魯迅作 竹内 好訳(岩波文庫)
《作品について》
魯迅が中国社会の救い難い病根と感じたもの、それは儒教を媒介とする封建社会であった。狂人の異常心理を通してその力を描く「狂人日記」。阿Qはその病根を作りまたその中で殺される人間である。こうしたやりきれない暗さの自覚から中国の新しい歩みは始まった。
《この一文》
” おれは知らぬうちに、妹の肉を食わなかったとはいえん。いま番がおれに廻ってきて……
四千年の食人の歴史をもつおれ。はじめはわからなかったが、いまわかった。まっとうな人間に顔むけできぬこのおれ。 「狂人日記」より”
” このときふと異様な感じが私をとらえた。埃まみれの車夫のうしろ姿が、急に大きくなった。しかも去るにしたがってますます大きくなり、仰がなければ見えないくらいになった。しかもかれは、私にとって一種の威圧めいたものに次第に変っていった。そしてついに、防寒服に隠されている私の「卑小」をしぼり出さんばかりになった。 「小さな出来事」より”
” 希望という考えがうかんだので、私はどきっとした。たしか閏土(ルントー)が香炉と燭台を所望したとき、私は相変らずの偶像崇拝だな、いつになったら忘れるつもりかと、心ひそかにかれのことを笑ったものだが、いま私のいう希望も、やはり手製の偶像に過ぎぬのではないか。ただかれの望むものはすぐ手に入り、私の望むものは手に入りにくいだけだ。
まどろみかけた私の眼に、海辺の広い緑の砂地がうかんでくる。その上の紺碧の空には、金色の丸い月がかかっている。思うに希望とは、もともとあるものともいえぬし、ないものともいえない。それは地上の道のようなものである。もともと地上に道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。 「故郷」より”
学校の授業でもその名を習った魯迅の「阿Q正伝・狂人日記」。名作を名作と言われているというだけの理由で避ける習性のある愚かな私は今になってやっと読みました。古典文学に対しては大勢の人が好き放題に注釈を付け、解釈や批評をしたりするけれども、古典にはそのようなあらゆる埃を自ら払いのける力があることが、原典を読むならば必ずや分かるだろうというようなことを、イタロ・カルヴィーノが言っていたような気がしますが、まさに。
「狂人日記」でいきなりの衝撃。凄いです。私の妙な思い込みを一気に吹き飛ばしました。細かい断片をつなぎあわせた語りがずっと続きますが、とにかく切れ味が鋭い。なんだこの文章は。この人の文章(翻訳だけど。訳も上手いのでしょう)には印象的なものが多過ぎます。全ては引用しきれませんでした。物語の構成もかなり私の好みに合います。特に「小さな出来事」と「故郷」の2篇は珍しく希望を提示する展開も含めて気に入りました。しみじみと盛り上がります。「故郷」は昔、教科書で読んだような記憶があるようなないような感じの懐かしいお話です。自分のことを「迅ちゃん」と呼んでくれていた昔の幼なじみに久しぶりに会ったら「旦那さま!」と呼ばれた私の悲しみ。しかし、すり減り、打ちひしがれ、互いに遠ざかるばかりだった自分の世代では得られなかった新しい生活への希望を次の世代に見出そうとします。そしてここでは、希望というものを的確にあるものに例えています。
「歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」。
なるほど。希望を持つことは誰にでもできるけれど、それを達成する難しさや覚悟の必要性を感じさせられます。また同時にこの言葉にはとても励まされるところもあるようです。少数の人間でもずっと歩き続ければ、道は続いていくからでしょうか。いつか道は大通りになって、皆でそこを何の憂いも恐れもなく歩くようになるでしょうか。あ、涙が。
《作品について》
魯迅が中国社会の救い難い病根と感じたもの、それは儒教を媒介とする封建社会であった。狂人の異常心理を通してその力を描く「狂人日記」。阿Qはその病根を作りまたその中で殺される人間である。こうしたやりきれない暗さの自覚から中国の新しい歩みは始まった。
《この一文》
” おれは知らぬうちに、妹の肉を食わなかったとはいえん。いま番がおれに廻ってきて……
四千年の食人の歴史をもつおれ。はじめはわからなかったが、いまわかった。まっとうな人間に顔むけできぬこのおれ。 「狂人日記」より”
” このときふと異様な感じが私をとらえた。埃まみれの車夫のうしろ姿が、急に大きくなった。しかも去るにしたがってますます大きくなり、仰がなければ見えないくらいになった。しかもかれは、私にとって一種の威圧めいたものに次第に変っていった。そしてついに、防寒服に隠されている私の「卑小」をしぼり出さんばかりになった。 「小さな出来事」より”
” 希望という考えがうかんだので、私はどきっとした。たしか閏土(ルントー)が香炉と燭台を所望したとき、私は相変らずの偶像崇拝だな、いつになったら忘れるつもりかと、心ひそかにかれのことを笑ったものだが、いま私のいう希望も、やはり手製の偶像に過ぎぬのではないか。ただかれの望むものはすぐ手に入り、私の望むものは手に入りにくいだけだ。
まどろみかけた私の眼に、海辺の広い緑の砂地がうかんでくる。その上の紺碧の空には、金色の丸い月がかかっている。思うに希望とは、もともとあるものともいえぬし、ないものともいえない。それは地上の道のようなものである。もともと地上に道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。 「故郷」より”
学校の授業でもその名を習った魯迅の「阿Q正伝・狂人日記」。名作を名作と言われているというだけの理由で避ける習性のある愚かな私は今になってやっと読みました。古典文学に対しては大勢の人が好き放題に注釈を付け、解釈や批評をしたりするけれども、古典にはそのようなあらゆる埃を自ら払いのける力があることが、原典を読むならば必ずや分かるだろうというようなことを、イタロ・カルヴィーノが言っていたような気がしますが、まさに。
「狂人日記」でいきなりの衝撃。凄いです。私の妙な思い込みを一気に吹き飛ばしました。細かい断片をつなぎあわせた語りがずっと続きますが、とにかく切れ味が鋭い。なんだこの文章は。この人の文章(翻訳だけど。訳も上手いのでしょう)には印象的なものが多過ぎます。全ては引用しきれませんでした。物語の構成もかなり私の好みに合います。特に「小さな出来事」と「故郷」の2篇は珍しく希望を提示する展開も含めて気に入りました。しみじみと盛り上がります。「故郷」は昔、教科書で読んだような記憶があるようなないような感じの懐かしいお話です。自分のことを「迅ちゃん」と呼んでくれていた昔の幼なじみに久しぶりに会ったら「旦那さま!」と呼ばれた私の悲しみ。しかし、すり減り、打ちひしがれ、互いに遠ざかるばかりだった自分の世代では得られなかった新しい生活への希望を次の世代に見出そうとします。そしてここでは、希望というものを的確にあるものに例えています。
「歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」。
なるほど。希望を持つことは誰にでもできるけれど、それを達成する難しさや覚悟の必要性を感じさせられます。また同時にこの言葉にはとても励まされるところもあるようです。少数の人間でもずっと歩き続ければ、道は続いていくからでしょうか。いつか道は大通りになって、皆でそこを何の憂いも恐れもなく歩くようになるでしょうか。あ、涙が。
そして色々と(髪のこととかピンタッグブラウスのこととかムーミンとか)コメントしたいことはあるのですが、しつこいので遠慮します。
魯迅。
私も有名なものは避けてしまう傾向があるのですが、魯迅は中2のときに読みました。
あまりに印象的で、本の内容のみならず、読んだ時期や読んだ状況などもよく覚えているくらいです。
そしてその時、「これは大人になってからまた読まないとダメだ。」と子供ながらに感じたのでした。
ntmymちゃんの文章を拝見して、にわかに再読したくなりました。
「大人に」なったのかも。時期が来たのかもしれません。
私は最近特に強く感じるようになりました。本との間に引力が働きまくっています。
自分に必要なものを見抜く力が養われてきたということなのかもしれないですね。
さて、遠慮なさらずにどしどしコメントしてくださいませ☆
髪のことでしたかったコメントってなんだろ、やっぱヤバい??
と思ったのです。<髪のこと
そして、最近お目にかかっていないから分からないけれど、
きっと素敵な髪型なのだろうな、と。
そして私はずっとntmymちゃんはショートがとても似合うと思っている。
ということなどをお伝えしたかったのです。
お言葉に甘えてここに書いてみました
一時期は、丸刈りか!というくらい短かった髪も、今では適度なもさもさ感を実現しています。そして、なぜかこれ以上伸びません;切りながら、伸ばすという技術がまだなくて…。
でもショートが似合うというお言葉をいただいたことでもありますし、当分短いままでもいいかな~。