ペール・ラーゲルクヴィスト 山口琢磨訳(「ノーベル賞文学全集 11 フォークナー/ラーゲルクヴィスト」 主婦の友社)
《あらすじ》
人間の歴史とともに生き続ける首切人。彼は人間の救い難い悲惨さと蛮性を見つめ、苦しみ悩み続けた果てに、何を望むのかーー。
《この一文》
” わしこそおまえ方のキリストなのじゃ! 額に首切人の烙印をおされてはおるが。おまえ方のためにこの世につかわされたキリストじゃ!
地には争い、人には悪意じゃ!
おまえ方は神様を化石させてしまった。もうずっと前から死んでおる。じゃがわしは、おまえ方のキリストのわしは生きておるのじゃ。わしは神の力ある意志、神の息子じゃ。神様がまだ生きており、力があり、自分のやりたいことがわかっておった時分に、わしはおまえ方と一緒に神様が生み出し、造り出したものじゃ。ところで神様はこの世をどう始末するつもりだったのか。今では神様は玉座の上で、癩病やみみたいにボロボロに崩れてしまった。永劫の呪いの風がその灰を天の沙漠に吹き散らしておるのじゃ。しかしわしは、キリストのわしは生きておる。おまえ方が生きるためにじゃ! わしはわしの戦いの道を行く。世界中をかけめぐる。そうして毎日、血の中でおまえ方に救いを施しておるのじゃ。--しかもこのわしだけは、おまえ方は十字架につけることはできんのじゃ! ”
私はかねてから、人間が真に共感し合うことができるのは、理想とか正義といったポジティブな考えにではなく、暴力や苦しみといったネガティブな考えに対してではないかと疑っているのですが、これはそんな私の気持ちを一層重くさせる悲惨の物語です。
「刑吏殿」は血の色の服を着た首切人で、額にはその烙印を押された呪われた存在として描かれます。人類の歴史が始まった時からずっと生き続け、彼が言うところの「刑吏宿舎」である人間の心の檻に閉じ込められ、絶え間なく無数の人間を処刑しています。彼自身はこの仕事にうんざりしているのですが、人類が存在する限りは自分には休息も自由も与えられないにちがいないと絶望しているのでした。物語は、中世と現代の二つの時代を舞台としていますが、共通するのは人類の無知と恐怖と暴力です。いつまでも愚かでい続ける人間。滅入ります。
しかし、ラーゲルクヴィストの作品にはよく出てくるのですが、刑吏とともに暮す貧しい身なりの女の存在にかすかな希望を見出すことができます。彼女は首切人が仕事を終えるのをいつも外で待つ、彼に対して唯一やさしく振舞う特別な存在です。ラーゲルクヴィストは、こういった素朴な人間に対して何か特別なものを感じているようです。彼等は常にすべてを受け入れ、すべてにやさしく、身を飾るものひとつ持たぬ貧しい身なりですが、呪われ苦悩に満ちた主人公たちは、神によってではなく、いつもこの素朴な人間によって救われることになるのです。ラーゲルクヴィストにとっては、これが神を信仰することができなかった彼のひとつの到達点だったのかもしれません。人間の心の中に存在する二つの魂。もしかしたら人間は自力で平安を得ることができるのではないか、絶叫のような激しい物語の中にそんなささやかな祈りのようなものを感じないではおれません。