今年のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」 (私は‘ドラマ’というものは殆んど見ないので詳しくは分らない)
ただ、これとは別に他のNHK番組を見ていたら・・このドラマの主役は“吉田松陰”だとか聞いた
今日は我が家の食卓に並ぶ食品の一つである「豆類」らを購入のため築地場外市場へ行くことに
出かけることになったら急にこのドラマのことが頭をよぎった・・理由はなんだかわからないんですが
考えてみたら、築地へ行くのに東京メトロ・日比谷線を使うのですが、そこに「小伝馬町駅」がある。
私は若いときに通勤でこの駅を使っていたので知ってはいたが、近くに凄い場所があった!
それは、慶長年間から明治8年頃まで?と270年みわたって数十万人の囚人を収容した牢獄です
そうです「伝馬町牢屋敷」があったんです。今は跡地が「十思公園」となっています
この「花燃ゆ」のファンの方ならご存知でしょうが、主役の“吉田松陰”らも収容された牢獄です
そんな事から思い出したので、途中下車して覗いてみようかな? などと思い行ってみました。
昔ぁ~し利用した駅なのですぐに行けました・・とは言っても地下鉄から「約2分」くらい
行ってみたら、見事なほど違っちゃっていてビックリしました!
このように跡地が「十思公園」に変わったのはかなり以前からだが
私が通勤していた頃に見た時とは“あれっ・・!”と思うほどに
きれいな公園に変わっちゃっていました。~時は過ぎていました!
(今日は風もなく暖かかったせいかお子さんが遊んでいました)
先日・元検事総長だった“但木さん”が、伝馬町の牢屋に関してこんな事を書いていました
江戸市中の牢屋が、この日本橋小伝馬町に移ったのは~、江戸幕府が成立して間もない慶長年間
明暦3年(1657年)正月18日頃未の刻(午後2時ころ)、本郷本妙寺から発した火は、折からの強風に煽られ
瞬く間に燃え広がり、一度ならず火が弱まるものの、さらに二ヶ所より火の手が上がり、
結局20日の朝方まで江戸一円を燃やし尽し10万人以上の死者を出したと伝えられている。
この時小伝馬町の牢に繋がれていた科(とが)人は「入れ墨・たたき・斬首・切腹の執行を待つ者たち」
牢屋奉行(囚獄)石出帯刀吉深は、天を焦がす火勢を前に、科人を解き放つべきかを迫られたそうだ
ルールはない。検非違使が囚人の焼け死ぬのを拱手傍観し、お咎めなしという古い先例はあるが・・
吉深は、牢庭に科人を集め「焼け死ぬことになるのは疑いない。それはまことに不憫である。
よって暫しの間、許すこととし、解き放つ。どこにでも逃げ落ちて、命が助かり火も鎮まったならば、
下谷のれんけい寺に戻ってこい!戻ってきたならば我が身に替えても命を助けてやろう。
だが逃げたら成敗する」と言って死罪の者も含め科人全員を解き放ったそうだ・・。
科人たちが凶暴な犯罪にはしるか!帰ってこなかったら、吉深の切腹(責任)は免れない時代
文献によれば、火が鎮まったのち、一人を除き全員がれんけい寺に戻ってきたそうです!
吉深はたいそう喜び、「たとえどれほど重罪であっても、義を守る者を殺すわけにはいかない」と
幕府に申し出て、罪一等を減じてもらったと記されているそうだ。
幕府はこれを道理とし、大火の際の解き放ちは制度化され、日本独特の制度として今日に至っている
そんな‘ドラマ’?“但木さん”のコメント!などなどもあってのことでしたが・・
久しぶりに覗いた「十思公演(跡地)」とっても懐かしかったで~す!
ただ、これとは別に他のNHK番組を見ていたら・・このドラマの主役は“吉田松陰”だとか聞いた
今日は我が家の食卓に並ぶ食品の一つである「豆類」らを購入のため築地場外市場へ行くことに
出かけることになったら急にこのドラマのことが頭をよぎった・・理由はなんだかわからないんですが
考えてみたら、築地へ行くのに東京メトロ・日比谷線を使うのですが、そこに「小伝馬町駅」がある。
私は若いときに通勤でこの駅を使っていたので知ってはいたが、近くに凄い場所があった!
それは、慶長年間から明治8年頃まで?と270年みわたって数十万人の囚人を収容した牢獄です
そうです「伝馬町牢屋敷」があったんです。今は跡地が「十思公園」となっています
この「花燃ゆ」のファンの方ならご存知でしょうが、主役の“吉田松陰”らも収容された牢獄です
そんな事から思い出したので、途中下車して覗いてみようかな? などと思い行ってみました。
昔ぁ~し利用した駅なのですぐに行けました・・とは言っても地下鉄から「約2分」くらい
行ってみたら、見事なほど違っちゃっていてビックリしました!
このように跡地が「十思公園」に変わったのはかなり以前からだが
私が通勤していた頃に見た時とは“あれっ・・!”と思うほどに
きれいな公園に変わっちゃっていました。~時は過ぎていました!
(今日は風もなく暖かかったせいかお子さんが遊んでいました)
先日・元検事総長だった“但木さん”が、伝馬町の牢屋に関してこんな事を書いていました
江戸市中の牢屋が、この日本橋小伝馬町に移ったのは~、江戸幕府が成立して間もない慶長年間
明暦3年(1657年)正月18日頃未の刻(午後2時ころ)、本郷本妙寺から発した火は、折からの強風に煽られ
瞬く間に燃え広がり、一度ならず火が弱まるものの、さらに二ヶ所より火の手が上がり、
結局20日の朝方まで江戸一円を燃やし尽し10万人以上の死者を出したと伝えられている。
この時小伝馬町の牢に繋がれていた科(とが)人は「入れ墨・たたき・斬首・切腹の執行を待つ者たち」
牢屋奉行(囚獄)石出帯刀吉深は、天を焦がす火勢を前に、科人を解き放つべきかを迫られたそうだ
ルールはない。検非違使が囚人の焼け死ぬのを拱手傍観し、お咎めなしという古い先例はあるが・・
吉深は、牢庭に科人を集め「焼け死ぬことになるのは疑いない。それはまことに不憫である。
よって暫しの間、許すこととし、解き放つ。どこにでも逃げ落ちて、命が助かり火も鎮まったならば、
下谷のれんけい寺に戻ってこい!戻ってきたならば我が身に替えても命を助けてやろう。
だが逃げたら成敗する」と言って死罪の者も含め科人全員を解き放ったそうだ・・。
科人たちが凶暴な犯罪にはしるか!帰ってこなかったら、吉深の切腹(責任)は免れない時代
文献によれば、火が鎮まったのち、一人を除き全員がれんけい寺に戻ってきたそうです!
吉深はたいそう喜び、「たとえどれほど重罪であっても、義を守る者を殺すわけにはいかない」と
幕府に申し出て、罪一等を減じてもらったと記されているそうだ。
幕府はこれを道理とし、大火の際の解き放ちは制度化され、日本独特の制度として今日に至っている
そんな‘ドラマ’?“但木さん”のコメント!などなどもあってのことでしたが・・
久しぶりに覗いた「十思公演(跡地)」とっても懐かしかったで~す!