人生の安定であるとするならば、それを約束してくれる存在がたとえ何者であろうとも、その意図がまるで分からず我々はただ利用されるだけの存在になるかもしれないとしても、もしもそこに我々の望む安定と安心があるのなら、そこで私たちにはまだ何か発言したり考えたりする余地は残っているんだろうか。人類の到達点というのはどこにあるのだろう。人はどこへ向かおうとしているのだろう。どこかへ向かおうとしているんだろうか? だとしたら、どんなことを選んで、どこへ進むべきなのか。なんだか色んなことが分からない。私の手には負えない。そういった場合、私はやはり黙るべきだろうか。いや、もう黙っているじゃないか。何も言えないではないか。私には問題点も何も見つけられないではないか。はあ…

そんなわけで、何も分からないし何も言えないということでもやもやして過ごしています。物語と違って現実の方は考えるべき問題が山積みになっているのに、やっぱり何も考えられないことに私もまた失望しています。けれども、私には無理だとしてもいつか他の誰かにひらめきが訪れるかもしれない。私には少しの論理もないけれど、まるで信仰のような希望がある。もしも世界にとって人類にとって必要ならば、かならずそれは生まれてくる。既に存在していると言うならば、いつかは必ず見つかる。人々の心を満たすような、人々を安定へと導くような、それが真実だというような、なにか素晴らしい思想がいつかきっと見出されるでしょう。滅びるなら滅びるだろうし、滅びないというならそのための何かは必ず登場するはずだ。果たしてそれが成功するものかそうでないものか、人類がどこへ導かれることになるのかは分かりませんけれど。そしてそうなるとやはり人々は今度はまたその素晴らしい思想とやらに支配されざるを得ないのではないかという気がしなくもないですけれど。というのも、我々は支配されやすいから。今だって我々は自力で得たと思っている見かけの自由と幸福を約束してくれているかのようなこの世界の常識とやらに、すっかり囚われていやしないか。それがただの口約束で、悲しみも苦しみもまだ終わらないことを知りながら、こんなものだと、少なくとも自分の人生だけはそこそこ満足できるものだと、安心しながら諦めて目を閉じていやしないか。生活のための金を得ることばかりを安定だと、人生だと、それが人間の価値だと、そうやって人類はずっとこの世界で暮らしていくものだと、そう思い込んではいないだろうか。これが本当に安定か?(そうかもしれない) これが幸福か?(そうなのかもしれない)

目指すべきところはどこに? 私が知らないだけで、新しい場所へ向かっている人々は今もどこかにいるの? それはどこ? それは誰? そこは私の夢の王国に近いの? まさか、ここだと言うんじゃなかろうね。


…だめだ、終わらないや。
とりあえず、前にも書いている『火星人第二の来襲』の感想ですが、今回は前回よりも長くなりましたね。長くなっただけで、進みはしなかったけど。









『幽霊殺人』

2008年04月22日 | 読書日記ーストルガツキイ
ストルガツキー兄弟 深見弾訳(早川書房)

《あらすじ》
警察監督官、ピーター・グレブスキーが二週間の休暇にやってきた山小屋には、どこか尋常ではないところがあった。前年の事故で死亡した登山家にちなんで変えたというホテルの名《山の遭難者》の悪趣味もさることながら、泊りあわせた客たちの風変りさはまた格別だった。札束で煙草の火をつけわがもの顔でホテルをのし歩く大富豪モーゼスと、頭は弱いが絶世の美女の彼の妻、あたりかまわず自慢の腕を披瀝してまわる奇術師ドュ・バルンストクル、そのほかひとくせもふたくせもありそうな連中。そして、吸いさしの煙草をグレブスキーの部屋において、彼を歓迎する山の遭難者の幽霊。しかも、泊り客のなかに殺人者が紛れこんでいるという置き手紙が、無慈悲に彼の休暇を取りあげてしまう。破れかぶれで真相の究明に乗りだすグレブスキーの行手には、だが思いがけぬ事態が待ち受けていた!
英米に匹敵するSFの生産・消費国ソビエトは、近年その質的な面での急激な変化をとげてきた。本書は、そうした新しいタイプの作品のひとつとして、あくまでもミステリ仕立てのストーリー展開と、従来のソ連SFには見られない娯楽性をもつ、才筆ストルガツキー兄弟による意欲的長篇である。


《この一文》
“「裏切ったな!」おれは驚いて叫んだ。
「違いますよ、そうじゃありません、ピーター。理性的になってくれなきゃ。人の良心は、法だけじゃ生きていけないんです」  ”




ついに読了。良かった、面白かった!! 大枚をはたいて激レアのこの本を購入した甲斐があったというものです。あー、満足。

さて、ストルガツキーのこの作品は、本の裏表紙の紹介によると「ミステリ仕立ての」とある。なるほど、たしかにミステリー仕立てでありました。邦題は『幽霊殺人』となっており、どこからどうみても赤川次郎の『幽霊シリーズ』ではないですか。おそらく原題は『ホテル《山の遭難者》』という感じかと思われます。そのまま訳したほうが良かったのではないだろうかと、いらぬお世話なことをつい考えてしまいます。


雪に覆われた《山の遭難者》という名のホテルには、奇妙な客が滞在している。主人公がそこへ休暇で訪れると、次々と奇妙な事態に見舞われる。そんななか、ホテルと街とを繋ぐ唯一の道である《壜の細頸》と呼ばれる渓谷が雪崩によって封鎖され、さらに不幸なことに、客の一人が死体となって発見される。犯人は誰だ――?

うむ、あらすじだけ見ればたしかにミステリーです。もしもこれがストルガツキー作品だと知らなかったならば、豪華でロマンチックな文章を愛する私などは、

「おれは車を止めて外へ出ると、サングラスをはずした。」

なんていう似非ハードボイルドな感じで始まる小説なんかは読む気にならないだろうところです。しかし、そこはやはりストルガツキー作品だけあって、私の文体の好み云々は問題にならないくらいに、物語は魅力的なのです。

結局のところ、この物語がミステリだろうがSFだろうが、どちらでも構わないのです。ここには、いかにもストルガツキー作品らしく、奇妙な人物がこれでもかというくらいに登場します。そして、奇妙な名前のホテルで繰り広げられる事態もまたとても異常なものなのです。さらにまた、多くのストルガツキー作品においてみられるように、この主人公の警察監督官グレブスキーもまた、「正しさ」というものを選び迷うことになります。彼はつねに正しいことを選択したつもりでいるのに、どうしてだか疑念や後悔に襲われることもある。守るべき正しさというのは、いったいどういうものであり、またそれはどこにあるのか。
私はこれだからこの兄弟の物語が好きだ。

あとがきで深見さんもおっしゃっていましたが、この物語の舞台はどこの国であるのかが明確に示されていません。ストルガツキーはソ連時代の作家ですが、その批判の精神は必ずしもソ連のあり方にのみ向けられたのではなく、より広く人類全体、過去だけでなく現在にも未来にも適応されるような何か普遍性をもっているように、今回もやはり考えさせられました。ミステリ仕立てで軽めの内容にもかかわらず最後にはそのように考えさせるあたりは流石。

まあ、細かいことを考えなくても、私はミステリ風味のストルガツキー作品を読めたというだけで十分満足ですよ。欲を言えば、もうちょっと派手にやらかしてくれても良かったかもしれません。


収集家

2008年02月26日 | 読書日記ーストルガツキイ
きわめつきのレア本
ストルガツキー作品コンプリートまで あとわずか



コレクター。と呼んで下さい。

先日、ネットオークションを徘徊しておりましたら、まさかのレア本を発見! こ、これは、前から欲しかったロシアのSF作家 ストルガツキー兄弟の作品を収めているアレではないかー!
しかも開始価格は意外と安価! 買いだ! 買いだ! と勢い込んでいましたが、普段私が入札するような本は競争相手の影さえ見えぬまま楽勝で落札できますが、そこはさすがのストルガツキー。本のオークションでは私は初めて競り合いましたよ。

特に死闘を繰り広げたのは、『幽霊殺人』。まるで赤川次郎のミステリーみたいなタイトルですが、ストルガツキー兄弟の本のうちでもレア中のレア本ではないでしょうか。原題は「アルピニストという名のホテル」とかなんとからしいと、どこかで紹介されていた作品です(多分)。まさかここでお目にかかろうとは!! キテる、キテるな、これは! いよいよ運が向いてきたぜ!(と、どこまでもいいかげんな認識でここまで盛り上がれる私)

『幽霊殺人』の開始価格は、なんと500円。……おいおい、まさか、そんな、嘘だろ。我が目を疑いましたが、やはりそんなうまい話があるはずもなく(とは言え、ハヤカワにやる気があれば、こんな苦労もないはずなのに…)終了間際にはおよそ10倍まで跳ね上がりました。ええ、もちろん私がその高騰に一役買いましたとも。だって、全然諦めようとしない入札者がいたんだもの! まあ、相手にしてみれば「こいつ、しつこいよ!」という感じでしょうが。お互い様ですね。…ひょっとして、競争相手だった方はこのブログの読者の方ではないでしょうね……? そうだったらご一報を!

まあ、そんなこんなで激戦を制した私は、無事に幻の本を手に入れました。あー、これで面白くなかったらヘコムなあー、と心配しましたが、あらすじを読む限りでは面白そうです。良かったー。まあ、面白くなくてもいいんですけどね、別に。(←コレクター誕生)
それにしても、うれしい。もうこれで探しまわらなくて済みます。万歳!

結局、計4冊のロシアSF本を入手しました。
『幽霊殺人』のほかの3冊はロシアSF短篇集です(正確には『現代ソビエトSF短篇集』。「現代」「ソビエト」! 歴史を感じます)。てんこもりです。ドニエプロフの「カニが島を行く」も読みたかったんですよねー。わーい。ちら読みした限りでは、どれもなかなか面白いです。ストルガツキー作品は、「六本のマッチ」(←やっと読める!)「非常事態」「さすらいの旅を続ける者たちについて」が収録されています。
どれもわりと薄い文庫(しかもかなりの古さ。元の紙の色が分かりません。でも40年くらい前の本にしては美品か…?)なのですが、2段組で内容はびっちりだから、許す。かなりの資金を投入してしまったけど、後悔はありません。わっはっは!



『リットル・マン』

2006年10月18日 | 読書日記ーストルガツキイ




ストルガツキイ兄弟作 深見弾訳(季刊ソヴェート文学 1973 SUMMER 通巻45号)



《あらすじ》
虚無と静寂の惑星で、作業をする地球人たち。コモフ、ワンデルフーゼ、マイカ、ポポフらは、絶滅の危機に瀕したパンタ人を移植させる目的で、この静寂の惑星を改造する『ノアの箱船』計画を実行中だった。彼らはある日、発見されて間もないと思われていたこの星で、地球のものである遭難船を発見する。そして--。

《この一文》
”私はコモフにたいする責任を探してみたが、ただ『俺にとって遍歴者とは何だ? 遍歴者だっって! 俺自身がある程度まで遍歴者じゃないか……』という言葉だけが頭の中を意味もなく駆けめぐっていた。
 突然コモフが言った。
「きみはどう思う、スタシ?」  ”



久しぶりのストルガツキイです。K氏が古本で買ってくれていたのをまだ読んでいませんでした。もうかった、もうかった。

さて、この物語は、時間的にはどうやら『収容所惑星』と『蟻塚の中のかぶと虫』もしくは『波が風を消す』のあいだに挟まれるお話のようです。コモフやゴルボフスキーが出て来ました。なつかしー。けど、ちょっとどういう役割の人だったのか、もううろ覚えですよ。またあのシリーズを読み返そう…。マクシムもちらっと登場してました。あと島帝国とか…。なので、やはり『収容所』と『蟻塚』のあいだなのかもしれませんね。

ある惑星で任務を実行中の地球人4人は、作業中に遭難船を発見する。しかも、それは地球のもので、遭難してから随分経っているらしい。静寂と虚無におおわれたこの星での作業は孤独との闘いでもあり、若いサイバー技師のポポフは、ひとりきりの仕事中に幻聴に悩まされるようになる。この場所では絶対にそれを聴くことなどあり得ない音、赤ちゃんの泣き声……。

地球人が宇宙へ出て、他の星々を訪れ、そこに文明が存在すればそれに接触し、ときには干渉する…。そのことをどう考えるか。というようなことが描かれています。…多分。実は、私はまだよく分かりません。いえ、たしかに物語はいつものようにとても面白かったのですが、正直なところ、理解しきれたとは言えません。また何度か読み直すつもりです。できれば、これに関連するほかの作品も読んでみたいですが、訳されてないんだろうなあ。ああ……!


それにしても、なにかと《遍歴者》の名前を持つものが多く登場し過ぎます。今回も、あの《遍歴者》の他にも、遭難した船の名が「遍歴」号だし…。ややこしいんです。

『火星人第二の来襲 ー或る常識人の日記ー』

2005年10月10日 | 読書日記ーストルガツキイ
ストルガーツキイ兄弟 橋本敏雄訳(「季刊ソヴェート文学 1987年 No.98」 群像社)


《あらすじ》

6月1日深夜3時。北の地平線が色とりどりに燃え上がった。一体なにが起こったのかは誰も知らなかったが、その日から奇妙なことが起こりはじめる。パンは青くなり、税金は胃液で徴収されるようになる。どうやら火星人がやってきたらしいという噂が流れ始めた。元天文学教師アポローンによる15日間の記録。

《この一文》

”病的な顔色をして、髪を短く刈り込んだあの男達はジーンズに柄物のシャツでキメているが、玄関では足を拭いたためしもない。それでいて、世界政府だの、テクノクラシーだの何だの、奇妙奇天烈な何とかイズムだのの話でもって、わしみたいな平和な人間の平安と安全を保障するものを、寄ってたかって否定しようってんだ。思い返してみて、わしは何が起こったのかようやく理解した。そうだ、わしの婿とその一団は過激分子だったんだ。  ”



ある日突然、世の中が変ってしまうというのはどんな感じでしょうか。
物語では、ある日突然火星人がやってきて、主人公アポローンの住む国を統治しはじめます。彼等は進んだ技術力を持ち、入り口もタイヤもない自動車に乗ってやってきては、驚くべき速さで成長する青い穀物の種を配り、町に暗躍していた麻薬商を逮捕し、なぜか胃液を徴収するかわりに貨幣を与えるとふれ回ります。様々な憶測が飛び交い、パトロール隊を編成する者や、町から身を隠そうとする者、反乱を起こす者などが現れます。アポローンは急変する事態にとまどいを覚えつつもそれを傍観するばかりですが、新聞社の編集長である彼の娘婿は、なぜ誰も何もしようとしないのかと憤慨し武器を手に家を飛び出します。
一方、火星人のほうは、不快感を覚えるほどに異質ではありますが、決して圧政を強いる訳でもなく、むしろ非常に理性的であるらしく描かれます。武器をとり反乱を起こすアポローンの婿たちに向かって、「何故暴力に頼るばかりで、理性的に反対運動を起こさないのか」と諭すのでした。
アポローンのように「これから自分達はどうなるのか」とどこまでも受け身に考えるにしろ、その婿のように「自分が何をすべきなのか」と能動的に考えるにしろ、ある理解をはるかに超えた事態が起こり、それに違和感を感じた時、ひとはどのように対処するのか。おろおろしても、いらいらしても、それだけでは問題の解決にならなそうである、というストルガツキイらしい短篇でした。

『月曜日は土曜日に始まる』

2005年09月02日 | 読書日記ーストルガツキイ
A&B・ストルガツキイ 深見弾訳(群像社)


《あらすじ》

<魔法妖術科学研究所>でくりひろげられる奇怪な実験……徘徊する古今東西の妖怪、時間と空間を超えた不思議な現実の物語

《この一文》

”疲れてきたせいだろうが、しだいに、はっきりとことばに猫訛がではじめた。猫がうたいだした。

 野良ニャー…野良じゃ、鋤がひとりで畑を耕している…ニャーオ…
 だんニャがあとからついていく…まてよ、ここは、ニャそ、ニャそつい
 ていく、だったかニャ?……                    
          第一話「ソファーをめぐるてんやわんや」より”


涼しくなってきたので、ストルガツキイ再び。古本屋で入手したこの本は、古本にしてはかなりの美本であったのも嬉しかったのですが、それよりも何よりもその中身はひっくり返るほど面白いのでした。はまります。引用したのは、第一話に登場する猫のワシーリイのせりふ。うっ、胸が苦しい! 猫訛は反則です!

さて、この『月曜日は土曜日に始まる』はタイトルが不思議なように、物語も不思議に満ちています。人語を解す猫や魚、ありとあらゆる妖怪や精霊、登場人物たちも奇人ばかりが勢揃い、まるでお祭り騒ぎのような賑やかさで、想像力の限界に挑戦という感じです。主人公のプリワーロフはプログラマーで、ある日ふとした出会いによって「MYKK」の職員に採用されることになります。その「MYKK」がまたあまりにも楽しそうな職場なので、そんなところで私も働いてみたいと真剣に思ってしまいます。

この本には、第一話「ソファーをめぐるてんやわんや」、第二話「うたかたの夢」、第三話「てんてこまい」の3つのお話が収められています。
どれも大変に面白いのですが、私は特に第二話が気に入りました。確かに大晦日の夜には何か不思議なことが起こりそうですよね。そして、人物の描写が最高に冴えてます。ストルガツキイの作品に登場する人物は、いつもどことなく間が抜けているのですが、その絶妙な間抜け感がたまりません。『みにくい白鳥』でいうならば、「知的同胞」チームとか。何だかんだでヴィクトルも間が抜けてましたな。今回のプリワーロフもなかなか良い感じです。しかも眼鏡をかけているらしい。眼鏡をかけた間の抜けた人物……まずいな、ツボです。
第一話は始まりの物語。いきなりどんどん奇妙な方向へ展開するので、久しぶりにストルガツキイを読んだ私は、最初少しついていけませんでした、不覚……。
第三話は謎解き。ストルガツキイらしい展開で最後には少し考えさせられるような深みを持っています。

これらに続く第4話は『トロイカ物語』として別の本として群像社から出されています。全て、主人公がプリワーロフであるという点が共通しているようです。『トロイカ』も入手済み、くくく、早く読みたいです。

『波が風を消す』

2005年06月04日 | 読書日記ーストルガツキイ
A&B・ストルガツキー 深見 弾訳(早川書房)



《あらすじ》

閑静なリゾート地に見るもおぞましい疑似生物が出現し、住民をパニックに陥れた。ほぼ時を同じくして、惑星サラクシの超能力者シャーマンが地球から帰還後消息を絶ったという報告が入る。かれははるばる地球の超能力研究所を訪問しながら、わずか一時間ほどで逃げるように立ち去っていた。コムコンー2〈異常事件〉部の伝説の男マクシム・カンメラーの指令を受け、調査員トイヴォ・グルーモフは次々とわき起こる不可解な事件の捜査を開始した・・・。ソビエトSFの雄が『蟻塚の中のかぶと虫』に続き壮大なイマジネーションを展開する傑作長篇!




読み終えるまでに3週間もかかった理由を考えなければなりません。どういう訳か、全く集中できなくて、これを読んでいる途中に別の小説を3冊(バルガス=リョサ『世界終末戦争』、ストルガツキー『神様はつらい』、安部公房『箱男』)を読み終えることになりました。そうやって間を置いたせいで、ますます話が分からなくなり、もうこれは永遠に読み終えることができないのではないかという不安に駆られましたが、ようやく今日、最後まで到達できました。いやはや良く出来たお話です。本当にどうしてこんなに難儀したのでしょう。やっぱり面白かったというのに。
理由その1、この作品がマクシム・シリーズの最終巻であること。私は続き物は好きですが、それを読み切ってしまうのに耐えられません。ドラマの最終回なんかもダメです。立ち直れません。おかげでスタートレックDS9の最後の方はいまだに見ることができないでいるくらいです。(録画して保存はしてあるんですが) 今回はマクシムとちょっと長くつきあい過ぎたんですねー。若僧だったのが、すっかり「伝説の男」になっちゃってるし・・・。
理由その2、この作品は難しい! 今さらですが、ちょこちょこ間隔をあけて読んで理解できるような単純なつくりではありませんでした。最後まで読んでから、最初に戻って読み直すと、びっくりするくらいよく出来ていました。そういうことだったのかー。
そんな訳で、3週間かかってようやく読み終えてみた感想は、ーー暗くて難しい。というところでしょうか。『蟻塚』に引き続き、謎が解かれていくのはいいのですが、全然それだけで終わりません。結局分からないところだらけです。いつものように一文を引用しようと思いましたが、何故かどうしても出来ませんでした。どの言葉も結末との結びつきがあまりに強いようで、ネタばれになりそうなのです。と言って、私はそれらの文章を読んでいながら、最後まで全く予測がつかなかったのですが。結果は分かっていたけど、その過程は予想を裏切るものでした。そのへんがまさにストルガツキイらしい展開というか私の想像力の程度が知れるというか。やられました。
さて、全く参考にもならないような感想でしたが、ともかくお話としてとても面白いのは事実です。珍しくすごくSFっぽくて、ミステリーでもあり、そしてやっぱりストルガツキイ的なのです。シリーズ3冊を読んでしまって少し落ち込みましたが、考えてみると、まだまだ分からなかったところが沢山あるので、多分また何度も読み返すことになるでしょう。そう思うとだいぶ回復してきました。ストルガツキイ効果。偉大だ。

『神様はつらい』

2005年05月31日 | 読書日記ーストルガツキイ
ストルガツキー兄弟 太田 多耕訳(早川書房 世界SF全集24)



《あらすじ》

地球からある惑星に派遣されたアントンの使命はその世界の歴史的瞬間を内側から目撃することだが、血なまぐさい中世さながらの世界において虐殺されてゆく人々をただ傍観するだけの彼は苦悩しはじめる。



《この一文》

” ブダフは額にしわを寄せて、黙って考えこんだ。ルマータは待っていた。窓の外ではふたたび荷馬車が悲しげにきしり始めた。ブダフは小声でつぶやいた。
 「それなら、神様、私たちを地上から一掃してしまって、あらためて、もっと完全な人びとをおつくりください・・・・でなければ、いっそ、私たちをこのままに放っておいて、私たちに自分の道を歩ませてください」    ”




『収容所惑星』とほとんど同じ設定で、暗いです、重いです。悪とは何か、善とは何か。人間を人間たらしめているものは何なのか。例によってそんなことを考えさせられるお話です。
アントンは平和な地球から派遣されて来た歴史家で、人間という存在を疑いもなく愛していましたが、自分が知る世界とは全く違った苛酷な時代に生きる人々に出会って、自らの性質もまた粗暴な方向へと変化しているように感じ脅えます。人間の性質を決めるのは社会であって、あらゆる悪意あるいは善意というのは社会のバランスやその人の立場によっていくらでも現れ方が左右されうるのではないだろうかと感じます。ある人にとっての悪事というのは、別の立場から見るとそうでないことがあります。善悪の判断はその社会のルールに基づくものであり、必ずしも真理や普遍性などに結びつかないのではないでしょうか。そう考えると、自分の価値観を優れていると思い込んで押し付けようというのは、やはり危険であり、もしかしたら無意味でさえあるかもしれません。何かを思い込んだり信じ込んだりするのが恐ろしい。ひとりでひっそりと思っているならまだいいけれど、そのために手段を選ばないようになるのが恐ろしい。同じ時代、同じ土の上に生きていて、「君たちは間違っている!」なんて誰に断言できるというのでしょう。
絶望的な気持ちになってしまいそうですが、何もかも分からないから良いとも言えます。我々は「それは本当にそうなのか、あれはどうしてああなのか」とあらゆることに対して疑問を持つことくらいは許されているはずだと思うからです。疑いを持つということは強制力も攻撃力もない柔らかい行動であり、それは目に見えぬほどゆっくりとした動きでも、世の中のバランスを変える力となるかもしれません。私たちは何でも迅速に簡単に済ませたがるけれど、その道は急いでは通れない道なのかもしれないのです。
そんなことをついつい真剣になって考えてしまう深刻な物語でありました。